旅と宿 No.014

雪深い上齋原に格安で泊まる
岡山県旧上齋原村/国民宿舎・いつき
(掲載 2024. 1.20)

 

<上齋原村>
 積雪が多い地域としては北海道に東北、また新潟から北陸、山陰に至る日本海沿いなどが思い浮かぶ。一方、温暖な気候の瀬戸内海に面した岡山県などはあまり雪のイメージがない。 しかし、県北部に連なる中国山地の脊梁(せきりょう)付近ともなると、積雪が2mにも及び、正しく豪雪地帯と言っても過言ではない。 今は鏡野町(かがみのちょう)の一部になっているが、以前は岡山県の最北部に上齋原村(かみさいばらそん)という小さな村があった。 「齋原」は簡略化して「斎原」、「斉原」などと書くことも多いが、地元に立つ看板や地理院地図などでは「齋原」としているので、ここではそれを踏襲することとする。
 
 その上齋原村にはそれまで1992年10月、1994年12月、1999年12月と3回訪れたことがあった。 だからといって、その地にそれ程有名な観光名所などがある訳ではなかった。代わりに美作(みまさか)北2号林道など、その筋にはちょっとは知られた林道が通っている。 私もある林道関係の雑誌で知り、のこのこ出掛けたのだった。 また、背後の中国山地を越えて日本海側の鳥取県へと、人形峠(にんぎょうとうげ)辰巳峠(たつみとうげ)という大きな2つの峠道が延びている。 どちらも今は国道が通じる立派な車道だが、積雪の多い冬期ともなるとなかなか険しい峠道に変貌する。偶然ながら人形峠、辰巳峠共に雪の時期に越えたことがあるので、個人的にとても気に入った峠になっている。
 
 そんなことで上齋原村には縁があったのだが、いつも集落内を貫く国道を通り過ぎるばかりで、立ち寄ったことがない。 一度だけ、林道の途中で野宿した経験はあったのだが、集落の様子などはほとんど知らないままだった。 そこで、雪の辰巳峠を再訪するついでに、上齋原村にじっくり宿泊してみようと思い付いた。普通、こうした小さな村には適当な宿泊施設がない。また、背後に県境の山脈を控えた地で、付近にホテルなどが豊富な大きな都市部もない。 ところが都合がいいことに、上齋原村には村営の国民宿舎があった。公営なので比較的いい設備の宿に安い料金で泊まれる。これを利用しない手はない。

 

雪の人形峠
トンネルではない旧道の方
手前が岡山県、奥が鳥取県
(撮影 1999.12.27)

 

<宿泊予約>
 ただ、宿泊の予約にやや手間取った。当日連絡して泊まれなければ雪の中で路頭に迷うことになるので、宿泊の半月程前に予約の電話を入れた。すると、後日一通の封書が届いた。 その指示に従い、前もって予約金を振込まなければならいのだ。昨今ならインターネットバンキングで自宅に居ながらにして振込ができるが、当時はわざわざ郵便局まで出向く必要があった。 また、同封の料金表を見て、朝夕の食事を改めて電話注文しなければならなかった。
 
<宿泊料金>
 室料は大きく新館と本館に分かれ、新館は更に和洋室だとか特別室だとか、4種類の中から選べた。決定的に違うのは、新館は全てバス、トイレ付きで、本館はバスなし、トイレ共用である。 よって、本館の室料は他と比べ格段に安い。夜中にトイレが近い今なら、迷うことなく新館を選ぶのだが、当時はまだまだ若かった。最初の電話で本館一室を予約した。 料金は1名当り4,095円(税5%込み)、税別では3,900円という安さだ。ただ、シーズン料金が別途1,050円(税込)プラスされると料金表にあった。夏休みと年末年始の期間である。 特に今回の様に冬期の年末年始では暖房費なども余分に掛かるので、これは仕方ないことだろう。

 

送られて来た予約表
本館和室(6帖)1室を予約済み
(撮影 2024. 1.14)

 

 食事は、宿の近くにコンビニやスーパーなどある筈もなく、朝夕2食共に頼むこととした。朝食は和食840円(税5%込み)で一択である。 夕食は鍋物などいろいろ選べるようだったが、一番安い「このか定食」2,100円を改めて電話で注文した。

 

送られて来た料金表
(撮影 2024. 1.14)

 

<上齋原村へ>
 今回の旅は年末年始の8日間で、主に関西・中国地方を旅する計画だった。例によって結婚前の妻と同伴である。上齋原村に泊まる当日の朝は、岡山市内の岡山グリーンホテルに居た。 午前中は備前一宮・吉備津彦神社、吉備津神社、備中国分寺・五重塔、吉備路風土記の丘、足守(あしもり)、鬼ノ城(きのじょう)など、あちこち精力的に観光する。 鬼ノ城などは敷地が広範囲に及ぶが、良く歩き回ったものだと思う。鬼ノ城の駐車場に戻ると、カセットコンロを出して湯を沸かし、即席めんの昼食を採った。 女性の連れがいながらカップ麺もなかろうと思われるかもしれないが、その連れもカセットコンロを車に積み、昼食代を節約しながら一人旅をするような女性だったので、その点は問題ない。
 
 昼食後、岡山自動車道・中国自動車道と走り繋ぎ、津山市の院庄ICまで移動。津山市から上齋原村に通じる国道179号に乗ったのは午後3時近かった。 津山市は岡山県内ではもうかなり内陸に位置する。岡山県は旧国名では備前、備中、美作(みまさか)の三国に相当するが、備前・備中が瀬戸内海沿いなのに対し、美作国は津山市以北の内陸部となる。 津山市内ではまだ雪はほとんど見られなかったが、国道を北上して奥津町(おくつちょう)に入る頃には沿道は雪景色に変わって行った。尚、奥津町も今では鏡野町の一部である。
 
 国道沿いなどでは時々奥津温泉(おくつおんせん)の看板を見掛ける。 辰巳峠のページで書いたことだが、奥津温泉は美作三湯の1つとしてそれなりに有名な温泉地だ。 藤原審爾(しんじ)氏原作の「秋津温泉」が岡田茉莉子さん主演で映画化された時のロケ地としても知られる。また、温泉街の少し手前に奥津渓(おくつけい)とう景勝地もあり、そこも映画に登場した。 雪景色の奥津渓を見学したり、高台にある道の駅・奥津温泉に立ち寄って温泉街を俯瞰したりしながら上齋原村を目指す。

 

雪の奥津渓
(撮影 2005. 1. 4)

 

<デジカメ(余談)>
 全くの余談だが、平成15年(2003年)頃からどうにか実用レベルの性能があるデジカメが普及し始めた。 しかし、まだ画素数が横1,600ドット、縦1,200ドット程度と低画質で、また記憶媒体の容量も小さかったので長期の旅行ではあまり多くの枚数が撮れなかった。 それで、今回の旅行があった平成17年(2005年)の中頃まで、フィルムカメラも併用していた。それでもあまり豊富には写真が写せない。 若い時の妻を、もっと撮ってあげておけばよかったのだが、ついつい峠の写真ばかりになってしまっていた。
 
 デジカメで撮った写真はちょっと加工して直ぐにwebサイトに載せられるが、フィルム写真はそう簡単ではない。 プリントした印画紙をスキャナで読み込むか、ネガフィルムを直接フィルムスキャナで電子データ化するというひと手間が必要だ。 スキャン時間が短い簡易的なフィルムスキャナを使い、過去約3万枚のフィルム写真を既にデータ化してあるのだが、やはり画質が悪い。 高精細のフィルムスキャナも購入して持っているが、これは操作が複雑でスキャン時間がとても掛かる。これぞといった写真はこのフィルムスキャナを取り出して来るのだが、億劫で仕方がない。 結果、簡易フィルムスキャナのデータをカラーバランスをちょっと整える程度で使う事になる。 珍しく奥津渓で妻を写した写真(下)が一枚見付かったので、記念に載せておこうと思う。ただ、ちょっと迷ったが、簡易データで済ませることにした。

 

奥津渓にて
まだ若い頃の妻
(撮影 2005. 1. 4)

 

<宿に到着>
 やっと上齋原村の中心地に入る。村役場(現在は鏡野町上齋原振興センター)近くの信号機のある交差点を左に曲がり、道なりに300mくらい進んだ左手に今晩の宿はあった。 玄関のある正面が三角形をした比較的大きな建物で、直ぐにそれと分かった(地理院地図)。 そこより先の道沿いにはもうあまり建物は見られず、市街地はそれ程大きくなそうに思えた。宿の手前付近には温泉施設の「上齋原温泉クアガーデンこのか」が隣接していたようだ。
 
 時間は夕方の5時少し前である。こいうして国道から分かれて市街地に入るのは初めてのことだが、雪が降り始めていてもう時間も遅いので、そのまま宿に直行することとした。 宿に隣接して西隣に広い駐車場が設けられていた。

 

宿の前の道
西方に見る
この先にもう人家はなさそうだ
(撮影 2005. 1. 5)

 

宿の前の様子
国道方向に見る
(撮影 2005. 1. 5)

 

<上齋原本村>
 この旧上齋原村の村役場などが集まる中心地は、上齋原(村)本村とも呼ばれるそうだ。 岡山県最北端に位置する三国山(1213m)から流れ下る吉井川本流に、西方の人形仙(1004m)からの人形仙川などの支流が注ぐ地に形成された小盆地に発達した。 西の辰巳峠と東の人形峠、どちらも峠を越えた先は同じ鳥取県だが、古くは因幡(いなば)と伯耆(ほうき)という別々の国であった。よって江戸期までの上齋原村は美作・因幡・伯耆の3国にまたがる位置にあった。 県境にそびえる三国山の由来もそこにある。
 
<2つの峠道の分岐点>
 また、現在の人形峠は上齋原本村より2.5Km程上流の石越(いしこし)で辰巳峠への峠道と分かれるが、このトンネルも開通した国道の人形峠は明治期以降に発達した道筋である。 そもそも「人形」という峠名の由来は、現在の峠より県境上を3Km程西に行った人形仙に由来する。古い峠はその山の直ぐ東の肩に通じていた。 よって上齋原本村は、辰巳峠を越えて因幡に至る道筋と、人形仙川沿いを遡り人形仙の肩を越えて伯耆に至る道筋の分岐点であった。交通の要衝とも言えるだろう。 明治初期くらいまでは、上齋原本村を中継して美作と因幡・伯耆の国との間で人や物資の往来があり、その為の宿などの施設も多く営まれていたのではないだろうか。

 

<旧国名(余談)>
 何年か前に旧国名当てのゲームソフトをする機会があり、それを切っ掛けに47都道府県とその首都名と共に、各都府県に対応する旧国名を暗記してみることにした。 北海道と沖縄は旧国名に関係ないので、青森県の陸奥から始め、羽後(秋田県)、羽前(山形県)・・・と順番に進み、鹿児島県の大隅、薩摩まで全て言えるようになった。 中学生の時、数学の教科書に円周率が小数点以下50桁まで載っていたので、気まぐれにそれを丸暗記したことがある。どうもあまり役にも立たないことを記憶する癖があるようだ。
 
 ただ、旧国名はちょっとしたことに役立っている。夜眠れない時、愚にも付かないことをいつまでもグダグダ考えていていることが多い。 考えるのをやめて早く寝ようと思うのだが、いつの間にかまた同じことが頭の中でぐるぐる回っている。そんな時、都道府県名、首都名、旧国名などを順番に思い出すのだ。 羊の数を数えるのと似ている。旧国名だけなら陸奥、羽後、羽前、陸中、陸前、磐城、岩代・・・。時には逆から思い出す。薩摩、大隅、日向、豊後、豊前・・・。 更に都道府県とその首都名なども組み合わせる。青森県・青森市・陸奥、秋田県・秋田市・羽後、・・・といった具合だ。 これで眠れるのかというと、そんな訳はない。しかし、詰まらぬことを考えているよりましだ。
 
 ところで、こうした暗記ごとは時々反復して思い出さないと忘れてしまう。円周率はもう20桁ぐらいしか覚えていないが、旧国名はまだしっかり覚えている。寝不足が続いている証拠であった。

 

<チェックイン>
 私たちが宿に着くのを待っていたかのように俄かに雪の降りが強くなった。逃げ込むようにして宿に入る。 雪に埋もれ薄暗くなった屋外とは打って変わり、館内は明るく、人の営みらしい暖かさを感じさせた。ロビーは広く一部は2階まで吹き抜けになっていた。

 

1階ロビー
(撮影 2005. 1. 4)

 

2階の吹き抜け
(撮影 2005. 1. 4)

 

2階から見るロビー
(撮影 2005. 1. 4)

 

<部屋へ>
 私たちの部屋は本館2階の218号室だった。フロントからは比較的奥まった位置にある。 どうやら立派な正面玄関や広いロビーがある建屋は新館で、私たちの部屋がある棟は本館と言いながらも旧館という存在に近い。部屋に辿り着くまで長々と廊下を歩いた記憶がある。 本館は人の気配が全くしない。多分、今夜の宿泊客は私たち以外、全員新館に泊まっている様子だった。

 

2階の廊下
今夜の部屋は218号室
長い廊下の先にあった
(撮影 2005. 1. 4)

 

<部屋の様子>
 本館は全て6帖間の畳敷きの和室である。広縁に洗面台が付帯している。古くからあった方の部屋だけに、よくある昔ながらの簡素な造りだ。なるべく多くの客を収容することに主眼を置き、宿泊という実用だけに徹している。 そこを改め新館では、やれ洒落た洋室だ、広い12帖の和室だ、和洋室だ、特別室だと世の潮流に合わせ、贅沢な方向に舵を切ったのだろう。ただ、当時の私たちには6帖の和室で何ら不満はなかった。 トイレは部屋の外だが、小さな洗面台が付いているだけでもう充分であった。

 

部屋の様子
さっぱりした6帖の和室
(撮影 2005. 1. 4)

 

部屋の様子
広縁に洗面台が付属
(撮影 2005. 1. 4)

 

<窓からの眺め>
 部屋の窓は多分国道や村役場のある東方に面していたと思う。窓を開けて外を眺めると、直ぐ隣に大きな建屋が見えた。温泉施設の「クアガーデンこのか」だったのだろう。 宿泊者はもれなくその割引券がもらえたのだが、私たちは利用することはなかった。雪は横殴りに降り、山に囲まれた上齋原本村を包み込むかのようだった。

 

部屋の窓より隣の温泉施設を眺める
雪が強くなっていた
(撮影 2005. 1. 4)

 

<風呂>
 「クアガーデンこのか」を利用しなくても、国民宿舎の方にしっかり風呂はある。「かみさいばら温泉」と言う。「上齋原」では難しいので、ひらがなにしたものか。入湯税もしっかり取られた。 ただ、定員100人を超える収容人数の割にはやや手狭に思えたが、丁度泊り客が少なかったので、ゆったり風呂に入れた。

 

風呂の前
宿泊の翌朝に撮影
(撮影 2005. 1. 5)

 

温泉の看板
(撮影 2005. 1. 5)

 

脱衣所の様子
(撮影 2005. 1. 5)

 

浴室の様子(1/2)
(撮影 2005. 1. 5)

 

浴室の様子(2/2)
(撮影 2005. 1. 5)

 

<夕食>
 風呂を済ませ、夕方6時を少し回った頃、浴衣に丹前を羽織って食堂に向かう。食事は新館の方にある山法師という食事処で摂ることになっていた。本館からだとまた少し歩くことになる。 ただ、それも何の苦にもならず、館内の様子を眺めたり、写真を撮りながら散歩がてらである。
 
 山法師にはまだ他の客は誰も来ていなかったが、4組程の膳が用意されていた。翌朝には5組の朝食が並べてあったので、本日の泊り客は5組、その内1組は夕食なしのプランだったのだろうか。 どの組も膳の数は二人か三人分で、少人数のグループばかりである。それぞれのテーブルに部屋番号が記された札が置かれている。207とか208は新館の部屋だろうか。 カセットコンロが置かれたテーブルは多分鍋物を注文しているのだろう。私たちの218テーブルの「このか定食」にコンロはなかったが、寒い駐車場でのカップ麺の昼食に比べれば、それで充分満足だ。 「本館泊+このか定食」は価格の面で最強の組み合わせである。

 

食堂の夕食風景
お食事処「三法師」
(撮影 2005. 1. 4)

 

夕食の食卓
208号室はカセットコンロ付き
(撮影 2005. 1. 4)

 

私たちの夕食の膳
「このか定食」
(撮影 2005. 1. 4)

 

記念に持って帰って来た箸袋
パンフレットなどに日付スタンプを押す習慣だった
(撮影 2024. 2. 4)

 

 新館と本館とを繋ぐ渡り廊下だったか、大きなガラス越しに屋外の様子が見られる箇所があった。食堂の行き帰りなどに眺めた。 雪景色の庭がライトアップされ、ちょっとした演出が行われていた。

 

屋外の様子
照明が灯る
(撮影 2005. 1. 4)

 

<部屋にて>
 夜の時間はその日の旅で収穫したパンフレットなどを整理する事としていた。布団は自分たちで敷くので、好きな時間に敷けばいい。 畳にゴロンと横になり、テレビも流しながら、パンフレットに今日の日付を書き込んだして時を過ごす。

 

部屋の風景
その日もらったパンフレットなどを整理
(撮影 2005. 1. 4)

 

<パンフレット(余談)>
 地元だけでしか手に入らないこうしたパンフレットは、一般の観光ガイドブックなどより内容が詳しく、穴場的情報も豊富だ。また、旅のいい記念になる。 全くお金が掛からない土産物のような存在といったところだ。
 
 旅先では中身などほとんど読まず、旅から帰ればクリアファイルに納め、直ぐに書棚に仕舞ってしまう。後々、旅の思い出に浸りながらじっくり読んでみようと思っていたのだが、結局ファイルを手にすることも滅多にない。 ただただ溜まるばかりで、この約30年で集めたパンフレットを積み上げれば、1mくらいの高さになる。終活を目の前に、負の遺産となりかけている。 せめてこの場を借り、当時まだ村だった上齋原のパンフレットでも掲載しようと思う(下の写真)。

 

上齋原のパンフレット(1/3)
(撮影 2024. 1.14)

 

上齋原のパンフレット(2/3)
「いつき」と「このか」の紹介
(撮影 2024. 1.14)

 

上齋原のパンフレット(3/3)
(撮影 2024. 1.14)

 

<就寝>
 2組の布団を敷くと、6帖間はやや手狭に感じた。夜は何の音も聞こえて来ない。やはり本館には私たちだけのようだ。外は雪が深々と降り続いているのだろう。 普段、雪など殆ど積もらない都会に住んでいる。5cmも積雪があれば大騒ぎし、滑って転倒した人を救いに一日中救急車の音が鳴り止まないような地域である。 それを考えると、この地は別世界だ。除雪に屋根の雪下ろしと、雪国の苦労は多いことだろうが、何となく興味津々という気持ちも否定できない。 それも通りすがりの旅人という、傍観者的な立場にあるからだろうか。暖かい部屋と布団で何の憂いもなく雪国の夜が更けて行った。

 

布団の様子
宿泊の翌朝に撮影
(撮影 2005. 1. 5)

 

<翌朝>
 朝は6時過ぎに起き、まずいつもの朝風呂に出掛ける。このように旅人は気楽なものだ。浴室には誰もいない。ゆったり湯に浸かる。 昨日電飾が行われていた庭は、雪に埋もれて寂しそうであった。

 

翌朝の屋外の様子
雪がかなり積もった
(撮影 2005. 1. 5)

 

<朝食>
 7時過ぎには食堂に向かう。ここでもまだ誰も来ていない。5組分の食事が準備されていた。広い山法師がやや閑散と寂しい雰囲気だ。

 

朝食の食堂
(撮影 2005. 1. 5)

 

 食堂の窓から外を眺めると、除雪車が出動し、盛んに活動していた。駐車場などの雪を除いているようだ。雪国ならではの光景である。大変ご苦労なことだ。

 

除雪車が出動
(撮影 2005. 1. 5)

 

部屋に戻って出発準備
部屋の片付けも忘れない
飛ぶ鳥跡を濁さず、である
(撮影 2005. 1. 5)

 

<チェックアウト>
 歯磨きにトイレと朝の旅支度を淡々と済ませ、9時前にはチェックアウトに漕ぎ着けた。料金は二人で合計16,050円(5%の税込)。一人当たり約8,000円だ。 予約金4,000円を既に振込んであるので、差し引き12,050円をフロントで支払った。
 
<宿代>
 内訳は、朝食840円、このか定食2,100円、入湯税150円は予定通りだが、入湯料210円と見慣れない項目がある。一方、本館の室料が4,725円と安い。 送られて来た料金表では基準の室料4,095円にシーズン料1,050円を合わせて5,145円という計算になる。 よって、入湯料とやらを含めた室料4,935円はかえって安かった。食事なしの素泊まりを考えると、とてつもない低価格である。それで風呂に入って一晩ぬくぬく泊まれるのだ。

 

領収書
(撮影 2024. 1.14)

 

 宿を出ると、空は曇って薄暗かったが、雪はすっかり止んでいた。駐車場の除雪もとっくに終わっている。ただ、各自の車やその周囲は雪に埋もれたままだ。たった一晩で積った雪は深く、車に近付くだけでも一苦労である。 長靴など持ち合わせがないので、靴の中に雪が入らないように慎重に車の雪下ろしをする。

 

雪に埋もれたキャミ
(撮影 2005. 1. 5)

 

 昨日はさっさと宿に入ってしまったので、上齋原本村の様子はほとんど見ていない。そこで出発前に宿の近隣だけでも散策して写真に撮ろうと試みるが、雪が深くて思うように移動できない。 結局、駐車場の周囲を少し歩き回っただけになった。

 

宿の正面玄関
(撮影 2005. 1. 5)

 

宿の西側の駐車場
(撮影 2005. 1. 5)

 

<出発>
 キャミに乗り込み、出発する。折角、上齋原本村に居るのだが、これと言って寄る場所の当てはない。空には青空が見え始め、今日は絶好の峠日和になりそうだ。 気持ちはもう辰巳峠に向いている。結局そのまま国道に乗り、真っ直ぐ辰巳峠を目指すのだった。

 

<上齋原の国民宿舎>
 1990年代くらいまでのちょっと古い道路地図には、上齋原村本村の辺りに「国民宿舎かみさい白雲閣」という掲載が見られた。「国民宿舎いつき」ではない。 また、文献(角川日本地名大辞典)では、昭和43年(1968年)に村営の「国民宿舎かみさい白雲閣」が落成(10月31日)したとあった。 その「かみさい白雲閣」が後の「いつき」の前身だったようだ。当初は温泉を利用した温水プールも備えていたとのこと。多分、当時は日本全国あげての旅行ブームだったのだろう。 戦後の高度経済成長の波がこの岡山県最北の上齋原村にも押し寄せていたのかもしれない。
 
 平成8年(1996年)にはリニューアルし、名称も「かみさいばら温泉・国民宿舎いつき」と改めた。温水プールなどを含む温泉施設を「クアガーデンこのか」として分離したのだろう。 平成17年(2005年)3月に上齋原村や奥津町などが合併し、新しい鏡野町が誕生すると、国民宿舎も鏡野町営と変わっていった。
 
<いつき閉館>
 名前の「いつき」は村名の齋(いつき)からきているのだろう。「齋」とは神に仕えることや神に仕える者という意味があるそうだ。 文献では地名の由来を、「村を開いた時大穴牟遅(大国主)之命を斎(いつき)祭ったことによるという」としている。 残念ながらその「国民宿舎いつき」はつい最近の令和4年(2022年)11月に閉館となったそうだ。2020年から始まったコロナ禍の影響もあったかもしれない。 「かみさい白雲閣」の時代からすると、半世紀を超える54年間の国民宿舎の幕引きであった。大変ご苦労様。
 
 現在の鏡野町上齋原には、民宿やキャンプ場程度の宿泊施設はあるようだが、かつての国民宿舎のような大規模な宿は見当たらない。 もう格安の宿泊代で上齋原を訪れることはできなさそうだ。

 

2005年1月4日(火)
国民宿舎・いつき泊

 
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