旅と宿 No.016

青森の「グリーンホテル」に泊まる
青森県青森市/青森グリ−ンホテル
(掲載 2024. 2.22)

 

<グリーンホテル>
 「グリーンホテル」という名のホテルは全国に見られる。そこで私が泊まったグリーンホテルの中で、記録が残っているものを古い順に一覧にしてみた(暇なこと)。
 
★熊本県・熊本グリーンホテル(1989/1/14泊)
〇青森県・青森グリーンホテル(1990/12/16、1996/12/31泊)
〇岩手県・水沢グリーンホテル(1994/8/16泊)
〇鳥取県・鳥取グリーンホテルモーリス(1994/12/30泊)
〇青森県・十和田グリーンホテル(1995/8/14泊)
〇山形県・酒田グリーンホテル(1996/12/29泊)
〇宮城県・仙台グリーンホテル(1997/1/3泊)
〇福島県・喜多方グリーンホテル(1997/8/10、2001/10/21泊)
★兵庫県・姫路グリーンホテル(1998/12/30泊)
〇高知県・グリーンホテル高知(1999/12/31泊)
〇鳥取県・グリーンホテル米子(2002/4/29泊)
〇岡山県・岡山グリーンホテル(2005/1/3泊)
〇北海道・小樽ニューグリーンホテル(2005/8/20泊)
〇長野県・駒ヶ根グリーンホテル(2007/8/13泊)
 
 以上、14軒あった。同じホテルに2度泊まっていることもあった。
 他にも次のように似たような名前のホテルがある。
・新潟県・長岡ホテルニューグリーンパル(1990/6/29泊)
・新潟県・長岡ホテルニューグリーンプラザ(1990/10/25泊)
・新潟県・長岡ホテルニューグリーン(1997/12/16泊)
 
 これらのホテルはチェーン店という訳ではなさそうだ。 ただ、全国版宿泊表(1999年5月版)の裏表紙に「日本グリーンホテル協会」というのが広告されていて、40軒程の加盟店のグリーンホテルが列記してあり、全く無関係という訳でもなさそうだ。 私が泊まったグリーンホテルの中では、上の一覧の「★」マークで示した僅か2軒のみが該当していた。「日本グリーンホテル協会」は主に西日本で、私はどちらかと言うと東日本での利用が多かったせいだろうか。 結局のところ、グリーンホテルの全体像は不明である。
 
 私の経験では、どのグリーンホテルも質や料金が無難で、比較的泊まり易いという印象だった。 ネットなど発達していない時代では、旅行ガイドに紹介されているような名の知れたホテルや旅館以外、宿に関する有用な情報はなかなか得られない。宿の立地や収容人数、宿泊料金設定などから想像するしかなかった。
 
 そこで経験値が物を言う。グリーンホテルは大きくもなく小さくもなく手頃な規模で、部屋の質や設備はまあまあ普通で、駐車場は完備で、ビジネス向けの色彩が強いが、カップルなどでの観光目的にも悪くない。 一人の利用で断られることはないし、ツインなどの部屋も充分用意されている。特に市街地にある割には他のホテルと比較して低価格であることが多い。そんな先入観が出来上がっていた。 初めて訪れる地方都市で、どのホテルにしようか迷った時など、「何々グリーンホテル」という名を見付けると、まずそこに電話していた。その為、グリーンホテルに泊まる機会が多くなったようだ。
 
 一方、皆同じ名前なので、どこのホテルがどうだったかという記憶に残り難い。 無難な宿だけに、これといった印象を持てないきらいはあった。

 
 

<列車の旅>
 ところで、30歳を過ぎてからバイクや車の免許を取ったが、始めから険しい峠や林道をつらい野宿旅で回っていた訳ではない。免許を持たない二十歳代から普通に列車やバスなどの公共交通機関を利用して一人旅をしていた。 特に列車の旅が好きで、日がな一日列車に乗り、車窓に流れる景色を飽きもせず眺めて過ごした。バイクや車での旅が増えてからも、時折は列車の旅をしていた。 列車は単に目的地へ行く為の移動手段ではなく、列車に乗ること自身が目的の旅だった。会社の出張で地方に出掛けた時などは、仕事を済ませた後、ここぞとばかりに列車に乗って近辺を旅行したものだ。
 
 列車の場合、当然ながら駅に到着し、駅から出発する。比較的大きな都市の駅の近くに立地するグリーンホテルは、その点でも利用し易い宿と言えた。
 
<EEきっぷ>
 列車の旅にいそしんでいた時期、JRが「EEきっぷ」というサービスを行った。金・土・日か土・日・月の週末を含んだ3日間、JR東日本全線が乗り放題だという。 会社勤めであまり自由に休みが取れない者には、非常に利用価値のある企画であった。

 
 

EEきっぷのパンフレット(表面)
このかわいいお嬢さんは誰でしたっけ?
(撮影 2024. 2. 4)

 

EEきっぷのパンフレット(裏面)
(撮影 2024. 2. 4)

 
 

 そこで平成2年(1990年)12月の中旬、月曜日に有給を取って土・日・月の三日間、EEきっぷでの東北の旅に出た。それまでも何度か東北を旅したことがあったが、冬の季節は初めてである。 バイクや車で自走する旅では雪が厄介だが、今回は主に列車を使う旅だ。車窓からのんびり雪景色を堪能しようと思う。

 
 

EEきっぷの切符入れ(外面)
(撮影 2024. 2. 4)

 

EEきっぷの切符入れ(内面)
(撮影 2024. 2. 4)

 

EEきっぷ
期間は平成2年12月15日から17日まで
(撮影 2024. 2. 4)

 

<青森駅>
 EEきっぷ三日間の旅の初日は秋田駅近くのホテルに宿泊し、二日目は秋田県内を旅した。男鹿線に乗って終点の男鹿駅に降り、タクシーを使って冬の入道崎を見学したりした。 他にもいろいろな観光を巡って時間を費やしたので、その日の宿泊予定にしていた青森駅に着いたのは、夜の7時を過ぎてしまっていた。 青森駅も初めてではないが、雪降る冬の季節の夜、一人で降り立つ北の終着駅の青森駅は、何となく旅情を感じるのであった。
 
<青森グリーンホテル>
 本日の宿は青森グリーンホテルを予約してある。場所も旅に出る前に調べてあるので分かっていた。駅正面の大通りを真っ直ぐ東に行った左手にある。宿泊表などでは駅から徒歩5分と書いてあった。 距離で400m程の至近だ。こんな夜遅い時間でも、今日泊まる場所がしっかり確保されているというのは心強いことだ。ビジネスユース性が強いグリーンホテルだからこそ、到着時間をあまり気にしなくて済むのがいい。
 
 たった三日間の旅なので、旅行荷物は多くない。ちょっと大きめのショルダーバッグが一つだけである。中身も必要最低限の物しか入っていない。 年齢もまだ30歳代前半と、日がな一日旅をしてきても、まだまだ体力は有り余っていた。ショルダーバッグを肩に掛け、足早にホテルへの道を急ぐ。本州の北の果ての青森だが、さすがに駅周辺は大都会である。 石川さゆりさんの津軽海峡冬景色を連想するところだが、もう時代が違うのだろう。明るい照明が灯った商店街が続き、車道には多くの車が行き交い、なかなか賑やかなものだ。 夜の市街を物珍しそうに眺めながら歩いた。

 

雪の青森駅に降り立ち
ホテルへの道を急ぐ
(撮影 1990.12.16)

 

<カメラ(余談)>
 当時は体力に任せ、徒歩で移動することが多かったので旅行荷物はできるだけ少なくしていた。それにしてもバッグの中はガラガラだった。3日間程度なら下着を含め、着替えを持たない。 旅行に必要な資料も小さい時刻表とポケットに入るような旅行ガイド本だけである。宿泊用品もタオル一枚に電気カミソリ程度だ。ホテルに泊まれば必要な物は大抵そろっている。 旅先で何か問題が起きても、現場でどうにでも対処できると思っていた。土産も一切買わないので、バッグの中は家に帰るまでいつまでも軽かった。
 
 そもそも、それまでの旅ではカメラさえも持ったことがなかった。 丁度その年の夏、2回目の北海道ツーリングに出掛けた折、さすがに北海道まで来て一枚の記念写真もないのは寂しいと思い直し、旅先でパノラマ写真が撮れる使い捨てカメラを一つ買い、24枚の写真を撮った。 それを切っ掛けに心を入れ替え、旅先でも写真を残してみようかと考えた。そこで今回はポケットカメラ一台と24枚撮りのフィルム3本を持参してきている。 これが本格的にカメラを使い始めた最初の旅になった。
 
 元々、旅というのは一過性のもので、後になって懐かしむなんて女々しいことだと思っていた。旅先でいい景色出会えば、その場で自分の目にしっかり焼き付ければいいことだ。 わざわざカメラを構えて写真を撮るなんて、そんな悠長な真似ができるかと思っていた。一方、旅程を決めない行き当たりばったりの旅なので、後でどこをどのように移動したかさっぱり分からない。 手帳にメモを取ったりしていたこともあったが、それも面倒だった。
 
 その点、記録を残す上で写真はとても便利である。旅行中のポイントポイントで写真を撮って置くと、移動経路がはっきりする。今回の列車の旅では駅舎を撮った写真が多い。 写真には駅名が写されていて、これでどの路線に乗ったかが分かる。私の場合、記念写真と言うより記録写真の色彩が強い。
 
 
<パノラマモード(余談)>
 ところが、まだカメラを使い慣れていなかったので、何かの拍子でパノラマモードのスイッチを入れてしまったようだった。3本目のフィルムを入れる時になって、やっと気が付いた。 旅から帰って現像・プリントに出してみると、写した積りの範囲よりも上下が狭い、細長い写真ばかりになってしまっていた。しかも、パノラマ写真のプリント代は高い。
 
 パノラマモードと言うのは、写せる範囲が通常より左右方向に広がる訳ではなく、上下に露光しない部分を設けるだけだ。すなわち、ネガフィルムの本来の有効露光範囲を無駄にしている。 しかも、ファインダーをちょっとのぞいただけでは、パノラマモードになっているのが直感的に分からない仕組みだった。全く腹が立つ。ただ、横に細長い駅舎を撮るには、あまり支障はなかったようだ。 青森グリーンホテルに泊まった日に乗った男鹿線の脇本駅と羽立駅を掲載してみた(下の写真)。今はもう随分様子が違うようだ。鉄道マニアではないが、昔の駅舎は味があったと思う。

 

男鹿線の脇本駅
(本話とは無関係)
(撮影 1990.12.17)

 

男鹿線の羽立駅
(本話とは無関係)
(撮影 1990.12.17)

 
 

<余談>
 根が凝り性なので、旅で写真を撮るようになると、次第にエスカレートしていった。旅を重ねるに従い、写す写真の枚数は指数関数的に増えていった。 現像したネガフィルムやプリントした写真は、その都度クリアファイルやポケットアルバムに日付や連番を付けて保管した。これまで旅で撮ったフィルム写真は2万枚前後になる。 溜まったファイルやアルバムの処理は、今後の終活に於いて最大の課題になっている。
 
 ある旅先でのこと。確か九州のどこかの岬を観光していた時だったと思う。いつもの様にあちこち写真を撮って回っていると、一台のバイクがやって来て駐車場に停まった。 若い男性が降り、デイパックも背負ったまま、脱いだヘルメットを片手に足早に歩きだした。 他の観光客がのんびり散策する中、その若者は灯台まで行って暫し海を見渡すと、直ぐにバイクへ引き返し、また何処かへと走り去って行った。その潔さは気持ちいい程だった。
 
 かつての自分もそのよう旅をしていた時期があった。二十歳代から三十歳代前半ぐらいまで、九州、四国、紀伊半島、中部、北陸、東北、北海道などを一人旅した。 九州では阿蘇や高千穂峡を眺めた。四国では祖谷渓のかずら橋を渡り、坂本龍馬の像が立つ桂浜を見た。新潟の佐渡島や粟島に渡ったこともある。 東北では宮沢賢治で知られるイギリス海岸に行ってみた。青森県では下北半島の恐山や本州最北端の大間崎など。北海道では襟裳岬や宗谷岬などに立った。今となってはそれらの断片的な記憶が残るばかりだ。 一枚の写真も残っていない。記念となる品や一言のメモさえも見付からない。
 
 ちょっと潔よ過ぎてしまったようだ。今から思えば何とも残念なことをしたが、これはこれで良かったような気もする。

 
 

<夕食>
 雪道には慣れていない。歩道に積もった雪で滑らないようにと、足元に注意しながら青森グリーンホテルを目指す。もう今日はホテルでゆっくりくつろげばいいだけだが、一つだけ用事が残っていた。 ホテルへの道順を確認しながらも、頭の片隅で今晩の夕食はどうしようかと考えていたのだ。普段から食には全く関心がなく、空腹に悩まされるようなことはほとんどない。 一食ぐらい抜いても何ということはないのだが、食事を摂ることは肉体を維持する為に必要なことと、まるで義務か何かのように思っていた。夜7時もとっくに過ぎ、既に夕食を済ませていていい時刻だ。 ホテルにチェックインしてから外食へと出直してもいいが、それだと随分遅くなる。どうしたものかと迷っていると、通りすがりの商店街の一角に小さな食堂がまだ開いているのが目に留まった。 旅先では観光地などにある旅行者向けの食堂はしばしば利用するが、近隣の地元住民が利用する普通の飲食店には入り難い。しかし、この時は好都合とばかり、余りためらいもなくその店に入った。
 
 店は土間造りで、その片隅のテーブル席に着いた。直ぐに品書きを見ると、「かつ丼」という普段見慣れたメニューが目に付いた。見知らぬ土地で見知らぬ品を注文する勇気はない。 間もなく水を運んで来た女将さんに「かつ丼一つ」と注文すると、黙ってカウンターの奥へと戻って行った。店内はやや暗く、客は多くはなかった。 少し離れたテーブルに3、4人の中年男性のグループが居て、大きな声で談笑している。既に十分なアルコールが入っている様子だ。この店は、アルコールを受け付けない私が苦手とする、居酒屋そのものだった。 先程から男たちの話し声が何とはなしに耳に入ってきているのだが、何を話しているのかさっぱり分からない。この東北の地で、私は全くのよそ者である。どこか異次元の世界に来たような気がする。
 
 かつ丼はなかなか来ない。酒を注文してない客なので、後回しにされているのだろうか。一目見て旅行者と分かる一見(いちげん)の客でもある。 あるいは、あの女将さんに注文が正しく伝わらなかったのかと心配になり始めた頃、やっと膳が運ばれて来た。普段、近所の増田屋で食べるかつ丼と大差ない。 かつ丼は日本全国共通の料理でよかったと、胸をなでおろした。
 
 酒臭い息を吐く赤ら顔の男ばかりの店内の雰囲気は、私にはあまり居心地がいい訳ではない。普段から人嫌いで、人との触れ合いなどと言うのは全く性に合わない。 人と目を合わせないようにとうつむいたまま、さっさとかつ丼を腹に収め、さっさと支払いをして、また夜の街をホテルへと急いだ。

 
 

<宿>
 目的のホテルは駅から続く大通りから少し脇道にそれた所に玄関を構えていた(地理院地図)。 ホテルが入ったビルは比較的大きかったが、夜の街に暗くそびえ立っていた。 一方、ビルの玄関は明るく照明が灯り、真っ白い雪一色の中で、そこだけ光り輝いているかのようだった。ドアの両側はショウ・ウィンドウの飾り窓になっている。 中央には「青森グリーンホテル」という看板の文字より大きく、「ALASKA・KAIKAN」というピンクの電光表示板が灯されていた。「アラスカ」とは一体何のことだろう。 まるで別世界への入口のようである。何か違う種類の店と見間違いそうだが、とにかく「青森グリーンホテル」とあるのでここで間違いない。夜も遅いので、さっさとビルの中に入った。

 

ホテルの玄関
カメラで宿の写真も撮るようになった
(撮影 1990.12.17)

 
 

 夕飯は済ませてあるし、外は雪だし、後はこのままホテルに閉じこもって時を過ごすばかりだ。こんな寒い雪の夜、ホテルの狭い一室も一時のオアシスである。 あの電飾で輝く扉は正にオアシスへの入口であった。
 
 今となっては、他のグリーンホテルと同様、宿としての印象は何も残っていない。調べてみると、その6年後にもう一度同じホテルに泊まっている。1996年の大晦日だったが、その時の記憶も全くない。 グリーンホテルは無難なホテルなだけに、印象も極めて普通だ。ただ、2度目の時の領収証などは残っていた。シングルの部屋の宿泊代が税別で5,800円だった。 当時は消費税が3%だったので、それに174円が加算された。とても無難な価格だ。

 

青森グリーンホテルの宿泊表
これは2度目(1996/12/31)に泊まった時の物
部屋番号は640
(撮影 2024. 2. 4)

 

青森グリーンホテルの領収証
料金は5,974円
(2度目に泊まった時の物)
(撮影 2024. 2. 4)

 
 

 青森グリーンホテルに泊まった翌日は、EEきっぷの最終日だが、そう簡単には帰らない。ホテルを出て青森駅に戻ると、そこから津軽線に乗って終点の三厩(みんまや)駅まで行ってみた。 ただ、そこより先には何の交通手段もない。竜飛岬方向に少し歩いてはみたものの、到底岬までは辿り着けそうにない。仕方なく帰路に就いたのだった。竜飛岬は翌年、オートバイで初めて訪れた。

 

青森駅
青森グリーンホテルに泊まった翌朝
まずは津軽線に乗る
(撮影 1990.12.17)

 

 「青森グリーンホテル」という名のホテルはもうないようだ。ただ、青森市街に建つ「アラスカ会館」と呼ばれる建物はほぼそのまま残り、別の名でホテルも営業されているらしい。
 
 妻と一緒に旅行をするようになってからも、暫くは「グリーンホテル」と名の付く宿を利用していたが、徐々に国民宿舎やかんぽの宿、休暇村などへと移行していった。 金銭的に余裕が出て来て少し贅沢志向になったのと、年齢的にも相応の宿を利用しようという気持ちが出てきたようだ。
 
 グリーンホテルは単に泊まるだけなら、主要都市の市街地に立地し、駅に近く、安価で利用し易いのだが、旅を楽しむという点では少し方向性が違う。 仕事で出張に出掛けることはもう全くないし、車での旅が多いのでわざわざ混雑した市街地に泊まる理由もない。 郊外の風光明媚な地や温泉地にある宿の方が旅として楽しいに決まっている。
 
 そんな訳で、もう「グリーンホテル」という名のホテルを見付けて泊まることはないだろう。そもそも宿泊の機会が激減してきている。 これまでいろいろなグリーンホテルにお世話になったが、これからは過去の旅の思い出の一部となって、風化して行くばかりだ。

 

1990年12月16日(日)
青森県青森市・青森グリ−ンホテル泊

 
目次へ