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栃折峠
  とちおりとうげ  (峠と旅 No.298)
  旧利賀村へと越える幹線路となる峠道
  (掲載 2018.11.26  最終峠走行 2018. 9.20)
   
   
   
栃折峠 (撮影 2018. 9.20)
手前は富山県富山市八尾町栃折
奥は同県南砺市利賀村百瀬川(菅沼)
道は国道471号(旧主要地方道・上百瀬栃折線)
峠の標高は627m (文献より)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
栃折側から見る栃折峠は味わいがある
「合掌文化村」と大きな木柱が立ち、その奥に峠の地蔵が佇む
 
 
 
   

<利賀村>
 1994年から3年続けて利賀村(現南砺市利賀村)の地に足を踏み入れている。東京方面からだとなかなか旅がしずらい土地だ。 安房トンネル開通(1997年併用開始)前だったので、飛騨山脈(北アルプス)の西側に回り込むのが一苦労である。それに利賀村の南部は岐阜県との境に険しい山が連なり、まともなアクセス路がない。 一度日本海側の富山市の方まで出て、そこから再び内陸に向かうのが常套となる。
 
 そんな利賀村がどうも肌にあったのである。旅をするにはいい所だと思った。合計4回訪れ、一度は利賀川最上流の水無谷の河原で野宿している。今考えるとクマが出てきてもおかしくないような人里離れた山奥だ。実際にもクマ注意の看板が近辺に立っていた。そんな場所でよく一人で一夜を過ごしたものだと思う。
 
 また一度ゆっくり利賀村を旅したいと思っていたが、もう野宿ができる歳ではなく、さりとて利賀村にはなかなか宿が取れなかった。やっと今年、素通りになったが利賀村を訪れることができた。最後に利賀村を旅してから22年以上が経っていた。
 
 その利賀村へ富山市街方面から向かう時に越えるのが、今回の栃折峠となる。利賀村に至るルートは少なく、その中で栃折峠は主要路の一つとなり、かつては八尾町との間で村営バスが通った道だ。しかし、なかなか険しい峠道である。これまで2〜3回越えたことがあるが、果してどのように変わっているだろうか。

   

<所在>
 現在の峠は富山県富山市八尾町(やつおまち)栃折(とちおり)と同県南砺市(なんとし)利賀村(とがむら)百瀬川(ももせがわ)菅沼(すがぬま)との境になる。 大きな2つの市に接する。それ以前は婦負郡(ねいぐん)八尾町の大字栃折と東礪波郡(ひがしとなみぐん)利賀村の大字百瀬川の町村境であった。
 尚、百瀬川には更に細かく菅沼(すがぬま)という地名があり、栃折峠の利賀村側は菅沼となる。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<水系>
 峠の八尾町側は神通川(じんづうがわ、神通川水系)の支流・井田川(いだがわ)の水域にある。この川の源流はあの楢峠だ。 最初、原山(はらやま)本谷(原山谷とも)が下り、岐阜県から富山県の八尾町大長谷(おおながたに)地区に入ると大長谷川(おおながたにがわ)と名を変え、 室牧(むろまき)・仁歩(にんぶ)地区(室牧ダム付近以降)では室牧川(むろまきがわ)と呼び、高熊(たかくま)で野積(のづみ)川と合流して井田川となる。 尚、文献(角川日本地名大辞典)では井田川の源流は岐阜県河合村(現飛騨市河合町)の山中白子(しろこ)谷としているが、その白子谷がどこなのかよく分からない。栃折峠は大長谷川区間の小さな支流の上部にある。
 
 一方、峠の利賀村側は井田川の支流・山田川(やまだがわ)の水域になる。利賀村南部から流れ下る東俣谷と西俣谷を合わせて百瀬川(ももせがわ)となり、利賀村を北流して富山市山田(旧婦負郡山田村)に入って山田川と名を変える。栃折峠は百瀬川が山田川になる直前の右岸上部に位置する。
 
 峠道は全て神通川水系に属す。

   

<利賀村の3地区(余談)>
 ところで、利賀村は水域の観点から次の3地区に大別される。
 ・口山(くちやま)地区:庄川(しょうがわ)本流沿い
 ・利賀(とが)地区:庄川支流・利賀川水域
 ・百瀬(ももせ)地区:山田川上流・百瀬川水域
 
 利賀川河口近辺の口山地区を除くと、南北方向に並行して流れる利賀川と百瀬川の2河川に沿う非常に細長い村で、富山県では最も南に位置する。最奥の岐阜県との県境を源として利賀川が流れ下り、その流域の利賀地区が最も広く、村の中心地・利賀も利賀川沿いに位置する。

   

<利賀村へのアクセス路>
 庄川沿いに国道156号が通じる口山地区を除けば、村域への第一のアクセス路は利賀川沿いに遡る道となる。現在は国道471号が通じる。
 
<河合庄川線>
 その前身は主要地方道・河合庄川線(かわいしょうかわせん)であった。その名が示す通り、岐阜県の河合村(現飛騨市河合町)から楢峠を越え(ここまで主要地方道・八尾古川線と重複)、二ツ屋峠で富山県利賀村に入り、水無谷から利賀川沿いに下り、庄川町に至るルートだ。
 
 しかし、国道471号になって大きくルートを変えた。楢峠からそのまま大長谷川沿いを延々と下り、栃折峠でやっと利賀村に入り、更に楢ノ尾峠(現新楢尾トンネル)を越えて利賀川沿いに出ている。 利賀川の上流部(水無谷)が険しい為、栃折峠へと迂回したようだ。今回(2018年)訪れた時も二ツ屋峠前後は通行止だった。現在この道は県道34号(主要地方道)利賀河合線と呼ばれる。
 
<県道水無線>
 主要地方道・河合庄川線の前身は、あまりはっきりしないが県道水無線という道があったようだ。
 
<車道開通>
 利賀村には昭和10年に井波町(いなみまち)から車道が通じたと文献にある。多分、杉谷峠(すぎたにとうげ)か栃原峠(とちわらとうげ)付近で庄川左岸の利賀村口山地区に下り、庄川を右岸へ渡り、利賀川左岸沿いへと向かったのではないだろうか。
 
<山田川沿い>
 川沿いに利賀村に入るには、もう一つ山田村方面から山田川沿いに遡るルートが考えられる。現在、県道59号(主要地方道)富山庄川線が通じるが、地図では途中から白色の道になっている。 今回訪れた時も、利賀村側からは関係者以外進入禁止の道になっていた。利賀川沿いも覆道が多い容易な道ではないが、山田川沿いは更に険しく、到底利賀村への一般的なアクセスルートには成り得ないようだ。
 
 1996年8月に山田村側からアクセスしたことがあるが、集落を過ぎた先で通行止の看板が立っていた。その後、実際に山田川沿いが通れたかどうか記憶がない。通行止の看板にも関わらず通れたような気もするが、栃折峠に迂回したような気もする。

   

<利賀村への峠(余談)>
 実質、利賀村への一般的なアクセス路は利賀川沿いの国道以外は全て峠道となる。文献などを頼りに主な峠を挙げると次のようになる。
 ・栃折峠(とちおり):旧八尾町(現富山市)との境、標高627m。
 ・杉谷峠(すぎたに):旧井波町(現南砺市)との境、標高約420m
 ・栃原峠(とちわら):旧井波町(現南砺市)との境近く、標高719m
 ・山ノ神峠(やまのかみ):旧平村(現南砺市)との境、標高890m
  新山ノ神トンネル開通
 ・牛首峠: 岐阜県大野郡白川村との境、標高1,084m
  別称:すかのこ峠
 ・二ツ屋峠: 岐阜県河合村(現飛騨市)との境、約1,255m
 ・のたのお峠:岐阜県河合村(現飛騨市)との境、標高1,330m
  のたの尾峠、野田尾峠、野田の尾峠、野田野尾峠などとも書き、
  「のだのお峠」とも呼んだ
  別称:羽根峠・原山峠
  車道未開通
 
 また、楢峠(岐阜県河合村内)は岐阜県に入る時に二ツ屋峠に続いて越えなければならない峠として関係が深い。
 
 杉谷峠・栃原峠は口山地区に関わる峠で、利賀地区や百瀬地区には直接関係しない。
 山ノ神峠は新山ノ神トンネルの開通で快適な2車線路となっている。ただ、利賀村の中心地より更に南部に位置し、庄川の上流部と繋いでいる。 富山市や砺波市の市街からは離れて行く方向で、利賀村の裏口的存在だ。
 林道の牛首峠や今も通行止の二ツ屋峠は論外である。 
 
<栃折峠の開通>
 すると、今回の栃折峠が利賀村への峠としては最重要な峠道と言える。利賀川沿いの国道に次ぐ主要アクセス路となるのではないだろうか。文献でも井波町からの車道開通に続き、「同(昭和)12年八尾町との間にも自動車道が開通」と記す。これは栃折峠のことだろう。

   

<羽根村間道(余談)>
 二ツ屋峠のページでのたのお峠について触れたが、今回、文献に羽根村間道(はねむらかんどう)という項を見付けた。のたのお峠に通じていた道はこのように呼ばれたようだ。やはり、富山平野(砺波平野)と飛騨国とを結ぶ交易路であり、「能登塩の飛騨搬入路であった」と記している。この峠は「野田の尾」という名からして、岐阜・富山県境付近に「野田」(のた、のだ)という地名があったものと思われるが、不明である。
 
 二ツ屋峠はのたのお峠の後継であることは間違いないと思う。しかし、地形図などには載って来ない名称だ。どこでこの名を知ったかもう記憶はないが、多分現地のどこかに書かれていたのだろう。車道開通に伴い新しく通じた峠で、二ツ屋峠の名もその時に生まれたものと思う。古くからある峠名ではないようだ。
 
 新道開通で元の峠は「旧野田野尾峠」などと文献は記す。その意味でも二ツ屋峠は「新のたのお峠」と呼ばれる存在だ。

   
   
   
八尾町(寄り道) 
   

<富山市街より>
 富山県ではやはり北陸の大都市・富山市街に宿を求めるのが便利である。ビジネスホテルやシティーホテルが多く、宿泊する直前でも予約が取り易い。これまで安宿ばかりだが、何度か泊まったことがある。 今回はちょっと趣向を変え、市街地から離れたかんぽの宿・富山を選んだ。予約したのが直前で他に空き部屋がなく、露天風呂付特別和洋室という部屋に泊まった。 和室とベットのある洋室、それに露天風呂が付いている。何という贅沢だ。22年前に水無谷の河原で野宿したことを思うと、感慨深いものがある。
 
 翌日は宿に隣接する王塚古墳とか、近くの各願寺(かくがんじ)を探勝してから一路八尾町へ向かう。

   

八尾町の町並み (撮影 2018. 9.20)

八尾町の町並み (撮影 2018. 9.20)
   

<八尾町>
 富山市街と利賀村の間に八尾町がある。利賀村方面との行きや帰りにはここを通過することとなる。初めて訪れた時は、幹線路というのに狭い石畳の路面が現れ、両側に古い街並みが続いた。 どこかで道を間違えたかと思った。
 今は「日本の道百選」ともなり、知られた観光地となっている。2年前に楢峠から下って来た時は、道に散策する観光客が溢れて車で通過するのに苦労した。適当な駐車場が見付からず、何も見ないで通過してしまった。今回は下調べして観光会館・富山市八尾曳舟展示館に車を停め、ゆっくり歩いて散策した。

   
八尾町の町並み (撮影 2018. 9.20)
   

 最近は、「もうこの地は二度と来ないだろう」などと思うので、悔いのないようにじっくり旅することとしている。井田川沿いの高い擁壁の上に並ぶ人家の景観なども眺めに行く。やっと今日の目的地である利賀村へと向かった時は、既に午後になっていた。

   
井田川沿いの街の景観 (撮影 2018. 9.20)
なかなか壮観
   
井田川を下流方向に望む (撮影 2018. 9.20)
   

<栃折峠の役割>
 観光会館の展示を見学していると、パネル展示の中に「栃折峠」の文字を見付けた。利賀と八尾を繋ぐ峠道として、「繭や桑、楮(こうぞ)、和紙などが運ばれた」としている。文献によると、江戸期の利賀の村々の商品作物は、塩硝(火薬の原料)を主に、生糸・楮紙・蓑・漆実・漆・白苧(しらそ)などがあったそうだ。多くは栃原峠を越えて井波町へと運ばれたが、一部は栃折峠を経て八尾町商人の手に渡ったとのこと。

   

会館内のパネル展示 (撮影 2018. 9.20)

栃折峠に関する記述 (撮影 2018. 9.20)
   

 またパネル展示では、「遠く県外の製糸工場から帰る娘たちが通る生活の糧を得る重要な道だった」としている。この「県外」とはどこのことだろうか。岐阜県とすると栃折峠は方向が違うし、製糸工場で知られた地ではない。多分、石川県ではないだろうか。利賀村を通ってどのような経路で石川県と繋いでいたのだろうかと思う。

   
   
   
室牧川沿い 
   

<国道472号>
 八尾町から栃折峠方面へは、現在は国道472号が主要路となる。その前身は主要地方道・八尾古川線(やつおふるかわせん)だったと思う。八尾町福島と岐阜県古川町(現飛騨市)とを結んでいた。河合庄川線とは楢峠を重複して越えていた。
 
 現在の国道472号は正間(まさま)トンネルの先まで快適な2車線路だ。しかし、その道筋は井田川支流の野積川から更に支流の仁部川沿いを遡り、正間トンネルを越えてやっと井田川の上流部に戻って来る。幾つもの水域にまたがり、やや変則的な道だ。
 
<県道230号>
 一方、野積川を分けた井田川上流の室牧川(むろまきがわ)沿いに県道260号・正間中線(以前は県道平沢中線)が通じる。峠道としてはこちらの方が素直である。妻にこの道を行くことを提案すると、何も知らない妻はすんなり同意するのだった。

   

県道230号 (撮影 2018. 9.20)
細滝(ほそだき)集落を過ぎた先

<八尾ダム近付>
 県道230号は室牧川に架かる八尾ダムに近付く頃には、その本性を現し始めた。室牧川右岸のやや高所に通じる寂しい道だ。正間トンネルの先の国道472号に接続するまで、約4.5Kmに渡り険しい道が続く。
 
 かつて牛首峠や二ツ屋峠をジムニーに乗って喜々として越えていた時期なら、この程度の道は何とも思わなかったろう。アスファルト舗装されていれば、それで立派な道路と思っていた。しかし、予想以上になかなか険しい。妻と一緒になって驚いてしまった。

   

<道の様子>
 とにかく道が狭い。途中、八尾ダムや室牧発電所への道を分けるが、どちらが本線か分からないような状態だ。待避所もほとんど見掛けない。 バイクが来てもすれ違いが難しいのに、車が来たらどうしろというのだ。妻はしきりにそのことを心配する。しかし、私は高をくくっていた。寂しい道は交通量も寂しい。案の定、国道472号に接続するまで、一台の車ともすれ違わなかった。


右に八尾ダムへと下る道が分かれる (撮影 2018. 9.20)
   

「県営室牧発電所」の看板が立つ (撮影 2018. 9.20)

右に室牧発電所への道が分かれる (撮影 2018. 9.20)
どちらが本線か分からない
   

右に分岐 (撮影 2018. 9.20)
下の茗温泉へ至る

<下の茗温泉分岐>
 室牧発電所への分岐から数100m行くと、また右に分岐がある。入口に「これより越中瀬戸渓谷 下の茗温泉 右へ四〇〇米」と古い看板が残っている。下の茗(したのみょう)温泉は室牧川の河畔にあり、天明7年の開湯だそうだ。かつては町営バスも通ったそうだが、今では車の進入はできようになっている。下の茗温泉は廃湯となったようだ。

   
ゲート箇所 (撮影 2018. 9.20)
行く先は「利賀、大長谷」とある
   

<ゲート箇所>
 下の茗温泉の道を分けると直ぐにゲート箇所がある。看板の行先は「利賀、大長谷」となっていた。「利賀」へは勿論栃折峠を越える。八尾市街から栃折峠へのルートとして、かつてはこの室牧川沿いの道も使われたのではないかと思わされる。


ゲートに立つ看板 (撮影 2018. 9.20)
   
ゲート箇所を上流側から見る (撮影 2018. 9.20)
   
   
   
ゲート箇所以降 
   

道の様子 (撮影 2018. 9.20)

<ゲート箇所以降>
 ゲート箇所を過ぎた県道230号は更なるパワーアップをする。谷が深くなり、それでいてガードレールに乏しい。恐ろしさを感じさせる道だ。本日は利賀村が目的なのだが、なかなか先に進まない。

   

<集落跡>
 ゲート区間は基本的に無住地帯である。ところが苔むした立派な石垣が現れた。上には平坦地が築かれている様子だ。


石垣が積まれる (撮影 2018. 9.20)
(八尾市街方向に見る)
   

左に分岐 (撮影 2018. 9.20)

 直ぐに分岐があり、そちらをのぞくと人家らしき建物が立っていた。分岐に立つ看板には「みどりの森再生事業実施地区」とあり、「私有地に付き 入山禁止」ともあった。県道沿いからは一軒の建物しか見られなかったが、道の奥には他にも人家が立つようだ。ただ、もう人が住む様子はない。

   
分岐の先の「下の名」集落の様子 (撮影 2018. 9.20)
看板には「みどりの森再生事業実施地区」とある
   
集落の様子 (撮影 2018. 9.20)
(八尾市街方向に見る)
今でも人の手が入っている様子がうかがえる
   

灯籠と神社らしい建物 (撮影 2018. 9.20)

<下の名集落>
  ここは下の名(したのみょう)という集落の跡地のようだ。下の茗温泉もこの集落直下の室牧川沿いにあったらしい。よくよく見ると、県道より少し上に灯籠や 神社の屋根らしい物も見える。沿道にも所々に空地が見られ、かつては人家が立ち、あるいは田畑が耕されていたと思わされる。

   

左手に登る道 (撮影 2018. 9.20)

右手奥にも僅かながら平坦地 (撮影 2018. 9.20)
かつては人家があったろうか
   

<お墓>
 更に沿道にはお墓が二基見られた。今でもきれいに手入れがされている。元の住民が今でも訪れている証である。


右手にお墓 (撮影 2018. 9.20)
   

お墓周辺の様子(撮影 2018. 9.20)
(八尾市街方向に見る)

左手にもお墓 (撮影 2018. 9.20)
   
   
   
下の名集落以降 
   

道の様子 (撮影 2018. 9.20)
路面に枯葉が目立つ

<寂れた道>
 既にゲート区間に入っているが、下の名集落を過ぎると、更に寂れた道となった。路面に落葉が目立ち、アスファルト道ながら荒れた感じを受ける。下の名集落までは時折元の住民が訪れるのだろうが、その先には滅多に通る車もないのだろう。
 
<急な崖>
 また、下の名集落付近は小さいながらも集落が形成されるだけあって、室牧川右岸の緩傾斜地に道が通じていた。しかし、集落を過ぎてからは急な崖が続く。 山側にはコンクリートを固めた壁がそそり立ち、その上の生い茂った木々が路上に張り出して来ている。今にも崩れそうだ。当然ながら落石注意の看板のオンパレードである。川側は路肩の直ぐ先が鋭く谷へと切れ落ちている。脱輪は命取りとなろう。

   
道の様子 (撮影 2018. 9.20)
急な崖沿いに道が通じる
(八尾市街方向に見る)
   

<ガードレール>
 また、下の名集落を過ぎてから、パッタリとガードレースを見なくなった。最小限度の箇所にしかガードレースがない。それだけ道の体度が低い訳だが、そもそも道幅が狭過ぎて、ガードレールを設置する余裕もない程だ。

   

道の様子 (撮影 2018. 9.20)
右手は崖だがガードレースがない

道の様子 (撮影 2018. 9.20)
(八尾市街方向に見る)
   

<谷の様子>
 木々が多く谷底は全く見えないが、深そうな谷が口を開けて待っていることをひしひしと感じさせる。室牧川・山田川・利賀川と、この辺りに並走するどの川の谷も険しく、川沿いの道は難路が多いようだ。


室牧川の谷の様子 (撮影 2018. 9.20)
   

右手に分岐 (撮影 2018. 9.20)

<室牧ダム>
 ゲート箇所から約2.5Kmで、右手に分岐が出て来る。柵が閉められていて、関係者以外立入禁止と看板が立つ。この先にある室牧(むろまき)ダムの堰堤へと下る道だ。
 
 直ぐに右手の下に大きなアーチ式の室牧ダムが見えて来る。昭和36年10月竣工のドーム型アーチ式ダムとのこと。普通は堰堤脇に道が通じ、こうして高みからダムを望むことは稀に思う。なかなか壮観な眺めだ。築造後半世紀以上が経ち、やや古さを感じる。ダムの上流側に続くダム湖と相まって、荒涼とした景観が広がった。

   
室牧ダムを望む (撮影 2018. 9.20)
   

<ダム付近>
 その荒涼さとは裏腹に、道沿いには何台もの車が並びだした。広い駐車スペースがないので、狭い路肩に置かれている。ダムの管理棟らしい建物が下から立ち上がって来ていた。 数名の作業員の立ち働く姿も見かけた。何か特別な工事でもあって、今日はこうして賑やかなのかもしれない。

   

何台もの車が並ぶ (撮影 2018. 9.20)

ダムの管理事務所らしき建物 (撮影 2018. 9.20)
ここにも2台が停まる
   

<ダムの看板>
 ダムを見下ろす沿道にダムの案内看板が立っている。それによると、この井田川(大長谷川、室牧川含む)は飛越国境(岐阜県楢峠)に発するとしている。やはり楢峠が源流でよさそうだ。
 
<蒲谷>
 ダム管理事務所の所在地は「八尾町蒲谷」となっている。文献でも室牧ダムは八尾町蒲谷(がまだん)地先にあるとあった。ただ、現在の富山市八尾町に蒲谷という地名が見当たらない。
 
<平沢>
 尚、現在の県道260号・正間中線の前身である県道平沢中線の名の元となった「平沢」という地名がある。ダム湖付近がその平沢となるようだ。ただ、平沢の集落は山一つ隔てた国道472号沿いに立地する。


ダムの案内看板 (撮影 2018. 9.20)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
ダム湖の様子 (撮影 2018. 9.20)
   

ダム湖の上流部 (撮影 2018. 9.20)
この右岸(左手)に道が続く

<ダム湖>
 ダム湖には何か名前が付けられているかと思ったが、特にないようだ。切り立つ谷間に細長く佇む。湖岸に平坦地は乏しく、観光などには向かない湖なのだろう。釣りなども難しいのではないだろうか。この湖の右岸沿いにまだまだ道が続く。険しさが伝わって来るような眺めだ。

   
   
   
室牧ダム以降 
   

<道の様子>
 ダムの管理棟以降も相変わらず狭い道が続く。しかし、ガードレールか、少なくとも古そうなコンクリートの車止めが路肩に並ぶ。多分、ダム管理事務所へはこの上流側の国道472号方面からアクセスするのだろう。その為、この区間では安全対策が進んでいるものと思う。

   

道の様子 (撮影 2018. 9.20)
狭いながらもガードレールなどが完備

道の様子 (撮影 2018. 9.20)
コンクリート擁壁と車止めの石が並ぶ
   

<道の様子>
 道の山側には、コンクリート擁壁とその手前に半分トンネルの様に上部が競り出した構造物が長く続いた。この道以外、どこにも抜けだせないという閉塞感を抱かせる。

   
道の様子 (撮影 2018. 9.20)
(八尾市街方向に見る)
   

 時折、ダム湖を望むが、こちらも殺伐としている。なかなか道の先が見えて来ないという不安が募る。


湖を望む (撮影 2018. 9.20)
   

路肩に「瀬戸の清水」 (撮影 2018. 9.20)

<瀬戸の清水>
 途中、ちょっと気を和ませるかのように、石垣の間から清水が湧き出ていた。「瀬戸の清水」とある。コップなどが置かれていて、そのまま飲めるのかもしれない。

   

瀬戸の清水 (撮影 2018. 9.20)

瀬戸の清水 (撮影 2018. 9.20)
   

ゲート箇所 (撮影 2018. 9.20)

<ゲート箇所>
 室牧川の谷沿いはこのままどこまで続くのかと思っていると、不意に道は谷沿いを離れ、林の中へと入って行く。そこにゲート箇所があった。
 
 暗いゲート箇所を抜けた先には正間(まさま)の集落が広がった。一体どこに出て来たのかという感じだ。

   

<正間集落>
 ゲート箇所を集落側から見ると、「この先は、大雨の時、通行止となります。」とか「走行注意」の看板が立つ。なかなか入り辛そうな道だ。
 
<八尾古川線>
 ゲート箇所の手前には、国道472号の正間トンネルを通らずに平沢集落へと通じる道が分かれて行く。正間トンネル開通前のツーリングマップを見ると、それがかつての県道(主要地方道)八尾古川線のルートとなる。室牧ダム沿いに通じていた県道平沢中線は、今のゲート箇所がほぼ終点であったようだ。


ゲート箇所を室牧ダム方向に見る (撮影 2018. 9.20)
   
ゲート箇所の手前の様子 (撮影 2018. 9.20)
左手奥が県道230号のゲート箇所
右手が正間トンネルをバイパスする道(旧県道八尾古川線)
手前が国道472号方向
   

<県道終点>
 現在の県道230号・正間中線は正間で国道472号に接続して終わる。県道方向の案内看板には「室牧ダム 1.2Km」とある。この県道を使って八尾町中まで行く者は稀だろう。やはりダムまでの道と考えた方がよさそうだ。

   

県道を室牧ダム方向に見る (撮影 2018. 9.20)
国道接続の直前

県道の案内 (撮影 2018. 9.20)
「室牧ダム 1.2Km」
   

この先、国道に接続 (撮影 2018. 9.20)

<国道に接続>
 ゲート箇所から100m程で県道230号は国道472号に接続する。接続箇所から正間トンネル方向はトンネル開通で新しくできた道だ。2車線路の快適な国道が通じる。

   
左が県道230号、右が国道472号の正間トンネル方向 (撮影 2018. 9.20)
   

<分岐の様子>
 国道472号からの分岐には、県道方向に「富山県 室牧ダム管理事務所」の看板や、県道を示す看板などが立つ。国道472号はこれまでも何度か走って来たが、余程気に留めていないとこの分岐には全く気付かずに通り過ぎてしまう。一般者で県道230号に関心を持つ者は少ないことだろう。


分岐に立つ看板 (撮影 2018. 9.20)
   

分岐より国道を正間トンネル方向に見る (撮影 2016.10.10)
2年前に楢峠から下って来た時
現在とほとんど変わりはない

分岐の看板も変わりない (撮影 2016.10.10)
   

正間トンネルの正間側坑口 (撮影 2016.10.10)
1992年6月の竣工

<正間トンネル(余談)>
 正間トンネル開通と共に八尾町市街から正間までの道が快適になったものと思う。それ以前はツーリングマップでは「1車線のルート」と記されてる。今は完全な2車線路だ。
 
 正間トンネル前後は緩やかな起伏の道で、峠を越えているという様な感覚はほとんどない。しかし、野積川支流・仁歩(にんぶ)川と井田川本流上部・室牧川との分水界にトンネルは通じていて、その意味では間違いなく峠越えである。

   
   
   
正間以降の国道472号 
   

<道の様子>
 暫くは快適な2車線路がそのまま続く。しかし、1Kmも行かない内に昔ながらの一車線路になった。室牧川支流・大玉生(おおだもう)川を渡る橋の少し手前である。


国道472号の様子 (撮影 2018. 9.20)
暫くは快適な2車線路
   

大玉生川を渡る橋 (撮影 2018. 9.20)
この手前から狭い道となった

大玉生川を渡る橋 (撮影 2018. 9.20)
(八尾市街方向に見る)
   

大型車の対向車 (撮影 2018. 9.20)

<室牧ダム湖右岸沿い>
 道は再び室牧ダム湖の右岸沿いに通じる。道幅は狭く、屈曲も続く。それ程交通量が多い道ではないが、ポツリポツリと対向車がやって来る。ブラインドカーブが多いので、対向車には注意が必要だ。大型の工事用車両も見掛ける。

   
室牧ダム湖を望む (撮影 2018. 9.20)
   

<冬期>
 国道472号はこのまま井田川本流に沿って上流部の楢峠を越えて行くが、冬期間は楢峠前後は閉鎖となる。しかし、井田川上流部に位置する集落にとって、八尾町市街に通じる重要な生活路である。よって、室牧ダム湖沿い付近の道は、通年通行が可能となるように維持される。
 
 一度、利賀村からの帰りに冬期の国道472号を通ったが、なかなか険しい景色が広がった。わざわざ路肩にジムニーを停め、記念写真を撮った程だった。


湖右岸沿いの道 (撮影 2018. 9.20)
   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 1994. 3.21)
冬の室牧ダム湖は険しい様相
   

<大長谷川>
 室牧ダム湖も徐々に湖というより川といった方がいい様相になる。地形図ではその辺りに「大長谷川」(おおながたにがわ)と出ている。「長谷川」は通常「はせがわ」と読むので、大長谷川を「おおながたにがわ」と読むのが何となく読みづらく感じる。
 
<大長谷村>
 室牧川の上流側が大長谷川であるが、正確には八尾町の大長谷(おおながたに)地区において、そのように呼ばれると文献にある。 現在の地図ではその大長谷地区がどこだか分からないが、明治22年から昭和32年まであった大長谷村(おおながたにむら)に相当するものと思う。富山県に於ける井田川本流の最上流部にあった村だ。
 
 室牧ダム湖より上流側の川沿いは土玉生(どだもう)・茗ケ島(みょうがしま)・栃折(とちおり)と続く。土玉生・茗ケ島は旧仁歩村であり、栃折は旧大長谷村であった。 よって、栃折に入って以降を大長谷川と呼ぶのが本筋だと思う。しかし、地形図では茗ケ島に入る前から大長谷川と記されている。まあ、室牧川や大長谷川は通称であって、井田川が正式な河川名になるのだろう。

   
湖岸の道の様子 (撮影 2016.10.10)
(八尾市街方向に見る)
   

<道の様子>
 室牧川もダム湖の様相から一般の川へと戻って行く。谷は狭まり、険しい崖沿いの道だ。それでいて路肩にはガードレールの代わりに古そうなコンクリートブロックの車止めが並ぶだけである。 もう何十年も変わらない道のように思える。道路拡幅の工事が行われるような様子も見られない。この険しい地形では、道路改修も容易ではないのだろう。ただ、長々と続く庇付きの擁壁だけは比較的新しそうだった。


擁壁が並ぶ (撮影 2018. 9.20)
(八尾町市街方向に見る)
   

茗ケ島橋を渡る (撮影 2018. 9.20)

<茗ケ島橋>
 道は茗ケ島橋を渡って初めて室牧川の左岸へ出る。室牧川から上流側では、最も大きな橋になるのではないだろうか。この橋も古そうだ。多分、室牧ダム建設に伴い架けられた時のままだろう。橋を渡っていると運悪く対向車がやって来た。しかし、離合は困難と判断したようで、対岸の橋の袂で待っていてくれた。
 
<全戸水没>
 茗ケ島橋の前後は茗ケ島の地である。しかし、この地名は今ではこの橋の名くらいでしか地図に載って来ない。茗ケ島集落は下流側の土玉生とも一緒にダム建設によって全戸水没となったそうだ。 山林などがある為、その後も大字名を残してきたとのこと。茗ケ島橋付近ではもう湖の影響は少なくなってきているが、川沿いに集落跡のような物はもう見られない。

   

茗ケ島橋を八尾市街方向に見る (撮影 2018. 9.20)
以前と変わらず、狭い橋だ

左の写真と同じ場所 (撮影 2016.10.10)
2年前の様子
   

<茗ケ島橋以降>
 対岸に移ると、少し地形が穏やかになる。それもあってか、センターラインのある2車線路が出て来た。
 
 直ぐに左手へ道が分かれる。川沿いに立つ仁歩発電所へと下る道だ。関係者以外立ち入り禁止となっていた。地形図ではその道沿いに鳥居のマークが描かれている。文献では、茗ケ島の神明社では従来通り全氏子による例祭が行われるとある。


茗ケ島橋以降の道の様子 (撮影 2018. 9.20)
対向車が待っていてくれた
その先からセンターラインが出て来る
   

2車線路からまた狭い道となる (撮影 2018. 9.20)
この付近から栃折の地となる

<栃折>
 左岸沿いの道は1Kmも行かずにまた元の狭い道に戻った。その辺りから富山市八尾町栃折となる。
 
<地名の由来>
 文献によると、この栃折の地は平安期の開拓と伝えられ、「トチの繁茂地でありこれを常食としていた」とし、「熊その他の野獣が生息し、太い木をも折ることがしばしばあったので栃折と名付けたという(婦負郡誌)」としている。他にも「700年ほどまえに平家の落人が落ちのびてきて住みついたが、当時、付近一帯にトチの木が多く、野獣が徘徊してそのトチの木を折ることが多かったので、トチオリと名づけたという(八尾町史)」との記述も見掛けた。
 
<栃折村>
 江戸期からの栃折村で、明治22年に大長谷村の大字となる。大正初期までは大字栃折村と称したそうだ。昭和32年からは八尾町の大字栃折となって行く。

   

<地蔵>
 狭い道になって暫し行くと、山側のコンクリート擁壁の陰に隠れるようにして一体の地蔵が佇む。この大長谷川沿いに通じる道は、栃折峠を越えて八尾と利賀を結んだ。 利賀の地で生産された商品作物を八尾方面の市場へと運んだ道であり、遠く県外の製糸工場へと娘たちが往来した道であった。この地蔵に手を合わせ、旅の無事を願ったかもしれない。
 
<越中街道の抜道(余談)>
 大長谷川源流の楢峠を越える道は飛騨高山と越中富山とを結ぶ越中街道として使われたようだ。 ただ、越中街道は大きく越中東街道・越中中街道・越中西街道の三街道に分かれるそうだが、そのどれでもない。いわば抜道的な存在だったらしい。 楢峠を越えて二ツ屋谷に下ることから、飛州二ツ屋村間道(ひしゅうふたつやむらかんどう)などとも呼ばれた。


地蔵 (撮影 2016.10.10)
   
地蔵 (撮影 2018. 9.20)
八尾町市街方向に見る
   

 しかし、この地蔵はその街道とは無縁のようだ。飛州二ツ屋村間道は八尾から野積川沿いに遡り、布谷(のんたに)からは野積川沿いを離れて谷折(たにおり)を経由(谷折峠)、島地(しまじ)で大長谷川沿いに出ていたとのこと。 島地は栃折よる更に上流側に位置する。その道筋の方が距離的に近い。羽根村間道なども、能登塩の飛騨搬入路であったようだが、この地蔵が居る区間は越中と飛騨との交易とはあまり縁がないのかもしれない。

   

<国道471号分岐>
 栃折に入っても沿道には人家は見られない。狭く屈曲した道が続く。地蔵を過ぎた先で大長谷川沿いを離れ、支流の白石谷沿いを少し遡る。すると、見覚えのある分岐が出て来た。楢峠方面から下って来た国道471号がここで急カーブし、白石谷沿いを栃折峠へと登って行く。

   

栃折峠への分岐の手前 (撮影 2018. 9.20)

右に栃折峠の道が分岐 (撮影 2018. 9.20)
いろいろな看板が立つ
   

<分岐の様子>
 分岐では「合掌文化村 利賀村」と書かれた大きな木柱が一番目に付く。また、利賀村に関する次のような案内看板も掛かり、ここが利賀村への入口であることは明白だ。 かつては利賀というバス停もこの分岐に立っていた筈だ。
 そばの郷 18Km
 瞑想の郷 16Km
 飛翔の郷 13Km
 富山県利賀芸術公園 14Km

 
 更に「この先は、大雨の時、通行止となります。」とも出ている。ここより大長谷川上流部は、国道471号と472号の重複区間だが、険しい道が続くのだ。その意味で、栃折峠を越える国道471号の方が本線的な位置付けとなる。

   
分岐に立つ看板など (撮影 2018. 9.20)
奥の方で道路改修工事が進んでいた
   

<2年前のこと>
 丁度2年前に楢峠から国道472号(471号と重複)を下って来た。白石谷を渡る辺りに道路看板が出ていて、やはりこの時も利賀へと国道471号が分かれていることが示されていた。

   

国道471号分岐の看板 (撮影 2016.10.10)
(八尾市街方向に見る)
左に分かれる道は白石谷を渡る旧道の跡

国道471号分岐の看板 (撮影 2016.10.10)
   

土石流危険渓流の看板 (撮影 2016.10.10)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<白石谷>
 白石谷などという小さな支流の名前など、一般の道路地図や地形図にも出て来ない。この名を知ったのは国道472号沿いに立っていた土石流危険渓流の看板のお陰である。看板の地図では川の前後付近に建物が描かれているが、人家らしい建物はほとんどない。
 
 国道471号は始め白石谷沿いに登るが、その後別の支流を横切りながら大長谷川上流方向へと進む。白石谷の上流部に栃折峠がある訳ではなかった。

   

八尾市街方向に見る分岐 (撮影 2016.10.10)
左手前が栃折峠、左手奥が八尾市街、手前が楢峠方面

栃折の看板が立つ (撮影 2016.10.10)
しかし、この付近に栃折の人家はほとんどない
   

<八尾市街方向に見る分岐の様子>
 「合掌文化村 利賀村」の標柱には八尾市街方向に見ると次のようにある。
 富山空港 28Km
 越中八尾駅 13Km

 
 こことでちょっと不思議なのは、栃折峠への国道471号に「利賀」と案内されているが、上流方向の国道471号の看板にも「大長谷、利賀」と書かれている。これはどういうことか。 

   
分岐の様子 (撮影 2016.10.10)
左にも利賀(青地の看板)、右にも利賀と看板(白地)にある
   

<栃折バイパス>
 そう言えば、2年前に訪れた時、この分岐より1Kmあまり上流側にも国道471号の分岐を示す看板が立っていた。新しいルートが既に完成していたようで、調べてみると「栃折バイパス」と呼ばれるようだ。

   

栃折バイパス分岐の看板が立つ (撮影 2016.10.10)
(八尾市街方向に見る)

栃折バイパス分岐の看板 (撮影 2016.10.10)
行先は「利賀」になっている
   

栃折バイパス分岐の様子 (撮影 2016.10.10)
(八尾市街方向に見る)

栃折バイパス分岐の様子 (撮影 2016.10.10)
(楢峠方向に見る)
   

栃折バイパス分岐の看板が立つ (撮影 2016.10.10)
(楢峠方向に見る)

<分岐の様子>
 栃折バイパスの行先は確かに「利賀」となっていた。センターラインのある立派な道だ。しかし、「合掌文化村」などの案内看板はまだなかったようだ。代わりに工事看板が立ち、何かしらの工事がまだ継続中の様だった。
 
<栃折バイパスの現状>
 栃折バイパスの建設で栃折峠の道は格段に改善される方向にある。ただ、国道471号の旧分岐から栃折バイパス入口までの1Km余りの区間は、まだまだ昔ながらの狭い道だ。これでは快適な栃折バイパスの価値も半減である。現在、その間の道路改修に着手した様子がうかがえた。
 
 ただ、大玉生川に架かる橋から茗ケ島橋までの室牧川右岸沿いは手付かずの様子だった。地形的にこの間の道路改修は容易でない。多分、大規模な橋やトンネルを新たに建造する必要があるだろう。栃折バイパスが活躍するまで、まだまだ時間が掛かりそうに思える。

   
   
   
峠への登り 
   

<国道471号を峠へ>
 栃折バイパスができつつあることなど全く考えもせず、昔ながらの分岐から国道471号を栃折峠方向へと登り始める。リアドアに付けていたドラレコが何かの工事を写していた。白石谷に大きな橋を架けているようだった。

   
峠方向より分岐を眺める (撮影 2018. 9.20)
左が八尾市街、右が楢峠方面
右手奥で大規模な道の増築工事が行われている
   

峠方向の道の様子 (撮影 2018. 9.20)
国道標識の住所は「富山市八尾町栃折」

<上百瀬栃折線>
 現在、この付近には国道471号と472号が複雑に通じる。その前は、大長谷川沿いに主要地方道・八尾古川線(やつおふるかわせん)が通じ、そこから主要地方道・上百瀬栃折線(かみももせとちおりせん)が分かれて栃折峠を越え、百瀬川を経由、上百瀬にまで通じていた。
 
 本来、旧上百瀬栃折線に入ってからが栃折峠の峠道である。旧八尾古川線(現国道472号)の区間は楢峠の峠道と言える。ただ、栃折峠の大きな役目は八尾市街と利賀村を結ぶことだ。その意味ではここまでの道筋も栃折峠に大きく関係している。

   

<道の様子>
 峠方向に見て古そうな道路情報看板が立ち、「この先、通行注意」とだけあった。雨量規制などはないようだ。栃折バイパスが通じた今、この道が改良されて行く見込みは少ない。昔ながらの寂れたアスファルト道路が細々と登って行く。

   

分岐方向に見る (撮影 2018. 9.20)

分岐の看板 (撮影 2018. 9.20)
国道471号の行先に遥か先の河合が出ている
   

<旧バス路線>
 この栃折峠を越えて車道が開通したのは昭和12年と文献にあったが、更に昭和25年からは利賀村の村営バスが八尾町と利賀村を結んだそうだ。冬期も除雪しならが運行されたとのこと。バスが通うには狭い道である。険しい峠越えだったことだろう。

   
白石谷沿いに通じる道の様子 (撮影 2018. 9.20)
   

<墓地>
 途中、墓石が一基の墓地を見掛けた。しかし、周囲に人家はない。ただ、墓地の周囲はやや広そうな敷地が見られた。かつては人が住んでいたのかもしれない。

   

沿道に墓地 (撮影 2018. 9.20)

墓地周辺の様子 (撮影 2018. 9.20)
(麓方向に見る)
   

屈曲する道 (撮影 2018. 9.20)
(麓方向に見る)

<九十九折り>
 道は白石谷沿いから別の谷へと九十九折りを登り始める。急なヘアピンカーブもあり、なかなか険しい。この栃折峠の道は20数年前に2〜3回は越えているのだが、全く記憶にない。初めて越える峠の様に新鮮な気持ちで登る。

   

<谷筋へ>
 一しきりつづら折りを登ると、別の谷筋に出た。やや落ち着いた地形となる。


谷筋に出る (撮影 2018. 9.20)
(麓方向に見る)
   

谷を詰める (撮影 2018. 9.20)

<谷を詰める>
 道は谷の左岸を登り詰める。

   

<谷筋の分岐>
 道は遂に谷を横切るが、その手前を上流方向に道が分かれる。そちらを望むと一軒の人家が立っていた。林に囲まれてひっそり佇む。


右に道 (撮影 2018. 9.20)
   
谷の上部に人家が見られる (撮影 2018. 9.20)
   

栃折バイパスの高架 (撮影 2018. 9.20)

<栃折バイパスの高架>
 道は相変わらず寂しい山の中に通じる。すると突然、目の前に巨大は構造物が現れた。栃折バイパスのことなど全く頭になかったので、一体何が起きたのかとびっくりした。

   

<栃折バイパスをくぐる>
 道はその構造物の下をくぐる。どう見ても立派な道路だ。一体この山中のどこに、そんな道が通じたのかと思った。


栃折バイパスの高架 (撮影 2018. 9.20)
(麓方向に見る)
   

再び栃折バイパスをくぐる (撮影 2018. 9.20)

<栃折バイパスのトンネル>
 道は屈曲し、再びその道路を四角いトンネルで抜ける。ぐるぐる目が回る。

   
栃折バイパスの様子 (撮影 2018. 9.20)
   

<栃折集落>
 トンネルを抜けると、数軒の家が建つ。一帯は穏やかな地形で、ほぼ坂を登り切った感がある。古いツーリングマップではこの付近に「栃折」と記されていた。今はあまり生活感は感じられなかいが、それでもゴミ収集場所が設けられていたりする。
 
 栃折集落は旧八尾町では最西端に位置する集落で、大長谷川と百瀬川に挟まれた山間部に点在する。栃折バイパスを抜けた先は栃折集落の中心的な場所かもしれないが、集落の人家はもっと広い範囲に点在するようだ。


栃折バイパスを抜けた先 (撮影 2018. 9.20)
   
栃折バイパスを振り返る (撮影 2018. 9.20)
側らの建物の窓には板が張られていた
   

集落の様子 (撮影 2018. 9.20)
ゴミ収集場所の小屋がある

集落の様子 (撮影 2018. 9.20)
道の先を見る
   

集落方向を振り返る (撮影 2018. 9.20)

<集落を抜ける>
 集落を抜ける道は真っ直ぐでなく、やや屈曲する。栃折バイパスの開通で道筋がやや変わったのかもしれない。国道471号の案内看板に従って先に進む。

   

<栃折バイパスに接続>
 訳も分からぬまま、広い通りに出た。どちらに進んでいいか咄嗟には分からない。左手が南になり、峠がある方向だが、道路看板には八尾市街とある。ここは一路右手の北へと進むようだが、そちらには何の案内看板もない。


前方が栃折バイパス (撮影 2018. 9.20)
   

栃折バイパスを八尾市街方向に見る (撮影 2018. 9.20)

八尾市街方向の看板 (撮影 2018. 9.20)
大長谷ともある
   

<栃折バイパスの様子>
 後になってこの道が栃折バイパスだと分かった。快適な2車線路だ。ただ、バイパス側からは元の国道471号方向には何の看板もない。峠方向から下って来ると、栃折バイパスだけが国道471号として扱われている状態だ。
 
 北に向かった道は直ぐにUターンし、南へと進んで行った。


栃折バイパスを峠方向に見る (撮影 2018. 9.20)
何の案内看板もない
   
栃折バイパスを八尾市街方向に見る (撮影 2018. 9.20)
左に分かれるのが元の国道471号だが何の看板もない
   
   
   
栃折バイパス以降 
   

<栃折バイパス以降>
 元の国道が栃折バイパスに接続した以降は、概ね元々の道を拡幅して2車線路にしたものと思う。快適だが沿道に人家などは皆無だ。途中、大長谷川沿いへと下る道が分かれる。地形図などを見ると、その道沿いに僅かながら人家があるようだ。

   
国道471号の様子 (撮影 2018. 9.20)
(麓方向に見る)
右手に下る道が分かれる
   

<右手に分岐>
 また暫く行くと、右手に分岐がある。入口に掲示板が立っていて、次のような標語が書かれていた。
 旅は道づれ世は情け
 森林は心のふるさと
 ここは栃折。海抜530m。

 
 その奥にも栃折の人家や神社(八幡社)、畑などがあるようだ。やはり栃折では人家はあちこちに分散しているらしい。尚、海抜530mとあったが、地形図の等高線では、この付近は標高480m前後である。


右手に分岐 (撮影 2018. 9.20)
   

分岐を麓方向に見る (撮影 2018. 9.20)
左に入る道が元の峠道だったようだ

<旧道>
 古いツーリングマップを見ると、人家や神社がある方に分かれて行く道が元の峠道だったようだ。20数年前はそちらを通ったのかもしれない。分岐より峠方向の2車線路は比較的最近に通した道らしい。
 
<眺め>
 栃折峠の道は、大長谷川沿いに続いて暗い森の中の山腹をよじ登るので、眺望には恵まれない。 それでも栃折バイパスに接続する辺りからは、比較的緩斜面の台地の上に出て来ているので、空が広がり晴れ晴れとした雰囲気だ。南東の方角に緩やかな山容の山を望む。大長谷川右岸にある袖山(852m)だと思う。

   
袖山? (撮影 2018. 9.20)
   

沿道の様子 (撮影 2018. 9.20)
(麓方向に見る)
左手の道を登れば、集落があったかもしれない
右手の道を下っても人家があるようだ

<沿道の様子>
 快適に進む道の側らには、畑や人家もあるようなのだが、一段高い所にあり、沿道からは何も見えて来ない。旧道側を走れば、集落の様子などが伺えたのだろう。

   

<快走路の行止り>
 2車線路を快適に走っていると、不意に行止りとなった。道の正面は林になっていて、もうこれ以上先には進めない。近くに何の案内看板もなく、急に放り出されたような感じだ。どこかで道を間違えたのかと思った。


快走路の行止り (撮影 2018. 9.20)
ここは右に曲がる
   

旧道方向へ進む (撮影 2018. 9.20)

<旧道方向へ>
 行止りを右に細い道が分かれて行く。そちらに進むしかない。
 
 現在はまだ道の改修途中なのだろうが、それにしても唐突に道が途切れていた。峠までもう1Kmもない地点である。これから先は山が迫っていて道が開削できず、途中で放り出したといった感じである。 多分、トンネルで峠を抜けるのではないだろうか。ただ。トンネル掘削の様子はまだ全く見られない。
 
 行止りから旧道方向へ進むと、集落側から道が登って来ていた。それに接続して以降は昔ながらの栃折峠の道だ。

   
旧道に接続 (撮影 2018. 9.20)
(麓方向に見る)
手前が峠方向、左手奥が旧道を集落方向へ、右は2車線路の行止りへ
   

<峠への登り>
 旧道に戻ってから峠までは、まだ標高差で100m近くを残す。これからは峠への最後の急な登り坂となる。
 
 道は2車線路が行止りとなった先を横切るようにして急な斜面を登って行く。昔ながらの古い道で、アスファルトの痛みも酷い。栃折バイパスが途中まで通じた現在でも、栃折峠はまだまだ険しい峠道として残る。


道の様子 (撮影 2018. 9.20)
   

集落方向を望む (撮影 2018. 9.20)
(ピンボケ)

<集落方向を振り返る>
 道の左手には栃折集落の最奥の様子がちらりと覗いた。何軒かの建物が立っている様子だった。その後は林の中に入り、視界はなくなる。
 
 
<峠直前>
 ひび割れたり、パッチワークの様な補修の跡があるアスファルト路面が続く。数回の屈曲の後、道は左手に浅い谷を望む直線路となり、そのまま峠へと続いて行った。

   
峠直前の道の様子 (撮影 2018. 9.20)
左手に谷を望む
   
   
   
峠の栃折側 
   

栃折側から峠に到着 (撮影 2018. 9.20)

<峠の様子>
 栃折峠は過去に2〜3度見てきたはずなのだが、全く記憶にない。新鮮な気持ちで眺めることとなった。
 
 栃折側からだと、谷に面して開けた場所から、急に狭く暗い切通しへと入って行く。それがまた寂しい雰囲気だ。かつてはここを路線バスが往来していたのだ。残念ながら写真も撮ってなかったので昔と比べることはできないが、多分、以前の峠とほとんど変わりはないだろう。

   
栃折側から見る峠 (撮影 2018. 9.20)
   

合掌文化村の標柱 (撮影 2018. 9.20)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<合掌文化村の看板>
 切通しの直前に立つ「合掌文化村」の標柱も古い物と思える。過去に同じような物を利賀村内でも見掛けた。 ただ、元は「利賀村」とあった所が「砺波市 利賀」と修正されているようだった。利賀村にある各施設に関して次のように案内されている。
 富山県利賀芸術公園 9km
 利賀国際キャンプ場 8km
 利賀ふるさとの森林 8km
 そばの郷 12km
 瞑想の郷 11km

 
 また、その標柱を利賀村側から八尾市街方向に見ると、
 富山市 40km
 越中八尾駅 26km

 とある(下の写真)。

   
合掌文化村の標柱を八尾市街方向に見る (撮影 2018. 9.20)
右手にあるのは地蔵堂
   

<地蔵堂>
 「合掌文化村」の標柱の背後に地蔵が佇む。峠に地蔵堂があることは文献にも記されている。ただ、それ程大きな物ではない。通常、中に安置される地蔵は古くても、地蔵堂はコンクリートなどで新しく増築されている場合が多いが、ここの地蔵堂は比較的古そうに見える。中の地蔵は、ややお顔が生々しい感じがする。

   

地蔵堂 (撮影 2018. 9.20)

地蔵堂の中の地蔵 (撮影 2018. 9.20)
   

<峠周辺の様子>
 峠の栃折側は広い路肩があり、開けた感じだ。狭い切通しとコントラストを成す。ただ、空が広いばかりで遠望はない。
 
<峠名>
 栃折峠の名は勿論八尾町側にある「栃折」という地名から来ている。利賀村に通じる峠は、一般に利賀村から見た外界側の地名で呼ばれる傾向が多い。 杉谷峠・牛首峠・二ツ屋峠・羽根峠・原山峠などがそうだ。利賀村にとって、こうした峠道が重要であったことを表しているのではないだろうか。


峠から栃折側を見る (撮影 2018. 9.20)
   

富山市の看板 (撮影 2018. 9.20)
左手に登る道がある

<看板など>
 八尾市街方向に見て「富山市」の看板と、続いて「この先は、大雨の時、通行止となります。」の看板が立つ。奥の右手に「走行注意」の電光掲示板がソーラー発電によって点滅していた。
 
<分岐>
 富山市の看板の手前から北の稜線方向へと登る道が確認できる。一方、「合掌文化村」の標柱の前から南の稜線方向へも、草に埋もれていたが道があるようだった。ただ、地形図などには何も示されていない。

   

<元の峠道>
 車道が通じる前の峠はどのようであったろうか。栃折側最終の集落から峠までの道筋はやや屈曲が多く、如何にも車道開削時にできたように思える。古くは峠直下に下る谷に沿って道が通じていたのではないかと想像するが、谷を覗き込んでももう道らしき痕跡は見られない。

   
栃折側に下る谷 (撮影 2018. 9.20)
   

<切通し>
 切通しの両側に並ぶ擁壁は、一部はコンクリートになっているが、ほとんどが石積みだ。苔むした様子は車道開通当時のままではないかと思わせる。擁壁は高くはないが、その上の木々が高く伸び、深い切通しの印象を受ける。車道開通時はもっと明るい切通しではなかったか。

   
栃折側から見る切通し (撮影 2018. 9.20)
   
   
   
峠の利賀村側 
   

<標高>
 文献では栃折峠の標高を627mとしている。これは車道開通後の値と思われるが、どうだろうか。ツーリングマップルなどでは切が良く620mと記されている。
 栃折峠では切通しの部分に道の最高所があり、現在の地形図でもその部分は620m台と読める。車道開通前は切通しがもっと浅く、今より5m〜10mくらい高い峰の鞍部に通じてたのではなかろうか。

   

<峠の利賀村側へ>
 切通しを利賀村側に抜けると、道は急カーブして行き、なかなか先が見えて来ない。逆に利賀村側から切通しを望むと、奥の方まで見通せている(下の写真)。


切通しより利賀村側を見る (撮影 2018. 9.20)
   
利賀村側から見る切通し (撮影 2018. 9.20)
   

<峠の利賀村側の様子>
 こちらも比較的開けた感じがする。ただ、地形がやや険しいのか、道は谷へと一気に下って行くようだ。

   
峠の利賀村側の様子 (撮影 2018. 9.20)
右手に林道が分岐
   

林道の様子 (撮影 2018. 9.20)

<林道分岐>
 北の稜線方向へと林道が分岐している。辛うじて車の轍も確認される。ただ、一般車通行禁止の看板が立つ。この道も地形図には描かれていない。

   
利賀村側から見る峠 (撮影 2018. 9.20)
左手に林道が分岐
   

<切通しの様子>
 利賀村側から眺める切通しも、峠らしい峠に見えて悪くはない。ただ、やはり栃折側から見た方が、印象深い気がする。

   
利賀村側から見る切通し (撮影 2018. 9.20)
   

<利賀村側の眺め>
 残念ながら峠を訪れた時は雨に見舞われ、写真撮りに歩き回るのも苦労する程だった。峠から利賀村側には深い谷が下り、眺めもそれなりに広がりそうだったが、生憎霞んでいて眺望は得られなかった。

   
利賀村側の景色 (撮影 2018. 9.20)
   
   
   
峠を利賀村に下る 
   

<百瀬川>
 栃折峠の利賀村側は今は南砺市(なんとし)になっている。南砺市利賀村百瀬川(ももせがわ)となる。井田川支流・山田川の上流部の百瀬川(こちらは河川名)水域に立地する。
 
<下百瀬川村>
 大字百瀬川は江戸期から明治22年までは下百瀬川(しもももせがわ)村であった。百瀬川(河川名)の上流側には上百瀬川村があった。明治22年に利賀村ができ、下百瀬川村も上百瀬川村も利賀村の大字となる。ところが大正2年に大字名の改称があり、下百瀬川村は「百瀬川」、上百瀬川村は「上百瀬」となった。このあたりからややこしくなる。それまで上・下が対になっていた関係が崩れる。下百瀬川は「下」が取れて河川名と同じになった。一方、上百瀬川の方は「川」が取れた。それなりに事情があってのことろうが、後世の我々からすると、どうも覚え難い大字名である。
 
<菅沼>
 かつての下百瀬川村は垣内(かいと)と呼ばれる3つの集落に分かれていたそうだ。百瀬川上流側より、島地(しまじ)・入谷(いりたに)・菅沼(すがぬま)の3垣内があった。 栃折峠が利賀側に下るのが菅沼の地である。ただ、現在の地図に菅沼の地名は見られない。昭和34年に百瀬川を堰き止めて完成した菅沼ダムにより、菅沼集落は無住となったそうだ。
 
 現在の大字百瀬川には島地・入谷の他に、入谷の直ぐ下流側に谷内(やち)という集落名が見える。旧菅沼集落の移転先かと思ったりする。

   
峠を利賀村側に下る (撮影 2018. 9.20)
   

<道の様子>
 栃折峠の八尾町側では大長谷川の幾つかの支流を渡って道が通じていたが、利賀村側では一気に本流の百瀬川へと下って行く。支流らしい支流が見られない百瀬川右岸の急斜面を、道は斜めに伝って通じる。
 
<道程>
 大長谷沿いから峠を越えて百瀬川沿いに至る峠道は短く、僅か4.5Km程だ。その内の4Km弱が八尾町側になる。利賀村側はたった700m前後で、その間真一文字に谷底へと下って行く。


道の様子 (撮影 2018. 9.20)
峠方向を望む
   

人道の入口 (撮影 2018. 9.20)
右下に小さなトンネル坑口がある

<人道>
 文献を読んでいると、「峠の南側には人道としての栃折トンネルがある」という記述を見付け、驚いてしまった。早速ドラレコを確認すると、峠から450m程下ったカーブの山側に、成程それらしきトンネル坑口があるのが見付かった。
 
 調べてみると、昭和34年12月竣功の栃折隧道だそうだ。文献では昭和25年には栃折峠を越えてバス路線も開通し、冬期も除雪しながら運行されたとあった。 その後にこの隧道が掘られたことになる。確かに坑口の位置が現在の車道の路面と一致していて、車道開通後にこのトンネルが掘られたように思われる。
 
<八尾町側の坑口>
 利賀村側の坑口標高は約590mである。八尾町側でもその辺りの標高に坑口があり、かつ最短距離とすると、トンネル長さで約370mとなる。 今の国道471号の道筋より、ずっと南に外れた地点だ。代わりに地形図では軽車道が通り、付近に人家もあるようだ。その辺りに八尾町側の坑口があるのではないか。

   

 それにしても、栃折隧道の開削は謎である。車道があるのに別に人道をわざわざ設けたのは何故か。昭和30年代なら自動車もどんどん普及して行った時代だと思う。 また、単にトンネル近辺の住民の利便性だけで、これだけのトンネルを開通させられるとは思えない。個人の力では困難な事業である。
 
 やはり冬期の積雪が関係するのではないだろうか。峠道の除雪は容易でなく、時には通行が途絶することもあっただろう。栃折峠は利賀村にとって八尾町から更にその先にある大都市・富山市に至る幹線路である。急病人の搬送などの必要性から、冬期でも通行可能なトンネルを開通させたのではないだろうか。

   

<百瀬川沿い>
 道は急坂のまま百瀬川右岸沿いに通じる道に接続する。ここより百瀬川上流方向に進むのが国道471号の続き、下流方向の道は旧山田村(やまだむら)、現在の富山市山田へと至る道だ。
 
 
<山田への道>
 ただ、山田への道の入口はバリケードが道を半分塞ぎ、「関係者以外 立入禁止」と看板にあった。旧山田村は利賀村にとって百瀬川下流側に位置する。 本来なら川に沿った道で両村は行き来ができてもおかしくない関係だ。しかし、百瀬川から山田川へと続く谷は険しく、車道の維持が難しいらしい。この様子では、利賀村と旧山田村方面との直接の交流はないように思える。


百瀬川沿いに降り立つ (撮影 2018. 9.20)
手前が峠、正面奥が百瀬川上流部へ
右手に戻るのは富山市山田方面の道
   

分岐を富山市山田方向に見る (撮影 2018. 9.20)
右手に栃折峠への国道471号が登る

山田への道にはバリケードが置かれる (撮影 2018. 9.20)
「関係者以外 立入禁止」とある
   

<峠道の終点>
 これ以上百瀬川を下ることはできないので、山田への分岐があるこの地点が峠道の終点となる。
 
 ここより百瀬川を遡ると東俣谷と西俣谷に分かれ、少なくとも東俣谷の上流では東俣峠が越えて行く。地形的には百瀬川沿いの道は東俣峠の領域となる。

   
分岐の様子 (撮影 2018. 9.20)
左が山田へ、右が峠へ
   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 1996. 8.14)
旧山田村への道は通行止にはなっていないようだが・・・
   

<富山庄川線(余談)>
 現在、旧山田村側から百瀬川沿いを遡るのは、県道59号(主要地方道)・富山庄川線となるようだ。しかし、山田村内から出ることなく、途中で切れている。 その前身は県道栗当下瀬線だったと思う。百瀬川の途中から川沿いを離れ、利賀川水域の利賀村栗当(くりとう)に至る道だ。しかし、未開通で利賀村側には抜けられないようだった。
 
 地図には栗当下瀬線に続いて百瀬川右岸沿いを利賀村に至る道が描かれている。それまで何度か利賀村を訪れ、もっと別のルートでアクセスしたいと思い、山田村から栗当下瀬線を進んだことがある。 山田村の中心地を南へ抜け、集落も過ぎ、更に進むとやがて道は未舗装となり、遂には通行止の看板がデカデカと出て来た(下の写真)。「落石・災害の為」とあった。
 
 その後、どうしたか記憶にない。あっさり諦めて引き返したか、何とか利賀村まで通行できたか、全く覚えがないのだ。通行止の写真の次に撮ったのは栃折峠下の写真(前出)になっていた。その間、百瀬川沿いを遡ったのか、大きく栃折峠に迂回したか、どちらだったのだろう。

   
県道栗当下瀬線を利賀村方向に向かうが、途中で通行止の看板が出て来た (撮影 1996. 8.14)
この後、どうしたか覚えていない
   
   
   
百瀬地区(以降は余談) 
   

 ここからは利賀村百瀬地区の峠などに関し、以前の旅の記録を交えて備忘録的に記したい。

   

一の瀬橋 (撮影 2018. 9.20)
国道標識が立つ

<一の瀬橋>
 栃折峠を利賀村へと下って来ても集落は出て来ない。百瀬川沿いに何キロも遡る必要がある。
 
 峠道に続いて国道471号は赤い欄干の一の瀬橋(いちのせはし、昭和62年11月竣功)で百瀬川左岸へ渡る。  

   

<利賀村の紹介>
 橋を渡った所に洒落たモニュメントが立っている。それに利賀村が紹介されている。
 ようこそ・・・ 
 出会いと夢 ロマンのふるさと ”とが”
 国際交流のむら

 
 以前は「合掌文化村」と書かれた標柱の様な物ばかりだったが、随分垢抜けた感じだ。ここは栃折峠を越えて来た者の利賀村への入口といったところである。


洒落たモニュメントが立つ (撮影 2018. 9.20)
   

覆道の脇から道が分岐 (撮影 2018. 9.20)
(百瀬川下流方向に見る)

<山田川左岸の道>
 百瀬川の谷は相変わらず険しく、長い覆道が続く。覆道が途切れた所から覆道上へと細い急坂が登る。百瀬川・山田川の左岸を通って山田深道(ふかどう)に至る道だ。古いツーリングマップにも載っていたが、軽車道として描かれていた。以前の県道栗当下瀬に続く道だった。
 
 現在、右岸沿いに山田に至る道が立入禁止なので、その代替となるのだろうか。道の入口には何の案内もなく、抜けられるかどうかも怪しい様子だ。ただ、進入禁止にはなっていない。

   

<越道峠>
 快適な2車線路が続く。一の瀬橋から0.5Km程の所で右手の山腹を登る道が分かれる。こちらにも案内看板などはない。それは越道峠(こえとうとうげ)を越える道の入口となる。
 
 利賀村の2大河川・利賀川と百瀬川が南北方向に流れるが、その両水域を繋ぐ峠道が数本通じる。その中で越道峠は一番北に位置する。 標高約800mの峠を越え、利賀川水域の北豆谷(きたまめだん)に至る。かつて、栃折峠に続いて越道峠を越えるルートは、八尾町方面と利賀川水域を繋ぐ最短路であったようだ。 ただ、現在は新楢尾(ならのお)トンネル(後述)が開通しているので、村内の者でも越道峠を使うことは滅多にないのではないだろうか。ただ、峠付近から高峰(たかみね、1,071m)に自動車道が通じていたりして、山仕事などには利用されるのかもしれない。


右に越道峠への道 (撮影 2018. 9.20)
   

<菅沼ダム>
 道は菅沼ダムの堰堤脇を過ぎる。廃村となった菅沼集落はこのダムの湖底に眠る。百瀬川流域では最も下流に位置した集落であったようだ。栃折峠を越えて来ると最初に菅沼集落に出た。

   

菅沼ダムの堰堤脇を過ぎる (撮影 2018. 9.20)

菅沼ダム (撮影 2018. 9.20)
昭和34年完成の重力式コンクリートダム
   

<右岸へ>
 菅沼ダムを過ぎると沿道にポツポツ建物が見られる。しかし、人家はなさそうだ。集落が出て来るまでのこの長さが、利賀村の奥深さを感じさせる。菅沼ダム湖の上流に菅沼橋が架り、道は再び右岸に戻る。

   

菅沼橋を渡る (撮影 2018. 9.20)

菅沼橋を渡った先 (撮影 2018. 9.20)
   

 以前は菅沼橋の直ぐ先に「合掌文化村」の標柱が立っていた。やっと集落が出て来るのかと思い、記念写真を撮ったが、集落はまだまだ先だった。

   
前の写真とぽぼ同じ場所 (撮影 1996. 8.14)
停めたジムニーの先に、合掌文化村の標柱がポツリと立つ
   

人家らしき建物が見える (撮影 2018. 9.20)

<下谷内>
 百瀬川沿いを3Km以上遡ってやっと人家らしき建物が現れた。標柱に「芸術と文化の山里 南砺市 利賀村」という案内も立つ。直ぐに下谷内(しもやち)と集落名を示す看板が出て来た。ここが現在の百瀬川最下流の集落となるようだ。ただ、人家はそこに一軒、あそこに一軒と、僅かに点在するばかりだった。

   

下谷内集落 (撮影 2018. 9.20)

下谷内の看板 (撮影 2018. 9.20)
   

<入谷>
 下谷内集落を抜けると金剛橋で左岸に移る。その付近が上谷内かと思ったが、人家は皆無で、建物もほとんど見られない。その内沿道が賑やかになって来たなと思うと、「入谷」(いりたに)と集落名が出て来た。

   

入谷集落に入る (撮影 2018. 9.20)

入谷の看板 (撮影 2018. 9.20)
   

<島地>
 入谷に続いて島地(しまじ)に入る。ここはガソリンスタンドなどもある大字百瀬川の中心地だ。

   

島地 (撮影 2018. 9.20)
右に国道が分かれて行く

直進は県道229号 (撮影 2018. 9.20)
右は国道471
   

<楢ノ尾峠>
 島地からは旧利賀村の中心地・利賀へと楢ノ尾峠(ならのおとうげ)が越える。現在は国道471号の新楢尾トンネルが通じている。
 
 文献には「昭和10年井波町より自動車道開通、翌年百瀬川へ延長される」とある。多分、楢ノ尾峠を越えたのではないだろうか。楢ノ尾峠は百瀬川・利賀川の両水域を直線距離約1.5Kmと最短で結び、また双方の中心地を繋ぐ立地にある。しかし、分水界となる山は険しく、通行不便な道だったようだ。
 
 その後、昭和31年に歩行用のトンネル・楢ノ尾隧道が造られた。栃折隧道は昭和34年12月の竣功だったが、利賀村に於いてほぼ同時期に人道のトンネルが2本掘られていることになる。 交通の改善が急務だったのだろう。
 
 次いで昭和41年には楢ノ尾隧道を拡張、自動車通行が可能な楢尾トンネル(延長81.8m、扁額には昭和44年7月竣工とあるそうだ)が完成している。 これにより利賀川・百瀬川両水域間の交通が格段に便利となった。同じ村内にありながら、それまで行き来が不便な利賀地区と百瀬地区がやっと繋がった訳だ。
 その一方、井波町・庄川町方面から利賀川沿いにアクセスするルートが百瀬地区にまで至り、これにより栃折峠を越えるルートの改修は後回しとなったのではないだろうか。そして今、栃折バイパスが進行しつつある。
 
 待望の楢尾トンネルだったが、その幅は3.75mと狭く、車の離合が難しいトンネルだったようだ。文献に利賀側坑口の様子を写した写真が載っていたが、乗用車1台でもう一杯である。 バスなどの大型車はギリギリだったろう。その為、今は旧トンネルの南80mくらいに並行して新楢尾トンネル(1988年竣工)が開通している。古いツーリングマップ(1988年5月発行 昭文社)では、まだ新楢尾トンネルは描かれていなかった。 こちらは快適な2車線路である。半面、栃折峠を抜けるトンネルはいつ開削されるのであろうかと思う。

   
新楢尾トンネルの百瀬川側坑口 (撮影 2018. 9.20)
快適な2車線路になった
   

<上百瀬島地線>
 国道471号が新楢尾トンネルへと分かれて行った後、代わって百瀬川沿いを遡るのは県道229号・上百瀬島地線となる。それ以前は八尾町栃折から主要地方道・上百瀬栃折線が上百瀬にまで至っていた。 その意味でも、栃折峠の道の実質的な価値は上百瀬にまで及ぶ。一方、現在の国道471号は大長谷川沿いから栃折峠を越えて百瀬川沿いになり、更に新楢尾トンネルで利賀川沿いに移るという、変則的なジグザグコースを採っている。

   

<上百瀬へ>
 百瀬川島地でまだ百瀬川を1/3しか遡っていない。ここから先の利賀村がまだまだ奥深い。大字百瀬川に続き大字上百瀬に入る。上百瀬は中村と上名(かみのみよう)の2集落に分かれるそうだ。
 
 まず中村では利賀国際キャンプ場の案内が出て来る。県道とは反対側の百瀬川右岸にある。以前、そのキャンプ場などの様子を見に行った覚えがある。 なかなか充実した施設が多く、山奥に立地する村にしては随分発展しているという印象を持った。 ただ、整ったキャンプ場より、やはり水無谷で野宿した方が自分には向いているとも感じた。


利賀国際キャンプ場付近 (撮影 2018. 9.20)
   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 1996. 8.14)
22年前の様子
   

以前の案内看板 (撮影 1996. 8.14)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<中村以降>
 上百瀬にはキャンプ場の先にも芸術公園とか交流館とか各種の施設が点在する。「天竺温泉の郷」という宿泊施設も新たにできたようだ。 もう野宿ができる歳ではないので、その天竺温泉に泊まってゆっくり利賀村を見学しようかと思った。 しかし、これまで2回予約を試み、どちらもうまく行かなかった。どうも、もう利賀村には縁がないようだ。

   

<通行止看板の箇所>
 上百瀬に入ってもまだ4Km程は百瀬川の谷は広々とし、渓谷の様な険しさを見せずに南へとほぼ真っ直ぐ延びて行く。
 
 上名集落の人家も過ぎると、県道はスキー場のある右岸へ渡るが、その先で道はなくなっている。代わって左岸沿いの道が林道上百瀬水無線となって利賀川の上流部・水無谷へと越えて行く。しかし、そちらにも長らく通行止の看板が立っている。

   
通行止看板の箇所 (撮影 2018. 9.20)
   

<看板>
 全面通行止の看板をよくよく見ると、主要地方道・利賀河合線の話だった。「水無地内 災害(道路決壊)のため」とある。 期間は平成12年6月からだ。もう16年以上が経つが、相変わらず利賀河合線の二ツ屋峠前後は通れる見込みがない。一方、この看板からすると、東俣峠を越えて水無谷沿いには行けるのかもしれない。 「全面通行止」とデカデカと出ていたので、東俣峠さえも越えられないのかと思った。工事中の看板もあったが、こちらは平成30年で終了するようである。

   

全面通行止の看板 (撮影 2018. 9.20)

発電所工事の看板 (撮影 2018. 9.20)
   

<百瀬川上流>
 通行止看板の近くに「砂防指定地 百瀬川」の看板が立つ。百瀬川の上流部は2つの百瀬川になっていた。地形図では東俣谷と西俣谷とある川だ。どちらが本流ということではなく、どちらも百瀬川源流となるようだ。


砂防指定地の看板 (撮影 2018. 9.20)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

 雨脚がひどくなり、もう車の外に出ていられない。この地は二度と来れないと思っても、もう立ち去らなければならない刻限だ。 全面通行止の看板を見たのを最後に、22年振りの利賀村を後にする。

   
   
   

 上百瀬では土砂崩れに見舞われたようで、大規模な復旧工事の真っ最中だった。雨に降られたこともあり、22年振りの利賀村はどこか寂しげな雰囲気だった。 初めて訪れた時は沿道に登り旗などが並び、意外と開けて賑やかな場所だなという印象を持ったことを思い出す。
 栃折峠は十年一日の如く、変わりがないようだ。今後、栃折バイパスの工事が進み、栃折トンネルが開通する日が来るかもしれない。 峠自身や旧道区間がこれ以上寂れずに残って欲しいと思う、栃折峠であった。

   
   
   

<走行日>
・1994. 3.21 利賀村 → 八尾町 ジムニーにて
(1994. 9.25 牛首峠から利賀村へ 水無谷で野宿 ジムニーにて)
(1994. 9.26 野宿の翌日 二ツ屋峠から楢峠へ ジムニーにて)
・1995. 5. 2 八尾町 → 利賀村 ジムニーにて
(1996. 8.13 万波峠から八尾町栃折通過 ジムニーにて)
・1996. 8.14 八尾町 → 利賀村? ジムニーにて
(2016.10.10 楢峠から八尾町栃折通過 ハスラーにて)
・2018. 9.20 八尾町 → 利賀村 ハスラーにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 16 富山県 昭和54年10月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・中部 2輪車 ツーリングマップ 1988年5月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部北陸  2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

<1997〜2018 Copyright 蓑上誠一>
   
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