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楢峠
  ならとうげ  (峠と旅 No.267)
  かつて越中と飛騨を結んで二ツ屋街道が越えた峠道
  (掲載 2016.11.30  最終峠走行 2016.10.10)
   
   
   
楢峠 (撮影 2016.10.10)
峠は岐阜県飛騨市河合町二ツ屋にある
奥は二ツ屋集落(無人)を経て河合町の中心地角川方面
手前は富山県富山市八尾町杉平の切詰方面
道は国道471号(国道472号との重複区間)
峠の標高は1,228m (文献より)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
峠は県境でも何でもないので、看板などは皆無
本来、眺めのいい峠だが、生憎霧が濃く眺望に恵まれなかった
 
 
概要 
   

<再訪>
 前回の浦の谷線の峠と同様、20年以上前に一度だけ越えた峠の再訪である。 浦の谷線の峠では、峠までどうにか辿り着けたものの、峠道の反対側が通行止で通り抜けできなかった。今回の楢峠は、長い冬期閉鎖に加え、土砂崩れなどで通行止が頻発する峠道だ。 どうなることかと思ったが、無事に完走することができた。それが嬉しくて、早々と掲載することにした。

   

<所在>
 峠は、西の両白山地と東の飛騨山脈に挟まれた富山・岐阜県境付近に広がる「飛騨山地」にある。最近は「飛騨高地」と呼ぶようだ。また、天生山系(あもうさんけい)といった呼び名もあるようだが、その領域など詳しいことは分からない。あの天生峠とも関係するのだろうか。
 
 峠道は飛騨高地の只中を南北に長く通じている。 峠の所在は岐阜県飛騨市(ひだし)河合町二ツ屋(かわいちょうふたつや)だが、峠道は実質的に飛騨市と富山県富山市八尾町杉平(やつおまちすがだいら)とを結んでいる。峠は県境にこそなっていないが、ほぼ県境越えの大きな峠である。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<河合村と八尾町>
 現在の県境は飛騨市と富山市が接しているが、以前は吉城郡(よしきぐん)河合村(かわいむら)と婦負郡(ねいぐん)八尾町(やつおまち)の境であった。飛騨市や富山市ではあまりにも範囲が広いので、河合村と八尾町で行きたい。その呼び名の方が馴染んでいる。

   

<水系>
 峠の南側、河合村市街地方面には二ツ屋谷(二ツ屋谷川とも)が流れ下って小鳥川(おどりがわ)に注ぐ。小鳥川は宮川(みやがわ)最大の支流である。宮川は北流して高原川(たかはらがわ)と合流、神通川(じんづうがわ)となって富山市で富山湾に流入する。
 
 一方、峠の北側には原山(はらやま)本谷(原山谷とも)が下り、富山県に入ると大長谷川(おおながたにがわ)と呼ばれ、その後も室牧川(むろまきがわ)・井田川(いだがわ)と名を変えて神通川に注いでいる。
 
 よって、峠道は全て神通川水系に属す。

   

<峠名>
 かつては楢ヶ峠(楢ケ峠)などとも記される。時に「楢」(なら)を「樽」(たる)と誤植されている道路地図を見掛ける。峠名の由来などは不明。楢(ナラ)の木が峠付近に多かったなどという、単純な命名の様な気がする。

   

<二ツ屋街道>
 現在、楢峠には国道471号が通じている。国道472号との重複区間でもある。国道になる直前は主要地方道・八尾古川線であった。1988年5月発行のツーリングマップではまだ県道表記になっている。しかし、1994年9月に訪れた時は、真新しい国道標識が立っていた。
 
 古くこの楢峠には二ツ屋(ふたつや)街道が通じていた。飛騨街道、飛騨裏街道、飛騨往来などとの呼称もある。飛騨(岐阜県北部)と越中(富山県)を結ぶ重要な往還であったとのこと。 飛騨側に江戸期からの二ツ屋村があり、その二ツ屋を通ることからの命名のようだ。また「飛騨」と付くことからも、主に越中側から見た街道名と思われる。
 
 二ツ屋街道は越中八尾(やつお)から飛騨二ツ屋を経て飛騨角川(つのがわ)までを指したようだ。「越中八尾」とは旧八尾町の中心地・大字福島で現富山市八尾町福島となる。 「飛騨角川」は旧河合村の中心地・大字角川で、現飛騨市河合町角川となる。 主要地方道・八尾古川線の時代は八尾町福島から河合町角川までと、それに加え更に南の旧古川町(現飛騨市)野口までが一本の県道であった。その区間は現在の国道472号が包含している。

   

<飛州二ツ屋村間道>
 文献(角川日本地名大辞典)を調べていると、「飛州二ツ屋村間道」(ひしゅうふたつやむらかんどう)という項を見付けた。 越中富山を起点とし、八尾を経由、楢峠を越えて角川に至る道という。越中側の起点が八尾と富山との違いを除けば、二ツ屋街道と同じ道を指しているようだ。 「二ツ屋」というのが「飛州」(飛騨国)にある「村」であることと、その道が「間道」であることが道の名からはっきりする。

   

<越中街道(余談)>
 飛騨街道を飛騨側から見れば越中街道となる。一般に「越中街道」と呼んだ場合、飛騨高山(岐阜県高山市の中心地)と越中富山(富山県富山市の中心地)とを結ぶ街道の総称で、その道筋はいくつかあったようだ。
・越中東街道
 高原川沿いに国境を越える。ほぼ現在の国道41号に相当
・越中西街道  
 角川(河合村)を経由し、宮川沿いに北上する国道360号と一致  
・越中中街道
 東街道の一部が少し異なる
 
 これらの越中街道が神通川(宮川と高原川)沿いに富山へ向かったのに対し、二ツ屋街道は越中西街道を角川で分かれ、山中を楢峠で越えて行った。 元から越中街道の抜け道的な存在だったようだ。その為、「間道」であり飛騨「裏街道」なのであろう。現在も国道41号や360号の補助的な存在でしかない。 余程の事情がない限り、岐阜と富山との行き来に、国道41号の代わりに楢峠を越えようなどという者は居ない。

   
   
   
旧河合村より峠へ 
   

<国道360号>
 宮川支流・小鳥川(おどりがわ)左岸沿いに通じる国道360号・越中西街道を西の天生峠方向に進む。 この道はこれまで何度も往来している。天生峠だけでも5、6回は越えただろう。ただ、天生峠がそれ程好きだからという訳でもない。 岐阜県内を旅しながら北上して来ると、いつの間にやら旧河合村に行き着いてしまうのだ。後は天生峠を越えて白川郷に出るか、楢峠で富山県に抜けるかだが、どちらも冬期通 行止が長い。国道360号が河合村の市街地に差し掛かると、電光掲示板が出ている(下の写真)。「この先 落石注意」とは天生峠のことである。 ここに「天生峠 冬期 通行止」と出ていたら、もう河合村から先、どこにも抜けられない。天生峠がダメなら楢峠は尚更通れないのだ。冬の厳しい飛騨高地が邪魔をする。 仕方なく、また岐阜県の中心地へと戻るか、国道41号で大きく東に迂回して富山県へと向かうかだ。

   

電光掲示板 (撮影 2016.10.10)
「この先 落石注意」

電光掲示板 (撮影 2001. 5. 1)
「360 天生峠 冬期 通行止」
5月初旬でも通れない
   

<河合村>
 国道は旧河合村の中心地を真っ直ぐ東西に貫いている。村役場などが並び、この付近一帯が角川(つのがわ)となる。沿道に町並みが続く様子は、ちょっとした街道の趣だ。 途中、河合村の案内図が立っている(下の写真)。飛騨市になってからはどのような看板になったか分からないが、以前の河合村当時の看板を写真に撮ってあった(右下の写真)。 小鳥川の上流部に下小鳥ダムがあるが、その湖畔で野宿した覚えがある。

   

右手に河合村の案合図が立つ (撮影 2016.10.10)

以前の河合村の案内図 (撮影 2001. 5. 1)
地図は右が北
上(西)に天生峠、右端(北)に楢峠が描かれている
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<国道471号分岐>
 角川の人家が途切れた頃、国道471号の分岐を示す道路看板が立つ。その分岐が楢峠の岐阜県側起点となる。

   

この先、右に国道471号が分岐 (撮影 2016.10.10)

国道471号分岐の看板 (撮影 2016.10.10)
その先の看板には「天生峠17Km」とある
   

<分岐の様子>
 天生峠に向かう国道360号は、小鳥川の支流・二ツ屋谷(川)を新上村橋(しんかむらはし)で渡る。一方、楢峠に向かう国道471号・472号は二ツ屋谷左岸沿いに分かれる。尚、橋の名の「上村」(かむら)とは大字角川内にあるこの付近の集落名だ。

   
分岐 (撮影 2016.10.10)
直進が新上村橋を渡って国道360号を天生峠方向
右折が国道471号・472号
   
以前の分岐の様子 (撮影 2001. 5. 1)
この時は小鳥地区連絡協議会の看板が立っていた
   

小鳥地区連絡協議会の看板の地図 (撮影 2001. 5. 1)

<復旧工事(余談)>
 2001年に訪れた時は、小鳥川流域で復旧工事が各所で行われていて、その看板が新上村橋の袂に立っていた。この付近で何か大きな災害でもあったのだろうか。二ツ屋谷についても二ツ屋谷本流とその支流・井谷で、緊急砂防工事が行われているらしかった。
 
 
<分岐の先に分岐>
 国道360号から分かれたかと思ったら、直ぐまたY字の分岐が出て来て驚く(下の写真)。実は、最初に曲がったのは国道360号からその旧道へと入ったのだ。楢峠に続く国道471号は更に右へと分かれて行く。

   
分岐の先にまた分岐 (撮影 2016.10.10)
左が国道360号旧道
右に登るのが国道471号・472号
   

<国道360号の旧道>
 元の国道360号は、今の二ツ屋谷に架かる新上村橋より100m程上流側まで湾曲して迂回していた。奥に小さな橋が架かるが、現在の新上村橋に対し、古い上村橋であろう。天生峠を越え始めた1990年代の初期の頃は、まだその橋を渡っていた。

   

国道360号の旧道方向を見る (撮影 2016.10.10)

国道360号の旧道方向を見る (撮影 2016.10.10)
二ツ屋谷左岸を少し遡って迂回している
二ツ屋谷は上村橋で渡る
   
まだ元の上村橋を渡っていた頃の国道360号 (撮影 1994. 9.26)
国道標識や道路看板などが立つ
   

<峠道の入口>
 国道360号の旧道のせいでちょっと紛らわしいが、やっと楢峠への本来の入口に立つ。峠道は概ね二ツ屋谷沿いに遡るのだが、道は一旦川沿いを離れ、左岸の高みへと少し登って行く。
 
 この峠道の入口の様子は何度か写真に撮っている。最初に楢峠を越えてこの角川へと下って来た時が下の写真だ。周囲の様子は今もそれ程変わりがないように思える。


国道471号方向を見る (撮影 2016.10.10)
   
二ツ屋峠・楢峠と越えて来た時 (撮影 1994. 9.26)
「通行不能」の看板は今とあまり変わりない
   

<入口の様子>
 2001年5月に訪れた時は、冬期通行止となる以前に、災害復旧工事により通行止であった(下の写真)。看板に国道471号と村道井谷線が全線通行止と出ていた。井谷線とは二ツ屋谷の東側に流れ込む支流・井谷沿いに延びる道だ。

   
峠道の入口 (撮影 2001. 5. 1)
この時は災害復旧工事で全面通行止
左脇にその看板が立つ
   
   
   
国道471号へ 
   

<国道標識など>
 国道471号に入ると、直ぐに国道標識が立つ。おにぎりマーク2つがくし団子の様に重なる様子は昔と変わらない。以前は「岐阜県 河合村 角川」とあったが、今は「河合」の上に「飛騨市」が追加され、「村」が「町」に変わった。

   

国道標識 (撮影 2016.10.10)
国道471号に入って直ぐに立っている

国道標識 (撮影 2016.10.10)
河合村が飛騨市になってからの物
   

<通行不能の看板>
 国道標識の直ぐ後には、大きく「通行不能」の看板が以前より立つ。国道が通行不能なのだからちょっと驚く。しかし、よくよく見ると「大型車(除く6.0m未満)」と但し書きがある。 「この先 富山県八尾町方面」とあるが、現在は正確には「富山県富山市八尾町」となるべきだ。地元の岐阜県側については修正するが、富山県側までは手が回らないのだろう。

   

通行不能の看板 (撮影 2016.10.10)
険しい峠道にはおなじみの看板

通行不能の看板 (撮影 2016.10.10)
   

<利賀河合線>
 2001年に訪れた時には、利賀河合線についても通行止であった。看板には次のようにある。
 (主)利賀河合線 利賀村水無地区(利賀川ダム〜県境)
 災害(道路決壊)のため
 全面通行止
 期間 平成12年6月15日〜当分の間

 
 主要地方道・利賀河合線とは県道34号のことで、楢峠を越えた先で国道471号から分かれ、岐阜・富山の県境を二ツ屋峠で越え、旧利賀村(現南砺市利賀村)へと至る道だ。 今回(2016年)訪れた時も、県道34号は通行止で、県境までも通れない状態だった。まさか、この平成12年(2000年)からずっと、通行止が続いているのだろうか。

   
利賀河合線通行止の看板など (撮影 2001. 5. 1)
   

国道360号方向を見る (撮影 2016.10.10)
後部のドラレコ画像より

<起点を振り返る>
 峠道の起点というのは、峠に続いて関心がある場所だ。峠を意識して旅をするようになってからは、峠と同様、道の起点の様子もよく写真に撮っていた。観光地でも何でもない所を、よくまあ撮る気になったものだと思う。
 
 特に、楢峠のこの河合村側起点は、小鳥川沿いの本線となる国道360号から二ツ屋谷沿いに支線の峠道が分岐し、峠道起点として非常に明確である。 それに、道の始まりからして狭い道で「通行不能」の看板も立つ。そんな侘しい道ながら、遥々富山県へと長い峠道がここより始まっているのだ。どこか惹かれるところがある。

   
国道360号方向を見る (撮影 2001. 5. 1)
この時、峠は通行止だったが、起点の様子だけは写真に撮った
新上村橋は既に完成している
   

道路看板 (撮影 2001. 5. 1)

<道路看板>
 楢峠方面から下って来ると、国道360号に関する道路看板が立っている。「白川郷」、「富山」、「宮川」などの文字が見える。白川郷がある白川村は以前のままのようだ。宮川村は河合村と同じく飛騨市の一部となったらしい。

   

<新上村橋建設中>
 1994年に初めて楢峠を越えて来た時も、この角川周辺の起点の様子を何枚か写真に写しておいた。 道路看板の少し峠側で道路脇の高台から二ツ屋谷や小鳥川を一望する箇所がある(下の写真)。すると、何やら国道360号が工事中であった。 二ツ屋谷の川に新しい橋を建設している真っ最中だ。現在の新上村橋である。何の花か分からないが、ちょっと洒落て赤い花と一緒に写真に収めて置いた。 別に何の役にも立たないが、二ツ屋谷の奥を迂回していた頃の古い国道の姿が残っている。せめて、こうしてホームページに掲載しておこうと思う。新上村橋はこの翌年の平成7年(1995年)2月に竣工している。

   
新上村橋建設中 (撮影 1994. 9.26)
手前を迂回しているのが旧国道360号
   
   
   
最終の人家 
   

<人家を過ぎる>
 起点から僅か200mも進むと、河合村側、しいては岐阜県側最終の人家の前を過ぎる。この先、楢峠を越え、県境を過ぎ、富山県旧八尾町杉平(すがだいら)に至るまでの約20Kmの間、人家は皆無だ。めぼしい建物もない。その付近一帯に広大な無住の地が広がっている。
 
 初めて楢峠から下って来て角川の人家を見た時は、さすがにやっと人里に降り立ったという安堵感があった。 何しろその前日は、利賀川ダムの上流・水無谷の河畔で野宿し、翌朝二ツ屋峠に続いて楢峠を越えて来たのだ。無住地帯の只中で一人夜を過ごしたのだから、少しくらい人恋しくなっても仕方ない。


最終の人家 (撮影 2016.10.10)
   
楢峠を下って来たところ (撮影 1994. 9.26)
人家が現われ、やっと一安心
   

 その時はまだ朝方だったので、楢峠から見る河合村は雲海の下に隠れ、何も見えなかった。逆に麓から見る峠方向は霧に霞んでいた(下の写真)。とにかく、無事に人里に戻れたと安堵した。

   
峠方向を望む (撮影 1994. 9.26)
上空は霧で霞む
   

<井谷線分岐>
 人家を過ぎた先にY字の分岐がある。昔は手前に看板が掲げてあって、
 ↑ 八尾町 利賀村
 村道井谷線 →

 
 と書かれていた。現在は峠方向にのみ国道471号が案内されている。
 
 古いツーリングマップには井谷線を1Km弱遡った所に井谷という集落名が記されていた。現在の地形図にも見られる。 しかし、過去に井谷線が全面通行止になったり、現在「村道井谷線」を示す看板がなくなったところを見ると、井谷の集落にはもう人が住まないのかもしれない。


右に村道井谷線が分岐 (撮影 2016.10.10)
   

井谷川を渡る (撮影 2016.10.10)

<井谷を渡る>
 道は下って支流の井谷(川)を渡り、本流の二ツ屋谷(川)の左岸へと移行する。橋の手前には黄色い看板に「この先狭小につき徐行願います」とか「降雨時通行注意」などと注意がある。
 
 橋を渡った先に黒いカバーで隠された看板が立っていたが、何の看板だろうか。その後も1つ立っていたが、工事関係の看板だろうか。その先の白い看板は禁漁に関する物だった。

   
   
   
二ツ屋谷沿い 
   

<二ツ屋谷左岸>
 落ち着いた川沿いの道が始まる。谷間は広く、あまり険しい様相はない。道の状態も良い。

   
左手に二ツ屋谷の川が流れる (撮影 2016.10.10)
   

<砂防ダム>
 途中、比較的新しそうな砂防ダムが架かっていた。堰堤上部に水の勢いを消す為らしい構造物が設けられ、ちょっと変わった物だった。2001年頃の災害復旧工事の時に造られたのだろうか。一見おとなしそうに見える二ツ屋谷ではあるが、大雨では豹変するのだろう。

   

砂防ダムと道路看板 (撮影 2016.10.10)

道路看板 (撮影 2016.10.10)
   

<道路看板>
 楢峠の道の途中では道路看板は珍しい。「富山 60Km、南砺 68Km」と出て来た。角川起点からだと八尾市街まで約45Km、富山まで約61Kmだ。 看板の「南砺 68Km」は、県道34号・利賀河合線を経由したものと思う。しかし、このコースは通行止の筈なのだが。
 
<二ツ屋谷右岸へ>
 二ツ屋谷左岸を1Km程遡ると、急カーブを曲がって川を渡り、小さなつづら折りで右岸の少し高みへと登る。橋から見る二ツ屋谷は、コンクリート護岸の水路のようだ。ここに楢峠付近一帯に降った雨水が集まって流れたら、溢れてしまうのではないかと思えた。

   

この先で二ツ屋谷を渡る (撮影 2016.10.10)

二ツ屋谷を下流方向に見る (撮影 2016.10.10)
   

<右岸沿い>
 道の荒れが徐々に目立ってくる。走り難い程ではないが、そのみすぼらしさはこの先の道の険しさを予感させる。
 
<地蔵>
 壁に埋まり込むように祠が設けられ、中に2体の地蔵が祀られていた。楢峠の道では他にも何ヵ所かでこうした地蔵が見られる。古くから二ツ屋街道が通じていた峠道なので、それなりの歴史を感じさせる。


二ツ屋谷右岸沿い (撮影 2016.10.10)
   

左手に祠 (撮影 2016.10.10)

中に2体の地蔵 (撮影 2016.10.10)
   

<道の様子>
 少し進むとまた二ツ屋谷の川が近くなり、それ程深くない谷底を川に沿って緩く蛇行して行く。谷間は狭く、視界は広がらなくなった。

   

道の様子 (撮影 2016.10.10)

道の様子 (撮影 2016.10.10)
   

老朽化した路面 (撮影 2016.10.10)
この付近に神社があったようだ

<路面状況>
 道は所々、アスファルトがほとんど剥げてしまったような箇所も出て来た。補修が行われず、昔の路面がそのまま出ているのだろう。尚、地形図にはこの付近に神社のマークが記されているが、それらしき痕跡さえも見当たらない。
 
<第2砂防ダム>
 右手にまた砂防ダムが出て来た。看板があり、
 砂防指定地 二ツ屋谷川
 二ツ屋谷川 第2砂防ダム

 
 と書かれていた。すると最初にあったのは第1砂防ダムだったのだろう。形状が似ている。ところで、「二ツ屋谷」には一般に「川」は付けないが、行政関係の看板では「二ツ屋谷川」となっていることが多い。

   

第2砂防ダムの看板 (撮影 2016.10.10)

第2砂防ダム (撮影 2016.10.10)
   

<道の様子>
 砂防ダム直前で道は小さなつづら折りを登り、ダムの上流部ではまた少し川より高い位置を進む。谷は直線的になり、ほぼ北を向く。相変わらず谷の両側には視界は広がらないが、前方に山を望む箇所もある。


第2砂防ダム以降 (撮影 2016.10.10)
   
   
   
二ツ屋へ 
   

赤城橋を渡る (撮影 2016.10.10)

<再び左岸へ>
 もう、小さな小川となった二ツ屋谷の流れを再び左岸へと渡る。そこに小さな橋が架かる。銘板がはっきりしていて、「赤城橋」とあった。どのようないわれがあって名付けられたのか知らないが、それなりの思い入れもあるのだろう。

   

赤城橋 (撮影 2016.10.10)
二ツ家谷の川を上流方向に見る
小川の様な流れ

橋の銘板 (撮影 2016.10.10)
   

<大字境の看板>
 橋を渡ると直ぐに、右の草むらの中に緑色の看板が立つ。こうして崖に隠れた地蔵や藪の中の看板が発見できるのは、動体視力のいい妻のお陰である。さすが、バドミントン部の部長をしていただけあり、シャトルを追いかけていた目は確かである。

   

右の藪の中に「二ツ屋」の看板 (撮影 2016.10.10)

二ツ屋の看板 (撮影 2016.10.10)
   

<看板の内容>
 看板には「ここから 二ツ屋」とある。その反対側を覗くと「ここから 角川」とあった。旧河合村の大字角川と大字二ツ屋との境となるようだ。赤城橋が実際の境界になっているのだろう。

   

裏には角川とある (撮影 2016.10.10)
下流方向に見る

「ここから 角川」 (撮影 2016.10.10)
   

<二ツ屋集落>
 二ツ屋谷上流部に位置するこの「二ツ屋」とは、最初角川村からの余民がこの地に入り、耕地を開墾して2戸の住居ができたことに由来するという。 江戸期から明治8年(1875年)まで二ツ屋村が存在し、戸数も5戸程度はあったそうだ。 明治8年1月23日に河合村の一部となって「二ツ屋組」と称され、明治22年(1889年)、市町村制施行からは同村の大字となっている。しかし、今は住む者はない。
 
<二ツ屋(余談)>
 2軒しか家がない「二ツ屋」とは何とも寂しい名称だが、この岐阜県や北陸、新潟県などに同じ名が多い。 近くでは高原川右岸の国道41沿いに旧神岡町(現飛騨市)の二ツ屋があり、同じような由来を持つ。 また、楢峠を富山県側に下った旧八尾町にもかつて二ツ屋村(大字二家)があり、地名を調べる上でとても紛らわしい存在だった。 それにしても2家族だけで山深い地に住み始めたのは、なかなか苦労なことだったであろう。それでも一軒だけよりはまだ心強かったのかもしれない。

   

<沿道の様子>
 二ツ屋に入ったからと言って、急に谷間が広くなる訳でもなく、川沿いに畑を耕したり人家を建てるような平坦地はほとんどない。比較的直線的だが、狭苦しい谷が続く。


道の様子 (撮影 2016.10.10)
   

大きな砂防ダム (撮影 2016.10.10)

<砂防ダム>
 暫く行くと、落差のある砂防ダムが架かる。古そうな物で、その上流側には既に多量の土砂が堆積し、深い草原と化していた。

   

<国道標識>
 この楢峠の道は、国道としてはかなり険しい部類だが、その割には国道標識が意外と多く立っている。この道が国道であることをあえて声高に主張しているかのようだ。二ツ屋に入って地名がどうなっているか見たかったが、地名のない標識であった。
 
 砂防ダムの直ぐ上流側ということで、谷底に平坦地が広がっているように見える(下の写真)。しかし、これは砂防ダム建設以降のことで、そこに畑などがあった訳ではないだろう。


国道標識 (撮影 2016.10.10)
角川方向に見る
   

砂防ダム上流部 (撮影 2016.10.10)

草原と化した川の様子 (撮影 2016.10.10)
   

<分岐(余談)>
 地図上には村道井谷線以来の分岐があることになっている。しかし、何も気付かずに通過してしまった。そこでドラレコ(ドライブレコーダー)の登場となる。 しかも、最近は後部ガラスにも取り付けている。その分岐は鋭角に分かれていたので、正面のドラレコ画像では確認し難い。 後方の画像を見ると、確かに道らしい分岐がありそうだ。しかし、草に埋もれ、車の通行は難しそうな道だった。

   

右鋭角に分岐あり (撮影 2016.10.10)

角川方向に分岐を見る (撮影 2016.10.10)
左上に登って行く
   

右岸へ (撮影 2016.10.10)

<2度目の右岸>
 また道は川面に近付き、2度目の右岸へとゆったり渡って行く。

   

<つづら折り>
 右岸に入って直ぐにS字一回分のつづら折りに入る。この道は、渡河とつづら折りが時折やって来る。


つづら折りを登る (撮影 2016.10.10)
道は下流方向を向いている
   

つづら折り途中の平坦地 (撮影 2016.10.10)

<平坦地>
 つづら折りの最初のヘアピンカーブを曲がると、左手にちょっとした平坦地が広がった。木が切り払われていて、人工的に造られたもののようだ。今は単なる草地でしかないが、以前は畑やあるいは人家があったかもしれないと思わされた。

   

<芦谷線林道分岐>
 2回目のヘアピンカーブには分岐があった。辛うじて林道標柱が立ち、「芦谷線林道」とある。路面は草だらけの未舗装で、あまり利用されている形跡はない。
 
 楢峠までの間にこうした分岐が何本か見られるが、地図上ではそれらの車道はどこにも抜けていないようだ。林業用の作業道に近い。


左手に分岐 (撮影 2016.10.10)
   

分岐の様子 (撮影 2016.10.10)

林道標柱 (撮影 2016.10.10)
   

右岸沿い (撮影 2016.10.10)

<右岸沿い>
 つづら折りを経て、道はまた二ツ屋谷右岸の高みを行く。暫く川面は車道よりずっと下だ。やや視界も広い。

   

<二ツ屋集落の跡>
 川とは反対の山側に古そうな石垣が積まれていた。後で後方のドラレコ画像を確認すると、2ヵ所ほどで石垣の上の平坦地に登る道が確認できた(下の写真)。
 
 古いツーリングマップには、丁度この辺りに二ツ屋の集落が記されていた。文献に二ツ屋村から角川まで1里(4Km)とあったが、国道360号分岐からほぼ4Kmの地点でもある。 現在の地形図にも建物の記号はないものの「河合町二ツ屋」と書かれていて、直ぐに行止りとなるが道の分岐が描かれている。多分、ここが二ツ屋集落の中心地であったのだろう。 石垣の上は何もない平坦地だが、かつてそこに人家が立っていたものと思う。 二ツ屋谷の谷間を望む高台の地だ。 文献には「過疎集落がわずかの谷間に散在している」と二ツ屋を記しているが、文献の発行年である昭和55年(1980年)頃までは、人が住んでいたようである。水田はないが山菜が豊富な土地であったとのこと。


沿道に古い石垣が見られる (撮影 2016.10.10)
   

沿道の平坦地へ登る道 (撮影 2016.10.10)
角川方向に見る

沿道の平坦地へ登る道 (撮影 2016.10.10)
角川方向に見る
   

<口留番所>
 河合村は越中との国境にあり、江戸期、村内には2つの口留番所が設けられたそうだ。羽根口とこの二ツ屋である。口留番所とは江戸幕府による関所の簡易版のような物だったらしい。 各藩が国境を通る街道筋などに設けた。二ツ屋にあった口留番所の正確な位置は分からないが、二ツ屋集落を過ぎた直ぐ先と思われる。 二ツ家谷の川を要害とし、そこを通る者達を取り締まったのだろう。二ツ屋の口留番所は毎年3月から11月まで置かれたそうで、それ以外は積雪により通行が難しかったと思われる。
 
 二ツ屋の村人の中には牛の背に荷物を載せ、楢峠の道を往来して駄賃稼ぎする者も居たようだ。安政6年(1859年)には二ツ屋村に継場問屋を置く願いが出されたという記録が残る。 二ツ屋集落を通り、楢峠を越える人や荷は少なくなかったようだ。今となっては夢のごとしである。

   

<宮ノ前橋>
 二ツ屋集落跡を過ぎると支流の川を渡る(下の写真)。地形図にはその100m程上流に鳥居が描かれている。村内には産土神の熊野社があったそうだが、それであろうか。 しかし、川沿いに伝う道はもう掻き消されている。後に、この橋は「宮ノ前橋」と分かる(後述)。その名からしても、近くに二ツ屋村の鎮守のお宮があったのだろう。

   

支流を渡る (撮影 2016.10.10)

支流に架かる橋 (撮影 2016.10.10)
積雪のせいか、欄干が曲がっている
橋の名は「宮ノ前橋」
   
   
   
集落跡以降 
   

道の様子 (撮影 2016.10.10)

<集落跡以降>
 道はいよいよ楢峠に向かって険しい登りを開始する。鋭いヘアピンカーブが何度も現れる。勾配もきつい。路面も荒れる。なかなかその険しさを写真で表せないのが残念だ。こうした道の運転にはもう慣れっこの筈の妻が、珍しく緊張している。口に出して険しいことを訴える。

   

道の様子 (撮影 2016.10.10)

道の様子 (撮影 2016.10.10)
   

 しかし、それ程危険とは思わなかった。まだ、二ツ屋谷の川に沿う道で、急斜面の断崖絶壁の上を通る訳ではない。速度を十分に落とし、きちっとカーブを曲がってさえいればいいだけである。
 
 それより、面白い写真のチャンスを逃すのがもったいなかった。ヘアピンカーブは峠道の象徴である。 手頃な場所でちょっと立ち止まってくれればいいものを、妻は運転に夢中でシャッターチャンスを次々と逃して行く。やはり精神的に余裕がないようだ。


道の様子 (撮影 2016.10.10)
   
道の様子 (撮影 2016.10.10)
前方が霞み始めた
   

<霧>
 それに、高度を上げるに従い気になることがあった。霧である。前方の山並みが霞んできている。楢峠は本来は眺めのいい峠である。しかし、この分では峠は白い霧の中かもしれない。

   
道の様子 (撮影 2016.10.10)
高度を上げて来た
   

対向車 (撮影 2016.10.10)

<対向車>
 妻が緊張するのは、一つには対向車の存在だ。離合は容易でない。実際にも登りの途中で一台だけ対向車とすれ違った。 妻が言うには、作業服のような物を着ていたらしいので、何かの仕事でこんな道を走っているのだろう。普段なら、滅多に対向車に出くわすことはない。 相手のドライバーは非常に手慣れたもので、こちらに気付くと同時に車を脇に除け、直ぐにパッシングで合図して来た。こうした道に走り慣れているところから見ても、やはり仕事関係の車だったのだろう。

   

<道の様子>
 徐々に険しさはエスカレートしていく。次々と急坂・急カーブが襲って来る。さすがに我慢できず、妻に注文して途中で車を何度か停めさせ、写真を撮る。しかし、なかなかいいアングルにならない。楢峠だけで1000枚くらい撮ったが、面白い物は少なかった。
 
 相変わらず時々国道標識が立っている。積雪の為か、おにぎりマークが曲がっていることが多い。それと、やっと地名が出て来た。「河合村 二ツ屋」とある。「町」へは変わっていない。こんな山奥の看板までは修正できないのだろう。


道の様子 (撮影 2016.10.10)
   

道の様子 (撮影 2016.10.10)

曲がった国道標識 (撮影 2016.10.10)
「河合村 二ツ屋」とあった
   

道の様子 (撮影 2016.10.10)

<霧が深くなる>
 峠からの眺望はやはりダメそうだ。進むにつれ、霧がどんどん深くなる。初めて楢峠を越えて来た時は、運よく晴天だった(下の写真)。峠の旅は季節や時間、天候に大きく左右される。

   
上の写真とほぼ同じ場所 (撮影 1994. 9.26)
この時は晴天だった
ガードレールや路面の補修もまだ新しい
   

<道の様子>
 道は二ツ屋谷上流部の左岸に通じている。小刻みな屈曲に大きな屈曲が重なったような道筋となる。高度を増し、如何にも山岳道路の雰囲気だ。 砂利道かと疑いたくなるような剥げたアスファルトや、武骨なコンクリート舗装なども出て来て、険しさに拍車をかける。それにしても残念なのは、遠望がないことだ。麓方向も霞んで来た。


麓方向の景色 (撮影 2016.10.10)
今回は霧模様
   

道の様子 (撮影 2016.10.10)
これでも未舗装ではない

道の様子 (撮影 2016.10.10)
大きく屈曲して登る道
   
道の様子 (撮影 2016.10.10)
今走って来た道を振り返る
   

道の様子 (撮影 2016.10.10)
細かな屈曲も続く

<道の感想>
 楢峠のこの角川方面(南)側は、如何にも峠道らしい様相を呈する。険しい車道の峠道とは、かくありきといった感じだ。ここが国道だろうが何だろうが、もうそんなことは関係ない。峠道らしさを十分満喫できる道である。
 
 この屈曲の多さは、多分車道開通によって生じたものと思う。牛の背に荷を積んで越えていた頃の道筋とは、やはり少し異なるのだろう。車道としての面白みはあるが、古くからの峠道という味わいを感じることはない。

   
道の様子 (撮影 2016.10.10)
   
麓側の景色 (撮影 2016.10.10)
   

<雲海(余談)>
 初めて楢峠を訪れた時、峠で写した2枚の写真を最後に、手持ちの写真フィルムが尽きた。もう、街中に出て写真屋を見付けるまで何も写せない。 諦めて峠を角川方面へと少し下って来ると、路肩に1台の乗用車が停まり、その側で一人の男性が熱心に写真撮影をしていた。 まだ朝方で、眼下の山麓には一面の雲海が広がり、それを撮っている様子だった。雲海を写していることがはっきりしているので、まあ不審者ではない。 こちらも景色を眺める積りで車を降り、その男性に近付いていった。多分、不審なのは私の方だったろう。 オンボロのジムニーに乗り、薄汚れた野宿姿をした男が一人、朝早くから無人地帯の県境方面から現れ出て来たのである。
 
 雲海について詳しいその男性からいろいろ話を聞いている時、フィルムが切れたのでこのいい景色も写せないんだと話すと、予備のフィルムを譲ってくれると言う。 最初は遠慮したが、結局jただで頂くこととした。ただ、ジュラルミンケースから取り出してきた36枚撮りのフィルムは、ポジフィルムだった。 これまで一般的なネガフィルムしか使ったことがなかったので、どうやって使えばいいのか分からない。わざわざその説明もしてもらった。 そのお陰で、雲海を写したり、建設途中の新上村橋も撮ることができたのだった。
 
 一つ残念なのは、当時のカメラにはパノラマモードというのがあった。 スイッチをそのモードに切り替えると、左右の画角が広がる訳ではなく、上下の画角が狭くなって、35mmフィルムの上と下に、何も映らない部分ができてしまう。 折角のフィルムも、その面積の約1/3が無駄になるのだ。そんなパノラマモードなど、全く使う気はなかったが、いつの間にやらスイッチが切り替わっていた。 ファインダーを覗いただけではそのことに気が付かない。自分ではもっと広い範囲を写していた積りが、全て横長の景色になってしまった。

 
峠道途中から眺める雲海 (撮影 1994. 9.26)
もらったフィルムで撮影
   

 雲海が写せたのは、前日に山の中で野宿し、朝まだ早い内に楢峠を越えて来たからでもあった。丁度季節や天候も都合が良かったようだ。 雲海に巡り合えたのは全くの偶然で、何の意図もない。そういう時の方が、感動する。打って変わって、今回の楢峠は全くの霧の中だ。何の景色もない。これも止む無し。 峠の旅は、その時その時で変わる。

   
曲がったガードレール (撮影 2016.10.10)
   

<峠直前>
 二ツ屋谷の谷筋は、上流部はやや西に向く。峠道全体は概ね南北に通じるが、峠部分はほとんど東西方向に道が通る。峠直前、道は直線路に近い。 丁度左手の正面に二ツ家谷の谷間を広く望むが、今回は霧の中だ。曲がったガードレールが続くが、冬期の深い積雪の為だろうか。

 
峠直前 (撮影 2016.10.10)
この直ぐ先が峠だが、全くの霧の中
   
   
   
 
   
旧河合村市街地方面から見る峠 (撮影 2016.10.10)
左手に地蔵の祠
   

地蔵 (撮影 2016.10.10)
花などが供えられている

<峠の様子>
 楢峠は細長い切通しの峠だ。それ程深くはないが、車道開削時にはそれなりに山が切り崩されたであろう。昔の峠の面影はあまり残されていないものと思う。 ただ、峠の位置は神通川の支流同士の井田川・宮川の分水界となる峰の鞍部にある。位置的には昔も今もほとんど変わりない筈だ。
 
 かつて、遠く飛騨高山と越中富山とを結ぶ街道が通じる峠であったが、現在もどの行政区画の境にもなっていない。峠の前後全てが旧河合村の大字二ツ屋の内である。 その為もあって、峠には何の看板も立っていない。大字角川との境の方がまだましで、「ここより 二ツ屋」などと看板があった。 しかし、峠の切通しを挟み、その前後に地蔵を祀る祠が残る。それが唯一、この峠の歴史を感じさせてくれる。

   

<峠からの眺め>
 楢峠は本来、眺望のある峠だ。峠の切通しから少し角川方向(旧河合村市街方向)に進むと、もう二ツ屋谷の谷間が麓の方まで遠く見通せる。ただ、霧がなければの話だ。初めてこの峠を訪れた時は、真っ白な雲海が旧河合村をすっぽりと覆い包む様子が眺められた。


峠より角川方面を見る (撮影 2016.10.10)
この時は霧
   
峠から見る雲海 (撮影 1994. 9.26)
   

富山県方面に見る峠 (撮影 2016.10.10)

<切通し>
 峠の切通しは、やたらと長い。峠そのものとしては、あまり面白みを感じない。歩いて越えてみたが、見るべきものはない。富山県方面に向かって、だらだらと長い坂道が下る。 北側の一部がコンクリート擁壁となっていた。何か金属製の銘板の様な物が取り付けられていたが、内容はもう全く読めない。

   

富山県方面に見る峠 (撮影 2016.10.10)
右手の一部は苔むした擁壁

擁壁に取り付けられた何かの銘板 (撮影 2016.10.10)
   

<峠の標高>
 切通しの途中にしっかり道の最高所がある。文献(角川日本地名大辞典)では、楢峠の標高を1,228mとしている。 ツーリングマップルなどでは1,220mなどと書かれているのを見る。地形図の等高線では1,220mと1,230mの間くらいだ。 正確な数値は別として、とにかくまあまあの標高を持つ。峠道起点の小鳥川沿いで約450mだから、標高差で見てもなかなか高い。


峠を富山県方面へと下って来た所 (撮影 2016.10.10)
   
   
   
峠の西側 
   

<峠の西側へ>
 峠を西の富山県方向へと下るが、富山県に入った訳ではない。相変わらず、旧河合村の二ツ屋だ。切通しを抜け、ちょっと進むと広場に出る。車を停めるには丁度良い場所だ。側らに何やら看板が一つ立つ。

   
切通しを抜けて来たところ (撮影 2016.10.10)
ちょっとした広場がある
   

峠方向を見る (撮影 2016.10.10)
この少し先の右手から分かれる道があったようだ

<付近の様子>
 地形図には峠の西側より南方へと分かれる道が描かれている。しかし、現地では気が付かなかったし、後でドラレコ画像を確認しても、草木が生い茂り、道とはっきり分かるような状態ではなかった。
 
 今回は霧に覆われた峠であるが、峠のこちら側も比較的遠望があった筈だ。北に向かって飛騨高地の山並みが望めたのではないだろうか。 道路に面した草の平坦地はなかなか広く、地形的にも非常に穏やかな雰囲気である。峠の東側は直ぐにも急傾斜地で、車の停め場所にも事欠く程だったのに対し、対照的である。 かつては峠の茶屋の一つも立っていたのではないかと思わせる。

   
東方向に広場を見る (撮影 2016.10.10)
右端に地蔵の祠
   

<地蔵>
 車を停めた路肩のちょっと先に、一体の地蔵が佇む。こちらも祠が崖の草に覆われ、あまり目立たない存在だ。国境でもない峠で、峠の両側にそれぞれ地蔵が祀られているのも珍しい。 こちらの地蔵は目鼻立ちがはっきりしていて、優しそうな顔の様子がうかがえる。多分、比較的新しい石仏だろう。どういう方がこの様な険しい峠に立つ地蔵に花を供えるのかと、いつも不思議に思う。

   

地蔵の祠 (撮影 2016.10.10)

優しい顔をした地蔵 (撮影 2016.10.10)
   

空地に立つ看板 (撮影 2016.10.10)
地図は右が北
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<看板>
 空地の一角に立つ看板は、「環境立国 河合村」と題した古川警察署・河合村により物で、村有林に関する注意書きであった。地図に「楢峠」の文字がないかと探すが、ただ「現在地」と書かれているだけだった。この峠道沿いで「楢峠」と書かれている看板は、まず見ない。

   
   
   
富山県方面へ下る 
   

<原山本谷左岸へ>
 広場から50mも下ると、直ぐに小さな流れを渡る。多分、原山(はらやま)本谷である。神通川の支流・井田川(いだがわ)の本流の最上流部をそう呼ぶようだ。 その源頭部は峠の更に南方800m程となる。文献には、大長谷川(おおながたにがわ、原山本谷が富山県側に入ってからの呼び名)の源は河合村の白子谷(しろこだに)に発するとある。峠付近の谷は白子谷と呼ぶのかもしれない。
 
 峠の直ぐ近くからこうしたはっきりした川の流れがあることは、この付近の地形が穏やかであることを示している。道は原山本谷(白子谷?)を渡ってその左岸沿いになる。


原山本谷を渡る (撮影 2016.10.10)
   

道の様子 (撮影 2016.10.10)

<道の様子>
 谷は浅く、険しさは感じない。穏やかな谷間に包まれるようにして道は下る。それでも峠道らしいカーブが少し続く。霧が満ちて、視界はなかった。

   

<国道標識>
 初めて二ツ屋峠から楢峠へと向かった時、この付近で国道標識を見掛けた(下の写真)。手持ちのツーリングマップではまだ県道表記だったので、この標識を見て初めて国道になっていることを知った。当時の国道標識はまだ新しく、この道が県道(主要地方道)から国道に昇格したばかりだったのだろう。


道の様子 (撮影 2016.10.10)
峠方向に見る
   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 1994. 9.26)
峠方向に見る
以前は国道標識が立っていた
   

以前の新しい国道標識 (撮影 1994. 9.26)
「河合村 二ツ屋」とある

 それにしても、こんな道まで国道になるのかと、ちょっとした驚きだった。それも、2つの国道の重複区間である。
 
 二ツ屋峠の富山県側は当時まだ未舗装で、険しい林道とほとんど変わらなかった。二ツ屋峠から楢峠に至る間も、既に舗装済みとはいえ、林道に毛の生えたようなものである。 しかも、通る車が一日に何台あるのかと思うような山奥だ。麓の住民が山仕事や山菜取りにちょっとやって来るという程度ではないだろうか。 本来この国道は岐阜県と富山県とを繋ぐ道である。確かに遠い昔、二ツ屋街道が通じていた頃は飛騨・越中の国境を越え、少なからず交易があったのだろろう。 その二ツ屋街道を引き継ぐ国道471号・472号であるが、果して県境を越えてどれだけの車が行き来するのだろうかと思う。

   

<県道34号分岐>
 峠から0.5Km程も下ると、県道34号(主要地方道)・利賀河合線が分岐する。この楢峠の峠道からはこまかな枝道がいろいろ分岐するが、その多くは行止りである。本格的な道の分岐は、この県道34号くらいだ。
 
 本来、県道34号は、国道471号・472号から分岐し、2km程登って二ツ屋峠で富山県の旧利賀村(とがむら、現南砺市)に越え、 水無谷沿いから更に利賀川沿いに下って旧利賀村の中心地を過ぎ、広い富山平野へと至る道だ。それなりの価値があるルートである。道路看板には県道方向に「南砺 60km」と出ている。


左に県道分岐 (撮影 2016.10.10)
   

県道34号方向を見る (撮影 2016.10.10)
通行止の看板が立つ

道路看板 (撮影 2016.10.10)
   

<県道34号通行止>
 しかし、2000年からは旧利賀村の水無地区で県境〜利賀川ダム間が通行止になった。そして今回(2016年)、国道からの入口にバリケードが設けられ、通行止の看板が立つ。 理由はどういう訳か消されている。ちょっと覗く限り、路面に折れた枝などが散らばり、荒れ果てた様子だ。この分では、もう二度と二ツ屋峠を訪れることはできないのではないかと思わされた。

   
県道34号の分岐を背に、楢峠方向を見る (撮影 1994. 9.26)
二ツ屋峠を越えて来たところ
もう二ツ屋峠には登れない
   

道の様子 (撮影 2016.10.10)
この所は支流を巻いてやや険しい
この先に峠の北側最初の国道標識が立つ

<道の様子>
 楢峠を北の富山県方面に下る道は比較的穏やかだ。峠の南側直下の険しさに比べると、尚更落ち着いた雰囲気がする。道はずっと原山本谷左岸沿いに通じる。 支流の谷を巻く時にちょっと屈曲するも、概ね真っ直ぐな道だ。考えてみると、この区間を走るのは初めてである。最初に来た時は二ツ屋峠を経由していた。 実はその年の初めに八尾町側から楢峠を目指したのだが、残念ながら冬期通行止で引き返している。他にも縁に恵まれない時があった。今回こうして走れるのがうれしい。
 
 峠から2km近く下ると、最初の国道標識が立っていた。峠方向に向く。初めて楢峠を越えた時に見た標識が、ここに移設されているのではないかと想像したりする。

   

峠の北側最初の国道標識 (撮影 2016.10.10)
峠方向に見る

国道標識 (撮影 2016.10.10)
   

<原山本谷沿い>
 進むに従い谷底は広くなり、増々落ち着いた道となる。道と川との距離も近い。原山本谷の川面を直ぐそこに望む箇所も出て来る。思わず川の中に入り、水遊びでもしたくなるような清らかな流れを見せてくれる。
 
<原>
 文献によると、楢峠から国境(現県境)までの間を「原」と呼んだそうだ。川は「原山谷」とも言い、楢峠から南西に続く稜線上に「原山峠」と呼ばれる峠もあったようだ。何かと「原」の字が関係する地であった。
 
<対向車>
 川の写真を撮っていると、この峠道2台目の対向車がすれ違って行った。妻によると大きなクロカンの4WD車に初老のご夫婦が乗っていたとのこと。楢峠を越えて行くのだろうか。  


落ち着いた道が続く (撮影 2016.10.10)
   
原山本谷を直ぐ側に望む (撮影 2016.10.10)
峠方向に見る
   

道の様子 (撮影 2016.10.10)
富山県方向に見る

<道の様子>
 峠直下の2km程はそれなりに勾配のある坂道だったが、その後県境までの約4kmは、川沿いに比較的平坦な道が続く。原山本谷はほとんど真っ直ぐな谷で、急カーブも全くなくなる。
 
 時々国道標識が立っている。向きは全て富山県方向だ。中には潰されて2つのおにぎりが半分重なってしまった物もあった。冬期はこの国道標識がすっぽり埋まる程の積雪があるのだろう。
 
 それまで剥げ掛けたアスファルトやコンクリート舗装だった道が、途中より新しそうなアスファルト路面となった。白線やガードレールも完備である。楽勝の道である。

   

道の様子 (撮影 2016.10.10)
きれいな舗装路となる

道の様子 (撮影 2016.10.10)
   
   
   
県境 
   

<県境>
 楢峠の道の県境部分はちょっと異様だ。道が一瞬途切れたかのように思う。本来、国道が進むべき方向は、道の半分がバリケードによって閉ざされているのだ。そこが岐阜と富山との県境となる。

   
県境に到着 (撮影 2016.10.10)
   

左が国道の続き (撮影 2016.10.10)
右は万波(上)林道

<県境の様子>
 旧河合村の角川起点より約14kmもの道程を経て、ここはまだまだ奥深い山の中だ。富山県側の人里までも7km程を残す。ここで見放されては一大事である。県境はゲート箇所でもあり、そのゲートは開かれていた。一安心である。

   

県境より峠方向を見る (撮影 2016.10.10)
左手に国道標識、右手に河合村の看板

側らに立つ国道標識 (撮影 2016.10.10)
   

河合村の看板 (撮影 2016.10.10)
峠にあった物と基本的に同じ
(現在地の表記が異なるだけ)

河合村の看板 (撮影 2016.10.10)
かなり傷んでいる
   

<万波(上)林道>
 県境手前を東へと林道が分岐する。看板には「万波(上)林道」とある。ツーリングマップルでは小坂谷林道とある道だ。 こちらにはゲートなど何もなく、車の轍の跡も確認され、車の通行があるようだ。だた、入って直ぐに未舗装となる。 地図上では宮川沿いの国道360号の打保(うつぼ)へと至るが、果たして通り抜けられるのだろうか(実は通ったことがあったのだった ⇒ 新万波峠)。 林道入口に立つ看板には、「白木峰万波登山口 万波高原」などと案内がある。

   

万波(上)林道方向を見る (撮影 2016.10.10)

林道看板など (撮影 2016.10.10)
   

<県境の看板類>
 岐阜県側から見る県境は、「富山県」などと書かれた県境を示す看板はなく、単に「この先は、大雨の時、通行止となります。」という注意看板のみが立つ。

   
県境を岐阜県側より見る (撮影 2016.10.10)
   

<富山県側から見る県境>
 一方、富山県側からは、「岐阜県 飛騨市」と高く県境看板が掲げられている。よく見ると、ゲートは富山県側に開く構造である。岐阜県側から楢峠を下って来てこのゲートが閉じていると、通行止の標識が見える格好になる。この県境を境に、富山県側の方がより険しいということか。

   
県境を富山県側より見る (撮影 2016.10.10)
ゲートは富山県側に開く構造になっている
   

<通行規制区間>
 県境看板の柱の根元付近に「通行規制区間」の看板が立つ。草に隠れ、文字も剥がれ掛けているが、ほぼ次のように読める。
 異常時においてこの道路は
 河合村二ツ屋(富山県境〜宮ノ前橋)10.3Km
 連続雨量80mmで通行注意 連続雨量100mm
 時間雨量?0mmで通行止となりますので御協力・・・

 
 岐阜県側からも「大雨の時、通行止」とあり、どちらにしろ大雨が降れば両県側とも通れないことになる。

   

通行規制区間の看板 (撮影 2016.10.10)

通行注意の看板 (撮影 2016.10.10)
富山県富山土木センターによるもの
ゲートが開いている時は、富山県側から見る看板となる
   

<宮ノ前橋>
 尚、県境から岐阜県側10.3Kmの距離は、ほぼ二ツ屋集落跡を過ぎて支流の橋を渡る辺りだ。地形図上で近くに鳥居のマークがあった場所だ。宮ノ前橋という名からしてもその橋のことであろう。二ツ屋集落の上流側の端が宮ノ前橋だったようだ。

   
   
   
富山県側へ 
   

頑丈そうな擁壁が続く (撮影 2016.10.10)

<大長谷川>
 岐阜県側で原山本谷と呼ばれていた川は、富山県側に入ると大長谷川(おおながたにがわ)と名を変えるようだ。県境を後に富山県へと足を踏み入れると、直ぐにも高い崖と擁壁が待つ。川の名が変わると同時に、その谷の様子も変わった。やや険しい。
 
 「大長谷」という河川名の由来について文献では、「室牧川の流れに沿い延長三里許りにわたれる一大長渓なるを以て云々」(婦負郡誌)とか、 「水のある谷間の土地」(八尾町史)とあるようだ。「この川沿いが飛騨への裏街道」とも記す。 室牧川(むろまきがわ)とは大長谷川の下流で室牧ダム以降をそう呼ぶようだ。 また、県境から3里(12Km)の距離とは、八尾町島地(しまじ)までの距離に相当し、谷折峠を越える県道228号の分岐点付近だ。谷折峠は飛州二ツ屋村間道のルートでもある(後述)。

   

<八尾町杉平>
 この富山県の地は、今は富山市八尾町杉平(やつおまちすがだいら)である。古く江戸期には杉ヶ平村(杉ケ平村)という村があり、地名はそこから来ているようだ。 この「杉平」(杉ヶ平)は「すぎがはら」とか「すぎがだいら」あるいは「すぎたいら」などと読まれる時があるが、どうやら「すがだいら」が正しいようだ。富山市になる直前は婦負郡(ねいぐん)の旧八尾町(やつおまち)の大字杉平であった。
 
<切詰>
 杉ヶ平村が越中側で最奥にあったのかと思うと、そうではなかった。その南に切詰(きりづめ、時に「きりつめ」とも)という村があったそうだ。「越中を越える終点にあたり、古くから守人を置いて、常に詰めていたことによる」とか「古来当地を越中南端の切りとして守人が詰め警戒に当たっていたので切詰の名が起こったという(婦負郡誌)」などと文献にある。
 
<大長谷村>
 明治22年に杉ヶ平村や切詰村などが合併して大長谷村(おおながたにむら)が誕生し、「杉平」や「切詰」は大長谷村の大字となっている。 その大長谷村も昭和32年には八尾町と合併、大長谷村の大字は八尾町に引き継がれたそうだ。しかし、富山市になってから切詰が見当たらない。 どうやら大字杉平が広がって八尾町杉平となり、切詰を呑み込んでしまったようだ。また、「大長谷」という住所名も既にない。 ただ、旧大長谷村の範囲を「大長谷地区」と呼ぶことがあるようだ。切詰は大長谷地区最南端の村だったと文献にある。

   

<大長谷川右岸へ>
 富山県側に入り、最初は広い道だったが、直ぐに狭く古ぼけた道に変わる。県境から0.5Km余りで対岸にちょっと変わった建造物が現れる。 多分、この下流に位置する発電所へ送る水の取水口だと思う。岐阜県側の角川の集落以降、ほとんど建造物らしい物は皆無だったので、ちょっと異様な感じがした。
 
 その直後に赤い欄干の橋で大長谷川を渡る(下の写真)。 
 


取水口と思われる (撮影 2016.10.10)
   

赤い欄干の橋で右岸へ (撮影 2016.10.10)

橋より上流方向を見る (撮影 2016.10.10)
   

道の様子 (撮影 2016.10.10)
妻が写真に撮らないので、ドラレコ画像を使う

<最大の難所へ>
 以後、道は概ね大長谷川の右岸に沿う。すると、谷の様相が一変した。鋭く深く切れ落ち始めた。川面がみるみる谷底へと下がって行く。道はその右岸の崖にへばり付くような細さだ。 何とも心細い。角川起点から楢峠を越え、遥々15Kmもの峠道をやって来たが、峠道最大の難所がその先に待ち受けていたのだ。
 
 峠で運転を代わり、ハンドル操作から解放された妻は、この危機的状況の中、助手席でくつろいでしまっている。運転に緊張を強いられるわ、ぼんやりしている妻を催促してこの難所の様子を写真に撮らせなければならないわで、いろいろ忙しい。

   
大長谷川の谷間の様子 (撮影 2016.10.10)
下流方向に見る
   

<難所の様子>
 一段と道幅が狭い箇所がある。それでいてガードレールが全くない。狭過ぎてガードレールを設置する余裕さえないのか。 設置工事も大変だろうが、積雪や落石でガードレールが持たないのかもしれない。本当に命の危険を感じる険しさだ。 ちょっと高所恐怖症の気がある上、妻はシャッターチャンスを逃してばかりで、やや興奮気味である。妻はこの峠道の醍醐味を全く解していない。

   
この先一段と道幅が狭くなる (撮影 2016.10.10)
鋭く切れ落ちる崖にガードレールなし
   

 同じ様な国道の険しい道として、国道157号・温見峠の「倉見七里」が知られる。揖斐川の支流・根尾西谷川の険しい渓谷沿いに通じる峠道だ。この大長谷川右岸はその弟分といったところだろう。その資格は十分にある。

   
道の様子 (撮影 2016.10.10)
ガードレールが全く見当たらない
   

<導水管>
 途中、緑色の導水管が下って来ている箇所を過ぎる。上流にあった取水口よりここまで水が運ばれているようだ。導水管が下るこの谷の下に発電所があるものと思う。
 
 導水管を過ぎた頃から、崖の傾斜はやや穏やかになった。谷間は広く深いが、道の険しさは一段落だ。約1.5Kmに渡る楢峠の難路であった。

   

導水管が通る箇所 (撮影 2016.10.10)

道の様子 (撮影 2016.10.10)
まだまだ険しい箇所を残す
   

<水上谷橋>
 発電所付近から大長谷川の谷底はやや広がりを見せる。道は広くなった谷間に下り、付近の傾斜も緩やかになった。すると、支流に架かる橋を渡る。 銘板に水上谷橋(みずかみだにばし)とある。橋の名からして、その支流は水上谷というのだろう。谷底が広がり、今後こうした支流が時々流れ込むようになる。

   

橋の手前を左に分岐 (撮影 2016.10.10)

水上谷橋を渡る (撮影 2016.10.10)
   

<大長谷第四発電所分岐>
 橋の手前を左鋭角に、川沿いへと分かれる道がある。峠方向に見て看板が立ち、「県営 大長谷第四発電所」とある。発電所の管理の為、ここまでの道は十分に確保されているものと思う。この点も一安心である。

   

分岐の看板を峠方向に見る (撮影 2016.10.10)
「公告」とある看板は、山菜取りなどを禁止したもの

発電所分岐の看板 (撮影 2016.10.10)
峠方向に見る
   

<水上谷橋以降>
 暫く進むと、道の状態は明らかに良くなった。アスファルトの路面も良好だし、道幅も心持ち広がった。何より崖の傾斜が緩い。もう深い谷底をこわごわ見下ろすことも少なくなった。広がった大長谷川の谷間を見渡す心の余裕も出てくる。

   
道の様子 (撮影 2016.10.10)
谷を広く望む
   

車道より一段低い平坦地がある (撮影 2016.10.10)
峠方向に見る

<切詰>
 現在、この付近の国道沿いに人家など皆無で、集落跡のような様子も見られない。かつて、二ツ屋街道の越中側最終の集落は切詰(きりづめ)であったが、その村はどこにあったのだろうか。 今の地形図や道路地図などではその名の記載はなかなかないが、2003年4月発行のツーリングマップル(4 中部北陸 昭文社)にやっと見付けた。 正確な位置かどうか分からないが、水上谷橋から下流1Km弱ぐらいの地点だ。丁度、大長谷川に砂防ダムが築かれている。車道より一段低く、ちょっとした平坦地も広がる。 その先の橋の手前より、砂防ダム方向へ下る道が分かれていた。砂防ダムが築かれてしまったので、地形も昔とは異なるだろうが、少なくともこの付近の谷底は広い。かつての二ツ屋街道は現在の車道よりもう少し川沿いに通じ、そこに切詰集落があったのではないかと想像する。

   

この橋の手前に道が分岐する (撮影 2016.10.10)

右に砂防ダム方向へ下る道 (撮影 2016.10.10)
峠方向に見る
   

<文献に見る切詰(余談)>
 ほとんど痕跡を残さない切詰については、もっぱら文献(角川日本地名大辞典)を頼りにするしかない。 大長谷川の上流、峡谷の右岸に位置していたとのことだから、現在国道が通じる側にあったことは間違いない。 庵谷(いおりだに)村・滝谷村・夏前村・杉ヶ平村の親村で、庵谷・滝谷・夏前・杉ヶ平・切詰を合わせて「庵切杉」と通称され、便宜上の単位となっていたとのこと。
 
 慶応4年(1868年、明治元年)の切詰村の家数2軒・人口13人というから、まるで二ツ屋のようだ。明治22年(1889年)に大長谷村の大字になってからも、大正初期までは大字切詰村と称したそうだ。昭和5年(1930年)の戸数4・人口11。「昭和53年(1978年)当地は過疎により無人化」と文献は結ぶ。岐阜・富山の県境を挟んで広がる無住の地は、昭和の終りに岐阜県側の二ツ屋と富山県側の切詰を飲み込んでいったのだった。

   

<大谷付近>
 支流の大谷に架かる橋は広い。それまでの支流を渡る橋は、ほとんど1車線幅程度しかなかったが、大谷の橋は十分に2車線くらいの幅がある。そのまま道幅も広くなるかと思ったら、まだ一部に狭路を残していた。
 
 すると、何かの工事現場を通り過ぎる。人家などはまだ出て来ないが、久しぶりに人の姿を見た。富山県に入って以来のことだ。


支流の大谷を渡る (撮影 2016.10.10)
   

まだ狭い区間を残す (撮影 2016.10.10)

工事現場を過ぎる (撮影 2016.10.10)
久しぶりに人の姿を見る
左手にアンテナ設備の様な建屋も立つ
   

<耕地が広がる>
 岐阜県側の二ツ屋以来の耕地がやっと沿道に広がりだした。二ツ屋ではもう使われていない様子だったが、こちらは全てではないが野菜作りなどがまだ続けられている。 その耕作地の中にポツンと一軒、建屋が立つ。洒落た造りで、一般の人家などではなく、別荘か何かのようであった。工事車両だが、車の行き来も見られるようになった。

   

耕地が広がる (撮影 2016.10.10)
右手に別荘?

工事車両も行き交う (撮影 2016.10.10)
   
   
   
ゲート箇所 
   

この先がゲート箇所 (撮影 2016.10.10)
その向こうに建屋が何軒か並ぶ

<杉ヶ谷>
 支流の杉ヶ谷を渡る。橋の銘板には「菅谷橋」とあったようだ。「菅谷」は「すが(が)だに」と読むのであろうか。この付近はもう昔の杉ヶ平村にあたるのだろう。
 
<ゲート箇所>
 杉木立の間から建屋が見えだしたと思ったら、遂に富山県側のゲート箇所に至った。両開きの鉄製ゲートが設けられている。冬期間はこのゲートが閉じられるのだろう。

   

<ゲート箇所の様子>
 峠方向に見ると、「この先は、大雨の時、通行止になります。」とゲートの前に看板が立つ。岐阜県との県境を富山県方向に見た時に立っていた物と同じだ。このゲートと県境に浅まれた大長谷川の渓谷が続く区間が、楢峠の難所と言える。
 
 考えてみると、県境までは岐阜県側から楢峠を越えて行く方が比較的容易である。一方、富山県側からは大長谷川の渓谷が険し過ぎた。県境が楢峠ではなく、現在の位置にあるのが何となくうなづける。越中・飛騨の国境はそうして決まったのではないだろうか。


ゲート箇所 (撮影 2016.10.10)
   
ゲート箇所 (撮影 2016.10.10)
峠方向に見る
   

ゲート箇所の数10m先 (撮影 2016.10.10)
峠方向に見る

<以前の様子>
 1994年の3月に八尾町側から楢峠を目指したことがあった。しかし、沿道は雪だらけであった(下の写真)。 間もなく「積雪多量と雪崩発生の恐れあり 通行禁止」と通行止の看板が出て来た。現在のゲート箇所の数10m程下流側である。 それを見て引き返したが、その年の9月には二ツ屋峠経由でどうにか楢峠を越えを果たしている。翌1995年の5月に再び八尾町を訪れているが、冬期通行止でまた失敗している。 当時は日本各地を旅しながら、同じような場所も頻繁に訪れている。よくそれ程の元気があったものだと思う。

   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 1994. 3.21)
「通行禁止」の看板が立つ
ジムニーは現在のゲート箇所辺りに停まる
   

<林道大谷線分岐>
 ゲート箇所を過ぎれば、人家などが出て来る可能性がある。直ぐにも大きな建屋が数軒並んでいた。「白木峰倶楽部」と看板が立つ。何かの店の様だった。
 
 その手前を右に林道が一本分岐する。ここより東に位置する白木峰(しらきみね)への登山道となる林道大谷線だ。NTTの無線中継所もあるとのこと。


数軒の建屋 (撮影 2016.10.10)
手前を右に林道分岐
   

分岐の様子 (撮影 2016.10.10)
左が林道大谷線、右奥が峠方向
(画像をクリックすると別ウィンドウに看板の画像が表示されます)

<分岐に立つ看板>
 分岐の角に「白木峰 21世紀の森 キャンプ場」と矢印看板が立ち、その横に付近の案合図も出ている。それによると、林道途中に杉ヶ平キャンプ場などがあるようだ。 この富山・岐阜の県境付近一帯にある白木峰、小白木峰、金剛堂山、水無山(みずなしやま)などは昭和49年に白木水無県立自然公園に指定されている。

   
以前の分岐の様子 (撮影 1996. 8.13)
背後に大長谷民具保存館の建物が立つ
   

以前の看板 (撮影 1996. 8.13)
分岐の角に大長谷民具保存館があることになっている
(画像をクリックすると別ウィンドウに看板の画像が表示されます)

<以前の分岐(追記)>
 新万波峠から国道471号に下り、富山県側へと来て、この分岐が気になった。多分、林道大谷線を登ったと思う。 途中の川では橋の代わりに鉄板が渡してあり、なかなか険しい未舗装林道だったようだ。 他に何か写真に撮るようなこともなく、引き返して来た。その後、富山市街のアーバンホテルに泊まったのだった。

   

<大長谷温泉>
 白木峰への林道入口を過ぎると、一般の乗用車も見掛けるようになる。右手に広い駐車場が現れた。「白木峰山麓交流施設 大長谷温泉」と看板がある。駐車場奥に温泉建屋が見える。訪れている客もまあまああるようだった。

   

右手に広い駐車場 (撮影 2016.10.10)

大長谷温泉 (撮影 2016.10.10)
   

<庵谷>
 温泉を過ぎると、道は大長谷川を渡り、一時期左岸沿いになる。この付近は庵谷(いおりだに、八尾町庵谷)と呼ばれるようだ。沿道から見える建物も一気に多くなる。 道幅も概ね2車線幅だ。「お食事処 ふるさとセンター」と看板がある店などを過ぎる。やっと人家らしい家屋もポツポツ見られる。


ふるさとセンター (撮影 2016.10.10)
   
   
   
庵谷の口留番所 
   

袖ノ谷を渡る (撮影 2016.10.10)

<袖ノ谷>
 左岸を行く間に西から流れ込む支流・袖ノ谷を赤い欄干の橋で渡る。渡った直後、妻がまた何か見付けた。直ぐに引き返して来ると、「切詰関所跡地」という看板が路傍に立っていた。
 
<口留番所>
 文献には「越中庵谷村に口留番所が置かれていた」とあるが、この「切詰関所」と同じものと思う。「庵谷関所跡」などとも出て来る。 楢峠や国境を挟んで、飛騨二ツ屋村とこの越中庵谷村に番所・関所が設けられていた。看板の解説文によると、切詰関所は寛文3年(1663年)から明治2年(1869年)まで続いたようだ。他にもこの二ツ屋街道に関して参考になる事柄がいろいろ書かれている。

   

袖ノ谷に架かる橋の袂に看板 (撮影 2016.10.10)
峠方向に見る

「切詰関所跡地」の看板 (撮影 2016.10.10)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<二ツ屋街道の道筋>
 解説文の最後に街道の道程が示されている。要約すると次のようになる。
・境石〜切詰:2里(8Km) 大難所
 切詰の後、杉ヶ平・庵谷・番所・なつまい(夏前)・東原〜(途中省略)〜島地・越中二ツ屋・横平・大玉生・小畑・三ツ松・仁歩〜(途中省略)〜八尾と続く
・切詰〜八尾:5里(20Km)
・飛騨二ツ屋〜八尾:8里(32Km)
 以上より次が導かれる。
・飛騨二ツ屋〜切詰:3里(12Km)
・飛騨二ツ屋〜境石:1里(4Km)
 
 現在の国道471号では、飛騨二ツ屋〜切詰は14Kmを少し上回る。屈曲した車道の峠道なので、旧街道の道程3里(12Km)より長くなるのは当然で、ほぼ妥当な値と思われる。 ところが、飛騨二ツ屋〜県境は10Km余りで、昔の街道では2里(8Km)程度だろう。前の記述が正しければ、境石は現在の県境より1里(4Km)程飛騨側にあったことになる。「境石」とは当然ながら飛騨と越中との国境であろう。


左脇に白木水無県立自然公園も立つ (撮影 2016.10.10)
特に関所とは関係ないようだ
   

<1里の大難所>
 一方、文献で調べてみると次のようになる。
・飛騨二ツ屋〜楢峠:1里(4Km)
・飛騨二ツ屋〜国境:2里2町(8Km余り)
 これが正しければ、かつての国境と現在の県境は一致する。やはり、看板にあった境石から切詰までの距離2里は、1里の間違いだろう。 この間、大長谷川に沿う道で、現在の国道471号でも屈曲は少なく、県境〜切詰は丁度4Km(1里)である。まあどちらにしろ、この区間は今も昔も「大難所」であったようだ。 そのように呼んだ旅人の苦労がしのばれる。
 
<境石>
 かつての国境にはその目印として境石が置かれることがあったようだが、現在の国道471号の県境にはそれらしき物体は見当たらなかった。もう、失われてしまったのだろうか。
 
 この国境の部分は「境谷」とも呼ばれた。県境より分かれる万波(上)林道(小坂谷林道)が沿う川(大長谷川の支流)がその「境谷」であろう。 また、国境は「小白木峰」(こしらきみね)を越える」などとも表現された。しかし、実際のその山は大長谷川沿いより北東約1Kmの国境上にある。

   

庵谷橋で右岸に戻る (撮影 2016.10.10)

<庵谷橋>
 切詰関所跡地を過ぎると直ぐに庵谷橋(いおりだにはし)で再び大長谷川の右岸へと戻る。左岸沿いは僅か750m程だった。
 
 庵谷橋の竣工は平成11年(1999年)12月とあり、比較的新しい。ただ、川の名は「井田川」(いだがわ)と銘板にあった。地形図ではもう暫く「大長谷川」と記載されている。
 
 庵谷という地名は付近に庵谷という支流がある為かと思ったが、それらしい川は見付からない。文献では八尾町営バスの終点地で、庵谷関所跡や富山藩10代藩主前田利保の歌碑が立つとあるが、歌碑の方は見当たらない(金剛堂山の方にあるようだ)。

   

<八尾町東原>
 庵谷橋で右岸に戻ってからは八尾町東原である。最初の内はかつての夏前の地らしいが、この部分、谷は狭く道も狭い。沿道に人家は極めて少ない。 尚、「庵切杉」の残る「滝谷」は、庵谷橋の直ぐ上流側に注ぐ支流・足谷の上流沿い辺りにあったようだ。まだ人家はあるのだろうか。
 
 暫く行くと、また谷が広がりだし、国道標識には「富山市八尾町東原」と出て来る。「庵切杉」を抜け、かつての東原に入った頃だ。 二ツ屋街道は切詰から八尾まで5里(20Km)だったとあったが、現在の国道472号では、東原からでもまだ24Km程を残す。今日の宿は富山駅前のホテルを予約している。現代の二ツ屋街道はまだまだ先が長い。

   

国道標識 (撮影 2016.10.10)
「東原」とある

国道標識 (撮影 2016.10.10)
   

<谷折峠>
 このまま八尾市街や富山市街まで道を辿っていても仕方ない。ただ、谷折峠についてちょっと触れたい。
 
 途中の島地(しまじ)で右に県道228号・島地新名線が分岐する。この道は大長谷川本流水域からその支流・野積(のづみ)川の水域へと谷折峠で越える。この峠道も冬期期通行止が長く、これまで越える機会に恵まれなかった。今回も寄ってみようと思う。


右に「谷折」と看板がある (撮影 2016.10.10)
   

分岐に立つ全面通行止の看板 (撮影 2016.10.10)

<谷折峠全面通行止>
 ところが、分岐には大きく「全面通行止」と看板が立っていた。廃屋の傍らを過ぎて、数10m進むとゲートがあって、その先には進めない状態だった。本来の冬期通行止は、ゲート脇に立つ看板によると、
 期間:12月1日〜5月31日
 区間:八尾町島地〜八尾町布谷
(のんたに)
 
 通行可能な時期は僅か半年しかない。またその理由は「除雪不能のため」とある。
 
 
<旧街道の道筋>
 現在の二ツ屋街道である国道472号は、島地の後、概ねそのまま大長谷川沿いに下り、室牧ダムの少し手前で川沿いを離れ、三ツ松・仁歩を経て八尾に至る。
 
 切詰関所跡地にあった看板によると、かつての二ツ屋街道は、島地を過ぎた後、川沿いを離れ、越中二ツ屋・横平・大玉生(おおだもう)・小畑を経て三ツ松に至っていたようだ。 その方が距離的に近い。ただ、越中二ツ屋は昭和50年(1975年)過疎により無人化と文献にある。旧街道は寂れたことだろう。
 
 また、文献にあった「飛州二ツ屋村間道」では、ちょっと違う道筋が示されていた。島地と野積川沿いの布谷(のんたに)との間に通じていたとある。 現在の県道228号の道筋に一致する。前述の越中二ツ屋を通るルートより、大長谷川の湾曲を更にショートカットしていて、距離的には有利だ。その「飛州二ツ屋村間道」も、今は災害の為、当分の間通行止の憂き目にあっている。  

   

谷折峠への道 (撮影 2016.10.10)
廃屋の傍らを過ぎる

通行止のゲート (撮影 2016.10.10)
右に冬期通行止の看板が立つ
   
   
   
冬期の飛騨高地(余談) 
   

 利賀村から二ツ屋峠を経て楢峠を越えた翌年(1995年)5月、再び八尾町から向かうこととした。しかし、八尾町市街を抜け、国道472号を進んでいると、電光表示板に「通行止 積雪 庵谷〜県境」と出ていて、あっさり諦めることとなった。
 
 その後、利賀村方面からも全く県境には近付けられず、結局荘川沿いの国道156号で白川郷へと南下することとなった。5月に入ってもまだ雪深い飛騨高地を実感した旅だった。


八尾町西葛坂あたりの国道472号 (撮影 2016.10.10)
峠方向に見る
   

前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 1995. 5. 2)
当時は道路情報の電光表示板が出ていた
道の様子も今と大分違う

通行止の看板 (撮影 1995. 5. 2)
これを見て、楢峠は断念
   
   
   

 最初に楢峠の通行止に遭ってから22年後の今年(2016年)、やっと峠道全線を走り通すことができた。 楢峠の屈曲した坂道は如何にも峠道らしかったし、大長谷川の渓谷沿いに進む「大難所」は圧巻であった。久しぶりに面白い峠の旅が楽しめたと思う、楢峠であった。

   
   
   

<走行日>
(1994. 3.21 富山県側通行止 ジムニーにて)
・1994. 9.26 二ツ屋峠に続き楢峠を越える ジムニーにて
(1995. 5. 2 富山県側通行止 ジムニーにて)
(1996. 8.13 新万波峠から杉ヶ平へ ジムニーにて)
(2001. 5. 1 岐阜県側通行止 ジムニーにて)
・2016.10.10 岐阜県 → 富山県 ハスラーにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 16 富山県 昭和54年10月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典 21 岐阜県 昭和55年 9月20日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・中部 2輪車 ツーリングマップ 1988年5月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部北陸 2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・県別マップル道路地図 21 岐阜県 2001年 1月発行 昭文社
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

<1997〜2016 Copyright 蓑上誠一>
   
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