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坂本峠
  さかもととうげ  (峠と旅 No.260)
  ダム工事で大変貌した背振山地を越える峠道
  (掲載 2016. 7.16  最終峠走行 2016. 4.13)
   
   
   
坂本峠付近 (撮影 2016. 4.13)
ここは道の最高所であって、坂本峠かどうだか不明
この直ぐ先で永山林道が分岐し、その分岐の角に坂本峠の看板が立つ
所在は佐賀県の神埼郡吉野ヶ里町(旧東背振村)、あるいは三養基郡みやき町(旧中原町)
奥は吉野ヶ里町方面へと下る
手前は福岡県筑紫郡那珂川町方面へと至る
道は国道385号・肥前街道/筑前街道
道の最高所の標高は約540m (地形図の等高線より)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
この坂本峠は複雑だ
福岡・佐賀の県境近くに位置しながら、県境より少し佐賀県側に入った所にある
佐賀県の吉野ヶ里町とみやき町との町境であるような、ないような・・・
峠の立地が地形的に複雑なだけでなく、トンネル開通後は道筋も複雑になってしまった
 
 
 
   

<九州の峠>
 九州地方で面白そうな峠となると、どうしても中央部の九州山地近辺で求めることとなる。大分・宮崎・熊本3県の県境付近の山域である。 例えば県境越えの長大な峠道として、尾平越椎矢峠などはその代表格となるだろうか。県境越え以外でもその近辺に面白い峠は多く、国見峠などは好きな峠の一つだ。最近では祖母山麓の崩野峠を掲載している。
 
 九州のもっと他の場所でもいい峠を見付けたいと思い、地図帳などを眺めていると、九州北西部に位置する背振(せふり)山地が目に留まった。 福岡県と佐賀県の県境にあり、東西方向5、60kmに渡り山脈が盛り上がって、福岡平野と佐賀平野を隔てている。 この峰を越えて幾筋かの峠道が通じるが、この中に面白い峠がないものかと思った。

   

<背振山地>
 背振山地の名はその主峰となる背振山(1,055m)から来ている。背振は「せふり」と読み、稀に「せぶり」とも発音されるようだ。 背振山は「せふりさん」、「せぶりやま」などと呼称される。「背」の代わりに「脊」の文字が用いられることも多い。地形図では「脊振山」、「脊振山地」で掲載されている。 以前は背振山の南麓に脊振村とか東脊振村があった。村名としてはもっぱら「脊」を用いたようだが、そのどちらの村名ももう存在しない。 旧脊振村を含む神埼市(かんざきし)の中に「脊振町」(せふりまち)という住所地として僅かに「脊」が残っている。 こうした村名などの名称を除いて、ここではもっぱら「背」を用いることとする。
 
<肥前国(余談)>
 背振山地は旧国名の筑前(ちくぜん)と肥前(ひぜん)との国境となる。 筑前国にとって背振山地は広い筑紫山地の西に位置する一部の山塊に過ぎないが、肥前国にとっては国の北端に連なる国の守りの要となる山脈だ。 江戸時代には二重鎖国とも呼ばれた肥前である。日本国全体が鎖国状態の中、肥前鍋島(なべしま)藩は他藩との往来が厳しく制限された。 江戸末期、藩主となった名君・鍋島閑叟(かんそう)は極秘裏に近代西洋式の武装化を進める。 そんな中、後に明治政府の参議ともなる江藤新平は命を懸けて脱藩を決行する。 幕末には、薩長土肥と呼称されたように、薩摩・長州・土佐に次いで明治維新に寄与した藩となった。 司馬遼太郎の「峠」を、峠に関した本かと思って間違って読んでから、どうも歴史が好きになってしまった。
 肥前の地は、現在は大きく佐賀県と長崎県とに別れている。明治維新で活躍した佐賀県ではあるが、今はあまり目立たない存在のようである。

   

<背振山地を越える峠>
 日本百名峠(井出孫六編)では三瀬峠(みつせ)が掲載されている。 その文章の中で、佐賀平野を横断する長崎街道から筑前に越える峠道として、西から「三瀬峠越」、「椎葉峠越」、「坂本峠越」の3本があると記している。 ただ、地形図には「椎葉峠」は見付からず、代わりに「椎原峠」の記載がある。その峠には車道は通じていないようだ。
 
 上記の3峠以外にも背振山地の主稜を越える峠はいろいろあるが、国道が通じる峠としては三瀬峠(国道263号)と坂本峠(国道385号)になるようだ。 三瀬峠は佐賀市街と福岡市街を最短で結ぶ峠道となり、背振山地越えの中では最も利用頻度が高いようである。早くから三瀬トンネルが開通していた。
 
 一方、坂本峠は背振山地のやや東寄りに通じ、もう少し東に行けば背振山地の峰も尽きる。 そこには国道3号や九州自動車道、鹿児島本線などの大幹線路が南北に通じ、わざわざ高い山を越える必要はない。 その点で坂本峠の利用価値はやや低くなるようだ。それでも脊振山地越えの峠としては、三瀬峠に次いで重要な峠と言えようか。

   

<所在>
 坂本峠は背振山地の主脈上に位置するようだが、福岡・佐賀の県境ではない。この付近、県境の境界線が複雑に描かれている。 また峠の位置も単純な鞍部になく、その前後の道筋も変則的だ。その為、坂本峠はどことどこの境とはっきり断言できない。それについては今後話を進めながら見て行きたい。
 
 ただ、概ね峠の北側は福岡県の筑紫郡(ちくしぐん)那珂川町(なかがわまち)五ケ山(五ヵ山、ごかやま)となる。 一方、南は佐賀県の神埼郡吉野ヶ里町(よしのがりちょう、旧東脊振村)松隈(まつぐま)と同県三養基郡(みやきぐん)みやき町(みやきちょう、 旧中原町(なかばるちょう))原古賀(はるこが)に関係する。 文献(角川日本地名大辞典)では単に、「坂本峠は東脊振村にある」とだけあるが、どうもそんなに単純ではなさそうだ。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<峠名>
 峠を佐賀県側に下った所に「坂本」という地名が見られる。峠名はここから来ているものと思う。

   

<水系>
 峠の北側は那珂川水系、南は筑後川水系になる。
 峠から北には大野川支流の谷が下り、大野川・那珂川と経て博多湾の博多港に注ぐ。峠の位置は比較的那珂 川本流の上流部に近い。
 一方南へは、坂本川支流の谷が下り、坂本川・田出(たで)川・筑後川を経て有明海に注ぐ。筑後川の水源は遠く大分県のくじゅう連山にも及び、那珂川に比べその水域は随分と広い。流域面積としては九州最大の河川となる。坂本峠は比較的その筑後川の下流域に位置する。

   
   
   
那珂川町より峠へ 
   

<再訪>
 調べてみると、この坂本峠は22年前(1994年5月)に一度越えたことがあった。今回(2016年4月)はその再訪となる。 旧道の一部に狭路区間を残し、国道にしてはそれなりに険しい峠道なのだが、最初に訪れた時の印象は全く残っていない。 写真も撮っておかなかった。当時は尾平越などの長大な峠ばかり走り回っていたので、坂本峠程度の規模の峠道は、未舗装路などの余程の悪路でもない限り、あまり関心が向かなかったようである。

   

<南畑ダム>
 最初の時は佐賀県側から登ったが、今回は福岡県側から峠に向かった。那珂川沿いに通じる国道385号を遡る。途中、南畑ダムが架かっている。 国道脇には湖を眺める適当な駐車場所がない。狭いダム堰堤を渡ると、対岸に南畑ダム管理出張所の建物が立ち、脇に僅かばかりの駐車場が設けてあった。

   
南畑ダム (撮影 2016. 4.13)
南畑ダム管理出張所前から眺める
   

<五ケ山>
 南畑ダム付近から上流の那珂川流域は那珂川町(なかがわまち)の大字五ケ山(ごかやま)の地となる。昭和31年(1956年)までは南畑村の大字であった。 その年に那珂郡三か村と言われた安徳(あんとく)村、岩戸村、南畑村が合併して那珂川町が誕生している。「南畑」の地名は、今ではダムの名として残るくらいだろうか。 那珂川町の中で他に「南畑」の付く名はなかなか見当たらない。
 
 現在の那珂川町は、福岡市街に近い立地から、町の中心地はベッドタウンとして発展している。また、市街地の南の那珂川上流部は景勝地も多く、福岡市圏の奥座敷とも呼ばれ、ハイカーや観光客も多く訪れるそうだ。


ダム湖 (撮影 2016. 4.13)
堰堤付近から上流方向に見る
   

上流側からダム湖を望む (撮影 2016. 4.13)

<ダム湖過ぎ>
 ダム湖を左岸沿いに過ぎた国道385号からは、まず左手に「グリーンピアなかがわ」への道が分かれて行く(左下の写真)。那珂川を渡った右岸にキャンプ場などがあるようだ。ここも福岡市民の行楽地となるのだろうか。
 
<五ケ山5か村>
 次に右手に神社の鳥居が見える(右下の写真)。網取の山神神社のようだ。 五ケ山は「五箇山」とも書き、網取・道十里・桑河内・大野・東小河内の5か村があったことによる名であるらしい。 この内、網取・大野・東河内・道十里に山神社があったそうだ。今の地形図には五ケ山5か村の内、道十里の集落が記載されていない。代わりに倉谷という集落名が那珂川の少し上流部(七曲峠の直下)に見られる。ただ、こうした集落名は名ばかりで、もう住民は居なのではないだろうか。網取の山神社の周辺にも、人家は見られない。

   

左にグリーンピアなかがわへの道が分岐 (撮影 2016. 4.13)

右手に山神神社 (撮影 2016. 4.13)
   

<新道開通>
 手持ちの最新の道路地図は、2003年4月昭文社発行のツーリングマップル(九州 沖縄編)だった。最新と言っても既に13年も前の代物である。 ダム湖畔を過ぎた辺りから、道路の様子は地図とは全く異なってきた。道があまりにも新しく立派である。 右に那珂川沿いに通じる道が分岐するが(下の写真)、「旧道は通り抜けできません!」と工事看板が出ていた。既に新道に乗っていたようだ。

   
右手に旧道が分岐 (撮影 2016. 4.13)
   

<ダム工事>
 その先、道は那珂川の上空を左に右にと大きくカーブを描いて進む。坂本峠にトンネルが通じただろうくらいのことは想像していたが、単なる道の改修だけとは思われない。那珂川の上流側を望むと、何やら巨大なコンクリートの擁壁がそびえていた。
 
 工事看板などからすると、五ケ山ダムという新しいダムを計画しているようだ。 更に進むと巨大なクレーンが立ち並び、ダム建設の真っ最中という状況だった(下の写真)。那珂川本流には、南畑ダム以外にも、その最上流部に背振ダムが既に建設されている。五ケ山ダムはその中間に位置することになる。


ダムらしいコンクリート壁が見える (撮影 2016. 4.13)
   

工事のクレーンが立ち並ぶ (撮影 2016. 4.13)

<那珂川の3つのダム(余談)>
 那珂川は背振山地の主峰・背振山の北東麓一帯を水源とし、上流の山間部は福岡県内有数の多雨地帯である。 また、全般的に背振山地の福岡県側の地形は険しく、そこを流れ下る川も急流となる。その為、那珂川流域はしばしば水害に見舞われた。 その一方、那珂川は麓に福岡という大都市を控え、水道水の重要な水源となっている。
 
 昭和28年6月の水害などを契機に、まず南畑ダムが計画され、昭和42年に竣工(昭和41年完成とも)している。 しかし、その後も昭和48年の集中豪雨、昭和51年の台風などと被害が続いた。昭和52年には那珂川町と福岡市早良(さわら)区とにまたがって背振ダムが完成している。 一方、昭和53年には大渇水により福岡市民に大きな影響が及ぼされた。五ケ山ダムはこうしたことを踏まえ、治水・利水の多目的ダムとして建設されるようだ。 南畑ダムの総貯水容量は600万㎥、背振ダムは450万㎥。それらに比べ五ケ山ダムは約4,000万㎥と桁違いの規模となるようだ。

   

<佐賀大橋>
 国道385号の新道は、将来出現する五ケ山ダム湖左岸を大きく迂回し、その先で那珂川本流を渡る。そこに佐賀大橋というが架かっている。旧国道はここより下流800m程に架かる大野橋で那珂川を左岸へと渡っていた。
 
<那珂川の流路(余談)>
 那珂川上流部の流路はやや変則的だ。大野橋付近から上流側は、西の背振山から続く背振山地の稜線と並行に北西方向に遡って行く。 一方、大野橋から下流はほぼ北へと流れ下る。大野橋の部分で直角に折れ曲がっているのだ。この為、南畑ダムと背振ダムはほぼ同じ緯度に位置する。


佐賀大橋を渡ったところ (撮影 2016. 4.13)
右に県道136号が分かれる
   

佐賀大橋を渡った先の看板 (撮影 2016. 4.13)

<複雑な県境>
 新しい橋の名が「佐賀大橋」というのが奇妙に思われる。この「佐賀」とは佐賀県のことだろう。それにしては、まだ背振山地の稜線を越えていないのである。 これが坂本峠にまつわる状況を複雑にしている理由の一つだ。
 
 この付近で福岡・佐賀の県境は背振山地の稜線に沿っていない。 西の背振山を少し過ぎた辺りから、県境は稜線を外れて背振ダムの少し下流で那珂川沿いに下り、そのまま那珂川に沿って大野橋に至り、 そこからは支流の大野川沿いに坂本峠の少し手前で稜線上に戻り、再び背振山地の頂上を東へと進んで行く。
 
 佐賀大橋が架かる付近は、那珂川が県境になり、左岸は福岡県、右岸は佐賀県となっているだ。 確かに、橋を渡った先で「佐賀県」と看板が出ていた(左の写真)。県境が何故このような事態になっているのかは謎である。

   

<県道136号(余談)>
 佐賀大橋を右岸に渡った所から那珂川上流方向に県道136号が分岐していた。 この道は早良中原停車場線(入部中原線とも)と呼び、佐賀県みやき町の長崎本線中原(なかばる)駅付近から、 七曲峠(坂本峠の北東約1kmにある)で背振山地を越え、五ケ山の倉谷集落を経て大野橋付近に降り立ち、そこからは那珂川沿いに遡って板屋峠で福岡市に入り、 早良(さわら)区入部に至る。ただ、七曲峠から大野橋付近までの区間は以前から通れなかったようだ。 古いツーリングマップ(九州沖縄 2輪車 1988年7月発行 昭文社)では「通行不能」と書かれていた。
 
 県道136号の旧道は大野橋方面から佐賀大橋の下をくぐって来ている。今回の五ケ山ダム建設に伴い、大野橋付近は将来ダム湖に沈むものと思われる。七曲峠の福岡県側の峠道は、ますます危機に瀕することとなる。


県道136号分岐 (撮影 2016. 4.13)
   

国道標識には「吉野ヶ里町松隈」とある (撮影 2016. 4.13)

<吉野ヶ里町>
 佐賀県に入って国道標識には「吉野ヶ里町松隈」と出て来た。吉野ヶ里町(よしのがりちょう)という町名は新しい。 東脊振村(ひがしせふりそん)と三田川町が合併してできたようだ。「吉野ヶ里」と言えば神埼市との境付近に位置する吉野ヶ里遺跡が有名である。 なかなか大規模な施設として整備されている。その遺跡にあやかって付けられた町名だろうか。
 
<東脊振村>
 吉野ヶ里町の北部が旧東脊振村となる。 明治22年(1889年)に石動(いしなり)村、大曲(おおまがり)村、松隈(まつぐま)村、三津(みつ)村が合併して誕生した。 背振山の東麓に位置することから名付けられた村名らしい。

   

<松隈>
 現在、大字松隈(まつぐま)は吉野ヶ里町の北部一帯の広い範囲を占める。背振山地の稜線を越えて北斜面の一部までを佐賀県にしているのもその松隈である。 江戸期から明治22年までは松隈村であった。更に古くは松隈村、坂本村、永山村、小川内(おがわち)村(小河内村とも)の4か村に分かれていたとのこと。 多分、大字松隈の内、背振山地を越えた北斜面一帯が小川内村だったのではないだろうか。
 
<東小河内>
 地形図には佐賀大橋の少し上流右岸に「小川内」という集落名が見られる。面白いことに、その対岸の福岡県五ケ山には「東小河内」という集落があったようだ。県は異なっても、那珂川を挟んだお隣同士の集落である。
 
<小川内(余談)>
 松隈最奥の地となる小川内であるが、かつては小・中学校もある集落だったそうだ。 明治8年、東光寺を仮校舎として小川内小学校設立、同25年尋常中副小学校小川内分校が分離独立して小川内尋常小学校となる。 昭和22年には小川内中学校が開校されるが、早くも同35年には閉校、その後小学校もなくなったようだ。こうして小川内に住む人も居なくなっていった。 山祇神社境内に残る杉の木は「小川内の杉」と呼ばれて佐賀県の天然記念物に指定されているそうだ。何でも、五ケ山ダム建設に伴い、移植されて今後も保存されるらしい。小川内の形見となろうか。

   

<大野川沿い>
 国道385号の新道は、佐賀大橋を渡ると那珂川沿いを離れ、支流の大野川沿いへと近付いて行く。 どちらかというと、道は絶えず南方の背振山地の稜線へと向いているが、那珂川の方が西方へと離れて行くのだ。坂本峠は概ね大野川の上流部に位置する。
 
<東脊振トンネル>
 さっきから、時々「東脊振トンネル有料道路」と看板に出て来る。坂本峠に代わって新しく背振山地を越えているのは、東脊振トンネルと呼ぶらしい。元の峠の「坂本」の名は引き継がれなかったようだ。「東脊振」には「脊」の文字が使われている。
 
<有料道路>
 トンネルの前後、約4Kmに渡って「東脊振トンネル有料道路」となっている。料金表には普通車310円と書かれていた。 軽自動車は別で250円とお得感があるが、全般的にやや高い気がしないでもない。

   

東脊振トンネルの少し手前 (撮影 2016. 4.13)
左手に料金表の看板が立つ
トンネルのこちら側には料金所はなかった

通行料金表 (撮影 2016. 4.13)
   
   
   
旧道へ 
   

<旧道分岐>
 東脊振トンネルの300m程手前左に、旧道へと戻る道が分岐する。道路看板にはやっと「坂本峠」と出て来た(下の写真)。 旧道もまだ国道385号と表記されている。東脊振トンネルが有料なので、無料の旧道となる坂本峠の道は、今後もまだ活かされていくようである。 確か三瀬峠も状況は同じだ。三瀬トンネルが有料の代わりに、三瀬峠を越える旧道はまだ通ることができる。車の通行も時折見られた。


東脊振トンネル手前 (撮影 2016. 4.13)
左に旧道へと続く道が分岐
   

左に旧道方向への分岐 (撮影 2016. 4.13)
看板に「坂本峠」と出て来た

<霊仙寺>
 道路看板以外に、旧道方向に「霊仙寺」(りょうせんじ)と小さいながらも案内看板が立つ(下の写真)。坂本峠はその近くに霊仙寺があったことで知られる。 古くから天台密教系の僧坊が多く立ち並び、坂本峠はその修行僧などの往来で賑わったそうだ。また、その地は日本におけるお茶の発祥地としても知られる。 現在はその跡が残るらしい。ただ、霊仙寺跡へは必ずしも坂本峠を越える必要はない。一旦、東脊振トンネルを坂本側に抜け、坂本方面から再び旧道に入った方が道が良く、アクセスは容易に思われる。

   

<大野川を渡る>
 東脊振トンネルを直前にして旧道方向に曲がった道は、直ぐに大野川を大野大橋(おおのおおはし)で渡る。 橋上から大野川を下流方向に望むと、ダム堰堤が望めた(下の写真)。将来の湖底となる広い谷間には大型の工事車両が動き回っている。ダム湖が完成した暁には、この光景も一変することだろう。
 
<県境>
 大野川は那珂川に続いて福岡・佐賀の県境になっている。大野大橋を渡るとそこは再び福岡県である。ややこしい。


前方に東脊振トンネル (撮影 2016. 4.13)
左が旧道へ
右手の緑の看板には「霊仙寺」とある
   
向こうに建設中のダム堰堤が見える (撮影 2016. 4.13)
この場所は将来ダムの湖底に沈むことになるのだろう
   

大野川を渡った先 (撮影 2016. 4.13)
直進は通行止、坂本峠は右へ

<旧道に接続>
 大野大橋を渡った先、右に坂本峠への旧道が分岐する。新しく架けられた大野大橋は新道と旧道を繋ぐ役目をしている。
 
 橋の先を直進方向は、大野川右岸沿いに大野橋方面へと下って行く。これが元の国道の道筋である。 ただ、「全面通行止」、「この先行き止まり、通り抜け出来ません」と工事看板にあった。 大野川と那珂川の合流点付近は、五ケ山ダム湖の只中であり、湖の奥底深く沈む運命だ。現在この旧道区間は工事車両の通行に使っている様子だった。

   

<大野(余談)>
 もう一般車は通行できなくなった大野川沿いの旧道部分には、右岸にも左岸にも「大野」という集落名が見えられる。右岸は福岡県で、五ケ山5か村の内の大野であろう。その少し下流に倉谷という集落名も見える。左岸は佐賀県で、松隈の
小川内集落の一部ではないかと思う。しかし、そうした県境・国境などとは関係なく、大野川を挟んで隣合う一つの大野集落、大野村と考えた方がよさそうだ。
 
 既に無住の地となって久しいと思われるが、この先湖底に沈めば、もう集落の痕跡さえも目にすることはない。 かつての大野集落に通じる旧国道、古くは坂本峠を越える肥前街道も、通ることができなくなった。初めて坂本峠を福岡県側に下って来た時は、何の変哲もない国道としか思われなかったが、こうして走れなくな ると残念な気がする。

   

分岐に立つ看板類 (撮影 2016. 4.13)
直進は大野川沿いに那珂川本流沿いへと至る旧国道
坂本峠はここを右折

分岐に立つ看板類 (撮影 2016. 4.13)
坂本峠は「この先積載2t以上通行不可」と看板にある
   

<坂本峠への旧道に>
 大野大橋東詰めを南に向かえば、やっと坂本峠へと通じる旧国道である。峠までに残された旧峠道区間は僅か2kmに満たない。 道路情報には「スリップ注意」とある。また「この先積載2t以上通行不可」ともある。正確には、ここより1.5km程先にある県境から佐賀県側が狭く、積載2t以上は通行できない。


坂本峠への旧道 (撮影 2016. 4.13)
   

幅員減少の看板 (撮影 2016. 4.13)
しかし、それ程狭くはない

<道の様子>
 旧道と言っても、福岡県側はまだ2車線程度の道幅が維持されている。一部に幅員減少の看板が立つ所もあるが、それ程狭い感じはない。それに旧道となった身の上なので、通行量がグンと少なく、走り易いくらいだ。

   

<県境>
 以前からの国道標識はそのまま残っている。「那珂川町 五ケ山」と地名が記されている。ここは福岡県である。 新しい国道は佐賀大橋で佐賀県に入ると、そのままトンネルで背振山地を越えているが、元の国道の道筋は大野橋から上流部は大野川の右岸に通じていたので、 一度も佐賀県側に入らずここまで登って来ていた。
 
 旧道を少し進むと、道は大野川沿いを離れる。ここも、川が離れて行くというより、川筋が西へと変わるのだ。道筋は相変わらず南の峠方向を指している。道は峠直下に流れ下る大野川支流の谷の右岸沿いに移る。福岡・佐賀の県境もその支流沿いに一緒に付いて来ている。


国道標識 (撮影 2016. 4.13)
   

この先つづら折り (撮影 2016. 4.13)

道の様子 (撮影 2016. 4.13)
   

道の様子 (撮影 2016. 4.13)

<道の様子>
 旧道とは言え、少し前までは現役バリバリの国道である。比較的走り易い道が続く。途中一箇所つづら折りがあるが、そこも何と言うことはない。 狭く浅い谷筋を登る。遠望は全くないが、空は開け、暗い感じはない。右手の細い沢のような川筋は県境となり、直ぐ目の前の対岸は佐賀県となる筈だ。
 
 暫く行くと、「この先幅員減少」の看板が立ち、T字路があることを示す道路標識も立っていた(下の写真)。

   

この先幅員減少の看板が立つ (撮影 2016. 4.13)

この先にT字路があるようだ (撮影 2016. 4.13)
   
   
   
県境へ 
   

<T字路>
 センターラインもある広い2車線路が、まるで行き止まるような形でT字路に突き当たる。左右に道は続くが、どちらも狭い。ちょっと異様な雰囲気の交差点である。正面にはいろいろと看板が立ち並ぶ。

   
県境手前のT字路 (撮影 2016. 4.13)
左は七曲峠へ、右が県境を過ぎて坂本峠へ
   

<背振山地の稜線>
 地形図を見ると、このT字路はほぼ背振山地の稜線上に位置することになる。大野川支流沿いに登って来た福岡・佐賀の県境も、この地点より東方向へは素直に稜線を伝って行く。ここは標高で約530mの鞍部でもある。しかし、まだ坂本峠ではない。

   
T字路に立つ看板 (撮影 2016. 4.13)
   

<坂本峠への道>
 T字路を右に進む方向に国道看板や、「神埼方面」と看板がある。「神埼」とは旧神崎町、現神埼市の市街地近辺を意味しているのだろう。この国道の続きに坂本峠がある。
 
 T字路から曲がって直ぐ、道がくびれるように異常に狭くなっている(下の写真)。両脇にポールも並び、故意に狭くしていることが分かる。 付近には積載2t以上通行禁止の道路標識などが並ぶ。ある意味、大型車を通させない為のゲートの役割を持たせているようである。 そうした事情は理解できるが、道としては何とも異様な感じがする。


国道方向を示す看板 (撮影 2016. 4.13)
   
T字路より坂本峠方向を見る (撮影 2016. 4.13)
道が絞られている所に県境看板が立つ
   

<県境看板>
 道が絞られた箇所には県境看板が立つ。坂本峠方向に見ると、「佐賀県吉野ヶ里町」とある。その反対方向には単に「福岡県」とある。

   
ここが県境 (撮影 2016. 4.13)
坂本峠方向に見る
   

七曲峠への道 (撮影 2016. 4.13)
右手の緑の林道看板に「丸山林道」とある

<丸山林道>
 一方、T字路を左に行くのは七曲峠(ななまがりとうげ)へと至る林道だ。小さいながら「丸山林道」と書かれた緑色の看板が立つ。 稜線より佐賀県側(南側)の山腹を道程で約1.5kmほど横断し、 峠近くで七曲峠を越えている県道136号に接続する。丸山林道方向に「山水カントリークラブ」と看板があったが、それは県道136号沿いに位置する。 みやき町(旧中原町)の大字簑原(みのばる)・字古田原にあるようだ。昔の地図や文献では中原CC(中原ゴルフ場)と出ていた。 那珂川町側からそのゴルフ場に行くには、県道136号の七曲峠が越えられないので、この国道385号の旧道を来ることとなる。

   

<みやき町>
 林道入口の脇に立つ「不法投棄監視」の看板の下の方には「みやき町」とあった。丸山林道はこの県境を越えて佐賀県みやき町へと入って行く。 近くに立つ通行注意の看板に「町道丸山線」ともあったが、この「町」とはみやき町を指すことになる。元の三養基(みやき)郡の中原町(なかばるちょう)である。 三養基郡の「三養基」を平仮名に直して新しい町名としたようだ。
 
<九州自然歩道>
 背振山地の稜線上には九州自然歩道が通じている。丸山林道入口の右脇に道標が立つ。「七曲峠 1.0KM」、「坂本峠 0.3KM」とある。 これは稜線沿いの山道を行く距離だ。林道の左手(東方向)には七曲峠へと至る山道の階段が稜線の上へと登っている(下の写真)。
 
 ここには何の看板もないが県境の筈である。一種の峠に近い。ただ、道は佐賀県側に少し下るが、また七曲峠方面へと登って行ってしまう。


九州自然歩道の道標 (撮影 2016. 4.13)
   

左手に稜線を七曲峠へ向かう山道が登る (撮影 2016. 4.13)

<七曲峠(余談)>
 地形図にはこの峠名は見られないが、ツーリングマップルなどにはしっかり「七曲峠」と記載されている。 福岡県の那珂川町と佐賀県のみやき町(旧中原町)との県境にあり、素直に背振山地の稜線上の鞍部に位置する。 標高は、文献では450m、ツーリングマップルでは490mと見える。現在の地形図では490mと500mの等高線の間にあり、ほぼ490mが正しそうだ。 佐賀県側からは筑後川の支流・寒水川(しょうず川)沿いに登り、峠から福岡県側は大野川の支流沿いに下り、五ケ山の倉谷集落を経て、大野川が那珂川に注ぐ付近に降り立つ。
 
 峠は古代からの交通の要地であったそうだ。現在は県道136号が通じる。 ただ、五ケ山ダム建設以前から峠の福岡県側は通行不能となることが多かったようだ。地図を見ても、その区間で道の屈曲が激しい。これが「七曲」という峠名の由来ではないかと想像する。

   

 今回の五ケ山ダムの出現で、七曲峠が下る先は水没してしまう運命だ。迂回路か何か計画されているのであろうか。背振山地を越える峠の一つとして、七曲峠も是非訪れてみたかったが、この旅では丸山林道には入り込む時間の余裕はなかった。もう訪れる機会はないだろう。

 
七曲峠へと続く丸山林道 (撮影 2016. 4.13)
背振山地の稜線を越え、この先は佐賀県側に少し下る
ちょっとした峠のような雰囲気がある
   
   
   
県境の佐賀県側 
   
佐賀県側より県境を見る (撮影 2016. 4.13)
道は下っている
   

<県境の佐賀県側>
 佐賀県側からは県境に向かって道は下っている。県境が道の最高所になっていないのだ。峠とは道が上って下る最高地点ということからすれば、やはりここは峠ではありえない。

   
狭い県境部分 (撮影 2016. 4.13)
左手に県境を示す「福岡県」の看板
   

<県境の様子>
 佐賀県側から県境に向かって、「幅員減少区間は終点です。 東部土木事務所」と看板が立つ。また佐賀県方向に「この先 風倒木・枯木の落下に注意して下さい」ともある。ここから先の佐賀県側の道が険しいことを示唆している。


県境の先を見る (撮影 2016. 4.13)
道はまだ登る
右手側が僅かに谷になる
   
   
   
県境から峠までの区間 
   

吉野ヶ里町の看板 (撮影 2016. 4.13)
この裏には「みやき町」とあった

<県境から先>
 県境から坂本峠まで約300m。この間、背振山地の稜線は南北に走り、道はほぼその稜線上に通じる。 この区間の峰は県境ではなく、佐賀県に属し、西側は吉野ヶ里町(旧東脊振村)、東側はみやき町(旧中原町)となる筈だ。
 
 稜線上と言っても、道は僅かにどちらか側に偏る。県境を過ぎても、まだ道の右手に谷があるので、正確にはまだ背振山地を越えていないのだろう。県境の看板にあったように、吉野ヶ里町側に居るものと思う。

   

<みやき町の看板>
 直ぐにまた「吉野ヶ里町」と書かれた看板が立つ(上の写真)。ただ、後になってその看板の裏側が気になった。何と書いてあったのだろうか。
 
 今回の旅では初の試みをしていた。八スラーには後部の荷室にもアクセサリーソケット(シガーソケット)が装備されている。 それを使って背面の窓にもドラレコ(ドライブレコーダー)を取り付けたのだ。 それに写っていないかと調べてみると、画像は悪いが、どうにか「みやき町」と書かれていたのが分かった(右の写真)。この看板の配置だと、県境付近が「みやき町」となってしまうが、谷はまだ道の西側にある。やや不可解な看板であった。


「みやき町」の看板 (撮影 2016. 4.13)
県境方向に見る
ドラレコ画像より
   

道の最高所を過ぎる (撮影 2016. 4.13)
谷は道の左手に移る

<道の最高所>
 県境から道程で200m程を緩やかに登って来た所で、ちょっとした切通しを越える。その後は道は下りだし、谷も道の左手(東側)に移る。 その道の最高所で国道385号は正に背振山地を越えたのではないだろうか。大きく那珂川水系の谷から筑後川水系の谷へと移動したものと思う。
 
 しかし、その道の最高所には何の看板 もない。背振山地の稜線を越えたとすれば、そここそが吉野ヶ里町とみやき町との町境になると思うが、それを示唆する物が何もない。 そもそも坂本峠は一体どこなのだろうかという疑問が湧く。

   

<林道分岐>
 道の最高所を南に下ると、直ぐに林道分岐の看板が立ち、右上に永山林道第一支線が分岐する。分岐付近は少し広くなっている。

   
林道分岐付近 (撮影 2016. 4.13)
吉野ヶ里町方向に見る
手前が道の最高所
   

<峠>
 峠は道が上って下る最高地点ということになっている。別に県境や市町村境である必要はない。 しかし、峠は高い山脈などを越えることが多く、道の最高所は何らかの分水界になることがほとんどだ。 坂本峠の場合、広く見れば背振山地を越える峠道であり、坂本峠付近は那賀川水系と筑後川水系の境、細かく見れば大野川水域と寒水川(しょうず川)あるいは坂本川の水域との境となる。
 
 国道385号旧道の最高所は、付近の状況や地形図を見ても、背振山地主脈の分水界に位置していると思われる。そうした意味でここは峠に間違いない。それでも地形図やその他の道路地図では、坂本峠は別の場所(後述)に記されているのだ。


道の最高所を振り返る (撮影 2016. 4.13)
しかし、ここは坂本峠ではないらしい
   

道の最高所 (撮影 2016. 4.13)
北の那珂川町方向に見る

道の最高所より北側を望む (撮影 2016. 4.13)
道はややくねりながら県境へと下っている
   
   
   
永山林道分岐付近 
   

<林道分岐付近の様子>
 単なる林道の分岐にしては、いろいろと看板が立ち並び賑やかな場所となっている。

   
ここが坂本峠? (撮影 2016. 4.13)
吉野ヶ里町方向に見る
   

<坂本峠の看板>
 中でも、分岐する林道との間に、「坂本峠」と書かれた看板が立つ(下の写真)。しかし、少なくとも国道385号の最高所からは外れている。 その為、この峠を示す看板は、便宜的にこの地点に立てられただけの物で、道の最高所を含めたこの付近一帯が坂本峠だとしているのではないかという気がした。 確かに、狭い道の最高所よりは、ここは広くて賑やかな場所だ。

   
分岐の中央に坂本峠の看板 (撮影 2016. 4.13)
   

積載2t以上貨物通行禁止の看板 (撮影 2016. 4.13)
その背後に九州自然歩道の道標

<積2t以上貨物通行禁止の標識>
 道路脇に積載2t以上貨物車通行禁止の道路標識が立ち、そこにも「坂本峠」とある。しかし、これと同じ物がここ以外にも立っているので、この看板はここが坂本峠であることを示しているとは限らない。

   

<九州自然歩道>
 県境から続く九州自然歩道は、その稜線の区間は車道と一緒になっているものと思う。県境まで0.3km、更に七曲峠まで1.0km、合計1.3kmとなる。
 
 九州自然歩道はここより車道を離れ、蛤岳へと登って行く。道標では4.1kmとなっている。


九州自然歩道の道標 (撮影 2016. 4.13)
   

崩壊土砂流出危険地区の看板 (撮影 2016. 4.13)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<崩壊土砂流出危険地区の看板>
 国道脇のやや奥まった所に「崩壊土砂流出危険地区」と書かれた看板が立つ。 そこに描かれた地図に何か参考になることが書かれていないかと覗いてみたが、「現在地」以外に文字がない、あっさりしものだった。ここから蛤岳に至る稜線の南斜面一帯が危険地区に指定されているようだ。

   

<分岐の所在>
 ところで、この林道分岐点の所在はどこであろうか。「不法投棄監視カメラ作動中」の看板には「吉野ヶ里町」とある。また、「坂本峠」と書かれた看板の支柱などには、元の東背振村ともある。
 
 ただ、地形図などを見る限り、この場所はみやき町、旧中原町(なかばるちょう)としか思えない。 みやき町と吉野ヶ里町の境は、寒水川と坂本川との分水界となる尾根になるようだ。この永山林道分岐点はまだ寒水川水域にあると見える。 よってみやき町だと思うのだ。看板などに吉野ヶ里町とあるのは、この先国道は吉野ヶ里町に下って行くので、便宜上吉野ヶ里町の管轄になっているものかと思ったりする。 あるいは、町境はそれ程厳密に尾根の真上に通っているものではないのかもしれないが。

   

分岐より国道方向を見る (撮影 2016. 4.13)

分岐より林道方向を見る (撮影 2016. 4.13)
この時は通行止
   

<永山林道>
 国道から分岐する林道には、「丸山林道 第一支線」と林道看板が立つ。この時はロープが張られ、通行止の看板が立っていた。奥に緑色の林道交通安全の旗が立つ。

   

<蛤岳への九州自然歩道>
 林道に入って直ぐに蛤岳へと続く九州自然歩道の階段が稜線上へと登って行く。一方、林道方向には「霊仙寺跡」とか「さざんか園」といった案内がある。


蛤岳への九州自然歩道入口 (撮影 2016. 4.13)
霊仙寺跡へは林道を行くようだ(1.2km)
   

九州自然歩道の案内看板 (撮影 2016. 4.13)

<九州自然歩道の案内看板>
 九州自然歩道入口の右脇に案内看板が立つ(左の写真)。地図は大雑把であまり詳しいことは分からない(左下の写真)。ただ、現在地を「坂本峠」としている。
 
 「七曲峠へ」の説明で「県道を少し行くと三差路がある」とあるが(右下の写真)、これは「国道」の間違いだろう。 文中に「みやき町」とあるのでこの看板はそれ程古い物ではない。手持ちのツーリングマップ(1988年7月発行)でも既に坂本峠には国道385号が通じている。 地図の方をよく見ると、東背振トンネルのルートも記されている。

   

案内看板の地図 (撮影 2016. 4.13)
東背振トンネルのルートも記されている
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

案内看板の説明文 (撮影 2016. 4.13)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<小川内部落>
 同じく説明文の中で、三差路を「左へ行くと小川内部落」ともある。 小川内(おがわち)は大 字松隈の中で最も北、というか背振山地の主脈を北側に下った地にあった集落だった。 坂本峠は大きく背振山地を南北に縦断する峠道ではあるが、一方、同じ松隈内の坂本などの集落との間を行き来する地元民の生活路でもあったのだろう。

   

林道分岐点を那珂川町方向に見る (撮影 2016. 4.13)

この直ぐ先が道の最高所 (撮影 2016. 4.13)
   

<峠を代表する場所>
 この林道分岐点は、峠としてはその条件を満たしていそうにないが、道幅が広く空も開けていて少し立止るには手頃な場所だ。看板もいろいろ立ち、その中に「坂本峠」ともある。細かいことは別として、一応ここは坂本峠を代表する場所と言っていいだろう。
 
 この場所には10分弱留まっていたが、その間に那珂川町方面から吉野ヶ里町方面へと、軽自動車が2台通り過ぎて行った。一台は業務用の車だったようだ。 峠を挟むこの旧道区間に人家やその他の建物はない。やはり東脊振トンネル有料道路の250円を節約するのが目的だったのだろう。 この場所には何の関心もなさそうに、さっさと通り過ぎて行った。
 
<標高>
 文献(角川日本地名大辞典)では坂本峠の標高を530mとしている。またツーリングマップルなどでは540mと書かれている。現在の地形図を見ると、
 県境:520m〜530m
 道の最高所:540〜550m
 永山林道分岐点:540〜550m
と読める。道の最高所と永山林道分岐点とは、現場では高低差がはっきり分かるが、地形図の等高線では違いはない。

   
   
   
吉野ヶ里町方面へ下る 
   

<林道分岐点から先へ>
 永山林道の分岐点を後に、吉野ヶ里町方面へと進む。道は右カーブしながら尚も緩やかに下っている。直ぐにまた「吉野ヶ里町」の看板が立っている。


再び吉野ヶ里町の看板 (撮影 2016. 4.13)
   

国道標識 (撮影 2016. 4.13)

<国道標識>
 続いて国道標識がある。こちらにも「吉野ヶ里町 松隈」と所在地が出ている。それでもここはまだみやき町ではないかと思うのだが・・・。

   

<石動林道分岐>
 道の最高所以来、道の左手は谷側、右手が概ね背振山地の稜線側という状態が続く。道の方向はやや西を向き始める。 永山林道分岐から100mも行かない所で、左に寂れた道が分岐する。ゲートで通行止だ。入口に立つ林道看板には「石動林道」とあった。 「石動」は「いしなり」と読むものと思う。名の元は、旧東脊振村が明治22年に合併する前にあった4か村の内の一つ、石動村に発するようだ。
 
<みやき町との町境>
 その時は何の考えもなく通り過ぎてしまった石動林道分岐だが、その林道はほぼみやき町と吉野ヶ里町との境を麓方向へと向かう。 すなわち寒水川と坂本川との分水界となる尾根上に通じる道なのだ。 下る一方の国道では分からなかったが、石動林道分岐の少し前で国道はみやき町から吉野ヶ里町へと移動していたことになる。


左に林道分岐 (撮影 2016. 4.13)
   

石動林道入口 (撮影 2016. 4.13)
ゲートが閉まっている

<町境が坂本峠?>
 地形図や一部の地図では、「坂本峠」と書かれている位置が、微妙ながらも石動林道付近になっているように見えなくはない。道の最高所ではないものの、みやき町と吉野ヶ里町との町境こそが、坂本峠なのではないかと思ったりするのだ。
 
<複雑な地形(余談)>
 そもそも、坂本峠の位置がはっきりしないのは、この稜線付近の地形がやや複雑だからだ。 本来、概ね東西に走る背振山地の稜線が、国道が県境を過ぎる地点(丸山林道の分岐点)から永山林道の分岐点付近まで、完全に南北方向に通じている。 また、永山林道分岐点の東約300mに525mのピークが地図上に見える。このピークを通る尾根が寒水川と坂本川との分水界なら分かり易かったのだが、この支尾根は全て寒水川の水域に入っているようだ。

   

<分水界の峠>
 よって、国道は一旦寒水川水域に入り、町境を過ぎてやっと坂本川水域に入っていたものと思う。峠は概して分水界に位置するものだということに固執するなら、坂本峠はあの石動林道の分岐点近くに位置していたこととなる。
 
<原古賀(余談)>
 坂本峠の峠道は、僅かながらみやき町内を通過しているが、みやき町市街へとは至らず、みやき町とはほとんど無関係である。 それでも一応、この地がどこなのかを調べてみた。
 
 現みやき町の北部一帯は旧中原町(なかばるちょう)である。 その中央を七曲峠を源とする寒水川が南流し、右岸は大字原古賀(はるこが)、左岸は大字簑原(みのばる)に属すようだ。 坂本峠が関わるのは原古賀の方で、かつては「はるのこが」とも呼ばれたそうだ。ただ、原古賀も簑原も、背振山地の稜線近くの山間部には人家などはない。 寒水川中流域以降の扇状地平野に集落が集まっている。こうした位置関係からも、坂本峠とはほとんど関係を持たない。 中原町から直接背振山地を越えようとすれば、寒水川沿いに県道136号を遡って七曲峠の方を越えることになる。 ただ、七曲峠の先は通行止なので、丸山林道経由で坂本峠の先で国道385号に入ることになり、その意味では関係するが。

   

<坂本川水域>
 石動(いしなり)林道分岐を過ぎれば、道は間違いなく坂本川の水域に入っている。その左岸の山腹を川沿いへと下って行く。落石注意の道路標識や「この先 風倒木・枯木の落下に注意して下さい」の看板が立つ。


落石注意の道路標識 (撮影 2016. 4.13)
   

道の様子 (撮影 2016. 4.13)

<道の様子>
 背振山地は概ね、福岡県側の地形は険しく、佐賀県側は穏やかな傾向を示すが、この坂本峠の道については全くその逆となる。 福岡県側は県境までほぼ2車線路が到達していたが、佐賀県に入ってからは国道とは名ばかりの狭くカーブの多い道が下る。 直ぐ東隣の七曲峠では、寒水川沿いに県道136号がほぼ直線的に峠まで至るのと対照的だ。 以前のツーリングマップにも県道136号を指して「国道より走りやすい1.5車線路」とある。一方、七曲峠の福岡県側は、通行不能ともなる険しい道だ。

   

<道の様子>
 道の右手は背振山地の稜線へ山が登り、左手は坂本川からその本流の田出(たで)川右岸へと続く谷が下る。道は険しい山腹を横切りながら徐々に高度を下げて行く。 時々急な傾斜地を過ぎる。道幅はどうしても狭い。この区間の道の大幅な改良はなかなか困難だろう。新道はどうしても別コースを取らざるを得なかったようだ。


道の様子 (撮影 2016. 4.13)
   
道の様子 (撮影 2016. 4.13)
やや開けた所
   

<沿道の様子>
 沿道には木々が多く、視界はほとんど開けない。坂本峠の道は全般にあまり景色には恵まれない。それでも暫く下ると、坂本川上流部の谷間が垣間望めた。東脊振トンネルを抜けて来た国道385号の新道らしい道筋が見られた(下の写真)。

   
坂本川の谷を遠望する (撮影 2016. 4.13)
奥に新道らしき道筋が見える
   

<狭路区間>
 県境より続く狭路区間は、この先新道に接続するまでおよそ3Km。 その間、本の一部に改修されて道幅が広げられた箇所はあるものの、ほとんどがひび割れた古いアスファルト舗装の狭い道である。 時々「幅員減少区間はあと・・Kmです」と書かかれた看板が立つ。落石注意の標識も見られる。坂本峠に車道が通じてからは、この佐賀県側数Kmの区間が最大の難所であったのだろう。

   

道の様子 (撮影 2016. 4.13)
幅員減少区間の看板が立つ

幅員減少区間の看板 (撮影 2016. 4.13)
   

道の様子 (撮影 2016. 4.13)
風倒木などの注意看板

風倒木などの注意看板 (撮影 2016. 4.13)
   
   
   
霊仙寺跡下入口 
   

<広場>
 見るべき景色もなく何の変わり映えもしない狭い道が続き、峠道走行もそろそろ飽きて来た頃、幅員減少区間が残り1Kmと書かれた看板を過ぎた少し先で、ちょっとした広場に出る。休憩には丁度良い。傍らにはトイレもある。

   
広場に出る (撮影 2016. 4.13)
麓方向に見る(車はUターンし、峠方向を向く)
側らにトイレ
   

広場より峠方向を見る (撮影 2016. 4.13)
現在トイレは妻が使用中

<トイレ(余談)>
 この坂本峠に至る前にも、柿ノ原峠(県道137号)や大峠(大河内林道)など、背振山地を越える峠を走り回って来た。 長い時間、山間地に留まっていたのでトイレを済ませることができずにいた。特に妻が困る。 この先国道385号の新道に出てトンネル方向に少し戻れば、道の駅「吉野ヶ里」ができたそうだ。丁度そこにでも寄ろうと考えていたところだった。
 
外見はややみすぼらしいトイレだったが、妻に使用を勧めた。妻の使用感は、きれいに掃除されていてペーパーも完備で良かったとのこと。 こうした旅の途中にあるトイレはありがたい。つい最近の旅では銀山峠(福島県柳津町)への廃道のような道の途中で、遂に妻の限界が来てしまった。 仕方ないので路肩で済ませることとなった。40歳代になってからは絶対嫌だと言っていた妻としては、甚だ不本意だったらしい。峠の旅では妻に苦労をさせる。

   

<霊仙寺跡下入口>
 その広場は、トイレの付近から数10mに渡って道幅が広がり、路肩に駐車スペースも設けられている。 麓に向かって道幅がまた狭まりだした所に、車道から分かれて背振山地の峰の方へと登る山道が始まっていた。入口には石碑や看板が立つ。 看板によると、そこは「霊仙寺跡下入口」と呼ばれ、霊仙寺跡への登り口であった。この場所の駐車スペースやトイレはその為にあるようだった。

   

霊仙寺跡下入口 (撮影 2016. 4.13)

広場を峠方向に見る (撮影 2016. 4.13)
この左手前に霊仙寺跡下入口がある
   

<お茶の発祥地>
 石碑類はお茶や茶道に関する物だった。霊仙寺は日本におけるお茶の発祥地として知られるそうだ。中国からの伝来により、この地で初めてお茶が栽培されたと考えられている。

   

お茶に関する石碑 (撮影 2016. 4.13)
中国との交流があることを示している

「お茶の菊川」と書かれた石碑 (撮影 2016. 4.13)
看板の後ろのやや奥まった所に立つ
   

<霊仙寺跡>
 霊仙寺跡一帯は「背振山」と呼ばれ、上宮を東門寺、中宮を霊仙寺、下宮を積翠寺と称し、特に中宮霊仙寺域は背振山における天台密教系仏僧・修験者らの活動の拠点であったそうだ。背振千坊などとも呼ばれ、その規模は大きかったようだ。
 
 ただ、霊仙寺跡は現在の国道385号には隣接していない。霊仙寺跡下入口から登ること数100mの山腹に広く分布するようだ。気軽に散策するという訳にはいかないのは残念だ。修行の場なので、このような山奥に設けられたのだろう。


霊仙寺跡の看板 (撮影 2016. 4.13)
   

看板の説明文 (撮影 2016. 4.13)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<霊仙寺の経緯(余談)>
 霊仙寺は平安・鎌倉時代に最盛期を迎え、戦国期の混乱で一時荒廃に帰すが、江戸期に水上坊仁周が鍋島家の助力により中宮十坊などを再興する。 その後、しばらく繁栄は続くが、筑前側との境界争い、また各坊間の本寺争いなどにより次第に衰微し、 明治維新後は修学院(しゅがくいん)と中宮の乙護法堂を残して廃寺となったそうだ。現在、乙護法堂が霊仙寺跡を代表とする建造物となるようだ。
 
<筑前街道>
 看板の説明文の終りの方に、筑前街道に関する一節がある。文化庁選定による「歴史の道百選」に選ばれているようだ。 その番号67に「肥前・筑前街道―脊振坂越」として登録されている。筑前街道は福岡県側から見れば佐賀県に至る肥前街道ともなる。 坂本峠は「脊振坂越」に相当することになろう。肥前・筑前街道最大の難所となる。

   

<筑前街道の旧道>
 ただ、筑前街道は今の国道とは少し異なるルートにあったようだ。 看板の地図によると、霊仙寺跡下入口から国道を離れ、霊仙寺の寺域を経由し、坂本川の支流・東谷を渡って東に進み、坂本峠の600m程手前で現在の国道に繋がっていたようだ。 東谷以降の筑前街道は点線で描かれていて、もう廃道寸前らしい。国道からの分岐も全く気付かなかった。ドラレコ画像を確認しても、それらしい道が分かれていたようには見えない。勿論案内看板などは立っていなかった。
 
<馬頭観世音など>
 ただ、坂本峠から600m程の国道の道筋は、古い筑前街道とほぼ一致しているようだ。国道脇に「馬頭観世音」とか「脊振御番所跡」といった記載が見える。 また、坂本峠の位置は石動林道分岐直前を示している。その近くに馬頭観世音も立っていることになるが、これにも気付かなかった。御番所跡も見られたらよかったのだが、全て後の祭りである。


看板の案内図 (撮影 2016. 4.13)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

 広場で看板などを見ている短い間にも、数台の車の往来が見られた。トンネルが開通した坂本峠ではあるが、今もって使われる現役の筑前街道であった。

   
   
   
霊仙寺跡下入口以降 
   

<霊仙寺跡下入口以降>
 新国道接続まで残り1km。ここに来て10%の急勾配を下る。前方にループ橋が遠望できた(下の写真)。坂本川右岸い通じる道だ。 国道の新道かと思ったが、そうではなかった。国道以外にも近くに立派な道が開通したようだ。東脊振トンネルを抜けて来た新国道はその手前を直線的に通じていた。

   
ループ橋は国道ではないようだ (撮影 2016. 4.13)
その手前に通るのが東脊振トンネルに続く国道らしい
   

<佐賀平野の景色>
 折角背振山地を越えて来たので、佐賀平野が見渡せないかと期待していた。しかし、坂本峠にはその機会はほとんどないようだ。峠から3km近くも下って来て、やっと谷間から霞んだ佐賀平野が僅かに望めた。

   
僅かに佐賀平野を望む (撮影 2016. 4.13)
   

<坂本川に下る>
 道はやや北寄りに方向を変え、坂本川の上流部を目指して下る。対岸に新道を望む。

   
坂本川へと下る (撮影 2016. 4.13)
前方に新道が通じる
   

<坂本川右岸へ>
 旧国道は一旦坂本川を渡って右岸に出る(右の写真)。
 
 そのまま右岸沿いを100m程下ると左に分岐がある(下の写真)。それが元の国道だが、東脊振トンネル開通以前から旧道の身になっている。1994年に佐賀県側から坂本峠を目指した時は、その道を登ったのかもしれない。すると、狭路区間は更に長かった筈だ。


橋本川を渡る (撮影 2016. 4.13)
峠方向に見える
   
旧道分岐 (撮影 2016. 4.13)
峠方向に見る
右に坂本川右岸沿いに下るのが古い国道
左が坂本峠への国道
手前が新道接続へ
   

新道に接続 (撮影 2016. 4.13)

<新道に接続>
 峠から約3kmで新道に接続する。ただ、この分岐より麓方向はトンネル開通前から通じていた。ここよりトンネル方向がトンネル開通に伴って最近に通じた道となる。

   

<分岐付近の様子>
 峠から続く狭路区間もここで終わりだ。分岐に立つ看板には「霊仙寺跡 1.1Km」などの案内の他に、「幅員狭小の為、離合困難!」とか「連続カーブ有り!」と注意が多い。 勿論、ここにも積載2t以上通行禁止の看板が立つ。それでもこの旧道を通る車は何台も見掛けた。やはり小さな軽自動車が多かったように思う。

   
新道からの分岐 (撮影 2016. 4.13)
   

分岐付近の看板 (撮影 2016. 4.13)

分岐付近の看板 (撮影 2016. 4.13)
   

<新道>
 東脊振トンネルを越えて来た新道は、さすがに旧道より格段に交通量は多いが、引きも切らずという程ではない。 それでも東脊振トンネル開通で、佐賀・福岡両県を行き来する車は増えたことだろう。今後、五ケ山ダムが完成すれば、佐賀県側からも観光客が多く訪れることになるかもしれない。

   

<坂本集落>
 坂本峠を佐賀県側に下って来た峠道が最初に差し掛かるのが坂本集落となる。坂本川が本流の田出川に注ぐ三角州に位置する。 田出川本流の上流は別名永山川とも呼び、永山川と坂本川が合流して田出川になるともする。
 
 尚、永山川(田出川上流部)沿いに永山集落が点在する。国道が坂本集落を過ぎ、永山川を渡った先が松隈集落となる。大字松隈を構成した4か村の内、小川内(おがわち)集落だけ遠く離れた背振山地の向こう側に位置する。
 
<坂本の由来>
 坂本の地名は、裏山に多くの寺があり、寺に通じる坂の下の集落という伝承があることに由来するともされる。 確かに、坂本川沿いに霊仙寺へと至る道の登り口に坂本集落は位置する。筑前側からその坂本の地へと背振山地を越えて行く峠が、坂本峠と呼ばれるようになったのだろう。
  
 現在の国道は坂本集落内を避け、集落の西の端に快適な2車線路として通じている。沿道にはあまり人家はない。集落内の人家の間を抜ける細い道に、往時の街道の雰囲気が残っているのだろうか。

   
   
   

 福岡県側のダム工事に伴う大改修と、佐賀県側数Kmに残された旧道の狭さしか印象に残らない峠の旅となってしまった。 地形の複雑さなどから、県境・道の最高所・峠がそれぞれ別の位置にあるようで、これぞ峠といった場所が一つに定まらないのも残念である。 霊仙寺跡にでも訪れていれば、もう少し歴史の味わいが感じられた肥前・筑前街道だったかもしれない。 背振山地を越える数ある峠の中から、まず最初にこの峠を選んでみたものの、何だか消化不良のままで終わった感がある、坂本峠であった。

   
   
   

<走行日>
・1994. 5.28 佐賀県 → 福岡県 ジムニーにて
・2016. 4.13 福岡県 → 福岡県 ハスラーにて
 
<参考資料>
・県別マップル道路地図 40 福岡県 昭和63年 3月 8日発行 昭文社
・県別マップル道路地図 41 佐賀県 昭和57年 3月 8日発行 昭文社
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・日本百名峠 井出孫六編 平成11年8月1日発行 メディアハウス
・その他、一般の道路地図など
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<1997〜2016 Copyright 蓑上誠一>
   
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