サラリーマン野宿旅
10年前の野宿旅 (その5)
旅の5日目
 
 
 
 
 
 1993年3月28日。林道脇の野宿は、クマに襲われるなどということもなく、無事に夜が明けた。ただ、夜半からシトシト降り始めた雨で、テントはびっしょりである。テントを張った土の露出した地面はドロドロにぬかるみ、大きな水溜りもできて、テントの撤収作業は厄介なものになりそうだった。
 
 いつもの即席ラーメンの朝食をする。日も差さぬ寒い朝に、温かいラーメンはうってつけである。アルミ製の片手鍋のまま麺をズルズルすすり、スープも最後の一滴まで飲み干す。
 
 どうもこの分では、今日一日中、生憎の天候になりそうだ。しかし、新しい会社に勤め始めるまで残すところあと4日。悔いのないように旅を楽しまなければ。泥で汚れたテントを丸めて車に放り込み、早々に出発することにした。
 
 
   昨夜の野宿地は奈良県の十津川村で、下北山村との境に近く、林道が国道425号と合流する地点なのだが、今朝になってもその国道を通る車は一台も見掛けない。周囲を見回せば、人里遥かに離れた山の中。何とも寂しい場所という雰囲気である。
 
 その野宿から1年半後に、今度は下北山村からそのまま国道425号を走って十津川村へと抜けた。村境の白谷トンネル前後の道は、さながら林道と変わらぬ狭さであった。国道といえども、これでは交通量など少ない筈である。
 
 通りがけ、以前の野宿地に立ち寄ってみた。未舗装の林道と空き地との境が、ほとんど見分けのつかないような場所だった。空き地のほぼ中央に、ぽつんと一本の木が立ち、その脇に「白谷山国有林」と書かれた看板がある。それで辛うじてそこが車道でないことを示しているような場所だった。
 
 林道脇の野宿地
1年半後に訪れた時に撮影
 
 野宿地を出発し、そぼ降る雨の中、国道425号をひたすら南下する。すると、どこまで行っても寂しい道である。紀伊半島もちょっと内陸に入り込むと、もう山また山であることを実感させられた。ここには「暖かい南紀」のかけらも見当たらない。  
 
   途中、国道をそれて葛川トンネルを抜け、葛川沿いの道を進む。別に、どこをどう通ろうという積りもない。ただ、南へ向かいたいだけで、入り込んだまでの道だ。寂しい上に、やたらと狭い道となった。
 
 出たところは上瀞だ。「瀞(どろ)」は北山川の景勝地である。川底を眺めると、遊覧船の発着場があった。以前、車の免許も持たない頃、この南紀を訪れたことがある。その時、その観光船にも乗った。1週間から10日分の旅の荷物を詰めた重いカバンを肩に掛け、電車やバスを乗り継いで一人で旅をして回っていた二十歳代の頃だ。折角来たのだからと乗った観光船だったが、家族や友人同士で楽しんでいる観光客に混じり、ぽつんと一人、船から眺める川の景色は楽しかったのだろうか。
 
上瀞 
観光船の発着場
 
 その後、バイクや車の免許をとり、今の様な野宿旅をするとは、当時は思ってもみなかった。一人でバイクに跨り、車を運転しているのは、何て気楽なことか。しかし、もう重い荷物を持って歩き回れるだけの体力はなく、また一人で遊覧船などに乗る勇気もなくしてしまった。  
 
   北山川の流れるこの付近は、奈良と三重、和歌山の県境が複雑に入り組むところである。川は蛇行し地形も険しい。そこを通る道も然り。169号とか311号などと国道番号が一応ついているが、一瞬たじろいでしまう程狭い道である。
 
 狭い国道
後年、訪れたときの写真 (撮影 2002. 1. 6)
奈良県十津川村竹筒の国道分岐
左は国道169号(北山・瀞)、右は国道311号(熊野・紀和)
どちらに進むも、一瞬たじろいでしまう狭さだ
 
 漫然と行き先定めぬ旅ではあるが、それなりの指標もあることはある。それは林道を走ることだ。どうせ寂しい一人旅ならば、徹底的に寂しい方がいい。狭い国道で対向車に悩まされるより、誰も来ない未舗装林道を悠然と進む方がましというものだ。
 
 という訳で、熊野川町で和田川松根線という林道に入った。この道はひたすら南へと向かっているのも好ましい。林道はトンネルで古座川町へと無事に抜けた。調子付いて、今度は古座川町と日置川町を繋ぐ林道・将軍川線へと進路をとった。
 
 
和田川松根林道 
この先トンネルを抜けて古座川町に入る
 
   今はどうなっているか分からないが、この林道は当時のツーリングマップ(昭文社1989年7月発行)では、か細い一本線で描かれた道だった。やや不安ながらもジムニーを走らせる。折しも、今朝から降り続いていた雨が一段と強さを増してきた。まだ日が暮れるには早いが、霧も出てきて辺りは薄暗い。滅多に点けないフォグランプのスイッチを入れた。対向車など来る気配がないので、フォグランプの実質的な意味はない。しかし、この心細さをライトの明かりが少しは和らげてくれるような気がした。
 
 小さな峠を越えて日置川町へと入った。通り抜けられるか気になっていたが、峠まで来れれば何となく大丈夫という思いがした。しかし、道は峠の下りで一挙に荒れた。角のとがった石が路面にゴロゴロしている。ちょっと尋常ではない。もう道の体裁を失いかけていた。慎重の上にも慎重に進む。
 
 フォグランプを点ける
ここは古座川町と日置川町との境の峠
 
 元々気弱で、「冒険」などとは無縁の人間である。ただの険しい林道を車で走ることなど、「冒険」などとは到底言えないが、それでも本人は命がけの心境だ。人里離れた山の中にたった一人でいる。そう思うだけでも、恐ろしくいなってくる。
 
 大粒の雨が打ちつけるフロントガラス越しに必死の形相で道の先を凝視していると、前方の様子が何やらおかしい。近づいてみるとやはり小規模な土砂崩れが起きていた。歩けば何でもない土砂の山を、4WDのジムニーといえども車では越すに越されない。仕方ないので引き返しとなった。狭い路肩に窮屈な思いをしながら、車の向きを元来た方へと変える。
 
 
土砂崩れで通行不能 
 
   来る途中、通行止を示す看板はなく、あの土砂崩れは比較的新しいものかもしれない。すると、こんなに雨が降り続くのでは、今後も土砂崩れが起きる可能性がある。道は一本道で、迂回路がない。もし退路を閉ざされては一大事。気弱な上、ちょっと頭が働くので、余計な心配で悩むことになる。ついつい車の速度が上がる。来る途中、路面状態をしっかり見て覚えていたので、それも油断になった。
 
 気が付くとハンドルが取られる。どうも路面の轍のせいではなさそうだ。車を停め、雨の中に出る。やっぱりだ。左前輪がやられていた。タイヤの側面がバックリ裂けている。鋭く尖った石を蹴散らして、無理に走り過ぎた。もっとコース取りを慎重にすべきだったのだ。側面の亀裂では瞬間パンク修理材による応急処置も施せない。こんな坂道の不安定な場所で、タイヤ交換を強いられることになった。
 
 しかし、ここで落ち着かなくてはいけない。そう自分に言い聞かせる。土砂崩れにパンクにと、不測の事態が続いたこんな時こそ、慎重な行動が要求されるというものだ。こういうところで頭が働くのはいいことである。
 
 まず、なるべく安定した路面を求めて車をゆっくり進める。次にビニール合羽の上下を着込み、フードをかぶり、軍手をはめ、その上にビニール手袋と、重装備に身を包む。普段から用意周到である。それからおもむろに外に出て、タイヤ交換作業を始める。日頃、車の整備はできる限り自分でしているので、ジャッキアップなどは手馴れてたものだ。その上、僅かながらも傾斜地なので、石で輪止めをするという念の入れようである。過ちなど犯しようがない。無事にタイヤ交換を済まし、輪止めの石を取り除くことも忘れず、車内へと戻る。しかし、ビニール合羽は蒸れて、体は汗びっしょりである。これでは雨に濡れた方がまだましだったかもしれない。
 
 
   土砂崩れやパンクにもめげず、今度はすさみ町から暗いダートの宮城川林道で日置川町へと再び入った。ただ、さすがに気疲れしたし、この雨では野宿の気分ではない。手近な都市はとツールングマップを見れば、日置川町と同じページに田辺市があった。宿泊情報(JTB)をめくると、数軒のホテルや旅館の掲載があり、値段もそれ程高くない。今夜はここにしよう。
 
 田辺市街に近づいてから、電話ボックスを見つけて予約の電話を入れた。勿論、一番安い「花屋」というビジネスホテルである。日曜の夜ということもあってか、一発で宿が決まった。JR紀伊田辺駅から至近とのこと。見つけやすそうなのもよかった。
 
 田辺市のホテル花屋
1993年3月28日泊
 
 宿代は宿泊情報に5,000円とあったのに対し、実際は5,500円だったが、まあまあリーズナブルである。時間がまだ早いので、デイパックを肩に掛けた軽装で、歩いて数分の距離にある紀伊田辺駅やその周辺の散策へと出掛けた。田辺市に宿泊するのは初めてのことで、側らを車やバイクで通り過ぎることはあっても、町の様子をつぶさに見る機会はこれまでなかった。宿に着いた後、こうして時間に余裕があるときは、宿の近くを歩き回ることにしている。これも旅の一つと言えば言えないこともない。
 
 見知らぬ町中を何の目的もなく、ただきょろきょろ見て回っていると、繁華街や商店街、家並などの様子は、自分には全くよそよそしいものだと思えてくる。これが、林道を走って眺める山々の景色なら、自然の脅威を感じはするが、一種の冷たさのようなものを味わうことはない。この土地では、やっぱり自分は他国者だという思いがしてくる。その感触を味わうのがまた好きで、町をぶらつくのだ。
 
 
   今では、田辺駅の記憶などほとんどないが、多分、どこにでもある旧国鉄の駅で、その周辺の町並みと同様、取り立てて変わった様子はなかったのだと思う。
 
 こうした同じような町の営みが、この日本の中にどれだけあることだろうか。そして、その町その町で、人はちゃんと暮らしている。それが不思議でならない。工場で働き、オフィスに勤め、店を経営し、それで皆それぞれの生計を立てている。世の中とはよくできたものだ。
 
 しかしその一方、現代の人の暮らしは微妙なバランスに成り立っているのではないかと考えるときがある。自分が食べるものは自分で作っているなどという者はほとんどなく、全ては仕事の対価として、必要な衣食住を手に入れている。
 
 もう辞めてしまった会社のことだが、そこでは半導体製造装置の開発を手掛けていた。一時は産業の米とも呼ばれたICを作る装置だが、ICは食べられない。ICはいろいろな電子機器に組み込まれて初めて人の役に立ち、そのみかえりに自分は食べ物にありつけていたのである。ICにそれなりの価値がなくなれば、対価となる給料がもらえなくなり、生活に困ってしまう。指の先に乗るあのちっぽけなシリコン断片の価値など、世の中の移り変わりでどうなるか分かったものじゃなく、個人の力ではどうすることもできない。
 
 もし、世の中のバランスが大きく崩れたら、大変なことになるのではなかろうか。90年代にはバブル崩壊があり、現在も倒産の頻発、高失業率、デフレスパイラルと怖い話しばかりである。大きな世の中の流れの中で、自分の存在など危ういちっぽけなものだとつくづく思う。
 
 地に足が着いてない足取りで、田辺市街をひとしきり散策した後、ホテルにもどる前に駅の近くの小さな食堂に入り、質素な夕食を済ませた。こうして食事にありつく為に、またサラリーマンを始めなければならないのか。そんな積りはなくとも、新しい会社勤めはもう数日後に迫った。そぼ降る雨の様にしんみり田辺市の夜は更けていった。
 
<制作 2003. 7.20>
 
 
10年前の野宿旅 その6 につづく
 
 
 
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