ホームページ★ 峠と旅
深坂峠
  みさかとうげ  (峠と旅 No.293)
  関田山脈の最東端を越える峠道
  (掲載 2018. 8. 1  最終峠走行 2001. 7.28)
   
   
   
深坂峠 (撮影 2001. 7.28)
手前は新潟県十日町市浦田
奥は長野県栄村大字豊栄
道は林道野々海天水越線(新潟県側)
峠の標高は1,090m (文献より)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
如何にも林道の峠らしい佇まいだ
しかし、古代東山道の支道とも言われる古い歴史を持つ峠である
 
 
 
   

<掲載動機>
 野々海峠に続いて、新潟・長野県境に連なる関田山脈に通じる車道の峠である。 長さ約30Kmに及ぶ関田山脈の主稜上を越え、10以上もの峠が通じるが、その中で深坂峠は最も東に位置する。 これまで関田峠・牧峠・伏野峠・野々海峠と掲載して来たが、今回の深坂峠で関田山脈も卒業という訳である。この峠を訪れたのはもう17年も前のことなので、近況は分からない。単なる思い出話である。

   

<所在>
 峠の新潟県側は、今は十日町市(とおかまちし)浦田(うらだ)となったようだ。今回調べてみるまで気付かなかった。元は東頸城郡(ひがしくびきぐん)の松之山町(まつのやままち)の大字浦田であった筈だ。
 
 峠の長野県側は下水内郡(しもみのちぐん)栄村(さかえむら)大字豊栄(とよさかえ)となる。ただ、直ぐ西隣にある野々海峠は飯山市(いいやまし)照岡(てるおか)だ。その間の市村境は曖昧ではっきりしない。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<水系>
 新潟県側では峠は渋海川(しぶみがわ)の源頭部に位置する。渋海川は信濃川の一次支流で信濃川水系となる。
 
 長野県側では野々海峠同様、野々海川の最上流部に位置する。峠直下には大きな野々海池(ののみいけ)が広がる。野々海川は千曲川の一次支流であり、よって信濃川水系となる。
 
 野々海峠以西では、多くの峠の新潟県側が関川水系に属していたのに対し、この深坂峠だけは新潟・長野両県側とも信濃川水系となる。深坂峠と野々海峠は直線距離で1Km余りしか離れていないが、水系の点では大きな違いがある。

   

<田麦立>
 文献(角川日本地名大辞典)によると、深坂峠は新潟県松之山町田麦立(たむぎだて)と長野県栄村を結ぶ峠となっている。田麦立は浦田の小字として渋海川最上流左岸にその名が見られる。
 
 田麦立は古くは南浦田新田(みなみうらだしんでん)と呼ばれた新田に含まれ、浦田の南部に開発されたことにより「南浦田」の名がある。 南浦田新田は現在の坂中・月池・田麦立に相当するそうだ。明治6年に浦田村が誕生し、田麦立はその一部となった。
 
 尚、「浦田」という地名は「浦田口」に対して「裏田」と称したのが地名の由来とのこと。「浦田口」という地名は現在は見られないが、旧松之山村の中心地であったようだ。 一方、浦田口は浦田を経由して信濃に通じる道の出口に相当することから「浦田口」と称したとも文献にある。
 
 昭和30年に松之山村と浦田村が合併して新しい松之山村となる。大字浦田は松之山村の西部の広い範囲を占めていたようだ。更に昭和33年、松之山村に町制施行で松之山町となり、その後十日町市に合併して行く。
 
<中原>
 尚、地図によっては田麦立より僅かだが渋海川上流側に中原(なかばら)という地名が見える。これも浦田の小字の一つらしい。 古くは本山新田(もとやましんでん)という新田の内だったようだが、定住者はなかったらしい。深坂峠を新潟県側に下った最初の集落は、やはり田麦立集落となるのだろう。

   

<信濃白鳥と平滝>
 深坂峠の長野県側は、野々海池の南で野々海峠の道と一緒になって、千曲川左岸沿いの白鳥(しらとり、信濃白鳥)または平滝(ひらたき)に下る。古くは信濃白鳥の方だったようだが、車道が通じたのは平滝からである。
 
 江戸期には白鳥村(しらとりむら)と平滝村(ひらたきむら)、明治9年にどちらも豊栄村(とよさかえむら)の一部となる。 明治22年、豊栄・北信(ほくしん)の2か村が合併して水内村(みのちむら)となり、大字豊栄と大字北信となる。 昭和31年には水内村は堺村と合併して栄村(さかえむら)となり、旧村の2大字は栄村の大字に継承される。
 
 水域としては、野々海川は飯山市照岡(てるおか)の西大滝に下って千曲川に注いでいる。白鳥や平滝は西大滝より下流側に位置し、厳密には野々海川水域にはないようだ。深坂峠の新潟県側が素直に
渋海川沿いに下っていたのとは異なる。ただ、野々海川の最上流部にある野々海池は灌漑用の池で、ここより白鳥方面へも水か引かれているようだ。文献でも白鳥村の項に「文政7年(1824年)野々海池からの堰完成で村高が増加した」という記述が見られる。また、野々海川沿いに西大滝まで下るより、白鳥や平滝に下った方が距離的には近い。

   

<峠名>
 深坂峠は古くは「御坂」(みさか)と呼ばれていたそうだ。それがいつしか「深坂」の字が当てられ、深坂峠となったようだ。
 
 御坂といえば古代東山道が通じていた神坂峠(みさかとうげ)をまず思い出す。日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国征伐の際に通ったという伝承から、「神の通った坂道」、「神の御坂」ということで神坂峠の名がある。
 
 今回の深坂峠も古代東山道の「支道」が通じていたと言われるらしい。千曲川の谷から登り、この峠を越えて渋海川沿いに下り、松之山を経て日本海沿いの柏崎方面に抜ける、重要な道路であったそうだ。また、白鳥には日本武尊伝説があるとかないとか。

   
   
   
峠の長野県側 
   

<野々海湿地>
 深坂峠や野々海峠の長野県側直下には野々海池が広がる。単なる灌漑用の貯水池としては予想外に大きく、湖と言うくらいの佇まいを見せている。 戦後に開発が進められ、ダムの竣工は昭和30年とのこと。水面と峠との標高差は僅かに50mで、ほとんど関田山脈の頂上にあると言っていい。
 
 現在の大規模な野々海池ができる前もこの付近一帯は野々海と呼ばれる広い湿地であった。標高1,050m前後の高地に位置し、独特の地形を成す。同じ関田山脈に通じる関田峠にも、長野県側直下に茶屋池を中心とした湿地帯が小規模ながら見られる。
 
 深坂峠と野々海峠から下って来た道は、この野々海湿地で合流し、信濃白鳥へと下って行った。しかし、この地は冬季の積雪が10m前後にもなる豪雪地帯である。冬場の通行は途絶したものと思う。

   

<野々海高原キャンプ場>
 現在の車道の峠道は、野々海池南東端にある野々海高原キャンプ場より深坂峠と野々海峠とに分かれて行く。 キャンプ場から深坂峠への車道はやや東へ迂回するように登るが、地形図に描かれる徒歩道はキャンプ場付近よりほぼ直線的に峠を目指している。 丁度キャンプ場の建物の間を登る道が写真に見えるが、それが深坂峠への旧道の道筋に近いのではないだろうか。

   
野々海高原キャンプ場を峠方向に見る (撮影 2001. 7.28)
左が野々海峠、直進が深坂峠
キャンプ場の中を登る道は旧道の道筋か?
   

<峠へ>
 キャンプ場から峠まで標高差約30mを残すばかりだ。そこを1Km少しの道程で登る。峠への最終アプローチとしては極めて穏やかだ。深い谷も、そそり立つ絶壁もない。

   
   
   
 
   
長野県側から見る峠 (撮影 2001. 7.28)
   

<峠の長野県側>
 古代東山道の支道が通じていたという点で、関田山脈を越える数ある峠の中で最も歴史が古いとされる深坂峠ではあるが、今は細々と林道が越える峠である。関田山脈の主稜を僅かだが切り崩し、浅い切通しとした峠である。如何にもに林道開削で形作られた峠の姿に思える。

   
峠を背に長野県側を望む (撮影 2001. 7.28)
穏やかな道が下る
直ぐ左手に支線林道が分かれている
   

<旧峠>
 現在の地形図には峠の部分に車道以外の道筋は描かれていない。しかし、いろいろな地図を見てみると、現在の車道の峠より北へ100m余り行った稜線上に元の深坂峠が越えていたようだ。 峠の長野県側手前で南に支線の林道が分岐するが、丁度その反対辺りから旧峠へと登る道があったらしい。今は全く記憶にない。
 
 文献では峠に馬頭観音が建っていることになっているが、車道の峠にはなかったように思う。旧峠の方にあったのだろうか。それにしても、牧峠、伏野峠そしてこの深坂峠と、どれも旧峠を見ずに終ったのは残念だった。

   
峠を長野県方向に見る (撮影 2001. 7.28)
舗装の継ぎ目が県境だろうか
   

林道標柱など (撮影 2001. 7.28)

<林道標柱など>
 深坂峠は新潟・長野の県境だが、県境看板などは全く見られなかった。林道標柱や「中山峰国有林入口」と書かれた木柱が立つばかりだ。
 
 
<野々海天水越線>
 林道標柱によると、峠は林道野々海天水越線の終点となるようだ。天水越(あまみずこし)とは現在の十日町市松之山天水越である。よって、この林道は峠より新潟県側の道の名前となる。
 
<天水越>
 天水越は越道川(こえどがわ)水域に立地する。中心地は国道405号沿いらしい。 江戸期は天水越村で、明治22年に天水越・天水島・湯本の3か村が合併して松里村(まつさとむら)ができ、その大字となる。明治34年に松里村は松之山村の一部となり、旧村の3大字は松之山村の大字に継承される。
 
 野々海天水越線の林道延長は5Km余りなので、峠から越道川上流部にある大巌寺高原辺りまでのようだ。
 
 越道川は渋海川の支流ではあるが、天水越の遥か下流側で渋海川に注ぐ。渋海川源流沿いに通じていたと思われる深坂峠の元の道と天水越は直接の関係はなさそうだ。深坂峠に通じた車道は、峠の位置が昔と僅かだが異なるが、新潟県側に下る道は全くルートを異にするようだ。

   

<峠の新潟県側>
 小さな切通しを新潟県側に抜けると、それまでとは一転、視界が大きく広がる。峠の醍醐味はこうしたところにある。僅か数10mを移動しただけで、周囲の雰囲気は全く異なった。 時により、天候さえ変わる場合がある。長野県側は野々海高原の延長で、穏やかな森林に囲まれていた。一方、新潟県側は峠直下に渋海川の谷が切れ落ち、広々と谷を見渡す。峠という扉一つで別世界を行き来できる。深坂峠はそうした峠らしい魅力に溢れている。
 
 道の傍ら、景色を見渡す広場に「深坂峠」と刻まれた石碑が堂々と立っていた。この地はいにしえの東山道であると、誇っているかのようだ。現在この峠は信越トレイルの中継点となる。峠の様子も変わり、訪れる者も多いことだろう。

   
峠を新潟県側へ抜ける (撮影 2001. 7.28)
視界が開けていく
   

<峠道の役割>
 古くは東山道支道、近世(江戸期)には越後・信濃両国の農民の物資交流があったそうだ。また、信濃の農民が越後松之山温泉に行く湯峠道でもあったとのこと。
 
 関田山脈中、須川峠以西になると、千曲川通船との連携により、信濃側に於いてはより広い範囲で物資交流が行われたのではないかと想像する。 一方、野々海峠以東では、白鳥・平滝といった千曲川沿いに立地する比較的狭い範囲との物資交流ではなかったか。 また、他の峠で「湯峠道」というと、信濃野沢温泉のことを指したが、深坂峠では越後側の松之山温泉となるらしい。 白鳥・平滝などの住民は野沢温泉は勿論のこと、松之山温泉へも通ったものだろう。 一方、松之山側ではわざわざ峠を越えて野沢温泉へ行くことなく、身近に松之山温泉があった訳である。

   
深坂峠の碑 (撮影 2001. 7.28)
   

<車道開通>
 文献では昭和56年(1981年)に峠越えの林道が開通したとある。ただ、野々海池建設の為、昭和30年頃までには平滝から野々海湿地までの林道は開通していたものと思う。 野々海池から深坂峠までは目と鼻の先である。長野県側は早い時期に峠近くまで車道が通じていたかもしれない。
 
 一方、新潟県側は渋海川の谷が険しく、元の峠道に沿って車道は開削できなかったようだ。大きく天水越へと迂回する道筋が採られたが、その野々海天水越線の開通が昭和56年ではなかったか。 現在の峠に立つ「深坂峠」の石碑も、その林道開通時に建てられたのではないかと想像する。
 
 かつての深坂峠は越後側が急坂で、人力による物資交流の他、牛馬を用いて越後の米を信州に運んだりしたようだ。 峠に馬頭観音が祀られるのも、こうした牛馬に対しての信仰心からだろうか。 物資交流・湯峠道といった峠道本来の機能を失ったが、近年になって自動車道として復活した深坂峠である。 しかし、牧峠以東の峠に共通して言えるように、冬期は長い間通行途絶となり、豪雪の為に道の傷みも酷いらしい。 峠の片側が交通止となる事態も多く発生する。峠を越えるという機能は十分には発揮できないでいるようだ。 今の峠の役割は、信越トレイルの登山客を運ぶのが精一杯というところだろうか。

   

<標高>
 文献では深坂峠の標高は1,090mと1,080mの2種類が別々に記載されていた。現在の地形図では1,090m余りの所に車道が通じているので、1,090mの方が正しいのであろう。旧峠は更に高く、標高1,100mに近かったのではないかと思う。
 
<信州最北端>
 文献では深坂峠を「信州最北端の峠」と紹介している。しかし、正確には野々海峠の方が北に位置するようだ。 深坂峠から野々海峠に到る稜線上、十日町市(旧松之山町)と上越市(旧大島村)との接点付近が、長野県でも最も北に位置する部分だ。 南北に長い長野県は、海に面しない内陸県としては最大の面積を誇る。その広い長野県の北の果てに深坂峠や野々海峠が通じている。地図上でこれらの峠を見付けるには、とにかく長野県で最も北の場所を探せばよい。

   
峠の新潟県側の様子(撮影 2001. 7.28)
右手奥が峠
   

<新潟県側に下る道>
 元の峠道は峠より渋海川上流部へと真っ逆さまに下っていたようだ。峠直下は見るからにかなりの急傾斜地で、到底車道の開削はできなかったのであろう。
 
 現在の車道は、峠よりほぼ稜線に並行するように東へと延びる。関田山脈の主稜上にそびえる三方岳や天水山(あまみずやま)の北麓を横切って行く。 天水山(1,088m)は関田山脈東端の山となり、信越トレイルの東の基点ともなるようだ。また越道川(こえどがわ)の水源が天水山であり、林道は天水山の北麓を過ぎた辺りから大巌寺高原方面へと下って行く。

   
峠から新潟県側に延びる車道 (撮影 2001. 7.28)
林道情報の看板が立つ
   

<野々海天水越線>
 深坂峠を越える峠道の中では、やはり峠から新潟県側に進む最初の部分が最も険しい。道路情報として林道野々海天水線についての注意看板が立っていた。土石等が落下してくる危険があると記されている。冬期閉鎖は長く、落石などによる通行止も頻発することだろう。
 
 半面、その道からの展望は素晴らしい。関田山脈を越える幾つもの峠道の中で、最大ではないだろうか。山脈の稜線沿いに2Km余りも通じる間、景色は広がりっぱなしだ。


林道情報の看板 (撮影 2001. 7.28)
   
   
   
峠の新潟県側 
   

電波塔の前で記念写真 (撮影 2001. 7.28)

<新潟県側>
 深坂峠の新潟県側の道に関しては、ほとんど写真がない。峠から数分程走った所に大きな電波塔が立っていたようだ。そんな写真を撮っただけである。
 
 
<津南町方面分岐>
 峠から4Km程で津南町方面への分岐がある(下の写真)。そのまま野々海天水越線を下る方向には「大巌寺高原 2.0Km」、「松之山温泉 0.9Km」と出ていた。分岐する道には「山伏山森林公園 3.0Km」、「津南町(R117) 11.0Km」とあった。
 
 日も暮れかかっていたので、野宿地を求めて津南キャンプ場がある山伏山森林公園へと進んだ。しかし、やっぱりこうした施設は肌が合わない。その後、天水越付近をさまようこととなった。

   
分岐の看板 (撮影 2001. 7.28)
野々海池へは5Kmとある
   

<野宿(余談)>
 散々迷走した挙句、麓の国道405号側から大巌寺高原への道を登った。いよいよ窮し、途中で見掛けた休耕地で野宿してしまうこととなった。テントを張り終えた頃は、とっぷり日が暮れてしまっていた。
 
 当時は野宿旅がメインだったので、ジムニーの中は野宿道具で溢れていた。テント・シュラフ・エアーマット・エアーマットを膨らませるポンプ(ダブルアクション式)、 20リッターのポリタンク・カセットコンロ・夏場はクーラーボックス・飲み物・食料・その他小道具一式。更にテントやシュラフなどは予備も用意してあった。 ちょっとしたサバイバル気分である。特にポリタンクで十分な量の水を携行していたのは心強かった。いつどこで野宿しても、飲食や手洗いに不自由しない。旅先で水が不足すると、公園などの水道を汲むこともあった。
 
 翌朝は人がやって来る前にと5時には早々に野宿地を後にし、峠の旅を続けたのだった。


野宿の夜 (撮影 2001. 7.28)
この時はコールマンのテントを使用
一人で寝ても狭いくらいの小さいタイプだったが、
強風時などには強かった
   

野宿の朝 (撮影 2001. 7.28)

野宿の朝 (撮影 2001. 7.28)
   
   
   

 深坂峠を越えたのは17年前のことだが、その頃はまだまだ体力・気力共に何の問題もなかった。何の不安もなく旅に出掛け、野宿をしていた。 それに比べ、最近の体調不良は全く別人のようである。安易には旅行にも出掛けられない。歳を取るということを痛感する、深坂峠であった。

   
   
   

<走行日>
・2001. 7.28 長野県 → 新潟県 ジムニーにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 15 新潟県 1989年10月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典 20 長野県 平成 3年 9月 1日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・WideMap 関東甲信越 (1991年頃の発行) エスコート
 ・大きな字の地図 新潟県 2001年4月発行 人文社
・県別マップル道路地図 20 長野県 2004年 4月 2版 7刷発行 昭文社
・ツーリングマップル 3 関東 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 3 関東甲信越 2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

<1997〜2018 Copyright 蓑上誠一>
   
峠と旅         峠リスト