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位山峠
  くらいやま  (峠と旅 No.273)
  かつての位山街道が越えた峠道
  (掲載 2017. 3.19  最終峠走行 2016.10. 8)
   
   
   
位山峠 (撮影 1997. 4.27)
峠は岐阜県下呂市(げろし)萩原町(はぎわらちょう)山之口(やまのくち)にある
右手奥はカジヤ集落方面
左手前はあららぎ湖を経て高山市一之宮町(いちのみやまち)方面
道は県道98号(主要地方道)・宮萩原線
峠の標高は1087m (峠に立つ看板などより)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
上の写真は今から丁度20年前に訪れた時の位山峠
現在は、切通しが少し掘り下げられ、峠の様子は変わっている
それでも石碑や看板、東屋などは概ね以前の位置のままで残っているようだ
 
 
 
   

<位山峠>
 今の位山峠は、岐阜県の山中に細々と通じる峠道だ。全線が主要地方道とはなっているものの、峠前後は大型車通行止の狭路である。 しかも、その東側7km程離れて幹線路の国道41号が並走する。わざわざその狭く曲がりくねった峠道を通行する車は少ない。 しかし、かつて飛騨高山と京の地を結んだ街道がこの峠を越えていた。その痕跡を色濃く残す峠道でもある。

   

<所在>
 峠そのものは岐阜県下呂市(げろし)萩原町山之口(はぎわらちょう やまのくち)に所在する。益田郡(ましたぐん)の旧萩原町(はぎわらちょう)の大字山之口である。 峠は明確には何の行政区画の境にもなっていない。峠の南側にカジヤという集落があるが、北側には同じ山之口内に集落は見られない。 ただ、そのまま北方面へと下ると、高山市一之宮町(いちのみやまち)に至る。「一之宮町」などと言われると、一体何処のことかと思うが、昔の大野郡(おおのぐん)宮村(みやむら)である。 その村で野宿したことを思い出す。 よって、位山峠は実質、高山市と下呂市、旧の宮村と萩原町とを結ぶ峠道と言ってよさそうだ。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<峠名>
 峠の北北西に位山(1529m)がそびえる。美濃飛騨高原(みのひだこうげん)の只中に位置し、日本列島を太平洋側と日本海側とに分かつ中央分水嶺である。峠名はこの位山(くらいやま)から来ているようだ。
 
 位山は古来より名山とされ、多くの和歌に詠まれる「歌枕の地」とのこと。「こむらさき たな引く雲をしるべにて 位のやまの みねを尋ねむ 元輔」(拾遺集)などの歌があるようだ。 また、古くから霊山としても尊崇され、山腹には古代巨石文化遺跡と推定される祭壇石・その他の巨石群があり、旧宮村にある飛騨一宮水無(みなし)神社の御神体山とも伝わるとのこと。

   

<位山街道>
 位山峠に通じる道は位山街道とか単に位山道などと呼ばれる。また、飛騨国と京を結ぶ官道であったことから、官道位山道とか位山官道などとも記される。
 
<東山道古道>
 この峠道は、古くは東山道古道(とうさんどうこどう、東山古道、東山小道などとも)という壮大な道筋に当たっていた。それを原型とする道のようだ。 東山道と言えば征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の東征で知られる(それくらいしか知らないのだが)。 遠く都の地から本峠を越えて飛騨の国府(高山盆地または古川盆地)に至り、更に信州の国府(松本市)へと野麦峠を越えて行った。 後に吉蘇路(きそじ、木曽路)が開かれ、東山道の本筋が飛騨を経由しなくなってからは、東山道飛騨支路・飛騨支道などとも呼称される。

   

<苅安峠>
 飛騨高山方面から位山街道を南下して来ると、位山峠の前に苅安峠と言う小さな峠を越える。苅安峠は高山市一之宮町にある。この旧宮村は大字を編成せず、一村一大字だった。 高山市の一部になっても旧村域全体は一之宮町(いちのみやまち)という一つの住所名となったようだ。よって、苅安峠も位山峠同様、その位置を行政区画の境として表現し難い。 最初はこの苅安峠を別のページで掲載しようと思ったのだが、同じ位山街道の峠として、ここで一緒に取り上げようと思う。 

   

<水系>
 位山峠も苅安峠も、はっきりした行政区画の境ではなかったが、峠と言う地形的な特徴として、大抵は何らかの分水界には位置する。
 
 苅安峠は車を使う分には容易に越えられる短い峠道なので、その意味で「小さな峠」と言ったが、考えてみると、苅安峠は位山に連なる中央分水嶺に位置していた。 その点では大した峠なのである。苅安峠の北側には宮川(みやがわ)の支流・常泉寺川(じょうせんじがわ)が流れ下る。 宮川は神通川(じんづうがわ)の上流部に当たり、最終的に日本海側の富山湾に流入する神通川水系である。 一方、苅安峠の南側には洗足谷が流れ、無数河川(むすごがわ)を経て飛騨川(ひだがわ)に注ぐ。飛騨川は木曽川最大の支流で、木曽川水系に属す。木曽川は太平洋側で伊勢湾に流れ出ている。
 
 一方、位山峠は無数河川本流の上流部に位置し、峠の北側に無数河川源流の川が流れ下る。南側はカジヤ谷の上流部に当り、カジヤ谷は山之口川(やまのくちがわ)から更に飛騨川へと注ぐ。 苅安峠が木曽川水系と神通川水系との大分水界になるのに対し、位山は僅かに飛騨川の支流同士の無数河川と山之口川の分水界でしかない。
 
<飛騨川(余談)>
 尚、飛騨川とは美濃での呼び方だったようだ。 かつての美濃・飛騨の国境が旧金山町(かなやまちょう、現下呂市)地内にあったが、そこより上流側の飛騨では益田川(ましたがわ)と呼んだようだ。 更に、益田川の旧小坂町(おさかちょう、現下呂市)より上流部を阿多野川と呼ぶこともあったらしい。それからすると、無数河川は阿多野川の支流、山之口川は益田川の支流となる。ただ、現在の河川法では飛騨川で統一されている。尚、飛騨川の源流はあの野麦峠である。

   

<峠道の変遷>
 位山街道に関連して益田街道(ましたかいどう)という呼び名がある。広義には美濃太田(美濃加茂市)あるいは美濃中津川(中津川市)で中山道から分かれ、飛騨高山までの道を指すようだ。 狭義には飛騨金山(益田郡旧金山町)から飛騨高山までの道をそう呼ぶ。概ね益田郡内を通り、益田川(飛騨川の別称)に沿うことから、この名があるものと思う。 位山街道と同様、東山道古道が原形とされる。尚、関市から金山までを飛騨街道(ひだかいどう)と呼び、金山で益田街道に接続するとする。また、益田街道のことを飛騨街道と呼ぶ場合もあるようだ。
 
 天正13年(1585年)、豊臣秀吉の命を受けた金森長近(かなもりながちか)が飛騨を攻め、この地を平定する。 すると、それまでの官道であった位山街道を不便とし、これを補う為に別ルートを開削させた。 高山方面から来ると、水無神社の脇から常泉寺川支流・宮谷沿いに登り、苅安峠の北東4kmに位置する宮峠(標高782m)で中央分水界を越え、 飛騨川支流・八丁川(はっちょうがわ)沿いに下り、以後は飛騨川沿いに南下する。飛騨川沿いに小坂までを河内路とも呼んだ。 旧久々野町(現高山市久々野町)にかつて河内村(かわうちむら)があったが、その「河内」(かわうち)から来ている名かもしれない。 河内路(久々野〜小坂)やその下流にある中山七里(下呂〜金山)は飛騨川の切り立った崖に沿う難所だったが、金森長近は桟(かけ橋となる板)を設けるなどして改修させる。 こうしてできた益田街道が近世以降、美濃と飛騨を結ぶ中心的な街道となっていった。
 
 中世までの官道の座を益田街道に奪われた位山街道であったが、明治中期頃までは利用され続けたようだ。増水などで飛騨川沿いが途絶した場合のバイパス路としてなど、位山街道の利用価値はまだ残っていたようだ。
 
 しかし、益田街道の方には明治になって現在の国道41号の前身となるルートが宮峠を越え、大正期には自動車の通行が可能となっていった。 県道第1号岐阜富山線が母体となり、昭和28年5月2級国道155号(名古屋富山線)に指定され、同33年9月1級国道41号と改称、 同40年「道路法施行令の一部改正する政令」により一般国道41号となり、昭和42年の大改修により道路事情は大幅に改善、同43年に全線開通となる。
 
 この国道41号の出現で、位山街道は決定的に寂れて行ったようだ。水無神社付近から常泉寺川を遡り、苅安峠・位山峠と越え、山之口川沿いに下って飛騨川に出るまでの区間を、国道41が奪ってしまった。しかし、そのお陰で位山峠の道は往時の面影を留めることともなった。

   

<匠の道>
 位山街道を特徴付けるのは、匠(たくみ)の道である。飛騨の匠と言えば、宮殿や寺社の建築に優れた人たちとの認識がある。しかし、一面に暗い歴史があった。 耕地の少ない飛騨は税が免ぜられた代わりに、使役を強要されたようだ。遠く都の地へと飛騨の匠が駆り出され、年間330日から350日の労働を強いられた。位山峠はこうした飛騨高山の男たちが重い足取りで都へと旅立ち、また帰郷が許されて故郷高山へ足早に越えた峠であった。

   
   
   
旧宮村より苅安峠へ 
   

<高山を出発(余談)>
 前日は、高山市街南郊の外れに立つ8階建てのホテルに宿泊した。高いビルの客室からは高山の中心街が一望できた。 朝食はビジネス客などに便利な簡易なバイキングが無料でついていたが、食堂は東南アジア系の女性客で大賑わいだった。 全身カラフルな服をまとい、年の割には短いスカートで足を組んで座っている。日本語より外国語の方が食堂に満ちていた。
 
 この5年くらいのことだろうか、ホテルやちょっとした観光地で外国人を見掛けないことはない。多くは中国、韓国、その他のアジア系だ。 この時も、大型観光バスをチャーターして飛騨高山見物にとどっと押し寄せて来たらしい。今年は明治150年に当たる(明治元年は1868年)。 それまで髷を結っていた日本人が、積極的かつ全面的に西洋文明を取り入れるようになってから150年の月日が経つ訳だ。その間、日本は急激な変化を遂げた。そして今も海外との関係でまた新しい局面を迎えようとし ているらしい。

   

<県道98号分岐>
 高山市街から国道41号を南下する。さすがに現代の益田街道は飛騨地方と名古屋方面を結ぶ大幹線路として交通量が多い。 元の益田街道は宮川支流・常泉寺川の右岸にある飛騨一宮・水無神社(みなしじんじゃ)を通っていたが、現在の国道41号は常泉寺川の左岸に通じる。 また、現在の位山街道は国道41号の一之宮という交差点より分かれて始まる県道98号となる。主要地方道・宮萩原線だ。
 
<水無神社と宮村>
 一之宮交差点を県道とは反対側の東へ向かえば、常泉寺川を渡って水無神社に出る。本来の益田街道と位山街道の別れは、そちらにあったのだろう。
 
 尚、宮村の名の由来はこの飛騨一宮となる水無神社の存在によるようだ。古くは一宮村とも呼ばれた。現在、高山市の一部になり一之宮町となったが、ある意味、その語源に戻ったことになる。


一之宮交差点 (撮影 2016.10. 8)
国道41号を宮峠方向に見る
手前は高山市街方向
右は県道98号
左は水無神社へ
   

臥龍桜の看板 (撮影 2016.10. 8)

<臥龍桜(余談)>
 一之宮交差点をよく見ると、明るい色で「臥龍桜」(がりゅうざくら)と看板が県道方向を指す。この近くに高山本線の飛騨一ノ宮駅があるが、その駅に隣接して臥龍公園があり、そこに立つ桜が国指定天然記念物として知られる。
 
 桜や紅葉など、時期を選ばないと見られないものは苦手である。きっちりとした旅の計画を立てなければならないが、峠の旅は通行止などがあって予定通りには運ばないのだ。 また、わざわざ人で混雑する所に出掛ける気にもならない。ところが、全くの偶然に花などの見頃に出くわすことがある。20年前に位山峠へ向かった時がそうだった。目と鼻の先で臥龍桜が満開とあらば、立ち寄らない訳にはいかない。

   

臥龍公園へ (撮影 1997. 4.27)
右手に高山本線が通じる

臥龍桜 (撮影 1997. 4.27)
   

 警察なども警備に出動していて、なかなか盛況だった。公園脇から駅へと続く跨線橋が架かるが、その上から眺めるのも良かった。旅先で写真に撮るのは峠道ばかりだが、この時はさすがに桜の写真を数枚は撮っておいた。

   

跨線橋より見る臥龍公園 (撮影 1997. 4.27)

公園脇に通る高山本線 (撮影 1997. 4.27)
跨線橋より見る
   
臥龍桜 (撮影 1997. 4.27)
丁度満開の時期に出くわした
   
   
   
県道98号を行く 
   

県道98号を行く (撮影 2016.10. 8)

<県道98号>
 今回の位山峠の旅は、桜の見頃どころではなく、大雨が降る最悪の天候となった。県道98号を進むが、ちょっと先にある低い山も霞んでいる。これから向かう峠道が思いやられる。
 
 県道98号は宮川とその支流の常泉寺川に挟まれた地帯を西へと真っ直ぐに進む。常泉寺川左岸沿いというよりむしろ宮川右岸沿いに近い。 元の位山街道は、水無神社よりそのまま常泉寺川右岸沿いに苅安峠を目指したのだろう。現在の県道98号は不自然なくらいに真っ直ぐで、古くからの街道の趣はない。

   

<高山本線>
 間もなく道は高山本線の踏切を過ぎる。この線路は単線だった。鉄路はここより南に向かい、宮トンネルで中央分水嶺を抜けて行く。昭和9年に高山本線は全通しているが、この鉄路の存在も位山街道に少なからず影響していることだろう。
 
<宮川沿いを離れる>
 道はいつまでも宮川に沿っている訳にも行かず、途中で南へと折れて行く。看板に示された行先には「あららぎ湖」と「道の駅 モンデウス飛騨位山」があった。
 
 直進は県道453号となる。道路看板では点線となっているが、道は宮川の上流部へと遡り、名も知らぬ峠を越えて旧清見村(現高山市清見町)に抜けている。一度だけ訪れたことがある。


この先、県道は南へと折れる (撮影 2016.10. 8)
   

道が狭くなる (撮影 2016.10. 8)

<常泉寺川右岸へ>
 南に折れた道は間もなく常泉寺川を渡る。そこから先は道幅が狭くなり、くねった坂道を登り始める。沿道にはなまこ壁の建屋も見え、古くからの町並みとなる。
 
<位山街道の道標>
 後で分かったことだが、そのなまこ壁の蔵らしい建屋の手前を東に分かれる道を500m行くと、元の位山街道に出られたようだ。しかも、その分岐に位山街道の道標が立っているらしい。

   

<往還寺(余談)>
 道は常泉寺川右岸にぴったり沿う。すると川を渡った先に大きな寺の境内が見られた。ここが川の名前の由来となった常泉寺だろうかと思ったが、そうではなかった。 後で地形図を見ると、「寺」とだけ書かれている。これでは何のことか分からないと思ったら、「寺」とはここの住所だった。調べてみると寺の名前は往還寺であった。川の名前とは関係ないようだ。


往還寺の前を過ぎる (撮影 2016.10. 8)
   

<旧道>
 往還寺を過ぎると程なくして人家も途切れ、一方、道幅はまた広くなる。現在の県道98号は、苅安峠の北側では往時の位山街道とはほとんど別のコースを辿っている。 車道ゆえ、仕方がないことだ。それでも途中で位山街道の旧道を横切る。峠方向の旧道入口に看板が立っていた。その奥に標柱も立ち、林の中へと山道が登って行く。ただ、酷い雨で車からなかなか外には出られない。窓越しに写真を撮るばかりだ。

   

右手に旧道 (撮影 2016.10. 8)
左手の県道標識には「一之宮町常泉寺」とあった

旧道入口 (撮影 2016.10. 8)
看板や標柱が立つ
   

看板 (撮影 2016.10. 8)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<旧道の看板>
 旧道入口に立つ看板には「子どもたちが通った位山道」とあった。他には何の説明もなく、ただただ子供たちの絵が描かれている。普段の生活の中にまだこの道が活かされていた当時の様子を表したもののようだ。
 
 位山街道は明治中期頃まで使われたと文献(角川日本地名大辞典)にあった。確かにその後は高山から下呂方面へと向かう大きな街道としては使われなくなったことと思う。 しかし、道の一部は地元の生活路として、そのまま暫くは生き続けたようだ。薪を集めたり、山菜を採ったり、時には遠足や雪遊びをしたり。
 
 ところが今は立派な県道が通じ、生活様式も変わってしまった。過疎で子供たちも少なくなったことだろう。遂に元の位山街道もその実用面の価値を失ったようだ。 看板の絵では道の一部が石畳となっている。この旧道を登れば、もしかしたら往時の石畳がまだ見られるのかもしれない。今の位山街道は昔を偲ぶ道である。

   

<常泉寺>
 旧道分岐近くに立つ県道標識を確認すると、「一之宮町常泉寺」と住所が示されていた。常泉寺とはこの付近の地名でもあるようだ。ただ、地形図などには見られない。
 
<林道分岐(余談)>
 旧道の道筋からはずっと離れた所で林道が一本、東方へと分岐していた。ただし、ゲートで通行止。入口に林道看板が立つが、草で覆われ文字が読めない。車から出ることもままならず、林道名などは不明のまま。

   

林道入口 (撮影 2016.10. 8)
林道看板が立つが、草で見えない

林道はゲートで通行止 (撮影 2016.10. 8)
   

<旧道出口>
 大きく東へ迂回した県道がまた西へと戻って来た所で、下から登って来た旧道の出口がある。旧道区間はざっと600m程か。何やら看板が立っているのだが、激しい雨に見に行くこともできなかった。


旧道出口 (撮影 2016.10. 8)
   
   
   
苅安峠 
   

右手に道の駅 (撮影 2016.10. 8)

<苅安峠着>
 国道41号から分かれ、途中に若干細い区間があるものの、概ね2車線路を6km弱で苅安峠に着く。峠と言うより広大な駐車場とその背後にスキーゲレンデを控えた行楽地だ。 高山市街からは至近で、冬場は多くのスキー客で賑わうことだろう。「道の駅 モンデウス飛騨位山」と長い名前が付く。折角の苅安峠だが、一段と強い雨に強風が吹き抜け、車から出られたものではない。

   
道の駅の様子 (撮影 2016.10. 8)
   

分水嶺の池 (撮影 2016.10. 8)
奥の建物には「分水嶺」と書かれていた

<峠の様子>
 仕方がないので車であちこち移動する。片隅に池がある。ここは中央分水嶺で、ここに降った雨は太平洋と日本海とに分かれて行く。それを表したものらしいのだが、良く分からない。付近の店か何かの看板に「分水嶺」と書かれているのだが、正確な分水界の位置が見付からない。

   
位山方向を望む (撮影 2016.10. 8)
   

<匠街道>
 スキーでもなく分水嶺でもなく、もう一つこの峠を代表するのが「匠の道」である。大きな看板が池の畔に立っていた。看板の説明文に位山街道が詳しく記述されている。

   

匠街道の看板 (撮影 2016.10. 8)

看板の説明文 (撮影 2016.10. 8)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<道の駅>
 車の中に居てはらちが明かず、次の寂しい位山峠を前にトイレも済ませておきたい。決死の覚悟で車を降りた。道の駅の建物近くにある看板などを写真に収める。

   
道の駅の建物 (撮影 2016.10. 8)
手前に看板
   

位山周辺案内図の看板 (撮影 2016.10. 8)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<源流の里 位山周辺案内図>
 その時は看板の内容など調べる余裕がなかったが、今になって写真を眺めると、いろいろ参考になる。北側の方に白銀神社とういのがあり、その脇に分水嶺の碑があったようだ。一方、看板のある現在地がほぼ峠の位置となり、標高は895mと出ていた。
 
<位山峠の標高>
 また、遠く位山峠も地図に描かれ、その標高は1095mとある。ただ、現在の地形図では1090mに満たない。実は文献にも1095mと出ていて、この数値は古い物と思う。標高の改定などが行われたのか、他の看板などでは1087mで統一されている。

   
看板の地図 (撮影 2016.10. 8)
現在地(赤丸)の近くに「苅安峠895m」とある
   

<源流の里>
 ところで、看板の言う「源流の里」とは何川の源流であろうか。苅安峠自身は、その北側は宮川から常泉寺川、更にその支流(名前不明)へと遡った所に位置する。南側は洗足谷、無数河川、飛騨川と下って行く。中央分水嶺ではあるが、大きな川の源流という程ではない。
 
 峠から南西に続く中央分水嶺上にある位山は、その南側は山之口川の源流と言える。しかし、山之口川は飛騨川の支流でしかない。北側は宮川の源流に近いが、位山から更に続く分水嶺に川上(かおれ)岳があり、その山の方がより宮川の源流部に位置する。
 
 ここは、旧宮村全体が宮川の「源流の里」であるとしているようだ。神通川の上流部はこの宮川と高原川に分かれるが、どちらかと言えば宮川の方が神通川本流と思える。よって宮村は日本海に注ぐ神通川水系の大元の地なる。
 
<新高山市>
 ただ、ちょっと紛らわしいのは、宮村は中央分水界を越えて太平洋側にも村域を延ばしていた。本の僅かだが太平洋側の木曽川水系にも足を踏み入れている。 この小さな村が、どうして中央分水界を跨いでいるのかと、ちょっと不思議に思う。 現在、旧高山市が宮村や久々野町などを併合したので、新しい高山市は大きく木曽川水系に足を踏み込むことになった。 手元にある飛騨高山の観光パンフレットによると、その面積は東京都にほぼ等しく、日本で一番広い市となるようだ。

   

<一之宮地域案合図>
 「源流の里 一之宮地域案合図」と題したもう一つの看板では、元の位山道(位山街道)の道筋が描かれている。この地図に峠の常泉寺川側の麓に「位山道道標」が立っていることが示されていたのだ。また、これから下る無数河川側には「問屋屋敷跡」があることが描かれている。


裏側の一之宮地域案合図の看板 (撮影 2016.10. 8)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
   
   
苅安峠〜あららぎ湖 
   

<苅安峠よりあららぎ湖へ>
 苅安峠ではいろいろ見て回りたかったが、大雨で早々の退散である。県道の行先には「国道41号 6km、あららぎ湖 4Km」とあった。国道へは途中からこの県道を外れる。あららぎ湖は位山峠へ登る途中にある。

   

道の様子 (撮影 2016.10. 8)

道路看板 (撮影 2016.10. 8)
   

天孫降臨の道 (撮影 2016.10. 8)

<天孫降臨の道(余談)>
 途中、「ここは 天孫降臨の道」と大きく看板に出ていた。何とか心理学研究所とある。匠の道なら分かるが、天孫降臨(てんそんこうりん)とはどういうことか。 九州は日向の高千穂と何か関係があるのだろうか。これも手元の観光パンフレットによることだが、位山には「天の岩戸」と呼ばれる巨石があるとのこと。

   

<問屋屋敷跡>
 国道方向に県道455号が分かれるが、その分岐の少し手前に、一之宮地域案合図にあった問屋屋敷跡への道が分かれる。 後でドラレコ画像を確認すると、確かにその道の奥に何やら建物が見える。地図によっては「元日ノ宮」という神社名が記されていることもある。 写っていた建物が問屋屋敷かどうかは別として、そこに通る道が元の位山街道であったようだ。


右に問屋屋敷跡への道 (撮影 2016.10. 8)
   

<県道455号分岐>
 道路看板はY字路だが、実質は右に県道98号の続きが分かれるような感じである。県道455号の方がどちらかというと本線に見える。

   

県道455号分岐 (撮影 2016.10. 8)

分岐の看板 (撮影 2016.10. 8)
   

<段>
 県道455号は段久々野線という。「段」とはこの分岐付近の旧宮村の地名だ。道は段から無数河川沿いに下り、久々野市街で国道41号に接続する。 苅安峠から位山峠に続く位山街道(県道98号)を通ると、この県道455号はまず使うことはない。段の住人の専用道の様なものだ。

   
分岐の様子 (撮影 2016.10. 8)
左が県道455号、右が県道98号の続きを位山峠方向へ
   

<あららぎ湖へ>
 分岐より峠方向の県道98号を進む。ここまでが苅安峠、ここからは位山峠の道だ。「あららぎ公園」と看板が示す。その先に立つ電光表示の道路情報看板には、「通行注意 工事中 下呂方面」とあった。問屋屋敷跡に通じていた旧道がこの付近に出て来る筈なのだが、それらしい道が見当たらない。

   

峠方向の県道98号 (撮影 2016.10. 8)
道路情報看板が立つ
この付近に旧道出口がある筈だが見当たらない

あららぎ公園の看板 (撮影 2016.10. 8)
   

<大型車通行止>
 更に進むと、「位山峠 大型車通行止」とか、「萩原方面(一般県道宮〜萩原線) ここから先には車道幅員 2.0mの箇所があります」などと看板が出て来る。この先に待つ位山峠は道幅が狭く、大型車は通れない。

   

大型車通行止の看板 (撮影 2016.10. 8)

車道幅員2.0mの看板 (撮影 2016.10. 8)
   

冬期間通行止の看板 (撮影 2016.10. 8)

<冬期間通行止>
 道は無数河川左岸沿いに遡る。段から上流側暫くは、左岸は旧宮村、右岸は旧久々野町となる。旧宮村側には僅かに人家などが見られる。それも分岐から500mで尽き、そこに冬期通行止の看板が立つ。2016年9月に訪れた時は、期間が書かれていなかった。

   
冬期間通行止の看板が立つ (撮影 1997. 4.27)
   

冬期間通行止の看板 (撮影 1997. 4.27)

<以前の冬期間通行止>
 1997年4月に訪れた時は、看板に架かれた期間は
 毎年12月20日から
 翌年 4月30日まで

 
 となっていた。まさか、最近は冬期通行止にならないという訳ではないと思う。やはり、真冬に車が位山峠を通れるようにするのはかなり困難なことだろう。近頃、地球温暖化の影響だろうか、日本の気象状況も随分と変わって来た。通行止の期間の変更もあるのだろう。
 
 以前の写真と見比べても、この冬期間通行止の看板が立つ付近の様子は、あまり変わっていないようだ。看板の脇から分かれる道の先には「光神殿」というのがあることになっている。

   

<道の様子>
 道は無数河川の左岸を、川から少し離れて登って行く。道の両側に林が続き、路面の上空以外にはほとんど視界が広がらない。勾配の道路標識は8.4%とか9%と出ている。 10%近い勾配はそれなりのものだ。しかし、道幅は依然として広く路面状況もいいので、車は快適に登って行く。運転していてもストレスはない。 途中、僅かに1台の乗用車とすれ違っただけだ。さすがに位山峠区間は交通量が少ない。


道の様子 (撮影 2016.10. 8)
勾配は9%とある
   
   
   
あららぎ湖 
   

高山市久々野の看板 (撮影 2016.10. 8)

<高山市久々野へ>
 前方にあららぎ湖を湛える久々野防災ダムの堰堤が見えて来る。道はダム直下で無数河川を右岸へと渡る。無数河川は旧宮村と旧久々野町との境となっているので、橋の手前に「高山市久々野」と看板が立つ。橋の反対側からは「高山市一之宮」とある。
 
 ダム堰堤周辺は園地となっている。これらをあららぎ公園と呼ぶのだろう。堰堤下にも東屋が立っていた。

   

<ダム堰堤周辺>
 ダム堰堤脇まで登ると、その道沿いにも園地が広がる。

   

ダム堰堤脇 (撮影 2016.10. 8)

あららぎ湖の看板 (撮影 2016.10. 8)
   

<飛騨の匠街道>
 ダム湖とは反対側にも広く園地が広がる。トイレやあららぎ村という建屋がある。道路脇には「飛騨の匠街道」と題した道標が立つ。苅安峠方向に「位山官道 刈安峠」、位山峠方向に「位山峠頂上 2.1km」とある。今後、こうした道標が時折見られるようになる。
 
 ただ、気になるのは「刈安峠」の「刈」である。文献などでも「苅」と「刈」の両方が使われていた。些細なことだが、どちらが正しいのだろうか。多くは「苅」と書かれている。

   

湖とは反対側の園地 (撮影 2016.10. 8)

「飛騨の匠街道」の道標 (撮影 2016.10. 8)
   
あららぎ湖 (撮影 2016.10. 8)
   

<あららぎ湖>
 相変わらずの土砂降りの雨で、折角のあららぎ公園も車から出ず仕舞いであった。湖も車の中から眺めた。20年前に訪れた時は、なかなかいい眺めだった(下の写真)。 ここは位山街道の中でも最も位山に近い位置にある。あららぎ湖を越えた先に山が望める。もしかしたら位山が見えているのだろうか。

   
20年前のあららぎ湖 (撮影 1997. 4.27)
奥に見える山は位山か?
   

<あららぎ(余談)>
 湖の名前となっている「あららぎ」とはイチイの木の別称である。イチイは岐阜県の県木となっているとのこと。久々野防災ダムの「貯水池」では味気ないので、ちょっと洒落て「あららぎ湖」と命名したのだろう。
 
 文献によると、位山の北面にイチイの原生林が残るらしい。また、「イチイ」は「一位」にもつながり、位山の名の由来とも関係するようだ。
 
 初めてあららぎ湖を訪れた時は、右の看板がどこかに立っていた。宮村、久々野町、萩原町にまたがるエリアの案内図だ。今は、宮村・久々野町は高山市に、萩原町は下呂市へと分かれてしまった。もう、この看板はないのだろう。


ダム近くにあった案内図 (撮影 1997. 4.27)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

下呂市に入る (撮影 2016.10. 8)

<下呂市へ>
 堰堤脇を過ぎて少し進むと、あららぎ湖に注ぐ小さな支流に架かる橋の袂に「下呂市」とあった。その裏側には「高山市」とある。奇妙なことに、そこが市境だ。位山から船山(1479m)に続く、ほぼ稜線といっていい線上に位置する。

   

<中部北陸自然歩道>
 市境近くに「中部北陸自然歩道コース案内」の看板が立つ。2コース紹介されていて、その一つが「位山街道峠道越えのみち」とある。 このあららぎ湖を起点に位山峠を越え、一部旧道を通り、「位山自然の家」までの6.6kmだ。位山街道の説明も少しある。 途中に伝説が残る「だんご渕」とか「のべん滝」があるそうだ。
 
 あららぎ公園には他にも石碑などいろいろ立っている。歩いて見て回れば、他にもいろいろ情報が得られたかもしれない。位山がそびえる方向も全く眺望がなく、重ね重ね残念な天候であった。


中部北陸自然歩道の看板 (撮影 2016.10. 8)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
   
   
あららぎ湖〜位山峠 
   

大型車通行止の看板 (撮影 2016.10. 8)

<位山峠へ>
 あららぎ湖から先は、「大型車通行止」とか「通行注意 工事中 下呂方面」、雨量による「通行規制」、「大型車通行不能」といった看板が次々と現れる。しかし、差し当たっては快適な2車線路だ。白線の白色も鮮やかで、比較的最近、道の改修が行われたのだろう。

   

道路情報の看板 (撮影 2016.10. 8)
その下に雨量による通行規制の看板

大型車通行不能の看板 (撮影 2016.10. 8)
しかし、いい道が続く
   

<橋>
 道はあららぎ湖上流に注ぐ2本の支流の一つに沿う。無数河川本流とも言える大きな支流だが、もう無数河川とは呼ばないようだ。さりとて、名前は分からない。 道は最初、その右岸に沿うが、暫くして位山5号橋で左岸に移る。また暫くして今度は位山6号橋で右岸に戻る。当然、次は位山7号橋と思っていると、「水芭蕉橋」と看板が出ていた。 尚、あららぎ湖の直ぐ下流にある橋は「宝橋」であった。位山1号から4号の橋がどこに架かっていたかは不明である。峠が近いせいか空は開けているが、水平方向には全く視界が広がらない道が続く。

   

位山5号橋 (撮影 2016.10. 8)
この次は6号橋に続く

水芭蕉橋 (撮影 2016.10. 8)
位山7号橋ではなかった
   

<狭路>
 水芭蕉橋で再び左岸に入った道だが、間もなく川は東の方へと遡って行く。明確な川沿いではなくなると、道は狭苦しい感じである。すると、「先幅員減少」の道路標識に続いて「走行注意」と電光表示されていた(下の写真)。そして直ぐに道幅はほとんど半減されて行く。

   

この先幅員減少 (撮影 2016.10. 8)
「走行注意」の電光表示看板も立つ

この先狭路 (撮影 2016.10. 8)
   

<狭路の様子>
 走っていて何とも気持ちの悪い道だ。峠の狭い切通しがそのまま続いているようで、道の両脇が急斜面に立ち上がっている。対向車が来ても全く避ける余地がない。 しかもブラインドカーブだ。後で分かったことだが、峠の部分は切通しが掘り下げられ、以前より2m程低くなっていた。 その延長で、峠の手前の道も、路面を掘削して少し下げたのではないだろうか。これで峠前後の高低差は小さくなったが、道幅が広くなった訳ではない。 かえって、狭苦しい感じさえ受ける。車道としてはどこか無理があるようで、それが違和感となったようだ。そこが、この位山峠の今に残す険しさなのかもしれない。

   
狭路区間 (撮影 2016.10. 8)
車道としては何となく違和感がある
   
   
   
位山峠 
   

<峠直前>
 狭路区間は200m弱で、峠に近付くに従い両側の壁はかえって低くなって行く。普通の切通しの峠とはちょっと感じが違う。

   
峠直前 (撮影 2016.10. 8)
   

<峠の様子>
 峠のややカジヤ集落側(南側)の道路脇に、東屋がポツンと立つ。その前付近だけ、路面の高さと等しい小さな平坦地になっている。車2台停めれば、もう一杯だろう。

   
位山峠 (撮影 2016.10. 8)
左手に東屋と平坦地
手前はあららぎ湖方面、奥はカジヤ集落方面
   

 丁度雨模様の天気で霧が立ち込め、峠からの遠望は全くない。峠自身も木々に囲まれていて、閉ざされた空間といった感じだ。

   
位山道 (撮影 2016.10. 8)
カジヤ集落方向から見る
   

<以前の峠>
 今回、20年前の写真と見比べて、峠の様子が随分変わったことが分かった。以前は歌碑の前にジムニーを停められるだけのスペースがあったが、その場所は今では路面より2m程高い位置になっている。

   

歌碑の周辺の様子 (撮影 2016.10. 8)

以前の峠(再掲) (撮影 1997. 4.27)
歌碑の前に駐車スペースがあった
右奥に東屋が見える(トイレだったかも)
   

<切通し>
 今はかなりはっきりとした切通しとなっているが、以前は切通しという程ではなかったようだ。

   
峠の切通し部分 (撮影 2016.10. 8)
右端に「位山道と飛騨の匠」の看
   

 「位山道と飛騨の匠」という看板がジムニーの背後に立つが、同じ物が今も残る。以前は路面と同じ高さでその看板が読めたが、今は段差を登らないと見に行けない。 どうやら、こうした看板や歌碑などの位置は昔のまま、路面だけを切り下げたようだ。天候や季節の違いもあるが、最初に訪れた時は、もっと開けて明るい峠だった印象を受ける。 峠からあららぎ湖方面には、遠く山並みも望めていた(下の写真)。

   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 1997. 4.27)
以前は切通しが浅く、遠くに山並みも望めた
右後に「位山道と飛騨の匠」の看板が立つ
   

<峠を散策>
 酷い雨は続いているが、峠とあっては車の外に出ない訳にはいかない。妻を車内に一人残し、傘を差して峠を散策する。しかも、看板や石碑などはほとんど段差の上にある。濡れた草で滑らないように注意して登る。
 
<カジヤ方面の旧道>
 歌碑の脇から一旦東屋の奥へと降り、更に谷へと旧道が下る。下り口に「位山官道」の道標が立ち、中部北陸自然歩道の標柱も並ぶ。標柱には次のようにあった。
 位山街道峠越えのみち
 アララギ湖 1.6km
 位山自然の家 5.0km

   

「位山官道」の道標など (撮影 2016.10. 8)

カジヤ側の谷へと下る旧道 (撮影 2016.10. 8)
   

<石畳>
 濡れた草や落葉であまりはっきりしなかったが、歌碑の裏手から下る坂の部分は、石畳になっているようだった。古い物かどうかは分からないが、位山街道を往来する人々は、ここを登って飛騨高山に入り、ここを下って都などへと向かったのだろう。

   
カジヤ側から見た旧道 (撮影 2016.10. 8)
石畳になっているようだ
   

<遊歩道>
 旧道とは別に、峠から周遊の遊歩道が延びている。「位山峠 光と風の道」と命名されていた。峠の東、船山方向に約3.4km回る。水芭蕉橋を渡った先で標柱が立ち、山道が分かれていたが、そこに繋がっているようだ。

   

遊歩道案内図 (撮影 2016.10. 8)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

遊歩道入口 (撮影 2016.10. 8)
   

<以前の看板>
 以前は違った案内看板が立っていた(下の写真)。今のは「高天原」(たかまがはら)などと表題にあるが、以前は素朴に野鳥が紹介されていた。地図には峠にトイレ(WC)があることになっているが、現在の東屋の位置だろうか。

   

以前の案内図 (撮影 1997. 4.27)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

案内図の地図 (撮影 1997. 4.27)
地図は概ね左が北
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

大秀の歌碑 (撮影 2016.10. 8)

<歌碑>
 田中大秀(たなか おおひで)の歌で、「位山 おのが春しる 鶯や 高きにうつる 初音なるらむ 大秀」とある。大秀は江戸後期の学者とのこと。ただ、歌碑の建立は「昭和57年仲秋」とあり、萩原町長の書によるものだ。峠で一番目立つ存在である。
 
 位山は古くから和歌に詠まれた名山であったが、その麓に都と飛騨高山を結ぶ位山街道が通じていた。その道を多くの人々が往来したからこそ、位山はまた世に知られるようになったと言える。大秀も飛騨高山に生まれ、この峠を越えて世に出て行ったのであろう。

   
危ない所に「位山道と飛騨の匠」の看板が立つ (撮影 2016.10. 8)
道路の反対側に細い石段が登る
   

<「位山道と飛騨の匠」の看板>
 この看板は以前からあり、写真にもしっかり撮って置いた。ところが、峠が掘り下げられて、今は危うい所に立っている。車道に滑り落ちないよう、慎重に近付かなければならない。それでも正面からは写真に撮ることはできなかった。
 
 この萩原町教育委員会による看板の説明分は参考になる。河内路には「こうちじ」とルビが振ってあった。「かわうち」ではなかったようだ。


「位山道と飛騨の匠」の看板 (撮影 2016.10. 8)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

北側の峠 (撮影 2016.10. 8)
「熊出没!! 登らないで」と看板がある

<峠の北側>
 峠の北側、歌碑などとは道路を挟んでハス向かいへと登る細い石段がある。道路沿いに立つ看板がそちらに「位山の石碑 展望台」があるとを示している。この雨の中、もうひと頑張りしなければならない。最近、歳のせいで足元が覚束ない。転倒に注意して登る。
 
 まず目立つのは木造の小屋だ。お堂かと思ったが、中を見ると何もない。登山などの避難小屋のようだ。ただ、奥の腰掛にお酒が供えられていた。
 
 その小屋の前を通って、北へと延びる荒れた山道がある。何の案内もないが、それが位山街道の旧道だろう。県道が水芭蕉橋を渡った先のどこかに抜けていたのだろうが、県道からはそのような道の痕跡は見られなかった。

   

奥に続く道 (撮影 2016.10. 8)
元の位山街道ではないだろうか

小屋 (撮影 2016.10. 8)
お酒が供えられていた
   

<地蔵>
 小屋の近くに草に埋もれるようにして石造りの小さなお堂があった。中にちょこんと地蔵が佇む。顔は既に摩滅し、表情は分からない。前掛けと赤い帽子をかぶっていた。
 
<位山の石碑>
 この位山峠に今もあって、地蔵と共に古い物は「位山」の石碑である。文献や「位山道と飛騨の匠」の看板にも記載され、その出所が明確だ。 享保13年(1728年)、時の代官長谷川庄五郎忠崇(しょうごろうただむね)が飛騨の名所の一つとして「位山」の石碑を位山峠に建立した。 飛騨の国は元禄5年(1692年)の金森氏の移封以後、幕府領となり、替わって代官がこの地を治めている。


地蔵 (撮影 2016.10. 8)
   
白い標柱の後ろに「位山」の石碑が立つ (撮影 2016.10. 8)
その前を登山道が北西方向に登る
   

位山の石碑 (撮影 2016.10. 8)
裏には何も書かれていなかったか
あるいはもう読めない状態だった

 文献では石碑は「位山の頂上」にあるともあったが、位山街道が通る「位山峠の頂上」にある。 但し、峠を名所としたのではなく、やはり古くから和歌にも詠まれる山の方を名所として記念したのだろう。文献では東向きに石碑が立っているとするが、どうであったろうか。 雨模様で日が差さず、影もないので今では分からない。車道開通などの為、建立当初の位置から移動しているとも考えられる。
 
 「位山」の石碑は後の世にそれ自身が史蹟となった。前は萩原町の史蹟で、今は下呂市教育委員会による「下呂市 山の内区 下呂市史蹟」と書かれた標柱が石碑の脇に立つ。
 
<展望台>
 石碑の脇を通って登山道が登る。多分、それを行くと峠から位山へと続く尾根上にある展望台に出るのだろう。しかし、入口に「熊出没!! 登らないで」と看板が立つ。
 
 以前はその展望台から位山が望めたのかと思ったが、地形図を見る限り、位置的には全く見えそうにない。「位山」の石碑があっても、この峠近くで位山が見える場所などなさそうだ。 この街道中、今のあららぎ湖がある付近が最も位山に近いが、湖ができる前では眺望があったかどうか疑問だ。位山街道を行く人々はどこで位山を眺めたのであろうか。

   

<旧峠>
 車道を挟んで歌碑がある南側と、古い地蔵や石碑が佇む北側とは、元は一続きの位山峠であった筈だ。その中央に車道が通じ、近年更に路面が掘り下げられ、峠の様相は変わってしまった。 以前の方が、まだしも旧峠の趣を残していたように思える。古い地蔵や石碑がある北側の方がやや高く、旧峠はそちらに近かったのではないだろうか。今の深い切通しで分断された状態では、ただただ想像するばかりだ。
 
 それでも、車道の拡幅はあまり行われなかったので、以前の石碑や看板の類はほぼ元の位置のままで残った。この峠に2車線路を通すような大規模な改修が行われれば、「位山」の石碑や小さな地蔵もただでは済まない。史蹟を残す意味で、この峠の改修は遠慮がちなのかもしれない。


峠の北側から南側を見る (撮影 2016.10. 8)
この方向に旧峠が通じていたものと思う
   

<標高>
 車道が掘り下げられる前からあった看板にも峠の標高は1087mと書かれていた。これは旧峠の標高だろうか。 当時から路面と「位山」の石碑などが立つ部分では2m程の差があり、石段で登っていた。現在では4m位と思う。 ただ、車道のピークは旧峠よりやや西寄りにあり、最高所の標高では2、3mの差であろうか。
 
 私がなかなか車に戻らないのを心配し、妻が赤い傘を差して石段を登ってやって来た。白い霧が峠を吹き抜けて行った。

   
   
   
カジヤ方面へ下る 
   

<山之口>
 あららぎ湖脇から続いて峠は下呂市にあり、これから下る先も下呂市となる。旧益田郡萩原町の大字山之口(やまのくち)になり、その北端に位山がそびえることから、「位山の口の意」を受けてこの名があるともされる。位山峠への登り口にも当たり、飛騨高山への入口でもあったのだろう。
 
<山之口村>
 江戸期から山之口村があった。途中、明治8年から位山村の一部となったが明治16年に分村してまた山之口村となり、昭和31年まで続いている。 当初は大野郡久々野郷に属していたが、水系は木曽川水系にある。神通川水系にある大野郡宮村との関わり合いが強いことから、同じ大野郡の扱いとされていたようだ。 苅安峠・位山峠と続いて大野郡に属していたことになる。しかし、昭和31年に益田郡萩原町の大字山之口となっている。

   

<カジヤ方面へ>
 峠の北側の山之口地内には集落名が見られないが、南に下った所にカジヤという集落がある。道は一路、その集落内を流れるカジヤ谷(川)上流部へと下る。旧道は峠より最短で川沿いを目指すが、現在の県道は旧道より400〜500m上流へと迂回して行く。
 
 車道は峠に続いて狭い。位山峠はこの南側の方が地形がやや険しい。その為、車道も旧道とは大きく離れて開削されたようだ。道は狭い上にブラインドカーブの屈曲が多い。突然目の前に対向車が現れることとなり、どちらかがバックする羽目に遭う。


対向車 (撮影 2016.10. 8)
   

今回は霧で展望がない (撮影 2016.10. 8)

<牧場>
 今回は霧で何にも見えなかったが、最初に訪れた時はカジヤ谷へと下る途中、対岸(右岸)の山腹に牧場の様な景色が見られた(下の写真)。なかなか壮観であった。 苅安峠から位山峠へと続く峠道上、これといって山々を見渡すような眺望は少ない。苅安峠とあららぎ湖畔は開けているが、峠道らしい景観とはちょっと違う。 牧場を眺める辺りが、最も峠道らしく感じる。ただ、地図ではその場所に何も記されていない。牧場ではなかったのだろうか。

   
上の写真とほぼ同じ場所 (撮影 1997. 4.27)
牧場らしい景色が広がっていた
   
牧場の様子 (撮影 1997. 4.27)
右下に小屋が見える
その近くで県道より牧場方向に道が分かれる
   

<カジヤ谷沿い>
 峠より1km弱で道はカジヤ谷を渡り、その右岸沿いになる。直ぐに右手奥に小屋が一軒建ち、その先で道が右手に分かれる。以前の写真(上の写真)ではその周辺は伐採されて開けていたが、今は木々が多い。牧場の様な敷地の様子も車道からはうかがえない。


カジヤ谷を渡る (撮影 2016.10. 8)
   
右手に小屋 (撮影 2016.10. 8)
この先直ぐに右手に分岐
   

峠方向の旧道入口 (撮影 2016.10. 8)

<旧道>
 川沿いになっても車道の細かい屈曲は収まらず、走り難い道が続く。暫く下ると、左手の川側にベンチなどが置かれ、道標などが立っていた。 「位山官道」と矢印が示し、標柱に「位山峠0.5km」とあった。峠から下っていた旧道はここに出ていたのだ。 この0.5kmに残す旧道区間は、往時の位山街道の様子を色濃く今に留めているのだろう。一方、この峠前後の険しさが、後の河内路(益田街道)の開通に繋がったのではないだろうか。

   

<位山神社>
 旧道が合した地点より数10m下ると右手に小さな社の位山神社が立つ。この神社があることからも、ここに位山街道が通じていたことが確認される。

   

右手に位山神社 (撮影 2016.10. 8)

車道から見る神社の様子 (撮影 2016.10. 8)
   

<由緒など(余談)>
 一部の看板は文字が既に読めないが、平成21年の記載がある神社の由緒などが書かれた看板は、作り直されてまだ新しかった。位山官道の由来については、弥生時代後期にまでも遡り、概略が記されている。
 
 位山神社の前は、今は車道が通じて広々しているが、元は寂しい山道が細々と通じていたのだろう。神社は街道を行く人々の心の拠り所であったようだ。


神社の由緒など (撮影 2016.10. 8)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
   
   
カジヤ谷左岸 
   

<演習林>
 神社の前を過ぎると、道は直ぐにカジヤ谷を渡って左岸に出る。すると正面に林道が分岐していた。入ると直ぐに二手に分かれている。 入口に看板があり、「ここからは岐阜大学演習林です」とある。地図ではもっと下流のカジヤ集落近くに岐阜大学農学部位山演習林の施設があるようだ。演習林はカジヤ谷左岸の広い範囲に渡っているらしい。

   

演習林への道 (撮影 2016.10. 8)

演習林の看板 (撮影 2016.10. 8)
   

道の様子 (撮影 2016.10. 8)

<カジヤ谷左岸沿い>
 狭く屈曲した谷沿いに寂しい道が続く。視界が広がらない上に、霧が立ち込めている。ただ、心持ち道幅が広くなり、時折やって来る対向車とのすれ違いも、それ程苦にならなくなった。川沿いということもあり、急な崖を下るような道ではない。
 
<中部北陸自然歩道の標柱>
 かつての位山街道も、この左岸に入った辺りは今の車道とほぼ同じ所に通じていたのではないだろうか。時折、中部北陸自然歩道の標柱が立っている。

   

中部北陸自然歩道の標柱 (撮影 2016.10. 8)

位山峠から1.5km (撮影 2016.10. 8)
   

<旧道の別れ>
 峠から1.8kmの標柱だと思うが、「位山官道」の道標が峠方向を指す。よく見ると、車道から分かれて逆Y字に山道が川の方へ下る。しかも石畳になっている(下の写真)。それが元の位山街道のようだ。この地点からは車道より低いカジヤ川沿いに下るらしい。


中部北陸自然歩道の標柱 (撮影 2016.10. 8)
峠から約1.8kmの地点
   
旧道が谷へ下る (撮影 2016.10. 8)
   

飛騨の匠街道の道標 (撮影 2016.10. 8)
峠方向に「のべん滝 600m」とあった

<のべん滝>
 その「位山官道」の道標の反対側には、峠方向を向いた「飛騨の匠街道」の道標が立つ。「のべん滝 600m」とあった。 ドラレコ画像を見てみると、その付近にも「飛騨の匠街道」が立つが、「のべん滝」の案内はないようだ。 カジヤ谷本流に架かる滝と思うが、車道からは急な崖を降りなければならないようで、一般には見学は難しいのだろう。他にも「だんご渕」がある筈だが、所在は確認できなかった。

   

<つづら折り>
 旧道を分けた後も、概ね川に沿って耐えて来た車道であったが、あまりの急勾配に耐え切れず、大きなつづら折りで下るようになる。細かな蛇行に大きな蛇行が加わる。 ヘアピンカーブが3回程襲って来る。沿道の急斜面を高い擁壁が支えている。かつての位山街道とはかけ離れた所で、車道は四苦八苦して通じる。


つづら折りの途中 (撮影 2016.10. 8)
   

道の様子 (撮影 2016.10. 8)

ヘアピンカーブ (撮影 2016.10. 8)
この手前に水源かん養保安林の看板が立つ
   

<字カレイ谷>
 2回目のヘアピンカーブに私の好きな水源かん養保安林の看板が立っていた。一般の道路地図などには書かれることがない細かな地名や小さな川の名が載っていることが多い。 所在場所は山之口の「字カレイ谷」となっている。カレイ谷という川もあるのだろうが、それがどこなのかは分からない。まさかカジヤ谷本流の上流部をそう呼ぶのではないとは思うが。 また、カジヤ谷右岸に橋ヶ平、平岩向といった地名が見える。

   

水源かん養保安林の看板が立つ (撮影 2016.10. 8)

水源かん養保安林の看板 (撮影 2016.10. 8)
   

道の様子 (撮影 2016.10. 8)

<林道分岐(余談)>
 3回目のヘアピンカーブで林道が分かれていた(下の写真)。岐阜大学の演習林に関係するようだ。キャンプ禁止などの看板が立つ。

   

左に林道分岐 (撮影 2016.10. 8)

林道入口 (撮影 2016.10. 8)
キャンプ禁止などの看板が立つ
   

<つづら折りの様子>
 つづら折り途中の路面や擁壁の一部などはまだ新しい。工事途中の箇所もあった。今も道路の改修・拡幅が続けられている様子だ。 しかし、完全2車線路とするような本格的なものではなく、少し走り良くなるという程度だ。このつづら折り区間は現在の位山峠で一番の難所と思う。 ちょっとした山岳道路の雰囲気がある。それは今後もそのまま残りそうだ。


道の様子 (撮影 2016.10. 8)
   
   
   
つづら折り以降 
   

<旧道の石畳>
 つづら折り区間を過ぎ、道はやっとカジヤ谷の川沿いに降り立つ。すると、カジヤ谷の川沿いに下って来た旧道が右手より合流して来る。幅の広い石畳がゆったり登って行く。 道の両側には木々が並木の様に立ち並ぶ。車道がつづら折りとなっている区間、旧道はほぼ以前のままの姿で残ったようだ。
 
 この道程約800mは、峠直下の急傾斜地とはやや異なり、カジヤ谷の川に沿う比較的落ち着いた地形にある。 往時の位山街道をしっとり偲ぶ道となっているのだろう。


右手に旧道 (撮影 2016.10. 8)
   
旧道入口 (撮影 2016.10. 8)
石畳が登って行く
   

東屋などが立つ (撮影 2016.10. 8)

<旧道入口付近>
 旧道入口に立つ道標には、位山峠2.5kmとあった。車だと4.5kmはある。昔の峠道は短く開削されている。
 
 旧道入口の両側には車を停めるスペースが設けられ、トイレや東屋、ベンチなどが併設されている。ここに車をデポし、少し石畳を散策してみるのがいいのだろうが、生憎の大雨である。 車内に留まり、少し休憩するだけとした。前に通る細い県道を一台の車が峠へと登って行った。もうカジヤ集落に近いせいか、その後も集落方面から来て峠方向へと向かう車と時々すれ違った。

   
旧道入口の前の様子 (撮影 2016.10. 8)
峠方向に見る
   
旧道入口の様子 (撮影 2016.10. 8)
   

<カジヤ谷右岸へ>
 旧道入口前を過ぎると、直ぐにカジヤ谷川を渡る。「この地区は、空き缶ごみはいらんぜな」と看板が立つ。旧道の石畳を求めて来る観光客の為に東屋などが設けられたのだろうが、雑多な人が立寄るようになると問題も発生する。旧道の面影はきれいなままに残したいものだ。


カジヤ谷川を渡る (撮影 2016.10. 8)
   

道の様子 (撮影 2016.10. 8)

<道の様子>
 カジヤ谷右岸に入り、道は一挙に安定する。道幅も時折2車線路並に広がり、屈曲も少ない。谷間の様子も穏やかだ。

   
この先集落内 (撮影 2016.10. 8)
   

<集落前の分岐>
 いよいよ前方にカジヤ集落の人家が見え始める。その集落に入る直前、左手に道が分かれる。

   
左に分岐 (撮影 2016.10. 8)
右手奥には「愛郷の道」の石碑が立つ
   

「国道41号近道」とある (撮影 2016.10. 8)

<バイパス路>
 分岐方向には「国道41号近道 下呂温泉方面」とあった。カジヤ谷右岸に広がるカジヤ集落をバイパスするように、その道は概ね左岸に通じる。 ちょっと古い地図ではまだそのバイパス路は描かれていない。カジヤ集落内に通じる方が元の位山街道であり、現在も県道98号のようだ。 バイパス路は集落内の狭い道を避け、2km弱の2車線路として開通している。
 
 分岐とは反対側の右手の道路脇に、「愛郷の道」という大きな石碑が立っていたようだ。分岐に気を取られ、見落としてしまった。「道」とあるからは位山街道に関係するのだろう。

   
   
   
カジヤ集落内 
   

<カジヤ集落>
 位山峠を南に下った最初の集落がカジヤ集落である。思ったより大きな集落で、カジヤ谷右岸のやや高い位置に通じる位山街道の両側に、約1kmにも渡って人家が点在する。

   
集落内の様子 (撮影 2016.10. 8)
   

<集落の様子>
 大きな集落が形成されるだけあって、カジヤ谷の谷間は広がった。右岸の斜面を切り開き、畑や水田も多く見られる。

   

集落内の様子 (撮影 2016.10. 8)

集落内の様子 (撮影 2016.10. 8)
   
集落内の様子 (撮影 2016.10. 8)
   

 標高はまだ700mに近く、谷間に湧いた霧は人家のある高さにまで漂っていた。荘厳な雰囲気だ。

   

集落内の様子 (撮影 2016.10. 8)

集落内の様子 (撮影 2016.10. 8)
   

<山之口川沿い>
 カジヤ集落内を過ぎると、道はカジヤ谷の本流・山之口川(やまのくちがわ)沿いへと下って行く。山之口川の谷は更に広く、その右岸の斜面に多の人家が点在するのが見渡せた。

   
山之口川沿いへ下る (撮影 2016.10. 8)
   

<山之口川左岸>
 道が山之口川左岸沿いになると、峠以来久しぶりの本格的なセンターラインがある2車線路となる。直ぐにカジヤ谷川を渡る。橋の名は知喜里橋とあった。橋の袂に川上岳(かおれだけ)登山の案内看板が出ていた。山之口川の水源は位山から川上岳に至る中央分水嶺である。

   
カジヤ谷川を渡る (撮影 2016.10. 8)
「知喜里橋」と看板が立つ
   

<下呂市役所前>
 知喜里橋を渡ると、左手よりカジヤ集落をバイパスして来た道が合し、そのまま左岸沿いを南下し始める。 左手の高台に大きな建物が見えるが、下呂市役所のようで、中部北陸自然歩道の「位山街道峠道越えのみち」コースの起点となる「位山自然の家」があるようだ。近くの舗装脇に中部北陸自然歩道の標柱が立つ。

   
左手上が下呂市役 (撮影 2016.10. 8)
   
   
   
山之口川沿い 
   

ここで山之口川右岸へ渡る (撮影 2016.10. 8)

<山之口川沿い>
 現在の位山街道である県道98号は、残り約7kmを山之口川沿いに下る。最初の内は左岸沿い、途中から右岸に移る。
 
 山之口川が流れる谷は広く、道は快適で、もう峠道の様相はない。河谷平野が続き、沿道の人家はほとんど途切れることがなく、その間に水田も広がる。 この谷に位山街道が通じていたことは確かであろうが、現在の車道に往時の面影を見出すことは難しい。

   

<県道88号に接続>
 道は飛騨川右岸に通じる県道88号に合する。現在の益田街道である国道41号は左岸に通じるので、県道98号は直接には国道に出ていない。しかし、飛騨川沿いに出た所で、カジヤ谷川から山之口川に続く位山峠の道は終点である。

   

この先で県道88号に合する (撮影 2016.10. 8)
ここが峠道の終点

道路看板 (撮影 2016.10. 8)
   

 高山市一之宮町の一之宮交差点から分かれ、苅安峠・位山峠と越える県道98号は約26.5km。一方、飛騨川沿いに通じる国道41号は約28kmだ。僅かだが県道98号の方が短かそうである。勿論、所要時間では国道の方が断然短い。
 
 かつての位山街道とその区間の益田街道を比較しても、多分、位山街道の方が道程は短かったことと思う。それでも峠道より川沿いの道を改修する方が有利だったようだ。 それが現在の幹線路・国道41号へと至る。確かに、位山峠前後からカジヤ谷上流部の県道98号を2車線路とするのは容易でないと想像できる。

   
   
   

 30歳を過ぎてからバイクや車で日本各地を巡り始め、それが「峠の旅」の始まりとなった。それから30年。その間、多くの峠を訪れたが、主立つ峠は最初の10年間で越えている。 このところ岐阜県の峠の掲載が続いたが、もう20年以上前に越えた峠の再訪ばかりで、今回の位山峠も同様だ。バイクや車の旅を始めた当初、とにかく体力任せに走ってばかりいた。 初めて位山峠を越えた時も、その日一日で6、7箇所の峠を訪れている。その代わり、峠に関する記憶はもうほとんどない。そもそも思い出す機会がなかった。
 
 今回、位山峠を取り上げることで、過去の写真と再訪の写真・動画とを見比べ、臥龍桜を見に立寄ったことを思い出したり、位山峠が今とは様子が違ったことが分かったりした。 20年の月日の流れを改めて感じる。こうして過去の旅の記憶を掘り起こすことが楽しいと思う、位山峠であった。

   
   
   

<走行日>
・1997. 4.27 苅安峠→位山峠 ジムニーにて
・2016.10. 8 苅安峠→位山峠 ハスラーにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 21 岐阜県 昭和55年 9月20日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・中部 2輪車 ツーリングマップ 1988年5月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部 1997年3月発行 昭文社>
・ツーリングマップル 4 中部北陸 2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・県別マップル道路地図 21 岐阜県 2001年 1月 発行 昭文社
・その他、一般の道路地図など
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<1997〜2017 Copyright 蓑上誠一>
   
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