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湯谷峠
  ゆだにとうげ  (峠と旅 No.295)
  かつて熊野灘で採れた魚や塩が運ばれた峠道
  (掲載 2018. 9.12  最終峠走行 2018. 5.25)
   
   
   
湯谷トンネル (撮影 2018. 5.25)
見えているのは三重県松阪市飯高町宮本側のトンネル坑口
トンネルの反対側は同県多気郡大台町栗谷
道は国道422号(旧主要地方道・紀伊長島飯高線)
トンネル坑口の標高は約370m (地形図の等高線より)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
トンネルのほぼ真上にはかつての湯谷峠が通じているが、
今ではほとんど忘れ去られた存在だ
 
 
 
   

<掲載理由>
 前回は加杖坂峠を掲載したが、位置的に近い関係だし、 同じ日に越えたということもあって、ついでに掲載してしまおうと思う。この湯谷峠は加杖坂峠と同規模程度のこじんまりした峠道だ。 県境越えの様な長大さはなく、山岳道路の様な険しさもない。こうした峠が世の中には一番多い。その中から少しでも魅力ある峠が見付からないかと思うのだが、果して湯谷峠にはどんな面白さがあったろうか。

   

<所在>
 峠道は大雑把に見れば南北方向に通じる。
 
 峠の南側は三重県多気郡(たきぐん)大台町(おおだいちょう)栗谷(くりだに)で、以前の多気郡宮川村(みやがわむら)である。
 
 峠の北側は三重県松阪市(まつさかし)飯高町(いいたかちょう)宮本(みやもと)で、以前の飯南郡(いいなんぐん)飯高町である。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<水系>
 大台町側は宮川(みやがわ)水系で、宮川支流・栗谷川(くりたにがわ)の源流部に位置する。松阪市側は櫛田川(くしだがわ)水系で、櫛田川支流・湯谷川の源流部に位置する。
 
<宮川・櫛田川>
 宮川も櫛田川も三重県内では屈指の1級河川で、どちらも奈良県との県境に連なる延長約30Kmの台高山脈(だいこうさんみゃく)に源を発する。 宮川はその山脈の南端となる大台ケ原(おおだいがはら、主峰は日出ケ岳1695m)を最源流とする。一方、櫛田川は北端の高見山(たかみやま、1248m)近辺が最源流だ。 とにかく、台高山脈の三重県側に降った雨は、宮川と櫛田川の二河川がほとんど全てを飲み込んでしまうことになる。 この地はわが国でも屈指の多降水域であり、大台ケ原で大雨が降ったことがしばしばニュースになる。
 
 宮川や櫛田川は大きな河川だが、湯谷峠に関わる栗谷川も湯谷川も支流の短い川だ。よって峠道もそれ程長くはない。

   

<立地>
 台高山脈のほぼ中央に「池木屋山」(1396m)がそびえる。文献(角川日本地名大辞典)では「池小屋山」と出ていた。 「いけのきややま」とか「いけごややま」、「いけこややま」、「いけのこややま」などと呼ばれるそうだ。大台ケ原には大台ケ原ドライブウェイが通じ、高見山近くには高見峠が越える。 しかし、池木屋山へのアクセスに適当な車道はなく、台高山脈中では最も奥深い所に位置している山と言える。
 
<多気山地>
 この池木屋山を西の頂点とし、東北東へ派生した山地を多気山地(たきさんち)と呼ぶそうだ。宮川水系と櫛田川水系との分水界を成し、多気郡と飯南郡との郡境でもあった。 ただ、飯南郡を編成していた飯南町・飯高町の2町共に今は松阪市に合併しているので、飯南郡という呼称はもう使われないのかもしれない。多気山地の中の主な山としては、白倉山(1,236m)・迷(まよい)岳(1,309m)・三条山(663m)などがある。

   
北総門山(704m)の展望台(大台町薗)より多気山地を望む (撮影 2018. 5.25)
一番奥は多分高見山地、その次が多気山地
正面辺りに相津峠が越えるが、所在ははっきりしない
湯谷峠はもっと左手で、視界に入らなかった
麓に見えるのは宮川沿いの薗などの集落
   

<多気山地の峠(余談)>
 この多気山地を越えて幾つかの峠道が通じるが、その中でも湯谷峠(420m)は西の奥に位置する峠と言える。少なくとも車道の峠としては最西端である。文献では他に相津峠(約455m)と桜峠(約170m)を挙げていた。
 
<相津峠・佐原峠>
 相津峠には車道が通じていない。代わりに、その南西約400mの地点を県道710号・飯南三瀬谷停車場線が越えている。峠の名はないようだ。そこに佐原峠の地蔵を移転してあった。 佐原峠は地形図や道路地図に見られないが、相津峠と同一の峠だと思う。大台町側に佐原、松阪市側に相津の地名がある。相津側から見ると、佐原に越える佐原峠ということになるのだろう。

   

多気町側から桜峠へ登る (撮影 2018. 5.24)

<桜峠>
 桜峠はもう多気山地の最東端で、山地の気配はほとんどない。正確には宮川と櫛田川の分水界でもなさそうだ。峠の両側とも櫛田川水系と思われる。
 
 現在の桜峠には国道368号が通じる。多気町と松阪市との境となる。快適な2車線路が緩やかな坂道をアップ・ダウンする。ここが桜峠だとしっかり認識していないと、いつの間にか通り過ぎているといった峠である。

   

多気町側から見る桜峠 (撮影 2018. 5.25)
看板には「松阪市」とある

松阪市側から見る桜峠 (撮影 2018. 5.25)
看板には「多気町」とある
   

 多気山地を越える他の峠として、湯谷峠と相津峠の中間くらいを林道五十田浦谷線が越えているようだが、まだ訪れたことはない。
 
 また、車道などは通じていないが、湯谷峠近くには名倉峠・田引峠・尾放峠といった峠があったようだ(後述)。探せば多気山地を越えるこうした小さな峠はもっとあるだろう。 これらの峠名は一般の道路地図は勿論のこと、地形図にも掲載されない。日本にある峠の総数は1万を超えるだろうと予想される程度で、その正確な数は分からない。地元民の記憶からさえ消えて行くような峠は多く、峠の数を数えるのは至難の業であることが察せられる。

   

<峠名>
 「湯谷」(ゆだに)という峠名について、最初は単純に「湯谷」という地名が松阪市側にあるものと思っていたが、見付からない。ただただ、湯谷川という川の名が見えるだけだ。
 
<宮本村>
 現在の峠の松阪市側は飯高町宮本、旧飯高町の大字宮本である。江戸期から櫛田川上流とその支流の湯谷川が合流する付近に栃川村(とちかわむら)があった。それが明治初期に谷野村(たんのむら)と合併して宮本村(みやもとむら)となる。それが元であるようだ。
 
<大字宮本>
 明治22年には田引・粟野・富永・七日市・宮本の5か村が合併して川俣村(かばたむら)が成立し、旧宮本村は大字宮本となる。下って昭和31年に宮前・川俣・森・波瀬の4か村が合併して飯高町(いいたかちょう)となって行く。
 
<栃川>
 宮本村が栃川と谷野の2か村だけの合併だったかどうか確証はないが、現在の大字宮本内に他の地名は見当たらない。 谷野は栃川より櫛田川沿いの上流側にあり、位置的には湯谷川上流部の湯谷峠と無関係だ。すると、かつての栃川村は湯谷川水域全部を含んだ範囲ではなかったかと想像する。湯谷という地名があったそすれば、その栃川の中にあったものと思う。
 
 更に、湯谷川と並んで櫛田川の支流に栃子谷川という川の名が見える。江戸期の栃川村を更に遡ると、湯谷川沿いと栃子谷川沿いの集落に分かれていて、湯谷川沿いを湯谷という地名で呼んでいたのではないかと想像する。
 
<栗谷湯谷峠>
 峠名は基本的に「湯谷峠」が一般的だが、文献の一箇所に「栗谷湯谷峠」という呼称が出ていた。峠の両側の地名を列記した形だ。
 
 尚、多気山地に通じる峠は、相津峠や名倉峠・田引峠など、飯南町側の地名を用いる場合が多いように思う。宮川水系より国道166号が通じる櫛田川水系の方が、より交通が発達した地域であり、宮川水系側から櫛田川水系側に越えることが多かったせいではないだろうか。

   

<峠の役割>
 湯谷峠は小さな峠で、地元住民が生活路などとして使う、狭い地域での役割だと思っていた。確かに古くから宮川村側と飯南町側は、この峠を通じて生活・経済・文化の面での深いつながりがあったそうである。ところが文献に、「明治中期頃まで、紀伊長島・尾鷲(おわせ)方面でとれた海産物は、当峠を越え飯高町波瀬(はぜ)を経由して大和桜井方面に運ばれた」とある。また、栗谷川沿いの道についても、「紀伊長島で水揚げされた魚類の大和地方への搬路」と記している。
 
 「大和桜井」とは現在の奈良県桜井市の市街であろう。波瀬経由とは高見峠を越える和歌山街道・伊勢街道で、現在の国道166号に相当する。 紀伊長島や尾鷲方面からは湯谷峠はほぼ真北に位置する。湯谷峠で多気山地を北に越え、櫛田川沿いを遡って高見峠で台高山脈を西に越え、大和(奈良県)の地へと至ったようだ。これは100Km近い長大なルートに思える。奈良県桜井市なら大阪湾の方が近いと思うが、熊野灘で採れる海産物はまた違うのだろう。とにかく、熊野灘沿いから奈良への大輸送ルートの一部を湯谷峠が担っていた訳である。

   

<紀伊長島からのルート(余談)>
 紀伊長島方面から湯谷峠までのルートは、現在の国道422号がそれに相当する。ただ、宮川水域南岸の池坂越前後で車道未開通だ。また、紀伊長島からだともっと東に位置する薗(その)越の方が距離が短い。

   

フォレストピア宮川山荘にあった看板 (撮影 2018. 5.25)
地図は上がほぼ「南」
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<笠木峠(余談)>
 薗越ではないが、その近くに笠木峠(かさぎとうげ)がある。地形図や道路地図には載っていない峠だ。麓にある宿泊施設・奥伊勢フォレストピア宮川山荘に泊まった折り、敷地内に立つ案内看板でその存在を知った。
 
 看板には次のようにある。
 塩の道・魚の道
 熊野灘で採れた魚や塩をここを通り
 奈良方面に運んだ道

 
 案の定、この付近の峠を越え、塩や魚を大和まで運んでいたようである。

   

笠木峠入口 (撮影 2018. 5.25)
左手前が峠方向

笠木峠入口 (撮影 2018. 5.25)
左手奥が峠方向
   
笠木峠方向を望む (撮影 2018. 5.25)
沢沿いに山道が登る
   

 笠木峠の入り口まで訪ねてみた。峠に関した説明文の看板が立ち、参考になった。「紀勢町錦から奈良まで魚を運ぶ『魚の道』として重要な峠道」とある。錦からだと一旦錦峠を越え、続いて笠木峠を越えたものと思う。紀伊長島からだと荷坂峠経由で薗越ではなかったかと想像する。尚、笠木峠の正確な位置は不明だが、地形図上ではこの辺りではないかと思う。
 
 歩いて峠を越えていた時代は、少しぐらい険しくとも距離の短い道が好まれた。熊野灘と大和を繋ぐ遠大なルートも、それぞれの場所に適した峠道が使われたのだろう。 しかし、鉄路の発達に引き続き自動車社会が到来すると、一つ立派な幹線路ができれば、遠回りだろうとその道の方が便利である。こうして小さな峠道は廃れて行ったものと思う。


笠木峠の案内看板 (撮影 2018. 5.25)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<峠の変遷>
 湯谷峠も交通機関の発達とともに海産物輸送ルートとしての役割は消失し、一時は衰微したそうだ。 それが昭和49年以後に道路改修が行われ、昭和54年には峠下に湯谷トンネルが開通して自動車での通行が容易になった。 宮川の上流域から外界へと抜ける道としては最大の幹線路となり、旧宮川村の地と旧飯高町に通じる国道166号とを結んだ。県道から主要地方道・紀伊長島飯高線へと変わり、今では国道422号に昇格している。1996年に訪れた時は既に国道であった。

   
   
   
大台町より峠へ 
   

<県道31号>
 宮川沿いに通じる県道31号(主要地方道)・「大台宮川線」を遡る。 かつては宮川最上流部にある宮川貯水池まで一本の主要地方道で、「大台大台ケ原線」と呼んだ。今は湯谷峠へと登る国道422号に接続するまでの範囲となる。 紀伊半島の輪郭を回る大幹線路の国道42号や紀勢自動車道が通じる大台町の市街地から、旧宮川村へと通じる主要路だ。しかし今回走ってみると、まだ一部に幅員1.5車線くらいの狭い区間を残しているのに改めて驚いた。

   

<国道422号に接続>
 国道422号は宮川上流部から下って来て、県道31号との接続点から急カーブし、湯谷峠へと登る格好になっている。随分と変則的だ。 その前身は主要地方道・紀伊長島飯高線だと思うが、かつて紀伊長島の港から魚や塩を大和国まで運んだルートを踏襲するかのようである。しかし、前述のように国道422号は池坂峠で未開通だ。
 
 そもそも、湯谷峠より宮川上流部で越えられる車道の峠道はほとんどない。多分、千石越水呑峠ぐらいだと思う。千石越は険しい林道だし、水呑峠もツーリングマップルに「2014年時点で通行止」と出るような道だ。到底一般向けではない。その意味でも、現在の湯谷峠(トンネル)は旧宮川村の地域にとって県道31号に次ぐ幹線路となる。

   
国道422号に接続 (撮影 2018. 5.25)
手前が県道31号を大台町市街へ
直進は国道を宮川上流部へ、右の細い道が湯谷峠への国道
   

<分岐の様子>
 県道31号と国道422号との接続点前後はりっぱな2車線路に改修されていた。それに対し、湯谷峠へと登る方の国道は見劣りする程の狭い道である。入口手前に鳥居の様な物が立つが、車がそこを通る訳ではない。「大陽寺」とあったので、神社の鳥居ではなく、山門の代わりの様な物だろうか。
 
 しかし、道の繋がり具合からして道路改修前は車もその門をくぐっていたらしい。1996年1月に湯谷峠(トンネル)を越えたことがあり、それ以外もこの前を通過したことがあるが、全く記憶にない。

   

分岐の様子 (撮影 2018. 5.25)
右が峠へ

分岐の様子 (撮影 2018. 5.25)
雨量規制の看板が立つ
   

雨量規制の看板 (撮影 2018. 5.25)

<看板など>
 峠方向には「13Km 国道166号」と看板がある程度で、他には特に案内はない。ただ、雨量規制の看板が次のように知らせていた。
 飯高町栃川まで12Km
 連続雨量150mm
 時間雨量 30mm

 以上で通行止
 

<峠道の起点>
 湯谷峠の宮川水系側起点となるこの地は、大台町天ケ瀬(あまがせ)、旧宮川村の大字天ケ瀬である。宮川左岸側に細長く集落が続く。 特にこの湯谷峠への入口付近は「栗谷口」という地名で、分岐近くにも大台町営バスの同名のバス停が立っていた。峠の手前に栗谷(くりだに)の集落があるので、その入口といった意味があるのだろう。
 
<道程>
 一部の看板にもあるが、湯谷峠の峠道区間は合計13Kmとなる。大台町側が8Km、松阪市側が5Kmである。それ程長い道程ではない。
  

   

<行先案内>
 峠への道に入ると直ぐに、行先案内の看板が掲げられていた。
 松阪市
 飯高・奈良方面
 R166まで 13km

 
 飯高町の先、高見峠を越えた遠い奈良までも誘(いざな)っている。こうした点も、見方によってはかつてこの道が「魚の道」であったことを彷彿とさせる。しかし、実際には現在の湯谷峠(トンネル)を越えて奈良県まで物資を運ぶようなことは、まずないであろう。

   

行先案内の看板 (撮影 2018. 5.25)

飯高・奈良方面とある (撮影 2018. 5.25)
   

<栗谷川左岸沿い>
 本流の宮川沿いから分かれた国道422号は、まずは栗谷川左岸沿いに遡る。栗谷口の集落は直ぐに途切れ、狭い谷筋に通じる寂しい道となる。暫くはまだ大字天ケ瀬の内だ。
 
<栗谷川>
 集落の「栗谷」は「くりに」と呼ぶが、文献の栗谷川の項では「くりにがわ」と出ていた。 地元では普通どのように呼ばれているのだろうか。
 宮川の支流の1級河川で、流長は4Kmとなるそうだ。「栗谷で宮川に注ぐ」とあったが、栗谷川下流の左岸は天ケ瀬、右岸は明豆(みょうず)、注いだ宮川の対岸(右岸)は熊内(くもち)である。 湯谷峠付近に源を発するが、流長4Kmでは宮川に全く届かない。誤植か、あるいは中流より上は正式には栗谷川ではないのかもしれない。


栗谷川左岸沿い (撮影 2018. 5.25)
暫くは狭い谷間が続く
   

ここから右岸へ (撮影 2018. 5.25)
直進方向にも道がある

<右岸へ>
 丁度1Km遡ると、道幅が急に広がり、センターラインも出て来る。道はそのまま右岸へと渡って行く。橋は栗谷橋で「くりにはし」と平仮名書きされていた。
 
 橋の手前の看板には「ここから大台町 栗谷(くりだに) KURIDANI」とあった。ポールには「清流日本一のまち」とあり、これが大台町の標語となるようだった。現在の大台町の範囲は、かつての宮川村であった宮川最上流域の大台ケ原を含む。その点が「清流日本一」とする由縁であろう。

   
栗谷の看板 (撮影 2018. 5.25)
奥に赤坂バス停が立つ
   

<左岸の道>
 右岸へ渡る国道の道筋と別れ、そのまま左岸沿いを遡る道が延びる。分岐近くに「赤坂」というバス停が立つ。この栗谷川の直ぐ上流部に赤坂集落がある。国道を行くよりその左岸の道を行った方が近い。かつてはこちらの方が本線の道、湯谷峠への元の峠道ではなかったかと思う。
 
 その道を指して案内看板が「柿平山の神跡・?徳寺跡・赤坂城跡・コムソウ塚」を紹介していた。

   
   
   
栗谷川右岸 
   

左から道が合流 (撮影 2018. 5.25)
その奥に人家があるようだ

<栗谷川右岸へ>
 これから栗谷川上流の水域は全て大字栗谷となるようだ。
 
 国道が右岸に入ると直ぐ、右岸沿いに登って来た道が左から合流して来る。以前のツーリングマップでは、そちらを幹線路としていた。大陽寺と書かれた門に覚えがないのは、その道を通ったからかもしれない。
 
 その沿道の林の中に人家らしき建物が見えた。栗谷に入って最初の人家となるのだろう。

   

<芦谷線分岐>
 道は栗谷川の屈曲に従って大きく西に迂回する。その間、暫く人家はない。最も西に至った所で支流の芦谷を渡る。手前を芦谷沿いの林道芦谷線が分かれて行く。

   
左に芦谷線分岐 (撮影 2018. 5.25)
   

芦谷線入口 (撮影 2018. 5.25)

<芦谷線>
 林道芦谷線は芦谷を遡ること約2Kmで、多気山地主脈の少し手前で途切れている。古くはその先に名倉峠が通じ、名倉谷川を下って櫛田川支流・蓮川(はちすがわ)沿いの集落へと至っていたようだ。

   

芦谷線のゲート (撮影 2018. 5.25)
「頭上注意 制限高2.1m」とある

林道看板 (撮影 2018. 5.25)
延長2084m
   

宮川山林の看板 (撮影 2018. 5.25)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<宮川山林(余談)>
 林道入口に「トヨタ三菱宮川山林」という看板が立つ。芦谷の水域は芦谷林区と呼ばれるようだ。これと同じ看板をどこかで見た覚えがある。 多分、薗林区だったと思う。薗越について何か分からないかと薗川を遡って行った時だった。結局、薗越については何も情報を得られなかった。

   

<石碑(余談)>
 林道入口の並び、芦谷を芦谷橋で渡る手前に石碑が立っていた。「故郷の水呑めば母想う 平成三年九月十五日」とあった。峠道には特に関係なさそうだった。

   

石碑が立つ (撮影 2018. 5.25)

碑文 (撮影 2018. 5.25)
   
   
   
赤坂集落 
   

<赤坂集落へ>
 栗谷に入って、最初の集落らしい集落は赤坂となる。本流の栗谷川沿いに立地する。沿道に人家が見え出すとそれが赤坂だ。まずは「赤坂口」いうバス停が迎えてくれる。

   

そろそろ赤坂の集落が見えて来る (撮影 2018. 5.25)
この先の左手に赤坂口バス停が立つ

赤坂口バス停 (撮影 2018. 5.25)
   

<栗谷>
 栗谷という地名は、単純に「川沿いに栗の木が多いことにちなむ」とあり、 また「国司北畠氏の家臣栗谷氏が当地に住んでいたことにちなむという(勢陽五鈴遺響)」とも文献は記す。 栗谷の地名が先にあり、そこに住んだことから栗谷氏を名乗ったものだろうか。この地は栗谷川流域一帯の山間に位置し、周囲を500〜1,000m級の山々に囲まれる。 主に栗谷川沿いに集落が集中し、赤坂に続き、下出・中木屋という集落名が見える。また支流沿いにもポツポツ集落はあるようだ。
 
<栗谷村>
 江戸期からの栗谷村で、明治22年には天ケ瀬村や熊内村などと大きな合併をして荻原村(おぎはらむら)の一部となる。更に昭和31年に荻原村と領内村が合併して宮川村(みやがわむら)が成立している。
 
<湯谷河内村>
 尚、元禄期には栗谷村は下出村・湯谷河内村・西谷河内村・谷河内村の4か村に分けて石高などが管理されたようだ。この内の「湯谷河内村」が気になった。峠の松阪市側では「湯谷」の地名が見付からなかったが、大台町の栗谷の方に「湯谷」があることになる。果して峠名に関係するのだろうか。

   
赤坂集落に差し掛かる (撮影 2018. 5.25)
赤坂口バス停付近
右手に対岸へと至る道が分かれて行く
   

<赤坂集落の様子>
 集落が形成されるだけあって、栗谷川の谷が心持ち広がりだした。ただ、国道は右岸の山際ぎりぎりに通じ、沿道に人家は少なく、畑などの耕作地ばかりだ。赤坂口バス停前から対岸へと通じる道が分かれていて、そちらに人家が集中するらしい。
 
 暫く行くと、国道沿いにも人家が見えて来た。庭先をかすめて道が通じる箇所もあった。

   

赤坂集落の様子 (撮影 2018. 5.25)
国道沿いにも人家が見えて来た

赤坂集落の様子 (撮影 2018. 5.25)
   

<分岐>
 柿平バス停の先で右から道が合流して来ている。赤坂バス停で分かれた道である。


右に分岐 (撮影 2018. 5.25)
   

そろそろ下出集落 (撮影 2018. 5.25)

<下出>
 一時期沿道が閑散となり、再び建物が現れると、そこは下出集落となるようだ。栗谷川沿いに長く点在する集落の中で、下出は最も大きな集落に思える。栗谷の中心地的な存在なのだろう。

   
下出集落内 (撮影 2018. 5.25)
   

「夢楽 憩いの館」とある (撮影 2018. 5.25)

<憩いの館>
 下出バス停に並んで「夢楽 憩いの館」と看板を出す建物があった。何か公共の施設の様であったが、他には特に看板は見当たらない。何を目的にしているのか分からないと、立ち寄る訳にもいかない。

   

<公衆便所>
 妻がトイレがあるので立ち寄ってくれと言う。「憩いの館」を過ぎた直ぐ先の右手である。確かにトイレのマークに「公衆便所」と書かれた看板が立っている。隣接して広い駐車場も完備されていた。「憩いの館」より立ち寄り易い休憩所となっている。

   

公衆便所と隣接する駐車場 (撮影 2018. 5.25)

公衆便所 (撮影 2018. 5.25)
路傍に小さくトイレの看板が立つ
   

<集落の様子>
 妻が所用を済ませている間、付近を散策する。トイレの前辺りの国道422号は2車線路の幅を有し、沿道には比較的大きな家が並ぶ。栗谷の中心地という雰囲気がある。ただ、周辺に目を移すと、のどかな水田が広がった。

   

公衆便所より手前の様子 (撮影 2018. 5.25)
付近には水田が広がる

公衆便所より先の様子 (撮影 2018. 5.25)
比較的新しそうな建物が並ぶ
ここが栗谷の中心地か
   

栗谷地区案内図 (撮影 2018. 5.25)
(水呑不動尊とあるのは水呑不動滝の誤植らしい)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<案内図>
 何かこの地に関した情報が得られないかと歩き回ったが、これと言った物は見付からなかった。ただ、駐車場奥の木陰の下に、「栗谷地区案内図」という看板があった。地図だけで説明文はないが、それでも随分と参考になった。
 
 湯谷峠近辺を見ると、近くに「湯谷不動明王」とある。これには立ち寄ろうと思う。峠手前では、国道422号とは別に、栗谷川右岸沿いに道が通じている。しかし、峠手前で途切れている。どうやら旧道のようだ。峠を飯高町に越えた先には「道せまし」とある。ここまでも概ね1.5車線幅の道だったが、更に狭くなるのだろうか。

   
栗谷地区案内図の湯谷峠付近 (撮影 2018. 5.25)
国道422号に並行して旧道が通じる
   

<名倉峠など(余談)>
 案内図には湯谷峠以外に湯谷川水域より多気山地を越えて行く峠が3つ記されている。どれも地形図などには載って来ない峠ばかりだ。芦谷上流部にある名倉峠は既に触れた。
 
<田引峠>
 湯谷峠より東には西谷の上流部に田引峠が見られる。飯高町田引(たびき)に越える峠だからの命名だろう。飯高町へは「歩道未整備」とある。湯谷峠に快適なトンネルが開通しては、こうした小さな峠は寂れて廃道となって行く運命だ。
 
<尾放峠>
 更にその東にある尾放峠については、文献に次のような記述を見付けた。
 (栗谷)地内の尾放峠には,昔北畠具教の家臣柴山出羽守が具教の首を持って多気城に逃げる途中この峠を馬の尾につかまって登り,頂上でやっと尾を放して馬に乗ったという話が残っている。
 
 文中の多気城(たげじょう)とは別名・霧山城(きりやまじょう)のことだそうで、旧美杉村の比津峠(1996年に越えたことがあった)付近にあるようだ。 尾放峠より北に位置するので、主人の首を持った柴山出羽守は栗谷側から飯高町側へと越えたようだ。この史実を有する尾放峠も飯高町側は「歩道未整備」とあり、寂れて行くばかりだろう。

   
   
   
公衆便所以降 
   

大陽寺 (撮影 2018. 5.25)

 妻の話によると、トイレはきれいだったとのこと。最近の公衆トイレはなかなか使い易い。
 
<大陽寺>
 トイレを後に先へと進む。直ぐ左手に大陽寺が出て来る。大きな石柱に「曹洞宗霊符山大陽禅寺」とある。この「陽寺」は時々「陽寺」と誤植される。そうした道路地図を見掛けるが、文献でも「曹洞宗霊符山陽寺」と出ていた。改めて写真を確認し、やはり石柱には「陽禅寺」とあるのに安堵した。栗谷口に立っていた門は、この寺に関わっていたようだ。

   

<余谷・五十田>
 栗谷の集落は栗谷川沿いだけではない。大陽寺の先で右に分岐があるが、支流沿いにある余谷・五十田へと通じる道だ。分岐に立つ緑色の案内看板には、「御滝、十八ヶ滝、水呑不動滝」とある。水呑不動滝の上流部で例の尾放峠が越えている。


右に分岐 (撮影 2018. 5.25)
   

栗谷生活改善センター前バス停 (撮影 2018. 5.25)
栗谷簡易郵便局が隣接する

<左岸へ>
 公衆トイレ以降は集落内にも関わらず、幅の広い道が続く。栗谷簡易郵便局の前を過ぎると、道は栗谷川を渡って左岸に移る。
 
 
<西口への分岐>
 また右に分岐が出て来る。多分、西谷という支流沿いに西口という集落に至る道だ。入口に立つ緑色の看板には、「三条山登山道・田引峠・尾放峠・チャプサンブチ」とある。チャプサンブチとは栗谷地区案内図に「チャプサン淵」とあったもののことだろう。他には民宿の案内看板などが立つ。
 

   
右に西口への分岐 (撮影 2018. 5.25)
「体験民宿川原」と看板が立つ
   

<西口分岐以降>
 西口への分岐に続き、商店などもある人家が集まる一角を過ぎると、沿道は閑散とする。これまでになく道が小刻みに屈曲する。するとセンターラインもある2車線路の国道が急に狭くなる。

   

人家が途切れる (撮影 2018. 5.25)

道が狭くなる (撮影 2018. 5.25)
   

左に分岐 (撮影 2018. 5.25)

<中木屋へ>
 左に下る道を分けた後は、一段と狭い。もうそれまでの国道らしい威厳はなくなる。これまで概ね北に進んでいた道は、この付近からやや西へと方向を変える。また、はっきりした境は分からなかったが、下出集落から中木屋の集落へと入って行くものと思う。

   
   
   
中木屋 
   

<中木屋へ>
 同じ栗谷川沿いを遡っているのだが、どことなく雰囲気が変わって来た。道が狭くなっただけではなく、両側の山が迫った狭く屈曲した谷となった。周囲を見渡しても見上げるばかりの山ばかりだ。この先はもう平坦地に乏しい地域である。

   
中木屋集落へ (撮影 2018. 5.25)
ガードレールの端には国道標識が貼られている
   

<集落の様子>
 道の片側に中木屋集落の家々が並ぶ。反対側は田畑が耕作されている。道は舗装され、電信柱が並ぶが、見回す景色は昔とさほど変わらないのではないだろうか。 山間に通じる素朴な田舎道である。かつて熊野灘で採れた魚をこの道を通って大和の国まで運んだ。そんな様子を思い浮かべることができるような気がしてくる。


中木屋集落の様子 (撮影 2018. 5.25)
   

下中木屋バス停 (撮影 2018. 5.25)

<下中木屋バス停>
 人家が並ぶ途中に「下中木屋」というバス停が立っていた。これでここが中木屋集落の一部であることが分かる。「」とあるので栗谷川の下流側に位置し、中木屋の中では最初に出て来る集落であろう。

   

<下中木屋以降>
 下中木屋の人家を過ぎると、また少し寂しい道となる。いつまでも穏やかな田舎道が続く訳ではない。谷が狭まり、鋭く屈曲する。左岸のややきつい斜面に沿って道が通じる。「路肩崩壊の為注意」と看板が立つ。道幅も心持ち狭い。


ちょっと険しい区間 (撮影 2018. 5.25)
   

上中木屋バス停 (撮影 2018. 5.25)

<上中木屋>
 栗谷川の谷は狭くなったりまた小広くなったりを繰り返す。川岸に平坦地がある所は人家が立ち、周囲に田畑が広がる。
 
 また一段と谷が広がったかと思うと、「上中木屋」のバス停が出て来た。中中木屋というバス停がないかとひそかに期待したが、そのような物はなかった。
 
 平地に余裕がある為か、道幅も広く、広い路肩も所々に見られる。最近改修された様子も窺える。国道標識が立ち、「大台町 栗谷」とある。宮川村から大台町となり、道の整備も進んだのかもしれない。

   
沿道の様子 (撮影 2018. 5.25)
国道標識が立つ
左手には栗谷川が流れる
   

<集落の様子>
 上中木屋バス停周辺では、人家は道沿いにはなく、奥の山際に点在する。多くは南斜面を見下ろす位置に母屋を構えている。川沿いの平坦地は、ほとんどが田んぼか畑となっていた。


集落の様子 (撮影 2018. 5.25)
   

<旧道分岐>
 また谷が狭まり始めた所で、左手の栗谷川を渡る道が分岐する。どうやらそちらが元の湯谷峠の峠道ではなかったかと思う。 現在の国道422号はそのまま左岸のやや高い位置を通って湯谷トンネルへ至るが、分岐する道はより川に近い所を伝って湯谷トンネル直下へ至る。多分、昭和54年(1979年)の湯谷トンネル開通以前の道筋ではないだろうか。

   
左に分岐 (撮影 2018. 5.25)
   

<旧道の様子>
 分岐のちょうど反対側にバス停が立っていた。「中木屋橋」とあった。旧道に架かる橋が中木屋橋なのであろう。
 
 旧道は中木屋橋を渡ると直ぐに暗い林の中に入って行く。如何にも寂しそうな道だ。当然ながら何の案内看板もない。地図ではトンネル坑口の200mくらい手前で行止っている。 距離で2.3Km程の道だ。後で考えてみると、往復になってしまうが立寄ってみればよかった。何か旧峠道の痕跡でも見付かったかもしれない。


中木屋橋バス停 (撮影 2018. 5.25)
   

大西谷口 (撮影 2018. 5.25)

<大西谷口>
 旧道分岐から数100mで「大西谷口」のバス停が立つ。妻が写真を担当していたので、バス停は残らず撮っていたようだ。確か、大西谷口バス停が最後のバス停だった。
 
 バス停の直ぐ先に小さな十字路がある。左に下ると人家が一軒ある。そこが栗谷側最終の人家となるものと思う。道は人家を過ぎると栗谷川を渡って右岸沿いの旧道に接続するようだ。

   
小さな十字路 (撮影 2018. 5.25)
左は右岸の旧道へ
   

<大西谷>
 分岐には直進方向に国道166号と案内されている。右には寂しそうな道が分かれる。バス停の名前からして、「大西谷」という支流が流れ下っているのだろう。一つ下流側が西谷であった。その大西谷の川沿いに道が遡るようだ。入口には「盗石禁止」といった看板があるだけである。この先に集落はなさそうだが、人家の一軒もあるかもしれない。


国道166号の案内 (撮影 2018. 5.25)
手前に十字路がある
   
   
   
大西谷口以降 
   

<旧道の様子>
 大西谷口を過ぎると、道はほぼ西にある峠を目指して進む。湯谷トンネル開通後に新しく通じた道筋と言っていいのではないだろうか。
 
 ちょっと行くと、林の間から対岸に通じる旧道が下に望めた。沿道で工事を行っているようで、数台の工事車両が入って来ていた。

   
対岸の旧道を望む (撮影 2018. 5.25)
   

<道の様子>
 旧道が寂しい様子なのに対し、新道は立派である。旧道より険しい左岸の急斜面に開削されているので、高い擁壁が目立つ。視界も広い。 擁壁のコンクリートや路面のアスファルトが一部で新しく、そこだけ道幅も広がっていて、最近にも道の改修が行われたことをうかがわせる。

   

道の様子 (撮影 2018. 5.25)

道の様子 (撮影 2018. 5.25)
   

<栗谷川を望む>
 林が途切れた箇所では、栗谷川を眼下に望む。これまでも栗谷川に沿った道だったが、この様に川面を見渡すことはなかった。やっと峠道らしい雰囲気になり、楽しい気分だ。一方、旧道の方は対岸の林の中に通じるようで、何の視界もなさそうだ。

   
栗谷川の様子 (撮影 2018. 5.25)
対岸の林の中に旧道が通じる
   

道の様子 (撮影 2018. 5.25)

<峠道の様子>
 大西谷口から峠のトンネルまで約2.5Km。この間が湯谷峠の中では最も楽しめる区間だろう。一部に古くからの狭いか箇所を残すが、概ね1.5車線幅が確保された走り易い道である。 アスファルト舗装の状態もいい。対向車も稀だ。峠でも標高は僅かに約370mなので、大展望が広がる訳ではないが、栗谷川の谷を比較的広く見ながら登る。

   

<湯谷不動明王>
 栗谷地区案合図に示されていた「湯谷不動明王」は峠の0.5Km余り手前にあった。妻が早々と見付けた。左カーブの所で路肩が広くなり、そこに鳥居と手水が並ぶ。


右手に湯谷不動明王 (撮影 2018. 5.25)
   

湯谷不動明王の前 (撮影 2018. 5.25)

鳥居と手水 (撮影 2018. 5.25)
   

<鳥居?(余談)>
 ところで、明王(みょうおう)とは4つの種類の仏さま、如来・菩薩・明王・天部の一つで、不動明王とは大日如来が姿を変えたもの、と手持ちの資料にある。
 
 それより何より、仏様なのに鳥居がある。鳥居は神社にある物で、すなわち神様を祀る所となる。しかし、日本は元々神仏混淆で、その曖昧さは日本人の個性だと思う。仏様だろうが神様だろうが、何に対しても手を合わせて拝んでしまう。それでいいのではないかと思う。


手水 (撮影 2018. 5.25)
清水がちょろちょろ流れていた
   

湯谷不動明王 (撮影 2018. 5.25)

<湯谷不動尊の変遷>
 また、「湯谷」と冠するのもやや奇異な感じがした。湯谷川が流れ下るのは峠の飯高町側である。こちらは栗谷の地だ。
 
 お堂だか祠だか分からないが、その前に「湯谷不動尊の里帰りに就て」と題した説明看板が立つ。それによると、古くは「湯谷家の先祖に依って」お祭りされてきたとある。湯谷家が住んでいた地が湯谷ではなかったか。栗谷側に湯谷があったのかもしれない。少なくとも「湯谷河内」という地名はあったことだし。
 
 現在の不動尊は明治期に再建されたもので、最初字五十田地内に祭られたが、県道開通によりこの地に里帰りしたとある。 看板の日付は平成8年(1996年)4月で、この時点では既に国道422号線に昇格されたとある。その年の1月に湯谷峠を越えているが、確かに国道標識を確認している。しかし、この不動明王には気付かなかった。

   

湯谷不動明王 (撮影 2018. 5.25)

湯谷不動明王 (撮影 2018. 5.25)
   

<街道について>
 「この街道は吉野紀州伊勢街道の主要路として重視され」たと説明文にある。吉野とは奈良(大和)の吉野であろう。 高見峠を越える道は大和街道・紀州街道・伊勢街道などとも呼ばれ、正に吉野紀州伊勢街道である。現在の国道166号に相当する。一方、湯谷峠はその脇道的存在だ。主要路とはならないように思う。高見峠と伊勢を結ぶ道筋からはやや南にそれている。それでも、それなりに重視された街道なのだろう。

   

湯谷不動明王 (撮影 2018. 5.25)
明治期に再建された為か、やや新しさを感じる
右手に宝剣を持っているのはやはり不動明王であるしるしか

湯谷不動尊の説明看板 (撮影 2018. 5.25)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<不動谷>
 不動尊は元々「地下の不動谷」に祭られていたとある。この下60m程の所を栗谷川が流れる。この栗谷川最上流部を「不動谷」と呼んだのかもしれない。大西谷より上流部をそう呼ぶのかもしれない。栗谷川の流長が4Kmと短いのは、その為か。
 
 とにかく、その川に沿って湯谷峠の道が通じ、路傍に湯谷不動尊が祀られていた。不動尊が祀られていたので、不動谷の呼称が興ったのかもしれない。またその不動尊は湯谷不動尊と呼ばれた。ますます湯谷の地名が栗谷側にあったような気がしてくる。

   

不動尊を背に国道を見る (撮影 2018. 5.25)
左手奥が峠方向
 
湯谷不動尊は交通安全守護神として祀られる。
安全を祈るにはやはり「神」の方が適しているのだろうか。
 
看板が「4.4km先 公衆便所あります」と麓方向を指す。
妻が借りたトイレのことのようだった。

ベンチ (撮影 2018. 5.25)
「ごゆっくり」、「道中御無事で」とある
   

<湯谷不動明王以降>
 湯谷不動明王を過ぎると、もう峠は近い。峠直下に流れ下る栗谷川の谷を広く眺められる箇所がある。湯谷峠の峠道の中では、ここが最も景色がいいのではないだろうか。 丁度、旧道が右岸から左岸へと渡って来ている。ちょっと見た限りは、車でもどうにか走れそうな道幅がある。やはり一度訪れるべきであった。

   
栗谷川の谷の眺め (撮影 2018. 5.25)
下に旧道が通じているのが見える
   
   
   
峠の栗谷側 
   

峠に着く (撮影 2018. 5.25)
左の路肩から先はフェンスで覆われている

<峠に到着>
 現在の湯谷峠(トンネル)には、た易く辿り着ける。それ程感動はないが、それでも峠は峠である。トンネル前には砂利敷きの広い路肩があり、そこに車を停めて一服する。
 
<標高>
 トンネル坑口がある地点の標高は、地形図の等高線で見ると約370mである。飯高町側もあまり変わりない。 一方、トンネルの上部にある湯谷峠は、文献によると420mで、確かに地形図の等高線もその値を示す。トンネルの上方に見上げる空の下に、かつての湯谷峠がひっそり佇むのであろう。

   
湯谷トンネルの栗谷側 (撮影 2018. 5.25)
停めた車の先から、坑口上部に登る階段がある
   

<林道分岐>
 22年前にもここを訪れているのだが、ほとんど峠に関する記憶がない。ただ、現在路肩の脇の金網フェンスで閉ざされている所から一本の林道が分岐していた。今でもフェンスの一部が開閉できるようになっているので、関係者のみ通行が可能なのだろう。
 
<旧道の経路>
 地図を見ると、その林道は旧道終点の直ぐ上部を通過している。多分、昔の峠道は林道方向からここに至り、更にトンネル上部にある峠へと登って行ったものと思う。


峠の栗谷側を見る (撮影 2018. 5.25)
金網のフェンスには扉がある
   
トンネルの前の様子 (撮影 2018. 5.25)
   

<湯谷トンネルの栗谷側>
 湯谷トンネルの栗谷側は、広い路肩があるだけでなく道幅も広くなっているので、明るく開けた感じがする。ただ、周囲に草木が多く、下界への眺望はない。

   
湯谷トンネルの栗谷側坑口 (撮影 2018. 5.25)
   

<湯谷トンネル>
 坑口のコンクリートはやや薄汚れていて、古さを感じる。トンネルは真っ直ぐで、反対側の坑口もしっかり見える。トンネルの天井には一列に照明が並ぶ。

   
栗谷側から見る湯谷トンネル (撮影 2018. 5.25)
   

扁額 (撮影 2018. 5.25)

<扁額>
 扁額の文字はやや崩した字体で、特に「谷」の字はそれと分かっていないとなかなか読めない。
 
<開通年など>
 扁額以外に肝心な銘板を探したが見付からない。トンネル開通年などを確かめたかったのだ。結局、文献の記述を信じるしかなく、開通は昭和54年(1979年)、長さは250mだそうだ。

   

<大台町ガイドマップ>
 湯谷峠の栗谷側には、大台町ガイドマップの大きな看板が立つ。1996年に訪れた時は当時の宮川村の案内看板が立っていた。写真を撮って置いたのだが、ピンボケでほとんど読めない。湯谷峠の峠道沿いに関しては、大陽寺が書かれていた程度だったようだ。
 
 現在は大台町となって、ガイドマップに描かれる範囲も多気町や大紀町も含めた広域で、内容も詳細なものになっている。


大台町ガイドマップなどが立つ (撮影 2018. 5.25)
   

大台町ガイドマップ (撮影 2018. 5.25)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

以前の宮川村の案内看板 (撮影 1996. 1. 3)
地図は下がほぼ「北」
ピンボケでほとんど読めない
   

<峠近辺の案内>
 湯谷峠の峠道に関連した案内では、これまでに記したものばかりだ。夢楽憩いの館・WC・大陽寺などである。峠直下の川は不動谷ではなく、やはり栗谷川になっている。

   
大台町ガイドマップの峠近辺 (撮影 2018. 5.25)
   

<峠への旧道>
 1979年のトンネル開通以前は、このほぼ真上に湯谷峠が越えていた。明治中期頃(1890年前後)まで紀伊長島などで採れた海産物の運搬などに関わる往来があったが、その後は衰微して行く。 そしてトンネル開通後は全く使われなくなったであろう。既に廃道と化したかもしれない旧道の痕跡が、僅かでも見られないかと思った。丁度、坑口左手にコンクリートの階段が坑口上部へと登っている。ちょっと様子を見て来ようと思う。

   
トンネル上部にある砂防ダム (撮影 2018. 5.25)
   

<トンネル上部>
 トンネル上部はうっそうとした森が直ぐそこまで迫って来ている。トンネルのやや左寄りに、峠から流れ下る栗谷川の支流に砂防ダムが築かれていた。ダムの下流側は水路になり、坑口上部を横切って右側に導かれているが、水は枯れていた。
 
 砂防ダムの手前から右手の左岸沿いに登って行く道らしい痕跡がある。多分、それが湯谷峠への旧道であろう。砂防ダム奥の森の中へと消えて行くが、果してどこまで続いているだろうか。道は草が生い茂り、容易には登って行かれない。

   
砂防ダムの右手(左岸) (撮影 2018. 5.25)
僅かに道らしきものが見える
   

<坑口上部>
 坑口上部の右手には電気設備らしい建屋が立っていた。ここへ登る階段は、砂防ダムや電気設備のメンテナンス用であろう。トンネル開通の為に谷は大きく切り開かれ、目の下に幅の広い車道が通じる。峠道の様子は大きく変わったことだろう。

   

トンネル坑口上部 (撮影 2018. 5.25)
砂防ダム下流からの水路が通じる
奥に電気設備の様な建屋がある

坑口上部より栗谷方向を望む (撮影 2018. 5.25)
僅かに遠くの山並みが見える
 
こうして景色を眺めている時には、
既に左足のくるぶし辺りに蛭が取り付いていたようだ 
   

<蛭(余談)>
 子供の頃、虫取りなどで深い草の中などを歩き回ったが、蛭(ヒル)などは見たこともない。成人してからも、この世に蛭などという生き物が存在するなど思いもしなかった。いつしか峠に関心を持ち、泉鏡花の「高野聖」(天生峠の舞台)を読むなどして、昔の峠道では蛭の被害が多くあったことを知る。しかし、あくまで昔話の上だけのことである。「高野聖」に出て来る峠に住む魔性の女と同程度の認識である。実際に自分が蛭の被害に遭うとは思ってもみなかった。
 
 しかし、蛭は今日でも存在するのである。特に峠の旧道に潜んでいて、何も知らず迂闊にやって来る現代人を襲うのである。 蛭の生態など詳しいことは知らないが、動物の血液を吸うので、人や獣が通る道に集中して群生するのではないだろうか。草の先端に鎌首を挙げて待ち構え、通り掛かる人や獣に取り付くのである。 アスファルト敷きの車路などには勿論居ないので、その直ぐ近くの草むらに蛭が生息していても、普通は全く気付かれない。ところが、峠の旧道はないかと藪の中に不用意に入り込むと、まんまと蛭の餌食となるのだ。
 
 蛭の怖さは既に身をもって知っていたのだが(岩手峠)、湯谷峠では久し振りの旧道探索で、うっかりしてしまった。蛭の魔の手は何の自覚症状もなく、徐々にしかも確実にやって来る。左足のふくらはぎが血にまみれているのに気付いたのは、この1時間半後であった(顛末はこちら)。
 
 それにしても、一匹の蛭の被害で済んでまだ良かった方だ。砂防ダムの裏の方まで登っていたら、それはそれは大変なことになっていただろう。昔の旅人はそんな峠道を延々と歩いて越えていた。その苦労が偲ばれる。
 
 最近は人家近くまで熊や鹿が現れ、そうした動物に付いて蛭が生息域を広げているという話も聞く。一匹や二匹の蛭に噛まれても、それ程実害はない。しかし、あの気持ち悪さだけは耐え難い。今後の峠の旧道探しは、より慎重を期そうと誓うのであった。

   
   
   
峠の松阪市側
   

<松阪市側へ>
 長さ250mの湯谷トンネルは車でアッと言う間だ。蛭の被害に遭うこともなく、多気山地の稜線をヒョイと越えてしまう。トンネルを松阪市飯高町側に抜けると、両側は高い切通し状になっている。道幅は十分だが、待避所は少ない。

   
湯谷トンネルの松阪市側 (撮影 2018. 5.25)
   

<松阪市側の様子>
 切通しを抜けた辺りに「松阪市」と看板が掲げられている。大台町側にはなかった物だ。代わりに松阪市側にあったガイドマップなどの案内看板は一切ない。「不法投棄しないで!」という注意看板だけである。あっさりしたものだ。

   

湯谷トンネルの松阪市側 (撮影 2018. 5.25)

「松阪市」の看板 (撮影 2018. 5.25)
   

松阪市側より峠方向を見る (撮影 2018. 5.25)

<湯谷トンネルの松阪市側>
 松阪市側から登って来ると、トンネル手前で道がカーブしている。切通しが始まるくらいまで近付かないとトンネル坑口は見えて来ない。坑口の左右や上部に草木が溢れ、坑口は今にも埋もれそうである。

   

松阪市側より峠方向を見る (撮影 2018. 5.25)

松阪市側より峠方向を見る (撮影 2018. 5.25)
   
松阪市側から見る湯谷トンネル (撮影 2018. 5.25)
   

<以前の峠(余談)>
 湯谷峠(トンネル)は22年前に一度訪れている。当時の飯高町から宮川村へと越えた。 そこまでは一志町と美杉村との境の矢頭峠、下之川八知林道の峠、比津峠などこまごまとした峠をこなして来た。次なる目的は宮川村から大内山村へと越える千石越である。あの険しい林道の峠に比べたら、湯谷峠など全く物の数ではない。単に移動するだけの峠道と思っていた。

   
松阪市側から見る湯谷トンネル (撮影 2018. 5.25)
   

 それでも峠で僅かに写真を撮っている。下の写真は飯高町側のトンネルを写したものだ。トンネル開通から17年後の様子となる。冬期なので草木が少ないということもあるが、まだ木々が伸びる前で坑口全体が良く見えていた。

   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 1996. 1. 3)
トンネル内の照明は点いていない
   

 湯谷峠の道は当時既に国道に昇格していた。ガードレールの端に国道のステッカーが貼られているのが珍しいこともあって、写真に撮ったようだ(下の写真)。 ここへ来る前に庄司峠(美杉村・飯高町)の道も国道422号になっていたのを見て来ている。庄司峠は今も車道未開通のようだ。

   
峠より飯高町側に下る道のガードレール (撮影 1996. 1. 3)
主要地方道から国道422号に昇格していたのを確認
   

扁額 (撮影 2018. 5.25)

<扁額など>
 扁額はその字体も含めて大台町側と変わりはない。また、開通年などの銘板がないのも同じだ。22年前の写真を確認しても、銘板らしき物は見当たらない。トンネル開通当時からなかったのではないだろうか。

   

<峠の地蔵>
 ただ、坑口の数メートル手前の路肩に、ポツンと小さなお堂が佇む。中を覗くと錫杖を持ったお地蔵さまが一体立っていた。
 
 その石仏は比較的新しそうである。古くからの湯谷峠に祀られていたものではなく、トンネル開通と同時期ぐらいに彫られたのではないかと思った。


お堂が佇む (撮影 2018. 5.25)
   

地蔵のお堂 (撮影 2018. 5.25)
中の地蔵は比較的新しそうだ

地蔵 (撮影 2018. 5.25)
   

旧道入口? (撮影 2018. 5.25)

<旧道>
 大台町側ではトンネル坑口上部から峠への旧道らしき山道が登っていた。松阪市側からは、トンネルに向かって左側の擁壁の立ち上がり付近から、踏み跡の様なものが始まっているのが分かる。 しかし、登山道という様なしっかりした道ではない。トンネル区間の湯谷峠の旧道は、やはり廃道同然になってしまったものと思う。

   

<湯谷川>
 湯谷峠の松阪市側には湯谷川が流れ下る。源頭部は峠より更に南へ約1Kmの多気山地稜線上だ。その流れが坑口近くに下って来ている。比較的はっきりした沢となって、車道の西側に沿うようになる。
 
 湯谷川は櫛田川の一次支流だが、流長は短く、文献などに詳しいことは載っていない。「湯谷」を「ゆだに」と読むかもはっきりしない。


湯谷川源流 (撮影 2018. 5.25)
上流方向に見る
   

保安林管理道が分岐する (撮影 2018. 5.25)

<保安林管理道(余談)>
 トンネル坑口から50m程下った所から道が分岐する。ちょっと見た限りはアスファルト舗装だ。ゲートなどもない。入口に看板が立ち、保安林管理道であることが分かる。道は直ぐに湯谷川を左岸へと渡る。地図を見ると、湯谷川の上流部へと登って行くようだ。

   

道の入口に看板が立つ (撮影 2018. 5.25)

保安林管理道の看板 (撮影 2018. 5.25)
   

<峠の松阪市側>
 保安林管理道の分岐を過ぎた辺りから、国道はほぼ北に向かって下る。道幅はまだ十分な広さがある。
 
 左手には湯谷川が流れる。標高も低く、直ぐにこうして川沿いになることもあって、松阪市側の景色を遠望するような峠ではない。


松阪市側に下る道 (撮影 2018. 5.25)
   
   
   
峠より松阪市側に下る 
   

<宮本>
 松阪市側に下ると直ぐに国道標識が立つ。住所地には「松阪市 飯高町 宮本」とだけある。前述のように、栃川村と谷野村が合併して宮本村になっている。この湯谷川水域は元は栃川村でなかったかと想像するのだ。栃川とか湯谷といった地名について、何か手掛かりはないかと思う。

   

松阪市側に下る (撮影 2018. 5.25)
左手に国道標識が立つ

国道標識 (撮影 2018. 5.25)
   

<道の様子>
 やや古ぼけたトンネル坑口に比べ、道の方は新品ではないかと思える程だ。路面のアスファルトも白線も、ガードレールも擁壁も、新しい箇所が多く見られる。

   

道の様子 (撮影 2018. 5.25)

道の様子 (撮影 2018. 5.25)
   

<道幅>
 明らかに拡幅工事が行われたと思える場所もある。センターラインこそ引かれていないが、片側1車線分の道幅がある。屈曲もそれほど多くなく、走り易い道が続く。

   

道の様子 (撮影 2018. 5.25)
護岸工事が新しい

道の様子 (撮影 2018. 5.25)
明らかに拡幅されている
   

<谷の様子>
 道はずっと湯谷川の右岸に通じる。徐々に高みに移り、川面などは望めなくなる。谷は狭いながらも、道筋が高いので狭さは感じず、上空は比較的開けている。しかし遠望はなく、対岸を眺めても山が直ぐそこに迫って来ている。

   
谷の様子 (撮影 2018. 5.25)
   

この先、道は狭い (撮影 2018. 5.25)

<狭い区間へ>
 トンネル坑口から下ること僅かに約850m。道路改修の威力もここまでで、そこからは昔ながらの狭い道になる。栗谷地区案内図に「道せまし」とあったのはこのことだ。
 
 暗い林の中が多く、小刻みな屈曲も多くなる。ほんの一部に法面工事を行った改修箇所もあったが、後は退屈な道となる。写真に撮る物もなく、ただただ慎重に車を走らせるだけだ。

   

一部に改修箇所 (撮影 2018. 5.25)
この部分だけ道が良い

道の様子 (撮影 2018. 5.25)
   

<子宝線>
 峠から1.5Kmくらいから、道は川の流れに合わせて西へと向きを変える。その頃から湯谷川右岸の支流を続けて何本か渡る。その川沿いには作業道のような寂しい道が分岐して行く。その内の一つにしっかり看板が立ち、「作業道 子宝線」と出ていた。ただ、チェーンで進入禁止となっていた。

   

支流の川を渡る (撮影 2018. 5.25)
その先右に分岐

分岐する道 (撮影 2018. 5.25)
子宝線とある
   

<道の様子>
 再び大きなコンクリート擁壁などが現れ、道路改修がうかがわれる。しかし、地形は随分落ち着いて来ている。湯谷川の川面も覗けるようになった。


道の様子 (撮影 2018. 5.25)
   
湯谷川を望む (撮影 2018. 5.25)
   

<林道野止好線>
 左手にしっかりした道の分岐が出て来た。「林道 野止好線(起点)」と林道看板が立つ。

   

左に林道野止好線が分岐 (撮影 2018. 5.25)

林道野止好線方向を見る (撮影 2018. 5.25)
   

平坦地 (撮影 2018. 5.25)

<平坦地>
 林道野止好線を分けてからは、湯谷川の川岸に平坦地が多くなる。水田でも造られているかと思ったが、単なる草地の様だった。休耕地だろうか。

   
   
   
人家 
   

最初の人家 (撮影 2018. 5.25)

<最初の人家>
 平坦地が続き、ついに人家が出て来た。松阪市側最初の人家となる。ただ、そのまま集落にと発展することことなく、僅かに一戸が存在するだけだ。大きな敷地を有している。

   

<時尾線分岐>
 また右岸の支流沿いに道が延びている。林道看板には「林道 時尾線 (起点)」とあった。
 
 その先、道と川との間に大きな空地が広がる。田んぼや畑の跡といった感じはなく、林を切り開いた造成地の様だった。


右に林道分岐 (撮影 2018. 5.25)
   

沿道が開けている (撮影 2018. 5.25)

空地が広がる (撮影 2018. 5.25)
   

<谷間の様子>
 湯谷川の谷も広がりを見せ、もう目の前に迫るような山はない。道の屈曲も落ち着いて来た。

   
谷間の様子 (撮影 2018. 5.25)
   

<建物が点在>
 沿道に人工物が多く見え始める。最初は倉庫のような建物やビニールハウスであるが、人家らしき建物のある。

   

沿道の様子 (撮影 2018. 5.25)

沿道の様子 (撮影 2018. 5.25)
   

沿道の様子 (撮影 2018. 5.25)

沿道の様子 (撮影 2018. 5.25)
   

<水田>
 これまで沿道の空地は造成地や休耕地のようなものばかりだったが、やっと人の手が入った水田が出て来た。やはり日本の人里に田んぼは欠かせない。

   
沿道に水田が見られる (撮影 2018. 5.25)
   

対岸に大きな建物 (撮影 2018. 5.25)

<大きな建物>
 対岸に大きな建物が見える。工場か作業場の類であろう。人家も数戸隣接するようだ。人影はなかったが、車が数台停められていて、日々の人の活動がうかがえるようになった。
 
 その工場の様な建物を過ぎると、湯谷川に従って道は北へと向きを変える。 

   
工場か何かか (撮影 2018. 5.25)
   
   
   
集落内へ 
   

<集落内へ>
 峠の大台町側は、栗谷川中流域まで集落らしい集落が見られたが、松阪市側は湯谷川の下流1Kmくらいの狭い範囲に人家が集中する。湯谷川の谷が一段と広がりを見せ、沿道には本格的に田畑が広がりだす。その先に、人家が点在しているのが見渡せるようになる。

   
周辺の様子 (撮影 2018. 5.25)
   
周辺の様子 (撮影 2018. 5.25)
   

<沿道に人家>
 道の脇に人家が立ち始めるが、まだ家はまばらだ。しかし、路面の状態は良くなり、ガードレールも十分完備され、どことなく集落内に入って来たという感じがする。


集落内に入って行く (撮影 2018. 5.25)
   

対岸の様子 (撮影 2018. 5.25)

<栃川集落>
 栗谷には栗谷川に沿って赤坂・下出・中木屋といった字名(集落名)が見られたが、湯谷川沿は細かな地名に分かれていない。宮本内の湯谷川や栃子谷川が櫛田川に注ぐ一帯が全て栃川(とちかわ)となるようだ。湯谷峠の沿道に見える人家は全て栃川集落となるのだろう。
 
 対岸にも人家が点在し、沿道の人家も徐々に増えて行った。

   

沿道の様子 (撮影 2018. 5.25)

沿道の様子 (撮影 2018. 5.25)
   

<左岸へ>
 湯谷トンネルを出たからずっと湯谷川右岸に通じていた道が、集落内で初めて左岸に渡る。国道166号に接続するまで残り700m余りである。湯谷川もこの下流500m足らずで本流の櫛田川に注ぐ。
 
 その先、湯谷川の谷は一旦狭くなる。そこに立つ国道標識を見ても、単に「飯高町宮本」で「栃川」の名さえどこにも見当たらない。まして「湯谷」の地名の存在も分からなかった。湯谷川というからには、温泉や鉱泉などに所縁があるかとも想像したが、ついにそのような形跡も見られなかった。


道 (撮影 2018. 5.25)
   

沿道の様子 (撮影 2018. 5.25)
この前後、湯谷川の谷は一時狭い

国道標識 (撮影 2018. 5.25)
   

<栃子谷川>
 道は湯谷川沿いから栃子谷川沿いに移り、栃子谷川を左岸へと渡る。

   
栃子谷川を渡る (撮影 2018. 5.25)
   

 この付近になると、もう住宅街の様相だ。人家の軒先をかすめるようにして道が通じる。ここは栃子谷川沿いというより、本流の櫛田川右岸沿いと言った方が正確だろう。三重県と奈良県を繋ぐ大幹線路である国道166号が対岸に通じる。大台町側の宮川沿いとはやはり立地が異なる。街中という雰囲気がする。

   

集落内 (撮影 2018. 5.25)

集落内 (撮影 2018. 5.25)
   

この先分岐 (撮影 2018. 5.25)

<分岐>
 住宅街を抜けると広い分岐に出る。角に商店も立ち、賑やかな様子だ。分岐を直進するのは県道569号・蓮峡(はちすきょう)線で、櫛田川右岸をそのまま遡る。 かつて湯谷峠(トンネル)に通じていた主要地方道・紀伊長島飯高線もそちらに進んでいた筈だ。少しでも奈良へと近付こうとしていたかのようだ。

   
分岐の様子 (撮影 2018. 5.25)
左が県道569号、右が国道422号を国道166号方面へ
   

<峠道の終了>
 分岐を右に曲がるのが国道422号の続きで、櫛田川を大谷橋(おおたにはし)で渡る。分岐付近は2車線路に改修されていたが、大谷橋は以前のままの狭い橋で、22年前もこの橋を渡って湯谷峠を目指したのだった。
 
 大谷橋を渡ると直ぐに国道166号に接続する。そこで湯谷峠の道も終了である。

   
   
   

 こうして思い返しても、湯谷峠はそれ程面白い峠ではない。特に松阪市側は視界が開けず、見るべき物もなく、退屈な道であることは否めない。 その点、大台町側はやや景色も眺められ、トイレのある駐車場や湯谷不動明王など立寄る場所もあった。栗谷川に沿って長く集落が点在し、車を進めるに従い風景が移り変わって行く様子が楽しめる。 峠直下に残る旧道に立ち寄れば、またそれなりに得る物があったかもしれない。ただ、坑口上部に立ち寄ったのは余分だったかと思う、湯谷峠であった。

   
   
   

<走行日>
・1996. 1. 3 旧飯高町 → 旧宮川村 ジムニーにて
・2018. 5.25 大台町 → 松阪市 ハスラーにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 24 三重県 昭和58年 6月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・県別マップル道路地図 24 三重県 1998年 7月 発行 昭文社
・関西 2輪車 ツーリングマップ 1989年7月発行 昭文社
・ツーリングマップル 5 関西 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 関西 2015年8版1刷発行 昭文社
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

<1997〜2018 Copyright 蓑上誠一>
   
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