旅と宿 No.019

大間々町のシティーホテルに侘しく泊まる
群馬県旧大間々町/ホテル豊田
(掲載 2024. 3.30)

 

<大間々>
 大間々(おおまま)に泊まってからはその名を忘れたことがない。ちょっと特徴がある地名だからだ。ところがどこの県だったかさえ覚えていない。関東平野の西の端の方だったと漠然に検討を付けるばかりだ。 栃木県だろうかと思って今回調べてみると、群馬県であった。
 
 考えてみると、大間々の地は利根川支流の渡良瀬川(わたらせがわ)沿いを遡り、細尾峠を越えて栃木県旧日光市に至る峠道の群馬県側起点である。 細尾峠と言っても一般にはあまり知られていないかもしれないが、現在の国道122号の日足トンネルの旧道に当たる。 細尾峠や日足トンネルは何度か通っているので、大間々がその峠道の群馬県側だということは理解していていい筈であった。 ただ、少し言い訳をすると、細尾峠も日足トンネルも群馬・栃木の県境ではなく、旧足尾町(現日光市)と旧日光市との市町境であった。県境は渡良瀬川を遡って行く途中にあり、この辺りの県境はちょっと変則的なのだ。
 
 細尾峠・日足トンネル越えの時は必ず大間々を通過するが、大間々に宿泊したのは一度だけだった。どういう訳か、とても侘しい気分で泊まったことだけが記憶に残る。それはどういうことだったのだろうか・・・。

 
 

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<宿探し>
 今となってはどういう経緯で大間々に泊まったか、あまりはっきりしない。峠越え以外に大間々には何の縁もゆかりもない。 また、普段の旅では関東平野の只中で宿泊することは珍しい。ちょっと頑張れば東京の自宅まで帰れるので、わざわざお金を出して宿に泊まる理由がないのだ。
 
 調べてみると、大間々に泊まったのは東北を6日間旅した初日であった。東北を目指すならさっさと東北自動車道を使えばいいのだが、それでは何だか味気ないと思ったようだ。 自宅を出てから直ぐにも旅気分を味わいたいので、青梅市・名栗村・飯能市・横瀬町・東秩父村・寄居町などをちょこちょこ走り回り、吹上峠・小沢峠・天目指峠・正丸峠・虚空蔵峠・刈場坂峠・大野峠・白石峠などの峠を越えた。
 
 こんなことをしていてはいつまでも関東平野から抜け出せる訳がなかった。気が付くともう夕暮れ時だ。こんな市街地ばかりの土地で野宿などできず、どこかに宿を求めなければならない。 明日からは本格的に東北を旅するのだから、できるだけ関東平野の北東の端に泊まるべきだろう。しかし、その辺の土地勘が全くない。どんな市町村があるのかも全く知らないのだ。 ツーリングマップを眺めて思案する内、何となく「大間々」という文字が目に留まった。現在は群馬県みどり市の一部になっているが、当時は大間々町(おおまままち)であった。 何だか舌を噛みそうな名である。本州最北端の地に大間町(おおままち)があるが、ちょっと似ているのも親しみが湧いた。大間崎にはそれまで4度程訪れたことがあり、旅先として気に入っている土地であった。
 
 ホテルや旅館を探すなら、大間々町の直ぐ隣にある桐生市などの方が豊富だろう。しかし、そうした大きな市街地を有する都市では、宿に辿り着くのが大変なのだ。 今ならカーナビがあり、電話番号を入力すれば宿までの道順を示してくれる。しかし、当時は縮尺14,000分の1のツーリングマップだけが頼りである。 詳しい市街地の地図でもあればいいが、全国各地の都市についてそうした詳細地図を用意できる訳がない。当然、宿の者から所在地や道順を聞くのだが、電話だけのやり取りではなかなか分からないことが多い。
 
 その点、大間々町はこじんまりした町のようである。市街地の規模も小さそうだ。これなら宿を見付け易い。ただ、手頃な宿があるかどうかである。
 
 早速、宿泊情報(東日本編、1992年春〜夏号、日本交通公社)で大間々町の項を調べてみると、宿の掲載が辛うじて一軒だけあった。ホテル豊田という。シングルの料金が示されていて、4,200〜4,600円となっていた。 なかなか手頃な値段だ。またシングルベッドの部屋があるのだから、一人でも泊まり易いビジネスホテルの類かとも思った。電話してみると、8月初旬の夏休み期間でそれも土曜日だったが、あっさり部屋が取れた。 そうとなれば上越新幹線や関越自動車道が通じる大都市部には用はない。関東平野を横断し、一目散に大間々町を目指したのだった。

 
 

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<宿へ>
 宿には日暮れて着いた。大間々町は町の中央を縦に渡良瀬川、足尾線(わたらせ渓谷鉄道)、国道122号が並んで通じる単純な構造をしている。市街地は足尾線の大間々駅周辺の僅かな部分だけだ。 今回の宿はその駅から歩いて300mくらいの国道122号沿いに立地していた(地理院地図)。 これなら暗くなっても容易に見付けられる。案の定、迷うことなく宿の駐車場にジムニーを停め、無事にチェックインすることができた。

 

ホテル豊田
国道122号を南方向に見る
宿泊した翌日に撮影
(撮影 1997. 8.10)

 

<宿にて>
 宿は今から思うと普通の街中にある多用途向けのホテルであった。シングルばかりのビジネス向けなどではなく、和室もあり、割烹料理も提供する食堂を備え、会食やちょっとした宴会などもできるようだった。 ホテルとしてはそれ程大きくはない3階建てだが、大間々町の市街には他に殆ど大きな建物は見られず、充分目立つ存在だった。ただ、夜に到着したせいか、何故だか寂しい雰囲気がした。 いつもの様に食事は持ち込みで、部屋で済ませた。ただただ一晩寝る為だけに泊まった宿である。

 
 

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<ガイドマップ>
 結局、大間々町に一泊はしたものの、町内を見学することはなかった。ただ、宿か、近くの大間々駅でもらった大間々町観光物産協会のガイドマップを記念に持って帰っている。 それには大間々は足尾銅山からの銅を運んだ銅(あかがね)街道の宿場であったことなどが書かれていた。細尾峠とは無縁ではない。 参考まで、そのガイドマップを掲載してみる。

 

大間々町のガイドマップ(1/3)
(撮影 2024. 3.28)

 

大間々町のガイドマップ(2/3)
大間々の「まま」とは傾斜地崖「まま」のこと
(撮影 2024. 3.28)

 

大間々町のガイドマップ(3/3)
(撮影 2024. 3.28)

 
 

 今回、その旅の時の写真アルバムをつらつら眺めていると、宿から見た景色が映っていた。北隣にやや老朽化した建物が立っている。見知らぬ土地で日が暮れてからホテルの一室に入り、その窓から一人眺めた景色である。 どうやらその時にそこはかとない侘しさを感じたようだ。それが大間々町の宿の印象となってしまったらしい。やっと理由が分かった。

 

部屋の窓からの眺め
隣の手打そば処「山本屋」が見える
(撮影 1997. 8.10)

 

<料金>
 領収証が残っている。税込4,830円であった。宿泊情報では4,600円となっていたが、これは消費税を含んでいなかったのかもしれない。 その年(1997年)に消費税が3%から5%に上がったばかりで、税別で計算すると一泊4,600円と金額が一致する。

 

ホテルの領収証
(撮影 2024. 3.28)

 
 

 大間々町に宿泊した翌日以降は東北地方を走り回った。軽のオフロード車のジムニーに乗り、車道が通じている所なら日本国中どこへでも好き勝手に行ける。 縮尺が14,000分の1と粗いツーリングマップも、当時の行動範囲からは丁度いい縮尺だったようだ。 年齢は40歳丁度で旅三昧で過ごした30〜40歳代のど真ん中である。身体は意のままに動くし、気持ちも何事にも縛られることがない。 その代わり、将来の展望など全く持たず、ほとんど人生を捨ててかかっていた頃のことだ。
 
 ところで、大間々町のあの宿はもうないようだ。窓から侘しく眺めた隣家もなく、今はどちらも更地になっているらしい。こうして物は再生されて行くが、一方、生身の人間の身体は老いて行くばかりだ。 身体も気持ちも自由だったあの頃が懐かしい。

 

1997年8月9日(土)
大間々町・ホテル豊田泊

 
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