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四郎ヶ野峠
  しろがねとうげ  (峠と旅 No.331)
  現代の野根山街道となる峠道
  (掲載 2024.11.15  最終峠走行 1997. 9.27)
   
   

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四郎ヶ野峠 (撮影 1997. 9.27)
手前は高知県安芸郡北川村大字安倉
奥は同郡東洋町大字野根
道は国道493号線
峠の標高は約450m (文献より)
ここは「四国のみち」の「四郎ヶ野峠休憩所」と呼ばれる箇所
実際の町村境となる峠部分は、もう少し先の狭い切り通し
但し、道の最高所はこの付近にあるように見える

   

   

<馬路村へ通じる峠道>
 四郎ヶ野峠は3度越えたことがある。しかし、峠の旅を楽しもうという積りで走ったことはない。単なる移動が目的で、たまたま越えただけのことだった。どこへの移動かというと、徳島県馬路村(うまじむら)である。その地を訪ねる時の行き帰りに、この四郎ヶ野峠を越えることが多かった。
 
<馬路村>
 馬路村には2度宿泊したこともある。徳島県との県境にあり、山間部に位置するとても気に入っている土地だ。また、その村の奥から徳島県の海陽町(旧:海南町)へと大小屋小石川隧道を抜ける楽しい峠道が通じる。大小屋小石川峠(仮称)に宿泊した時の様子を少し記した。そんなこともあり、馬路村はこれまで何度も訪れている。

   
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大小屋小石川隧道 (撮影 1997. 9.27)
海南町(現海陽町)側坑口の様子
この後、馬路村、北川村と進み、四郎ヶ野峠を越えた
(今回の峠とは特に関係なし)

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隧道の扁額 (撮影 1997. 9.27)
この峠に峠名はないようだ

   

<裏口ルート>
 馬路村へ至る本来のルートは、土佐湾岸沿いに通じる国道55号線から安田町で県道12号に入り(地理院地図)、安田川沿いに18Km余り遡ると村の中心地(地理院地図)に至る。これが一般的で、正面ルートといったところだ。それとは反対側の北側から入る裏口ルートがある。それには今回の四郎ヶ野峠の道が欠かせない。正面ルートだけでは面白くないので、ついつい裏口ルートを使うことの方が多かった。

   

<掲載理由>
 前回掲載した旭(ノ)丸峠を初めて越えた日(1997年9月27日)、この四郎ヶ野峠も越えている。それでこの峠のことを思い出し、ついでに掲載しようと思った。 また、余談ながら四郎ヶ野峠越えの時に立ち寄った竹屋敷(たけやしき)集落と、それに関係する吹越峠(ふっこしとうげ)についても少し触れる。ただ、吹越峠は越えたことはない。

   

<所在>
 峠は概ね東西方向に通じ、峠の東側は高知県安芸郡(あきぐん)東洋町(とうようちょう)大字野根(おおあざのね)となる。一方、西側は同郡北川村(きたがわむら)大字安倉(おおあざあぐら)である。
 
<町村(余談)>
 ところで、町村名に付く町は「まち」か「ちょう」か、村は「むら」か「そん」か、訓読みと音読みのどちらか分からない時が多い。関西以西では主に「ちょう」と「そん」になるようで、九州などは殆ど音読みに統一されていると言っていい。 ところが四国は中途半端だ。馬路村・北川村は「むら」と訓読みで、東洋町は「ちょう」と音読みになるのが正しいようだ。いちいち調べるのが大変である。古い地名だと分からないことも多い。
 
<野根>
 東洋町の大字野根(のね)は江戸期からの野根村(「むら」か「そん」か?)、明治22年(1889年)町村制施行による野根村、昭和13年(1938年)に町制施行で野根町となる。大字は編成せず。 昭和34年に甲浦(かんのうら)町と合併して東洋町が成立、大字野根となる。
 
<野根+甲乙丙丁>
 野根は村の時代から大字を編成しなかった為か、「野根」より小さな字(あざ)クラスの地名を持たない。ただ、野根の下に甲乙丙丁を付け、4区画に分けて住所表記を行うようだ。それによると、峠の東洋町側は野根丁(のねてい)になるらしい。
 
<安倉>
 北川村の大字安倉(あぐら)は江戸期からの安倉村、明治14年に北川村の一部になる。明治22年に新しい北川村が成立して北川・野友(のとも)の2大字を編成、安倉は大字北川の一部となる。 しかし、明治29年に大字北川が廃されて18の大字に分かれ、大字安倉が誕生する。今の北川村は野友を含めて19大字があるようだ。

   

<地理院地図(参考)>
 国土地理院地理院地図 にリンクします。


   
本ページでは地理院地図上での地点を適宜リンクで示してあります。
   

<水系>
 峠道を理解する上で川の存在は欠かせない。水系など面白い話ではないが恒例でもある。
 
<野根川水系>
 峠の東洋町側は野根川(のねがわ)水系になる。但し、その本流の源流部とは大きく異なり、支流・別役(べっちゃく)川(地理院地図)の更に支流・稲木(いなぎ)川(地理院地図)の上流部にある。東洋町側は峠道の距離が短く、川の繋がりも比較的単純で理解し易い。
 
<廃村(余談)>
 尚、元は稲木川沿いに「稲木」という集落があったそうだ。主に廃村を取り扱っている個人のホームページやブログがあるが、その一つにちょっとした掲載があった。寂しい峠を旅していると、偶然ながら廃村を見掛けることがある。 そんな時、そうしたサイトを参考にしている。後で「竹屋敷」の様子をちょっと載せようと思うが、その集落も今は廃村かもしれない。「峠」と「廃村」、どこか共通の趣向があるように感じる。
 
<奈半利川水系>
 峠の北川村側は奈半利川(なはりがわ)水系になる。峠を源頭部とする川(名前不明)が矢筈(やはず)谷川→小川川→奈半利川と次々に合流し、奈半利町で土佐湾に注いでいる。

   

<野根川水系の峠>
 野根川の源流は徳島県海陽町(旧宍喰町)の貧田丸(地理院地図)付近だが、源流近くに通じる車道の峠はないようだ。ただ、中流域に吹越峠(地理院地図)がある。それが野根川水系を代表する峠道になるだろう。しかし、吹越峠は現在通行不能のようで、そうなると四郎ヶ野峠が一番ということになる。

   

<奈半利川水系の峠>
 奈半利川の源流は馬路村北部の魚梁瀬(やなせ)地区だ。これは文句なしに大木屋小石川隧道の峠が奈半利川水系最上流部に通じる峠道となる。また、魚梁瀬地区と馬路地区を繋ぐ役目をする久木トンネル(地理院地図)が二番手となろうか。続いて小川川上流部に位置する吹越峠。四郎ヶ野峠は奈半利川水系では4番前後という存在だ。しかし、国道が通るということもあり、利用頻度は最も多いことだろう。

   

<道>
 現在、野根川河口から登って峠を越え、奈半利川河口まで一本の国道493号線が通じている。これが四郎ヶ野峠の峠道となる。ただ、ちょっと古い地図では主要県道11号・奈半利東洋線となっていた。更に古くは、この付近に通じていた野根山街道(のねやまかいどう)との関連も深く、後で少し触れたい。

   

<峠の開通>
 文献(角川日本地名大辞典)によると、主要県道奈半利東洋線は昭和38年(1963年)の開通とのこと。車道としての四郎ヶ野峠も、多分その時期に開通したものと思う。

   

<峠の歴史>
 大したことは分からない。野根山街道は古い歴史ある街道だが、その街道は四郎ヶ野峠を通っていなかった。しかし、文献には次のようなことが書かれている。
 
<新道押野線>
 古来の野根山街道は、花折峠(花折坂とも)から八丁坂―別役(べつちやく)―稲木を経て、八島に至るルートだった。しかし、天保(てんぽう)11年(1840年)の大洪水により、八丁〜八島間が土砂に埋もれ、河原と化した(新井来助日記)。 そこで、天保年間に四郎ヶ野峠を経て左手ヶ坂を下り、露ヶ谷を通って八島に至る新道押野線に変更された。
 
<左手ヶ坂>
 八丁坂、露ヶ谷の正確な位置は分からないが、左手ヶ坂なら現在の地図にも記載がある(地理院地図)。 左手ヶ坂は「さでがさか」と読むようだ。国道493号線は稲木川左岸をそのまま下るが、新道押野線は左手ヶ坂を下って押野川沿いに出る。その後、押野川沿いに本流の野根川沿いへと通じていたようだ。「露ヶ谷」とは押野川途中の谷の名称だろう。
 
<左手ヶ坂の由来(余談)>
 左手ヶ坂は急坂で新道押野線の難所であった。野根山街道は参勤交代の道でもあったが、殿様を乗せる駕籠かきは左手ヶ坂を横向きで担いだとのこと。その為、駕籠かきの片方は左肩で担ぐことになり、それで「左手」と名が付いたのこと。
 
<公的利用の廃止>
 明治3年に野根山街道中の岩佐関所が廃止される。また、新道押野線は郵便路線としても公的に使われていたが、明治7年に室戸岬まわりの郵便路線灘道へと変更される。これにより新道押野線の公的利用は廃止された。
 
 四郎ヶ野峠が本格的に使われ出したのは天保年間(1831〜1845年)以降と、もう幕末に近い時代だ。江戸期を通して使われた元の野根山街道とは歴史の深さが違う。 それでも主要県道・奈半利東洋線の車道が通じる以前から、四郎ヶ野峠が存在していたことは確かだろう。更に天保年間以前に、街道という程ではないが、地元民が利用する程度の何らかの峠道が通じていた可能性はある。
 
 車道としての歴史は、昭和38年(1963年)の主要県道・奈半利東洋線の開通、平成5年(1993年)4月の国道493号線への昇格と続き、現在に至る。個人的な印象としては、それ程交通量が多い道とは思えない。 

   

<峠名>
 文献(角川日本地名大辞典)では「四郎ケ野峠」(しろがねとうげ)で掲載されている。ここでは「四郎ヶ野峠」と記しておく。単なる「ケ」と「ヶ」のフォントの違いだ。「野」を「ね」と読むのがちょっと特異で、これは知らないと「しろがの」とでも読んでしまう。
 
<四郎ヶ野>
 峠名の由来は調べても全く分からなかった。ただ、峠付近の地名であるようだった。

   

<吹越峠>
 それでも、ちょっと気になる点が見付かった。四郎ヶ野峠から稜線上を北に7Km程行った所に吹越峠がある(地理院地図)。「吹越」は「ふきこし」とか「ふきごし」と読まれるが、文献では「ふっこし」で掲載されている。
 
<松崎四郎右衛門>
 その吹越峠の高知県側は竹屋敷(たけやしき)で、古くは阿波(徳島県)と土佐(高知県)との国境にある要衝の地だった。その為に関所が置かれた。土佐藩2代藩主・山内忠義の時、竹屋敷道番役を命じられたのが「松崎四郎右衛門」とのこと。 この人物の名前に「四郎」が付いている。
 
 四郎右衛門はこの付近一帯を統治したのではないだろうか。その為、「四郎」を冠して呼ばれる地名もあっただろう。「四郎ヶ野」とは「四郎」の「野」、この場合の「野」とは山や峰を指したのでは。具体的には「野根山」(のねやま)のことではないだろうか。かなり飛躍してしまったが。

   

<峠の立地/野根山>
 ついでなので、野根山街道の名にもなった「野根山」(のねやま)について触れる。野根山とは狭義には一つの峰(983.5m、地理院地図)である。また、広義には北川村とその南の室戸市の境界を成す、南東に延びる尾根筋をもつ山地一帯を指すそうだ。その最高点は尾根筋に立地する1,083.1mのピーク(地理院地図)で、装束(しょうぞく)山と呼ばれたり、時に装束峠(しょうぞくとうげ)と同一視される。ただ、地理院地図には別に装束峠がある(地理院地図)。一方、狭義の野根山は尾根筋から少し北に外れている。
 
<野根山街道>
 この山地の尾根筋は比較的起伏が少なく、そこに通じた道は野根山街道とか野根山越(え)と呼ばれるようになったとのこと。四郎ヶ野峠もその尾根筋上に位置するが、元の野根山街道はその手前の花折峠(坂)(地理院地図)より別役川沿いの野根へ下って行った。ただ、前述のように天保年間からは四郎ヶ野峠を通ることになったようである。

   

<峠道の役割>
 現在の四郎ヶ野峠を越える国道493号の道筋は、元の野根山街道とは全く異なる。しかし、高知県最東端の東洋町方面から、室戸岬を大回りすることなく、高知市街へと通じる道としての役割は同じと言える。

   
   
   

東洋町側

   

<東洋町より馬路村へ(余談)>
 3度目に四郎ヶ野峠を越えたのは1998年の暮れも押し迫った12月.28日で、結婚前の妻と同伴だった。妻は岬巡りが趣味なので、蒲生田岬(がもうだみさき、地理院地図)の突端まで車を走らせた。岬だけでは詰まらないと、伊座利峠(地理院地図)に寄ったりしていたら、とても時間が掛かった。国道55号に戻り、東洋町に入った頃はもう午後の5時である。冬場なので日の暮れは早い。
 
 奈半利町では野宿したこともあるが、女性と同伴で野宿と言う訳には行かない。そこで、今夜の宿を馬路村のコミュニティセンターうまじ・馬路温泉に予約してあった。以前、一人で利用したことがあり、馬路村周辺にはある程度の土地勘もあった。
 
 今ならカーナビを使って宿までの所要時間がいつでも直ぐに分かるが、当時はそんな便利なツールはない。四郎ヶ野峠に続く国道493号の分岐点まで辿り着いた時、事態が切迫していることに愕然とする思いだった。 馬路村への正規のルートは、この先室戸岬を大きくぐるりと回り、安田町から安田川沿いに延々と遡るのである。でも、そんなことをしてたら、何時間掛かるか分かったものではない。地図を眺めているだけでもめまいがする。ここは裏口ルートを行くしかない。
 
 ツーリングマップ(ル)には四郎ヶ野峠を越える道を、「地元ライダーがヨーロッパと呼ぶ快適路」と謳っている。 今もってどこがヨーロッパなのかよく分からないし、「快適路」というのにもやや異論がある。センターラインのある2車線路がどこまでも続いているなどと思ったら大間違いだ。 東洋町側の平坦地を走っている限りは快適だが、一たび山間部に入ると1.5車線幅の道になる。北川村側も大した違いはない。明るい昼間にのんびり通るなら何の問題もないが、日が暮れて急いでいる時に走るような峠道ではない。しかし、今は他に選択肢はない。
 
 馬路村への裏口ルートとは、その四郎ヶ野峠を越え、奈半利川沿いに出たら(地理院地図)、今度は県道12号・安田東洋線に乗り換え、魚梁瀬ダムの少し手前まで遡ったら(地理院地図)、そこに逆Y字の分岐があるのでそれを見逃さずに曲がり、久木トンネルを抜けて東川川沿いに馬路村の中心地まで下るというものだ。その道は何度か走っているので、地図を見なくとも頭に入っている。
 
 焦る気持ちを抑えつつ、まずは四郎ヶ野峠を目指して車を走らせた。本来なら、峠道の様子を写真に収めたりするのだが、そんな気持ちの余裕はない。そもそも日が暮れてしまって、景色など何も見えない。 道の分岐を曲がるたびに妻は不安がる。本当にこの道でいいのかと。どんどん狭い道へと入って行くように感じたようだ。それでもどうにか馬路村に着き、無事に宿にチェックインできた。部屋に入ると二人ともぐったりして、しゃべる元気もなかった。

   

<道の様子>
 東洋町側の道程は8Km程度と、さほど長くない。ただ、野根川河口の殆ど海抜ゼロメートル地点から一気に標高約450mの峠まで登るので、それなりの山岳道路となる。野根川、別役川、稲木川と続けて遡る。別役川沿いくらいから路面よりセンターラインは消える。それでも全般的に北川村側より明るい雰囲気だ。稲木川沿いでは谷の左岸の上の方を通る。殆ど押野川との分水界にも近い。

   

<眺め>
 四郎ヶ野峠は大した峠道とは思っていなかったので、写真はほとんど残らない。それでも東洋町側の様子を写したものがあった。峠の1、2Km手前で道が大きく蛇行するが(地理院地図)、その付近からの眺めがいい。稲木川の谷が一望だ。奥深さを痛感する。
 
 左手の山腹に現在の国道の道筋が確認できる。また、かつての野根山街道は右手の尾根を稲木川沿いへと下っていたのだろう。更に新道押野線はこの蛇行付近から左手ヶ坂を下り、押野川沿いへと降りて行ったようだ。
 
 北川村側ではあまり景色がなく、四郎ヶ野峠の道の中ではここが最高のビューポイントとなるだろう。

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峠からの下り途中 (撮影 1997. 9.27)
眺めがいい箇所で立ち止まる
道もこの付近だけ立派だ

   
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稲木川の谷を見渡す (撮影 1997. 9.27)
この谷に稲木の集落があったものと思う

   
   
   

北川村側

   

<奈半利町より>
 峠道の北川村側は、まずは土佐湾に面する安芸郡奈半利町(なはりちょう)の奈半利川(なはりがわ)河口近く(地理院地図)から始まる。そして、ひたすら奈半利川沿いを遡る。この区間、あまり印象がない。

   
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北川村案内図の看板 (撮影 1993. 5. 3)
野友橋の袂に立つ

<野友橋袂>
 北川村に入って間もなく、野友(のとも)橋を渡る(地理院地図)。その橋の南側の袂に案内看板が立っていた。確か、「北川村案内図」と「野根山街道遊歩道案内図」という看板が並んでいたと思う。2度にわたってその看板を写真に撮っていた。他に何か写す物がなかったのだろうかと思う。
 
 北川村案内図では野根山街道の紹介の他に、中岡慎太郎が大きく取り上げられていた。この北川村に生家があったようだ。当時は日本の歴史には全く疎かったので、「中岡慎太郎」と聞いても誰のことかさっぱり分からなかった。

   
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北川村案内図の看板 (撮影 2000. 1. 1)
この時も写真を撮っていた

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野根山街道遊歩道案内図の看板 (撮影 2000. 1. 1)

   

<中岡慎太郎(全くの余談)>
 丁度今、大河ドラマの「龍馬伝」を見返している最中だ。そこでは中岡慎太郎役を上川隆也さんが演じている。坂本龍馬については司馬遼太郎作の「竜馬がゆく」なども読んだことがあるが、中岡慎太郎と聞くと、どうしても上川隆也さんを思い浮かべてしまう。映像の影響は大きい。
 
 中岡は討幕派、坂本は開国派とやや方向性は異なるが、共に土佐藩の脱藩浪士。幕末動乱の中で活動し、そして一緒の時に暗殺された。坂本は即死だったが、中岡は暫く命を取り留めたようだ。 その間のことが「竜馬がゆく」に描写されている。中岡の写真が残るが、その笑顔は俳優の上川隆也さんに負けず劣らず、魅力的である。今なら生家の地に立つ中岡記念館に寄ってみるのだが。

   

 「野根山街道遊歩道案内図」では遊歩道は花折峠から四郎ヶ野峠に至っている。これは新道押野線のコ−スとなる。街道沿いには宿屋杉、お産杉などいわれのある箇所がいろいろある。

   

<平鍋ダム>
 奈半利川中流にある平鍋(ひらなべ)ダム(地理院地図)は重力式コンクリートダムで、昭和35年9月30日竣工とのこと。奈半利川にはその最上流に魚梁瀬(やなせ)ダムがあり、そちらの方が大規模だ。一見の価値がある。
 
 こうして峠道の途中にダムがあることは珍しくなく、時間が許す限りは立ち寄ることにしている。時にはダムを目的地として旅をすることもある。利根川最源流の矢木沢ダムなども訪れたことがあった。 険しい峠ばかり旅している訳ではなく、普通の観光もするのである。数えたことはないが、100や200のダムは見て来たと思う。

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平鍋ダム (撮影 2000. 1. 1)

   
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平鍋ダムの看板 (撮影 2000. 1. 1)

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水利使用標識 (撮影 2000. 1. 1)

   

<ダムカードとダムカレー(余談)>
 最近、無料でダムカードというのをもらえるようになった。また、ダム近くの食堂で、そのダム特性のダムカレーなるものが食べられることも多い。 そこでこの頃の旅では、ダムに行くと、もらえるものなら必ずダムカードをもらい、食べられるものなら必ずダムカレーを食べるようにしている。これまで20枚くらいのカードは集まったと思う。 もっと昔にダムカードが誕生していたら、今頃はかなりの数のコレクションができただろうと、残念でならない。この平鍋ダムでもダムカードを配布しているそうだ。これまで訪れた数々のダムを、再度訪れる時間はもうない。

   
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平鍋ダム湖 (撮影 2000. 1. 1)


<小川川沿い>
 国道493号は奈半利川本流沿いから支流の小川川沿いを進む。道の様子はあまり変化ない。一方、奈半利川本流沿いに県道12号・安田東洋線が分かれて行くが、その道が小川川を渡る二股橋は、何とも寂しい橋だ。妻が心配するのも無理はない。

   

<蛇谷林道分岐>
 途中、蛇谷林道が分岐する(地理院地図)。 その道を行くと、野根山街道近くまで行けるようだ。林道入口に「野根山街道遊歩道案内図」の看板が立っている。「蛇谷近道」とある。看板は野友橋にあった物と似ているが、地図は上下が逆さまで、ちょっと見難い。蛇谷林道は走ったことはないが、それに接続する須川林道と野川林道は走ったことがある(後述)。

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蛇谷林道入口に立つ看板 (撮影 1997. 9.27)
地図は下が北

   

<道の様子>
 四郎ヶ野峠を最初に越えたのは1993年5月のことだった。ツーリングマップには主要地方道と出ていたが、その時既に国道になっていた。その年の4月1日に昇格したばかりだったようだ。
 
 小川川沿いは殆ど何もなく、国道標識を写真に撮ったりした(下の写真、地理院地図)。住所は「具同字」とある。「ぐどうじ」と読むようだ。場所は大字安倉(あぐら)に入る直前の大字弘瀬(ひろせ)である。その中の小さな地名なのだろう。日本国中、こうした地図には載らない地名を沢山見掛ける。それぞれにいわれがあるのだろう。面白いものだと思う。

   
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国道標識が立つ (撮影 1997. 9.27)

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国道標識 (撮影 1997. 9.27)
ここは具同字(ぐどうじ)

   

 以前の国道493号は上の写真の様にセンターラインがない狭い区間を残していた。しかし、それも徐々に改修され、名実共に国道らしくなって行くのだろう。
 
 間もなく大字安倉に入る。安倉の集落が小川川対岸(右岸)に立地するようだ(地理院地図)。それが北川村最終の集落になるものと思う。

   

<竹屋敷分岐>
 奈半利川水域では2度目の大きな分岐に出る。1度目は奈半利川本流沿いに遡る県道12号・安田東洋線の分岐で、その道の行き着く先は大小屋小石川隧道であった。その峠は高知と徳島との県境になる。2度目は国道が矢筈谷川を矢筈橋で渡った先のY字の分岐だ(地理院地図)。右は国道の続きが矢筈谷川沿いに遡る。左は本流の小川川沿いに竹屋敷(たけやしき)に至る。面白いことに、幹線路の国道は支流へ支流へと進み、分岐する道の方が本流沿いへと分かれて行く。

   
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矢筈橋を渡る (撮影 1997. 9.27)
左に竹屋敷への分岐、右が峠へ


<分岐の様子>
 分岐の看板には、国道方向に「東洋町 11Km」とある。町村境の四郎ヶ野峠までは5Km足らずなので、11Kmは峠を越えた先になる。通常、「東洋町」などと隣接の町村名を挙げると、その役場までの距離を指すことが多い。しかし、11Kmでは東洋町役場(地理院地図)には届かず、国道55号にも僅かに足らない。野根川沿いくらい(地理院地図)までである。

   
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分岐の様子 (撮影 1997. 9.27)

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分岐の看板 (撮影 1997. 9.27)

   

<吹越峠>
 一方、竹屋敷までは9Kmとあり、四郎ヶ野峠よりも遠い。更に竹屋敷から林道竹屋敷線を行くと吹越峠を越えて徳島県へと通じる。四郎ヶ野峠などより、吹越峠こそが是非にでも越えたい峠であった。 しかし、残念ながら遂に越えることがなかった峠となってしまった。

   
   
   

吹越峠へ(寄り道)

   

 吹越峠は越えていないのだが、せめてその時の様子を記しておこうと思う。
 
<小川川沿い>
 矢筈橋の袂から小川川沿いを遡る。北川村の大字は安倉から菅ノ上(すげのうえ)、島(しま)、竹屋敷と変わって行くようだ。寂しい道が続く。途中、菅ノ上(地理院地図)と尾河(おごう、地理院地図)という集落名が見える。 尾河は大字菅ノ上にあるように思えるが、住所表記では竹屋敷尾河となるようだ。とても小さな集落だ。
 
 道は最初、小川川の左岸沿いに遡り、途中右岸沿いになり、また左岸に戻る(地理院地図)。 その橋の手前で電線か電話線の工事を行っていた。この直ぐ先にある竹屋敷集落の為の補修工事だろう。 狭い道なのでトラック一台で全く通れない。申し訳ないが、工事を中断して通してもらった。

   

<林道起点>
 看板通り、9Km程で竹屋敷に至る。その集落に入る直前にY字路がある(地理院地図)。左は本線を集落内へ、右は林道竹屋敷線が始まっている。林道標柱が立っていて、「路線名 林道竹屋敷線 延長2,272.0メートル」とある。また、その横に道標が立て掛けられていて、次のようにあった。
 
  左 竹屋敷製品事業所に至る 3.8粁
 (右) 宍喰町に至る 28粁
 
 林道延長の約2.3Kmは県境の吹越峠までの距離だろう。徳島県側は今は海陽町になっているが、以前の海部郡(かいふぐん)宍喰町(ししくいちょう)である。宍喰町までの28Kmとは、旧宍喰町役場(地理院地図)までの距離だろう。また、竹屋敷製品事業所とは、竹屋敷集落を抜けた先にあった馬路営林署の事業所のことだそうだ。

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林道竹屋敷敷線の起点 (撮影 1997. 9.27)
林道標柱や道標が立つ
左手奥には人家の屋根が見える

   
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林道標柱 (撮影 1997. 9.27)

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立て掛けられた道標 (撮影 1997. 9.27)

   

<林道竹屋敷線へ>
 さて、いよいよ吹越峠を目指して未舗装路の林道竹屋敷線を進む。通行止を知らせる看板などはないが、どうも嫌な予感がする。道の荒れ方が尋常じゃない。ほとんど車が通った形跡が見られない。 案の定、1Km程走ると道は通行不能になった。土砂崩れで完全に路面が埋まっている。歩いて通るのも難しい程だ。峠まで残すところ1Km余りというのに、全く残念な思いをした。

   
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林道竹屋敷線の土砂崩れ箇所 (撮影 1997. 9.27)


<吹越峠>
 吹越峠については文献(角川日本地名大辞典)だけが頼りである。それによると、吹越峠は「ふっこしとうげ」と呼ばれている。現在は峠の下に昭和15年(1940年)頃にできた吹越隧道が通じる。 ツーリングマップルでは「不安げな素堀りトンネル 水たまりあり」とコメントされていた。 また、もう出所は覚えていないが、林道竹屋敷線の開通は1954年だと何かで見た覚えがある。しかし、隧道の開通時期とかなり食い違う。
 
 文献では元の峠の標高は641mとなっていたが、現在の地理院地図の等高線では600m余りで、隧道坑口の標高も560mくらいだ。竹屋敷と旧宍喰町船津との間に吹越隧道を越えて林道が通じる。大戦後の数年間はバスが運行されたそうだ。
 
 かつての峠道は船津からの登りがきつく遠い道程で、「七曲り」と呼ばれたそうだ。それでも両県、両国の間の人や物資の交流は盛んで、峠を挟んだ婚姻関係も結ばれたとのこと。

   
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竹屋敷集落内に架かる橋 (撮影 1997. 9.27)
ここでUターン

<竹屋敷集落の様子>
 吹越峠は諦め、折角ここまでやって来たので、竹屋敷集落の方へ進んでみた。間もなく沿道に数軒の人家が現れた。酒屋などの商店を営んでいそうな建物も見える。人影はなかったが、乗用車が停められたりしていて、人の営みは感じられた。
 
 しかしそれも、林道分岐から200mくらいで集落は途切れ、その先には寂しい道が延びるばかりだ。丁度脇に流れる小川川に橋が架かっていたので、そこでジムニーを転回した。

   
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竹屋敷集落の様子 (撮影 1997. 9.27)
ジムニーは国道方向に向く
右手の建物は酒屋などの商店だろうか
江戸期にはこの地に関所も置かれた

   

<竹屋敷>
 文献によると「竹屋敷」のいわれは、「平家の残党林田某が土着して開拓したといわれ、林田氏の屋敷が竹で生い茂っていたことから竹屋敷と称されるようになり、のち地名に転じたと伝える」、としている。江戸期からの竹屋敷村で、明治14年に北川村の一部となり、以後は安倉と同じような経緯を辿る。
 
 前述のように、吹越峠の土佐・阿波の国境を控えた交通の要衝であり、関所なども置かれた。奈半利(現奈半利町)、安田(現安田町)、伊尾木(現安芸市伊尾木)の各方面からの道が当地で合流し、阿波国へとの交通が行われた。 また、上流方面の魚梁瀬村(現馬路村魚梁瀬)から通じる道もあったとのこと。魚梁瀬は大規模な森林鉄道で知られるが、竹屋敷にも軌道が至っていたそうだ。馬路営林署の竹屋敷製品事業所とも関係するのだろう。
 
 竹屋敷集落から上流側の小川川沿いに暫く車道が延びる。以前のツーリングマップでは県道表記になっていたこともある。しかし、その車道は馬路村魚梁瀬や県境の手前で途切れている。これで吹越峠が通れないとなると、かつての交通の要地であった竹屋敷も、今では行止りの地ということになりそうだ。
 
 吹越峠や竹屋敷集落のその後の消息は知らない。一度でいいから吹越峠(隧道)を越え、再び竹屋敷も訪れてみたかった。

   
   
   

   

<峠の様子>
 北川村側から峠に登り詰めると、暗い林が途切れた先で、ぽっかり広い空間が開ける。そこだけ光が差し込んでいるかのようだ。狭い切り通しの直前にある四郎ヶ野峠休憩所である。 正確には町村境の50m程手前だが、そこが峠だと言っても差し支えないだろう。四郎ヶ野峠を象徴する場所になっている。北側に東屋が立ち、南側にはトイレと沢山の看板が立ち並ぶ。また、それらの看板の奥から林の中へと「四国のみち」が始まっている。

   
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四郎ヶ野峠(再掲) (撮影 1997. 9.27)
手前は北川村、奥は東洋町
左手に東屋、右手にトイレや沢山の看板

   

<多くの看板>
 とにかく四郎ヶ野峠というと、看板のことしか思い浮かばない程、沢山並んでいる。初めて峠を越えた時、他に何も写真に撮らなかったが、看板が並ぶ様子だけは写して通った(下の写真)。
 
 あまり多いので目移りしてしまい、結局どの看板も読まなかった。大多数が「四国のみち」と「野根山街道」に関する物だったようだ。この四郎ヶ野峠に関する説明でもあったら良かったのにと思う。

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峠に並ぶ看板 (撮影 1997. 9.27)

   
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峠に並ぶ看板 (撮影 1993. 5. 2)


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看板の拡大 (撮影 1993. 5. 2)

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野根山街道の看板 (撮影 1997. 9.27)

<土佐東街道>
 野根山街道について詳しいことは看板などに譲る。この街道は簡単に言ってしまえばショートカットの道だ。高知城下と安芸郡甲浦(かんのうら、地理院地図)を結んだ土佐東街道(とさひがしかいどう)の一部だ。室戸岬の岬回りを避け、山道を通った。それが野根山街道である。土佐東街道一の難所となった。
 
 戦国期は長宗我部元親が四国制覇に、江戸期には山内一豊以来の土佐藩の参勤交代などに、幕末は中岡慎太郎がこの道を通って脱藩、明治初期には江藤新平が佐賀の乱に敗れて逃れて来た道であった。司馬遼太郎の作品などを読みながら、この野根山街道を思い起こすのも一興だ。

   

<四国のみち>
 「四国のみち」はその野根山街道を遊歩道として整備したものだ。但し、前述のように元の野根山街道はこの四郎ヶ野峠を通っていなかった。「四国のみち」の四郎ヶ野峠から花折峠までは新道押野線となる。

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「四国のみち」の看板 (撮影 1997. 9.27)
地図は下が北

   
   
   

須川林道と野川林道(余談)

   

<3本の林道(余談)>
 野根山街道は歩いたことはないのだが、その近くに蛇谷林道、野川林道林道、須川林道という3本の林道が通じている。当時のツーリングマップには如何にもお勧めと言わんばかりにそれらの道が描かれていた。 そこで一度だけだが奈半利町の須川林道から北川村の野川林道へと走ったことがある。残念ながら蛇谷林道は進入禁止だった。四郎ヶ野峠とはほとんど関係ないが、その時のことをちょっと記してみる(全くの余談)。
 
 野川林道の途中に技術開発指標林位置図という看板が立っていた。林道の参考になるので挙げてみる(左下の写真)。また、「四国のみち」の地図を上下反転してみた(右下の写真)。少しは林道の道筋が分かると思う。

   
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技術開発指標林位置図の看板 (撮影 1993. 5. 3)
野川林道の途中にあった

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「四国のみち」の看板の上下反転 (撮影 1997. 9.27)
地図は上が北
3本の林道が記されている

       

<須川林道>
 須川林道へは奈半利町の国道55号から分かれて須川川沿いに遡る(地理院地図)。

   
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須川林道脇の野宿の朝 (撮影 1993. 5. 3)

<野宿>
 道は間もなく未舗装となった。国道から5Km程で道は須川川沿いを離れ、左岸上部へと登って行く。その直前、須川川を渡る橋の袂付近にいい野宿地を見付けた(地理院地図)。車道から少し登った小さな高台だ。そこで一泊したのだが、夜半に強風が吹き、テントを飛ばされるという災難に遭った。その時の様子は「サラリーマン野宿旅」で記した。
 
 それにもめげず、翌日は須川林道の先へと進んだ。少し登ると、昨日の野宿地が望める箇所があった(下の写真、地理院地図)。

   
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野宿地を見下ろす (撮影 1993. 5. 3)

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野宿地 (撮影 1993. 5. 3)
車道から登った小さな高台

   

<奈半利デッカ局>
 須川川左岸上部を暫く行くと、右にしっかりした分岐がある(地理院地図)。行ってみると終点に奈半利デッカ局という施設があった(地理院地図)。看板に「四国デッカチューン 奈半利デッカ局」とある。それによると、この施設は電波により船舶が位置を計測できるようにしたものだそうだ。住所は「奈半利町 字ナカズ 後乙」となっていた。しかし、奈半利町と室戸市との境になる尾根上に位置する。海上まで電波が届くようにする為だろう。生憎、濃霧が立ち込め、電波塔などはよく見えなかった。

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奈半利デッカ局の玄関前 (撮影 1993. 5. 3)
霧で電波塔は霞んでいた

   
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四国デッカチューンの看板 (撮影 1993. 5. 3)

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「奈半利デッカ局」の表札 (撮影 1993. 5. 3)

   

 今はもうこのデッカ局は廃止されたようだ。GPS衛星を使った新しい技術の台頭などにより、デッカチューンは過去のシステムになったものと思う。単なる技術進歩の過程の一コマと言えど、どことなく儚(はかな)い気がする。
 
 私も長く研究開発職に就き、いろいろな技術開発に携わった。PE-CVDなどもその一つだ。半導体製造装置の一種になる。当時、日本は半導体立国で、世界の半導体の半分は日本で造られると言われた。 微力ながらその一役を担ったという自負はある。しかし、今はそれも全くの過去である。政府はTSMCなどを日本に誘致するようだが、明確で有効な戦略と卓越した技術力がなければ、「夢をもう一度」というのは難しいと思うのだが。

   

<野川林道へ>
 須川林道は須川川の右岸に入り、野川川との分水界の尾根を越える(地理院地図)。林道はその尾根上に通じる野根山街道の遊歩道と交差している。ここが唯一、野根山街道との接点になる。
 
 野川川水域に入ると道は野川林道となるものと思う。また、奈半利町から北川村の地になる。道は更に野川川の源流部へと奥深くに分け入って行く。荒れた未舗装路が続く。見知らぬ色鮮やかな鳥が、林道の路面上をうろうろしていた。

   
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道の様子 (撮影 1993. 5. 3)

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何かの鳥 (撮影 1993. 5. 3)

   

<蛇谷林道分岐>
 途中、右に蛇谷林道が分岐する(地理院地図)。それを行けば四郎ヶ野峠手前の国道493号に出られる筈だ。しかし、進入禁止になっていた。
 
<野川川源流部>
 野川林道は遂に野川川最源流を巻く(地理院地図)。下の写真は多分そこに架かる橋の上から撮ったものと思う。前日から続く雨模様の天気で、水かさが増していたようだ。荒々しい光景であった。

   
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野川川源流(多分) (撮影 1993. 5. 3)


 野川川の右岸に渡った野川林道は、忠実に野川川に沿って下って行く。途中、技術開発指標林位置図の看板が立っている(地理院地図)。その後、間もなく道は舗装に変わり、人家も出て来る。行く行くは野友橋の袂で国道493号に接続する(地理院地図)。

   
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技術開発指標林位置図の看板(再掲) (撮影 1997. 9.27)
林道の参考に

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看板が立つ現在地 (撮影 1997. 9.27)
野川川沿いの野川林道途中
(Google ストリートビューが丁度そこまで行っている)

   

 須川林道・野川林道共に未舗装が残る楽しい林道であった。これで蛇谷林道が通れれば、四郎ヶ野峠近くにも出られる。これらはかつての野根山街道とは関係のない車道だが、野川川の源流域に分け入り、野川山の奥深さを満喫できる。現在の国道493号より少しは野根山街道に近い存在だ。

   
   
   

 四郎ヶ野峠を越えた日は必ず馬路村に寄っている。宿泊したことも2度ある。 また、吹越峠を越えられずに残念な思いをしたり、竹屋敷集落を見て来たり、近くの須川林道・野川林道を走ったり、野宿でテントを飛ばされたりと、いろいろ記憶に残る思い出が多い。その一方、四郎ヶ野峠の峠道自身については、これと言って思い出すことがない。ただただ峠に沢山の看板が立ち並ぶ光景ばかりが頭に浮かぶ、四郎ヶ野峠であった。

   
   
   

<走行日>
・1993. 5. 2 馬路村→北川村→四郎ヶ野峠→東洋町/ジムニーにて
・1993. 5. 3 奈半利町→北川村→馬路村/ジムニーにて
・1997. 9.27 馬路村→北川村→竹屋敷往復→四郎ヶ野峠→東洋町/ジムニーにて
・1998.12.28 東洋町→四郎ヶ野峠→北川村→馬路村/ミラージュにて
・2000. 1. 1 奈半利町→北川村→馬路村/ジムニーにて
 
<参考資料>
・中国四国 2輪車 ツーリングマップ 1989年7月発行 昭文社
・ツーリングマップル 6 中国四国 1997年9月発行 昭文社
・マックスマップル 中国・四国道路地図 2011年2版13刷発行 昭文社
・角川日本地名大辞典 36 徳島県 昭和61年12月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典 39 高知県 昭和61年 3月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・その他一般の道路地図、webサイト、観光パンフレットなど
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