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八草峠/回想 (後半)
     
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<峠の様子>
 峠は807mのピークの南の肩を巻くように稜線を越えて行く。なかなかダイナミックだ。

   
峠の屈曲を見る (撮影 2001.11.12)
左が滋賀県、右が岐阜県
(峠に立つ地蔵の目線で見ている)
   

<峠の役割>
 文献では八草峠に関し、「近世末には行商人が通行し、彦根藩の検見の松も残る峠」とか、八草集落からは「滋賀県伊香郡木之本町の牛市や8月の地蔵祭に峠越えで出かける人も多かった」などと記している。しかし、それは旧八草峠・久加越のことである。こちらの新八草峠は1950年頃の開通で、冬期閉鎖の長い険しい道だった。約半世紀後の八草トンネル開通で現役を退き、今はもうほとんど訪れる者も居ないことだろう。

   

<岐阜県側の展望>
 峠のカーブの入口辺りから、八草川の谷を通して北方に遠望がある。正面の最も奥に三角形の山を望むのだが、どこの山だろうか。

   

峠から岐阜県側を望む (撮影 1995. 5. 3)
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左の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2001.11.12)
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<切通し>
 八草峠は稜線上の鞍部に位置し、更に車道開削で稜線の峰を深く切り崩しているので、はっきりとした切通しの形になっている。それでも全般的に明るい雰囲気の峠になっている。
 
 八草峠は1991年、1995年、1997年、2001年と4回訪れている。残念ながら最初と最後は雨にたたられ、写真の写りもあまり良くなかった。二度目はまあまあの天候だった。 三度目も良かったのだが、何しろ峠に着いたのが午後5時半。敦賀のホテルまでまだまだ遠く、写真を撮っている余裕がなかった。


峠の様子 (撮影 2001.11.12)
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滋賀県側から見る峠 (撮影 1991.10.13)
初めての八草峠は雨だった
右手の看板は道路情報の看板
   

前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2001.11.12)
この時も雨模様
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<滋賀県側の様子>
 切通しを抜けると、その先暫く水平移動で道が北へと延びている。開けて眺めがいい。

   
峠より滋賀県側を見る (撮影 1991.10.13)
雨で残念ながら景色は霞んでいた
   

通行規制の看板が立つ (撮影 1991.10.13)

<通行規制>
 滋賀県側には「道路情報」看板の他に「異常気象時通行規制区間」の看板が立っていた。「ここから〜川合の間は、異常気象時には、通行止となります。 滋賀県 」、「ここから18Km間」とあった。川合とはもうとっくに峠道を下り、木之本市街にも近い所だ。そこまで通行規制区間というのも驚く。八草トンネルが開通した今は、冬期も通行可能な道である。

   
稜線の上から滋賀県方向を見る (撮影 1995. 5. 3)
左手の道路情報の看板には「路肩崩壊」とあった
   

<滋賀県側の景色>
 八草峠は岐阜・滋賀両県側ともに展望がある。滋賀県側では西方に視界が広がる。直下に日の裏谷の谷が下り、その先に山並みが幾重にも重なる。木之本市街はこの方向なのだが、下界は一体どこにあるのかと思わされる。

   
滋賀県側に広がる景色 (撮影 1995. 5. 3)
   
滋賀県側の景色 (撮影 1997. 4.27)
夕焼けが近い
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<夕陽(余)>
 峠の滋賀県側は西に開けるので、西日がよく当たる。積雪の為通行止とあったところを登って来たが、雪などどこにもない。先客の乗用車が停まり、峠をのんびり散策している。 時間があればこちらもいろいろ写真に撮るのだが、そうはしていられない事情がある。峠に着いたという証拠写真を2枚ほど撮り、さっさと滋賀県側に下るのだった。


滋賀県側から峠方向を見る (撮影 1997. 4.27)
西日が差し込んでいる
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峠の地蔵など
   

観光案内図 (撮影 1995. 5. 3)
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<観光案内図>
 八草峠は看板や石碑・地蔵などいろいろあって賑やかだ。切通し部分の北側に立つ「八草峠周辺観光案内図」は、看板として最も目立っている。ただ、地図はかなり広域で、八草峠に関わるあまり参考になる内容には乏しい。

   

<ドライブ中の皆さんへ!>
 どういう訳か、初めて八草峠を訪れた時、いの一番に岐阜県側にあった「ドライブ中の皆さんへ!」という看板を写真に撮っている。ジムニーを停めた直ぐ脇にあった為かもしれない。 交通安全を喚起した内容が主だ。峠から横山ダムまで22Kmとするのはいいが、木之本町まで10Kmというのはちょっとおかしい。少なくとも川合まで18Kmある。木之本市街なら22Kmだ。峠から10Kmでは杉野集落辺りまでである。
 
<標高>
 この看板で一つ注目したいのは、八草峠の標高が示されていることだ。「七四〇米」とある。 一般の道路地図などでは標高が記されていないことが多く、この740mというのは注目に値する。
 
 文献では、730m、750m、780mの3種類の数値が見られた。しかも、新旧どちらの峠かはっきりしないものもある。現在の地形図の等高線では、740m〜750mの間を道は通過している。 看板の数値を否定するような事実ではない。地元に立つ看板に敬意を表し、八草峠の標高を740mとしておくが、750mという値も捨てがたい。
 
 尚、2度目に八草峠を訪れた頃から、この「ドライブ中の皆さんへ!」の看板はなくなっていた。

   

峠の岐阜県側 (撮影 1991.10.13)
「ドライブ中の皆さんへ!」の看板の右横には
「岐阜県 坂内村」とある

「ドライブ中の皆さんへ!」の看板 (撮影 1991.10.13)
八草峠の標高が出ている
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峠の標柱など (撮影 1991.10.13)
地蔵の所まで石段が登る
   

<記念碑など>
 観光案内図の看板の反対側に記念碑などが立ち並び、稜線上へと登る石段が設けられ、ちょっとした小さな園地風に仕立てられている。一番上には地蔵が立ち、岐阜・滋賀両県を見渡している。
・記念碑:
 「國道303號線 昇格記念 昭和45年5月」。
・峠の石の標柱
 「八草峠」
・木製の標柱
 「木之本小学校六年生一同」
 「平成六年度チャレンジザ・八草」
 
 他にもいろいろな標柱などが立っている。残念ながら石碑などの裏側まで写真を撮ったことがなく、何が刻まれていたか分からない。


記念碑など (撮影 1995. 5. 3)
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国道昇格記念碑など (撮影 1995. 5. 3)
   

<稜線上>
 石段を稜線上へと登り、地蔵と同じ目線になると、また一段と峠周辺が見渡せる。峠で道が急カーブする様子などはここからパノラマ写真でよく撮った。

   

稜線上に立つ標柱など (撮影 2001.11.12)
「八草峠まつり 記念植樹」とかある
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稜線上より滋賀県方向を眺める (撮影 2001.11.12)
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稜線上から岐阜県側を眺める (撮影 2001.11.12)
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峠から南に分かれる林道方向を見る (撮影 2001.11.12)
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<林道分岐>
 峠の岐阜県側から稜線沿いに南へと林道が分かれて行く。200mくらい進むと、道が八草川の谷に張り出したカーブがある。そこから峠や、北に下る八草川の谷の様子が見渡せる。

   
林道から見る峠周辺 (撮影 2001.11.12)
なかなか壮観な眺めだ
左手の鞍部が峠、正面に八草川の谷が真っ直ぐ下る
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峠を滋賀県側に下る 
   

<金居原>
 峠は伊吹山地を越えて滋賀県に入る。現・長浜市、旧伊香郡木之本町大字金居原(かねいはら、かねばら、かないはら、かないばら)である。
 金居原は「金井原」とも書く。江戸期からの金居原村。明治22年、旧杉野村などと合併して新しい杉野村が成立、金居原村は大字金居原となる。昭和29年、杉野村が旧木之本町などと合併したことで、新しい木之本町の大字となる。
 
<道の様子>
 急峻な旧八草峠(久加越)を避け、大きく南に迂回した新八草峠の道は、峠を過ぎるとまた北へと向かって引き返して行く。道が通じる斜面は急だが、道はほとんど下ることなく、水平移動に等しい。 峠から400m余り進むと、西に張り出した尾根を巻く。後ろを振り返ると峠の鞍部が望めるが、まだ目の高さに見える。八草峠は岐阜・滋賀のどちら側からでも峠の鞍部が確認でき、その点に一つの特徴がある。

   
峠から400mくらい進んだ所 (撮影 2001.11.12)
後方に峠の鞍部がはっきり分かる
   

<道のコース>
 岐阜県側は単純に八草川左岸の斜面を登り詰めていたが、滋賀県側の道は冗長性を感じる。 はじめ須亦川支流・日の裏谷の源流部を北に横切り、杉野川本流(一部は登谷支流・オゲツラ谷)との分水界の支尾根に取り着くが、なかなかその尾根を越えない。尾根沿いを随分西に行ってからやっと登谷水域方面へと下って行く。 旧峠(久加越)が登谷をそのまま下っていたのとは大きく異なる。
 
 稜線から延びる支尾根上には661mのピークがある。道の途中からそれが確認できる。


道は左前方に見える尾根の西側を巻く (撮影 2001.11.12)
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尾根を巻く頃 (撮影 2001.11.12)

<尾根を巻く>
 尾根を巻く手前まで道は比較的開けている。尾根を巻く頃になると道は林の中だ。

   
   
   
日の裏林道 
   

<日の裏林道分岐>
 どこで尾根を巻いたかは、日の裏林道で分かる。ほぼ尾根の先端部でその道が分かれて行く。その先の国道303号はまた一段と狭くなっている。
 
 日の裏林道は八草峠直下に流れる日の裏谷の川沿へと一気に下り、その後、日の裏谷・須亦川に沿い、杉野川を日の裏橋で渡って国道303号に接続していた。八草峠の道として本線よりも比較的素直なコースである。


日の裏林道分岐付近 (撮影 2001.11.12)
この先道は狭い
ここより左に林道が分かれて行く
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日の裏林道分岐を峠方向に見る (撮影 2001.11.12)
右に下るのが日の裏林道
   

日の裏林道通行止の看板が立つ (撮影 2001.11.12)
杉野川に架かる日の裏橋付近が通行止だった
橋の手前から林道横谷オゲツラ線が分かれて行く

日の裏林道通行止の看板 (撮影 2001.11.12)
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<日の裏林道(余談)>
 日の裏林道は一度だけ走ったことがある。岐阜県側から八草峠を越え、遥か福井県の敦賀へと向かう途中だ。あまり時間がないのだが、いつも同じ国道ばかり走っていては詰らない。そこで、これまでも気になっていた日の裏林道に入ることとした。

   

日の裏林道を下って来た所 (撮影 1997. 4.27)
左が日の裏林道を峠方向へ
多分、須亦川沿いの道に出て来た地点
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日の裏林道の標柱など (撮影 1997. 4.27)
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 ただ、もう今は何の記憶もない。走ったという証として写真を少し撮っただけだった。多分、日の裏谷からその本流の須亦川沿いの道に接続した地点だったと 思う。朽ち掛けた「日の裏林道」と書かれた標柱が立っていた。「無断で山菜(ワラビ)等の採取を禁ず」とも看板にあった。何だか寂しい分岐であった。

   
朽ちた林道標柱 (撮影 1997. 4.27)
   

<新八草峠を越える杣道>
 ところで、文献の久加越の項で気になる記述を見付けた。久加越の他に、「金居原から須亦(すまた)川谷を登る杣道から新八草峠への道」が開かれていたというのである。この道筋は現在の日の裏林道のコースに近い。
 
 地形図をよく見ると、新八草峠を挟んで日の裏谷の反対側の八草川沿いにまで軽車道が延びて来ている。八草集落辺りから始まっているようだ。多分、文献の言う山道とは、日の裏谷をそのまま直登し、峰を越え、直下の八草川に下り、川沿いに八草集落まで至っていたのだろう。
 
 新八草峠は戦後の林道開発で初めて誕生した峠かと思っていたが、そうではないようだ。古くから久加越の脇道の様な存在として、何らかの峠道が通じていたらしい。それでは、その峠は何と呼ばれていたのだろうか。既に八草峠と呼んでいたのかもしれない。
 
 尚、杣道(そまみち)とは、杣山(切り取るための木を植えつけた山)の杣木(材木)を切る杣人(きこり)が通る道である。単純には、険しい山道とでも考えればいいだろう。

   
   
   
登谷水域 
   

<登谷水域へ>
 日の裏林道分岐を過ぎると、ほぼ登谷の水域である。ここから登谷の本流となる杉野川沿いに至るまでの区間がなかなか険しい。

   
登谷水域に入って来たころ (撮影 2001.11.12)
正面に見えるのは横山岳(1132m)のようだ
その手前を杉野川が南流する
   

オゲツラ谷へと下る (撮影 1995. 5. 3)
下にオゲツラ谷右岸に通じる道を見下ろす
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<オゲツラ谷>
 道は一路登谷の支流・オゲツラ谷の上流部へと下って行く。ほぼ伊吹山地の稜線へと戻る方向だ。すると、険しい谷を挟んだ対岸に道が通じているのが望める。峠道の険しいさを象徴する景観だ。そのオゲツラ谷右岸沿いの道まで下って行く。

   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2001.11.12)
   

<オゲツラ谷右岸>
 道はオゲツラ谷上流部を巻き、右岸に入ってから西へと下り始める。道は狭く険しい。国道303号の面目躍如である。
 
 
<ゲート箇所>
 オゲツラ谷右岸沿いでゲート箇所がある。多分、八草トンネルが開通してから設けられたものだ。それ以前はなかったと思う。ゲートを抜けると間もなく、八草トンネルを抜けて来た川上・八草バイパスに接続する。


多分、オゲツラ谷右岸沿い (撮影 2001.11.12)
道は狭い
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ゲート箇所 (撮影 2001.11.12)
   

<バイパスに接続>
 2001年11月に八草峠から下って来ると、その変貌振りには驚くばかりだった。出来たばかりの八草トンネルの坑口付近は、広々とした空間が出来上がっていた。

   
バイパスに接続する (撮影 2001.11.12)
手前が八草峠、右手前が八草トンネル
   

八草トンネル方向を見る (撮影 2001.11.12)
右手奥が峠への旧道
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<未完のバイパス>
 ところがちょっとおかしい。トンネルを出た先50mくらいで、新国道は急カーブして林の中に入って行くのだ。その先は昔のままの狭い道である。

   

<金居原バイパス>
 トンネルの真正面の先を見ると、山肌が大きく削られ、大規模な工事が行われていた。コンクリートの橋脚の様な物も見える。
 
 この時は、ほとんど八草トンネルだけを開通させていたようだ。2004年9月に訪れた時も、ほぼ同じ状態だったと思う。トンネル掘削も大変だろうが、その前後の道の建造も容易ではないと思った。
 
 尚、この時まだ未開通だった八草トンネルに続く区間は、金居原バイパスとか呼ぶようだ。ただ、工事が完成すれば川上・八草バイパスから金居原バイパスへと一続きの道である。


八草トンネルの先 (撮影 2001.11.12)
まだ金居原バイパスは開通していない
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出口土倉 
   

<出口土倉へ>
 道はオゲツラ谷からその本流の登谷沿いに移り、その右岸を西へと下って来る。林に囲まれた暗い川沿いの道を抜けると、パッと明るい場所に出る。登谷と土倉谷(つちくらだに)が合流する地点だ。この地は出口土倉(でぐちつちくら)と呼ぶようである。

   
出口土倉 (撮影 1991.10.13)
峠方面を見る
右に登谷を渡る道が分岐(かつての出口土倉集落へ)
ジムニーの左横に「八草峠」の看板がある
   

木に掛かる八草峠の看板 (撮影 1991.10.13)

<出口土倉の様子>
 滋賀県側から八草峠を目指す時、思わずこの場で車を止めたくなる。右に登谷を渡る道が分岐し、念の為、道を確認する意味もある。 しかし、この先の道がちょっと異様で、たじろいでしまうというのが本当のところだ。一段と狭くなった道が暗い林の中へと吸い込まれて行く。初めて訪れた時は雨が降っていて、尚更暗く薄気味悪く感じた。これでも国道だろうか。どこかで道を間違えたのか。
 
 
<「八草峠」の看板>
 辺りを見回しても、適当な案内看板はない。ただ、枯れ木に木製の札が吊り下げられ、直進方向に「八草峠」、左折方向に「土倉鉱山跡」とある。今思うとな かなか味わいのある看板なのだが、これではちょっと頼りない。右に分かれて行く道の方がまだましに見え、本当に直進が八草峠だろうかと半信半疑であった。

   

<土倉谷沿いの道>
 また、この出口土倉からは土倉谷沿いの道が北へと分かれて行く。
 
<土倉谷>
 土倉谷と登谷が杉野川の2つの源流となるが、土倉谷の方が杉野川の本流として扱われることもあるようだ。土倉谷を杉野川と呼ぶ資料も見られる。土倉谷は岐阜・滋賀境界に位置する土蔵岳(つちくらだけ、1,008m)に発する(土倉岳ではないようだ)。
 
<土倉鉱山跡>
 土倉谷沿いの道は土倉鉱山跡に至る。以前は分岐の角に土倉鉱山跡に関する看板も立っていた。


出口土倉 (撮影 1995. 5. 3)
左に土倉谷沿いの道が分かれる
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土倉鉱山跡の看板が立つ (撮影 1995. 5. 3)
奥に工事看板も多く立っていた
   

土倉鉱山跡の看板 (撮影 1995. 5. 3)
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<看板の内容>
 土倉鉱山跡
 土倉鉱のはじまりは、明治40年(1907)岐阜県の大工、中島善十郎さんが、杉野川近くで銅鉱石を発見したことが最初といわれています。
 この鉱山は良質な黄銅鉱石や黄鉄鉱石が採掘されることで全国的に有名で、また県内でも地下深く坑道を掘った唯一の鉱山でした。
 最盛期には、月産2〜5千トン従業員350人前後と・・・わいでしたが、やがてそ・・・量にも限りがみられ、その上海外から安い銅鉱石が入るようになり、更に採掘コストも高くなったことなどから昭和40年8月(1965.8)に閉山となりました。
 木之本…教育委員会

(・・・の部分は不明)

   

 その後、土倉鉱山跡の看板はなくなり、八草峠の看板もいつしか見られなくなった。

   

土倉谷沿いの道を見る (撮影 2001.11.12)
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八草峠方向を見る (撮影 2001.11.12)
(八草峠から下って来たところ)
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土倉鉱山跡の看板はもうない (撮影 2001.11.12)

八草峠の看板もないようだ (撮影 2001.11.12)
   

 2004年9月に訪れてみると、土倉鉱山跡や八草峠の看板は跡形もなくなり、さっぱりした出口土倉になっていた。代わって沿道には工事関係の看板が立っていた。八草バイパスの工事のようであった。

   
右の道には「工事用車両注意」の看板が立つ (撮影 2004. 9.26)
   

土倉谷沿いの道の方を見る (撮影 2004. 9.26)
この時は同行者があった

八草峠方向を見る (撮影 2004. 9.26)
黄色い看板は「100m先、工事車両出入口」
   
出口土倉より金居原集落方向を見る (撮影 2004. 9.26)
国道は直ぐに土倉谷を渡っている
   
   
   
土倉鉱山跡へ(余談) 
   

<土倉鉱山>
 看板にもあったが、土倉鉱山は明治40年、この出口土倉辺り(小字土倉)で発見されたそうだ。その後、明治43年に田中鉱業株式会社の手により採掘が開始された。 鉱脈は広く福井・岐阜・滋賀の3県にも及んだとのこと。文献では、従業員1,700人とか2,000人で県内最大の鉱山だったとある。昭和40年の閉山は、資源の枯渇化、安価な外国産銅の流入などによるとするのは看板の内容と同じである。
 
<鉱山集落>
 土倉鉱山に関わるいわゆる鉱山集落がこの地に生まれた。土倉谷沿いの土倉とその谷口に当たる出口土倉がそうである。「土倉からの出口」なので「出口土倉」なのだろうが、「入口」といわないところが面白い。

   
林の奥に出口土倉の集落跡 (撮影 1991.10.13)
   

<廃村跡>
 八草峠を訪れた初期の頃、登谷の対岸(左岸側)にちょっとした平坦地が広がり、林越しに二階建てのアパートの様な建物が何棟か建っていたのが見えた。一度は川岸まで降りて見て来たこともある。 建物の周辺は草木に覆われ、建物以外の人工物はもうほとんど確認できなかった。多分、それが出口土倉の集落跡だったのだろう。現在、杉野川最上流の集落は金居原だが、昭和40年までは出口土倉や土倉が最上流であった。
 
 その後、林の奥を見ても、草地が広がるばかりで集落跡が見られなくなった(下の写真)。見ている場所が違うのかとも思った。しかし、その頃、八草トンネ ルを主にするバイパスの工事が進み、出口土倉付近でも工事車両の往来が多くなっていたようだ。多分、その工事の一環で集落跡も取り壊されたのだろう。


出口土倉の集落跡 (撮影 1995. 5. 3)
近くに寄って見て来た
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林の奥を見るが、もう集落跡がない (撮影 2001.11.12)
見ている場所が違ったのかとも思った

左の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2004. 9.26)
   

<往時の出口土倉>
 土倉鉱山の従業員は最盛期には1,000人を越えたようだが、土倉・出口土倉の集落に定住する者は、看板にあった数100人程度ではないだろうか。それでもこの山間部にしては大きな人口である。 当時は木之本市街方面から国鉄バスが、この出口土倉まで通じていたそうだ。土倉鉱山跡の看板が立っていた辺りは広い路肩がある。多分、そこで路線バスが転回したのだろう。 今は閑散とした出口土倉だが、鉱山最盛期には人の往来で賑わったものと思う。鉱山の閉鎖と共に集落は消滅したが、昭和40年というのはそれ程昔のことではない。

   

<土倉鉱山跡へ(余談)>
 出口土倉から土倉谷沿いの未舗装路を500mくらい入ると、大きな土倉鉱山跡が残る。コンクリート製の選鉱などの設備であろうか。異様な景観である。多分、この近くに土倉集落もあったのだろうが、集落跡らしきものはもう見られなかった。

   

土倉鉱山跡 (撮影 1995. 5. 3)
出口土倉方向に見る
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

土倉鉱山跡 (撮影 1995. 5. 3)
土倉谷の上流方向に見る
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<土倉釜子(余談)>
 土倉谷沿いに小字として「土倉」の名が残るが、更に上流には小字土倉釜子というのがあったそうだ。江戸期には土倉谷を2Kmほど遡った奥にその土倉釜子の集落が形成された。 現在もその辺りまで林道が通じているらしい。当時は彦根藩の御用炭焼、いわゆる釜子たちが住んでいたとのこと。人の営みの凄さを感じる。明治5年には戸数10戸程度あったそうだ。 土倉鉱山が発見されるより以前のことである。
 
 明治28、29年頃の水害で土倉釜子の集落は出口土倉に移転したが、他へ転出する者も多かったそうだ。その後、土倉鉱山で再び出口土倉は賑わうこととなる。そして現在は、バイパスの貫通で出口土倉は国道沿いから外れてしまった。訪れる者は少ないことだろう。


上の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2004. 9.26)
   

鉱山跡の前から土倉谷の奥を見る (撮影 2004. 9.26)
この先に小字土倉釜子があり、
坂内村の又谷へ越える峠道も通じる

<又谷に出る山道(余談)>
 文献のやはり「久加越」の項で、このような記述もある。「金居原から土倉谷に沿って土倉銅鉱山を経て、岐阜県又谷に出る山道も開かれていた。
 
<又谷>
 夜叉ヶ池から流れ下る坂内川の源流は、池ノ又谷と呼ぶ。また、その下流側の坂内川支流に中ノ又谷、神又谷(かんまただに)などという川もある。 文献の「又谷」がどこを指すか分からないが、それらの支流が流れ込む坂内川沿いではないか。この山道も美濃と近江を繋ぐ峠道の一つとなる。車などなかった時代、人は歩いて山中にいろいろな道を切り開いていたことに驚く。
 
<伊吹山地最北の峠道>
 尚、八草峠(久加越を含む)は伊吹山地最北の峠道だと言ったが、上記の山道の方が更に北に位置することになる。まあ、美濃・近江間の交易などに使われた峠道ではないかもしれないが。

   

<久加集落(余談)>
 江戸期からの金居原村について調べてみても、杉野川源流部(土倉谷と登谷)には出口土倉とか小字土倉、小字土倉釜子という地名しか見られない。 特に出口土倉を通過して久加越に通じる登谷沿いに、集落があったような記述はなかった。もし、久加越の久加集落が金居原村側であったとすると、出口土倉よ り上流側の登谷沿いに限られる。その可能性が薄いとなると、やはり久加集落は川上村(岐阜県)側にあったのではないかと思う。

   
   
   
杉野川沿い 
   

<杉野川沿い>
 出口土倉を過ぎ、道は杉野川本流右岸沿いを下る。この川が流れる谷は杉野谷と呼ばれ、中心集落は杉野になる。明治22年、金居原村・杉野村・杉本村などが合併し、新しい杉野村が誕生する。村名はこの「杉野谷」にちなむ。
 
<金居原バイパス工事>
 2001年に訪れた時は八草トンネルに続く杉野川沿いに、新しい国道の建設中だった。頭上に大きな橋を架けている。金居原バイパスである。今頃は、空を飛ぶようにして新国道が通じていることだろう。

   

前方上空に金居原バイパスが通る (撮影 2004. 9.26)
この時もまだ工事中

金居原バイパスの工事箇所 (撮影 2001.11.12)
八草トンネル方向を見る
前方の山は県境上の780mのピークだと思う
久加越はその肩の部分に通じていたものと思う
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工事用車両出入口の看板が立つ (撮影 2004. 9.26)

もう少しで金居原集落 (撮影 2004. 9.26)
   
   
   
金居原集落 
   

<金居原バイパスの先に接続>
 2004年に訪れた時は、金居原集落に入る少し手前で道は立派な2車線路となった。金居原バイパスとは、金居原集落をバイパスするからそう呼ぶのかと思ったら、集落手前の上空を走っている区間までのようだ。道は金居原バイパスの先に接続したことになる。
 
 間もなく、右に金居原集落内を通る旧道が分かれて行く。


金居原バイパスの先に乗る (撮影 2004. 9.26)
   
右に金居原集落への道が分かれる (撮影 2004. 9.26)
そちらが旧国道
   

<杉野川左岸>
 道は杉野川を渡って左岸を進む。かつての国道は出口土倉から金居原集落の先まで、ずっと右岸に通じていた。現在、金居原集落は川を挟んだ対岸に見える。


対岸に金居原集落 (撮影 2004. 9.26)
   
   
   
杉野集落 
   

<杉野>
 金居原に続き、杉野の集落を通過する。現在の国道303号は杉野の集落も大方バイパスして通るようだ。かつての国道はそれらの集落内に細々と通じていたと思うが、あまり記憶がない。

   

<観光案内図>
 ただ、杉野では観光案内の看板を見付けて写真に撮って置いた。「横山岳周辺観光案内図とあった。

   

横山岳周辺観光案内図 (撮影 1991.10.13)
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案内図の一部 (撮影 1991.10.13)
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 案内図の地図には八草峠まで載っていたが、主に横山岳の登山案内である。峠に関しあまり参考になる点はない。八草峠まで11.5Km、坂内村川上まで14.0Kmとある程度だ。

   
案内図の一部 (撮影 1991.10.13)
       
   
杉本集落 
   

<杉本>
 金居原や杉野に比べ、杉本はやや小さな集落だ。しかし、旧余呉町(現・長浜市余呉町)に至る県道284号の分岐がある。

   

この先杉本 (撮影 2001.11.12)
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余呉への分岐の看板が立つ (撮影 2001.11.12)
   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2004. 9.26)
   

<県道284号>
 国道303号を木之本市街からずっと走って来るのはなかなか大変だ。退屈でもある。しかも国道303号には適当な迂回路がないが、唯一、杉本で分岐する県道284号が存在する。 旧木之本町と旧余呉町とを繋ぐ小さな峠道でもある。峠には杉本隧道(丹生峠)が通じるが、これがなかなかのトンネルだ。 八草峠を越える時の行きや帰りには、よくこの杉本隧道を利用した。それで杉本集落は馴染なのである。

   
県道284号の分岐 (撮影 1991.10.13)
左奥がその県道、右が国道303号を八草峠へ
分岐の角に「ここは杉本です」の看板が立つ
   

「ここは杉本です」の看板 (撮影 1991.10.13)

<県道分岐の看板>
 今はもうなくなっているだろうが、県道284号の分岐には、「ここは杉本です」と書かれた洒落た看板が立っていた。お手製で味わい深い。 杉本隧道方向には「余呉方面」、八草峠方向には「杉野まで1K」とあった。杉本隧道はあまりに狭いので、国道沿いには県道284号の案内看板など出ていない。余呉方面を示すのはその看板ぐらいであった。

   
   
   
杉本以降(以降余談) 
   

 川合には川合トンネルが抜け、国道303号は全線に渡って改良が進む。
 
 1994年の年末、岐阜県側で八草峠の通行止を知り、大きく伊吹山の南を迂回し、再び国道303号に入った。すると川合付近で電光表示板が出ていた。 「金居原〜八草峠 積雪 通行止」とあった。これを見て納得し、福井の駿河に向かったのだった。八草トンネル開通で、もう積雪通行止の表示はなくなったことだろう。


川合トンネル (撮影 2001.11.12)
   
川合付近 (撮影 1994.12.29)
積雪通行止の電光表示が出ていた
   
電光表示板 (撮影 1994.12.29)
   

田部の交差点 (撮影 2001.11.12)
国道365号に接続

<木之本市街>
 以前の国道303号は北陸本線・木ノ本駅近くの正しく木之本市街から始まっていた。ツーリングマップ程度の粗い地図を頼りに、複雑な市街を抜け、国道303号に入るのは至難だった。杉本隧道経由を使うのは、それを避ける意味があった。
 
 ところが、2001年に八草峠から下って来ると、どこだか分からない所に導かれた。田部という交差点で国道365号を通過、その先立体交差で国道8号に接続する。 もう西も東も分からなくなり、混乱するばかりだった。後で知ったが、国道303号は木之本市街を南に大きく外れて換線されていた。複雑な市街地を避けてくれたのはいいが、結局迷ってしまった。

   
   

   

 旅行で撮ったフィルム写真は15,000枚以上になる。それを48枚収納のポケットアルバム約300冊に保管している。終活の一環でそろそろこれを始末しなければならない。妻は冗談で棺桶に入れてくれるというのだが、どうしたものか。
 
 そこで、精細なフィルムスキャナを購入した。アルバムからネガフィルム約600枚を抜き取り、別にクリアファイルに入れた。 実は既に全てのネガフィルムを簡易スキャナでデジタル化してあるのだが、何しろ画質が悪い。そこで、ホームページ作りなどできれいな画像が必要な時、精細 スキャナを使う積りである。これでポケットアルバムは捨てる準備ができたのだが、アルバムにはいろいろな書き込みもあり、未だに捨てがたくいる。
 
 今回の八草峠から精細スキャナを本格的に使うこととした。28年前の八草峠の姿がモニター画面全体に克明に映し出され、ちょっと感動ものだった。印画紙の写真と同等かそれ以上の精細さである。 写真に撮った看板の文字などもしっかり見える。しかし、1枚のスキャンに1分前後かかった。フィルムの送りや交換は勿論手動だ。 スキャナの操作方法にも慣れず、装置の誤動作かスキャンに失敗することもたびたび。しかも、600枚ものネガフィルムから目的の写真を見付け出すのは、大変な苦労である。こんなに手間暇かけて、終活も全然進まないと思う、八草峠であった。

   
   
   

<走行日>
・1991.10.13 木之本町→坂内村 ジムニーにて
(1994.12.29 八草峠は冬期通行止)
・1995. 5. 3 木之本町→坂内村 ジムニーにて
・1997. 4.27 坂内村→木之本町(日の裏林道へ) ジムニーにて
・2001.11.12 坂内村→木之本町 ジムニーにて
・2004. 9.26 坂内村→木之本町(八草トンネル通過) キャミにて
(2014. 7.30 横山ダムを通過)
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 21 岐阜県 昭和55年 9月20日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典 25 滋賀県 昭和54年 4月 8日発行 角川書店
・中部 2輪車 ツーリングマップ 1988年5月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部北陸 2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・県別マップル道路地図 21 岐阜県 2001年 1月 発行 昭文社
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

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