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牧峠
  まきとうげ  (峠と旅 No.289)
  かつて信越国境を越えて物資の交流もあった峠道
  (掲載 2018. 4. 7  最終峠走行 2017. 9.11)
   
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牧峠 (撮影 2017. 9.10)
手前は長野県飯山市大字照岡
奥は新潟県上越市牧区上牧
道は上牧林道(上越市道・牧飯山線)
峠の標高は約965m (地形図の等高線より読む)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
ここは林道が通じた現在の牧峠
かつて「ひるこ峠」と呼ばれた旧峠はこの東200mくらいにあるようだ
 
 
 
   

<掲載動機>
 関田(せきだ)山脈は峠の宝庫だ。その主稜はほぼ新潟・長野の県境となり、そこを越えて幾つもの峠道が通じる。しかし、この山脈は日本海にほど近い豪雪地帯でもある。 テレビで関東甲信越地方の天気予報を眺めていると、冬場は大抵白い雪のマークに覆われている。それを見るたび、ああ峠も深い雪に埋(うず)もれていることだろうと思う。
 
 関田山脈に通じる峠道は、幹線路を除くと、春の連休・ゴールデンウィークの時期になっても開通しないことがほとんどだ。 また、近世頃までは信越国境を越えて物や人の交流があった峠だが、近代以降は車道整備が立ち遅れ、それもあって車での峠越えを非常に困難にしている。この「峠と旅」でも僅かに関田峠一つを掲載しただけである。何とか他の峠も掲載したいと思い、やっと去年(2017年)この付近の旅をして来た。まずは手始めに牧峠を掲載しようと思う次第である。

   

<所在>
 峠の北側は新潟県上越市牧区上牧(かみまき)となる。上越市と合併する前は東頸城(ひがしくびき)郡牧村(まきむら)であった。峠を新潟県側に下ると最初に出て来るのが上牧集落である。
 
 一方、峠の南側は長野県飯山市の大字照岡(てるおか)となる。明治期は照岡村であった。その村の関田山脈麓に土倉(つちくら)と呼ぶ小さな集落があり、牧峠は国境・県境を越えて上牧と土倉の2集落を繋ぐ峠道となる。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<水系>
 峠の新潟県側は関川(せきがわ)水系となる。峠は関川支流の保倉川(ほくらがわ)の更に支流の飯田川(いいだがわ)水域に位置する。 ただ、保倉川・飯田川は関川の河口近くでそれぞれの本流に注ぎ、それらの川の源流は比較的離れているので、ほとんど独立した河川の様相である。
 
 地形図を見ると、峠は飯田川支流・湯ノ川の上流部に位置する。山腹途中に「鷹羽鉱泉」という温泉があるので、それが「湯ノ川」の由来だろうか。 ただ、上牧集落は湯ノ川より下流の飯田川支流・猿俣川沿いに位置する。尚、同じ新潟県に他にも猿俣川があるので、こちらの方を「牧猿俣川」とか、地形図などでは「牧・猿俣川」と書いて区別するようだ。以後、ここでは牧猿俣川と記す。
 
 一方、長野県側は言わずと知れた信濃川水系である。長野県内では千曲川(ちくまがわ)と呼称する。峠はその支流の桑名川(くわながわ)の上流部に位置する。土倉集落はその桑名川沿いの立地だ。

   

<峠名>
 今は「牧峠」以外の峠名はほとんど使われない。現在の峠は昭和52年(1977年)に上牧林道が通じてできた新しい峠で、旧峠の名をそのまま引き継いだ形になっている。 厳密には「新牧峠」とでも呼んで新・旧を区別すれば、旧峠の存在に気付き易いのだが。当然ながら、旧峠に車道は通じていない。
 
 「牧峠」は普通に「まきとうげ」と発音している。しかし、「牧」に通じた峠という意味で、「まきのとうげ」と発音するような場合もあったかもしれない。その呼び方の方がリズミカルな感じだ。
 
<名の由来>
 現在の牧峠は上越市になる前の旧牧村に通じる点、「牧峠」と称するのは至極当然のように思える。しかし、旧峠が牧峠と呼ばれたのは、峠直下にある集落・上牧を由来とするようだ。古くはその地こそを「牧村」と呼んでいたらしい。

   

<上牧>
 「上」(かみ)があるからにはその下流側に「下牧」(しもまき)があるかと思いきや、見付からない。調べてみると、ずっと北の旧柿崎町の米山南西麓に対となる「下牧」があった。現在は上越市柿崎区下牧である。
 
 江戸期まではどちらも単に牧村と呼んでいた。「牧」と呼ばれる地名は日本に多い。 角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)で「牧」を前方一致で検索すると、600件以上がヒットして手に負えなくなる。概ね平坦な草地が広がり、牛馬の放牧などに適した土地を「牧」と呼んだようだ。
 
 明治期になって同じ頸城郡(くびくきぐん)に2つの牧村があるのは不都合とし、明治12年それぞれの村名に「上」と「下」を冠して区別した。 こうして上村と下村が誕生したようだ。水系も全く異なり下村は柿崎川水系に属す。上村と下村は遠く離れていながら兄弟の様な間柄ということになる。 今は同じ上越市でもある。余談ながら、私が生れた土地は東中野というのだが、やはり昔は単なる「中野」だったらしい。それが他にも「中野」があるというので、後に東・西で区別したようだ。

   

<ひるこ峠>
 上牧の地がまだ牧村と呼ばれた時代、そこに口留番所があった。その為、そこを通る道は「牧街道」、峠は「牧峠」と呼ばれた。しかし、それ以前は「ひるこ」という地に口留番所があり、「ひるこ街道」・「ひるこ峠」と呼ばれたのがこの峠道の始まりとなるようだ。
 
 「ひるこ」には「日比子」または「昆子」という字を当てる。ちょっと古い道路地図では、牧猿俣川が注いだ下流の飯田川沿いに、上日比子・下日比子といった集落名が記されていた。 最近の地図では上昆子・下昆子となっている。ただ、現在の読み方は「びりご」だそうで、「ひるこ」ではない。しかし、その上・下の昆子がかつての昆子村(ひるこむら)らしく、そこに口留番所が置かれていた。その為、ひるこ街道・ひるこ峠の名が生まれたようだ。
 
 後に昆子村より上流側にある牧村(現在の上牧)へ口留番所が移されると、街道や峠の名称も「ひるこ」から「牧」へと徐々に変わって行ったようだ。今では「牧峠」全盛で、「ひるこ」などと言っても一体何のことかと思う。古い呼称が残されるといいのだが。

   

<関田山脈の峠(余談)>
 文献(角川日本地名大辞典)によると、関田山脈の主稜上を越えて13の峠が通じるそうだ。そう聞くとそれらの峠を全部リストアップしたくなる。 関田山脈は、東の旧松之山町(現十日町市)から西の旧新井市(現妙高市)にかけて、ほぼ新潟・長野の県境を成す長さ約30Kmの山脈だそうだ。 山脈名は旧板倉町最奥にある関田(せきだ)(現上越市板倉区関田)と呼ぶ集落名から来きている。 文献や地図・観光パンフレットなどを頼りに、その山脈を越える峠を東から挙げると次のようになった。
 
  (1)深坂峠(みさか):1,090m、林道あり
  (2)野々海峠(ののみ):1,090m、林道あり
  (3)須川峠(すがわ):1,080m、車道未開通
  (4)伏野峠(ぶすの):1,015m、国道403号
  (5)宇津ノ俣峠(うつのまた):約995m、車道未開通
  (6)牧峠(まき):970m、上牧林道、
  (7)梨平峠(なしだいら):約1,100m、車道未開通
  (8)関田峠(せきだ):1,111m、県道95号
  (9)筒方峠(どうがた):車道未開通
 (10)久々野峠(くぐの):車道未開通
 (11)小沢峠(こざわ):車道未開通
 (12)平丸峠(ひらまる):県道412号
 (13)北峠(きた?):車道あり
 (14)富倉峠(とみくら):681m、車道未開通
 (15)涌井峠(わくい):650m、国道292の大川トンネル開通
 
 どういう訳か15峠ある。現在の牧峠とその旧峠となる「ひるこ峠」は、厳密には別物だろうが、ここでは区別していない。
 
 平丸峠以東は県境上に位置する。それより西の峠は長野県側にある。
 これらの峠の中で関田山脈の中央部に位置する関田峠が最も標高が高い。
 
 一方、最も交通量が多いのは富倉峠であったそうだ。山脈の北側に位置する富倉より尾根伝いに北峠に至り、富倉峠を経て飯山市街へと下っていた。 後の明治10年、富倉峠の南西に涌井峠を越える別ルートが開削され、昭和45年には国道292号となって行く。 現在の涌井峠には大川トンネルが通じ、関田山脈を越えて新潟・長野両県を結ぶ最大の幹線路となっている。こうした経緯からして、北峠・富倉峠・涌井峠は1セットの峠道とも言える。 すると、全部で13峠となって、文献の記述とも辻つまが合う。 尚、「北峠」は地名由来の名ではないので正しい読み方が分からなかったが、富倉峠の「北」に位置することからこの名があるのかもしれない。
 
 ざっと眺めると、車道が通じていない峠が半数以上だ。国道292号(代表は富倉峠)に継ぐ幹線路である関田峠も、確か冬期通行止となる。その他の車道が通じる峠も、東に行くに従い険しい。 今後、伏野・野々海・深坂などの峠を掲載したいと思うが、どうなることやら。

   
   
   
新潟県側より峠へ 
   

<柳島の分岐>
 新潟県側から向かう牧峠への道は、旧牧村の中心地・柳島(やなぎしま)より始まる。現在の上越市牧区柳島だ。ここより国道405号から分かれた県道301号・柳島信濃坂線が飯田川右岸沿いに遡り始める。この付近、道の改修があったようで、県道分岐は以前より東に移動していた。
 
 尚、牧峠は2001年に新潟県側から長野県側に越えた。また、2017年に訪れた時は、峠から新潟県側の一部に通行止があったので、9月10日に長野県側から峠まで、翌11日に新潟県側から峠の手前まで行っている。このページではそれら写真が混在する。


以前の県道301号分岐の看板 (撮影 2001. 7.29)
国道405号を上越方向に見る
国道標識の下にはまだ「牧村 柳島」とある
   

県道分岐の看板 (撮影 2001. 7.29)

<県道301号>
 県道301号の行先は宇津俣(うつのまた)とある。確かにこの先の飯田川上流部には宇津ノ俣峠があり、その意味で県道301号は宇津ノ俣峠の峠道となる。しかし、その峠には車道が通じていない。そこで、ここのところは牧峠の道としてしまうのであった。

   

<飯田川左岸へ>
 そのまま県道301号を棚広(たなひろ)まで遡ってもいいのだが、行く行くは飯田川左岸の支流・牧猿俣川沿いを進むこととなる。早々と県道301号を離れ、左岸の東松ノ木へと移る。
 
 ある小さな分岐に立つ看板には、進行方向に「上牧林道、深山荘」と出ていた。牧峠そのものではないが、牧峠を越える道が案内されていたのは嬉しい。尚、深山荘は宇津俣の宇津俣温泉にある。鷹羽鉱泉を見に行った折り、その脇を通ったことがあった。


東松ノ木付近 (撮影 2001. 7.29)
分岐の看板には
直進方向:上牧林道、深山荘
右折方向:清里村
とあった
   

<昆子>
 道はその先、下昆子・上昆子の集落を過ぎる。残念ながら旧峠名である「ひるこ」と関係する地とは知らなかったので、何の写真も残っていない。また、2017年に訪れた時は、旧清里村方面から上昆子の上流側の下湯谷(しもゆや、しもゆうや)に出ていたので、昆子は訪れなかった。
 
 文献(角川日本地名大辞典)に見る昆子は、江戸期から明治22年までは上昆子(かみひるこ)・下昆子(しもひるこ)という村であった。頸城群(くびきぐん)の内。上日比子村・下日比子村とも書いた。明治12年からは中頸城郡に所属する。

   

<「牧」の変遷>
 続いて明治22年、上牧村(元の牧村)や上日比子村・下日比子村など14か村が合併し、東頸城群(ひがしくびきぐん)の川辺村(かわべむら)が誕生する。 更に明治34年には川辺・里見・川上の3か村が合併し、東頸城郡の自治体として再び牧村が興る。その後の昭和29年、牧村と沖見村が合併し、上越市になる直前の牧村が成立している。なかなか複雑だ。
 
 「牧」という地名は明治の一時期に途切れながらも存続し、その起源は中世以来のひるこ街道の牧関所があった「牧」に由来する。現在は上越市の「牧区」で残る。

   
飯田川左岸沿いの道 (撮影 2001. 7.29)
東松ノ木から下昆子に向かう途中
   

左手に飯田川を望む (撮影 2001. 7.29)
下湯谷以降

<ひるこ街道の道筋>
 下昆子・上昆子といったひるこ街道に関係した集落が沿道にあるということは、この飯田川左岸に通じる道が概ねかつてのひるこ街道ということになる。口留番所が牧村(後の上牧)に移る前は、この道筋のどこかに口留番所が置かれ、荷物の継立てなどが行われたのだろう。
 
 ひるこ街道の越後側起点は、やはり高田城下が最も代表となる地点と思われる。 一方、ひるこ峠(牧峠)を信濃側に下っても、小さな村々が点在するばかりで、これと言った起点が見当たらない。千曲川対岸に野沢温泉がある程度だ。 飯山市街へ向かうなら富倉峠を越えるだろう。ただ、古くは千曲川を用いた船運(水運)が発達していた。ひるこ街道を往来した物資は、更に千曲川に引き継がれたものと思われる。

   

<下湯谷以降>
 旧清里村の方から小さな峠を一つ越え、下湯谷に下って来ると、そこには驚くほど立派な道が通じていた。対岸を走る県道301号より遥かに快適だ。かつてのひるこ街道も隔世の感があることだろう。

   
下湯谷以降の道 (撮影 2017. 9.11)
快適になっていた
この先で牧猿俣川を渡る
   

<牧猿俣川を渡る>
 間もなく飯田川支流・牧猿俣川を遥か上空に架かる原橋(はらばし)で渡る。平成23年(2011年)の竣工と新しい。この快適な道もその時期に開通したのだろう。道の名は市道川西線と言うようだ。牧村が上越市の一部になってから整備されたようだ。飯田川の西に通じることから「川西線」であろうか。

   
   
   
原の分岐以降 
   

<原の分岐>
 見事な2車線路も原の分岐で尽きる。ほぼT字路に突き当たる形を取る。相手の道は、以前は単なる村道か何かだったようだが、今は県道359号・上牧棚広線となっている。

   

前方に原の分岐 (撮影 2017. 9.11)

原の分岐 (撮影 2017. 9.11)
左は棚広へ、右が牧峠へ
   

棚広方面の道 (撮影 2017. 9.11)

<県道359号>
 県道359号は、飯田川右岸に通じる県道301号の棚広から分岐して始まり、原で市道川西線を合した後、上牧を通って牧峠方面へと向かう。 国道405号から県道301号・359号と走り繋いでも峠に行ける訳だが、やはり飯田川左岸の旧ひるこ街道を通る方が、峠道としては本道だろう。

   

<分岐の様子>
 正面に石段が登り、その上に鳥居が見える。諏訪神社だそうだ。目立つ存在である。階段の登り口付近に分岐の案内看板が立つ。

   

T字路の正面に諏訪神社 (撮影 2017. 9.11)
分岐を示す看板の上には「原」(はら)とある

原の分岐の看板 (撮影 2017. 9.11)
   
以前の原の分岐の様子 (撮影 2001. 7.29)
右奥は峠方向
   

以前の看板 (撮影 2001. 7.29)
分岐の角に卍が書かれている

<分岐の看板>
 今の県道359号の行先は、「飯山市・上牧・府殿」となっている。府殿(ふどの)は上牧と同様、旧牧村の一部で牧猿俣川の右岸に立地する。
 
 以前の看板では、「野沢温泉・上牧林道」となっていた。当時は他の看板でも「上牧林道」が示されることが多かった。また、分岐の看板の上には旧牧村の鳥・オオルリの絵が描かれていたが、今はこの地は上越市の一部である。
 
 
 分岐を峠方向に向くと、立派な山門が目に入って来る(下の写真)。池永山・明願寺とある。浄土真宗・本願寺派だそうだ。原の分岐付近は原から倉下(くらした)の集落に続いて一連の町並みが続き、その境界は分かり難い。文献によると明願寺は倉下にあることになっていた。

   

池永山・明願寺 (撮影 2017. 9.11)
左の道は牧峠へ

山門に「池永山・明願寺」とある (撮影 2017. 9.11)
   
原の分岐を棚広方向に見る (撮影 2017. 9.11)
左手が明願寺
   

<原の分岐以降>
 道(県道359号)は牧猿俣川の右岸沿いを遡り始める。しかし、これまでの飯田川沿いと同様、あまり川の近くを通ることは少なく、川を意識する機会はない。道はセンターラインこそなくなったが、それなりに幅員があり、まだまだ走り易い。
 
<倉下>
 道は倉下の地に入っているが、原の分岐付近を除くとほとんど沿道に人家を見ない。やや寂しい道となった。
 
 ここは江戸期〜明治22年の倉下村で、この上流側に位置する牧村は当村の枝村であったそうだ。明治初年に牧村が分村され、明治12年に上村となって行く。そして明治22年、上牧村・倉下村共々、川辺村(かわべむら)の大字となった。

   
道の様子 (撮影 2017. 9.11)
倉下付近
   

<沿道の様子>
 沿道に人家などの建屋は見られないが、周辺が広がりだした。「牧」の由来となった草原地帯の片鱗が見え始める。緩傾斜地に棚田が築かれていた。前方には信越国境となる関田山脈がそろそろ望めるようになる。


沿道に棚田が見られる (撮影 2017. 9.11)
   
   
   
府殿の分岐 
   

前方に上牧の分岐 (撮影 2017. 9.11)

<府殿の分岐>
 原の分岐から1Km余りで次の重要な分岐に出る。地域はまだ牧猿俣川右岸なので府殿なのかもしれないが、側らには「上越市消防団牧方面隊牧南分団」の「上牧消防部」の建屋が立つ。

   

上牧の分岐 (撮影 2017. 9.11)
牧峠へはここを右に

分岐手前にある上牧消防部 (撮影 2017. 9.11)
   

<分岐の様子>
 分岐はY字だが、やや左の府殿への道の方が本線の様に見える。右に分かれ、牧猿俣川を上牧橋で渡るのが県道359号の続きで、牧峠への道となる。

   
以前の府殿の分岐 (撮影 2004. 8.12)
この時はキャミでやって来た
   
以前の府殿の分岐 (撮影 2001. 7.29)
消防団の建屋は今とちょっと異なるようだ
この時は上牧橋の工事で大型車は迂回路を指定されていた
   

<上牧橋の工事(余談)>
 初めて牧峠を訪れた時は、丁度上牧橋の工事をしていた。補修工事の様だった。大型車は渡れず、府殿を迂回して上牧に出るように指示されていた。ジムニーは問題なく渡れた。

   
上牧橋工事による迂回路の看板 (撮影 2001. 7.29)
地図は概ね左が北
府殿は「附殿」と書かれている
   
上牧橋 (撮影 2017. 9.11)
峠方向に見る
   

分岐の看板 (撮影 2017. 9.11)
ここは府殿(ふどの)

<分岐に立つ看板>
 ここが「府殿」であること、右の道が「野沢温泉・飯山・上牧」方面であることは以前から示されていた。上越市になってからの新しい看板としては、「牧区 上牧」とあり、県道標識も加わった(左下の写真)。土石流危険渓流の看板はずっと以前からある(右下の写真)。

   

県道標識など (撮影 2017. 9.11)

土石流危険渓流の看板 (撮影 2017. 9.11)
「関川・猿俣川水系」の意味がよく分からない
   

上牧橋を府殿方向に見る (撮影 2017. 9.11)
手前が峠方向

分岐の看板 (撮影 2017. 9.11)
   

<橋の銘板>
 橋の銘板などは、それがはめ込まれたコンクリートブロックごと、古い物が残されている。ただ、竣工年は2001年の改修工事以後の新しい日付になっていたようだ。最初に上牧橋が架かった年を知りたいものだ。
 
 
<村道棚広上牧線>
 橋名の銘板の反対側には「村道棚廣上牧線」という銘板があった。現在の県道359号・上牧棚広線の前身となるようだ。路線の区間はほぼ同じではないだろうか。棚広を「棚廣」と旧字体を使っているあたりは古さを感じる。


「上牧橋」の銘板 (撮影 2017. 9.11)
   

村道棚広上牧線の銘板 (撮影 2017. 9.11)

「村道棚廣上牧線」とある (撮影 2017. 9.11)
   

<以前の上牧橋>
 上牧橋は、改修前と後で、橋の大きさなどあまり変わっていない気がする。以前は赤い貧弱な欄干だった。この小さな橋が上牧集落へと続く重要な生活路である。「二輪車事故多発」と目立つ看板があったが、峠を越える上牧林道での事故ではなかったろうか。

   
工事中の上牧橋 (撮影 2001. 7.29)
以前は赤い欄干
「上牧橋」の銘板(左手)は手前を向いていた(今は右を向く)
   

手書きの看板 (撮影 2001. 7.29)

<手書き看板>
 以前は手書きの看板が立ててあった。この先、上牧内の主要な分岐には同じような看板が立ち、なかなか役に立った。今は全く姿を消してしまっている。看板には次のようにあった。
 
 左:府殿
 右:長野県 上牧
 手前:倉下 原

   
   
   
上牧以降 
   

<上牧>
 上牧橋を渡り、牧猿俣川の左岸に入ると、そこは上牧の地だ。概ねこの付近から上流側の右岸が府殿、左岸が上牧となるようだ。直ぐにも沿道に上牧集落の人家が見え始める。道幅は一段と狭くなった。原の分岐、府殿の分岐と、分岐がある毎に道は悪くなる。

   
上牧の集落内へ (撮影 2017. 9.11)
   

<牧口村>
 文献を調べていると、「牧口村」(まきくちむら)という項を見付けた。江戸期の村名である。 当地域の総称して「牧村」と呼んだが、人家が集まる集落としては「牧口村」とも呼ばれたようだ。倉下村の枝郷を経て、明治初年に分村してからは正式に「牧村」となる。 「牧口」とはこの村の先に広がる牧草地帯の入口に立地する村と言った意味合いだろう。

   
上牧集落の様子 (撮影 2017. 9.11)
上牧橋方向に見る
   

<集落内の分岐>
 相変わらず道は川筋から少し離れて通じる。平坦地の豊富な牧草地帯の特徴だろうか。沿道の左右には上牧の人家の点在が続く。
 
 集落内で一つ大きな分岐がある。左右に細い道が分かれている。

   

集落内の分岐 (撮影 2017. 9.11)
右手の看板には「地すべり防止工事をしています」とあった
ただ、場所が明記されていない

集落内の分岐 (撮影 2017. 9.11)
峠方向を見る
左手の看板には「上牧」(かみまき)とある
「山菜取り禁止」の看板も立つ
   
以前の分岐の様子 (撮影 2004. 8.12)
   

以前の分岐の様子 (撮影 2001. 7.29)

以前の分岐の様子 (撮影 2001. 7.29)
手書きの案内看板が立つ
   

集落内の分岐 (撮影 2017. 9.11)
下流方向に見る

<以前の看板(余談)>
 以前に立っていた手書きの看板では、左右に分かれるのはどちらも「部落道」とあり、特に行先は示されていなかった。地形図では点線表記の徒歩道となっている。直進方向には「長野県飯山市方面 清里村」と出ていた。

   

<口留番所跡>
 分岐の後、道はカーブしながらやや上り坂となる。その為、左手の斜面の上に口留番所跡があるのだが、とても気付き難い。八幡神社の並びに位置する。 実は、牧峠が通行止で引き返して来た時、バドミントンの部長も務めた動体視力抜群の妻が見付けた。そうでなかったら、この重要な場所を見過ごしていただろう。

   
口留番所跡 (撮影 2017. 9.11)
奥に八幡神社の屋根が見える
右手が峠方向
   

口留番所の看板 (撮影 2017. 9.11)

<口留番所>
 口留番所跡と言ってもあっさりしたもので、ちょっとした空地に木製の看板がポツリと立つばかりだ。看板の一つは縦に「牧口留番所」、もう一つには「上牧口留番所」とあった。それでも、ここにひるこ峠を越えた街道の番所があったのかと思うと、感慨深い気がする。
 
 この地は江戸期の高田藩領、天和元年(1681年)からは幕府領となっている。詳しいことは分からないが、口留番所とは藩が設けたものだと思うので、口留番所があったのは天和元年までだろうか。
 
 どちらにしろ、この地が「上牧」と呼ばれるのは明治12年以降の筈なので、「上牧口留番所」というのは厳密には正しくないと思う。ただ、「牧口留番所」とすると、今の人は上越市になる直前の広範囲の旧牧村を思い浮かべ、それも正しくないことになる。

   

<牧峠の案内看板>
 口留番所跡を過ぎ、本の少し坂を登ると、牧峠を紹介する看板が立っている。番所跡からは目と鼻の先なのだが、行きには番所の看板には気付かなかった。牧峠の看板は2つあり、一つは「塩の道」、一つは「観光案内」と題している。
 
<塩の道>
 昆子村から牧村(牧口村とも、後の上牧)に番所が移ってからは、この集落が宿場として発達したそうだ。 高田藩領から幕府領に変わっても、ひるこ街道の要衝であることに変わりはない。街道を行き交う人々は険しい峠越えを前にしてこの地で足を止め、暫し休息したことだろう。 国境を越えて物資の交流も多く、この場所で荷送りや荷物の交換が行われた。今は単なる空き地だが、往時は沢山の人々で賑わったのかもしれない。


左手に牧峠の案内看板 (撮影 2017. 9.11)
   

牧峠の案内看板 (撮影 2017. 9.11)

 越後からは塩・魚・米・楮(こうぞ、紙の原料)などが、信濃からは内山紙・小麦・箕などがもたらされたそうだ。看板では「塩の道 牧峠ルート」が示される。 高田城下を起点とするひるこ街道とは異なり、日本海沿いの直海浜(のうみはま、上越市柿崎区)と牧峠を直接結んでいる。
 
<観光案内>
 上牧の観光案内として「上牧のブナ原生林」、「深山清水」、「八方の風穴」が紹介されている。ただ、残念なことに看板からはその場所が分からない。 清水や風穴は、現在の上牧林道ではなく、旧道沿いにあるようなので、車で走っているだけでは見付からない。尚、観光ポイントとして他に「人面岩」というのもあるようで、これは旧峠にあるようだ。

   

「塩の道」の看板 (撮影 2017. 9.11)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

観光案内の看板 (撮影 2017. 9.11)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<交流館(余談)>
 牧峠の看板の背後に小屋一軒が立っている。「上牧古代詞 塩の道交流館」と看板が掛かる。中に何があるのか興味津々だが、無断で入る訳にもいかず、近付くこともしなかった。
 
 ところで「古代詞」(こだいし)とは、何か気になった。上越市のホームページを見ると、古くから伝わる祭や踊りのことのようだが。


背後に交流館 (撮影 2017. 9.11)
   
交流館の様子 (撮影 2017. 9.11)
やや近付き難い気がしないでもない
   

集落の様子 (撮影 2017. 9.11)

<集落の様子>
 上牧集落は上牧橋以降500mくらいに渡り人家がポツリポツリと点在する。中には貴重なことに草葺き屋根の家屋も見られた。かつてはもっと多くの人家が立ち並んでいたのかもしれない。文献では世帯数26、人口103とあったが、人口の減少が著しいとも記していた。
 
 ここが越後(新潟県)側最終の集落である。ここを過ぎれば人煙の途絶えた関田山脈の只中へと入って行くことになる。

   
集落の様子 (撮影 2017. 9.11)
麓方向に見る
草葺き屋根の家屋が立つ
   

集落の様子 (撮影 2017. 9.11)

集落の様子 (撮影 2017. 9.11)
沿道にポツリポツリと家屋が見られる
   
   
   
林道起点 
   

最後の人家を過ぎた所 (撮影 2017. 9.11)

<県道終点へ>
 上牧集落の南の端で最後の人家を過ぎると、周辺に棚田が広がりだす。すると直ぐに分岐に至る。側らに大きな石碑が立つ。「上牧林道開通記念」と刻まれる。ここが県道の終点で、この先は上牧林道となる。

   

<上牧赤池線>
 右斜めに分かれて行くのは、旧清里村・現在の上越市清里区の赤池に至る道で、以前の赤池林道である。今は上越市の市道・上牧赤池線となるようだ。


県道終点 (撮影 2017. 9.11)
右に林道開通記念碑が立つ
   

旧清里村への道 (撮影 2017. 9.11)

 上牧赤池線は、清里区と牧区を最も南で結ぶ車道となる。関田峠の道と牧峠の道を新潟県側で最短で繋ぐ経路の一部ともなる。

   
林道開通記念碑 (撮影 2017. 9.11)
以前よりきれいになっていた
   

<林道開通記念碑>
 この石碑は目立つ存在で、牧峠に初めて通じた車道でもあり、見過ごすことはできない。日光の当たり具合や、写真の撮り方の違いがあると思うが、以前の石碑より随分きれいになったようだ。

   

開通記念碑 (撮影 2017. 9.11)
「昭和五十二年十月」とある

開通記念碑 (撮影 2017. 9.11)
「佐藤伍郎 書」とある
   

<林道開通年>
 石碑の表の上部に小さな文字で、「昭和五十二年十月」と刻まれている。文献にも「昭和52年旧峠道のやや西側に沿って上牧林道が開通し」とある。古くはひるこ峠と呼ばれた今回の峠に、初めて車道が通じたのがこの昭和52年・西暦1977年ということになる。それ程昔のことではない。当初は未舗装だったかもしれないが、2001年に訪れた時は既に全線舗装であった。
 
 残念なことに、上牧林道はほとんど旧道の道筋とは一致しないようだ。この林道起点自体、既に古い峠道から外れている可能性が高い。 旧道はもっと牧猿俣川沿いに通じていたことと思う。この一帯が放牧場の様な平坦地の多い土地なので、車道を開削する時に、比較的自由に経路が選定できたのではないだろうか。

   
以前の開通記念碑 (撮影 2001. 7.29)
右隣に県道の標柱が立つ(今はない)
   

<県道標柱>
 以前の写真を眺めていると、開通記念碑の右横に既に県道標柱が立っていたことに気付いた。「県道 上牧棚広線 起点」とある。手持ちの古い道路地図ではまだ県道表記ではなく、その前身の村道・棚広上牧線だと思っていた。しかし、私が初めて訪れた時には既に県道に昇格していたようだ。
 
 標柱の住所は「東頸城郡牧村大字上牧字大柳六五壱番地」とある。まだ牧村の時代である。
 
 この標柱は今はなくなっている。朽ちてしまったのか。

   
以前あった県道標柱 (撮影 2004. 8.12)
   
以前の分岐の様子 (撮影 2004. 8.12)
キャミで旧清里村方面からやって来た
石碑の横にはまだ県道標柱が立っていた(写真には写っていない)
   

<碑文(読めず)>
 機会が来たら開通記念碑の裏側の碑文を読もうと思っていたのだが、今回写真を調べてみると、ピンボケで文字がほとんど読めなかった。残念。去年(2017年)訪れた時はデジカメだったので、労を惜しまず沢山写真を撮って置けばよかったと後悔頻り。

   

以前の開通記念碑 (撮影 2004. 8.12)
やはり汚れが目立つ

開通記念碑の裏 (撮影 2004. 8.12)
ピンボケで文字は読めなかった
   
開通記念碑の付近の様子 (撮影 2001. 7.29)
上牧集落方向に見る
   

<看板>
 以前のこの分岐には幾つかの看板が立っていた。
 
 危険注意
 この村道は巾員が狭く
 急カーブ、急勾配が多く
 かつ路肩決壊等の
 恐れがあり十分注意して
 通行して下さい。
          牧村
 
 注意 クマ出没 
 
 直進方向:長野県 飯山市 柄山 方面
 右の道:清里村 梨平 赤池 方面
 手前:上牧
 
 
 上牧林道を「村道」と呼んでいる。

   

以前の分岐の様子 (撮影 2001. 7.29)

以前の分岐の様子 (撮影 2001. 7.29)
左手は村道の注意看板
奥にクマ出没、右手に手書きの看板
   

分岐の様子 (撮影 2017. 9.11)
上牧集落方向に見る

<市道・牧飯山線>
 上越市になってからは、上牧林道は「市道・牧飯山線」と呼ばれるようだ。ちょっと前まで「上牧林道」の文字が所々の看板に見られたが、今はなく、残念な気もする。「何々林道」という名の道の方が、険しそうでよかった。

   
   
   
上牧林道へ 
   

<林道区間へ>
 正確には市道・牧飯山線なのだろうが、ここでは以前の呼び名の「上牧林道」と記させて頂く。峠までは約9Kmの道程となる。 道幅などはほとんど変わらないが、県道区間では道の両側に引かれていた白線が、林道に入ってさっぱりとなくなり、より素朴な道となった。アスファルト路面と沿道の草地との境が曖昧で、自然に溶け込んだ道である。周囲はいよいよ広大な草原地帯の様相を呈し、前方にはっきりと関田山脈の峰が望めるようになる。

   
沿道の様子 (撮影 2017. 9.11)
   
以前の沿道の様子 (撮影 2001. 7.29)
あまり変わりはないようだ
正面に大きく見えるのは牧猿俣川の水源となる前山だと思う
   

<棚田>
 初秋の季節で、まだ青々とした稲穂が風になびいていた。ほとんどが棚田となっていて、畑は僅かのようだ。

   

沿道の様子 (撮影 2017. 9.11)
稲穂がなびく

沿道の様子 (撮影 2017. 9.11)
棚田が広がる
   

<牧猿俣川上流部>
 道が沿う牧猿俣川の水源は、関田山脈主稜より手前にある前山(884m)の北麓となるようだ。上流部は大きく西と東の2筋に分かれていて、西の方が本流となるらしい。道はその牧猿俣川本流の上流部を迂回する。こうした迂回経路は、もう全く旧道とはかけ離れた存在だ。 
 
 牧猿俣川を渡る手前、左岸沿いに遡る道が分岐する。訪れた時は、その道の先で水路を作る工事を行っている様子だった。


この先、牧猿俣川を渡る (撮影 2017. 9.11)
左岸沿いに遡る道が分かれる
   
分岐に立つ工事看板 (撮影 2017. 9.11)
   
牧猿俣川の上流方向を望む (撮影 2017. 9.11)
   

通行止の看板 (撮影 2017. 9.11)

<通行止>
 牧猿俣川を渡った先で通行止の看板がポツンと立っていた。あっさりしたものだが、牧峠は越えられず、長野県側には抜けられないという重大事実を含んでいる。しかし、この前日に長野県側から峠に向かい、今回の通行止は承知の上だった。行ける所まで行ってみる積りである。

   

<右岸側>
 道は牧猿俣川右岸に移った。しかし、直ぐに東側の支流との境となる尾根上に登り、開けた道となる。前山から北に続く尾根で、その上をやや蛇行しながら前山方向を目指す。


道の様子 (撮影 2017. 9.11)
尾根上を行く
   
沿道の様子 (撮影 2017. 9.11)
展望が広がる
   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2001. 7.29)
   

稲木だと思う (撮影 2017. 9.11)

<稲木>
 道を走っていると、沿道に高い柱が並んで立っていたりする。横木を渡してある場合もあった。 これは稲木(いなぎ)とかいろいろな呼ばれ方をするが、刈り取った稲を天日干しする時に使う物のようだ。子供の頃には家の近くの田んぼでも天日干しされている稲をよく見掛けた。 しかし、ここでは単に横一列に並べるだけでないらしい。横木が2段、3段と上に高く並べられている場合がある。高い所はどうやって稲を掛けるのかと不思議に思われた。こうして一箇所に多くの稲を干すのは、この稲作地帯の特徴であろうか。

   
沿道の様子 (撮影 2017. 9.11)
   

<前山の手前>
 道はやや牧猿俣川の東の支流寄りに進む。その先、前方の前山のやや東を巻いて関田山脈の稜線を目指すこととなる。道の左手となる東方に視界が広がる。峠道らしさはないが、気分のいい道だ。ゆったりした起伏のある広い高原地帯の只中を行く。


道の様子 (撮影 2017. 9.11)
   

200M先が工事現場 (撮影 2017. 9.11)
ここで通行止

<通行止>
 前山までまだ1Kmも手前で通行止となった。工事現場の約200m手前に架設の駐車場所があり、そこに車両通行止の看板が立つ。

   

通行止箇所 (撮影 2017. 9.11)

車両通行止の看板 (撮影 2017. 9.11)
   

<引き返し>
 通行止の先を覗いてみると、木陰の中に青色の重機が一台動いていた。ここはまだ峠まで7Km近い道程を残す地点だ。林道起点から1/3も来ていない。 峠の鞍部なども全く見えていない。しかし、この先、無理に進んでは工事の邪魔になる。残念ながら今回はここで引き返しとなった。


この先で重機が一台動いている (撮影 2017. 9.11)
   
   
   
峠への登り 
   

<峠への登り>
 ここからは17年前に訪れた時の写真を掲載する。本来は、今回(2017年)の通行止箇所から先、峠までの本格的な登り道の区間が、この牧峠としては最も峠道らしい峠道となる。山岳道路らしいダイナミックな屈曲があり、しかも展望がいい。
 
 前山の北斜面を登る間は、かなり高度を上げても周辺にまだ耕地らしい箇所が見られた(下の写真)。

   
牧猿俣川本流方向(西)の眺め (撮影 2001. 7.29)
この時は下の方で地すべり防止工事を行っていた
   

<地すべり防止工事(余談)>
 途中、「地すべり防止(渓流)工事中」と看板が立っていた。しかし、峠道の本線上ではなく、看板の先にトラックの出入口があり、牧猿俣川方向に下った所で重機が動いていた。 看板に示された住所は「東頸城郡牧村大字上牧字入南」であった。「入南」と字名が付いているがこの付近に人家はなく、田畑ばかりだ。

   

地すべり防止工事の看板が立つ (撮影 2001. 7.29)
右奥にトラック出入口

工事看板の所を麓方向に見る (撮影 2001. 7.29)
   

<湯ノ川水域へ>
 道は前山の北斜面を途中まで登り、その後東側を迂回する。そこは飯田川の別の支流・湯ノ川の水域となる。湯ノ川の上流部は大きく東沢と西沢に分かれているようだ。 どちらも関田山脈の主稜から流れ下る。牧峠の旧峠の方は西沢の源流部に位置する。一方、新峠の方は西沢本流の西側にある支流上部にあるようだ。地形図には西沢本流沿いに旧峠へと至る徒歩道(点線表記)が描かれている。それがかつてのひるこ街道であろう。

   
湯ノ川水域へ入った沿道の様子 (撮影 2001. 7.29)
   

<道の様子>
 一方、現在の上牧林道は西沢の左岸上部を大きく蛇行しながら峠へと登り始める。いよいよ峠道らしい山岳道路の様相だ。この牧峠最大のクライマックスと言える。 東方に西沢から湯ノ川本流へと続く谷間を広く見渡す。道はダイナミックだし、眺望も抜群で、この峠までの4Km程の区間は走っていてとても楽しい。その内、前方に峠が通じる鞍部がはっきり見通せるようになる(下の写真)。

   
前方に峠の鞍部が見えて来た (撮影 2001. 7.29)
   

<道の状態>
 上牧林道は終始走り易いアスファルト舗装が続いた。道幅はやや狭い区間もあるが、時折車を停められるような広い路肩もあり、一休みして景色を楽しむ余裕が持てる。

   
峠直前 (撮影 2001. 7.29)
   

 地形的には長野県側よりずっと険しい様相がうかがえるが、道としては全般に走り易い。眺めを堪能しながらいつの間にやら峠に辿り着いていたという感じだった。

   
峠直前に広がる周囲の景色 (撮影 2001. 7.29)
   
   
   
長野県側から峠へ 
   

 ここからは一旦話が飛び、長野県側から改めて峠を目指す。
 
<国道403号分岐>
 長野県側を流れる大河・千曲川沿いには大幹線路の国道117号が通じる。牧峠の道は国道117号から国道403号が分かれて始まる。分岐には「なべくら高原」などと案内看板が出ている。

   

前方に国道403号の分岐 (撮影 2017. 9.10)
国道117号上を十日町方向に見る

国道403号分岐の看板 (撮影 2017. 9.10)
左に折れて市川橋を渡る
   

<市川橋>
 国道403号は直ぐに市川橋(いちかわばし)で千曲川を渡る。赤い鉄骨が組まれた見栄えのいい橋だ。橋の手前は野沢温泉村で、渡った先は飯山市の大字照岡(てるおか)となる。
 
 野沢温泉村側は大字七ケ巻(なながまき)で、江戸期の七ケ巻村、明治8年から市川村の一部、昭和31年から野沢温泉村の大字となっている。「市川」の地名は橋の名で残る。

   

市川橋を渡る (撮影 2017. 9.10)

市川橋の様子 (撮影 2017. 9.10)
   

千曲川の川岸を上流方向に見る (撮影 2017. 9.10)
水田が広がる

<照岡>
 市川橋の後半は高い鉄骨がなくなり、見通しがいい。市川橋付近の千曲川は左岸側に平坦地が多い。そこに水田を主とする耕地が広がる。また、背後の関田山脈から下って来た山の際に照岡の人家が立ち並ぶ。
 
 大字照岡は千曲川左岸にあり、関田山脈の県境までの広い範囲を占める。飯山市の中では最も北部に位置する。 牧峠から始まり宇津ノ俣峠・伏野峠・須川峠・野々海峠の峠が照岡に属す。関田山脈中で最も東の深坂峠は、飯田市とその東隣の栄村との境界が曖昧で、照岡に属すかどうかややはっきりしない。

   
市川橋上より照岡の人家を望む (撮影 2017. 9.10)
   

<桑名川村>
 現在の大字照岡の一部、牧峠から流れ下る桑名川の水域付近に、かつて桑名川村(くわながわむら)があったそうだ。中世には「小穴河」(こあながわ、小穴川とも)と書いた。江戸期を通じて桑名川村、明治9年〜明治22年は照岡村の一部であった。
 
 桑名川村の正確な旧村域は分からないが、市川橋から照岡側に見えている人家はほとんど全てかつての桑名川村ではないだろうか。 牧峠や宇津ノ俣峠の道も桑名川村に通じていたようだ。江戸期に牧峠(ひるこ峠)を越えたひるこ街道は、信州側のこの桑名川村に降り立っていた。桑名川は越後への交通の要地であったようだ。

   

<桑名川の渡し>
 市川橋の近く、多分下流側に「桑名川の渡し」の名で知られる舟渡し場・渡船場があったそうだ。桑名川村と対岸の七ケ巻村を結ぶ。 また、その渡船場は千曲川を利用した船運・千曲川通船(水運)の発着場ともなっていた。 越後から牧峠を越えて来た物資は、「桑名川の渡し」で千曲川を渡って野沢温泉方面に運ばれ、あるいは千曲川通船で沿岸の各地に運ばれた。またその逆に、千曲川通船で集められた信濃方面の物産が、牧峠を越えて越後にもたらされたことだろう。
 
 陸上交通の発達により千曲川通船は間もなく途絶えて行ったが、渡し船の運行は昭和期まで続いたそうだ。 七ケ巻集落の住民にとって対岸に通じる国鉄(後のJR)飯山線の桑名川駅に行くには、この渡し船が便利だったらしい。しかし、昭和58年にはついに廃止となっている。市川橋の存在が大きく関わっていることと思う。

   

<県道408号に接続>
 市川橋を渡った左岸側には県道408号が通じる。T字路に立つ看板から国道403号がなくなっていて驚く。右折する方向が国道403号の続きで、県道408号との併用となるようだ。

   

市川橋を渡った先 (撮影 2017. 9.10)

左右どちらも県道408号 (撮影 2017. 9.10)
   

<T字路付近>
 幹線路である国道117号と異なり、対岸に通じる県道408号は交通量の少ない落ち着いた道だ。橋を渡った先のT字路付近には、
 この道は、私たちがきれいにしてます。
 くわながわフラワーロードの会

 
 といった看板が立つ。右手方向に向いて「森の家 5Km」と案内があった。「森の家」は牧峠への道沿いにある。

   
T字路の様子 (撮影 2017. 9.10)
右手が「森の家 5Km」の看板
   

<桑名川>
 国道403号(県道408号の下流方向)に入ると直ぐに小さな流れを渡る。それが牧峠方面から下って来た桑名川である。しかし、目の前の山に阻まれ、関田山脈は全く望めない。

   
桑名川を上流方向に見る (撮影 2017. 9.10)
人家は僅かで、川沿いを遡る道はない
   

<桑名川沿いの旧道>
 桑名川沿いに僅かに人家が立つが、川伝いに更に上流へと続く道はない。かつての峠道はどこに下っていたのかと思う。
 
 地形図を見ると、市川橋への分岐より少し上流側で細い道が分かれ、山道を登って行く。近くに名立神社や白山神社がある。多分それが旧道ではないだろうか。 そして神社がある付近が桑名川村の中心地ではなかったか。文献(角川日本地名大辞典)では「小穴河関所」とか「桑名川関」という記述が見られたが、それらもかつての桑名川村中心地にあったのではないかと思う。
 
<岡山(余談)>
 現在、かつての桑名川村中心地と思しき場所に「岡山」という地名が見られる。 明治22年、下水内郡(しもみのちぐん)の照岡村と一山(いちやま)村が合併し、それぞれの村名から一文字取って岡山村(おかやまむら)が誕生したそうだ。 その折、照岡と一山は大字となる。一方、桑名川という大字はなくなったのではないだろうか。代わりという訳ではないが、岡山村の役場は桑名川に置かれた。 「岡山」という新しい地名ができる側ら、「桑名川」という古い地名の存在が薄れて行ったような気がする。その後、昭和31年9月30日に岡山村は飯山市に合併している。

   

<千曲川左岸>
 現在の千曲川左岸に通じる県道408号の道筋は、元は国道117号であった。それもあってか、道は広い2車線路である。それでいて交通量はほとんどなく、快適そのものだ。間もなく桑名川郵便局、岡山駐在所と続く。

   

国道403号沿い (撮影 2017. 9.10)
桑名川郵便局の前を過ぎる
道路看板は国道403号の物で、
行先は「小千谷 63Km、十日町 38Km、栄村 13Km」とある

国道403号沿い (撮影 2017. 9.10)
岡山駐在所の前
   

<飯山線を渡る>
 かつての峠道は、概ね桑名川右岸側に通じていたと思われるが、現在は左岸側が本線となるようだ。市川橋分岐から700m程で左に道が分かれる。「森の家」の看板がそちらを指す。道は直ぐにJR飯山線を渡る。ここからやっと千曲川沿いを離れ、本来の峠道となる。

   

JR飯山線 (撮影 2017. 9.10)

JR飯山線を飯山方向に見る (撮影 2017. 9.10)
単線が延びる
   
   
   
鍋倉高原へ 
   

<鍋倉高原への登り>
 牧峠の新潟県側は、峠直下は急な崖で、麓に近付くに従い高原状となっていた。一方長野県側は、峠に続いて穏やかな地形が広がり、その一帯は鍋倉高原と呼ばれている。 最近は「なべくら高原」と記すようだ。関田峠近くにある鍋倉山を名の由来とするものと思う。その広い台地状地形が千曲川の直前で急に谷へと落ち込んでいるのだ。飯山線を渡った道はその急傾斜地をヘアピンカーブを交えながら登りだす。峠道の洗礼を受ける思いだ。


急坂を登る (撮影 2017. 9.10)
   
沿道の眺め (撮影 2017. 9.10)
   

道の様子 (撮影 2017. 9.10)

<眺め>
 千曲川沿いの標高約300mの地点から一気に標高500mくらいまで駆け上がる。登るに従い視界が開けた。千曲川を挟んだ対岸の山並みを見渡すようになる。
 
 何やら盛大に土煙が上がっていた(下の写真)。七ケ巻集落の上部辺りだ。地図に「モーターランド野沢」とある部分のようだ。

   
周辺の景色 (撮影 2017. 9.10)
土煙が上がる
   

<鍋倉高原>
 急坂がフッと途切れると、それまでの急傾斜地がウソの様な平坦地が広がる。鍋倉高原の台地の上に辿り着いたのだ。
 
 直ぐにY字路が出て来る。道なりには右に進むものと思う。


平坦地となる (撮影 2017. 9.10)
   
Y字路が出て来る (撮影 2017. 9.10)
   

牧峠の案内 (撮影 2017. 9.10)

<高原の道>
 二股の所に小さな看板が立つ。「森の家方向 ⇒、牧峠 ▷」とある。やはりここは右に進むようだ。
 
 鍋倉高原には耕作用の狭い作業道などが縦横に通じている。未舗装で明らかに作業道と分かる道もあるが、立派に舗装されていることも多い。 一方、牧峠へと続く道もそうした作業道と大して変わらないのだ。本線を見誤らないように車を進めなければならない。小さな看板も見逃さないように注意を払う。
 
 ただ、後で分かったがことだが、このY字路を左に行っても、結局牧峠へと続いていた。やや道が悪いと言うだけである。
 
 この台地の上は見通しがいい。ちょっと道を間違えても、どちらの方向へ進めばいいか大体見当が付く。あちこち寄り道するのも楽しいかもしれない。

   

<道の様子>
 鍋倉高原では森林は少ない。道は狭いが開けて明るい雰囲気の中を行く。丁度北を向いて、前方に峰が見えだした。関田山脈である。あのどこかに牧峠や宇津ノ俣峠が通じる。


前方に関田山脈を望む (撮影 2017. 9.10)
   

熊野神社の大ケヤキ (撮影 2017. 9.10)

<大ケヤキ(余談)>
 道は柄山(からやま)集落方向に進んでいる。沿道に人家が立ち始め、集落の端に差し掛かったかと思った所で、大きな木の下で宅配便の車が休んでいた。 ふと見ると、その大木には看板が立っている。「飯山市指定天然記念物 熊野神社のケヤキ 平成九年十月設置」とか「45 大ケヤキ」と標柱に書かれていた。 「熊野神社」とあるが、周囲には社らしい建物は見当たらない。
 
<柄山集落>
 大ケヤキの前を過ぎると、前方に柄山集落が見えて来る。

   
前方に柄山集落 (撮影 2017. 9.10)
その手前に柄山十字路
   

<柄山十字路>
 集落の手前で鍋倉高原では珍しい立派な2車線路の道と交差する。ちょっと古い地図だとこの道は載っていない。正式名は分からないが、「みゆき野ライン」と呼ばれるようだ。鍋倉高原のど真ん中をほぼ東西に横断している。
 
 十字路の右手の角には「26 柄山十字路」と標柱が立つ。反対側には「なべくら高原・森の家」の看板が左を指していた。牧峠へはこの柄山十字路を左折し、一旦みゆき野ラインを西に少し走る。


柄山十字路 (撮影 2017. 9.10)
みゆき野ラインと交差する
   

柄山十字路の様子 (撮影 2017. 9.10)
みゆき野ラインを東の国道403号方向に見る

柄山十字路に立つ看板など (撮影 2017. 9.10)
   

柄山十字路の様子 (撮影 2017. 9.10)
西の県道95号方向に見る

「森の家」の看板がある (撮影 2017. 9.10)
   

<道を間違える(余談)>
 しかし、看板のどこにも「牧峠」とは書かれていない。うっかりそのまま直進してしまった。峠は正面方向なのである。道は柄山集落内を進み、段々様子がおかしくなった。 ためらい勝ちながらも更に進むと、直ぐに車両通行不能となった。地形図では徒歩道が続いているのだが、車は通れそうにない道だ。やっと間違いを確信し、みゆき野ラインに引き返したのだった。

   
車両通行不能 (撮影 2017. 9.10)
柄山集落の先
   
   
   
みゆき野ライン(余談) 
   

<みゆき野ライン>
 関田山脈を南北に越えて幾つもの峠道が通じる。新潟県側ではそれらの峠道同士を東西に繋ぐ適当な道があまりない。大抵小さな峠越えとなる狭い道ばかりだ。 一方、長野県側ではみゆき野ラインが豪快に通っている。峠道間の移動には便利な道だ。千曲川沿いに通じる国道まで降りる必要がない。全く余談ながら、みゆき野ラインの話を少し。
 
<県道95号側起点>
 西の起点は関田峠を越える県道95号となる。分岐にはみゆき野ライン方向を指して、「なべくら高原森の家 4km」と看板がある。

   

前方が県道95号 (撮影 2017. 9.10)
手前がみゆき野ライン

分岐に立つ看板 (撮影 2017. 9.10)
   

<以前の分岐>
 以前はみゆき野ラインについての大きな案内看板が立っていた。どうして無くしてしまったのかと残念に思う。既に支柱が錆びかかっていたので、老朽化のため撤去したのだろうか。

   

以前の分岐の様子 (撮影 2001. 7.29)

みゆき野ラインの看板が立っていた (撮影 2001. 7.29)
   

<なべくら五橋(余談の余談)>
 みゆき野ラインは鍋倉高原を東西に横断するので、関田山脈から流れ下る川を幾つも渡ることとなる。快適な道だけに橋も大きい物が多い。みゆき野ラインの看板には「なべくら五橋」と案内があった。丁度、飯山市の観光パンフレットが手元にあり、その五橋の名が分かった。
 ・鍋倉大橋 (出川)
 ・羽広大橋 (出川の支流)
 ・土倉橋 (桑名川の支流)
 ・柄山橋 (桑名川)
 ・藤沢大橋 (寒川の支流)
 
 鍋倉大橋から眺めた写真が残っていた。なかなか壮観である。

   
鍋倉大橋から出川の谷を下流方向に見る (撮影 2000. 6. 4)
   

<国道403号側起点>
 みゆき野ラインの東の起点は伏野峠(ぶすのとうげ)を越える国道403号だ。国道と言ってもみゆき野ラインの方が立派な道となる。

   

前方は国道403号 (撮影 2017. 9.11)
手前がみゆき野ライン

起点よりみゆき野ラインを見る (撮影 2017. 9.11)
   

 当初のみゆき野ラインは、県道95号から分かれて土倉橋を渡る前の土倉集落までであった。しかし、2000年6月に訪れた時は、既に東の終点の国道403号まで開通していた。 地図にない余りに立派な道で、初めは一体どこに辿り着いたのかと不思議に思った(右の写真)。その後、国道403号で伏野峠を目指したが、6月と言うのに雪の為に通行不能であった。


前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2000. 6. 4)
   
   
   
みゆき野ラインから先 
   

十字路 (撮影 2017. 9.10)
右が牧峠へ

<十字路>
 柄山十字路よりみゆき野ラインを西へ500m程走ると、また同程度の規模の十字路がある。桑名川を渡る柄山橋の100m程手前だ。その分岐の角に「なべくら高原 森の家 300m」と並んで「牧峠 ➡」とも案内が立つ。ここからまた北の関田山脈方向に舵を切る。

   

十字路からみゆき野ラインを西に見る (撮影 2017. 9.10)
直ぐ先に桑名川を渡る柄山橋が見える
分岐の角に「牧峠」の案内看板が立つ

「牧峠」の案内看板 (撮影 2017. 9.10)
   
以前の十字路の様子 (撮影 2001. 7.29)
正面が牧峠方向
ジムニーは牧峠から下って来たところ
   

<以前の道筋>
 上牧林道開通で牧峠に通じた車道は、この桑名川左岸に位置する柄山に降り立って来た。林道開通は1977年のことである。当初はみゆき野ラインなど存在しない。 道はそのまま下り、前述のY字路(台地に登り着いて最初にある明確な分岐)を過ぎ、千曲川沿いの桑名川集落へと至っていた。
 
 後にみゆき野ラインができると、柄山集落方面を経由する現在のクランク状の道筋が本線の様になったようだ。確かにみゆき野ライン区間は走り易い。 しかし、やや変則的なルートで戸惑う。実際にも道を間違えて柄山集落内に迷い込んでしまった。桑名川を渡る柄山橋の竣工は平成3年(1991年)11月なので、その頃に土倉から東にみゆき野ラインが延伸し、現在のようになったものと思う。

   

十字路よりみゆき野ラインを東に見る (撮影 2017. 9.10)
この先に柄山集落がある

十字路より南に延びる道 (撮影 2017. 9.10)
これが以前の牧峠の道筋
   

<土倉・柄山>
 車道が通じる前の牧峠(ひるこ峠)は、文献では「(新潟県)牧村上牧と長野県飯山市土倉を結ぶ峠」としている。かつてのひるこ街道が通じていたのは土倉(つちくら)であって、柄山(からやま)ではなかった。
 
 土倉と柄山は桑名川を挟んで丁度対になるように立地し、集落の規模もそれ程違いがなさそうだ。江戸期、どちらも桑名川村の枝村でそれぞれ土倉組・柄山組と呼ばれた。 本村となる桑名川村が交通便利な千曲川沿いに多くの人家が集まっていたのに対し、土倉・柄山の集落は桑名川を遡った北部山麓に位置した。
 
<旧道>
 文献では土倉組の人々が越後からの荷物を土倉から桑名川まで運んだと記している。これからも牧峠の旧道は土倉を経由していたことが分かる。
 
 現在の地形図にはもう見られないが、手持ちの道路地図(県別マップル道路地図20長野県 2004年4月2版7刷発行 昭文社)には、旧牧峠からほぼ真っ直ぐ土倉へと下る徒歩道が描かれていた。 桑名川右岸側のほとんど尾根上に通じる。土倉からはそのまま右岸側を白山神社方面へと下って行ったものと思う。これこそが牧峠の旧道の道筋であろう。 桑名川左岸からその上部を横切って登る現在の車道の峠道とは、2、3度交差する以外、ほとんど共通項を持たない存在だ。新潟県側もそうだったが、旧道と後に通じた車道の峠道は、とても縁遠い関係である。

   

<桑名川左岸沿い>
 みゆき野ラインから分かれ、道は桑名川左岸沿いを北に向かう。川筋からは離れているので、周辺は相変わらず高原の雰囲気だ。
 
 
<森の家>
 間もなく、最前から何度か案内看板が立っていた「なべくら高原・森の家」が右手に出て来る。


みゆき野ラインから分かれた道 (撮影 2017. 9.10)
   
この分岐の右が「森の家」 (撮影 2017. 9.10)
   
以前の分岐の様子 (撮影 2001. 7.29)
赤い旗には「直売所」とあった
   

「森の家」の案内看板 (撮影 2017. 9.10)

 「森の家」は喫茶などを営んでいるのだろうか。洒落た造りの建物だ。敷地は広く、バンガローなどの宿泊施設もあるように見える。鍋倉高原の観光拠点といったところだろうか。

   
森の家 (撮影 2017. 9.10)
   
   
   
森の家以降 
   

<「森の家」以降>
 「森の家」の看板は長野県側から峠に向かう時の道案内であった。「森の家」を過ぎてからはそれがない。しかし、ここから牧峠へはほぼ一本道で、作業道の分岐は多いものの、本線を見誤らなければ大丈夫だ。
 
<通行止>
 ところが、残念な看板が出て来た。新潟県側で道路崩壊があったようで、牧峠から先は通行止とのこと。16年振りの再訪だったが、峠越えは諦めるしかないようだ。 ただ、峠までは行けそうなので、せめて峠だけは見て来ようと思う。しかも、翌日には新潟県側から通行止箇所までノコノコ出掛けたのだった。

   

通り抜け不可の看板 (撮影 2017. 9.10)
次のようにある
上越市上牧地区で発生した道路崩壊により
牧峠の上越方面への通り抜けは当面の間でき
ません。
上峠(信越トレイル入口)までは通行可


通り抜け不可の看板 (撮影 2017. 9.10)
   

<関田山脈を眺める>
 いよいよ関田山脈を正面に臨み、稜線の様子も目視できるようになる。道が進む先に如何にも峠が通じていそうな鞍部が確認できたので、そこが牧峠だろうと思って写真に撮った。 しかし、後で調べると全く見当外れであった。旧道が最短で峠を目指したのに対し、現在の林道の方は大きく東へと迂回したコースを採る。どうやら宇津ノ俣峠に近い辺りを見ていたようだ。

   

関田山脈を望む (撮影 2017. 9.10)

鞍部が望めるが牧峠ではなかった (撮影 2017. 9.10)
   

<道の様子>
 冗長な迂回コースを採っただけあって、道の勾配は緩やかだ。道幅は狭いが走り易いアスファルト路面が続く。周辺には耕作地がまだまだ続き、舗装・未舗装の作業道が幾つも分かれて行く。


道の様子 (撮影 2017. 9.10)
   
関田山脈を望む (撮影 2001. 7.29)
見えている道は枝道で本線ではない(こうした作業道が多い)
牧峠はやや左手の方にある鞍部となる
   

「牧峠」の看板 (撮影 2017. 9.10)

<寒川水域に>
 時折分岐の角に「牧峠」と案内看板が立ち、本線の確認になる。その看板がやや新しい。「信越トレイル」の関連だろう。
 
 道がややクネクネ曲がったかと思うと、一段と広々とした箇所に出た。ちょっとした尾根の上に居るようだ。地形図を見ると、道は桑名川左岸を離れ、寒川の支流域まで入り込んでいた。この川の上流部は宇津ノ俣峠である。ここより上部はほとんど宇津ノ俣峠の峠道と重複するようだ。 

   

尾根上に出る (撮影 2017. 9.10)

耕地が広がる (撮影 2017. 9.10)
   
   
   
宇津ノ俣峠分岐 
   

<宇津ノ俣峠分岐>
 開けた尾根上を暫く進むと、Y字路に近い分岐が出て来た。その角に看板が立つ。左の本線は「牧峠」、右の支線は「宇津ノ俣峠 登山口」とあった。

   

この先右に分岐あり (撮影 2017. 9.10)

右が宇津ノ俣峠へ (撮影 2017. 9.10)
   

分岐の様子 (撮影 2017. 9.10)

分岐の看板 (撮影 2017. 9.10)
   

<宇津ノ俣峠(余談)>
 宇津ノ俣峠への道は、分岐から少し先までは耕作用の車道が延びるが、その後はほとんど徒歩道となるようだ。峠には車道は通じていないらしい。

   
分岐より宇津ノ俣峠への道を見る (撮影 2017. 9.10)
   

<宇津ノ俣峠の新潟県側(余談)>
 宇津ノ俣峠の名は上越市牧区(旧牧村)にある宇津俣(うつのまた)という集落名から来ているようだ。この近辺の須川・伏野・牧・梨平の各峠も皆、新潟県側の地名から名付けられている。
 
 新潟県側から宇津ノ俣峠へ向かうと、鷹羽鉱泉入口までは問題なく舗装路の林道宇津俣線が通じている。地形図を見ると、鉱泉の裏手から更に峠へと道が続いているようだ。 それが本来の峠道だろう。また、鉱泉入口から先にも未舗装の林道が続いているが、どこまで登っているやら。

   

鷹羽鉱泉入口 (撮影 2017. 9.11)
右上に登るのが鉱泉への道だが、この時は休館で進入禁止
左は未舗装の寂しい林道

鷹羽鉱泉の建物を望む (撮影 2017. 9.11)
   

<宇津ノ俣峠分岐以降>
 話を戻し、宇津ノ俣峠への道を分けると、牧峠への林道は真西へと向きを90度変える。関田山脈の主稜とほぼ並行する形だ。右手が山。沿道には林が多くなり、視界が狭くなるが、時折左手に鍋倉高原が大きく広がる。


道の様子 (撮影 2017. 9.10)
   
鍋倉高原を望む (撮影 2001. 7.29)
千曲川対岸の山が霞んで見える
   
鍋倉高原を望む (撮影 2017. 9.10)
   

<桑名川上流部を過ぎる>
 道は寒川水域から再び桑名川水域に戻り、更にその最上流部を横切る。しかし、この付近はもう河川としての形態ははっきりとは認められない。橋など架かることもなく、いつの間にやら通り過ぎている。
 
<道がやや荒れる>
 時折、狭い道が分岐する。付近の耕作地へと通じる作業道だ。それも途絶えると、視界がほとんどない一本道となる。 もう、農作業などには利用しないと言うこともあってか、やや道が荒れだした。今にも道路上に倒れてきそうな傾いた木や、路面上の流水・枯れ枝などが見受けられる。 道の屈曲も多くなる。しかし、地形の険しさは感じられない。関田山脈南麓の穏やかな山腹を横切りながら道はゆったり登って行く。

   

道の様子 (撮影 2017. 9.10)
沿道の木が倒れかけている

道の様子 (撮影 2017. 9.10)
路面の流水や枯れ枝
   

<旧道と交差>
 新牧峠に向かう現在の林道の峠道は、旧峠より桑名川右岸側を下って来た旧道とほぼ直角に交差する。しかし、登山道の様なはっきりとした道など全く見受けられなかった。 後で地図とドラレコ画像とを見比べ、多分この辺りだろうと思われたのが右の写真の箇所だ。何となくこの部分だけ木々が少ないように感じる程度で、道があった痕跡など全く分からない。
 
 かつて、ここにひるこ街道が通じ、信越の国境を越えて人々が往来し、いろいろな物資が行き交ったのかと想像しても、今となっては幻のようだ。生い茂る夏草の中に歴史は埋もれてしまっていた。


旧道と交差? (撮影 2017. 9.10)
   
   
   
分岐 
   

左手に分岐 (撮影 2017. 9.10)

<分岐>
 旧道交差地点を300m程過ぎた所で左手に舗装路の分岐がある。車で通り抜けられる道としては長野県側最終の分岐となる。これも完全に農業用の作業道と思われる。 本来は麓側から利用するのだろうが、こうして上部で牧峠への林道に接続している。丁度、峠から新潟県が通行止だったので、帰りにこの道を下ってみた。

   

分岐する道を麓方向に見る (撮影 2017. 9.10)
舗装路だ

峠からの帰りに分岐を見る (撮影 2017. 9.10)
右手に道が分かれる

   

開けた場所に出る (撮影 2017. 9.10)

<ハート型の池(余談)>
 余談で分岐の先のことを少し。
 
 200mも下ると開けた場所に出た。溜池が隣接する。農業用の貯水池だろう。池の近くは車の乗り入れ禁止となっているが、池の周囲にはぐるりと遊歩道が巡らされていて、散策ができるようになっている。
 
 池の形が変わっている。単なる楕円形などではない。ある時テレビを眺めていると、見覚えのある場所が出て来た。この溜池である。 どうやらその形がハート型ということで注目されたようだ。確かに上空から眺めたらハートに近い形をしているかもしれないが、地上から見ただけでは何とも言い難い。

   
ハート型の池 (撮影 2017. 9.10)
   

 池の形は別としても、周囲は開けてとても気分のいい場所である。一言で言えば「オシャレ」ということになろう。眼下に鍋倉高原を見渡す高台に位置する。 眺めを堪能しながらのんびりとした時間を過ごしてみたい気にさせる。テレビにも登場し、あまり人が押し掛けて溜池を荒らすようなことがなければいいが。

   

付近の様子 (撮影 2017. 9.10)

付近の様子 (撮影 2017. 9.10)
   

下る道の様子 (撮影 2017. 9.10)

<溜池以降>
 道は鍋倉高原の只中をまっしぐらに下る。ちょっとした尾根上に通じるので、周囲は開けっぱなしだ。さすがに作業道だけあって、耕作地の中をコの字を描きながらカクカクと曲がって行く。時間が掛かってしょうがない。ただ、一度くらいなら走ってみても面白い道である。

   
周辺の景色 (撮影 2017. 9.10)
   

<みゆき野ラインに接続 >
 途中に分岐もあるが、とにかく麓方向に下れば、いつかはみゆき野ラインに接続する。今回は土倉集落の少し西側に降り立ったようだ。 溜池から下る道は、旧峠の道筋より西に300m程寄ってはいるが、旧峠も同じような尾根上に通じていたらしい。旧道からの眺めは溜池から下る時に見る眺めとほぼ同じだったのではないだろうか。

   

前方でみゆき野ラインに接続 (撮影 2017. 9.10)
土倉集落の少し西側

みゆき野ラインより溜池方向を望む (撮影 2017. 9.10)
牧峠は奥の峰の左手の鞍部辺り
   
   
   
分岐より先 
   

<峠直下>
 最初の旧道との交差も過ぎ、道は既に峠直下に達している。溜池への分岐を過ぎると、道は急旋回し、北の峠方向に向かって大きく蛇行しながら登り始める。
 
<再び旧道交差>
 山側が左手に移ってから最初の左ヘアピンカーブが来る。古い道路地図を見ると、そのカーブの前後で旧道が交差していることになっている。しかし、ドラレコ画像を調べてみても、やはり道の痕跡は見当たらない。

   

この先、左にヘアピンカープ (撮影 2017. 9.10)
この付近で旧道が交差している筈なのだが

ヘアピンカーブの直後 (撮影 2017. 9.10)
やはり旧道の痕跡は見当たらない
   

<旧峠直下>
 2回目に左の急カーブが訪れると、そこは旧峠に最も近い所だ。新峠の約300m手前の地点である。カーブの麓側がやや開けている。 カーブの直ぐ東、50mくらいに旧道が通じている筈だ。しかし、樹木や藪で何の様子もうかがえない。これまでの旧道交差の様子からしても、廃道と化してしまっているのではないだろうか。

   

左の急カーブ (撮影 2017. 9.10)
ちょっと開けている

急カーブを麓方向に見る (撮影 2017. 9.10)
   

急カーブの先 (撮影 2017. 9.10)

急カーブを麓方向に見る (撮影 2017. 9.10)
この左手の奥に旧道が通じる筈だが
   
   
   
峠へ 
   

峠の直前 (撮影 2017. 9.10)
何となくこの先が峠の様に見える

<峠直前>
 道は右手に山を臨みながら、ほぼ稜線に並行する形で鋭角に峠の鞍部に向かう。峠の100m程手前でちょっと道が広がった箇所があり、上り坂もほぼそこがピークとなるので、何となく峠っぽく見える。しかし、ちょっと先を望むと切通しが見えて来て、そちらが峠だと気付かされる。

   

峠の直前を麓方向に見る (撮影 2017. 9.10)
やや道幅が広がっている

左の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2001. 7.29)
車を停めるにはいい場所
   

<登山道分岐>
 牧峠はやや深い切通しとなっている。関田山脈の稜線に沿って登山道が通じるが、切通し部分で登山道は途切れてしまう。東へと続く登山道は切通しの手前数10mから藪の中へと始まっている。そこに「信越トレイル」の看板が立つ。

   
長野県側より峠の切通しを望む (撮影 2017. 9.10)
この先の右から登山道が始まる
   
登山道入口を麓方向に見る (撮影 2017. 9.10)
   

登山道入口 (撮影 2017. 9.10)
峠を背に麓方向に見る
左手が登山道入口、右手に「信越トレイル」の看板

<信越トレイル(余談)>
 手元に信越トレイルのパンフレットがある。飯山市の観光案内などと共に飯山駅かどこかでもらって来たものだ。牧峠に立つ看板の内容がほぼそっくり網羅されている。
 
 信越トレイルは新潟・長野の県境を辿るコースで、関田山脈の主稜は丸ごと縦走するようだ。全長80Kmというから長大なコースとなる。牧峠を初めて訪れた2001年の時には、まだ「信越トレイル」の看板などはなかったので、その後に設定されたのだろう。

   

 信越トレイルのパンフレットの地図には、当然ながら関田山脈に通じる峠は全て漏れなく記載されている。これ程多くの峠名が載っているパンフレットも珍しい。眺めているだけで楽しくなる。
 
 コースは大きく6つのセクションに分かれていて、関田峠から伏野峠(ぶすのとうげ)がセクション5、伏野峠から深坂峠を過ぎ天水山(あまみずやま)までがセクション6となるようだ。 概ね東に行くほど険しく、セクション5・6は積雪の為に毎年6月中旬以降でないと歩けないらしい。その代わり、牧峠以東では日本海まで展望が広がるとのこと。


「信越トレイル」の看板など (撮影 2017. 9.10)
   

「信越トレイル」の看板 (撮影 2017. 9.10)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

「信越トレイル」の案内 (撮影 2017. 9.10)
   

<旧峠>
 現在は信越トレイルのコースとなる登山道入口には、道標となる標柱に「宇津ノ俣峠3.4km」と出ていた。現在地は「牧峠」となっている。 しかし後から考えてみると、その道を200m余りも歩けば、古い方の牧峠に辿り着けた訳だ。 峠道自体は既に廃道となっている様子なので、旧峠を訪れるとしたらこの稜線伝いの道を行くしかない。標柱に「旧牧峠」とでも案内されていたら、かつて「ひるこ峠」とも呼ばれた旧峠を一目見て来られたかもしれない。残念なことをした。

   

稜線を東へと延びる登山道の入口 (撮影 2017. 9.10)
登ると直ぐに稜線上に出る
側らの標柱には以下の様にある
現在地:牧峠
手前方向:梨平峠 2.7km
登山道を行く方向:宇津ノ俣峠 3.4km

道案内の標柱 (撮影 2017. 9.10)
   
   
   
切通し部分 
   

<切通し>
 道は鋭角に関田山脈の稜線を越えて行く。峠は、長くはないが峰の頂上を鋭く切り落とした切通しとなる。道の両側の法面はコンクリートで覆った擁壁で囲われる。如何にも車道開削によって誕生した峠という感じだ。

   
切通し部分から長野県側を見る (撮影 2017. 9.10)
ハスラーの横から登山道が登る
   

<関田峠への登山道>
 切通しの長野県寄りから西の関田峠方面へと登山道が登って行く。入口に信越トレイルの注意看板が立つ。脇には「一六八 林班」と書かれた朽ち掛けた木製の標柱が傾いている。

   

切通し部分から長野県側を見る (撮影 2017. 9.10)
西の関田峠へと登山道が登る

入口に立つ信越トレイルの注意看板 (撮影 2017. 9.10)
傾いた標柱には「一六八 林班」とある
   

 登山道を切通し上部へと少し登ると、信越トレイルの案内標柱が立つ。現在地は「牧峠」、西へ「← 関田峠 4.5km」とある。

   
切通し上部より新潟県側を見る (撮影 2017. 9.10)
信越トレイルの標柱が立つ
   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2001. 7.29)
ジムニーの横には「注意 クマ出没」の看板が立つ
   

切通しの上から真下の切通しを見る (撮影 2017. 9.10)

<峠の表情>
 牧峠は峠を境に地形が大きく異なる。長野県側は穏やかに山が下り、新潟県側では鋭く谷が落ちる。その為、見方によって牧峠はいろいろな表情を示す。 うっそうとした森に包まれた長野県側、コンクリート擁壁に挟まれる切通し、開放的に開けた新潟県側。カメラの構え方次第で、全く別の峠の様に写る。

   
切通しの上から長野県側を見る (撮影 2017. 9.10)
うっそうとした森の中
   
長野県側から切通しを見る (撮影 2017. 9.10)
如何にも車道の峠
旧峠は見たことがないが、全く様相が異なることだろう
   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2001. 7.29)
   
新潟県側から見る峠 (撮影 2017. 9.10)
明るく開けている
   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2001. 7.29)
16年前とほとんど変わりはないようだ
   
   
   
峠の新潟県側 
   

<峠の新潟県側>
 切通しを抜けて新潟県側に入ると、路肩に多くの車が並び、その周りに人々がたむろしている。 峠へと登る間、ほとんど車と離合することなく、寂しい限りだったので、この峠の賑やかさは驚くばかりだ。 最近注目されている「信越トレイル」に関係し、何か催し物でも共興されているのかと思ったが、全く関係なかった。谷間に向かって望遠レンズを装着したカメラが並んでいる。野鳥観察のようだ。何でもイヌワシが見られるらしい。

   

峠の新潟県側 (撮影 2017. 9.10)

新潟県側から峠方向を見る (撮影 2017. 9.10)
望遠のカメラが並ぶ
   

<以前の峠>
 牧峠を初めて訪れた時は、まだ信越トレイルの看板などなく、さっぱりした峠であった。看板と言えば、「注意 クマ出没」と書かれた物がポツンと一つ立つくらいだ。 季節が違ったのか、野鳥観察の方たちも居ない。しかも新潟県の松之山町(現十日町市)で野宿した朝で、早朝5から行動を開始、牧峠に到ったのはまだ8時である。 朝食を摂っていなかったので、アルミ製片手鍋で、多分、即席ラーメンでも作って食べたのだろう。誰も居ない峠なので、何の遠慮も要らない。独り占めの牧峠を堪能したのだった。
 
 こうして、牧峠は誰も来ない寂しい峠という印象を持ったのである。しかし、再訪してみると、峠自身はあまり変りはないようだが、全く様子が異なっていた。こんなに多くの人がやって来る峠とは思わなかった。信越トレイルを歩く者も、時折この峠を通り過ぎることだろう。


峠で朝食 (撮影 2001. 7.29)
誰一人来ないので気兼ねが要らない
   

谷へと路肩が切れ落ちている (撮影 2017. 9.10)

<新潟県側の眺め>
 切通しに続き、新潟県側には切り立つ崖を伝って道が延びる。稜線の峰を背に、正面には谷底へと急斜面が下る。路肩が鋭く切れ落ちている箇所もあり、下を覗いてみるとなかなか怖い。
 
 その分、展望が開ける。道はほぼ直線的に200mくらいも続くだろうか。その間、まるで棧敷の様にして景色を堪能できる。見る位置によって眺めも変わる。尾根の向こうに高原状の台地が広がる。その地形が「牧」の地名の由来となるのだろう。

   
新潟県側の眺め (撮影 2017. 9.10)
   
新潟県側の眺め (撮影 2017. 9.10)
ほぼ前の写真のズーム
高原状の地形が広がる
   

 更に遠くを遠望すれば、高田平野が広がる。景色を眺めていると、イヌワシ観察に来ていた男性の一人が、いろいろ説明してくれた。日本海が見えるとか、他にもいろいろ教えてくれたのだが、あまり良く覚えていない。佐渡島まで見えるとか何とか・・・。

   
新潟県側の眺め (撮影 2017. 9.10)
奥に広がるのは高田平野
本来は日本海まで見える筈だが
   

<湯ノ川源流部>
 峠から100m程も進むと、谷間を正面に見る位置になる。湯ノ川の源流の支流・西沢の更に支流と思われる。西沢本流は旧牧峠を源流とする筈なので、右手の尾根一つ隣である。

   
新潟県側の眺め (撮影 2017. 9.10)
湯ノ川の支流の谷が下る
   
新潟県側の眺め (撮影 2017. 9.10)
ほぼ前の写真と同じ
   

<峠の標高>
 文献では牧峠の標高を970mとしている。なかなか高い。ただ、ひるこ峠とも呼ばれた旧峠のことか、上牧林道が開通した後の新峠のことかがはっきりしない。 しかし、地形図を見る限り新旧どちらもほぼ同じ標高である。960mと970mの等高線の間を通過しているので、間を取って約965mとしてみた。 文献の通り970mとするのが正しいのかもしれない。一方、標高は時折改定されるので、現在の峠の標高は970mをやや下回るのではないだろうか。

   
   
   
新潟県側に下る道 
   

<新潟県側の道>
 新潟県側に下る道は、関田山脈主稜から前山へと続く尾根に近い部分を下って行く。峠からその道筋の一部が見える。如何にも展望が良さそうだ。走れたら良かったのだが、今回は通行止であった。

   
新潟県側に下る道の様子 (撮影 2017. 9.10)
   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2001. 7.29)
   

 通れない道を眺めていると、軽トラが一台居て、やがて下って行った。通行止の筈なのだが、どういうことだろうか。 景色をいろいろ説明してくれた男性も、やたらと不審がっていた。どうやら新潟県側から来た方の様で、今回の通行止の為にわざわざ関田峠かどこかを大きく迂回させられたらしい。

   
道のズーム (撮影 2017. 9.10)
軽トラが下って行った
   

前方に通行止箇所 (撮影 2017. 9.10)

<通行止箇所>
 一応、通行止箇所を確認してみた。車で進むと、ただでさえ崖沿いの狭い道の上に、路肩は駐車車両で一杯だ。転回できない危険性がある。トボトボ200m余り歩く。 すると、簡単なバリケードが設けてあった。通行止看板には、誰でも納得しそうな道路決壊箇所の写真が載っていた。ただ、先程ちらりと見掛けた軽トラは、どうやって来たのだろうかと思う。

   

通行止箇所 (撮影 2017. 9.10)

通行止の看板 (撮影 2017. 9.10)
   

<地滑り(余談)>
 関川流域は全国でも有数な地滑り地帯として知られる。旧板倉町(現上越市)に「地すべり資料館」というのがあったと思う。
 
 旧牧村にも至る所に地滑り地があるそうだ。今回の通行止も地滑りを起因とする。一方で、地滑りの跡地を利用して多くの棚田が築かれたとのこと。自然とうまく同居することが重要なようである。


通行止箇所の先 (撮影 2017. 9.10)
暫くこうした開放的な道が続く
   
地すべり資料館に隣接する人柱守護神 (撮影 2004. 8.12)
地滑りを鎮める為に人柱となった僧がいたとのこと
   

通行止箇所を峠方向に見る (撮影 2017. 9.10)

 今回は峠道のクライマックスとも言える新潟県峠直下を通ることはできなかった。もし、登って来られたら、こんな風に峠に到着するという雰囲気だけでも、写真に収めて置こうと思った(以下の写真)。

   
新潟県側から峠方向を見る (撮影 2017. 9.10)
   
峠直前の様子 (撮影 2017. 9.10)
新潟県側から上って来ると、このようにして峠に到達する
   

<峠道の変遷>
 関田山脈中の峠としては富倉峠が最も利用されたが、それに次いで関田峠がよく用いられたそうだ。牧峠も江戸期から明治期頃までは関田峠などの間道として活用されたらしい。新潟・長野の両県から運ばれた物資は峠の上で継立てが行われた。
 
 しかし、大正期になると千曲川沿いの飯山線の開通が始まる。大正12年7月には長野駅から桑名川駅まで鉄路が到達し、昭和4年9月には十日町駅(新潟県十日町市)まで全通した。 千曲川の流れを用いた船運(水運)は過去のものとなって行く。これにより、関田峠や牧峠を利用しての物資輸送は急激に衰えて行ったようだ。
 
 その後、トラックなどの陸上輸送が発達し、富倉峠は大川トンネルへと代替わりして立派な国道292号が越え、千曲川沿いの国道117号は今も尚より快適な道へと進化し続けている。 遅れ馳せながら関田峠や牧峠も昭和中期以降に車道が整備されたものの、大型輸送トラックが通れるような道ではなく、冬期は通行不能である。関田山脈では富倉峠(今は大川トンネル)の独り勝ちといったところだろうか。
 
<湯峠道>
 昭和期頃には物の往来が途絶えて行った峠道だったが、人の往来は第2次大戦後まで時折見られたそうだ。 新潟県側から関田峠や牧峠を越え、千曲川右岸の野沢温泉へと湯治客が通ったようだ。こうした「湯峠道」としての役割は以前からあり、越後の農民がしばしば野沢温泉へと越えたとのこと。農作業の疲れなどを癒しに出掛けたのであろうか。

   

<現在の峠>
 狭い道ながら車道が通じ、かつて歩いて越えていた時より余程楽になった牧峠だが、もう湯峠道としての利用は少ないのではないだろうか。今の世の中、遊興の種類は多く多彩で、わざわざ県境を越えてまで温泉に行くことはないのだろう。
 
 代わりに、現在の牧峠はイヌワシなどの観察地として知られる。 こうした明確な目的があると狭い道も苦にならないのか、多くの人々がやって来る(私は単に峠道と言うだけでノコノコやって来るが)。 また、長野県側の麓にある「森の家」は信越トレイルのビジターセンターとしての役割もあるようだ。峠まで車で登り、牧峠から信越トレイルを開始する者も居るかもしれない。どちらも県境を越えて往来するという峠道本来の意味合いはないが、峠から人影が途絶えることが避けられただけでも嬉しいことだと思う。

   
   
   

 17年前に初めて牧峠を訪れた時は、拍子抜けする程容易に越えられた気がしていた。峠で朝食を摂ったが、半分朝飯前という訳だ。 当時はジムニーで野宿旅をしながら、険しい道ばかり求めて走り回っていた。牧峠に来る直前も、天然記念物「須川の大こぶし」(旧安塚町須川)までジムニーを走らせた。 それはそれは酷い道だった。それに比べると、林道と言えども全線舗装の上牧林道は、快適その物に思えたようだ。また、辿り着いた県境の峠には誰一人やって来ない。牧峠を独占した様ないい気分である。
 
 今回(2017年)再訪すると状況は一変であった。通行止はあるし、その一方で峠は混雑していて車を転回するのも一苦労。人に遠慮しながらの散策であった。同じ峠でも全く別の一面を見せ付けられた気がした、牧峠であった。

   
   
   

<走行日>
(2000. 6. 4 長野側通過 ジムニーにて)
・2001. 7.29 新潟→長野 ジムニーにて
(2004. 8.12 新潟県側通過 キャミにて
・2017. 9.10 長野県側より峠まで ハスラーにて
(2017. 9.11 新潟県側の途中まで ハスラーにて)
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 15 新潟県 1989年10月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典 20 長野県 平成 3年 9月 1日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・大きな字の地図 新潟県 2001年4月発行 人文社
・県別マップル道路地図 20 長野県 2004年 4月 2版 7刷発行 昭文社
・ツーリングマップル 3 関東 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 3 関東甲信越 2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・その他、一般の道路地図など
 
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<1997〜2018 Copyright 蓑上誠一>
   
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