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六十里越
 
ろくじゅうりごえ No.188
 
新潟と会津地方を結ぶ遠大な峠道
 
(初掲載 2011.12.14  最終峠走行 2007.10.18)
 
  
 
六十里越 (撮影 2007.10.18)
見えているのが六十里越トンネルの新潟県魚沼市(旧入広瀬村)側の坑口
トンネルの反対側は福島県只見町(ただみまち)
道は国道252号
トンネルの標高は約760m
道路の右手にかまぼこ型の屋根をした小屋が建ち
ここが雪深い地であることを物語っている
 
 
 
<峠名など>
 この峠名は時により「六十里越峠」と「峠」の文字を最後に付けて呼ぶ場合もあるようだが、道路地図や国土地理院の1:25,000地形図など多くの資料では「六十里越」と記されている。この場合の「越」は「ごえ」と読むらしい。「越」(goe)に「峠」(touge)が続くと、音が重なる(最後がどちらもローマ字のeになる)のでわたしは好まない。そこでこのページでも「六十里越」を採用することとした。
 
 六十里越と言っても、車道(国道252号)の峠部分は六十里越トンネル(隧道)と呼ぶトンネルになっていて、本来六十里越と呼ぶべき峠はその上にある。よって正確にはトンネルが貫通する所は六十里越ではないのだろうが、トンネルの新潟県側の坑口近くに、国道標識と並んで「六十里越」と看板にある。そこで、この国道252号のトンネル部分も、「六十里越」と呼ばせて頂くこととする。
 
<峠道の範囲や水系>
 国道252号は、関越自動車道の小出IC近くから、新潟・福島の県境を六十里越で越えて、会津若松市の市街まで通じている。正確には柏崎の方から始まって、途中国道17号との併用区間などを経て来ているのだが、峠道としては小出から先の区間と言っていい。国道に沿ってJRの只見線が通じているが、その鉄路も上越線の小出駅から始まって会津若松までを結んでいる。只見線が県境を越える峠も、同じく六十里越トンネルと呼ぶトンネルになっている。
 
 峠の新潟県側は魚野川(うおの)の支流・破間川(あぶるま)の流域である。破間川が魚野川に注ぐのも旧小出町(現魚沼市)内であり、六十里越の峠道の新潟県側起点は、やはり小出といった感じである。一方、峠の福島県側は只見川が流れ、会津若松までは届いていないが、その市の北西で本流の阿賀川(あが)に流れ込んでいる。
 
 尚、魚野川の本流は信濃川で、一方阿賀川は新潟県に入って阿賀野川(あがの)と名を変え、信濃川も阿賀野川もそろって新潟市で日本海に注いでいる。峠道は新潟と会津地方の離れた地を結んでいるが、峠の両側に下る水の流れは、仲良く並んで日本海に通じるお隣同士であった。
 
<名前の由来>
 何でも「越後野志」と言う歴史資料が残っていて、そこに高田城下(現在の新潟県上越市と思う)から会津に抜ける最短距離の道路に、この六十里越を利用したとあるそうな。大白川(おおしらかわ)から田子倉(たごくら)までの峠道を、「人跡絶たる大行路難の地故、一里の工程を十里に比べ、当六里の道を六十里と称す」とあるとのこと。
 
 「大白川」とは旧入広瀬村内の地名で、只見線に大白川と言う駅があり、その近辺だ。六十里越の峠の方から流れ下って来た末沢川が、本流の破間川に合流する地点でもある。一方、峠を越えた福島県側の「田子倉」とは、今ではその一帯は田子倉湖になっているが、古くはその湖水の下に田子倉と呼ぶ集落があったようである。
 
 一里は約4Kmであるから、六里とは約24Kmに相当する。大白川から峠までは、現在の道路地図で15.4Km。峠から只見町の中心地・只見まで18.7Km。湖底に沈む田子倉までの道程はよく分からないが、峠から只見までの中間とすれば約9Km。15.4Kmと足し合わせると約24Kmとなり、計算が合うのである。
 
<八十里越について>
 紛らわしいことに、同じ県境近くに八十里越(はちじゅうりごえ)と呼ぶ峠が存在する。六十里越の北、約10Km程に位置する。現在の国道289号線にほぼ重なる峠道だが、峠の部分は未改修で車道は通じていない。
 
 こちらの峠名の由来も、同じ越後野志に「一里を十里に比し、八十里と云う」とあるそうな。昔の八十里越の峠道は、新潟県側からは旧下田村(しただむら)の五十嵐川の支流・守門川(すもん)を遡り(現国道289号は大谷川沿い)、鞍掛峠で一旦旧入広瀬村に入り、破間川の上流域を進んで八十里越を越え、只見川の支流・叶津川(かのうず)沿いに国道252号沿いの叶津(かのうづ)に至っていた。下田村の吉ヶ平(よしがひら)から叶津までが、狭い範囲での八十里越の峠道であったそうな。
 
 ところがある資料に、昔の6町1里の計算で吉ヶ平から叶津までが八十里あったので、この名が付いたともある。源頼朝の鎌倉時代、6町を1里と定めたそうだ。1町は109m。すると1里は654m。八十里はざっと50Kmとなる。旧下田村の吉ヶ平の位置が分らないが、守門川の上流、県道183号の終点に吉ヶ平山荘と呼ぶ山小屋が見られる。または、守門川を下って五十嵐川に注ぐ地点、現在の三条市森町付近までと考えても、叶津から50Kmもの距離があった様には思われない。
 
 八十里越の道は、歴史を下って江戸時代の幕末には牛馬道の切開きが行われ、牛馬交通が全盛を極めたそうだ。その時代では既に一里は現在の約4Kmとなっていた筈である。当時の八十里越の峠道を旅した人々は、確かに一里が十里にも感じると思って越えていたことだろう。
 
 
只見町から峠に向かう
 

国道252号上 (撮影 2007.10.18)
橋の手前に只見町を示す看板が立つ
右上の看板には「小出、只見」と行き先が書かれている
 会津若松方面から国道252号を峠方向に走って来ると、側らに絶えず只見川が寄り添う。その本流を堰き止めたダムが所々にあり、川幅はいつも広い。国道は金山町で本名ダム(ほんな)の堰堤を渡るが、その手前を右に塩ノ倉峠(しおのくら)への峠道が分岐している。塩ノ倉峠はこちらの立派な国道と違い、長い未舗装林道の峠道だ。
 
 この付近から先の国道は、道は快適だし交通量もほどほどで、とても走り易い。しかし、沿道になかなか立ち寄る場所がない。ある時、昼食を摂ろうと車を停める場所を探したが、なかなか見付からない。滝ダムに良い所がないかと思ったが、そのダムには車を停められるようなスペースがなかった。もう金山町を抜けて只見町に入ると言う所に来て、やっと道の左手に僅かな休憩場所が見付かった。車が2、3台停まれば一杯となる小さなスペースだ。しかし、周りには花壇が設えてあり、季節には小さな花が色とりどりの花を咲かせている。道の駅の様な大規模な施設でなくても、こうした場所があるとありがたい。いつもの様にカセットコンロを出し、即席麺の昼食をする。国道の直ぐ脇なので、やや人目が気になるが、われわれ夫婦はもう慣れっこだ。木々の間からゆっくりと只見川が眺められる。国道を峠方向に見ると直ぐそばに橋が架かり、その手前に「只見町」と看板が立ち、金山町と只見町の境に居ることが分った。
 
 
河井継之助のこと(余談)
 
 只見町に入ってからも、快適な2車線路が続く。滝ダムによって川幅が広くなった只見川が道に沿い、広々とした感じを受ける。
 
 2007年10月に峠を目指していた時、この只見町でどうしても寄りたい場所が一箇所あった。只見町に入って2、3Kmほど行くと只見川の支流・塩沢川を渡る。この付近の地名も塩沢と言う。右手にはJR只見線の鉄橋も架かっている。その橋を渡った所に、目的の場所を示す看板が、控えめに立っていた。
 
 随分前のこと、司馬遼太郎の「峠」という本を読んだ。それまで司馬遼太郎の本は一度も読んだことがなく、その本が歴史小説だということも知らず、そこに登場する主人公の河井継之助(かわいつぐのすけ、つぎのすけ)が如何なる人物か歴史的知識もなく、ただただ表題が「峠」であったというだけの理由で、たまたま見掛けた市立図書館の本棚から手に取ったのだった。

快適な2車線路が続く (撮影 2007.10.18)
左手に只見川が寄り添う
正面にとんがって見えるのは蒲生岳か?
 
 河井継之助は越後長岡藩の上席家老で、明治維新の会津戊辰戦争の折、軍事総督として藩を率いて官軍と戦った人物だ。当初は官軍に組することなく、さりとて明確に幕府側に付いて官軍に対抗することも避け、あくまで長岡藩として独立した中立的な立場で戦を回避しようと模索した。しかし、結局は強引な官軍との大戦に突入し、長岡藩は大敗に帰した。河井継之助も大怪我を負い、幕府方の会津藩を頼って落ち延びた時に越えたのが先の八十里越である。
 
 険しい峠越え終え、塩沢村(現只見町内)の民家に投宿した継之助であったが、受けた傷は深く明治元年(1868年)8月16日にその地で亡くなっている。現在、その場に河井継之助記念館なるものが建ち、継之助が終焉を迎えた部屋が保存されているというのを後になって知った。これは是非にでも訪れてみたい。
 

峠方向を背に只見線と国道を見る (撮影 2007.10.18)
橋の袂の小さな空き地にキャミを停めた
線路の上をトラックが走り去って行った
 塩沢川の橋を渡ると、その袂の車道と鉄路の間に僅かな空き地があり、そこに車を停めた。そこから歩いて遮断機もない小さな踏切を渡って、更に一段上の狭い車道に出る。国道からはその記念館が見えず、どこにあるのかなと辺りを窺っていると、直ぐ脇に通る単線の只見線上を1台のトラックが会津方面へと通り過ぎて行った。荷台にはいろいろな機材が積まれ、作業員も4人ほど乗っていた。単なる移動中らしく、作業員はのんびりと只見川の景色などを眺めている。
 
 線路を走れるように改造された保線用の車らしい。話には聞いていたが、偶然にもこうして目の前に見ることができた。これまで国道252号を走っていても、本数の少ない只見線の列車が走っているところは全く見たことがない。代わりに保線車両を見ることとなったのだった。
 
 肝心の記念館は、民家の間を少し入った奥に見付かった。ところが何と言うことか、記念館の入口は固く閉ざされていた。毎週木曜日が休館日となっているらしく、運の悪いことにその木曜日に当たってしまったらしい。恨めしくガラス窓に顔を付けて、ガラス越しに館内を覗くと、ちっちゃな藁葺(茅葺?)屋根の家屋の一部があり、戸を引き放たれた畳敷きの部屋が見えた。数年前になると思うが、中村勘三郎主役で小説「峠」がドラマ化された。これも残念ながらその最後の方しか見ることができなかったが、中村勘三郎演じる継之助が、ドラマセットの部屋で息を引き取るシーンがあったと思う。それを思い出していた。尚、河井継之助記念館は地元の長岡にも大きな物があるようだが、こちらは只見町にあるこじんまりした記念館だ。
 
 記念館の裏手の方、塩沢川に近い辺りに医王寺という小さな寺があり、その奥に河井継之助の墓がある。村人達によって遺骨の一部が手厚く葬られているとのこと。官軍の敵となる長岡藩士をかくまったのだから、当時の村人達はそれなりの覚悟が必要だったことだろう。継之助の墓をお参りしようと思ったが、大きな蜂がブンブン飛んでいて、墓に近付くことができなかった。車への帰りは、塩沢川の右岸沿いの道に出て国道まで戻った。

民家の奥に河井継之助記念館 (撮影 2007.10.18)
ところが閉まっていた
 
 「峠」という小説は、結局作者は何を意図してこうした題名としたのかも分らずじまいだった。八十里越以外に話の中で出て来る具体的な峠としては、長岡と江戸を結ぶ三国街道の三国峠が少し関わるくらいであろうか。題名の「峠」は実在する特定な峠を指していないらしい。峠が趣味なので、ちょっと読んでみようかと図書館で借りた本だったが、元々学生時代は歴史が大の苦手で日本史など全く関心がなかったわたしが、河井継之助の後半生を描いた小説など、何の興味も持つ筈がなかった。
 
 ところが今では、時代劇小説などは好んで読んでいる。司馬遼太郎も好きな作家の一人となった。NHKの大河ドラマもここ何年も欠かしたことがない。今年は「江(ごう)」が既に終わり、それに続いて年末だけ放送している「坂の上の雲」を毎週楽しみにしている。そう言えば、こちらも司馬遼太郎の作だった。見たことがない古い大河ドラマはDVDを借りてきて見ている。今は真田太平記(全12巻)の第8巻まで見終わった。真田(さなだ)と言えば徳川軍を相手に2度打ち負かし、大坂冬の陣で最期を遂げた武将・真田幸村(ゆきむら)が有名だが、わたしはその兄・信幸(のぶゆき、後の信之)の方に魅かれる。大坂冬の陣の後、名実共に徳川の天下となった時代にあって、信之は辛抱を重ねて真田家を存続し、90代の天寿を全うしている。正しく歴史は人間ドラマであり、そこが魅力と思うのであった。
 
 
塩沢から先
 

塩沢を後に国道を峠方向に進む (撮影 2007.10.18)
 河井継之助記念館がある塩沢を後に国道を峠方向に進む。直ぐに只見線の塩沢駅を過ぎる。次に八十里越への起点となる叶津を通る。ここからは八十里越の途中まで進む国道289号が分岐するが、まだ一度も入り込んだことがない。旧下田村側からは国道289号や守門川沿いの県道183号を車で行ける所まで行ったことがあるが、鞍掛峠までにも程遠い位置までしか行けなかった。八十里越は牛馬も越えた峠と言うから、それなりに広い道が開削されていたのだろう。是非行ってみたいものだ。
 
 道は間もなく福島県側の峠道の起点ともなる只見町の只見に入る。ここはこれまで何度となく訪れた地であるが、市街の様子の記憶はほとんど無い。町役場もある只見町の中心地なのだが、あまり賑わっていたという印象が無く、どちらかと言うとそれと気付かず通り過ぎていたようだ。今度行ったらしっかり町の写真を撮っておこうと思う。
 
 
田子倉湖
 
 六十里越の峠越えの時には必ずと言って良いほど立寄るのが田子倉湖だ。国道の直ぐ脇に無料の比較的大きな駐車場があり、立寄り易い。現在の六十里越の福島県側起点は、只見ではなく、この田子倉湖の駐車場と言っていい。トイレや売店、湖を見渡す展望台もあって、旅の途中の休憩には持って来いである。
 
 田子倉湖は只見川本流を田子倉ダムで堰き止めた人造湖だ。湖には幾つもの大きな支流が流れ込み、湖の形は複雑である。国道は田子倉湖の北岸をかすめて進み、そのまま西の県境を越えるが、田子倉湖上流の只見川は尚も南に遡り、その奥には奥只見湖がある。その奥只見湖も複雑な形をしている。そう言えば田子倉ダムと奥只見ダムも似た様な形をしたダムだった。
 
 時々地図上で、田子倉湖と奥只見湖を混同することがある。奥只見湖の南岸沿いには国道352号が通るが、そちらも小出の方を起点に新潟・福島の県境を越えている道だ。旅が終わったずっと後になって、国道252号を通ったのか、それとも国道352号だったか、記憶が曖昧になったりする。国道352号の方には枝折峠(しおり)がある。但し県境ではない。

田子倉湖の駐車場 (撮影 2004. 8.13)
この先に国道が通る
この背後は湖
 

田子倉ダム (撮影 1997. 8.14)

田子倉ダム (撮影 2004. 8.13)
 

この時は駐車場などが工事中だった (撮影 2007.10.18)
 奥只見湖から更に上流の只見川は、福島と新潟の県境を進み、その源流は群馬県との境にある尾瀬ヶ原近辺のようである。湖の形状と同様、只見川の上流域は地形が複雑で、県境も把握しにくい。しかし、奥只見湖近辺などは、旅には欠かせない地だ。唯一尾瀬ヶ原に行ったことが無いのが悔やまれる。あそこには歩いてしか行かれないのだった。
 
 田子倉ダム近くから眺める田子倉湖は、複雑な形からその一部にしか目が届かないが、湖面からにょきにょきと山がそそり立つ景観は、やはりどこか異常な感じを受ける。人工的に谷を水で埋め尽くしたという感じがしないでもない。
 
 探してみると、これまで3度に渡って田子倉湖のパノラマ写真を撮っていた。画像のトリミングなどして写真のつなぎ目を目立たないように工夫してみたが、時間ばかり掛かり、労多くして何とやらだ。折角だから以下に掲載はしてみるが。
 
田子倉湖 (撮影 2007.10.18)
 
田子倉湖 (撮影 2004. 8.13)
 
田子倉湖 (撮影 1997. 8.14)
 
 
田子倉ダムから先
 

田子倉駅 (撮影 2007.10.18)
 田子倉ダムから先の国道は、ほぼ湖の西岸に沿って幾つかの小さなトンネルを抜けつつ西へと進む。すると、道路の側らにみすぼらしい掘っ立て小屋があると思ったら、そこは只見線の田子倉駅であった。只見駅を過ぎた只見線は、一旦長い田子倉トンネルに入り、国道からは見えなくなるが、この田子倉駅の付近でまた少し地上に顔を出す。
 
 それにしても、ところどころ錆びた波板の鋼板に囲われ、道路に面して小さな通用口が一つ開いているだけの田子倉駅は、「田子倉駅」と書かれた看板が掛かってなければ、どう見ても古ぼけた倉庫にしか見えないのであった。駅のホームには急な階段を下って行く。上越線の土合駅(どあい)の小型版といったところか。ある意味、一見の価値がある。冬期は閉鎖される臨時駅だそうだが、果して利用客は居るのだろうか。
 
 田子倉駅を過ぎた国道は、直後に田子倉湖に流れ込む支流の只見沢を只見沢橋で渡る。この付近から徐々に本格的な登りとなる。振り返ると只見沢方向に伸びてきている田子倉湖の尻尾が迫ってきていた。その脇を只見線の単線が通じている。

只見沢方向に伸びた田子倉湖 (撮影 2007.10.18)
見え難いが、屋根の向こうに只見線の鉄路が見える
 

只見沢の上流方向 (撮影 2007.10.18)
前方の山肌に只見線の六十里越トンネルの坑口が見える
 只見沢橋の手前を国道から分かれて上流方向に狭い道が一本分岐する。脇に浅草岳登山口と書かれた看板が立つ。浅草岳は県境を成す越後山脈にあって、1585mの高峰だ。六十里越はその南鞍部に位置しする。八十里越は浅草岳より更に北にある。
 
 只見沢の上流方向を見ると、只見線が川の右岸の山肌に口を開けたトンネルに消えて行く。田子倉駅付近で少し顔を出した只見線が、県境を越える長い六十里越トンネルに入って行くのだ。トンネル長さは6,359mとのこと。昭和45年9月、延べ25万人の労力を投じて開通したそうだ。このトンネル完成により、翌昭和46年8月、只見線は全線開通の運びとなった。
 
 
開通記念碑
 
 只見沢橋を過ぎると、カーブも多く運転に忙しくなる。湖の景色など堪能する暇はない。峠まで7割がた登って来た所に、開通記念碑が立ち、その道路脇に車を停められる僅かなスペースがある。開通記念碑の裏手はちょっとした展望台になっていて、そこから複雑に蛇行する田子倉湖の上流部が見下ろせる。
 
 この先、福島県側に広がる景色を眺める適当な場所はなく、トンネル手前からはスノーシェッド(覆道)となって車を停めることさえできない。福島県側ではこの開通記念碑に立寄るのがお勧めだ。

道路脇に開通記念碑が立つ (撮影 2007.10.18)
 
記念碑の展望台から湖を眺める (撮影 2007.10.18)
 
記念碑の展望台から湖を眺める (撮影 1997. 8.14)
 

開通記念碑 (撮影 2007.10.18)

開通記念碑 (撮影 1997. 8.14)
 

記念碑の裏 (撮影 2007.10.18)
 開通記念碑の表には、「会越の窓開く 六十里越峠開通記念碑 昭和48年9月」と言う文字と共に、新潟県出身の時の内閣総理大臣の名が刻まれている。碑文はその人物の書によるものか。
 
 この記念碑では峠を「六十里越」と書いているのが目に付く。道の開通ではなく、峠の開通としているのも面白い。
 
 記念碑の裏には、「昭和48年9月11日建立 小出只見線全通期成同盟会」とある。文献によると、その記念碑建立の日に、国道252号の開通式が挙行されたそうだ。柏崎から十日町、小出、只見、柳津、会津若松と結ぶ国道の全線開通である。
 
 国道の六十里越トンネルの開通は、昭和41年3月だそうだ。只見線のトンネル(昭和45年9月)より早いが、全線開通は只見線(昭和46年8月)の方が早かったことになる。
 
 道路のトンネルは長さ710mで、鉄路のそれ(6,359m)より遥かに短い。決定的な違いは、鉄路は冬期も通すが、道路の方は半年近くも冬期閉鎖となることだ。
 
 開通記念碑からの眺望は、28mm以上の広角カメラでも1枚には到底入らないので、どうしても複数枚のパノラマ写真となる。撮るのは簡単だが、後の処理は厄介だ。繋げるのに苦労したので、あまり面白くも何ともないが、以下に掲載する。
 
開通記念碑からの眺望 (撮影 2007.10.18)
(苦労して繋げたパノラマ写真)
 
開通記念碑からの眺望 (撮影 2004. 8.13)
 
開通記念碑からの眺望 (撮影 2004. 8.13)
(上の写真から続いている)
 
 
開通記念碑以降
 

峠方向を望む (撮影 1997. 8.14)
前方の峰の鞍部は峠?
 開通記念碑を過ぎると、道の様相はいよいよ厳しくなる。峠方向を望むと、稜線の峰に僅かな鞍部が見える。そこが峠だろう。トンネルはそのほぼ真下を貫通している。
 
 道は一路、赤柴沢の源頭部を目指して北へ向かう。上流部の奥まった所からスノーシェッドが始まる。こうなるともうトンネルに入ったも同然で、景色は見られないわ、暗くて写真は写らないわ、立ち止まることもできないわで、どうにもならない。スノーシェッドは1Km近くも続いているだろうか。この地が雪深いことの象徴である。スノーシェッドが終わると、道はそのまま六十里越トンネルへと入って行く。
 
この先、スノーシェッドが続く (撮影 2007.10.18)
険しい道の景観だ
 
スノーシェッド前の峠道の様子(撮影 2004. 8.13)
 
スノーシェッド前の峠道の様子 (撮影 2004. 8.13)
田子倉湖方向に見る
 
 
峠の福島県側
 
 と言う訳で、国道の六十里越の福島県側を写真に収めることは難しい。新潟県側から福島県側にトンネルを抜けた折、トンネル出口付近で写した写真が一枚だけあった。それが右の写真だ。これが六十里越の福島県側と言うことになる。
 
 六十里越の道は、雪深い県境を越える長大な峠道だが、今ひとつ好きになれないところがある。その理由の一つが、福島県側に峠としての「顔」がないからだ。峠はトンネルでない方が良いが、トンネルであってもその坑口なりの顔を持つ。それが峠としてのイメージともなる。ところが六十里越は、長いスノーシェッドに続いてそのままトンネルに入るので、坑口らしい坑口になっていない。
 
 また、坑口の前に立ち止まり、坑口やその上にそびえる峰の鞍部なりがじっくり眺められれば、それはそれなりの峠の「顔」になる。しかし、六十里越トンネルの福島県側坑口では、車で立ち止まることは許されない。これでは顔なしの峠になってしまう。
 
 六十里越の道は、長く続くスノーシェッドの様子など、なかなか壮観で面白い峠道なのだが、肝心の峠があまり好きになれない。それでこれまで掲載が遅れたという次第だ。

多分、トンネルを福島県側に出た所 (撮影 2004. 8.13)
この時はところどころで工事があった
 
 
峠の新潟県側
 

六十里越トンネルの新潟県側 (撮影 2004. 8.13)
トンネル手前にはまだ「ようこそ 福島県」の看板はない 
 証明は灯っているもののやや暗い長さ710mの六十里越トンネルを抜けると、新潟県側の坑口前に開けた広場が出迎えてくれる。そこの景観が国道の六十里越の峠を代表する「顔」となる。車はその周辺のどこでもゆったり停められるし、辺りをのんびり散策できるし、六十里越の峠道ではこの場所が最も好きだ。
 
 福島県側は足下に田子倉湖を見下ろし、崖にへばりついた道に長く続くスノーシェッドが如何にも険しい様相を呈する。代わってこちらの新潟県側は、山懐に抱かれた落ち着いた雰囲気がある。峠を挟んだ越後山脈のそれぞれの顔である。
 
 トンネル坑口の上方を眺めると、それ程高くない所に峰の鞍部がありそうだ。そこにある筈の古い六十里越の標高は863mで、トンネルの標高が760mだから、その差約100m。一度登ってみたいものだ。
 
 トンネル手前に建つカマボコ屋根は、変電設備らしい。トンネルの照明関係だろうか。小屋の前に最近では珍しくなった電話ボックスがある。いまだに現役だろうか。この付近では携帯電話は圏外なのかも知れない。
 

トンネルを背に新潟県側を見る (撮影 2007.10.18)
左の柱に掛かる国道標識の下には「六十里越」とある
県境を示す大きな看板は、「新潟県魚沼市」になっている

トンネルを背に新潟県側を見る (撮影 2004. 8.13)
この時の県境看板はまだ「入広瀬村」だった
 

峠に立つ国道標識と峠の看板 (撮影 2007.10.18)

峠に立つ県境を示す看板 (撮影 2007.10.18)
入広瀬村から魚沼市に変わっている
 

「緑の回廊」の案内看板 (撮影 2004. 8.13)
(画像をクリックすると地図の拡大画像がご覧頂けます)
 峠には新潟県を示す大きな県境看板が掲げられていたり、国道標識があったり、「六十里越」と書かれた看板もある。「緑の回廊 越後線」と書かれた看板なども、しげしげと眺める。そこには地図の掲載もあるが、あまりにも広域過ぎて、道の参考にはならなかった(左の写真)。
 
 旧峠へは、トンネル坑口に向かって右側がなだらかになっていたので、そこから登れそうにも思えたが、後から調べると、少し国道を下った所の北側から、峠を越える山道があるようだ。
 
 近世の六十里越(旧峠)は、越後と会津地方を結ぶ峠道として、往来は賑わったそうだ。越後からは小間物、日用雑貨、綿布などが会津地方にもたらされた。また会津からは山菜、青苧(あおそ、布の原料とするらしい)、蚕種(さんしゅ、蚕の卵)などが越後へと運ばれた。こうして昭和初期まで六十里越は重要な生活路として使われたそうだ。
 
 河井継之助が明治元年に越えたのは八十里越で、六十里越より北に位置する八十里越の方が、長岡から会津へ行くには地理的に近かったと思う。また、その頃には牛馬道が切開かれて、八十里越の方が栄えた道だったのかもしれない。
 
 一方、六十里越は昭和初期まで現役だったとのことで、それまで八十里越も使われていたのだろうか。六十里越と八十里越の関係は如何に。とにかく、最終的には六十里越の方が先にトンネルが穿たれ車道が通じることとなった。八十里越の国道289号が開通する日は果して来るのだろうか。
 
 
峠を新潟県側に下る
 
 峠の新潟県側の道は、幅が広くセンターラインもしっかりあって、比較的ゆったりしている。福島県側に比べ、地形が穏やかだからであろうか。末沢川の上流域を成す沢の一つに沿って道は下って行く。概ね谷は道の左手にある。
 
 ここから、途中旧入広瀬村の市街を経て、小出まで至るには約38Kmの長い道程である。国道らしく道は終始快適だが、何の目的もなくここを走り通すのは、並大抵の忍耐強さでは努まらない。東北地方の旅をした最終日に、六十里越を越えて東京方面に帰ったことがある。小出から更に関越自動車道に乗って三国山脈を関越トンネルで越え、広い関東平野へと入って行くのだが、そんなことを六十里越の峠を下っている最中に考えると、もう気が遠くなりそうであった。
 
 東京の都心方向から東北方面へ旅をするには、東北自動車道を使うのが普通だが、ちょっと趣向を凝らしたところで、この六十里越を使う手がある。都心から関越自動車道、六十里越、会津若松と走って、更にその先の東北方面へと旅を続けるのだ。いわば六十里越を東北への旅の玄関口とする訳である。その逆に帰路としても使う。しかし、2、3回もすれば、うんざりであろう。

峠を新潟県側に下る道 (撮影 2007.10.18)
峠から快適な道が続く
 
 福島県側より穏やかと言っても、そこは名だたる峠道のこと、峠直下には直ぐにも九十九折が現れる。開けた谷間を豪快なヘアピンカーブで一気に下って行く。岩肌が荒々しく露出し尖った山容が目立つ山は裸山だろうか。道の北側にそびえる。
 

峠直下の九十九折 (撮影 2007.10.18)
正面に見えているのは裸山?

左と同じ山を見る (撮影 2004. 8.13)
峠への登りの途中で、九十九折に差し掛かる付近
 

只見線と寄り添う (撮影 2007.10.18)

只見線と寄り添う (撮影 2007.10.18)
大白川の少し手前付近
 

峠道の様子 (撮影 2004. 8.13)
峠方向を見る
 峠道らしいカーブが続いた後、いくつもの支流の沢を集めて流れる末沢川の本流の谷に降り立つ。比較的直線的な谷間が続く。いつの間にやら、鉄路の六十里越トンネルを抜けて来た只見線の線路が道に寄り添う。これから暫く国道252号とJR只見線は、右になったり左になったりしながらも、旅のお供となる。
 
 六十里越の新潟県側の起点ともなる大白川を過ぎるが、正直言って何の記憶もない。道路脇に只見線の新潟県側最初の駅、大白川駅がある筈だが、その付近に大きな集落はなかったと思う。
 
 ここより道は本流の破間川(あぶるま)に沿うようになる。破間川の上流域にある田代平は、古い八十里越の道が通る地だ。そちら方向に向かって県道385号が分岐している。その道は走ったことがない。沿道には国民宿舎もあるようで、東北地方の旅の玄関口と言わず、一度じっくりこの地を探訪してみても良いと思う。
 
 
入広瀬以降
 
 国道は入広瀬の市街地へと入って行く。六十里越の新潟県側では、最初に町らしい町だ。しかし、役場や入広瀬駅のある中心街は国道の北側、やや離れた位置にあり、国道沿いにあまり賑わった雰囲気はない。
 
 この旧入広瀬村では、市街を右往左往、さまよったことがある。野宿地を探して苦労したのだ(野宿の実例32)。5月初旬でも、あちこちに雪が見られ、まだまだ「春は遠い」といった感じであった。 

入広瀬の市街地付近 (撮影 2007.10.18)
 

池ノ峠 (撮影 2005. 5. 5)
奥が入広瀬、手前が守門
左手に道の駅「いりひろせ」が隣接する
 入広瀬の市街を過ぎると、国道は旧入広瀬村から旧守門村(すもんむら)に入る。その境は池ノ峠と呼ばれる僅かな起伏がある峠である。峠の北側に鏡池(鏡ヶ池)という比較的大きな池がある。そこは元々「鏡ヶ池公園」として、池の周囲などが散策できるちょっとしたレクリエーション施設であった。最近は道の駅「いりひろせ」となったらしい。
 
 六十里越を挟む国道252号線は、長い割には沿道に適当な休憩場所が少ない。福島県側では田子倉湖のダムサイト、新潟県側ではこの道の駅「いりひろせ」だろうか。どちらも広い駐車場とトイレや売店などの設備が整っている。国道からの出入りも容易だ。
 
 池ノ峠を過ぎた先で、北の栃尾市から石峠(石峠トンネル)を越えて来た国道290号が合流する。2005年の5月5日に、その前年に発生した地震の爪痕を色濃く残す国道290号をやって来て国道252号に入った。すると「R252六十里越峠 冬期閉鎖中!!」と目の前に出ていた。もう5月に入り、ゴールデンウィークの連休中でもあるのだから、六十里越は越えられるかもと思ったが、やはり甘かった。六十里越を越えるかどうかで、旅の行先は全く違ってしまう。しかし、わたしの旅はいつも勝手気ままなものなので、大した支障はない。東に行けなければ、西に行くまでだ。

国道290号から252号に入った所 (撮影 2005. 5. 5)
国道252号上を峠方向に見る
 

冬期閉鎖の電光掲示板 (撮影 2005. 5. 5)
峠の名前が「六十里越」となっている

行先看板 (撮影 2005. 5. 5)
 

渋川の交差点 (撮影 2007.10.18)
右方向に国道290号が分岐する
 国道290号を右に分け、国道252号は峠道の終点とも言える小出を目指す。あと15Km程だ。周囲はだんだん町中らしくなって行く。
 
 小出が近付くに連れ、やや憂鬱だ。峠の旅が終わってしまうからなどではなく、大幹線路である国道17号と交じり合う付近が複雑だからだ。六十里越前後の寂しい一本道を、他の車のことなど全く気にする必要もなく、気ままに走っているのとは訳が違う。
 
 峠道などを走っている時のわたしの車のスピードは、自然と遅くなっている。それが賑やかな町中に戻って来ると、他の車のスピードが速いことに戸惑う。わたしの車には直ぐに後続車がくっついて離れない。後続車に急き立てられながら、小出ICまでの経路を必至に探す。国道252号と17号は立体交差していて、17号に乗りそこなってしまった。行きたくもない小出市街に突っ込み、やっとの思いで17号に生還。どうにか小出ICから関越自動車道に乗る。峠越えより、よっぽどこちらの方が険しいのだった。
 
 
  
 
 六十里越は、福島県側で峠としてのイメージが乏しく、峠としては今ひとつ好きになれない。しかし、長い冬期閉鎖がある豪雪地帯を、長大で険しい県境越の道が続いている。新潟と会津若松という遠く離れた両地を結び、旅を感じさせる峠道である。
 
 余談だが、掲載した峠をあいうえお順に峠リストで一覧表にしているが、今回、六十里越を載せて「ろ」で始まる峠が初めて追加されたことになる。六十里越を選んだのは、そんな意味もあった。少し前には猫峠(ねこ)で「ね」で始まる欄が埋まり、これで残りは、え、そ、へ、め、ら、る、れ(但し、濁音と半濁音は除く)の7つである。何かいい峠はないものかと思う。
 
 それにしても、河井継之助資料館では残念なことをした。その資料館を見に行く為にだけ越えるには、あまりにも長く険しい六十里越であった。
 
  
 
<走行日>
・1997. 8.14 福島県→新潟県(ジムニー)
・2004. 8.14 新潟県→福島県(ジムニー)
・2005. 5. 5 新潟県旧入広瀬村に行くも峠は冬期通行止(キャミ)
・2007.10.18 福島県→新潟県(キャミ)
(その他、日付不明)
 
<参考資料>
・ツーリングマップル 2 東北 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 3 関東 1997年3月発行 昭文社
・WideMap 関東甲信越 (1991年頃の発行) エスコート
・大きな字の地図 新潟県 2001年4月発行 人文社
・福島県 広域道路地図 1996年7月発行 人文社
・国土地理院発行 2万5千分1地形図 毛猛山
・角川日本地名大辞典  7 福島県 昭和56年3月8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典 15 新潟県 1989年10月8日発行 角川書店
 
<Copyright 蓑上誠一>
  
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