旅と宿  No.005

石川県珠洲市/ホテル・ニュ−まうら
(掲載 2023. 7.30)

   

 前日は出張で、午前中に東京から石川県に移動し、午後は松任市(現白山市)にある協力会社にて打合せ、その晩は定宿としているホテル・キバヤシに宿泊した。 今日は土曜日で、本来は東京に戻る移動日として会社に申告してあったのだが、わざわざ週末の金曜日に出張を設定したのには訳があった。 この土日を使って石川県の観光をしようという目論見だ。もう2回程経験済みの重犯者である。 現在なら何か事故でも起こった場合に労災関係の問題などがあり、コンプライアンス的にもなかなかできたことではないが、当時はまだまだ規則が緩やかだった(逆にパワハラは日常茶飯事)。 ある時など新潟出張にバイクで出掛け、その日の夜に日本海フェリーに乗って北海道に渡り、9日間の北海道ツーリングをしてきたことがあった。
 
 今回は車やバイクなどの移動手段を持たないので、定期観光バスを使うこととした。 最近は自家用車の保有が多くなったことが影響してか、あまり定期観光バスの利用は見られないように思うが、まだ免許を持たなかった20歳代の頃はよく定期観光バスに乗っていた。 昨日の内に金沢駅で観光パンフレットなどのいろいろな情報を仕入れ、夜は狭いホテルの一室で念入りに観光スケジュールを検討してあった。 今ならホテルのフリーWiFiとスマホを使って、いくらでも最新の情報が得られるし、場合によっては交通機関やホテルの予約なども可能だが、当時はまだまだアナログであった。 観光案内所などでもらう紙のパンフレットが最新かつ最も詳細な情報源であり、それを手に入れることは重要なことだった。

   
   

 今日は早々とホテルを発ち、金沢駅の定期観光バスの窓口で切符を買って9:10発の「まうら号」に乗車した。 北陸鉄道の金沢駅発のコースは6種類あり、昨晩はいろいろ迷ったが、能登半島先端の珠洲市にある真浦を終点とする「まうら号」に決めたのだった。所用7時間とたっぷり能登半島の旅ができる。 能登半島はそれまで何度か車で旅をしたことがあったが、禄剛崎などの景勝地には立寄っても、神社仏閣・文化財などは見学したことがない。 観光バスはそうした場所にも立ち寄るので、これを機に少しは関心を持とうと思う。  
 ただ、このコースには一つの問題があった。バスが夕方に終点の真浦に着いた後は、もう金沢市街方面に戻る交通手段が残ってないのだ。行ったきりのコースである。 よって、どうしても真浦で一泊する必要があるのだ。幸い、終点のバス停にもなっているホテルニューまうらに宿泊予約が取れた。今日はそのホテルで夜を過ごすことになる。

   

定期観光バスのコースガイド (撮影 2023. 7.14)
まうら号を選択

   
   

定期観光バスのスケジュール (撮影 2023. 7.14)
まうら号は大人6,400円

   
   

 バスは混雑する金沢市街を抜け、一路千里浜海岸を目指す。車内に居合わせた乗客は10人に満たなかった。記憶は定かでないが、5、6人だったようにも思う。 しかし、乗客が満員だったという定期観光バスの経験はあまりない。時期などによっては今回のように少人数の場合も多かった。かえってこの方が気楽でいい。 車窓からの眺めがいいのは自分の席側でないこともある。そんな時、車内が空いていれば、勝手に席を移って眺めが堪能できる。
 
 余談だが、能登といえばサスペンスドラマの定番「ゼロの焦点」(ちょっと古いが)の舞台となる「ヤセの断崖」が有名だ。 その後のテレビでのサスペンスドラマが、しばしば険しい断崖などで犯人が告白したりするが、そのルーツともなったとされる作品だ。 今回の観光バスも当然の如くヤセの断崖がある能登金剛・関野鼻が立ち寄りスポットとなっている。何となく能登半島全体が「険し断崖」というイメージに繋がって記憶されている。  
 まうら号のコースも終盤近くになって輪島市街に立ち寄る。輪島漆器会館などを見学した後、輪島駅(今はなき旧七尾線)でバスに戻って来た乗客は、なんと私一人であった。 この輪島からは特急バスで金沢駅に戻れるし、また輪島市内なら宿泊施設も多い。その為か、ここで他の客全部が途中下車してしまったのだ。 この先の終点真浦まで行ってしまえば、もう公共交通機関の便は終っている。真浦に宿泊する以外、他に手はないのだ。そんな冒険をする者は私一人だけであった。
 
 輪島駅を出発したバスの車内には運転手とバスガイドと私の3人だけである。乗客より乗務員の方が多いのだ。なんとまあ、気まずいこと。バスは次の観光スポット・上時国家(かみときくにけ)に立ち寄った。 平家の子孫が住んだという日本最大級の木造家屋だそうだ。いつもの私はこうした文化財には全く興味がない。しかし、如何にも関心ありげに見学する。 バスガイドとは別の施設の専属ガイドの女性が付き、古い建物の中を説明しながら案内してくれるのだが、歴史に疎いのでチンプンカンプンである。ただただ、相槌代わりに頷いてばかりでいた。
 
 バスは能登半島の外浦を輪島市から珠洲市に入った。その珠洲市最初の地が真浦町になる。 海岸沿いに通じる国道249号から少し高台に登った所に本日の宿となるホテルニューまうらがあった(地理院地図)。 バスはその敷地まで入って行ったと記憶する。見ると3階建ての比較的大きなホテルであった。「ニュー」と付くからには一度建替えられているのだと思うが、やや旧式な外観に思えた。 宿泊予約がちゃんと入っているかと一抹の不安はあったが、問題なくチェックイン、こじんまりした和室に案内された。広縁からは真浦海岸の海が望めた。

   

ホテルの外観 (撮影 1999. 3.27)

   
   

ホテルの一室の様子 (撮影 1999. 3.27)

   
   

ホテルのパンフレット (撮影 2023. 7.14)

   
   

 観光バスの乗客は私一人ということもあってか、ホテル着は予定より20分程早く、夕方4時前であった。夕飯まで暇なので、部屋に荷物を置いてから真浦海岸を散策することとした。 南西側の「垂水の滝」がある八世之洞門から北東側のツバ崎を抜ける真浦隧道までの河岸線約1.5Kmが真浦海岸になるようだった。 ただ、海岸沿いには真浦の人家はなく、高台に集落が形成されている様だった。
 
 西隣の曽々木海岸は岩倉山が日本海に張り出して険しい地形を成し、能登の親不知とも呼ばれたそうだ。真浦も2つのトンルに挟まれた地である。 かつてツバ崎の背を越えて隣の仁江(にえ)に険しい道が通じていたが、昭和30年に真浦隧道が開通。後に逢坂(ほうざか)トンネルが開通して、旧道側は通行不能であった。 昭和38年には曽々木側にも2つの隧道でつながったそうだ。そちらも現在は八世之洞門新トンネルという一本のトンネルになり、旧道は通行止だ。 旧隧道の外側に垂水の滝が流れ落ちているが、その前を通って海岸沿いに歩道が通じる。それが隧道開通前の旧道であろう。崩落がひどく、歩ける状態ではなかった。 真浦の地はこれまでも車でちょっと立寄ったことはあったが、1時間以上も掛けて歩いて散策するのは初めてだった。なかなかいい経験であった。

   

真浦海岸を曽々木方向に見る (撮影 1999. 3.27)
奥に垂水の滝が見える

   
   

真浦海岸を仁江方向に見る (撮影 1999. 3.27)
高台の上にホテルが見える

   
   

 夕方5時過ぎにはホテルの一室に戻り、のんびり過ごすこととした。どうもホテル館内の雰囲気からして、今夜の泊り客は私一人のようだ。 かつて団体旅行が流行っていた時代、大型バスで多くの観光客が訪れ、それを吸収するだけの大きな設備だったのだろうが、世の中が変わってしまったのだろう。 広縁の椅子に腰かけ、海を眺めていると、太陽が傾き始めた。ホテルの前の林が少し邪魔だったが、赤い太陽がゆっくり水平線に沈んでい行く様子が堪能できた。 普段、人恋しいなどと感じるとこはないが、この能登半島最端の地で一人佇んでいると、少しは感傷的になる。
 
 そこで、滅多にしないことだが、特に用事もないのにその当時付き合っていた今の妻に電話してみることとした。丁度その前年の1998年ぐらいから携帯電話が普及し始めていた。 それまで旅先では、電話を掛けるのは大変な作業であった。まず公衆電話を探さなけえれならない。ホテルが見付からず迷っているのに、公衆電話を探して更に迷子になるなどということがあった。 当時の携帯電話は現在のスマホの様な高機能はなかったが、それでも基地局の電波が届きさえすれば、いつでもどこでも電話が使えるというのは、画期的であった。 また、以前は電話する先は相手の自宅の固定電話で、家族の誰が出て来るか分からない。携帯電話同士なら、会話する相手は決まっている。
 
 能登半島の先端に泊まっていることや、夕陽が日本海の水平線に沈んで行くことなど、他愛もない会話をした。後に妻に聞いてみると、そんなことがあったことなど全く覚えていなかった。

   

部屋の窓の外に夕陽が沈む (撮影 1999. 3.27)

   
   

夕食の様子 (撮影 1999. 3.27)
一人で食べるのは味気ない

   
   

 翌日はやはりホテルから出るバスの便で、7:25始発の奥能登特急で輪島市へ向かった。一般的な路線バスではなく、横一列4席の大型の観光バススタイルだった。 勿論乗客は私一人。ふと見ると、そのバスを運転しているのは昨日の定期観光バスの運転手であった。昨晩はこの終点の真浦に泊まり、始発を運転して金沢市街に戻るのだろう。 輪島では有名な朝市を見学。いつもの出張の帰りは小松空港より空路だが、今回は輪島からずっと在来線で東京まで帰った。各駅停車の北陸本線や大糸線を堪能した。

   

宿代の領収書 (撮影 2023. 7.14)
合計15,750円

   
   

 今回、あのホテルは今頃はどうなっているかとちょっと調べて見たら、2000年に既に閉館になっていたようだ。私が宿泊した翌年である。ホテルが現役だった最晩年に利用したのだった。 その後、車で前の国道を走っているのだが、全く気付かなかった。真浦海岸を眼下に望む好立地にあったが、今は建物も取り壊され、空地となっているようだ。 昭和の一大旅行ブームも遠い昔となった思いである。

   

1999年 3月27日(土)
ホテル・ニューまうら泊

   
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