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志 賀坂峠
 
しがさかとうげ No.189
 
東京から埼玉・群馬を通り長野へと通じる峠道
 
(初掲載 2012. 1.20  最終峠走行 2004. 2.15)
 
  
 
志賀坂峠 (撮影 1992. 9. 5)
見えているのが志賀坂トンネルの群馬県神流町(かんなまち) (旧中里村/なかざとむら)神ヶ原(かがはら)側の坑口
トンネルの反対側は埼玉県小鹿野町(おがのまち)河原沢(か わらさわ)
道は国道299号(武州街道)
トンネルの標高は780m(道路地図や地形図などより)
これはわたしが持っている志賀坂峠を写した写真の中で最も古 いもの(約20年前)
今とあまり変っていない様子だ
 
 
 いつも迷う ことだが、志賀坂トンネルの上には昔からの志賀坂峠があり、こちらのトンネル部分も志賀坂峠と呼んでも良いものだろうか。本来なら志賀坂峠とでも呼んでおきたいところだが、それだと他 の多くの峠でも「新」の字を付けることになり、峠リストの「さ行」の欄がパンクする。そのままズバリ「志賀坂トンネル」と、ありのままに題すれば、誤解を 生ずることはないかもしれない。しかし、この「峠と旅」ではやはり「・・・峠」と表題に書きたいのだ。さて、どうしたものか。
 
 志賀坂トンネルの埼玉県側の坑口近くに記念碑 が立つ。それには志賀坂峠開削記念碑とある。もちろんこれは志賀坂トンネルの開通を含めた車道開削の記念である。「峠」と言うより「峠道」のニュアンスに 近い気がする。あるいは、志賀坂トンネルを含め、この付近一帯の地を志賀坂峠と呼んでいるようにも取れる。「峠」は厳密にある一つの峰を越える部分として 使うが、もう少し漠然とした捕らえ方もできるのではないかと思う。
 
 開削記念碑に「志賀坂峠」とあることに力を得 て、ここの表題は「志賀坂峠」で決定とさせて頂くが、その他の峠についても、昔からの峠やその下にできたトンネルも含め、アバウトに「峠」と呼ばせてもら い、今後も「・・・峠」の表題を貫こうと思うのであった。
 
 志賀坂峠は 記憶が確実なもので7回は越えている。別に1回、埼玉県側が通行止の時に群馬県側から峠まで訪れたことがある。他にも記憶にないものがあるかもしれない。 比較的越えた回数が多いのだが、だからと言って志賀坂峠がそれ程好きな訳ではないのだ。実用面で役に立つ峠だからだから越えた回数が多いだけだ。
 
 東京都下の自宅を出発し、八王子市を通って青 梅に出、小沢峠で埼玉県に入り、飯能市から国道299号に乗って正丸峠(正丸トンネル)を越えるか、あるいは旧名栗村を通って山伏峠越えで正丸トンネル先 の国道299号に合流し、秩父市街に下り、小鹿野町を抜けて志賀坂峠越えで群馬県に入り、更にその先、上野村から十石峠(じっこく)か、ぶどう峠で直接長野県に入るか、あるいは一度塩之沢峠を越えた後、田口峠経由のルートで長野県に入 り、佐久、小諸、上田といった地方へと旅に出る。元々、志賀坂峠は関東から信濃の国(現長野県)への往還として古くから利用されていたようだが、現在の国 道299号も正に長野県への旅の道筋に当たるのだ。
 
 自動車専用道(高速道路)が発達した今では、 中央自動車道を西に走って須玉ICより国道141号・佐久甲州街道を北上するか、関越道・上信越道と走り繋げば、佐久方面に出るのは容易だ。しかし、自動 車専用道では味気ない。途中の道筋でも旅を味わいたいと思えば、上記のルートは打って付けなのだ。同時に、いくつもの峠越えが楽しめるというおまけ付き。 長野へ旅に出る時、あるいは長野の旅から帰って来る時と、志賀坂峠を便利に越えることとなる。
 
 ただ、困っ たこともある。旅先ではどうしてもあちこち寄り道し、帰りの時間が少なくなるのだ。ある旅の最終日、田口峠で日が暮れた。まだ湯の沢トンネルが開通する前 の細い塩之沢峠を越える頃にはもう真っ暗だ。走り慣れた道とは言え、屈曲した志賀坂峠越えも緊張の連続である。その先、秩父、名栗、青梅、八王子と走っ て、同乗の旅の連れ(現在の妻)を神奈川県の家へと送り届け、自宅に辿り着いた頃には、もう精も根も尽き果てたといった状態だった。図らずしも夜の志賀坂 峠は都合2回越えているが、あんな所、夜中に走るもんじゃない。
 
小鹿野町を抜けて
 

国道299号の看板 (撮影 2002. 8.10)
小鹿野町市街を西に抜けた飯田付近にあった
古い看板であまり良く見えないが
(画像をクリックすると看板の拡大画像がご覧頂 けます)
 秩父市街方 面から国道299号をやって来ると、小鹿野町内の国道はやたらに真っ直ぐでその沿道は殺風景だ。どうやら小鹿野町の市街をバイパスして通したらしい。一つ 南側を通る県道の方が、その両側に商店などが建ち並び、そちらが町の幹線路、以前の国道だったのではないかと思う。小鹿野町をただ素通りするだけなら、そ のまま国道を行けばよいが、小鹿野歌舞伎でも知られる小鹿野を見学するには、国道をそれると良い。県道脇にある町役場に寄ると、観光案内などがある。
 
 小鹿野の市街を西に抜けると、国道299は ぐっと寂しい道となる。以前は飯田と呼ばれる付近に「一般国道299号を御利用の皆様へ!」と看板が立っていた(左の写真、今もあるかは不明)。エクスクラメーション・マーク(感嘆符)付きで、道行く人に注 意を促している。その看板がある所を起点、峠を終点として、国道299号に規制区間が設けられているのだ。降雨や積雪の気象条件によっては、通行止になる との旨。看板には「落石、土砂崩れ、路肩の決壊、倒木、積雪、路面凍結」と、怖い文字が並んでいる。実際にも2004年には地すべりにより国道が通行止となっている。
 
 道は荒川水 系の赤平川(あかびら)沿いに峠を目指す。規制区間に入って暫く行くと、左手の対岸に送電線の鉄塔などが物々しく見える。道路地図によれば、東京電力の 「新秩父開閉所」と呼ぶらしい。どんな電源設備だろうか。
 
 この辺りになると、道の幅は狭くなり、セン ターラインなどは滅多にお目に掛かれなくなる。道幅が狭いだけでなく、赤平川の谷そのものが狭いのだ。時折沿道に見掛ける人家も、その庭先をかすめるよう にして車道が通じる。赤平川の小刻みな屈曲に合わせ、国道も右に左にと屈曲を繰り返す。しかし、川や道の方向は概ね真っ直ぐ北北西へと進む。

新秩父開閉所 (撮影 2002. 8.10)
 

左手に「ユーアイハウスおがの」の看板 (撮影 2002. 8.10)
障がい者施設とのこと
赤平川を渡った右岸にあるようだ

狭い道が続く (撮影 2002. 8.10)
 
 道が狭くな り、それなりに走り難いが、さりとてこうした道が嫌いな訳ではない。道が細くなると同時に、交通量もめっきり減るので、厄介な対向車も気になる程ではな い。比較的ゆっくり走っていても、追い付いて来る後続車もない。それより、だんだんと寂しさが増すことで、旅情を感じるようになる。沿道にはこれと言って 目を引くものはなく、わざわざ立寄るような観光スポット的なものは皆無だが、時折通り過ぎる素朴な民家の様子や、僅かな平地に耕された畑、その周囲の赤平 川の谷の景色、そんなものを眺めているだけでも、退屈することはない。何でもない看板や標識などにも目を向ける。こんな時こそ旅をしているなと実感でき る。
 
 国道は時折側らに流れる赤平川を渡り、右岸を 走ったり左岸を行ったりする。川に架かっている橋には古い物も多く、その橋の上だけ尚更狭くなったりする。ただ、道の改修は所によっては進んでいるよう で、センターラインもある広い道になったりもする。
 

赤平川を渡る (撮影 2002. 8.10)
左手に「幅員せまし」の看板

部分的にセンターラインもある広い国道となる  (撮影 2002. 8.10)
但し制限速度は40Km
 
 
峠への登り
 

二子山を見上げる (撮影 2002. 8.10)
 赤平川を詰 めると、道はいよいよ西の群馬県境の峰へと登りだす。赤平川の上流は河原沢川(かわらさわ)と言う名で、この付近の地名(大字名)からきている。河原沢川 の水源は、志賀坂峠より少し南に位置する県境上の諏訪山(1,207m)で、川はそこより北流し、志賀坂峠下の坂本から東へ向きを変えて流れ下る。
 
 赤平川のどこから上が河原沢川と呼ぶのか、文 献などではまだ国道が併走している付近から河原沢川としているものもある。ただ、坂本で北(二子山の方向)から流れ下って来た支流の一つ・仁平沢が本流に 合流しているが、その地点から上流を河原沢川と呼ぶのではないだろうか。すると、国道は河原沢川とはほとんど併走することなく、直ぐに分かれて山腹へと駆 け上がって行く。登り始めると、右手に異様な山容の2つのピークを持つ山が見える。二子山だ。あまり山に詳しくなくとも、一度見ればその特徴から覚え易い 山である
 
 埼玉県側で 川筋を離れてからの峠までの登りが、この志賀坂峠の最も峠道らしい道である。大胆な屈曲が連続し、ヘアピンカーブもある。ところが残念ながらその道の様子 を撮った写真が見当たらない。カーブを曲がるのに忙しくて、写真を写している暇がなかったのか、また、車を停める適当な場所もなかったようで、峠も間近に なって峠直下の赤平川の谷を写した写真(右)が残る程度だ。
 
 志賀坂峠はどちらかと言うと実用的に越える峠 だという感覚があり、わざわざ峠道を写真に残しておこうと言う気持ちが沸かなかった。特に志賀坂峠を越え始めた初期の頃は、滅多にシャッターを切っていな い。このページの最初に挙げた、群馬県側のトンネル坑口を写した写真(1992年9月)が、辛うじて一枚残る程度である。それに、暗くなってから峠越えを しては、写真の撮りようもなかった。

登りの途中で赤平川の谷を望む (撮影 2002. 8.10)
 
 また、埼玉 県側の峠道の写真が少ない理由が他にあった。南の中津川の方から大滝村(現秩父市)と小鹿野町の境にある八丁峠(はっちょう)を越えて来る金山志賀坂林道 が、志賀坂トンネルの埼玉県側坑口の直前で国道に合流するのだ。林道と言ってもわたしが走り出した頃(1992年)には既に全線舗装となっていたが、それ でも単なる国道を走るより、ずっと面白いと思っていた。好んで険しい道を選んで走っていた頃のことで、一度走った国道など詰まらないとばかりに、2度目の 志賀坂峠からは、わざわざ八丁峠に遠回りすることが多かった。
 

八丁峠にあった看板 (撮影 1992. 9. 5)
周辺の道の参考まで
(画像をクリックすると地図の拡大画像がご覧頂 けます)
 考えてみる と、志賀坂峠の埼玉県側は、真っ暗だったり、八丁峠経由だったり、地すべりで通行止だったりで、まともな昼間に走ったのは2回くらいしかないのであった。
 
 八丁峠(八丁トンネル)の小鹿野町側からは、 二子山が見渡せ、壮観な眺めだ。両神山・二子山周辺の案内図を掲載した看板も立ち、いろいろ参考になる(左の写真)。二子山の手前が赤平川の谷間で、八丁 峠からは見えないが、その谷底を国道299号が通じていることになる。
 
八丁峠からの眺め (撮影 1992. 9. 5)
左手の山の中腹を通る道は、八丁峠から志賀坂峠へと続く金山 志賀坂林道
正面に二子山、その手前に国道299号が走る赤平川の谷があ る
志賀坂峠は左手の山の裏側辺りに位置する
 
 志賀坂峠の 埼玉県側の道については、写真もないし記憶もあまりない。ただ、一つだけ印象に残っていることがある。それはバイク(ホンダのAX-1)に乗って、初めて 泊り掛けのロング・ツーリングに出掛けた時だ。秩父方面から国道299号をひた走り、志賀坂峠への登りに差し掛かった。車やバイクを使って自走する初めて の長旅、初めて越える志賀坂峠で、自宅からそこまで、ただただ夢中にバイクを走らせて来た。
 
 春の日差しが注ぐのどかな山間の中、屈曲する 坂道を登りだすと、道端に小さな花壇が造られていて、色鮮やかな花が咲きそろっていた。普段なら花など見向きもしない性質(たち)だが、思わずバイクを停 めて見入ってしまった。何となく心なごむ気持ちである。目を上げれば、周囲は山また山のロケーションだ。緊張続きの一人旅が、そこでやっと我に返り、一息 つくことができたのだった。
 
 その後、志賀坂峠を越え、信州の上田や松本を 旅した筈なのだが、今となってはどの様なコースを辿ったかも記憶にない。旅の最中は、時々地図を眺めて走行距離や所要時間を調べたり、道が複雑な市街地で 予約した宿を探し回ったりと、旅の初心者は、ただただ無我夢中であった。そんな旅の中、志賀坂峠を登った折のあの一時は、旅の感慨に浸ることができた一瞬 だった様な気がする。
 
 その旅を皮切りに、車やバイクで日本中を旅す るようになった。旅の経験が徐々に積まれると同時に、悪い意味でも旅慣れてしまい、感動することも少なくなったような気がする。仕舞いには、暗くなってか ら志賀坂峠を越えて帰宅する始末で、これでは旅の感慨も何もあったものじゃない。志賀坂峠を越えるだけで感動していたあの頃が懐かしいのであった。 
 
 河原沢川を 離れた後の道は、あまり悪かったような覚えはなく、ただひたすら峠の頂上を目指して車を走らせるかりだ。「なんだ坂、こんな坂、しが坂とうげ」と掛け声を 掛け、登って行く。
 
 
志賀坂トンネルの埼玉県側坑口
 
 カーブが連 続する長い上り坂を登り切ると、最後に右にカーブしてその先にトンネルの坑口が現れる。埼玉県から群馬県へと県境を越える志賀坂トンネルだ。長さ 300m。トンネル内で若干の起伏はあるが、ほぼストレートで、覗けば反対側の坑口から洩れる明かりが見える。以下に、過去に撮った志賀坂トンネル坑口の 写真を列挙する。
 
志賀坂トンネルの埼玉県側坑口 (撮影 2004. 2.15)
左に立つのは高さ制限(4.5m)の標識
坑口上部にも桁下4.5mと書かれたバーが渡されている
 
志賀坂トンネルの埼玉県側坑口 (撮影 2002. 8.10)
トンネル内部には僅かながらも点々と照明が灯っている
左端に立つのは開削記念碑
 
志賀坂トンネルの埼玉県側坑口 (撮影 1999. 7.24)
この時にはまだ高さ制限の標識がない(バーはある)
左に金山志賀坂林道が分岐する
 
 
金山志賀坂林道の終点
 
 坑口手前を 左、南の方向に向かって道が一本分岐する。これが八丁峠を越える金山志賀坂林道だ。この分岐点がその林道の終点になっている。起点は雁掛トンネル。滅多に 通行止に遭ったことはないが、2004年2月に訪れた時は、工事による時間通行止の看板が出ていた。それより何より、2月ではまだ冬期通行止だと思う。路 上には鞍馬が置かれ、入り難い状況だった。

 金山志賀坂林道方向を見る (撮影 2004. 2.15)
 
金山志賀坂林道方向を見る (撮影 1999. 7.24)
左手に「彩の国 さいたま」の看板
この時も工事が行われていたが、通行可能であった
 
 
峠からの眺め
 

トンネル内から埼玉県側を見る (撮影 2004. 2.15)
この向こうに景色が広がる
 志賀坂峠の 埼玉県側は、道も峠道らしく、また峠からの眺めもいい。群馬県側が木々に阻まれ視界が効かないのに対し、埼玉県側はまあまあの景色が広がる。群馬県側から トンネルをくぐって来ると、坑口が徐々に明るくなり、その坑口を抜けた正面に埼玉県側の景色が現れる。赤平川の谷間が手に取るように見下ろせ、山ひだを 縫って流れる赤平川と、それに寄り添う国道299号が望める。改めてその景色を撮った写真(下)を見てみると、なかなかの眺めだと思う。これだけの眺めが ある峠も、そうざらにあるものじゃない。
 
 峠に立って景色を眺めていると、背後のトンネ ルから意外と強い風が吹き抜けて来る。群馬県の風である。
 
峠から見る埼玉県側の景色 (撮影 2004. 2.15)
 
峠直下を登りだす国道299号を見下ろす  (撮影 2004. 2.15)
 

 坑口正面の道路の端に立ち、北の稜線方向を覗 いてみると、岩だらけの頂上を現す二子山らしき山が僅かに見える。一際威容を放ち、この近辺の山の中では、特異な存在感がある。

道路の端から北を望む (撮影 2004. 2.15)
 
 
埼玉県側の通行止の時
 
 2004年 の2月に訪れた時は、峠の埼玉県側が通行止だった。群馬県側から登る前から通行止と知りつつ、峠だけはちょっと寄っておこうと登って来たのだった。トンネ ルを抜けると、その先で物々しい程の通行止の柵が設けられていた。看板には次のようにあった。
 
 一般国道299号
 通行止のおしらせ
 一般国道299号小鹿野町河原沢
 地内において地すべりが発生
 したので当分の間下記のとおり
 通行止とします
 
 そして簡単な地図には、峠から下の坂本橋まで の区間が通行止と示されていた。期間が「当分の間」と言うのだから、なかなか開通の目処が立っていなかったのかもしれない。
 

この時は埼玉県側通行止 (撮影 2004. 2.15)
物々しいゲート

通行止の看板 (撮影 2004. 2.15)
 
 しっかりし た通行止の柵を見て、確かに通れないことを確認したら、丁度昼時で天気も良く、日当たり良好なので、いつものようにカップ麺の昼食にすることとした。眺め を堪能しながらラーメンをすすっていると、通行止なのに酔狂にも峠までやって来る車が2台ほどあった。通行止の柵を見ると、景色を眺めるでもなく、そそく さとまたトンネルに引き返していった。あるいは、こんな所でラーメンを食っている我々を不審がり、急いで退散したのかもしれない。

 暫くしてまた一台の車が来た。軽自動車 のジムニーである。今度の御仁は車から降りると、こちらを気にすることもなく、悠然と眺めに見入っている。丁度食事も終わったので、近付いて話を聞いてみ た。何でも工事作業者が一人、遭難して行方不明だとのこと。警察官が林道を歩いて捜索中で、その警察官を迎えに来たのだそうだ。何やら物々しい話である。
 
 ついでに、この付近の道について訪ねてみた。 八丁峠は路面凍結だが、通れないことはないだろうとのこと。志賀坂峠の代わりに土坂峠は通れるだろうとのこと。矢久峠(やきゅう)はどうかと訪ねたら、聞 いたことはあるが詳しくは分らないとの話。結局この日の帰路は、土坂峠を選んだのだった。

 
 余談だが、 志賀坂峠の群馬県側の旧中里村やその両隣の上野村、旧万場町(まんばまち)は、古くは山中領と呼ばれた地域だそうだ。元禄期、武州と上州を結ぶ峠は、山中 領だけでも8つあったとのこと。現在の道路地図、昭文社の県別マップルを見ると、東の方から土坂峠、杉ノ峠、坂丸峠、矢久峠、魚尾道峠(よのおみち、よの うみち)、志賀坂峠、赤岩峠、雁掛峠と拾い出すことができ、丁度8つである。これらの峠が元禄の上野国(こうずけのくに)全図に描かれてあったと言うもの かは分らないが、8つあることが符合しているのが面白い。尚、これらの峠の内、現在車道が通じているのは土坂峠と矢久峠、志賀坂峠の3つだと思う。また、 雁掛峠の西には新しく天丸トンネル(天丸峠)が埼玉・群馬の両県を繋いでいる。
 
 
記念碑
 
 志賀坂トン ネルの埼玉県側には、坑口横に記念碑が立っている。ところが、古い物でもあることから、なかなか碑文がはっきり読めない。日付が昭和35年4月とあること だけを確認し、トンネル開通がその年なんだろうと思っていた。
 
 旅先では、こうした記念碑や案内看板など、そ の場で必要な時以外は、わざわざ読むことはせず、代わりに写真に収めておく。後になって必要になったら、虫眼鏡片手に写真上で読むことにしている。志賀坂 峠にある記念碑も、何枚かの写真に撮ってあるのだが、文字が判読し難い。そもそも記念碑の表題さえもはっきりしない始末だ。やっと今回、「志賀坂峠開鑿記念」と書かれているのが判明した。なかな か分らない筈である、「」な どと言う古い漢字は、これまでお目に掛かったことがない。辞書を引くと「開鑿」とは「かいさく」と読み、「開削」に等しいらしい。
 

坑口横に開削記念碑 (撮影 2004. 2.15)
 
<余談>
 
 それにしても驚かされるのは、「鑿」のフォン トがあることだ。家庭で使うコンピューターも随分と進歩したものだと思う。わたしが自宅でコンピューターらしき物を使い始めたのは、学生の頃にNECの TK-80 BASIC STATIONの組み立てキットなるものを作ってからだ。確かメインメモリが8KBしかなく、外部記憶はカセットテープ。それで詰め将棋を解くプログラム を、自作のラインアセンブラを使って一夏掛けて作った。メモリの使用量を最小限に抑える為、とても複雑なアルゴリズムとなった。表示は家庭のテレビに粗い キャラクタ・ディスプレイ。今のような精細なグラフィック・ディスプレイなど考えも及ばなかった。製作したプログラムは「マイコン」と呼ばれる雑誌の別冊 に掲載され、原稿料を初めて貰った。まだ「パソコン」という言葉さえもなかった頃の話だが。
 
志賀坂峠開鑿記念碑の日付の部分 (撮影 1999. 7.24)
昭和三十五年四月
志賀坂峠開鑿期成同盟会
福島幸・・・(写真からはみ出している)
(画像をクリックすると拡大画像がご覧頂けます)
 
 写真の碑文 をルーペで覗き込んでも、やはりどうにも読めない。これは現物をその場で写し取るよりなさそうだ。こうなると何が書いてあるか、尚更気になってくるので あった。
 
 尚、開鑿記念碑の日付は昭和35年だが、文献 によっては志賀坂トンネルの完成を昭和34年としているものがある。トンネル工事の完成が昭和34年で、道として使われ始めたのが昭和35年からなのかも しれない。
 
 
志賀坂トンネルの群馬県側坑口
 
 志賀坂トン ネルの群馬県側は、その坑口部分だけ見ると、埼玉県側と良く似ている。写真などではどちら側だったか分らなくなる時がある。群馬県側の方が、坑口まで続く 左右の擁壁の長さが、やや長いようだ。
 
志賀坂トンネルの群馬県側坑口 (撮影 2004. 2.15)
トンネル開通から約半世紀が過ぎ、年老いた感じがする坑口の 風景だ
 
志賀坂トンネルの群馬県側坑口 (撮影 1999. 7.24)
 
志賀坂トンネルの群馬県側坑口 (撮影 1992. 9. 5)
(本ページトップの再掲)
 
 
トンネル手前の様子
 
 志賀坂峠の 群馬県側には、丁度木々が邪魔をしていて眺めが広がらない。また、埼玉県側に比べ地形が穏やかなので、遥かに山々を見渡すといった遠望は初めからない。
 

坑口手前のカーブ (撮影 2004. 2.15)
右手に駐車スペースがある

左と同じ場所 (撮影 1999. 7.24)
 

志賀坂森林公園案内図 (撮影 1999. 7.24)
もう傷んでいて、よく読めない
 代わりに、 トンネルの直前に車が何台か駐車できる広場がある。入口がカーブ途中にあるので、トンネルから出て来る対向車が見え辛く、やや入り難い場所だが、そこなら 他人の迷惑にならず、ゆったり車を停められる。
 
 その広場の付近からは、稜線上の志賀坂峠や諏 訪山方面に登る山道がある様で、その場所は車で来る登山者の便宜を図ったものらしい。詳しくは分らないが、文献には峠まで定期バスが運行された時期がある とのこと。もしかして昔はバスの折り返し場だったかもしれない。 
 
 広場の片隅にはこの周辺の案内図も立っている が、木製で傷みが酷く、既に読むのが難しくなってきていた。登山案内を兼ねていたものか。
 
 古くからの志賀坂峠の標高は876mだそう で、トンネルのある所より100mも高い。峠はトンネルの真上ではなく、200m程北に位置する。
 
 峠から群馬 県側に下る道を眺めると、センターラインもある立派な国道が、ゆるりと下って行く。連続雨量120mmで通行止となる旨を記した看板が路上に大きく掲げら れていた。通行止区間は峠から5Kmとある。5Kmと言えば、神流川沿いで国道462号に接続する地点にほど近い距離だ。その間、いくつか集落もある筈だ が、本当に通行止になっては不便なことだろうに。
 
 志賀坂峠の群馬県側は以前は中里村だった。今 は東隣の万場町(まんばまち)とも一緒になって、神流町(かんなまち)と呼ぶ聞き慣れない町となっている。町の中心を東西に流れる神流川(利根川水系)か ら名を取った様だ。神流川は神流町より東ではほぼ埼玉と群馬の県境を成し、神流川の後は利根川が県境の役目を担っている。埼玉と群馬が山で隔てられている のは、神流町以西である。

峠からの下り道 (撮影 2004. 2.15)
 

県境看板 (撮影 2004. 2.15)
群馬県
神流町(かんなまち)

国道標識 (撮影 2004. 2.15)
神流町
神ヶ原(かがはら)
 
 峠の群馬県 側の地名は、以前は中里村神ヶ原(かがはら)、現在は神流町神ヶ原だ。国道標識にも書かれている。神ヶ原は大字名で、峠から国道299号が神流川を渡って 国道462号に接続する部分までは神ヶ原の領分らしい。旧中里村の中心であった。
 
 
群馬県側に下る
 
 峠から神ヶ 原へと下る。道は概ねセンターラインもある2車線幅で、時折1.5車線になるが、全般に快適な峠道が続いている。直ぐにも神流川の支流・間物沢川の上流部 の谷に沿う。埼玉県側と比べると、非常に穏やかな地形である。
 
 間もなく間物沢川本流部分に形成された間物の 集落が見下ろせる。川が流れ下る北側を除き、三方を山で囲まれ、正しく山里である。意外と人家の多い集落で、峠直下にこれ程大きな集落があるのに驚いてし まう。初めて志賀坂峠を越えて来た時も、とても印象深かったことを覚えている。間物は「まもの」と読むのだろうか、それとも「あいもの」だろうか。いつも 山間の中、ひっそりと静まり返っている集落である。
 
間物の集落 (撮影 2004. 2.15)
 

志賀坂荘付近 (撮影 2004. 2.15)
峠方向に見る
 国道は間物 集落の外周に沿って西に大きく迂回する。この付近はちょっとコースが読み難く、峠から降りて来た時も、これから登る時も、やや不安にさせられる。峠から 下って来た道はあんなに立派だったのに、集落内の国道は急に狭くなる。本線を逃さないように気を付けて走る。
 
 間物集落の下流側でちょっとした九十九折をこ なし、道は間物沢川の左岸に降り立つ。その先、右岸に渡った辺りで「志賀坂荘」と看板が出ている。民宿や釣堀、食堂を商っているようだ。ただ、この付近で あまり観光客が賑わっているのを見たことはない。
 
 間物沢川沿いに細くやや寂しい道が続く。間物の次は瀬林 (せばやし)と呼ぶ集落だ。沿道にちらほらと人家が散在する。狭い谷間の中、石積みの擁壁で平地を築き、そこに人家が建ち、僅かな畑が耕されている。素朴 な情景だ。

瀬林付近 (撮影 2004. 2.15)
峠方向に見る
 
 
瀬林の漣痕
 
 瀬林には、 この志賀坂峠の峠道で一番の観光スポットがある。「瀬林の漣痕(さざなみあと)」などと言われると、何のことだか良く分らないが、簡単に言えば恐竜の足跡 が残っているのだ。中里村を「恐竜の里」などと呼ぶ事の興りとなった。神流川沿いの箱畳(はこだたみ)には、国道脇に「恐竜センター」と呼ぶ施設も造ら れ、道からも恐竜のモニュメントが目を引く。それらは志賀坂峠に登るこの国道脇にある「さざなみ岩」が元となったらしい。
 
 峠を下って来て瀬林の人家を幾つか過ぎた先、 道路の右手(東側)に大きな岩がそそり立つ。観光スポットの割にはあまり目立たないが案内看板も立っている。それがさざなみ岩だ。道の反対側には車道から 少し川の方向に降りた所に駐車場があり、さざなみ岩を見学するなら、そちらに車を停める。敷地内には瓦屋根のこじんまりとした茶店が建っていて、その店の 駐車場かとも思われて、ちょっと入り難いのだが、入口の道路脇に確かに「無料駐車場」と看板があるので、安心して車を乗り入れる。

さざなみ岩の近くのお休み処 (撮影 2004. 2.15)
無料駐車場となっている
写真の左端に「無料駐車場」と書かれた看板が立つ
 

さざなみ岩 (撮影 2004. 2.15)
国道を挟んでお休み処の反対側にある

さざなみ岩の一部 (撮影 2004. 2.15)
これが恐竜の足跡
 
 恐竜の足跡 は、看板の説明を見ながらしげしげと眺めるが、誰一人納得して見ている者はない。誰の顔にも不信の色が漂う。如何にも恐竜の足跡といった物が岩にはっきり 刻まれていればいいのだが、鶏の足跡の様な引っ掻き傷があるばかりである。専門家の研究により恐竜の物と証明されているらしいが、逆に言えば専門家が見な い限り、一般人にはなかなか恐竜の足跡には見えない。ただ、中里村きっての観光スポットとあり、さざなみ岩の前には時折若いカップルなども姿を見せる。そ して、二人で首を傾げながら岩の前から立ち去って行くのであった。ましてや小さな子供達には、恐竜センターの方が向いているだろう。
 

「瀬林の漣痕」の看板 (撮影 2004. 2.15)
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 余談だが、 「さざなみ」つながりで、島倉千代子さんの「愛のさざなみ」が好きである。この歌謡曲が流行ったのは1968年頃で、まだ小学生のわたしにこの曲が気に入 る筈もない。現在においても島倉千代子という歌手について、特別の関心は持っていない。ところが、さざなみのように繰り返されるフレーズが頭にこびりつい たらしく、それが40年近くも経った数年前に甦った。歌詞などはほとんどでたらめだが、ある時不意にこの曲が口からついて出た。それ以後、時々頭の中で 「さざなみ」がぐるぐる回りだすようになった。
 
 曲名も定かでなく、ただ「さざなみ」が付くこ とだけは辛うじて覚えていた。早速、図書館かレンタル店だかで懐かしい歌謡曲ばかりが収められたCDを借り、曲名が「愛のさざなみ」と言う、今から思うと ちょっと恥ずかしい名であることも判明した。改めて聞いても、癖になる名曲である。こうしてホームページを作成している間も、時折パソコンのスピーカーか らは「愛のさざなみ」が、さざなみのごとく繰り返し流れていることがある。
 
 
瀬林を過ぎて
 

間物沢川沿い (撮影 2004. 2.15)
峠方向に見る
 瀬林の漣痕 を過ぎると、周囲に人家はなく、代わりに道は良くなる。間物沢川に沿った快適な二車線路となる。このまま神流川の近くまで、ほとんど人家を見ない。瀬林と 間物の集落は、旧中里村の中心からは遠く離れた存在だ。道はいつしか左岸へと渡り返す。谷間も幾分広くなる。
 
 神流川がもう直ぐそこに近付くと、道はまた狭くなる。ゲー ト箇所を過ぎる。ここから志賀坂峠の頂上までが、気象条件によって通行止となるらしい。 

ゲート箇所 (撮影 2004. 2.15)
峠方向に見る
 

古鉄橋上から峠方向に見る (撮影 2004. 2.15)
この時は通行止の看板が出ていた
 間もなく道は神流川に架かる橋を渡る。古鉄橋と呼ぶよう だ。支流の間物沢川と違って神流川は深く大きな流れを見せる。橋を渡ればそこは字神ヶ原。旧中里村の町役場もあった中心地だ。学校らしき大きな建物も目に 入る。
 
古鉄橋 (撮影 2002. 8.10)
この橋の袂付近が旧中里村の中心地
橋を渡って左折は上野村方面へ、右折は国道462号を万場方 面へ
 

神ヶ原の国道299号 (撮影 2005. 6.25)
直進が国道462号、右折が国道299号を峠へ
 古鉄橋を渡ってその先のT字路を左に行くのが国道299号 の続き。右方向には国道462号が始まっている。国道462号は、以前は主要地方道24号・鬼石中里線(通称十石街道)と言った。古いツーリングマップな どでは、緑色(主要地方道を示す)の線が神流川沿いに万場町の東隣の鬼石町(おにしまち)まで続いている。
 
 そのT字路を右折することは滅多になく、大抵は左折して、その先十石峠やぶどう峠で直接信州 に入るか、あるいは塩之沢峠(今では湯の沢トンネルを使う)で一旦南牧村(なんもくむら)に入り、田口峠などを経由して信州佐久地方へと向かった。
 
 逆に信州からの帰りは、信号機のないこの分岐を見逃さないようにと気を付けた。特に暗くなっ てからの帰宅は慎重である。道を間違って無駄な時間を費やすゆとりはないのだ。神ヶ原の集落内の国道299号は狭い。そこに突然右折を示す道路標識が出て 来る。一見、分岐などどこにあるのかと思わせる。どうにか無事に右折して志賀坂峠へ登る道に入ると、そこで一安心だ。しかし次の瞬間、これから越える志賀 坂峠の屈曲した道や、その先に控える秩父や青梅のことを考えると、もううんざりだった。
 
 群馬県の神 流町以西の神流川流域は、古くから上州山中領と呼ばれた。志賀坂峠が降り立ったこの山中領の地は、山が深く、神流川沿いに藤岡・鬼石(おにし)方面(東 方)に街道は通じていても、幾度となく川や沢を渡り、多くの尾根を上り下りし、難所が多かったそうだ。夏の出水期には橋が流されたこともあっただろう。そ うした意味でも奥まった地と言える。
 
 一方、武州秩父方面から志賀坂峠などを越え、 上州山中領を経て信州佐久へ至る峠道は、馬も通れて相当規模の交通量があったと思われている。そこで山中領の住民も、神流川沿いに藤岡方面に出る代わり に、安定した峠道で秩父方面に向かうことも多かったのではないか。古くに山中領から武州へ越える峠道が8つもあったのは、山中領の人たちの生活路として、 これらの峠道が重要だった為と考えられるようだ。神流川沿いに点在する村々から、そえぞれ思い思いに、上・武国境越えの峠道を築いたのだろう。
 
 しかし、明治23年には藤岡・鬼石方面への県 道が開削された。これによりそれらの峠道の利用は急激に減っていったと思われる。また、鉄路や自動車道の発達により、関東と信州を結ぶ峠道としての役割も 失っていった。
 
 昭和期に入り、志賀坂峠を始めとして幾つかの 峠に車道が通じたが、長野に通じる十石峠の様子などを見る限り、往時の信濃往還としての役割が復活した訳ではなさそうだ。
 
 現在でも旧 山中領の8つの峠らしき名が道路地図に見られ、心惹かれる思いがする。しかし、志賀坂峠だけに限っても、トンネルは越えたことがあっても、その上にある峠 には登ったことがない。高低さ約100m。ちょっと立寄ると言うようには簡単ではない。思えば峠の旅は果てしがないと痛感する志賀坂峠であった。
 
  
 
<走行日>
・1989. 4.30 (日付は不確定、写真無し、AX−1) 
・1992. 9. 5 埼玉県→群馬県(八丁峠に続いて、ジムニー)
・1995. 4.29 埼玉県→群馬県(八丁峠に続いて、写真無し、ジムニー)
・1995. 5. 5 群馬県→埼玉県(写真無し、ジムニー)
・1996. 5.11 
群馬 県→埼玉県(ジムニー)
・1998.11.15 群馬県→埼玉県(写真 無し、ジムニー)
・1999. 7.24 埼玉県→群馬県(八丁峠に続いて、ジムニー)
・2002. 8.10 埼玉県→群馬県(キャミ)
・2004. 2.15 群馬県側のみ(埼玉県側通行止、キャミ)
・2006. 8.20 群馬県→埼玉県(キャミ)
・2012. 9.15 群馬県→埼玉県(峠から八丁峠へ、パジェロ・ミニ)
 
<参考資料>
・国土地理院発行 2万5千分1地形図(ウェブ 閲覧)
・角川日本地名大辞典 10 群馬県 平成3年 2月15日再発行 角川書店
・角川日本地名大辞典 11 埼玉県 昭和55 年7月8日発行 角川書店
 その他、一般の道路地図など
(本ウェブサイト作成に当たって参考にしている 資料全般については、こちらを参照 ⇒ 資 料
 
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