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長慶峠  (再掲載)
  ちょうけいとうげ  (峠と旅 No.005-2)
  野宿に苦労させられた峠道
  (掲載 2023.11. 5  最終峠走行 1994. 8.16)
   
(初掲載 1997. 6.20 のページへ)
   
   
   
長慶峠 (撮影 1994. 8.16)
手前は秋田県旧田代町(現大館市)
奥は青森県旧相馬村(現弘前市)
道は峰越連絡林道田代相馬線
峠の標高は約720m (角川地名大辞典より)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
峠には白い十字架のような標柱が立つ
 
 

   

<再掲載の理由>
 この長慶峠はホームページ「峠と旅」を初めて開設した1997年6月20日に掲載した10峠の一つになる。 当時はまだダイアルアップ回線でインターネットをしていた時代で、通信速度などの制約上、ホームページの容量は大きくできなかった。ページに貼り付ける写真も画素数を抑えた小さな画像データを用いていた。
 
 あれから四半世紀以上が経つ。その間の技術的進歩は目を見張るようだ。 ふとしたことで初掲載の長慶峠のページを暫く振りに開いてみたのだが、今からすると如何にも貧弱はページである。 長慶峠はその後は訪れたことがなく、最近では峠道は通行止状態になっている様子だ。今後もう峠などの写真を撮ることができないなら、せめて過去に撮った写真を高精細で掲載しておこうかと思った。 それが今回の再掲載の理由になる。ついでに少し内容(野宿のことなど)も追加したい。

   

<所在>
 峠道はほぼ南北方向に通じ、北側は青森県弘前市(ひろさきし)藍内(あいない)で、旧中津軽郡相馬村(そうまむら)藍内になる。 南側は秋田県大館市(おおだてし)早口(はやぐち、はやくち)で、 旧北秋田郡田代町(たしろまち)早口である。

   

<地理院地図(参考)>
国土地理院地理院地図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<立地(白神山地))>
 長慶峠は青森・秋田の県境に連なる白神山地を縦断している。「白神」は「しらかみ」とも時に「しらがみ」とも読まれるようだ。1993年に世界(自然)遺産になってからは、世間から注目されることが多くなった。 その関係なのか、周辺地域では道路や施設などの整備が進んだのを目の当たりにする。
 
 白神山地の正確な範囲は分からないが、東の国道7号の矢立峠(地理院地図)から、西の日本海沿いを通る国道101号の須郷岬付近まで(地理院地図)、直線距離で約58Kmに及ぶ主脈が続いている。 その間にこの県境の峰を越えて通じる車道は非常に限られる。 釣瓶落峠(地理院地図)の近くに通じた釣瓶トンネル(地理院地図)が県道317号・西目屋二ツ井線になっていて、実質的にはこれが唯一、白神山地を越える車道と言える。 「峠と旅」では釣瓶峠(仮称)で掲載した。 一時期、二ッ森(地理院地図)付近を越える青秋林道が計画されたようだが、建設中止となっている。
 
 しかし、かつてはもう一筋、白神山地の只中を越える峠道があった。それがこの長慶峠だ。当時は何の気負いもなく、通れるなら通っておこうというだけの気持ちでジムニーを走らせていた。 気が付くと、もう長慶峠の道は通行が困難となっているようだ。こんなことならもっと写真をいっぱい撮っておけばよかったと悔やまれる。

   

<水系>
 峠の青森県側では、岩木川(いわきがわ、岩木川水系)の上流域の支流・相馬川(そうまがわ)水域に峠道が通じる。相馬川の源流は白神山地主脈上にある長慶森(ちょうけいもり、943m、地理院地図)付近になる。相馬川上流部は大きく東股川と西股川に分かれ、長慶峠はほぼ東股川の源頭部に位置する。尚、岩木川は岩木山の東麓をぐるっと回り、津軽半島の十三湖を経て日本海に注ぐ。よって日本海側の水系に属す。
 
 峠の秋田県側では澄川沢が流れ下り、長慶沢・沼沢と合して大川目(おおかわめ)川となり、更に大割(おおわり)沢と合流して早口川(はやぐちがわ)となる。早口川は米代川(よねしろがわ、米代川水系)の下流域の支流で、米代川は能代市で日本海に注ぐ。こちらも日本海側の水系だ。

   

<峠名(長慶について)>
 長慶峠の「長慶」とは長慶天皇(ちょうけいてんのう、1343年〜1394年)に由来するということを何かで知った。 相馬川源流・西股川や早口川源流・長慶沢の上部に長慶森があるが、この山は古くから金山で知られていたそうだ。長慶天皇が金を掘ったという事跡からこの一帯の鉱区を長慶金山と呼び、長慶森という山名もそこから来ている。
 
 ところが、長慶天皇との関係はどうやら後の世で行われた詐称のようである。秋田県側の早口川最上流部に長源(ちようげん)沢という川があり、金を産出したそうだ。現在の長慶沢だろうか。 また、長慶森の南麓に津軽長間(つがるちようけん)金山、あるいは早口金山と呼ばれる金鉱があった。この長源(ちようげん)や長間(ちようけん)という名が天皇の名の「長慶」に結び付けられ、長慶森や長慶沢、長慶金山、長慶鉱山などの名称が今に残されたように思われる。 ついには昭和に開通した林道の峠にも長慶という名が付けられた。

   
   
   

青森県側

   

<県道129号>
 峠の青森県側は大都市弘前市街からもそれ程遠くない距離にある。岩木川沿いに通じる県道28号・岩崎西目屋弘前線を走り、途中でほぼ相馬川沿いに通じる県道129号・関ヶ平五代線(せきがたいごだいせん)に移ってその終点まで走る。
 
 2018年10月に県道129号を相馬一丁木(いっちょうき)付近まで行ってみた(地理院地図)。 県道がクランク状に曲がっている箇所で、県道204号が分岐し、この辺りまでは人家も多い。この時は旧弘西(こうせい)林道、現在の県道28号が通る津軽峠が最大の目標だったので、県道204号方面に分岐して行った。


県道129号を峠方向に見る (撮影 2018.10.13_)
弘前市相馬一丁木付近
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<林道起点>
 県道129号はその先しっかり相馬川沿いになる。人家は徐々に減り、遂に県道終点の集落旧相馬村(現弘前市)藍内(あいない)関ヶ平(せきがたい)に至る。関ヶ平は長慶峠の青森県側最終の集落になる。 10数戸程の人家が集まる。集落内を抜けバスの転回場らしき敷地を過ぎると間もなく道幅が狭くなり舗装も途切れる。道の両脇に林道看板などが並び、その先に険しそうな未舗装路が細々と続いている。
 
 この峠道の青森県側の起点は、広くは相馬川の本流・岩木川沿いに位置する旧相馬村の村役場もあった五所(ごしょ)となるだろうが、実質的にはこの未舗装林道の起点が青森県側の起点(地理院地図)と言えるだろう。

   

青森県側の林道起点 (撮影 1992. 7.29)
峠方向に見る
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青森県側の林道起点 (撮影 1994. 8.17)
峠方向に見る
この時は秋田県側から越えて来た
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<林道名>
 長慶峠を越える車道は、正確には「峰越連絡林道田代相馬線」と呼ぶようだが、「峰越林道田代相馬線」とか単に「林道田代相馬線」などとも呼ばれる。古いツーリングマップ(1989年5月発行)では「田代相馬林道」で出ていた。
 
 但し、こうした呼称は峠に車道が通じて以降のものらしい。元々相馬村側には相馬林道、田代町には早口林道がそれぞれ峠道の途中まで伸びていた筈だ。全く車道がなかったとは考え難い。
 
<林道開通年>
 文献(角川日本地名大辞典)によると、峰越連絡林道田代相馬線は田代側が昭和46年(1971年)、相馬側が昭和48年(1973年)に建設が開始され、昭和53年(1978年)8月に完成したそうだ。それが長慶峠誕生の時でもある。
 
 峠一帯は国有林野であり、この林道開発は森林資源の開発と産業の振興を目的としたそうだ。相馬村誌によると林道総延長1万1,822m、幅4mとのこと。ただ、総延長約12Kmというのは田代相馬線全線としては短か過ぎる。どうやら相馬村側だけの道の長さのようだ。

   

林道に関する看板等 (撮影 1992. 7.29)

<林道起点の様子>
 長慶峠は1992年7月と1994年8月の2回越えている。1回目は青森県側から、2回目は秋田県側から越えた。どちらも関ヶ平の林道起点を通過していて、写真を撮ってある。 青森県側から進むと林道起点に「通行止」の看板が立っていて、ちょっと気が引ける。ただ、昔はこういう規制は比較的緩やかだった。通行者の事故防止が第一の目的である。万が一事故になれば自己責任は当然だ。
 
 林道名については弘前営林署の看板に「相馬林道」と出ていた。「路肩決壊ヶ所あり、落石ヶ所あり、急カーブ急勾配あり、大型バス通行禁止」などといろいろ注意書きが添えられていた。
 
 看板の先を覗くと、あちこちに水溜りのある未舗装路が延びている。直ぐ傍らを相馬川が流れる。この先の峠道の険しさを物語っていた。最近なら尻込みする道だが、30年前は何の不安も感じず、たった一人でジムニーを走らせていた。

   

<相馬側の林道の様子>
 相馬側の林道はほぼ谷沿いを登って行く。相馬川から更にその源流の東股川沿いへと進む。もうあまりはっきりした記憶はないのだが、ほとんど視界はなかったと思う。圧倒される程のうっそうとした森が続く。白神山地はブナの原生林で知られるが、その只中を行く。ひしひしと肌で山深さを感じさせる。

   
相馬側の林道の様子 (撮影 1992. 7.29)
途中大きな林道標柱が立っていた
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<林道標識>
 途中、唐突に大きな標柱が出て来る。「峰越連絡林道田代相馬線」と大書されていた。県境を越えて車道が貫通したことを誇っているかのようだった。

   
林道標柱 (撮影 1992. 7.29)
   

<峠直前>
 峠直前の2Km程は白神山地の主脈に向かって急登が待っている。ただ私が走った当時、林道の補修はまだまだ続けられていたようで、大きく路肩が崩れているような箇所は見受けられなかった。路側の草木も良く切り払われていて、路面はしっかり見える。森林資源開発の目的はまだ諦めていなかったのだろう。

   
 

秋田県側

   

<秋田県側起点>
 長慶峠の秋田県側の起点は、米代川沿いに通じる国道7号からの分岐点(地理院地図)になる。 旧田代町の坂地(さかじ)入口という交差点だ。ツーリングマップではほぼそこまでが田代相馬林道のように記載されていた。青森県側に比べると峠までのアプローチは非常に長い。 1992年7月に相馬村側から峠を越えた時は、素直にその道筋を下った。しかし、国道7号に辿り着いたのは、その翌日であった。
 
<林道の様子>
 青森県側に比べると、峠の秋田県側は比較的展望が効く。しかし、その景色も間もなく見えなくなった。峠を田代町側に下り始めると程なくして日が暮れてしまったのだ。 しかし、それは想定内のことだった。元々、この林道のどこかで野宿しようと思っていた。ところが、なかなかいい野宿地が見付からない。それに林道沿いにクマ注意の看板が立っていて、こんな人里離れた山中で野宿するのは危険と思い始めていた。なるべく人里近くまで下りた方が無難そうだ。
 
 その内ヘッドライトで照らされた未舗装路面しか見えなくなった。周囲は漆喰の闇だ。これでは尚更野宿地など見付かる筈もない。今のようにカーナビなどなく、一体自分が林道のどの辺りを走っているのかも分からない。 ただただ林道から外れないようにと、慎重に路面ばかり凝視して運転していた。これでは林道の様子など全く記憶に残らない。

   

早口ダムの看板 (撮影 1992. 7.29)
フラッシュを焚いて撮った
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<早口ダム>
 突然、ヘッドライトの光の中に人工物が浮かび上がった。人里に辿り着いたのかと思って車を止めて外に出たが、その建物は早口(はやぐち)ダム(昭和51年竣工)の管理事務所だった。周囲に人の気配など全くない。 ダム堰堤やダム湖を写真に撮りたかったのだが、こう暗くては景色は映らない。仕方ないのでフラッシュを焚いて看板だけを写真に収めた。
 
 それでもとにかく早口ダムに着いたので、これで現在地がはっきりした。ルームライトを灯して地図を確認すると、人家が出て来るまでまだ半分近くの道程が残っている。ややうんざりする。

   

<未舗装路の終点>
 やっと未舗装路が終わり、そこから先はアスファルト道に変わった。直ぐに林を抜けて開けた地に出た。周辺には田畑が広がっているようだ。人里の雰囲気がする。 後に買ったツーリングマップル(1997年3月発行)では、田代相馬林道のダート区間は37Kmとか39Kmと出ていた。相馬村側が約12Kmなので、田代町側は25Km以上あったようだ。
 
<大野>
 舗装路を1Kmも進めば沿道に人家が並びだした(地理院地図)。 大野と呼ぶ集落らしい。これでクマの危険はない。しかし、今夜の宿の当てもない。 人家近くで野宿する訳にもいかないので、大野集落から引き返し、薄市沢沿いに田代岳へと至る登山道方向に入り、適当な路肩を見付けてそこで車中泊となった。最近はやりの贅沢なキャンプとは違って、全くみじめなものだ。35歳の誕生日を2日後に控え、一体自分は何をしているのだろうかと思う。


早口川鳥観図 (撮影 1992. 7.29)
早口ダムの看板の一部
西側の尾根一つ越えると、釣瓶落峠の峠道が通じる
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<岩瀬林道コース>
 長慶峠の秋田県側には田代相馬林道の他にもう一つのルートがある。早口川よりも米代川上流側の支流・岩瀬川(いわせがわ)沿いを遡る道で、上部は岩瀬林道になり、峠から1Km弱下って来た田代相馬線に接続する。 最初に長慶峠を越えた2年後、今度はそのコースを辿って峠を目指した。旅の都合上、旧大館市から県道68号・白沢田代線で旧田代町に入った。この県道は当時まだ田代町内の一部に未舗装路を残していた。

   

<山瀬ダム>
 県道68号から分かれて岩瀬川沿いを遡ると、異様な光景が出てきた。当時使っていたツーリングマップにはまだ載っていない山瀬ダムだった。実はこれまで「岩瀬ダム」と覚えていたのだが、今回調べてみると山瀬ダムが正しく、ダム湖は五色湖と呼ぶそうだ。1991年竣工とのこと。

   
山瀬ダム (撮影 1994. 8.15)
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山瀬ダム下の分岐 (撮影 1994. 8.15)
右へ行くとダム直下にある山瀬発電所
ジムニーの向かう先はダム湖の右岸
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<湖岸にて>
 地図にない分岐(地理院地図)に戸惑いながらも、看板などを頼りにダム湖の右岸へと登り、更に田代岳大橋を渡って岩瀬川左岸沿いに出る。 この先、岩瀬林道が待っているのだが、一つ気掛かりがあった。カーラジオがこの付近一帯に大雨洪水雷警報が出されていると報じている。「注意報」ではなく「警報」である。 スマホなどない時代、何気なく聞いていたカーラジオから流れるニュースは貴重であった。そしてニュース通り、時々激しい雨が降り始め、雷の稲光もする。こんな天候で険しい峠越えは避けた方が賢明だ。 では今夜の宿をどうするか。幸い、ダム建設に伴いダム湖周辺は広場などが整備されていて、テントが張れそうな場所が見付かりそうだ。ここに留まり、野宿することとした。長慶峠はどうも野宿に縁があるようだ。

   

<野宿>
 ダム近くの駐車場に車を停め、激しく降る雨を眺めながら思案する。いつも使っている4、980円の安テントではもちそうもない。 こういう時の為にと奮発して買ったコールマン製の4万円以上するテントを使えばいいだろう。問題は雨と雷である。夜中に洪水や土砂崩れの心配をし、雷の稲光や雷鳴に怯えるのではかなわない。 これまで野宿では何度も怖い思いをさせられた。テントを張る場所を厳選しなければならない。 迷った末、意を決して比較的安全そうな湖畔の広場の一角にテントを張ることにした(地理院地図)。


野宿場所 (撮影 1994. 8.15)
テントの周りは水浸し
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<大雨>
 雨の中、テント設営に手間取る。それに旅の疲れが出て来たのか、身体がだるく熱もあるようだ。今回の東北の旅も今日で5日目になる。その間ホテル泊は一回だけで後の3泊は野宿だった。 疲労が溜まってきていておかしくない。その上、やっとテントを張り終える頃には、大雨でテントの周り一帯がみるみる水田の様になっていった。これでは高級テントもかたなしである。到底こんな所で野宿はできない。テントを撤収する気力もなく、ジムニーでその場を逃げ出した。
 
<五色湖ロッジ>
 道を少し戻った所に木造の比較的新しいロッジがあった(地理院地図)。 表札には「五色湖ロッジ」とある。誰かいないかと思ったが、窓からのぞいても明かりは点けられてなく、人の気配はない。当然鍵が掛かっていて中には入れない。 しかし軒下のコンクリートの上にどうにかテントが張れそうだ。早速残っている安物の方のテントを設営する。こんな軒下でも風雨はある程度防げるし、洪水や土砂崩れ、雷の心配はない。
 
 寝床が確保できたら、4万円のテントが心配になった。もう一度水浸しの広場に行ってテントを丸めて畳んで車に突っ込み、ロッジに戻って来た。 しかしそんな事をして疲労し雨にも濡れた為に、いよいよ身体の具合が悪くなった。テントの中でぐったりと横になったきり、夕食を摂る元気もなく、ただじっと夜を待った。
 
 夜が更けるに従い頭痛や吐き気、腹痛も始まった。胸も苦しい。後年、心臓手術を受けることになるのだが、思えば旅先では時々体調を崩すことが多かった。少しでも熱を下げようとタオルを水に濡らし額に置く。 少しまどろんでは雨の音にまた目が覚める。長い時間、それを繰り返した。こんな時はさすがに人の助けが欲しいと思うが、この身体では人家のある所まで行くことも叶わない。 しかし幸いに苦痛はある程度までで、それ以上はひどくならなかった。これならどうにか耐えられそうだ。
 
 熱のせいか、この程度の苦痛を我慢するだけでこのまま死ねるならそれもいいと思った。今死んでも何も心残りがない。もっとやりたいことやもう一度逢いたい人が自分にはないなと、ぼんやりした頭で考えていた。

   

野宿の朝 (撮影 1994. 8.16)
昨夜はこのロッジの軒下で野宿
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<翌日>
 夜半には雨も弱まり、夜明けまではある程度眠れた。目が覚めると身体の気だるさは残ってはいるものの、熱は下がり起き上がることができた。まだまだ肉体の回復力が充分あった頃のことである。
 
 熱の為か、昨夜は余計なことを考えたようだ。改めて自分は一体何をしているのだろうかと思う。気を取り直して旅を続けるとする。今回の長慶峠越えも二日掛りとなった。

   

<糸滝>
 道は岩瀬川沿いを遡る。途中、糸滝が見える(地理院地図)。岩瀬川に流れ込む糸滝沢川に架かる滝で、道沿いに展望台や駐車場、トイレが完備されていた。山瀬ダム建設に伴い、こうした施設の整備も進んだのではないかと思った。

   
糸滝の駐車場にて (撮影 1994. 8.16)
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<観光案内図>
 糸滝展望所の一角に「田代岳周辺観光案内図」と題した看板が立っていた。田代岳はこの付近での登山対象となる山のようだ。あちこちで案内看板を見る。

   

糸滝展望所にあった看板 (撮影 1994. 8.16)
田代岳周辺観光案内図

看板の地図 (撮影 1994. 8.16)
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 県境の長慶峠がある付近に「展望台、東屋」などと書かれている。多分、長慶峠から歩いて登れる県境上の展望所だろうが、どこにあったのかははっきりしない。
 
 岩瀬川の上流部は大川目川(おおかわめ)川(沢)と呼ばれ、赤円(あかね)沢を合してから以降岩瀬川と呼ばれる。糸滝の直ぐ先から道は大川目川沿いになる。尚、早口川の上流部も大川目川と呼ばれるが、別物である。

   
地図の拡大 (撮影 1994. 8.16)
   

<蕗原沢分岐>
 ほぼ北に向かっていた道が、大川目川の支流・蕗原沢沿いの道の分岐点からは西へと大きく方向を変える。分岐には看板が立っている。看板の地図には小さな沢の名前まで細かく書かれていた。まだ山瀬ダムはなかった。

   

蕗原沢分岐に立つ看板 (撮影 1994. 8.16)

看板の地図 (撮影 1994. 8.16)
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<ロケット燃料燃焼実験場>
 更に進むと山の中に異様な人工物が見え隠れするようになる。糸滝にあった看板によると、ロケット燃料燃焼実験室(場)とのこと。自然の中に忽然と現われ、不気味な感じを受ける。 未舗装林道に重い関係車両が通る為か、路面が荒れている箇所があった。その付近から田代岳への登山道も始まっている。一般登山者の車もここまでよく訪れるのだろうか。2回の長慶峠越えでは1台の車も見掛けなかった。 ただ、訪れた時が夕暮れだったり早朝だったり、あまり人が来ない時間帯ではあったが。
 
<眺望>
 大川目川の源流は県境にある三ッ森(949m、地理院地図)である。道はその谷筋を離れて行く。すると少し眺めが広がった。ただ、生憎ガスっていて、遠望はなかった。

   
岩瀬林道途中からの眺め (撮影 1994. 8.16)
残念ながらガスっていた
   

<田代相馬線に合流>
 道は岩瀬川水域から尾根一つ越え、早口川水域の澄川沢沿いに下って来る。するとひょっこり田代相馬線(早口林道区間)に合する。そこから峠までは1Km足らずである。長慶峠の田代町側は、ほとんど早口林道と岩瀬林道の2経路あると言っていい。


田代相馬線との合流点 (撮影 1994. 8.16)
左奥が峠、右が岩瀬林道
手前が早口市街へ
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峠の様子

   

<峠の様子>
 2度目に訪れた時は、昨日の大雨の影響もあってか、峠はガスで霞んでいた。それでなくてもあまり眺望はなさそうだった。

   
長慶峠 (撮影 1994. 8.16)
田代町側から見る
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<石碑>
 峠の田代町側に少し路肩が広くなった箇所があり、そこに車を停められる。その路肩の奥の林の中に「長慶峠」と刻まれた比較的大きな石碑が立つ。峰越連絡林道田代相馬線の開通を記念して建てられた。この石碑についてはあまりよく観察してないが、林道開通が1978年8月なので、建立日もそれ以降であろう。

   

田代町側にある路肩 (撮影 1994. 8.16)
奥に石碑が立つ
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長慶峠の石碑 (撮影 1994. 8.16)
   

 ところで、林道開通前にこの地に峠は存在しただろうか。県道317号・西目屋二ツ井線の釣瓶トンネルなどは、その前身は釣瓶落峠で、この峠道は古くから存在した。 一方、長慶峠の少し東側に点線表記の徒歩道の峠(地理院地図)が見られたりする。 長慶峠の前身かそれに近い存在の峠道は古くから通じていた可能性はある。ただ、文献(角川日本地名大辞典)で「長慶峠」と検索してみても、林道の峠以外には出て来ない。 長慶森の近くに通じたことにちなんで付けられた長慶峠でもあり、車道が通じて初めて誕生した峠名と思ってよさそうだ。
 
<県境の標柱>
 正に峠となる部分には県境を示す大きな白い標柱が立つ。十字の形をしていて、左腕には「秋田県田代町」、右腕には「青森県相馬村」とある。 田代側に「24.9」という数字が書かれた丸い札が掛けられていたが、田代側の道程を示しているようだ。早口川沿いを遡り、大野集落を過ぎた先の高祖(こうそ)への分岐(地理院地図)辺りが起点となるようだ。

   

長慶峠 (撮影 1992. 7.29)
田代町側から見る
1度目に訪れた時
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

県境の標柱 (撮影 1992. 7.29)
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<標高>
 文献では長慶峠の標高を720m前後としている。マックスマップルの東北道路地図では730mと記されていた。地理院地図の等高線では720mと730mの間に道が通じている。 県境の峠というと何だか非常に高いように思っていたが、それ程ではない。しかし、山深さでは引けを取らない。
 
 1度目に長慶峠を訪れた時はその晩の野宿地が気掛かりで、2度目の時は昨晩の体調不良をまだ引きずっていた。実のところ、峠の様子などあまり記憶にない。 峠には大きな県境の標柱や林道開通記念碑などが立ち、寂しい林道の峠としてはまだまだ賑やかな方だろう。これで眺望があれば、もっと印象は変わっていたに違いない。 歩いて3分という展望台に寄っていればよかった。

   
   
   

 長慶峠を初めて訪れたのは林道開通から14年後のことで、まだまだ道が若い頃だった。それから更に30年余りが経つ。林道は寂れ、県境の標柱も朽ちて十字架の墓標と化しているらしい。 車道としてはやや短命過ぎるかと思う。
 
 その一方、私は確実に年を取った。相変わらず「自分は一体何をしているのだろう」と、ふと思う時がある。既に両親は亡いが、ただ一人だけ大事にしたいと思う人が居る。 16歳下の妻である。私たち夫婦には子供がないので、私が亡くなると妻は長い年月寂しい思いをすることになる。 それだけの為に今はできるだけ長生きしたい。しかし、こればかりは田代相馬林道と同様に天命に従わなければならないと思う、長慶峠であった。

   
   
   

<走行日>
・1992. 7.29 相馬村→田代町 ジムニーにて
・1994. 8.16 田代町→相馬村 ジムニーにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 2 青森県 1985年12月 発行 角川書店
・角川日本地名大辞典 5 秋田県 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・東北 2輪車 ツーリングマップ 1989年5月発行 昭文社
・ツーリングマップル 2 東北 1997年3月発行 昭文社
・マックスマップル 東北道路地図 2011年2版13刷発行 昭文社
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

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