旅と宿  No.007

北海道稚内市/旅館・紀ノ国屋
(掲載 2023. 8.12)

   

 2005年の夏休みに出掛けた北海道旅行で宗谷岬を訪れた。私はそれで3回目だが、妻は初めての宗谷岬だったようだ。その後、稚内市街に移動して稚内駅などを見て回った。 その折、もう16年も前、今からだと34年前の1989年9月下旬に一人で北海道ツールングにやって来た時のことを思い出していた。この稚内市では駅から程近い距離にある旅館に投宿したのだった。 あの宿はまだあるだろうか。場所も宿の名前さえもはっきりとは覚えていなかったが、駅にあった周辺案内図などを頼りに歩いて探してみると、その宿は見付かった。紀ノ国屋と呼ぶ旅館だ。 確かこの宿の玄関先に当時乗っていたバイク、ホンダのAX−1を停めさせてもらったのだった。

   

宗谷岬/三度目に訪れた時
宗谷岬公園の上より望む
(撮影 2005. 8.19)

   
   

 その日は大雨だった。前日は網走市街に泊まり、朝からオホーツク海沿いに宗谷岬を目指して北上した。激しい雨に加え、海からの風が強く、バイクでの走行には苦労した。 対向車が大型のダンプカーだったりすると、すれ違いざまにバケツの水を浴びせ掛けられたようになる。その都度ヘルメットのシールドは水浸しで、暫く前方の視界を失った。 雨は一日中降り続き、途中で観光などできたものではない。宗谷岬までの約300キロ、途中昼食を摂っただけでひたすらバイクを走らせた。
 
 日本最北端の地・宗谷岬もまるで嵐のようだった。風向きを考慮してバイクを停める方角を選ばないと、風で倒れそうになる。雨合羽もヘルメットも着の身着のまま、周辺の散策を始めた。 すると、こんな荒天にも関わらず大型の観光バスがやって来て停車した。そして多くの観光客がぞろぞろ降りて来るではないか。中年の女性が多い。 強風なので傘を差すこともできず、大雨の中を列をなして一目散に走っている。しかも、走る方向は「本州最北端の地」の記念碑とは逆方向だ。 一体どこに行くのかと見ていると、全員公衆トイレへと駆け込んで行った。岬観光は端(はな)から諦めていたが、トイレだけは我慢できなかったようだ。 一方、私は初めからずぶ濡れである。一日中雨に打たれ、もうこれ以上濡れる心配はない。誰一人観光客が居ない日本最北端の地を、悠然と歩いて見学するのだった。

   

 さて、今夜の宿は稚内の市街地に予約してある。宗谷岬からは残り30キロ余りだ。また、雨の中を突っ走らなければならない。 時期は9月下旬で、暑くもなく寒くもない秋のいい季節だと思っていた。しかし、北海道を甘く見ていたようだ。大雨の中、バイクで風を切って走る北の大地はとても寒いのだ。 もうとっくに身体は冷え切っている。防寒具など用意して来なかったので、レインコートの下にはバスタオルを首に巻いていたくらいだ。もうあまり猶予はない。 とにかくあったかい宿の部屋に辿り着きたいものだ。
 
 後年、ジムニーに野宿道具を積んで旅するようになってからは、宿の予約はなるべく当日行うようにした。 前もって予約してしまうと、とにかくその宿まで行かなければならなくなり、それが大きな足かせとなった。旅の途中では何が起こるか分からない。臨機応変に対応したいものだ。 宿が取れなければ、どこかで野宿すればいい。

   

稚内市街を望む
稚内公園より
(撮影 2005. 8.19)

   

 これから宿に向かうにつけては、他にも問題を抱えていた。宿の場所を正確には知らないのだ。仮に住所が分かっても、余程詳しい市街地地図でも持っていなければ、場所を特定できない。 使っている道路地図は縮尺28万分の1のツーリングマップ(「ル」はまだ付かない)である。一部拡大図があるが、そんなもの全く役に立たない。 とにかく宿の近くから電話して、詳しい道順を聞くのが一番だ。
 
 こういう場合、常套手段があった。最寄りの鉄道の駅に寄るのだ。駅なら場所は直ぐ分かるし、公衆電話もある。駅から宿への道順なら、宿の者も説明するのはもうお手の物だろう。 幸い、今回の最寄り駅は日本最北端の駅・稚内駅で、宿は駅の近くだそうだ。大きなターミナルステーションらしく、いろいろ情報も得られるだろう。 現代ならスマホやカーナビで宿の場所など簡単に分かってしまう。いつでもどこでも連絡することができ、便利この上ない。それに比べ、昔の旅は苦労が多かった。

   

稚内駅を正面に見る
最近はもっと様子が変わったようだ
(撮影 2005. 8.19)

   

 期待通り稚内駅は大きな駅で、何でも揃っていそうだった。駅前には広い駐車スペースもある。ただ、背後に稚内港を控え、海風が異常に強い。またバイクを倒さず停めるのに苦労する。 びしょ濡れの手で電話番号を書いたメモを取り出し、宿に電話する。予約は間違いなく取れていたし、宿への道順も分かった。 またバイクに跨り、電話で聞いた道順を慎重に思い出しながら宿に向かった。

   

駅前の様子
(撮影 2005. 8.19)

   

店などが並ぶ駅前の一角
この歩道辺りにバイクを停めた
(撮影 2005. 8.19)

   

 宿は駅前に通る大通りより一本裏手に通じる道沿いにあった(地理院地図)。 駅からは道程で300m程だったろうか。宿の左右には約9m間隔で均等に建物が並ぶ。昔の長さの単位では5間(けん)だ。 「旅と宿 No.002」の新あづまやで書いたことだが、江戸時代にあった「間口税」のことを連想させられる。 税を軽減する為、間口は狭く、奥行きが長い建物の構造をとっていた。その制度の影響が遠くこの蝦夷地にも及んでいたのだろうか。しかも、宿の名は「紀ノ国屋」と古風である。 時代劇にでも出てきそうな屋号だ。当然ながら建物自身は最近の建築だが、宿としては江戸時代頃から続く歴史ある旅館なのかもしれない。
 
 まあ、明治期以降に計画的に発展した市街地の区割りでこのような形になったと考えるのが妥当だろう。 それでも、樺太やその先の大陸へと向かう多くの者達が、この稚内から宗谷海峡を渡って旅立って行った。そうした人々へ宿を提供して来た旅館であるとは言えるだろう。

   

宿の前の様子
北方向に見る
「旅館 紀ノ国屋」の看板が立つ
(撮影 2005. 8.19)

   
   

宿の前の様子
南方向に見る
「駐車場有ります」と看板にある
(撮影 2005. 8.19)

   
   

北隣との間
奥に長い造りだ
(撮影 2005. 8.19)

   
   

 さて、自分が宿に上がる前に相棒のAX−1をどこかに停めさせてもらわなければならない。玄関を開けて宿の者を呼び、事情を話す。すると、その玄関先にそのまま横付けして停めていいとのこと。 後の新あづまやでもジムニーを玄関前に停めさせてもらったが、何とも気軽なことだ。あまり宿の体裁など気に掛けないのであろうか。

   

宿の正面の様子
この玄関先にバイクを停めた
(撮影 2005. 8.19)

   
   

 バイクは片が付いたが、今度は自分の体が問題だった。全身から水が滴っている。 ちょっと支度をするのでと断り、玄関の土間でレインコートを脱ぎ、デイパックや荷物などと共に首に巻いていたバスタオルで拭いて丸める。ライダーブーツの中も水浸しで、靴下もぐっしょりだ。 そこで靴下を脱ぎ、裸足でスリッパを突っ掛けて廊下を歩くことにした。レインコートを着ていてもジーパンや上着もあちこち濡れている。何ともみすぼらしい格好で、チェックインした。

   

 部屋は、玄関から真っ直ぐ奥に延びる板敷の廊下を少し入り、途中の階段を上がった2階の6畳程の畳敷きの和室だったと思う。勿論、部屋に洗面台やトイレなどない簡素な部屋だ。 北向きに窓が一つあったようだが、外は直ぐ隣の建物の壁である。しかし、これでとにかく一息付ける。雨風を凌げる屋根があるということはありがたいことだ。
 
 そろそろと雨に濡れた荷物などの整理に取り掛かる。バイク旅なのであまり替えの服などは持って来ていない。できるだけ今夜中にいろいろな物を乾かしたい。 浴衣に着替え、来ていた服もどこかに掛けて干そうと思っていると、靴下が片方ない。もしやと思い、慌てて玄関へ降りて行くと、廊下の片隅に無様に転がっていた。 誰もこんな物を盗る者はないだろうが、無事手元に戻ってよかった。
 
 宿の食事や風呂のことなどはもう全く記憶にない。普通の食事に普通の風呂だったのだろう。宿の者の指示に従って坦々と作業をするようにこなしたものと思う。 ただ、冷えた体に温かい湯舟は何よりのご馳走だった筈だ。外の雨風の音に耳を傾けながら、北の果ての夜は更けて行った。

   
   

 翌朝の宿の支払は7,416円であった。7,200円に消費税3%の216円加算という計算だろう。現在の10%に比べれば、かわいいものだった。 本日は雨も上がり、もう濡れなくて済む。ところが、玄関の土間に置きっぱなしだったライダーブーツに足を突っ込むと、中はまだびっしょり濡れていた。 折角乾かした靴下も元の木阿弥となった。
 
 玄関先に待つAX−1の荷台に旅行荷物を括り付け、デイパックを背負い、ヘルメットを被り、セルを回してエンジンを始動する。今日の旅の始まりだ。 まずはノシャップ岬を目指してAX−1のギヤを入れた。

   

赤岩清巌峡でのAX−1
2回目の北海道ツーリングの時
いつもこんな感じでバイク旅をしていた
(撮影 1990. 7. 5)

   
   

 今回ネットで少し調べてみると、紀ノ国屋旅館は既に閉館となっているようだ。まだ以前の建物は残っているが、別の会社になっているらしい。
 
 間口が他の商店や飲食店などとあまり変わらないのでは、いくら奥に長くても宿泊施設としてはやや小さな印象を受ける。 靴を脱いで上がる形態も最近では珍しく、館内の設備はどうしても旧式に思える。宿の者や他の宿泊客との距離が近い点も、敬遠されがちだ。 大型のビジネスホテルやシティーホテル、立派な造りの温泉旅館などに慣れてしまった現代人にとって、ちょっと利用し難い雰囲気がある。 上松の新あづまやもそうだったかもしれないが、こうした旅館が営業を続けるのは、今の日本では難しいことなのだろう。
 
 それでも、かつてはこうした旅館が時代を支えていた。いわゆる「商人宿」などと呼んでいいのだろうか。 今の観光旅館の様に豪勢な食事が出て、大きな風呂が楽しめる訳ではない。ビジネスホテル・シティーホテルのようにトイレやユニットバスなど便利な設備が充実している訳でもない。 純粋に泊まって、風呂に入り、食事をし、部屋で休む、そうした宿である。以前は日本のどこにでもあったが、最近ではめっきり見られない。 その意味でいい経験をさせて頂いたと思えてきた。

   

1989年 9月28日(土)
旅館・紀ノ国屋泊

   
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