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白髪峠
  しらがとうげ  (峠と旅 No.322)
  剣山山地の奥深くに分け入る峠道
  (掲載 2024. 4.10  最終峠走行 1994. 5.22)
   
   
   
白髪峠 (撮影 1994. 5.22)
手前は高知県香美市物部町久保影方面
奥は同県同市同町別府方面
道は西熊別府林道
峠の標高は約1,465m (地理院地図の等高線より読む)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
路面は未舗装だがよく整えられ、
切通しの法面も切り開いたばかりのようにまだ草木が伸びていない
この当時は車道が開通して間もない峠であったようだ(約30年前)
 
 

概要

   

<四国の峠(余談)>
 四国は山勝ちだ。海岸沿いの道を一歩外れれば、必ずと言っていい程峠越えが待っている。国道や県道、更に細い林道が網の目のように走り、そこに無数の峠が生まれた。 四国の地でこれまでどれだけの峠を越えたか分からない。あまりに多いので、一度しか越えたことがなく、再び訪れようと思っていても果たせていない峠が沢山ある。いまだに越えたことがない峠も数多く残る。 聞くところによると、四国は北海道の1/4の面積しかないそうだが、魅力的な峠の数は北海道の何倍もあるように思う。今回の峠はそうした四国にあって、残念ながら随分昔に一度しか越えたことがない峠だ。 再び越えられる見込みがないので、簡単ながらここに掲載してしまおうと思う。よって掲載できる写真は古く少ない。
 
<峠名>
 今回の峠は比較的新しく開削された林道の峠なので、これまでずっと名前などないと思っていた。そこで当初は道の名を用い、「西熊別府(にしくまべふ)林道の峠」とでも呼んでおく積りだった。 ところが、Web上で色々検索していると、峠がある香美市のホームページにこの峠の名がちょこっと記載されていた。「白髪(しらが)峠」と命名されたようだ。ただ、あまり世間一般に浸透した名ではなように思う。 当然ながら地理院地図にも峠名の記載はない。
 
<白髪隧道(余談)>
 余談だが、「白髪」と言えば同じ四国に白髪隧道(しらがずいどう、地理院地図)というトンネルの峠があるのを思い出す。 元は猿田白髪線と呼ぶ林道の峠で、愛媛と高知の県境を越えていた。現在は愛媛県道126号・上猿田三島線と高知県道264号・坂瀬吉野線が通っている。 白髪隧道というトンネル名はあるが峠名はついてない。 一方、隧道上部の鞍部に林道開通前から猿田峠(地理院地図)と呼ぶ古い峠道が通じていたので、林道の方は「新猿田峠」とでも呼ぶべき峠である。

   

<所在>
 峠道全体はすっぽり高知県香美市(かみし)物部町(ものべちょう)内にある。以前の香美郡(かみぐん)物部村(ものべむら)である。峠は香美市の奥まった山間部にあり、その為か峠付近の細かな住所は定まっていない。 地理院地図の住所表示でも、峠近辺は全部「高知県香美市」とだけ出て来る。
 
<別府と久保>
 ただ、峠を東側に下ると最初に出て来るのが物部町別府(べふ)である。「別府」というと九州は大分県の別府(べっぷ)温泉が有名だが、こちらの別府は漢字は同じでも読みが異なる。 一方、峠を西側に下ると物部町久保影(くぼかげ)に出る。峠はこの両集落を繋ぐ峠道になる。
 
 尚、昭和31年(1956年)以前の物部村は、大きく別府を含む槙山村(まきやまむら)と久保影を含む上韮生村(かみにろうむら)に分かれていた。よって白髪峠は槙山村と上韮生村の2村の境に立地する。 ただ、その当時にはまだ車道は通じていない。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<立地>
 白髪峠は県境にはないが、四国をほぼ東西に連なる脊梁(せきりょう)・四国山地(山脈とも)の奥深くに位置する。更に細かくは四国山地東部の剣山山地(つるぎさんさんち)に含まれる。 徳島との県境近くに白髪山(しらがやま、1,770m、地理院地図)がそびえるが、その南東方向に約760m、標高で約1,465m に峠が通じる。

   

<峠名>
 定かではないが、白髪峠という命名はその白髪山に由来するものと思う。峠がある尾根沿いに白髪山山頂まで登山道が通じる。ここは車道の峠が誕生する前から白髪山とは関係が深い地点であり、その意味でも白髪峠という名は妥当なのだろう。
 
 尚、同じ高知県にもう一つ白髪山(1,469m、地理院地図)がある。長岡郡本山町にある山だ。こちらの「白髪」(しらが)は前述の白髪隧道と関係するようだ。

   

<水系>
 白髪山周辺は土佐湾にそそぐ物部川(ものべがわ)の源流域に当たり、峠道全体はその物部川水系に属す。峠の東側が物部川本流域になる。西側には支流・上韮生川(かみにろうがわ)が流れ下る。
 
<槙山川>
 尚、物部町大栃で北から上韮生川、南から舞川が物部川本流に合流するが、それより上流の物部川本流を槙山川(まきやまがわ)とも呼んだそうだ。峠は槙山川と上韮生川の分水界となる。 ただ、現在の地理院地図などには槙山川の河川名は登場しない。 上韮生川・舞川が合流する付近は、今は永瀬ダム(地理院地図)によるダム湖になっている。

   
   
   

峠の東(別府)側

   

<国道195号>
 国道195号は、紀伊水道に面する徳島県阿南市から内陸部を真一文字に西へと走り、高知県の高知市へと至っている。ほぼ四国山地の南側を並行する形だ。国道55号が大きく室戸岬(地理院地図)を迂回するのとは対照的である。国道195号のルートは古代以来、阿波国(徳島県)と土佐国(高知県)を結ぶ短絡路として利用された。
 
<四ッ足峠(余談)>
 現在の国道195号の徳島・高知の県境は四ッ足峠(よつあしとうげ)トンネル(地理院地図)になっている。古くは国境に四ッ足堂(地理院地図)と呼ばれるお堂があり、そこを越えて四ッ足峠(四ツ足峠、四つ足峠)の峠道があり、峠は別名・四ッ足堂峠とも呼ばれていたようだ。その下にトンネルが通じたのは昭和39年(1964年)11月23日とのこと。それ以前に四ッ足峠には車道は通っていなかったらしい。
 
<べふ峡分岐>
 四ッ足峠トンネルから高知県側に国道195号を数キロも下って来ると、別府峡谷の案内看板が立ち、国道から分かれて物部川本流沿いを遡る道が分かれている。この地点は「べふ峡分岐」とも呼ばれる(地理院地図)。
 
<別府>
 この分岐付近は物部川最奥の地・物部町別府(べふ)になる。江戸期からの別符村(かつては「符」の字を使う)、明治22年(1889年)に槙山村の大字、昭和31年(1956年)からは物部村の大字となって行く。 昭和34年(1959年)に当時の国鉄バスの別府線がこの地まで開通したそうだ。それでも四ッ足峠トンネル開通(1964年)の前までは、正に高知県側最奥の地であったのだろう。

   

<別府峡谷へ>
 国道から分かれた道が沿う物部川は別府峡谷、別府峡など呼ばれ、高知市方面からの行楽客も多いそうだ。「別府」が正しく読めない為か、看板には「べふ峡」などとひらがなで案内されている場合も多い。 尚、文献(角川日本地名大辞典)では「別府渓谷」(べふけいこく)で出ていた。 「峡」と「渓」の差は微妙だが、地理院地図では「別府峡谷」(地理院地図)となっているので、ここでは「峡谷」を使ってみる。
 
 峡谷観光の為か、暫く道は良好だ。展望所、駐車場なども整備されている。

   

<林道名・西熊別府林道>
 以前のツーリングマップ(ル)では、別府側から峠を越え、久保影側の上韮生川(かみにろうがわ)沿い近くまでを「西熊別府林道」(林道西熊別府線)と記していた。 上韮生川源流域にある渓谷を西熊渓谷(にしくまけいこく)と呼ぶそうで、その「西熊」を林道名にしているらしい。
 
<西熊渓谷>
 文献や地理院地図でも西熊の場合はどういう訳か「渓谷」として出ている(地理院地図)。 しかし、現地に立つ看板などでは「峡谷」を使う場合もある。何とも不統一だ。
 
<峡谷と渓谷(余談)>
 一般に谷の幅で「峡谷」<「渓谷」と、峡谷の方が狭いそうだ。しかし、それ程厳密なものではない。この別府と西熊の場合も、必ずしも別府(物部川本流)の谷の方が狭いと言う訳ではないだろう。 かえって西熊渓谷の方が支流上韮生川の上流域にある。とにかく、西熊別府林道という林道は白髪峠を挟んで立地する西熊と別府という2つの峡谷・渓谷を結んだ峠道であることを示している。

   

<別府峡谷以降>
 別府峡谷と呼ばれる区間はべふ峡分岐から4キロ程度だろうか。口西(クチニシ)谷(地理院地図)という右岸側支流が注ぎ込む付近を過ぎると、谷はいよいよ狭くなり、峡谷美を楽しむどころではない。道も狭いがまだまだ路面の舗装は奥へと延びている。
 
<紅香橋>
 物部川本流の谷を詰めると、紅香橋という橋(地理院地図)を渡った先で、道は右岸の斜面を登りだす。 今はこの橋は「奥ものべ紅香橋」と呼ばれ、車が渡れる木橋、すなわち木製の橋になっているそうだ。平成12年(2000年)11月竣工とのこと。私が白髪峠を越えたのは1994年5月と古く、当時はどんな橋だったろうか。
 
<ふるさと林道大栃線>
 ツーリングマップ(ル)では西熊別府線という林道名になっていたが、最近は「ふるさと林道大栃線」という名があるようだ。 「大栃」という地名(地理院地図)は物部川本流に支流・上韮生川が合流する付近にあり、永瀬ダム湖に国道195号の大栃橋(地理院地図)という名の橋も架かっている。 白髪峠などからは随分離れていて、何となく違和感がある。別府から白髪峠を越え、大栃方面へと向かう林道というような意味だろうか。
 
<白髪谷左岸沿い>
 物部川本流の源流は白髪山より東の尾根一つ越えた徳島県との県境付近である(地理院地図)。一方、白髪峠を目指す林道は白髪山の直ぐ東の斜面に源を発する支流の白髪(シラガ)谷(地理院地図)沿いに北の県境方向に進む。途中、本流沿いに更に遡る63支線という林道が分岐する(地理院地図)。尚、白髪谷合流より上流側の本流(地理院地図)にはジル沢(ジルザワ)谷という名もあるようだ。

   
白髪谷を見渡す (撮影 1994. 5.22)
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<眺めが広がる>
 道は明白に谷筋を離脱し、ぐっと高度を上げて行く。それに従い眺めも良くなる。 広く白髪谷を見渡せるようになる(写真の位置)。

   
白髪谷に通じる道の様子 (撮影 1994. 5.22)
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道の蛇行 (撮影 1994. 5.22)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<道の蛇行>
 途中、道が大きく蛇行する箇所を過ぎる。険しい山岳道路の雰囲気である。
 
 
<白髪谷を詰める>
 道は白髪谷を詰め(地理院地図)、県境の峰に600mくらいまで近付いてから、今度は右岸側の斜面、白髪山の東麓を南へと進む。道は幾分安定する。

   

<香美市の「奥ものべ登山マップ」(余談)> 
 道の名などについて調べていたら、香美市のホームページに「奥ものべ登山マップ」という資料が掲載されていて、それが参考になった。そのマップによると、国道上のべふ峡分岐から支流・政ヶ谷に架かる政谷橋(地理院地図)までを「市道西熊別府線」と呼ぶようだ。その先が「林道大栃線」になる。白髪谷沿いになり、道の屈曲部を過ぎた辺り(地理院地図)で「林道西熊別府線」に変わる。
 
 一方、白髪峠付近までを「ふるさと林道大栃線」とする看板もあり、区別は明確でない。とにかく、以前は大栃線という林道名はなく、全て西熊別府線だった。何らかの改修工事などを切っ掛けに、林道の一部を大栃線と呼ぶことになったような気がする。

   
   
   

   

<峠>
 道は白髪山より南に続く尾根上に到達する。そこが峠になる(地理院地図)。文献(角川日本地名辞典)の白髪山の項に、「西熊から中腹を経て別府渓谷に至る林道が建設中」とあった。その林道の峠が完成し、白髪峠と名付けられたものと思う。文献の発行が昭和61年(1986年)なので、林道開通はその頃以降となる。

   
白髪峠(再掲) (撮影 1994. 5.22)
   

<峠の様子>
  私が峠を越えたのは平成6年(1994年)なので、林道開通からまだ日が浅かったと思う。確かに、切通や路面の様子は開削されたばかりのように新品であった。林道は未舗装ながらも走り易い土の路面である。 比較的穏やかな尾根上に位置しているので、峠もあまり険しさを感じさせない。峠の部分から麓側へと尾根沿いに白髪山登山道が延びていたと思う。古くから通じていたその登山道を林道が横切る形で開通した。 この地は白髪峠という峠名より、白髪山登山口という名称の方がふさわしいようだ。「奥ものべ登山マップ」によると、山頂まで50分で登れるそうだ。

   
   
   

峠の西(久保影)側

   

<東熊川沿い>
 峠から久保影側に下る道は、上韮生川の支流・東熊川(地理院地図)の谷の上部を進む。暫く地形は穏やかだ。東熊川の谷間を広く望む。
 
<韮生(余談)>
 ところで韮生(にろう)とは面白い地名だ。「上」(かみ)があるからには「下韮生」があるかと思って調べたが、見付からない。古くは韮生郷(にろうごう)と呼ばれる地域があり、物部川流域の広い範囲を指したようだ。 文献によると、「にろう地名の由来は、美良布神社のミラフがニロウとなったといい、また韮のよく生える土地であるからニロウといい、それが転訛して美良布となったとか、 あるいは美良布神社の祭神大田田禰古神の御母で同社に併祭されている鴨部美良姫の神名より起こったともいう(香北町史)」とある。よく分からない。

   
東熊谷の眺め(多分) (撮影 1994. 5.22)
ややガスっていた
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人工物が出て来る (撮影 1994. 5.22)
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<上韮生川沿い>
 道は高度を維持しつつ本流の上韮生川の谷間へと移動する(地理院地図)。すると沿道にぽつぽつ人工物が出て来る。何かの作業小屋のような建物も見える。
 
<西熊別府線の起点>
 上韮生川沿いへと下る途中、林道西熊別府線の久保影側起点(地理院地図)を過ぎる。上流方向に林道が一本分岐する。香美市のホームページでは、この先の林道は「林道西熊線」と名があった。
 
<三嶺 光石登山口>
 また暫く行くと、有難いことにトイレ箇所(地理院地図)がある。トイレ脇から三嶺(さんれい)への登山道が始まっていて、光(ヒカリ)石登山口と呼ぶそうだ。狭いながらも駐車場があり、私が訪れた時は登山客らしい人たちでなかなか賑わっていた。

   

<東熊川沿いの林道分岐>
 上韮生川沿いになって暫くすると、東熊川沿いに遡っている林道の分岐点に出る(地理院地図)。分岐の角には「西熊峡谷 観光案内」と題した看板が立っていた。注目すべきは、白髪峠を越える西熊別府線が全く描かれていなかったことだ。林道開通前からあった看板なのだろう。
 
<西熊線・上韮生線・東熊線>
 上韮生川沿いは引き続き林道西熊線だと思うが、「上韮生線」という名も別にあるらしい。また、東熊川沿いの道の名は不明だが、多分、「東熊線」であろう。 看板では東熊川を「東能谷」としていて、「谷」はともかく、少なくとも「能」は誤植である。当時はそれに気付かず、「東能谷」とそのままをツーリングパップにメモしてしまった。


分岐に立つ観光案内 (撮影 1994. 5.22)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
西熊峡谷観光案内の看板 (撮影 1994. 5.22)
「東能谷」は「東熊谷」の誤植
林道西熊別府線はまだない
東熊谷沿いの道は西熊別府線ではない
   

野宿の様子 (撮影 1994. 5.23)
西熊別府林道脇にて
(野宿の翌朝に撮影)
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<野宿(余談)>
 このままいい気になって上韮生川沿いを下ってしまうと、その内人家が現れ、野宿地探しに苦労することになる。ここへ来る途中のトイレ箇所付近にも人が居て、どうも人目が気になってしょうがない。 そこで東熊川沿いのさびしい林道に入ってみた。沿道のどこかに適当な野宿地がないかと期待したが、暗く狭い谷底が続くばかりで行止りとなった。仕方ないので西熊別府線の区間まで引き返し、道路脇になかなか良さそうな広場を見付け、そこで一晩を過ごすこととした。
 
 安物だがちょっと大きめのテントを張る。これで手足を伸ばし、車内泊するよりずっとゆったり寝られる。水や食料などはジムニーに豊富に積んであり、こうして場所さえ確保できれば、いつでも野宿ができる用意がしてあった。

   

 ただ、昨今のキャンプとは趣が全く異なる。洒落たキャンプ道具などは何も持っていない。ラーメンを煮るにも長年使ってきて錆びたカセットコンロと粗末なアルミ鍋である。食器なども一切使わず、鍋ごと麺をすする。 おかずは調理の必要がない魚肉ソーセージが定番だ。これで楽しい訳がないが、そもそも野宿を楽しいもうという気はさらさらない。どうにか無事に旅の一夜を過ごせればいいのだ。
 
 日が暮れれば、まだ新しい西熊別府林道も走る車はパッタリ途絶えた。ここは標高約1,100mの四国山地の只中である。ローソクの明かりでぼんやり照らされたテントの中、一人の夜が静かに過ぎて行った。
 
<熊(余談)>
 四国で野宿する場合、一ついい点があった。熊の心配がほとんど要らないことだ。四国では熊はほぼ絶滅したというようなことを聞いたことがある。
 
 それでも平成2年(1990年)5月に剣山スーパーをバイクで走っていると、捕獲された熊が林道脇まで降ろされていたのを目にしている。四国では剣山の付近だけは最後まで熊が生息していたようだ。 この時の野宿地はその剣山にも近い四国山地の主脈沿いだ。案外危険だったのかもしれない。何しろ渓谷の名前に「熊」の字が付いているくらいである。現地には「熊出没注意」の看板がまだ立っているらしい。

   

<東熊川分岐以降・県道217号>
 林道が上韮生川沿いを下り、左岸から右岸渡った付近(地理院地図)から林道に続いて漠然と県道217号・久保大宮線が始まる。この県道名の「大宮」という地名がなかなか分からなかったが、やっと大宮側の起点を突き止めた(地理院地図)。 物部川のずっと下流である。住所は香美市香北町(旧香北町)美良布(びらふ)となり、相変わらず「大宮」という地名については不明だ。
 
<久保>
 ところで、県道217号が始まる付近から下流側に、久保影(くぼかげ)や久保和久保(くぼわくぼ)、久保中内(くぼなかうち)など、「久保何々」という地名が並んでいる。 これらは元は上韮生村の久保であったそうで、上韮生村と槙山村が合併して物部村が成立した折り、久保から起立した8大字とのこと。よって数えれば8つある筈だ。 この8大字の内、久保影が上韮生川左岸側最上流、久保和久保が右岸側最上流に位置する。一方、単純に「久保」という地名は見当たらない。

   

県道49号と217号の分岐 (撮影 1994. 5.23)
左が県道49号を矢筈峠へ、右が217号を白髪峠へ
ジムニーは矢筈峠方向に向く
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<県道49号>
 県道217号を下って来ると、県道49号・大豊物部線との分岐点(地理院地図)に出る。この大豊物部線の「物部」は物部町(旧物部村)で「大豊」は同じ高知県の長岡郡大豊町(おおとよちょう)になる。本来、県道49号は旧町村境の笹越(地理院地図)を越えるのだろうが、峠前後に車道は通じていない。上韮生川支流の笹川沿いを遡った笹(ささ、地理院地図)の地で行止りとなる。
 
<矢筈峠(余談)>
 しかし、そこから矢筈峠地理院地図)へと林道が始まっていて、峠を越え、旧東祖谷山村(現三好市)となり、京柱峠を越える国道439号に接続している。

   

 この矢筈峠は白髪峠などとはちょっと格が違う。何しろ徳島・高知の県境越えの峠である。 同じ県境の峠では京柱峠の方が知られるが、そちらの標高は約1,130mなのに対し、矢筈峠は約1,240mと100m以上高い。それもその筈で、矢筈峠は京柱峠よりも四国山地主脈の東側に位置する。 矢筈峠以東で四国山地を南北に縦断する車道の峠道は、暫く存在しない。
 
 矢筈峠は白髪峠を越えた1年前に一度だけ越えたことがある。この峠もまた越えてみたい四国の峠の一つだが、最近は三好市側が通行止のようだ。

   
県道49号と県道217号の分岐の様子 (撮影 1994. 5.23)
「笹➡温泉」などと看板にある
   

<国道に接続>
 県道分岐以降は県道49号と217号の併用区間だと思う。終始上韮生川に沿って下り、大栃で国道195号に接続(地理院地図)して今回の峠道は終わる。四ッ足峠トンネル以降、ずっと国道を走って来れば容易にこの大栃にたどり着くが、白髪峠はその所をわざわざ四国山地の深部を大きく迂回し、標高1,465mの高所を越えて来た訳だ。途中、野宿までして、ご苦労なことである。

   
   
   

<後記(余談)>
 この白髪峠のページは2022年11月に作り始めたのだが、途中で気力がなくなってしまった。 また、ちょっと気分を変えようと「旅と宿」という別のページを始めることにした。 以前から旅先で泊まる宿について、その記憶・思い出などを書き留めておきたいと思っていたのだ。それに、峠のページは1ページ当たりの分量が大きく、作るのに骨が折れるが、宿のページはなるべく簡単なものにしようと思っていた。 ただ、一旦始めるとついつい深みにはまり、なかなか峠のページを再開できずにいた。やっと「旅と宿」の第18話で徳島県の宿について掲載し、白髪峠が書き掛けだったことが気になりだした。 1年以上経ってこれでケリが付くと思う、白髪峠であった。

   
   
   

<走行日>
・1994. 5.22 別府側から峠を越え、林道途中で野宿/ジムニーにて
・1994. 5.23 野宿の朝、上韮生川沿いに県道217号を下る/ジムニーにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 39 高知県 昭和61年 3月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・中国四国 2輪車 ツーリングマップ 1989年7月発行 昭文社
・ツーリングマップル 6 中国四国 1997年9月発行 昭文社
・その他一般の道路地図、ウェブサイトなど
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

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