旅と宿  No.002

長野県上松町/旅館・新あづまや
(掲載 2023. 7.30)

   

 「木曽路」と聞いただけで旅情を誘われる。よく引用されることだが、島崎藤村の「夜明け前」の冒頭に出て来る、「木曽路はすべて山の中である。」という一節が思い浮かぶ。 その後、「東ざかいの桜沢から、西の十曲峠まで、木曽十一宿」あると書かれている。 最近は奈良井(ならい)や妻籠(つまご)、馬籠(まごめ)といった宿場が往時の姿を残したまま整備され、観光客が多く訪れているようだ。 そうした観光地化が進んだ所では、観光客向けの宿も営まれていることと思う。 一方、当日急に予約を入れても、気兼ねなく泊まれるビジネスホテルやシティーホテルのような類は少ない。例の宿泊情報(JTB)を調べても、「旅館」と銘打つ宿ばかりだ。 それでも、木曽路をのんびり旅している途中で、何とか宿泊したいものだと思っていた。考えあぐねていてもしょうがないので、一度体験してみることとした。
 
 その機会は中部・北陸地方を9日間で旅していた時に訪れた。前日は野宿したのだが、今日は午後になって天候が崩れ、この分だと夜は雨になりそうだ。 こんな日は何とか宿に泊まりたいと思う。その時は既に大平峠を越え、木曽路に入っていた。少し北上すると上松(あげまつ)宿がある。 上松は木曽路の中では、木曽福島には到底及ばないが、まあまあの大きさの市街地を有する。ここの宿なら、観光地然とした私には不似合いな観光旅館などではなく、商人宿とかビジネス旅館といった風情かもしれないと期待したのだ。 それに、上松町には名所の「寝覚の床」(ねざめのとこ)がある。明日はゆっくりそこでも観光しようと思う。
 
 宿泊情報の上松町の欄にあった4件の宿の内から、「新あづまや」を選んでみた。他はみんな「何々旅館」という名だが、この宿だけ違う。そんなことが選定理由だったかもしれない。 恐る恐る電話してみると、あっさり予約が取れた。さて、どんな宿であろうか。
 
 上松町では、上松第一、第二、第三と、3つの連続するトンネルによる国道19号の上松バイパスが既に完成(1998年)していた。市街地に入るには国道を外れなければならない。 第一トンネルの手前が複雑に分岐していたが、どうにか市街へと入って行った。 これまで上松市街は素通りばかりだったが、今後は尚更立ち入る機会が無くなる。これを機にちょっと街中の散策もしてみようと思う。
 
 目的の宿は旧国道沿いにあった(地理院地図)。 古くは中山道の道筋にも当たるようだ。道路沿いに「新あづまや」と看板が立っていた。江戸時代は税金(間口税)の関係から街道沿いに面する家の間口は狭く、奥に長い造りになっていることが多い。 今回の宿もそうで、その左右に並ぶ建屋も、同じような間口で並んでいる。約6m間隔だ。昔の尺度では3間(けん)ということになるのだろうか。

   

旧国道19号 (撮影 2001. 4.29)
広小路交差点の少し手前より南方向に見る
ここは元の中山道でもある
右手に「新あづまや」の看板が見える
 


宿の前の様子 (撮影 2001. 4.29)
奥のモルタル壁と手前の赤いポストとの間が今夜の宿の入口
 

 宿が見付かったのはいいが、車を停める場所はどうなるのだろうか。宿泊情報では「P有」となっていたのだが・・・。こうした込み入った街中での駐車場はいつも悩みの種だ。 幸い、宿の前の道は、バイパス完成のお陰で車の通りは少ない。 道路脇にちょっとジムニーを停めさせてもらい、宿の者に聞いて来ることとした。すると、対応してくれた女将の話では、その玄関先に停めていいとのこと。 確かに、車道に並ぶ歩道と建物の玄関との間に、車一台分程度のスペースはある。しかし、軽自動車でも車庫入れは難しそうだ。玄関に衝突しないかと緊張しながら、ジムニーをバックで入れる。 間口税は江戸時代の徳川三代将軍・家光によって定められたとも伝わるそうだが、400年後の私にその禍が降り掛かるとは思ってもみなかった。 ジムニーは玄関前にぴったり納まった。しかし、これでは他の泊まり客などが玄関を出入りする折り、ちょっと邪魔ではないかと思われた。
 
 宿の建屋の中は、単に奥に長いだけでなく、途中で横方向にも広がっていた。建物自体は新しいが、こうした敷地の様子は昔ながらのものであろう。 「新あづまや」という名も、古く江戸時代から続く「あづまや」という旅館を引き継いだものと思われる。女将に案内された部屋は畳敷きのゆったりした部屋だった。 かつては中山道を歩いて旅する者達が、こうした宿に泊まりながら旅を続けたのかと思う。建物は現代式だが、往時と同じ空間にいるような気がして、いい経験だと思った。 観光旅館などとは違い、こういうのが本来の旅の宿というものだろうか。
 
 宿には早々と午後4時頃には着いていた。夕食を予約してあったが、まだ時間があるので、一休みした後、上松の街中を見て回ることとした。 ただ、ジムニーはこのまま玄関先でおとなしくしていてもらい、徒歩で出掛けた。 まずは中央本線の上松駅へと向かった。宿から200m足らずの至近であった。ホームの様子や観光案合図などを見てから、付近をあてどなくさまよった。 狭い路地などにも入ってみた。小さな商店が多いが、どことなく活気が感じられなかった。そぼ降る雨のせいかとも思った。
 
 奈良井宿などは宿場内に通る道が狭く、早くから国道19号のバイパス路が完成し、その為、宿場内は古い姿を留めることとなった。それが幸いしてか、今では貴重な観光資源となっている。 馬籠宿なども当初から国道の経路から外されてしまっていた。一方、この上松などは市街地に通じていた中山道が徐々に車道へと改修されて行き、それでも結局は最後にはバイパス路が通ってしまった。 上松市街を少し歩いたが、かつての宿場を感じあせる物はほとんど見当たらない。雨足が強くなってきたこともあり、5時過ぎには宿へと戻って行った。

   

駅前にあった観光案内図 (撮影 2001. 4.29)
「ひのきの里 上松へようこそ!」とある
 

 部屋に運ばれて来た夕食は驚くほど豪勢であった。かなり奮発してくれたようだ。野宿で即席麺やレトルト食品ばかり食べているので、尚更驚いた。 ただ、食事のメインを張っているのは川魚であった。まだ若い私は肉ばかり好んで食べ、魚料理は大の苦手であった。 今でこそ魚も好んで食べるが、当時は滅多に口にしなかった。ましてや、頭から尻尾まで、皮ごと骨ごと内蔵ごと食べる川魚は、味がどうのこうのという前に、どうも気持ちが悪くてかぶりつけない。 少し箸でつまんだ程度で、魚料理はほとんど残してしまった。後で下膳にやって来た女将は、それを見てちょっと怪訝な顔付をしたように思えた。 そこでつい、「胃腸の具合が悪くて」、などと言い訳がましいことを言ってしまった。 確かに、野宿で体を酷使し、一日中ろくなものを食べていないので、腹の調子がやや悪いことには間違いなかった。 ただ、子供の頃からちょっとしたことでも下痢をする上、普段と違うこうした旅先では、胃腸の具合は絶好調、などということはあり得ない。病気という程の事態ではなかった。 暫くすると、女将が胃薬をもってやって来てくれた。有り難く頂戴する。ただ、私の腹痛はほとんど体質由来なので、これまで薬が効いたためしがなかった。
 
 翌朝の朝食は初めから抜きで予約してあった。なるべく早く宿を発ち、一般の観光客がやって来る前に、観光名所「寝覚の床」を見学してしまいたかったからだ。 野宿の朝などは4時台に起床、6時にはもうにジムニーを走りだしている。当時、早起きは何の苦にもならなかった。 宿賃は8,000円と消費税5%で合計8,400円を支払った。昨日の夕食からしても、この値段は破格だった。 昨晩の様子などからして、泊り客は私一人であったようだ。ジムニーもあまり邪魔にはならなかったと思う。
 
 出立前、女将に寝覚の床について尋ねてみた。地元で旅館を営んでいれば、こうした観光名所には詳しいことだろう。駐車場の有無などを聞ければと思った。 しかし本当は、このまま何も会話せずに出て行くのも、気まずいという気がしたからだった。いつも行き当たりばったりの旅をしている。車を停める場所などは、とにかく現地に行ってその場で何とかする。 もし適当は駐車場所が見付からなければ、そのまま見学することなく、次の目的地へと立ち去るまでのことなのだ。 女将は丁寧に駐車場のことなどを教えてくれた。新しいバイパス路が開通していたりしたが、そのお陰で迷うことなく観光することができた。朝まだ早い7時前の寝覚の床には、観光客など一人も居なかった。  

   

宿の名が入った箸袋と、領収書 (撮影 2023. 6.21)
記念にこうした物もとってある
 


宿でもらったタオル (撮影 2023. 6.21)
これを使うたびに、あの旅館の事を思い出す
 

 余談だが、この2日後、富山県高岡市内のあるシティーホテルのロビーで、同じく一人旅をして来た友人(今の妻)と落ち合った。その時のことを今でも妻はとても驚いたと話す。 フロントの前にここでは場違いなようなみすぼらしい男が一人立っていると思ったら、それが私だったそうだ。 痩せて手足ばかりが細長い猫背で貧弱な身体に、薄汚れてよれよれのジーパンとシャツをまとい、靴は野宿で泥だらけ、頭髪は暫く櫛を入れたことがないボサボサ頭、無精ひげを生やし、 生来の胃弱にレトルトなどの消化の悪い物を食べ続けているので、頬がこけて貧相な顔立ち、強い近眼で乱視のくせに、運転以外では面倒だからとメガネは車に置きっぱなしないので、 本人は気付かない内に鋭いまなざしを人に向けている。野宿続きでは鏡など見る機会がないので、自分がどんな風体なのかさっぱり分かっていない。きっと、愛想笑いも不気味だったことだろう。
 
 考えてみると、電話一本でどこの馬の骨とも分からないみすぼらしい男を受け入れた宿の方も大変だったことだろう。泊まる側も泊める側も、何かと気疲れするのだった。

   

 12年後の2013年5月、妻と木曽・伊那方面を旅行中に上松の近くを通りかかった。そこで、急に思い立ち、ちょっと市街に寄って見ることとした。 パジェロミニを駅前の駐車場に停め、歩いて30分程見て回った。駅から離れた旧中山道の一部に、往時をしのばせる古い家並みが少し残っているのを見掛けた。 ただ、あまり観光客が訪れている様子はなかった。
 
 最後に、以前一度泊まったあの宿を探してみた。しかし、正確な場所を覚えていなかったので、結局見付からなかった。もしかしたら、もう看板を降ろしてしまっていたかもしれない。 他の古くから続いているらしい旅館を見掛けたが、こうした宿は少なくなっている。これも世の趨勢だろうが、やや寂しい気がする。 一方、駅近くの旧国道沿いは、街灯が新しくなったり、沿道の家屋も一部建替えられたりしていて、小奇麗になった雰囲気だった。

   

市内の案内看板 (撮影 2013. 5.23)
下の方に宿屋の名がまだあった
 

2001年4月29日(木)
旅館・新あづまや泊

   
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