ホームページ★ 峠と旅
大平峠/木曽峠  飯田峠
おおだいらとうげ/きそとうげ  &  いいだとうげ   (峠と旅 No.211)
  木曽山脈を越える 歴史ある峠道
  (初掲載 2013. 7.18  最終峠走行 2013. 5.19)
  
  
  
大平峠/木曽峠 (撮影 2013. 5.21)
トンネルのこちら側は長野県飯田市上飯田(かみいいだ)
トンネルの向こう側は同県木曽郡南木曽町(なぎそまち)吾妻幸助(あずまこうすけ)
道は県道(主要地方道)8号・飯田南木曽線
峠の標高は1,358m(峠にある看板より)
ご覧の通り峠はトンネルであるが、
まるで土管のようである
  
  
峠の所在など
  
<序>
 久しぶりに本格的な峠道の掲載である。この峠は前々から取り上げたかったのだが、写真が不足していて、折角の峠だからあまり中途半端なこともしたくな かっ た。それで、これまで延び延びとなっていたのだ。それが今年(2013年)の5月に峠を再訪して、やっと掲載できる運びとなったのである。
 
 「大平」は「おおひら」と読みそうになるが、「おおだいら」が正しい。峠の近くにある集落名からきている。大平峠は別名、木曽峠とも呼ぶ。道路地図やい ろいろな案内看板などで、両方の名が併記されることも多く、現在でもどちらの名称も使われるようだ。木曽峠というだけあって、木曽山脈を越える峠である。 道は歴史ある大平街道であり、それもあって、ここでは基本的にこの峠を「大平峠」と呼ばせてもらう。
 
 大平街道はちょっと厄介で、大平峠以外にもう一つの峠を越える。それが飯田峠だ。この2つの峠は切っても切れない関係にある。それで飯田峠もこのページ に掲載する。そんな訳で、表題には大平峠、木曽峠、飯田峠と、峠名が乱立する結果となった。
  
<所 在> 
 大平峠は長野県の飯田市と南木曽町(なぎそまち)の境に位置する。天竜川水系の伊那谷(伊那盆地)と木曽川水系の木曽谷とを結ぶ峠だ。明るく広々とした 伊那谷に比べ、木曽谷は山が迫って急峻で険しく、その谷を流れる木曽川に沿って木曽路(中山道の一部)が通っている。沿線には奈良井宿(ならい)や妻籠宿 (つまご)、馬籠宿(まごめ)、 景勝地寝覚ノ床(ねざめのとこ)などがあ り、「木曽路」と聞くだけで旅心がそそられるというものだ。
 
<清内路峠との関係>
 伊那と木曽を結ぶ峠としては、大平峠の直ぐ南に清内路峠(せ いないじ)がある。阿智村(旧清内路村)と南木曽町を結ぶ。大平峠と清内路峠の道は南木曽町側で合流し、一緒になって木曽路に接続している。現在、清内路 峠には国道256号が通り、峠の清内路トンネルも確か1999年(2000年?)7月に新しいものが開通して、快適な道である。一方、大平峠は主要地方道 といえども、このページのトッ プの写真にもあるように峠は土管のような有様で、冬期は閉鎖となる。その為、大平峠は清内路峠の補助的な峠道の感が否めない。しかし、大平街道は伊那谷の 大都市・飯田市と木曽とを直接結ぶ道であり、歴史的には重要な街道であった。尚、清内路峠は別名・古木曽峠とも呼ばれたことがあり、大平街道の木曽峠(大 平峠のこと)とはやはり 因縁のライバル関係である。
 
<鳩打峠との関係>
 大平峠と飯田市街との間には、もう一つ飯田峠がある。その飯田峠の代わりともなる峠が
鳩打峠(はとうち)である。飯田峠が飯田市上飯田内から直接東の飯田市街へと続くの に対し、鳩打峠は上飯田か南の大瀬木(おおせぎ)へと下る。こちらは荒々しい未舗装林道の峠道(2001年現在)で、あまり一般的ではない。ただ、峠マニ アなら この峠と大平峠を組み合わせた旅も楽しい。
 
<その他の峠>
 木曽山脈を越える峠は、清内路峠の更に南にあの
神坂峠(みさか)がある。こちらはいにしえの東山道が越える別格の峠で、その内再度 掲載したい。木曽山脈を今度は北に目をやれば、ずっと北に権兵衛峠(ご んべえ)がある。この峠も面白く、その内詳しく再掲載したい。権兵衛峠の 更に北では最後に牛首峠(うしくび)がある。木曽山脈を越える峠道(車道)は数える程だ。
  
<水 系>
 峠を考える時、峠の両側の水系が何であるかが重要である。大平峠は東側が天竜川水系、西側が木曽川水系であることは間違いない。しかし、もう少し詳しく 見る必要がある。なぜ飯田峠というもう一つの峠が存在するかなどは、河川を辿っておくことが重要だ。
 
 まず簡単なのは峠の西側で、大平峠から西に流れ下った沢は桂川となり、南の清内路峠から流れて来た鍋割川に注ぎ、北流した鍋割川は蘭川(あららぎがわ) に注 ぎ、蘭川 は西流して最後に木曽川に注いでいる。大平峠や清内路峠の道は、ほぼこの河川に沿っていると見ていい。
 
 一方、大平峠の東側には奥石沢川が流れ下り、本流の黒川に注いでいる。黒川は南流して天竜川の支流・阿智川(あちがわ)に注いでいる川だ。しかし、大平 街道はその黒 川沿いには進まない。黒川流域から更に東の松川流域へ出ているのだ。ここで飯田峠の登場となる。黒川と松川を隔てる尾根を越えるのが飯田峠である。松川は その下流で飯田市街のど真ん中を貫通し、天竜川に注ぐ。大平峠に続いて飯田峠を越え、松川沿いに下れば、飯田市街へと至る最短コースとなった。
 
 仮に黒川沿いに下ったとすると、旧清内路村に入り、清内路峠から降りて来た国道256号に合流することになる。これではわざわざ大平峠を越えて来た意味 がない。その先、国 道256号は旧清内路村から旧阿智村(あちむら)へと南下、国道153号との併用区間になってから一転北上し、飯田市街へと出る。かなりの大回りである。 現に、黒川沿いを走り通す車道は存在しない。鳩打峠の鳩打林道が暫し黒川沿いを下るが、途中で鳩打峠を越え、茂都計川(もつけ)沿いへと出てしまう。こち らの方 が飯田市街へはやや近い。
  
<大 平集落>
 大平峠や大平街道の名の元になった大平集落は、まずその立地からして独特である。道の通じていない黒川の上流部に位置するのだ。大平集落の西には大平 峠、東には飯田峠、南には鳩打峠である。北は、木曽駒ケ岳の高峰に続く木曽山脈が連なっている。
 
 険しい地であることを示すのに、そこに行くには必ず峠越えをしなければならない、などと言われる。それ程山深い地であることを表現している。山梨県の旧 芦川村なども、村全体がそれに近い状態で、村の周囲は峠の宝庫となっている。それでも村の真ん中を流れる芦川に沿って外界と繋がる道が一本あった(
鶯宿峠を参照)。しかし、この大平は、それこそ峠道以外に村に通じる道はない。
 
 「大平」とは、「山中にある大きな平地」といった意味だそうだ。確かに黒川の谷がその部分だけ広がり、小盆地を形成している。ここに山中としては比較的 大きな集落が 発達した。残念ながら、昭和45年、住民は集団移転し、実質的には廃村となっている。ある意味、そこで大きな歴史は閉じた。しかし、その後、有志により村 は保存され、往時の宿場の雰囲気を今に留めている。
  
<大 平峠の魅力>
 大平宿は一見の価値がある。日本各地に宿場が再現されたり、中山道でも奈良井や妻籠、馬籠が観光地化されている。それらに比べ、大平宿は山中にあって 宿場としては規模が小さいが、当時の原型を今に残すその様相は、胸に迫るものを感じる。これこそ、足で歩いて旅をした頃の、嘘のない宿場の姿なのだと思わ せる。
 
 大平宿だけに限らず、大平街道にはそこここに歴史が刻まれている。有志により、沿道の看板なども整備されている。それらをあまり丹念に見て回っては、い くら時間があっても足りない程だ。
 
 また、木曽側にある木曽見茶屋付近からの眺めは良く、伊那側の松川沿いも風光明媚で、車で走っているだけでも楽しい峠道だ。大平峠に鎮座する土管も見よ うによっては味わいがある。歴史に詳しくなくとも、大平宿でちょっと往時を偲び、ひと時の峠の旅が楽しめる。
  
  
南木曽町から峠を目指す
  
<幸 助の分岐>
 大平街道とは、中山道の妻籠宿の南の端にある「橋場」を起点に、大平峠・飯田峠を越えて飯田で三州街道に合するまでを指すそうだ。現在、橋場から峠を越 える県道8号 が始まる幸助(こうすけ)まで、立派な国道256号が通じている。蘭川(あららぎがわ)右岸の高みを行く道で、旧大平街道とはほとんど無縁だ。多分、本来 の大平街道 は、もっと川沿いの人家の間を縫って通る狭い道の方である。
 
 その細い道を橋場方面からやって来て、本谷橋で蘭川の左岸に渡り、暫し集落内を登ると分岐が出て来る(下の写真)。左が「大平峠」、直進が「清内路経由  飯田」とある。ここは長野県木曽郡南木曽町吾妻(あづま)と呼ばれる地区で、更に細かくは「吾妻幸助」(あづまこうすけ)という所だと思う。大平峠を越 える県道は、古くは「幸助飯田線」と呼ばれたそうだ。現在の立派な国道256号が開通する以前、ここがその幸助飯田線の起点ではなかったか。今では集落の 端にひっそり佇む寂しい分岐である。
  

清 内路峠との分岐 (撮影 2013. 5.21)
左が大平峠へ、直進が清内路峠へ

分 岐に立つ看板 (撮影 2013. 5.21)
左:大平峠、右:清内路経由 飯田
  
<幸 助集落>
 その小さな分岐を後に、大平峠と書かれた方に進む。更に坂を上ると、左手に蘭川の支流・鍋割川沿いに広がる幸助集落を望む(下の写真)。この集落を過ぎ ると大平峠を越えた先にある大平集落まで、集落は皆無であった。峠越えを前に、ちょっとした覚悟が必要である。
  
集落を見下ろす (撮影 2013. 5.21)
  
<現在の国道との分岐>
 直ぐに大きな十字路に出る。前を横切るのは現在の国道256号、直進が大平峠に続く県道8号・飯田南木曽線だ。ここの方がお馴染みである。大平峠と清内 路峠を越えた回数だけ、この場所を通っていることになる。国道上に掲げられた道路看板には、県道方向を指して「大平高原」と出ている。峠の北側に県民の森 が広がっ ているが、そのことを言っているのだろうか。

国 道と交わる (撮影 2013. 5.21)
直進が大平峠へ
  

分 岐から国 道を橋場方向に見る (撮影 2013. 5.21)

国 道上から分岐を清内路峠方向に見る (撮影 2001. 4. 9)
この時は清内路峠を越えた
新しいトンネルが開通していた
  

峠 方向の看板 (撮影 2013. 5.21)
カラフルな看板は昼神温泉の物で、大平街道とは関係ない
<分岐の看板>
 国道からの分岐には、僅かながらも案内看板が立つ。「大平峠」、「長野県々民の森」、「木曽見茶屋」とある。カラフルな看板も並んでいると思ったら、国 道で清内路峠を越えた先にある昼神温泉の宣伝だった。県道とは全く関係ない。
 
 ここより峠や県民の森まで約5kmの道程だ。木曽見茶屋は峠の手前約1.5kmである。飯田市街までとなると、20km以上もあろうか。それにしては寂 しい分岐である。寂しい峠道の始まりだ。
  
  
県道8号を行く
  
  峠からこちら側(西側)の県道は、残念ながら古い大平街道とは全く別物である。旧街道は鍋割川のもっと上流部(南)より支 流の桂 川沿いへと進み、峠を目指したのではないだ ろうか。後に開削された車道は、北を大きく迂回して山肌を登る。
  

県 道に入る (撮影 2013. 5.21)
道路情報の看板が並ぶ
擁壁の上には木材店
これから先には人家はなさそうだ

左 とほぼ同じ場所 (撮影 2001. 4.29)
十年一日のごとく、ほとんど変わりはない
  
<道路情報の看板>
 県道に入ると直ぐに、道路情報の看板が立つ。
 
 道路情報
幸助〜飯田市市ノ瀬橋間
通行注意
 
 高さ制限予告
この先大平トンネル
3.3mを超す車輌は通行
できません
 
 これまで峠にあるトンネルは名前がないのかと思っていた。そもそもあれがトンネルかどうかも怪しい。スノーシェッドの類かもしれないのだ。しかしやっぱ り「大平トンネル」呼ぶトンネルだった。でもこの看 板以外に「大平トンネル」と書かれているのを見たことはない。

道 路情報 (撮影 2013. 5.21)
  

県 道標識 (撮影 2013. 5.21)
<最初の県道標識>
 右手に木材が積まれた工場がある。木曽桧(ひのき)を使った建具などの木材を扱っている ようだ。左手には県道標識が立つ。地名は「南木曽町幸助」 となっていた。
  
 下には国道が通じるのが見え る。
 
 道はその先、小さな九十九折りで登って行く。沿道に人家はない。「大 平街道の改善促進を」と書かれた大きな看板が立つ。峠にあるあのトンネルが付け替 えられる日は来るのだろうか。
 
 間もなく道は林の中に入って、視界が閉ざされていく。

下 を通る国道を見る (撮影 2013. 5.21)
  

幅 員減少の看板 (撮影 2013. 5.21)
<幅員減少>
 左に小さな分岐があり、そこから先、更に道が狭くなる。「幅員減 少 通行注意」の看板が立つ。峠方向を指して、「大 平県民の森」、「木曽峠飯田市」とあ る。看板よって大平峠と言ったり、木曽峠と呼んだり、ちょっと紛らわしい。
  
  
ゲート区間へ
  
<夏焼のゲート箇所>
 道が小さな分岐を過ぎ、完全 に林の中に入ると、直ぐにもゲート箇所に差し掛かる。大平峠は冬期通行止の道であるが、もうここから通行止となるらしい。国道から分かれて、まだ数 100mしか来ていない。この先、人が住む人家はないことになる。

ゲー ト箇所 (撮影 2013. 5.21)
  
<夏 焼の県道標識>
  ゲートの先の左手に県道標識が立つ。この峠道でこうした県道標識はあまり多くない。最初の内だけこまめに立っている。地名には「南木曽町夏焼」とある。道 路地図などでは、この「夏焼」の地名は見掛けない。 古い道路地図の通行止区間で、「幸助夏焼〜一ノ瀬橋」 と書かれたものがある。このゲートがある地を夏焼 と呼ぶようだ。また、峠の北400m程の所に夏焼三角点(1502.9m)がある。夏焼山とも呼ばれるようだ。
  
左手に県道標識が立つ (撮影 2013. 5.21)
地名は「夏焼」
  
<カーブ番号>
 道は一路、桂川方向へ進むが、川沿いまでには至らず、桂川の北に連なる尾根付近 を大きく蛇行して登りだす。カーブが多くなると、お決まりのカーブ番号が出て来る。いつも気になるのだが、結局、何番から始まったかは確認していない。多 分 50番台だったようだ。登るに従ってカウントダウンし、峠の直前で1番になる。
 
 道は尾根上を進むので、谷底を行くのに比べると、やはり明るい感じがする。しかし、あまり眺望は開けない。南に横たう桂川の谷間を垣間見る程度である。
  

林 の中 (撮影 2013. 5.21)

へ ピンカーブ (撮影 2013. 5.21)
  
<道 の様子>
 
道幅は1.5車線程度。ややき ついカーブもあるが、概ね走り易い。ガードレールも完備で、危険も感じない。偶然だろうが、この道で対向車との離合に苦労したという記憶はない。交通量も 少ないようだ。
  
  
旧街道との接点
  

こ の先、車道は左の急カーブ (撮影 2013. 5.21)
旧街道はここから真っ直ぐ峠へ
この左手の路肩に駐車場
<旧道分岐>
 道は、登るに従い桂川の源頭部に近付いて行く。路側帯の僅かな空き地に「駐 車場」と書かれた看板が立ち、何があるのだろうかと思うと、その先のヘアピンカーブの地点から山道が始まっている。
 
 ここは、桂川に近い部分を登る旧道と、尾根に近い所を登る車道が、一瞬接する地点である。ここから東に位置する峠まで、ほぼ真っ直ぐに旧街道は登ってい た。
江戸時代のその道は、今は整備され、遊歩道となっているらしい。峠まで 1.1km、約30分と案内看板にある。
  

旧 大平街道への入口 (撮影 2013. 5.21)

「大平峠県民の森の紹介」の看板が立つ (撮影 2013. 5.21)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
  

旧 道を背にヘ アピンカーブを見る (撮影 2013. 5.21)
左が幸助へ、右が峠へ

こ このカーブ番号は20号 (撮影 2013. 5.21)
  
<熊 よけ>
 
この旧街道の入口には、いろい ろな物がある。トイレや各種の案内看板が立つが、ちょっと面白い物では、熊よけの道具が用意されている。木の棒と金属のパイプがぶら下がっていて、どうや ら棒でパイプを打ち鳴らすようだ。音を出して熊を寄せ付けないようにするらしい。但し、持ち運ぶ訳にはいかず、旧街道を歩き始める前に、鳴らしておくので ある。今回は旧街道を歩く積もりはないが、試しに鳴らしてみた。それなりに大きな音が出る。これと同じ物が、この後に出て来る登山道入口の随所に見られ た。
 
<熊対策/余談>
 よく、「熊出没注意」などと危険を知らせる看板は見掛けるが、こうして具体的な手段が用意されているのは初めてである。この10年ぐらい、熊の被害をよ く耳にするようになった。以前、頻繁に出掛けていた野宿旅では何度か熊に遭遇したが、世間ではまだ熊の被害に遭う実例は少なく、怖いなりにも野宿旅は続け ていた(
ま、熊、クマ)。しかし、この頃は人里に近 い所でも被害が発生している。山中の野宿など、もう恐ろしくてできたものではない。この頃は、野宿や山歩きをする積りがなくても、熊よけの鈴やベルを旅に もって行くことにしている。山の中で見付けたちょっとした散策路を歩く時でも、念の為に鈴やベルをリックにぶら下げることにしている。峠道の旧道探索には 欠かせな いグッズになってきた。
  

熊 よけ (撮影 2013. 5.21)
木の棒と金属パイプがぶら下がっている

熊 よけの看板 (撮影 2013. 5.21)
  

県民の森案内図 (撮影 2013. 5.21)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
<県民の森案内図>
 旧街道入口には、「大平峠県 民の森案内図」も立っている。そこに掲載されている地図は、峠道全体の概要も書かれていて参考になる。峠については、大平峠と木曽峠が併記されている。峠 から西に流れ下る川は、「荒道沢」とある。桂川の源 流の沢の一つか。県道名はまだ「幸助飯田線」となっ ている。この看板自体が古い物であることが分かる。この県民 の森の案内看板は、県道上の主要な所に立っている。
  
  
木曽見茶屋へ
  
<木曽見茶屋>
 旧街道が東の主脈上に位置する峠を目指して直登するのに対し、旧街道入口を 過ぎた県道は、間逆の西へと支尾根の腹を登って行く。そして、その尾根の上部を一度北へと回り込む。そこは尾根上の高みであり、北への展望が広がる。その 好立地に木曽見茶屋がある。
 
<木曽見茶屋周辺>
 路肩に木造の素朴な小屋があり、看板に木曽見茶屋と書かれている。周囲には車が10台前後停められるスペースが設けられていて、側に石碑や看板などが並 ぶ。道路から直ぐ北側に展望が開け、この大平街道の中では、1、2を争う休憩スポットである。峠で車を停めたり、長い時間を過ごす者は少ないかもしれない が、 この場所なら大抵の旅行者は立ち止ることだろう。

前 方が木曽見茶屋 (撮影 2013. 5.21)
この先、北側に展望が広がる
  

木 曽見茶屋の周辺 (撮影 2013. 5.21)
峠方向を見る
石碑や看板などが並ぶ

木曽見茶屋の周辺 (撮影 2013. 5.21)
南木曽町方向を見る
正面に建つのが木曽見茶屋
  
道路脇から眺められる景色 (撮影 2013. 5.21)
  

木曽見茶屋の周辺 (撮影 2001. 4.29)
南木曽町方向を見る
北側(右)に展望が広がる
<歌碑>
 木曽の山々を眺めることから「木曽見茶屋」と呼ばれるのだと思うが、その展 望もさることながら、側に立つ石碑や看板などを見るのも楽しい。中でも目立つのが斉藤茂吉の短歌を刻んだ石碑である(下の写真)。
 
麓にはあららぎという村ありて
吾にかなしき名をぞとどむる   茂吉
 
 斉藤茂吉が昭和11年10月16日に大平峠を越えた時に詠んだものだそうだ。大平街道は明治38年には改修され、ほぼ現在の県道のコースとなっている。 多分、斉藤茂吉は車で峠を越えたのだろう。
  

斉 藤茂吉の短歌の碑 (撮影 2013. 5.21)

石碑の説明文 (撮影 2013. 5.21)
文字がかすれてやや読み難い
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
  
 石碑に並ぶ木板に彫刻された説明文は、月日が経って今は読み難くなっている。 以前はもっとはっきりした文字だったのだが、その時写した写真は残念ながらピンボケであった。最近のデジカメは解像度がよく、手振れ防止機能もあり、こう した看板を写しておくのに便利である。
  
  
展望台へ
  
 木曽見茶屋の近くからも景色は見られるが、駐車場の脇から階段を上った先に展 望 台がある。歩いて数分なので、ちょっと立寄るのが良い。一部分、林の中の道だが、熊よけの鈴は要らないだろう。
    

展 望台の案内看板 (撮影 2013. 5.21)

看 板の矢印が差す方向に階段 (撮影 2013. 5.21)
  

木 曽見茶屋近辺を見下ろす (撮影 2013. 5.21)
展望台への階段途中から

左 とほぼ同じ場所 (撮影 2001. 4.29)
偶然同じようなアングルで写真を撮ってあった
  
<展望>
 夏の前後などでは、茶屋の脇からではやや草木がうるさくて展望を妨げている が、展望台に登ると、視界はグッと広がる。正面にドッシリ構えるのは南木曽岳(1677m)で、南木曽町のシンボルとも言える山だろう。看板によると、遠 く御岳山、乗鞍岳、奥穂高岳も望めるらしいが、素人の私には判別は難しい。
 
 南木曽岳の手前には蘭川の上流部の谷が横たえる。その支流・長者畑川の源頭部には、旧中山道の与川(よがわ)へと越える与川峠がある。残念ながらそこを 通る林道は通行止であった。2001年に訪れた時も同じ所にゲートが閉ざされ、この12年の間、状況は変わらないようであった。

展 望台 (撮影 2013. 5.21)
ここで良い眺めが得られる
  
展望台からの眺め (撮影 2013. 5.21)
  

富 貴畑高原温泉郷 (撮影 2013. 5.21)
左手手前が床浪荘、右奥がホテル富貴の森 
<余談/床浪荘>
 蘭川の左岸に建物の一群が見える。富貴畑(ふうきばた)高原温泉郷で、その一角に公共の宿・床浪荘(とこなみそう)がある。大平峠越えの前日に宿泊し た。宿の係りの男性が話好きで、部屋や食堂でよく話し掛けてきた。宿のことを静かだけが取柄です、などと言った。時には賑わうこともあるらしいが、私たち が投宿した日は、他に1組の客が居るだけで、確かに静かな一夜だった。
  
  その客は中年女性と初老の男性の2人組みで、女性の方と廊下で少し立ち話をした。夫が直ぐそこの蘭(あららぎ)の出身だそうだ。その日は、義父と一緒に実 家の家の掃除などに来たとのこと。現在は藤沢(神奈川県)にお住まいで、実家は現在は無人。時々こうして家を見に来ているらしい。そして宿泊は近くの旅 館などを選び、その床浪荘にも何度か泊まったことがあるそうだ。
 
 私達は単なる通りすがりの旅人で、「あららぎ」と呼ばれる地名も、珍しいものに聞こえる。斉藤茂吉に関して「アララギ派」などと学んだような気もする が、それがここの地名とか川の名前だとは、大平峠を越えるまで全く知らなかった。その蘭集落に生まれ、蘭川を眺めて育った方達は、自分の出身地として「あ ららぎ」を身近なものに感じることだろう。
  
  
木曽見茶屋以降
  

夏 焼山への道が分岐 (撮影 2013. 5.21)
<夏焼山入口>
 木曽見茶屋
から峠までは、後2km弱の道程を残す。道は木曽見茶屋を過ぎると、尾 根の北側からまた南へと移る。その部分で尾根上を行く山道が東へ分岐する。夏焼山入口(パノラマコース)とある。例の熊よけの道具も完備だ。
 
 この県道沿いには木曽見茶屋が開かれたり、県民の森に関係したこのような登山道も整備されているが、江戸時代の旧大平街道とは無縁である。しかし、明治 期以降、ここが新しい大平街道となってからも、それなりの歴史を重ねてきている。大平峠を越えた多くの旅人が、木曽見茶屋で休息し、木曽山脈の眺めを堪能 したことだろう。
  
 道は峠がある方の谷に移り、 後は峠に一目散である。ヘアピンカーブはなくなる。道は山腹の凹凸に従い左右に屈曲しながら、山肌を横切って行く。
 
 道の右手には桂川上流部の谷が広がる。大平峠の南木曽町側としては、この付近が地形として一番険しい。一部に法面の落石防止ネットが張られたりする。し かし、断崖絶壁を進むという程ではない。馬車でも往来可能な道として開かれた新大平街道である。

尾 根の南側を進む (撮影 2013. 5.21)
  

1 号カーブ (撮影 2013. 5.21)
<1号カーブ>
 谷の源頭部に近付くに従い、右下から谷底が登って来る。周囲は穏やかな地形 に変わって行く。すると、ガードレール脇の看板に「1号カーブ」と出て来た。峠までもう200m程だ。
  
  
峠手前の広場
  

  大平峠の峠部分はトンネルになっているが、そのトンネル手前50m程は狭い切通しのようになっている。車を停めるスペースはない。代わりに、切通しになる 直前に広場がある。周辺にトイレや東屋やベンチが設えてある。旧大平街道もこの脇まで登って来ている。
  

峠 の手前 (撮影 2001. 4.29)
前方に大平トンネル
ジムニーの後ろはトイレ

左 とほぼ同じ場所 (撮影 2013. 5.21)
  

ト イレ周辺 (撮影 2013. 5.21)
この左に旧大平街道への道が下る

兀 岳(はげだけ)登山道の案内など (撮影 2013. 5.21)
  
峠手前の広場付近 (撮影 2013. 5.21)
南木曽町方向に見る
左に県道が下り、右に広場がある
  

南 木曽町側を見る (撮影 2001. 4.29)
上の写真とほぼ同じ場所
ジムニーの向こうにベンチがある
 2001年に来た時は、もっと展望が開けて明るい場所だったように思ったが (左の写真)、今回は、比較的木々に覆われ、見通しが利かない感じであった。
 
 2001年には、ここで昼食を摂った。東屋がある広場の方ではなく、道の反対 側にベンチがあり、そこから眺めを堪能しながらラーメンをすすったようである。その時の写真と今を見比べると、やはり木々が成長し、展望が悪くなったよう であ る。
  
 それでも広場やその周辺は、 県民の森の一環か、良く整備されている。いろいろな案内看板もそこここに完備され、野鳥図鑑の看板なども面白く眺めた。

峠 手前の広場 (撮影 2013. 5.21)
右手奥から夏焼山への登山道が始まる
  
  
  
大平峠の南木曽町側 (撮影 2013. 5.21)
  
大平峠の南木曽町側 (撮影 2001. 4.29)
今から12年前の様子
右手に大平街道の大きな道標が立つ
  

上 とほぼ同じ場所 (撮影 2013. 5.21)
 狭い切通しの向こうにトンネルがある。手前の広場に車を停め、歩いて見学す ることとなる。トンネル坑口の直前に「大平街道」と大書された道標が立つ。これは大平峠の一つのシンボルになっている。
  
  
峠のトンネル
  
 峠はトンネルだが、このトンネルが一風変わっている。これが大平峠の一番の シンボルだ。坑口上部に掲げられた表札には、右から左に「木曽峠」とある。「何々トンネル」とか「何々隧道」ではない。どこを見てもトンネル名は見掛けら れない。
 
 道路地図などでも、峠名は記されていても、トンネル名はない。国道からの分岐近くにあった高さ制限予告の看板に「大平トンネル」とあるのを見たの が唯一である。それも正式な名前かどうかは怪しいものである。

「木 曽峠」とある (撮影 2013. 5.21)
内壁のヒビの補修が行われている
  

大 平トンネル (撮影 2013. 5.21)

左 とほぼ同じ場所 (撮影 2001. 4.29)
  

ト ンネル上部の様子 (撮影 2013. 5.21)
 それに、トンネルと呼ぶには ちょっと気が引けるような代物でもある。土管の下半分が土に埋まったような状態なのだ。コンクリートの上部は露出していて丸見えである。コケが生え、枯れ 葉が覆い、倒木の枝がもたれ掛かっている。何だか山に埋もれた前世紀の遺跡でも見ているようだ。しかし、これが現役の主要地方道が通過する峠に横たわって いるのだ。峠の味わいも度が過ぎると、これでは冗談のようである。
  
  
峠の道標など
  
 坑口の前に佇む道標のことは、文献にも記されている。峠の東に飯田峠があ り、ともに大平街道と刻まれた御影石の道標が立つ、とある。
 
 道標に向かって左側面には、
自 明治三十二年
至 明治三十八年 改修
 右側面には、
自 飯田町 始点 五里二十七町三拾五間
自 吾妻村 終点 五里二十間
 とある。
 
 この明治期の改修により、ほぼ現在の県道と同じあるいはそれに近いルートに新しい大平街道が通じたものと思う。はたしてその時に大平トンネルも造られた かは不明だ。大平ト ンネルは切通しの両側から土砂が崩れてくるのを防止するような感じである。もしかしたら、初期の新大平街道は切通しで、後にトンネル化されたのかもしれな い。

道 標と小さな石仏 (撮影 2013. 5.21)
  

道 標の右側 (撮影 2013. 5.21)

道 標の左側 (撮影 2013. 5.21)
  

道 標と石仏 (撮影 2001. 4.29)
 道標では、飯田町の始点から峠まで約22km、吾妻村の終点から峠まで約 20kmと読める。飯田町の始点とは、三州街道、現在の国道153号ではないだろうか。吾妻村とは現在の南木曽町の大字である「吾妻」の範囲だと思う。終 点か らの距離20kmは、橋場ではなく、国道19号からの分岐点(吾妻橋)ではないかと想像する。
 
 大きな道標の足元にも、2つほど小さな石塔・石仏が並ぶ。「馬頭観世(音)」とか「南無阿弥陀(仏)」と書かれているようだが、下の方は土に埋まってい て読め ない。古そうな物で、もしかしたら明治期の改修前、既に峠にあったものかもしれない。
 
 現在の峠にはトンネルが置かれているので、明治期の改修前の古い峠の様子はもう分らない。峠の場所は、その地形からして、トンネルのある位置がほぼ昔の 峠の位置と同じと 思われる。もし、昔の峠に石仏などがあったら、道の改修と供に現在の場所に移された可能性がある。
  
  
トンネルの後方
  

  下の写真は、トンネルを背に南木曽町方向を見た時のものである。飯田市側からトンネルを抜けると、このように見える。峠は市町境であるので、こちら側の看 板には「南木曽町」と出ている。その看板の直ぐ後ろに道標が立つ。
 
 現在の車道と江戸期までの大平街道はほとんど別物だが、そこに見える数10mの区間は、新旧の道が一致するのではないだろうか。ただ、今あるアスファル ト路面の数m上に、山道が通っていたことと思う。トンネルの上部辺りから続く細い山道である。そこを飯田藩の藩主が大坂に向けて越えたり、商人や伊勢詣 り・善光寺詣りの旅人達が歩いて行き来したのだろう。
  

ト ンネルを背に南木曽町方向を見る (撮影 2013. 5.21)

左 とほぼ同じ場所 (撮影 2001. 4.29)
  
  
峠の飯田市側
  
トンネルの飯田市側の坑口 (撮影 2013. 5.21)
  
上の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2001. 4.29)
トンネル横に雪が見える
  
 大平トンネルの佇まいは飯田市側でもあまり変わらない。やはりこちらの表札 にも「木曽峠」とある。無骨なコンクリートで、老朽化も感じられる。

こ ちらも木曽峠とある (撮影 2013. 5.21)
  

ト ンネル上部に明り採りの窓 (撮影 2013. 5.21)
 トンネルの長さは100mも ない。60mくらいか。電灯の設備など皆無だが、面白いのは、代わりに明り採りの窓が天井に数箇所空けられていることだ。どの程度役に立つかは疑問だが、 コンクリートの屋 根の上が地上に露出している、この大平トンネルならではの仕掛けである。
  
トンネルの飯田市側 (撮影 2013. 5.21)
トンネル直前はカーブになっている
  
 トンネルを出た飯田市側は、道が直ぐにカーブしているので、なかなか正面にト ンネルを眺められない。「県道8号 大平峠」の看板が立つのだが(下の写真)、もうその位置からはトンネルはカーブの先に隠れている。尚、こちらには市町 境を示す「飯田市」の看板はなかったようだ。
    

ト ンネルの少し手前 (撮影 2013. 5.21)

左 とほぼ同じ場所 (撮影 2001. 4.29)
  

木 曽峠の看板 (撮影 2013. 5.21)
標高1358mとある
<峠の標高>
 飯田市側には大平峠とか木曽峠と書かれた看板が幾つか立ち、標高も記されている。どれも、1358mとある。
 
 念の為、国土地理院の1/25,000地形図で確認すると、トンネル坑口(路面)の標高は1350mの等高線を下回っている。一方、トンネルの上を通る 市町境はどうにか1350mを上回る。
 
 多分、看板などにある標高1358mとは、古くからの大平峠のことではないだろうか。明治期以降に設置されたトンネルの標高は、当然それより低くなる。 トンネルの高さ制限が3.3mで、トンネル自身それ程大きな物ではない。路面からトンネル上部までの高さはせいぜい6mか。予想では、現在のトンネル上部 の標高 は1358mに届かない。昔の峠は、現在のトンネルより更に高い位置にあったのだろうか。
  
 トンネルを飯田市側に出て、直ぐのカーブを曲がると、その先100m程の直 線路が待っている。道の両側から山が迫り、切通しの状態だ。大平峠はトンネル部分よりその前後の切通し区間の方がずっと長い峠である。昔の峠も、峠からの 眺望はほとんどなかったことだろう。上を見上げると、両側から覆いかぶさる木々により細長く切り取られた青空がのぞく(下の写真)。昔の旅人も、この空を 眺めながら峠 を越えたのだろうか。

カー ブの先から飯田市方向を見る (撮影 2001. 4.29)
  
上とほぼ同じ場所 (撮影 2013. 5.21)
  
  
飯田市側に下る
  

直 線路の先のカーブ (撮影 2013. 5.21)
左に夏焼三角点への登山道
 飯田市側の直線路が終る所で、左に登山道が始まっている。峠のこちら側から 夏焼三角点に登る道だ。0.9KMとある。また、県道を木曽見茶屋まで2.0KM、飯田市側にあるキャンプ場まで1.0KmMとある。付近は、県民の森と しいて、こうした案内看板が充実している。
  
 直線路に続く右カーブを曲が ると、飯田市側最初の県道標識が立つ。地名は「飯田市大平」 とある。
 
 飯田市側の道は穏やかだ。直ぐにも沢沿いに下る。峠から流れ下るチョロチョロとした小さな流れを道の脇に見る。まだ川や沢などと言う代物ではなく、僅か な溝でしかない。これが行く行くは黒川・阿智川となって天竜川にも注ぐ。大平峠から最初に下る沢の名前は不明だが、黒川の支流・奥石沢川の、そのまた支流 と思われる。
 
 最初はその沢の様子も不明確だが、その内はっきりとした沢の流れが道の右手に見える。

県 道標識は飯田市大平とある (撮影 2013. 5.21)
  

右 手に沢を望む (撮影 2013. 5.21)

穏 やかな道が続く (撮影 2013. 5.21)
  
<キャ ンプ場入口>
 
地形が穏やかで道も安定してい る分、遠望はないが、比較的明るい雰囲気であ る。この先にある大平集落は広い盆地であるが、この峠直下の谷もやや開けた地形になっている。
 
 その地形を利用してか、近くにキャンプ場が設けられている。道の右手に「大平峠県民の森きゃんぷ場入口」と大きな看板が出て来る。その脇を車道が一本、 沢筋へと下っている。
  

比 較的明るい道が続く (撮影 2013. 5.21)

右 手にキャ ンプ場入口 (撮影 2013. 5.21)
  
  
県民の森への分岐
  

左 に県民の森への分岐 (撮影 2013. 5.21)
 峠のトンネルを出てから1km程で、左に分岐がある。入口に「大平峠県民の森」と大書された看板が立ち、これまでも何度か見 掛けた案内図が並んで立っている。
 
<奥石沢川>
 その分岐の直前、県道は小さな橋を渡っている。橋の袂に「ここは  標高1,292m 奥石澤橋 おくいしさわばし」と、ご丁寧に看板が立つ。橋の名前か らして、これが奥石沢川であろう。川の上流部は、分岐する県民の森へと続く道の方角である。
  
<県民の森>
 県民の森へは少し立寄った。県道から800m程、コンクリート舗装及び砂利の道が奥石沢の上流方向に伸びている。車道の行止りには、駐車場や管理棟が あった。何か特別な施設があるというより、ただただのどかな草地が広がるばかりだ。
 
 折しも、一人の女性が、車の脇で登山の身支度をしている真っ最中であった。なかなか大きなリックを背負っている。これから縦走するのだろうか。この周囲 には四方に 登山道が延びていて、どちらかと言うと、ここは登山基地のような役割があるのではないだろうか。

分 岐直前で奥石澤橋を渡る (撮影 2013. 5.21)
  
  
県民の森分岐以降
  
 県民の森から戻って県道の続きを下る。道は暫く奥石沢川の左岸を行く。間もな く、キャンプ場からの遊歩道が右から合流する。峠から沢沿いに下ってキャンプ場付近を通り、奥石沢川を渡ってその左岸に出る方が近道である。多分、改修以 前の大平街道は、そちらを通っていたのではないだろうか。よって、キャンプ場からの道を合した付近からは、現在の県道も昔の大平街道とほぼ同じルートと思 われる。
 
 道は穏やかである。新緑の頃などは、鮮やかな緑がまぶしいくらいだ。
  
穏やかな道が続く (撮影 2013. 5.21)
  

盆 小屋の看板 (撮影 2013. 5.21)
 この先に、保存された大平集落があることもあって、沿道に有志によって立て られた案内の木製の札がいろいろ出て来る。「ここは 猿小屋澤 さ るこやさわ」などとある。奥石沢川の支流だろう。道路地図や地形図などには到底掲載され ない小さな沢の名前である。
 
 「盆小屋(ぼんごや)」というのがあった。「昭和5年ころまで木地師の住居がありました」とある。山深い峠 道などでは、こうした木地師(きじし)が住み 着いていたといわれる場所が日本各地に見られる。木地師とは山で取れる木材を原料に、ろくろを使ってお椀やお盆などの生活用品を作って生業としてい た人達だ。
  
 「盆小屋」と呼ばれることから も、やはりお盆などを主に作っていたのだろう。小さく粗末な小屋の中で、日がなろくろを回して木を削る。何とも素朴な暮らしが目に浮かぶようだ。
 
 そもそも大平集落の興りも、この木地師の定着に始まったと言われる。その後、 宝暦4年(1754年)、飯田大横町の山田屋新七が飯田藩に許可を得て、正式に村を開発したそうだ。
 
 その後も、「蛇洞澤(じゃぼらさわ)」とか、「里屋(さとや) 木曽峠まであと3.5Km」などと木の札が 立っていた。
  
  
大平集落へ
  

家 屋が出て来た (撮影 2013. 5.21)
 最初、左手に家屋が見えてくる。表札に「大原屋」とある。ここより大平集落 に入る。進むに連れ、道の両側に民家が多くなる。薪が母屋の横に積まれていたりするが、やはり人が住んでいる訳ではなさそうだ。夏などの一時期に滞在する のかもしれない。
 
 集落内に入って200m程行くと、県道が左にカーブする所を直進方向に未舗装の道が始まっている(下の写真)。その道には特に民家が密集して保存されて いる。
  

右 手に歩道があり、そこに入ると民家が並ぶ (撮影 2013. 5.21)

左 とほぼ同じ場所 (撮影 2001. 4.29)
  

保 存された大平宿の入口 (撮影 2013. 5.21)

左 とほぼ同じ場所 (撮影 2001. 4.29)
訪れた観光客でまあまあ賑わう
  
 道の入口近くには駐車場の広 場やトイレ、いろいろな看板が立ち、この部分だけはちょっとした観光地の雰囲気がする。実際に、休日などにはそれなりの観光客で賑わっている。以前、寂し い鳩打峠を越えてやって来ると、県道にまであふれる多くの人達で賑わっているので、驚かされたことがある。このような山深い地に、よく訪れる人達が居るも のだなと思った。
 
 案内図などを見ると、黒川の右岸側にあるほんの小さな支流・イドツカワに沿う道の両側に、多くの民家が保存され、特にその場所が往時の宿場の雰囲気を留 めている。

大平宿周辺案内図 (撮影 2013. 5.21)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
  

大平宿郷土環境保全地域の看板 (撮影 2013. 5.21)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
 この地は江戸期から明治8年まで大平村と呼ぶ村であった。元々、飯田から 当村を通り木曽に抜ける道が通じていたが、宝暦5年(1755年)、幕府から大坂加番(かばん)(大坂城の警備職)を命じられた飯田藩主が、その道の改修 を命じた。その後、飯田と木曽を結ぶ交通路として利用が多くなり、大平村は宿場としての役割を担っていくようになる。大平街道にあっては、ほぼ唯一の宿場 であった。
 
 その為、現在も保存されている大平の民家は、休み茶屋など宿場としての形態を残している。県道から少しそれて、往時の宿場の様子を見てみる。
  

大平宿郷土環境保全地域の看板 (撮影 2001. 4.29)
上の木製の物とほの同じ内容
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)

  
  
大平宿を見学
  

民 家の様子 (撮影 2013. 5.21)

民 家の様子 (撮影 2013. 5.21)
  
 県道から分かれた道は、辛うじて軽自動車が一台ほど通れる狭さだ。その両側 に、詳しいことは分らないが、どこか一般の民家とは違う宿場町らしい造りの建物が並ぶ。その昔、この道を旅人が通り、適当な茶店を選んで入っては、茶菓子 で旅の疲れを癒したのだろう。またある時は、この宿場の旅籠に投宿する者も居たことだろう。旅籠といっても、それ程大きな建物はない。どの家も、母屋とは 離れた所に厠(トイレ)が設けられていた。積雪も多いこの寒い地にあっては、その不便さが察せられる。宿場の本物が、この地に残ってるのだと感じた。
 
 個々の家屋の様相もさることながら、南北約300mに通じる一本の土の道を中心に、その両側に家屋が並んだ様が、いかにも宿場の雰囲気をかもし出してい る。現在の大平街道である舗装された県道沿いでは、この雰囲気は出ない。

集 落の様子 (撮影 2013. 5.21)
側にイドツカワが流れる
  
<イ ドツカワ>
 
旧街道に沿って、側溝のよ うな水の流れがある。黒川の支流で、案内看板の地図によると「イドツカワ」と呼ばれるようだ。かつては各家の生活用水として使われてきたのだろう。今でも 清らかな水を流している。
 
<小黒川>
 尚、ここより西に、峠方向jから流れ下って来た奥石沢川が、イドツカワとほぼ並行に流 れている筈だが、案内看板ではその川を「小黒川」と 記していた。小黒川の上流部が奥石沢川なのか、あるいは奥石沢川の別名が小黒川なのか、とにかく一般の 地図に「小黒川」の記載は見掛けない。黒川を旧清内路村まで下った所には、別の小黒川という支流が道路地図にもある。
 
 大平宿で言われる「小黒川」は正式 名称ではなく、この集落だけで使われる俗称ではないかと想像する。大平宿を流れる本流の黒川に対し、その支流なので小黒川と呼んだのでは。奥石沢川などと 呼ぶよ りは、簡単で分り易い。
    
集落の終りから集落方向を見る (撮影 2013. 5.21)
  
 人家が過ぎると、イドツカワは 左手の林の中へと消え、道は黒川の右岸沿いへと狭く急な坂を下って行く。そこで大平宿の集落も終わる。
  
  
街道の本線は?
  

集 落の終わりから先の道 (撮影 2013. 5.21)
ここより道は狭い急坂となる
<道筋の疑問>
 ここで大きな疑問がある。この部分の集落は、県道から分かれた枝道沿いにある為、その路面も舗装されずに残ったと言える。すなわち、大平街道の本線では ないのだ。この集落を過ぎて更に黒川沿いに下れば、その先に待っているのは南の鳩打峠である。大平街道はこの大平集落より東の飯田峠へと登って行かなけれ ばならない。
  
 ちなみに集落の外れから狭い 道を下って行くと、黒川を渡って左岸に出る(下の写真)。その左岸沿いには鳩打峠に続く鳩打林道が通っている。林道を上流方向に進めば、現在の大平街道の 本線である県道に戻れる。しかし、そこまでの道沿いには人家や人家があった形跡などほとんど見掛けられず、やはりそこは大平街道とは思えない。
 
 集落からの道が林道に接続する部分で、東へ諏訪神社への登り道がある。神社を経由して更に東へ抜けられれば、飯田峠には近い。ただ、その様な道があるの かは確認していない。

集 落の先より鳩打峠方向に進む道 (撮影 2013. 5.21)
  

黒 川左岸を行く鳩打林道 (撮影 2001. 4.29)
奥が鳩打峠方向、手前は県道へ
右に橋を渡って集落への道が分岐
左は諏訪神社へ

橋 上から黒川を下流方向に見る (撮影 2001. 4.29)
  
 結局、県道から分かれた土の道の両側に民家が並んだ部分は、本来の大平街道の 道筋ではなく、本線から別れた盲腸管のような存在ではないかと思う。この大平の地の地形的な事情により、大平宿はそのような形態になったのかもしれない。 民家の前の道は、全ての旅人が行き来した本街道ではなく、宿屋や茶店を求めて入り込んだ枝道だったのではないだろうか。
  
  
飯田峠へ
  

県 道が黒川を渡る (撮影 2013. 5.21)
<県道が黒川を渡る>
 県道に戻り、大平街道の本線 を飯田峠へと進む。沿道の民家はややまばらとなった。直ぐに黒川を渡る。大平街道は黒川沿いには一歩も進まず、単に横切るだけである。
 
 そしてこの先は、黒 川流域と松川流域を隔てる尾根へと上登ることになる。その尾根上に飯田峠が位置する。
  
 黒川を渡った先にも「橋本屋」などの屋号が掲げられた民家が見受けられる。 橋の近くなので「橋本屋」なのだろうと思ったりする。側に「ここは 黒川 大平宿」と書かれた看板も立つ。「黒川」とは地名だろうか。大平集落の中でも、更に細かく地名が分かれているのかも しれない。
 
<鳩打林道分岐>
 間もなく右手に分岐が出て来る(下の写真)。林道鳩打線である。入口には林道看板や、
鳩打峠にある隧道の高さ制限3.0mの看板などが立つ。この大平集落と伊那谷を結ぶ 本線は飯田峠だが、こちらの鳩打峠も林道ではあるが車が通れる道である。ただ、交通量は圧倒的に少なそうだ。

黒 川を渡った所 (撮影 2001. 4.29)
側に「ここは黒川 大平宿」の看板
この先左手に橋本屋
  

鳩 打林道分岐 (撮影 2013. 5.21)
鳩打隧道は高さ制限3.0m
「林道鳩打線 落石注意」の看板

左 とほぼ同じ場所 (撮影 2001. 4.29)
右手に青い林道看板が立つ
  
 鳩打峠への道を分けると、県道沿いの民家はパッタリ途切れる。ここから飯田市 街の 人里まで、峠道はまだ長い距離を残している。その間、ひと気がない道である。
  
  
飯田峠への登り
  

飯 田峠への登り (撮影 2013. 5.21)
 ただ、当面の飯田峠まではそれ程の距離はない。1km強である。木曽山脈の 主稜を越えるのとは訳が違う。道の右手に小さな谷(鰍沢?)を望みながら、それでもしっかりした坂道を登る。
 
 道の周囲に視界が広がらないのは詰まらない。代わりに、道端にいろいろ立て札が立つ。茱の木澤(ぐみのきさわ)とか馬場薙(ばばなぎ)、上長者洞(かみ ちょうじゃぼら)などとある。道が小さな沢を横切る所に立っている。旅人が喉を潤す水場だったり、あるいは峠道をどのくらい歩いたかを示す、道しるべに なったのかもしれない。車だと、さっさと過ぎてしまう。飯田峠は大平集落へ電気を送る経路となっているので、道の側を送電線が一緒に峠を目指している。
  

飯 田峠方向を望む (撮影 2013. 5.21)
峠方向に電線も延びる

こ の先の左カーブが飯田峠 (撮影 2013. 5.21)
  
  
飯田峠
  
飯田峠 (撮影 2013. 5.21)
手前が大平集落方向、奥が飯田市街方向
  
 大平集落から登った時の飯田峠はあっさり着く。やや感動に薄い。飯田市街から 遥々登って来れば、それなりに辿り着いた時の達成感はあるのかもしれない。それでもやはり、峠としての風格は大平峠の方が上に思える。大平トンネル前後が 長い切通しで、トンネル自体もドッシリと構え、さすがに木曽山脈の稜線を越える峠だと思わせる。
  

飯 田峠の大平側 (撮影 2013. 5.21)

峠 より大平集落へ下る道 (撮影 2013. 5.21)
  
飯田峠 (撮影 2013. 5.21)
峠の大平集落側に道標が立つ
  

大 平街道の道標 (撮影 2013. 5.21)
<道標>
 しかし飯田峠も、切通しの両 側が石積みの擁壁となっていて、それなりに古さを感じる。また、大平街道の道標も立っている。御影石製といわれる道標は、大平峠にあった物より痛みが酷 い。刻まれた文字も、撮った写真からは読み取り難かった。
 
 道標に向かって左側面
自 明治三十二年
至 明治三十八年 改修
 
 右側面
自 飯田町 始点 ???
自 吾妻村 終点 ???
(距離の部分が判読不能)
  
  <余談>
 私が生まれた数年後に、父が始めて持った家には、御影石の塀があった。子供の頃にはその塀によく登って遊んだ。何となくその石の感触を覚えている。御影 石は加工し易い代わりに、もろい石である。手の平に細かな石のかけらが着いたような気がする。
 
 その父の最初の家は、私が中学校に上がる前に引っ越し、家は壊され跡地には銀行のビルが建てられた。その後、私は何度か住む家を変わっているが、物心が 付いた時に 住み始めたその家が、一番印象に残っている。最近では御影石の塀や壁など、滅多に見られなくなった。尚更、懐かしく思い出される。
  
  
飯田峠の飯田市街側
  
飯田峠 (撮影 2013. 5.21)
手前が飯田市街方向、奥が大平集落方向
  
 飯田峠の大平集落側は道標があり、変わって飯田市街側には看板などが多く立 つ。 飯田峠は飯田市内の同じ上飯田にあり、何かの境を示すようなことは書いていない。方向を示すのに、「飯田市街」とか「大平宿」とあるだけだ。
 
<峠の標高>
 標高は1235mとある。国土地理院の1/25,000地形図には1236mと記されている。僅かな違いである。峠は切通しなので、明治期の改修前の古 い峠は、もう少し高かったのだろう。

飯 田峠の飯田市街側 (撮影 2013. 5.21)
  

峠 の看板など (撮影 2013. 5.21)

峠 の看板 (撮影 2013. 5.21)
  
今から約17年前の飯田峠 (撮影 1996. 8.17)
飯田市街側から見る
  

峠 から飯田市街へ下る道 (撮影 2013. 5.21)
<余談>
 この大平街道を初めて通ったのは、多分1996年のことだ。もっと以前から走っていた積もりだったが、何の記録も見付からない。1996年の時も、その 頃あまり写真を撮らなかったので、大平街道について3枚の写真が残るだけだ。しかも肝心な大平峠の写真がない。トンネル前後の道は狭く、わざわざ車 を停めてシャッターを切る余裕がなかったようだ。辛うじて飯田峠の写真は1枚あった(上の写真)。この17年程の間では、あまり変化はないようだ。
  
<峠 道の歴史>
 明治38年の大改修後から現在の県道8号に至るまで、どの程度の変化があったのかは分らないが、少なくとも大正8年(1919年、大正9年とも)には、 この飯田峠や大平峠を 越えて、乗合自動車(乗合バス)の運行が開始されるまでに至っている。飯田市街と中央本線の三留野(みどの)駅間を1日3往復したそうだ。
 
 現在、JR中央本線に三留野とい う駅は見付からない。調べてみると、南木曽駅の旧名称であった。その路線は、三州街道と中山道を結んでいた往時の大平街道と、ほぼ同じ場所を繋いでいた。 また、路線開業から10年程遡った明治42年、国鉄中央西線が三留野駅まで開通している。飯田の物資や特産物は、この自動車路線で三留野駅まで運ば れ、更に鉄路で名古屋方面へともたらされた。この自動車と列車による連携が、飯田と名古屋を結ぶ太いパイプともなり、大平街道は繁栄していった。

  
  定期バスが運行される程なのだから、明治期の改修では、車道としてそれなりに完成度の高い道が出来上がっていたのだろう。大平峠の標高(1358m)は、 当時のバ ス路線として、最高を誇ったそうだ。
 
<乗合自動車/余談>
 この峠道に当時どのような自動車が走ったかなどの時代考証はできないが、ただ「有りがたうさん」という一つの映 画を思い出す。監督:清水宏、主演:上原謙による1936年(昭和11年)の作品だ。大平街道に路線が開かれた時と、それ程時代は変わらない。映画全編に 渡り、伊豆の
天城峠(あまぎとうげ)を越える路線の乗合自動車が登場する。運転手以外に6人程の 客が乗れたようだ。NHKのBS放送で、偶然その映画を見た時は感動した。当時の天城峠が登場するのだ。乗合自動車が天城隧道を越える様子が映し出されて い る。大平峠の大平トンネルも、あの様な状況だったのだろうかと想像する。(YouTubeでその映画が見られるようです)
  
  昭和に入って最盛期を迎えた大平街道であったが、直ぐにも衰退の影が忍び寄る。現代の三州街道(飯田街道とも)である国道153号の改修が進んだのだ。木曽路を通らず、飯田と名古屋方面を直接繋ぐ道である。鉄 道貨車からトラック輸 送への移行もあいまって、三留野駅経由の物資の流れは、国道153号へと移っていった。
 
 また時を同じくして、清内路峠の道が国道256号に昇 格していく。伊那谷に於ける大都市である飯田と木曽を結ぶには、大平街道は最短である。一方、清内路道は飯田市街の南方を大きく迂回する。しかし、大平街 道は大平峠と飯田峠の2つの峠を越える険しい山道である。それに比べ、清内路峠の方が車道としての条件が良かったのであろう。木曽と下伊那を結ぶ最重要路 に選ばれた清内路道は、積極的に整備が進められた。つい最近も、峠に新しい清内路トンネルが開通している。
  
  昭和44年、遂に大平街道の乗合自動車の運行が廃止となる。翌年の大平集落の集団移住も無理からぬことか。元々、寒冷の山間部で生活は楽ではない。その 上、 街道の宿駅としての役割がなくなっては、生活が成り立たなかったのだろう。木曽見茶屋に立寄る車は激減し、旅人の話し声は途絶えていく。街道脇の大平集落 の 家々からも灯が消えてしまった。こうして大平峠の道は、その歴史の一幕を下ろすこととなるのである。
 
  それでも、昭和48年には「大平宿を残す会」が発足している。それが今の大平集落の姿を留めることとなった。今日の大平街道は、人や物資の移送としての利 用 価値は少ないが、代わりにその道を訪れること自体が目的となる道である。宿場跡や沿道の処々に残る歴史のかけらを訪ね歩く峠道である。

  
  
飯田峠を下る
  
 飯田峠から東側は松川の水域に変わる。大平峠を越えた時点で既に伊那谷側に 入っているのだが、この飯田峠を下りだして初めて、雰囲気が違ってくるような気がする。松川流域の谷間が大きいことも関係するのか、何となく開けた雰囲気 なの だ。この先に待っている広く明るい伊那谷の前兆が既に感じられるのかもしれない。
 
<三十三観音>
 峠を下り出して直ぐに、街道沿いに祀られた三十三観音の、第三十三番観音が立っている(右の写真)。「聖(しょう)観音立像」とある。飯田市側の麓にあ る一番観音から始まり、飯田峠にかけて順番に祀られている。聖観音立像以外には馬頭観音などが立つ。

三 十三番観音 (撮影 2013. 5.21)
  

旧 道入口 (撮影 2013. 5.21)
<飯田市側の旧道入口>
 飯田峠を飯田市街へと下る現在の県道は、やはり古い大平街道とはコースを異にする。改修後の車道は沢筋を嫌い、山肌の高みを巻いて下る。一方、旧道は峠 から直ぐに沢筋を降りて行く。道の右手に旧道入口の看板が立つ(左の写真)。「林道 南沢線経由」とある。峠直下に流れ下る松川の支流の名前 が分らない が、この「南沢」と呼ぶのかもしれない。
 
 旧道は「市の瀬まで1時間30分」とあるが、市の 瀬とは松川本流沿いである。
  
 大平峠を越えて以来、沿道に沢の名前などを記した木製の立て札があったが、 飯田峠の飯田市街側でも続いている。まず、蟹ヶ洞(かにがほら)とある(右の写真)。峠から東に下る川の支流であろう。そのカニガ洞と呼ばれる沢の源頭部 を県道は横切る。
 
 路傍の観音様を眺めたり、立て札を読んだり、大平街道は忙しい。歴史がある街道は、時間が掛かる。飯田峠への登りでスポーツ自転車を1台追い越した。し かし、下り道ではあっと言う間に追い越されてしまった。

写 真 (撮影 2013. 5.21)
  

二 十八番 聖観音立像 (撮影 2013. 5.21)

道 の様子 (撮影 2013. 5.21)
開けた感じがする
  
  飯田峠の飯田市街側の道は、後半で松川沿いを下るのが大半であるが、前半でその支流の谷間を下り切るだけでも時間が掛かる。距離は6、7Km程だが、屈曲 が多い。道の右手に比較的大きな谷間を望むようになるが、まだ松川本流ではない。支流の谷間である。
  
右手に松川支流の谷間が広がる (撮影 2013. 5.21)
  
  
ゲートと2つの林道分岐
  

ゲー トと分岐が出て来る (撮影 2013. 5.21)
<飯田市側のゲート箇所>
 沿道に立つ観音や石像や看板などに目移りしながらも、いちいち立寄っていてはいくら時間があっても足りない。先を急ぐ。ほぼ松川本流の谷に入った頃、 ゲート箇所があり、その先で林道が2つ分岐する。
 
 大平街道は幸助(夏焼)〜飯田市市ノ瀬橋間が冬期閉鎖である。多分、飯田市側はここのゲートが閉じられるのだろう。松川に架かる市ノ瀬橋とは、この ゲート箇所より300m程下った所に架かっている。 
  

ゲー トの先の広場 (撮影 2013. 5.21)

分 岐点より峠方向を見る (撮影 2013. 5.21)
左が南沢林道、右が峠へ
   
<南沢林道>
 峠方向にゲートを見ると、その手前左に未舗装林道が分岐する。入口に「林道 南沢線」と書かれた林道標柱が立つ。また、その道を指し て「大平街道 旧道 入口」とある。峠直下にあった旧道入口とここが繋がっているらしい。「林道南沢線経由 飯田峠まで2時間くらい」と書かれている。
 
 この後、県道が松川沿いを下りだすと、道は谷の高みを走る。下流に松川ダムがあることも関係する。旧道は縁遠い存在となる。

旧 道入口 (撮影 2013. 5.21)
  

分 岐点より市街方向を見る (撮影 2013. 5.21)
左が松川入林道、右が市街へ
分岐の間に振袖道標が立つ
<松川入林道>
 この分岐ではもう一つ、松川の右岸沿いをずっと上流まで遡る林道が分岐する。「林道 松川入線」の林道標柱が立つ。木曽山脈の奥深くに入り込 む林道だ。 但し、入口の看板には「行き止まり」とある。
  
<振袖道標>
 県道と松川入林道とに挟まれた所に変わった石碑のような物が立つ。側の案内板には「振袖道標」(ふりそで みちしるべ)とある。元は別の場所に あったも のを最近ここに移設したらしい。天保十三年と刻まれていて、1842年の製作と思われる。
 
 右手の人差し指は「いせ」を指し、振袖には「ぜんこうじ下」とあるとのこと。「いせ」は伊勢神宮の「伊勢」であり、この大平街道を経て木曽路に入り、尾 張から更に伊勢へと続く方向を指す。「ぜんこうじ下」は勿論信州の善光寺で、三州街道を北上し善光寺に至る道を指したのだろう。伊勢詣りや善光寺詣りの多 くの旅人が往来した街道であることをこの道標が物語っている。それにしても女性の振袖とその指が示す道標は、何ともユーモラスで愛らしい。時代を超えて、 この道標を造った人たちの気持ちが伝わって来るようだ。

振 袖道標 (撮影 2013. 5.21)
  

道 標に書かれている内容 (撮影 2013. 5.21)

道 標に関する説明 (撮影 2013. 5.21)
  
  
市ノ瀬橋以降
  
  ゲート箇所を過ぎると、いよいよ本流の松川沿いに出る。そこには市ノ瀬橋が掛かっている。川面をずっと下に見る高所を渡っている。その後、県道は松川の谷 の左岸を下りだす。
  

市 ノ瀬橋に差し掛かる (撮影 2013. 5.21)

橋 上から松川の下流方向を見る (撮影 2013. 5.21)
  

左 に林道分岐 (撮影 2013. 5.21)
 橋を渡って直ぐ、左に分岐がある。入口はゲートで封鎖されている。地図上で は、松川の左岸沿いを遡る道だが、やはり途中で行止りのようだ。
 
 県道が松川沿いを下り始めると、また一段と雰囲気は変わる。大きな谷に面していること、この下流にダムなどがあることから、道は比較的眺めが良い高みを 進む。多分、明治期の大改修でも、まだここに道はなかったものと想像する。
  
松川の左岸を下る (撮影 2013. 5.21)
開けた感じだ
  
<上飯田>
 黒川上流域の大平と、この松川上・中流域は上飯田の地である。広大な山域を持つ。飯田の上方に位置することから、「上飯田」と呼ばれたようである。江戸 期から明治22年まで上飯田村があった。奥まった地にある大平集落は別格として、この松川沿いにも幾つかの集落が存在したらしい。松川入とか市ノ瀬とか は、元あった集落名とのこと。現在は林道や橋の名前として、僅かにその名残を留めている。
 
 時々、右手の林が途切れ、松川の谷間が広がる。下を覗くと、大規模な砂防ダムだろうか、堰堤が架かっていた(右の写真)。水の色が鮮やかな緑である。ダ ムの向こうには支流の谷間が西へ延びる。その奥に飯田峠がある。

松 川に架かる堰堤を見下ろす (撮影 2013. 5.21)
奥の峰が飯田峠がある所
  

道 の様子 (撮影 2013. 5.21)
 松川沿いになってから、県道の道幅がやや増した。屈曲も少なく、走り易くて 距離がはかどる。やはり、松川ダムの建設に伴い、新しく開削された道ではないだろうか。松川ダムはその堰堤に記された日付に1974年3月とある。道もそ の程度の浅い歴史かもしれない。その為か、何となく歴史の重みを感じない道である。相変わらず路傍には三十三観音が佇んでいたのだろうが、車速が上がった こともあり、ほとんど目に入らなくなっていった。
  
  
松川ダム湖上流部
  
<飯田市街側の最初の家屋>
 飯田峠を下って来た県道沿いに、最初の家屋が現れた。しかし人家などではなかった。「煙火製造所」とある。二尺とか五尺などと書かれた赤い円筒の容 器が 並んでいた。どうやら打上げ花火の製造工場のようである。こうした花火の製造は、危険回避の為、人里離れた場所で行わなければならないと聞いた。やはりど こか他 の峠道でも見掛けた覚えがある。煙火製造所の付近に幾つかの建物を見掛けたが、やはり人の住む民家ではなさそうだった。

煙 火製造所 (撮影 2013. 5.21)
  

新 しいダムを建設中 (撮影 2013. 5.21)
<新しいダムの建設>
 松川ダム湖の上流部で、松川を堰き止める巨大なコンクリートの建造物が目に入った。新しいダムのようだ。まだ完成はしていないらしい。
 
<松川入大山衹神社付近>
 沿道にポツンと一軒家屋があり、それに並んで「松川入大山衹神社」と書かれた石柱が石碑など立つ(下の写真)。道からは確認できなかったが、この山を 登った所にその神社があるらしい。
 
 神社とは反対側に、道が一本、松川に下っていた。看板に「新しいダムをつくっています」とあった。松川沿いは益々変貌していく。もう、旧道の痕跡は期待 できないのだろう。
  

松 川入大山衹神社付近 (撮影 2013. 5.21)
右に新しいダムへの分岐あり

松 川入大山衹神社の石柱など (撮影 2013. 5.21)
  
松川ダム近辺
  
<佐倉神社付近>
 道の下に緑色の湖面をした松川ダム湖が望めるようになる。すると、路肩に「佐倉霊社」と刻まれた古そうな石柱や「奉納」と書かれた大きな石灯籠が置かれ ている。この下に佐倉神社があるが、沿道からは直接見えない。県道からは歩道が設けられているようだ。ダム建設に伴い、石柱や灯篭はこの県道沿いに移築さ れたのではないだろうか。
 
<大深沢>
 道は松川の支流・大深沢(おおふかさわ)を渡る。その沢は、ちょっとした滝になって流れ下っていた。
 
<松川ダムへの分岐>
 間もなく、右手に分岐がある(右の写真)。松川ダムの堰堤へと下る道だ。その道に入ると大深沢を渡り、ダムの管理棟の近くで終っている。

ダ ム工事現場に下る道 (撮影 2013. 5.21)
右は県道を峠へ
  
  松川沿いは風光明媚である。その中でもこの松川ダムは、堰堤脇に駐車場やトイレ、ベンチが設けられ、休憩に立寄るには便利な場所だ。暫し、ダム湖などを眺 めて疲れを癒す。
 
 堰堤の端から上を望むと、佐倉神社の鳥居が見えた。ダム湖の出現で、この付近の様相は一変したことだろう。小高い山の上に神社一つを残 し、付近の集落は姿を消したのか。

  

ダ ムより松川下流方向を望む (撮影 2013. 5.21)

松 川ダム湖 (撮影 2013. 5.21)
  
  
松川ダムの下流
  

猿 庫の泉分岐 (撮影 2013. 5.21)
左が峠、右が泉へ
<猿庫の泉分岐>
 松川ダムの下流でも、道は松川沿いには戻らない。少し離れた所を行く。それでも旧街道に近付いているのか、「大平街道」と刻まれた道標が立っていた。大 平峠や飯田峠にあった物と似ている。近くに「猿庫(さるくら)の泉」と呼ぶ名水があるようで、道標の脇を道が分岐している。泉まで0.5mの看板が立つ。
  
 その分岐付近には道標の他に も石碑などがいろいろ立っている。大平街道の歴史に関わる物も多いのだろうが、いちいち見ていては切りがなさそうだ。ふと見ると、猿が悠々と県道を横切っ ていた。如 何にも「猿庫」の名にふさわしい。
 
 飯田市街に近付き、この辺りからはやや駆け足となった。後になって、その名水に立寄っておけばよかったと妻が悔やむ。人々が大平街道を歩いて旅した時 代、旅人の喉を潤してきた名水かもしれない。

猿 が県道を横切る (撮影 2013. 5.21)
  

大休 (撮影 2013. 5.21)
(上の画像をクリックすると看板の拡大画像が表示されます)
<大休>
 猿庫の泉への分岐の直ぐ後に、「大休」(おおやすみ)と書かれた木の立て札が立つ。大平街道を通る人々が一休みして疲れをいやした場所との説明書きが添 えてある。現在 でも、その裏手に駐車場があり、車を停めて休めるようになっている。こうした施設は、現在の旅人にはありがたい。
 
 近くに大平街道に関した地名・三十三観音の案内看板が立つ(左の写真)。この「大休」とか「猿庫」、「牛踏」といった地名、沢の名前などが記されてい て、往時の街道を知るには良い資料になる。
  
 「大休」とは、街道の一点を指すようでもあるが、飯田市の一部の地域を示す 地名でもある。猿庫の泉への分岐付近から、県道は下飯田から大休の地に入った。
 
 大休は三十三観音の一番目の観音が始まる場所でもある。側に一番の如意輪観音が祀られている(右の写真)。
 
 ここを過ぎると、県道は飯田市街へと入って行く。もう旧街道の面影を探すのは難しくなる。

一 番 如意輪観音 (撮影 2013. 5.21)
  
  
飯田市街へ
  

右 手に工場 (撮影 2013. 5.21)
<多摩川精機/余談>
 県道は直線的な道になった。 右手に工場の建屋が並ぶ。「多摩川精機」とある。工業用のサーボモータやその関連製品を製作している。以前勤めていた会社でFA(ファクトリー・オート メーション)関係の装置開発をしていて、このメーカーのモータもロボットアームなどに使った経験がある。思わぬ所で知った社名を見たので、何だか懐かしく 思った。しかし、FAなんてもう死語だし、何しろサラリー マンを辞めてしまった今では、遠い昔のことである。
  
<伊 那谷の雰囲気>
 道は伊那市街の周辺に差し掛かっている。工場があったり畑があったりで、まだ市街地の喧騒はここまでは届かない。道はセンターラインがある立派な県道と なり、真一文字に市の中心地へと下って行く。もう、古い大平街道の面影など、どこにも探しようがない。

  
開けた伊那谷の雰囲気 (撮影 2013. 5.21)
その向こうに伊那山地が連なる
  
 しかし、目の前には開けて明るい伊那谷が広がりだす。あの木曽谷 の雰囲気とは対照的な世界である。目にするのは現代社会の産物だが、この太陽の下に広がる空間は、昔ながらのものがあるに違いない。
 
 徐々に沿道には民家やアパートなどが並びだし、いろいろな商店もちらほら見られる。中央道をくぐれば、飯田駅のある飯田線や国道256号、153号も近 い。

飯 田市街に入る (撮影 2013. 5.21)
この先、少し道が狭い区間がある
  

こ の先で中央自動車道をくぐる (撮影 2013. 5.21)
<市街を迂回/余談>
 昔の旅人なら、何をおいても飯田宿の中心地に向かうだろうが、私は混雑する市街が大嫌いである。道が混んでいてしかも複雑だ。ここまでの大平街道には無 粋な信号機 など全くなかったが、この先ではその赤や青や黄色のライトに注意しなければならない。国道256号に入って南下したいのだが、このまま市街地に突っ込むの は 避けることとする。
  
  カーナビを頼りに飯田線をくぐる前に適当な交差点で右折した。暫く行くと直進方向は工事中で通行止。迂回路が見付からない。路地裏のような狭い道に迷い込 み、カーナビはGPSの精度が悪いのか現在地の表示がでたらめだ。暫し迷走したあげく、また元の通行止箇所に戻った。カーナビは相変わらず通行止箇所を進 めと指示するばかり。ハンドルを握る妻はパニック状態。カーナビを操作する私は放心状態。それでもどうにか県別マップルを取り出して調べ、自力で飯田市街 からの脱出 路を探したのだった。
  
この向こうに飯田線が横切る (撮影 2013. 5.21)
市街地を避け、この先で右折したら大変な目に
  
     
  
  こうして改めて大平街道を思い返してみても、面白い峠道だとつくづく思う。木曽と伊那との対比のダイナミックさは、清内路峠とは比べ物にならない。大平街 道 が飯田市街と木曽谷を直線的に結ぶ峠道だからこそだ。それにしても不慣れな都市の市街地は、車では走りたくないものだとつくづく思う、大平峠であった。
  
     
  
<走行日>
・1996. 8.17 南木曽町→飯田市 ジムニー
・2001. 4.29 鳩打峠から大平峠→南木曽町 ジムニー
・2013. 5.21 南木曽町→飯田市 パジェロ・ミニ
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典  20 長野県 平成 3年 9月 1日発行 角川書店
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒ 資料
  
<1997〜2013 Copyright 蓑上誠一>
  
峠と旅         峠リスト