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落合峠
  おちあいとうげ  (峠と旅 No.044-2)
  旧東祖谷山村の落合と深渕を繋ぐかつての未舗装林道の峠道
  (掲載 2015. 8.17  最終峠走行 2015. 5.28)
 
   
   
落合峠 (撮影 2015. 5.28)
奥は徳島県三好市(旧三好郡東祖谷山村)東祖谷落合(ひがしいやおちあい)の深渕(みぶち)
手前は同県同市東祖谷落合の落合東
道は林道深渕落合線(一部は主要地方道44号・三加茂東祖谷山線)
標高は1,520m (峠にある標柱より)
峠は広々とし標高も高く、峠からの眺めも雄大だ
それでいて同じ東祖谷落合という地名の中にある
   
   
   
<再訪>
 この落合峠は1993年5月に初めて越え、その記憶だけでこれまで十分満足していた。 一度越えた峠を再訪するより、まだ越えたことのない峠を訪れた方が旅としては面白い。それで、落合を再び越えようとは特には思ってこなかった。
 
 ただ、その隣の棧敷峠(さじき、桟敷峠とも)を再訪したかった。 22年前、落合峠に続いて棧敷峠も越えたのだが、旅の時間の都合もあり、棧敷峠は駆け足で通り過ぎてしまった。写真もほとんど残っていない。 それに、後になって棧敷峠が「日本百名峠」の一つであることを知り、どんな峠だっかたもう一度しっかりこの目で確かめたくなったのだ。また、 時は移り、今はデジカメが使える時代である。何枚でも好きなだけ写真が撮れる。 更にドラレコ(ドライブ・レコーダー)も車に載せているので、峠道全部を動画で撮影が可能だ。思う存分、峠を堪能しようと思った。
 
 ところが、棧敷峠と落合峠は一筋の道・祖谷街道としてセットとなる峠だ。棧敷峠を越えれると、おのずと落合峠も越えることとなる。 最初にこれらの峠を越えた時は、未舗装林道の落合峠がメインで、どちらかというと棧敷峠はそのついでという感じであった。今回は全くその逆となる。
 
 ただ、落合峠にも関心事がないことはなかった。峠名ともなる「落合」の集落は、 「重要伝統的建造物群保存地区」(略して「重伝建地区」)に指定され、 最近では一般の観光ガイドでも紹介されている。秘境とも呼ばれる奥祖谷も、若い女性客まで訪れるような所となったようだ。 落合峠の道は、その落合集落の中を通り過ぎるのだが、道沿いからはあまり集落全体の様子はうかがえない。 ちょっと集落内に立ち寄ってみようと思う。
 
 また、落合峠については肝心な峠部分の写真を持っていない。一度越えたきりで何となく分かった積りでいたが、実は勘違いしていることも多々あった。 写真や動画も沢山撮ったので、改めてここで落合峠を再考しようと思うのであった。
   
<地形図(参考)>
 国土地理院地形図にリンクします。

(上の地図は、マウスによる拡大・縮小、移動ができます)
   
<所在>
 棧敷峠のページで所在は概ね述べた。剣山系(つるぎさんけい)の北西部に位置し、吉野川本流沿いの平野部に広がる旧三加茂町(現東みよし町)市街と、 支流・祖谷川(いやがわ)上流の山間部にある旧東祖谷山村(ひがしいややまそん)落合(現三好市東祖谷落合)の落合集落とを結ぶ、祖谷街道(祖谷道)などとも呼ばれる道の峠である。三加茂市街側に棧敷峠、落合集落側に落合峠がある。
 
<深渕と落合東>
 棧敷峠は東みよし町と三好市との境になるが、落合峠は同じ東祖谷落合の中に位置し、地図上でも何らはっきりした境にはなっていない。 ただ、東祖谷落合の中には更に「落合東」、「落合西」、「落合南」、「深渕」(みぶち、深淵とも)の4集落があるようだ。 深渕は落合峠の北に位置し、その他は全て南である。東西南の落合を合わせて「落合」と呼べば(これが本来の落合の地名だったのだろう)、落合峠は深渕とその「落合」との境と言える。「 落合」の中でも落合東が最も峠に近いようで、詳細には深渕と落合東との境と言えようか。
 
 今後、「落合」と記す時は、落合峠の南側の地域を指し、落合峠を含めた広い範囲の落合は「東祖谷落合」と書き分ける。
   
<祖谷街道>
 現在、「祖谷街道」というと祖谷川沿いに通じる道を指すようだ。
 石鎚山に次ぐ四国第2の高峰・剣山(1955m)の北の肩にある見ノ越 (みのこし)より流れ下る祖谷川は、旧東祖谷山村内を西流、旧西祖谷山村に入ってからは北流し、旧池田町(現三好市)を通って本流の吉野川に注いでいる。 その祖谷川沿いに、現在は国道439号とそれに連絡して主要地方道32号・山城東祖谷山線が通っている。 これらの道は、祖谷川流域に位置する祖谷地方と、主に吉野川本流沿いの外界とを結ぶ重要な幹線路となっており、 特に主要地方道32号の部分などは祖谷街道とも称されるようだ。
 
 しかし、祖谷川沿いの道が発達するのは比較的後世のことで、主要地方道32号の前身となる県道が通じたのは大正9年とのこと。 昔は険しい祖谷渓谷沿いを避け、山稜を越えて祖谷の地と外界とを結んでいた。 その道は幾筋かあったが、時にそれらは祖谷街道、または祖谷道とも呼ばれたようだ。
   
<奥祖谷>
 落合のある旧東祖谷山村は祖谷川の中・上流域に位置し、祖谷地方の中でも奥祖谷(おくいや)とも呼ばれる地となる。 祖谷川沿いを遥々と遡るより、北に流れる吉野川の流域とを隔てる山稜を越えて来た方が尚更容易だったのかもしれない。
 
 小島峠(おしま)がそうした祖谷街道の一つだったようで、 小島峠の西約8kmに位置する今回の落合峠も、古い祖谷街道の一つと言えそうだ。 徳島市街へと流れ下る大河・吉野川沿いは川運などの交通が古くから発達していたのだろう。 それによって輸送された生活必需品の塩などが、更に棧敷峠・落合峠を越えて奥祖谷の地へと運び入れられた。 また祖谷で採られた山の産物が、吉野川沿いの平野へともたらされた。
 
 ただ、小島峠の方がより吉野川の下流側から越える峠道であり、また落合峠の方はその前に棧敷峠という別の峠も越えなければならない。 そんなこともあってか、小島峠の方が祖谷地方への表玄関としての役割を担ったそうだ。棧敷峠・落合峠はその脇役であったろうか。

東祖谷観光マップ (撮影 2015. 5.28)
いやしの温泉郷の駐車場にあった看板(参考まで)
地図の中央上部に棧敷峠、落合峠とある
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
   
<峠名>
 祖谷川沿いの落合集落へと越える峠なので、落合峠の名があるのだろう。「落合」の由来は、祖谷川とその支流の川が落ち合うことから名付けられた地名だそうだ。古くから落合氏と呼ばれる一族も居住していたようだ。
 
<落合谷川>
 「落合」の由来となる支流の名も、今では落合谷川と呼ぶ。 稀に単に「落合川」と記しているのも見掛ける。どうやら四国のこの地方では、川よりも谷を重視し、最初に「何々谷」と名付けられ、後に川の名前が必要にな ると、「何々谷」に「川」を付けて「何々谷川」となったケースが多いように思える。棧敷峠の北側に流れる川も、加茂谷川(かもだにがわ)と呼び、川の名前 としてはどれも何だか冗長的な印象を受ける。
 
 落合谷川は落合峠付近の稜線を水源とし、南流して祖谷川に注ぐ。峠道の落合側は概ねその落合谷川に並走する。
   
   
   
深渕より峠へ
   
<初めての深渕>
 初めて落合峠を越え、未舗装の林道を深渕へと下っている時(1993年5月)、その深渕とはどのような場所だろうかと思った。 ツーリングマップには「深渕」という集落名と、その近くに「深渕キャンプ場」と書かれているだけだ。 「深渕」を「みぶち」と読むことも知らない。 当時は野宿しながら旅をしていたので、そのキャンプ場が良さそうな所なら、今夜は深渕で夜を明かすことになるかもしれないと考えていた。
 
 ところが、峠道を下り切って辿り着いた深渕には、人家がまとまった集落らしい集落は見当たらない。 沿道にポツリポツリと家屋はあったようだが、それも数える程だ。さて、目的のキャンプ場はと探すが、それらしい場所がはっきりしない。 看板くらいは立っていたかもしれないが、周囲は林に囲まれた草深い地で、野宿をしたいと思えるような広々とした空き地がないのだ。 結局そそくさと深渕を通り過ぎ、次の棧敷峠へと急いだのだった。
   
棧敷峠を下って深渕集落(深渕の中心地)に差し掛かる (撮影 2015. 5.28)
この少し手前から家屋などがぽつぽつ見られた
行楽客用らしいトイレもあったのだが
   

深渕にあった松尾川ダムの看板 (撮影 2015. 5.28)
貯水池の右岸(北岸)沿いに道が描かれているが、
車が通れる道ではない
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
<深渕の立地>
 深渕は祖谷川の支流・松尾川(まつおがわ)の上流部に位置する。時にその川は小祖谷川(おいやがわ)とも呼ばれる。松尾川には松尾川ダムにより堰き止められた貯水池ができていて、 深渕はその貯水池の上流側になる東岸沿いに位置する。
 
 ところが、そのダムから上の貯水池沿いに通じる車道が存在しない。深渕からは松尾川沿いには麓に下れないのだ。 東は風呂塔(ふろ(の)とう)などの剣山地の山々がそびえ、西は貯水池で塞がれている。 深渕は北の棧敷峠か南の落合峠を越えない限り辿り着けない、に山深い地と言える。
 
<深渕再訪>
 今回(2015年)、棧敷峠から22年ぶりに深渕の地に降り立った。 貯水池の端が見えてから沿道にポツリポツリと家屋が見られ、観光用と思われるトイレを過ぎた先で、比較的広々とした集落の中心地に出た。 側らに「剣山国定公園 深淵」と看板があった(下の写真)。 
   

集落内を行く (撮影 2015. 5.28)

「剣山国定公園 深淵」とある (撮影 2015. 5.28)
この付近が深渕の中心地
   
<現在の深渕>
 道路脇の木陰に車が一台停められていて、今でも人が訪れていることは確かだった。 まだ利用されていると分かる人家も残る。ただ、必ずしも一年を通じて定住しているとは限らない。 元の住民が夏場などだけ訪れているようなケースは多い。
 
 それより、やはり廃屋の方が多く目立った。 生い茂る草地のそこここに、朽ち掛けた建屋が見られる。 かつては何軒もの人家が集まるちょっとした集落の中心地だったのであろうが、もう往時の姿を想像することもできない。

左手に「愛宕神社の社叢」の看板 (撮影 2015. 5.28)
右手の家屋はまだ使われていそうだった
   

風呂塔への登山道 (撮影 2015. 5.28)
右手に剣山国定公園の看板
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
<天然記念物>
 集落の敷地の一角に、比較的新しそうな看板が立っていた(上の写真)。 「天然記念物 愛宕神社の社叢」と標柱にあり、看板には次のように書かれていた。
 
 深渕愛宕神社の社叢
 この社叢は低山の岩場に発達した代表的な天然林で、コウヤマキが自生している。コウヤマキは一属一種の日本特産の植物で本州、四国、九州に分布する。 現在、県内にこのような群生地が残されているのはたいへん珍しいことであり、極めて貴重な樹林である。

 
 人は去ったが、こうして森は残る。
 
<登山道>
 車道からは東の風呂塔へと登山道が始まっていた(左の写真)。入口の傍らに剣山国定公園の看板が立ち、案内図が掲載されている。 棧敷峠からも稜線上を風呂塔まで登山道があったようで、そちらの方が容易か。こちらの登山道は草が生え、あまり使われる形跡がない。
   

左手奥の方にも廃屋が数軒 (撮影 2015. 5.28)
手前の家屋は屋根だけ残る

道の右手に大神社とある鳥居 (撮影 2015. 5.28)
奥に社が見当たらないのだが
   
<キャンプ場は?>
 ツーリングマップ(ル)に「深渕キャンプ場」と書かれたり、最近の道路地図にも「深渕自然公園」とあるのは、 この集落付近の筈なのだが、それらしい看板は今は全く見当たらない。集落直前にあったトイレが唯一「自然公園」らしい建屋であった。
 
<文献の深渕>
 文献(角川日本地名大辞典)で見ると、深渕には昭和43年(1968年)以来、三加茂町営テント村が開設されたそうだ。 三加茂は「四国の軽井沢」とも呼ばれ、深渕は盛夏の避暑地としての敵地であったとのこと。 正確には深渕は東祖谷山村ではあるが、三加茂市街から棧敷峠一つを越えればよく、吉野川沿いの住民が、ちょっとした避暑に訪れていたのかもしれない。 高度成長期真っ只中の日本であった。

シャッターがある大きな建屋 (撮影 2015. 5.28)
キャンプ場の施設か店などであったろうか
   
 文献にはまた、深渕の世帯10、人口20とあり、深渕テント村、キャンプ村、深渕いろり亭、三加茂町役場財産管理事務所、大神社、愛宕神社、大師堂、 茅窪神社、シャクナゲ群生地などがあると記されている。 集落の敷地内を、雑草を掻き分けて歩き回れば、いろいろとその痕跡が見付かるのかもしれない。
   
深渕集落の先 (撮影 2015. 5.28)
落合峠方向に見る
深渕川の右岸沿いになる
  
<深渕川>
 松尾川ダム湖より上流の松尾川本流は、深渕川と呼ばれる。 文献では落合峠の東に位置する矢筈(やはず)山を水源とするともあるが、落合峠直下に流れ下る方を深渕川とし、落合峠をその水源とするものもある。 その川は落合峠から北に流れ下り、貯水池に注いで以降は松尾川となって西流して行く。
 
 尚、松尾川ダムは以前は春(ノ)木尾ダムと呼ばれていたことがあるようだ。 ダム湖は春木尾貯水池となる。文献や古いツーリングマップにはそのようにあった。 春木尾とは旧西祖谷山村にあるダム堰堤付近の地名だ。かつては深渕と春木尾とは、松尾川沿いの道で繋がっていたのかもしれない。 春木尾貯水池の出現が、深渕をより孤立させたのではないだろうか。
 
<深渕川沿い>
 深渕集落は、既に貯水池らしき部分を過ぎ、深渕川の右岸沿いになる。ただ、道からは林の陰になり、深渕川の様子はあまりうかがえない。 そもそも貯水池を望める場所がなかった。岸辺へと通じる道がほとんど存在しないのだ。普通、ダム湖があればその湖畔の景色を思い浮かべるが、 深渕に於ける松尾川ダムの貯水池は、全くベールに包まれてしまっている。
   
   
   
深渕集落以降
   

深渕川を左岸へ渡る (撮影 2015. 5.28)
<左岸へ>
 深渕の中心部を過ぎると、暫く家屋は途切れる。すると、小さな橋で深渕川を左岸へと渡る。橋からはやっと深渕川の川面が望めた。
 
<未舗装林道>
 初めて落合峠を越えて来た時は、落合峠の深渕側は未舗装路で、それは落合集落直前まで続いていたと思う。 この橋の付近まで未舗装路だったかもしれない。今は落合峠全線が舗装済みである。
   
深渕川を上流方向に見る (撮影 2015. 5.28)
   
<主要地方道44号>
 三加茂市街から棧敷峠を越えて深渕集落に至るのは、現在は主要地方道44号・三加茂東祖谷山線となってる。 一方、祖谷川沿いの国道439号に始まり、落合峠方向の途中まで同じ主要地方道44号が延びて来ている。 しかし、肝心な落合峠の前後は未開通で、代わりに林道深渕落合線が峠区間を繋いでいる格好だ。
 
 以前は未舗装路部分が林道だと思っていたが、全線舗装となった今、主要地方道と林道との境が不明確だ。 そもそも、棧敷峠を深渕へと下り始めてから、県道標識が一本もなかったように思う。道に関する看板の表記が少なく、確認しようがない。
   
<深渕川左岸沿い>
 左岸になってから、道はそのまま深渕川沿いを4km程遡っている。
 
 そこを少し行くと、右手奥に大きな建物が見えた。人家などではなく、公共の施設のようであった。旧三加茂町役場財産管理事務所であろうか。

右手に大きな建物 (撮影 2015. 5.28)
   
 その近所には大きな人家も見られた(右の写真)。道沿いにも僅かながら建屋が散見される。しかし、深渕川の谷は狭く、平坦地は少ない。 人家も平地を求めて高台に立つ。
 
 その建屋が少し集まった一角を過ぎると、また寂しい道が続く。

右手に人家も (撮影 2015. 5.28)
   

左に分岐 (撮影 2015. 5.28)
<左に分岐>
 左に下る道が分岐する。深渕川を渡り、その支流沿いに東の火打山方面へと遡る林道のようだ。地図を見る限り、途中で行止りである。
   
<鳥帽子林道>
 その直後にまた林道が、今度は右手に分岐する。こちらは林道看板がしっかり立ち、 「林道 鳥帽子線 起点 三好市」とある。鳥帽子(えぼし)山方向から下る支流沿いに少し遡っているようだが、こちらも途中で行止りのようだ。 やはり深渕の地と外界を繋ぐ車道は、棧敷峠と落合峠だけに限られるのであろう。
   

林道入り口 (撮影 2015. 5.28)
直ぐに未舗装

林道標識 (撮影 2015. 5.28)
「三好市」とあるので比較的最近の標識
   
 道は鳥帽子林道が通じる支流の川を渡る。道幅は狭いが、橋そのものや路面、ガードレールは新しいものに見える。

支流の川を渡る (撮影 2015. 5.28)
   

倒れた廃屋 (撮影 2015. 5.28)
<再び人家>
 また少し人家が集まった区間を過ぎる。深渕の中心地に始まり、この深渕には概ね3か所に家屋が分布していることになる。
   
 この深渕最奥と言える家屋群は、道沿いから確認できるだけでも6、7軒あった。空地も見られたので、かつての住民はもっと多かったことだろう。 ただ、姿を留める家屋も現在はほとんどが廃屋となり、屋根だけになったり、完全に倒壊している物もある。
 
 そんな中、一つの人家の軒先に一瞬人影を見たように思う。家庭菜園の手入れでもしていたのだろうか。 周辺の住民が立ち退いた後も、辛抱強くこの地に残っているのかもしれない。

右手上に人家 (撮影 2015. 5.28)
そこでは人影を見たようだ
   

完全に倒壊した廃屋 (撮影 2015. 5.28)

形を残す廃屋 (撮影 2015. 5.28)
これがほぼ深渕最終の家屋
   
   
   
家屋以降
   
<家屋以降>
 深渕最奥の家屋を過ぎると、また、狭く暗い道が続く。 時折林が途切れて深渕川の流れる谷間が広がるが、まだ峠がある稜線までは見通すことはできない。
   
少し開けた所を過ぎる (撮影 2015. 5.28)
峠はまだ遠い
空地がるが、ここにもかつては人家があったかもしれない
   
道の様子 (撮影 2015. 5.28)
新緑の木洩れ日の中を行く
   
<道の様子>
 深渕川左岸4km程の区間は、時折見掛けた家屋以外に目に入る物はほとんどなく、大半が林に囲まれた視界のない道だ。 僅かなつづら折りも一箇所経験するが、それ以外、極めて単調な道となる。 落合峠の道は、一部に山岳道路の様相もあって車で走ってもなかなか面白い峠道なのだが、この区間ばかりはちょっと気が抜けてしまう。 以前の未舗装林道の頃は、気を張り詰めて車を走らせていたことだろうが。

道の様子 (撮影 2015. 5.28)
視界があまり広がらない
   
   
   
深渕川上流部
   

左岸の終点 (撮影 2015. 5.28)
この先、道は深渕川を右岸へ渡る
右手に鳥帽子山への登山道が始まっている
<左岸の終点>
 ほぼ真南に向かって進んで来た道が、谷が押し迫った所で左急カーブし、その先で深渕川を渡ろうとする。 現在の落合峠の道が深渕川に沿うのはここまでである。
   
<登山道>
 車道が左に曲がるところ、逆の右方向へと登山道が始まっている。 脇に「鳥帽子登山口」と書かれた標柱が立ち、「山頂まで 約2.3Km」と記している。
 
 鳥帽子山(1670m)は旧東祖谷山村と西祖谷山村との境にあり、落合峠に続く稜線上でもある。 ただ、祖谷川水域との分水界にはなっていないようだ。深渕川上流部と、松尾川ダムより下流の松尾川水域との分水界になる尾根上にある。

鳥帽子山への登山道 (撮影 2015. 5.28)
   

登山口の標柱 (撮影 2015. 5.28)
「山頂まで 約2.3Km」
<旧道>
 地形図などを見ると、車道から丁度真西に当たる鳥帽子山へと確かに登山道が延びているが、その登山道から更に分岐し、 深渕川の谷沿いを落合峠へと登る徒歩道が記されている。それは正に落合峠の旧道であろう。
 
 この地点から峠までは直線距離で1.5km程だが、今の車道はそこを5.5km程の道程で峠に至る。 それはやはり車道開削時に造られた新しい道だからであろう。塩の荷を人の背に担いで登っていた時代は、このまま谷筋を峠まで直登していたものと想像する。 ただ、標高差でまだ440mを残す。それ程険しい地形だからこそ、車道は大きく迂回せざるを得なかったようだ。
 
<分収林の看板>
 車道から登山道をちょっとのぞいただけでは、峠へと登る道などは確認できなかった。 登山道入口には分収林の看板も立ち、そこに地図が記されていたが、鳥帽子山への登山道しか描かれていない(下の写真)。 もう、昔日の落合峠の道など、誰も関心を向ける者は居ないことだろう。
   

登山道脇に立つ分収林の看板 (撮影 2015. 5.28)

分収林の看板 (撮影 2015. 5.28)
地図は右が「北」
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
   
<主要地方道終点?>
 手持ちのツーリングマップル(1997年9月発行)では、この深渕川左岸沿いの終点までが主要地方道44号の表記となっている。尚、 誤植だろうが、主要地方道の続きに深渕川左岸沿いを真っ直ぐ峠まで車道が描かれていた。 旧道のコースそのままであるが、そんな車道は存在しない。
 
 古いツーリングマップ(1989年7月発行)では深渕の中心集落以降はずっと深渕落合林道と書かれていた。 その後、舗装化されて主要地方道(かつては県道)の範囲が延びたのだろうが、周囲を見渡しても県道標識や林道看板など何もなく、 相変わらず何の道かははっきりしない。先程の分収林の看板を確認しても、単に「村道」とだけ記されているだけだった。

ここが主要地方道の終点? (撮影 2015. 5.28)
右手隅に別の分収林の看板
   

深渕川を渡る橋 (撮影 2015. 5.28)
<深渕川を渡る>
 橋を渡る直前、道路脇に林班界の看板と並んでもう一つ別の分収林の看板が立つ(上の写真)。深渕川に注ぐ細い支流沿いに踏み跡のような道があったようにも思えた。 鳥帽子登山口とは10mと離れていない。こちらの方が峠道の旧道であろうか。
 
 どちらにしろ、現在の車道は深渕川を小さな橋で右岸へと渡り、その後、深渕川沿いからはどんどん離れて行く。これからはいよいよ山岳道路の出番である。
   
   
   
東への迂回区間
   
<一路東へ>
 道は東の矢筈山方向から流れ下る支流の左岸沿いに登り始める。支流と言っても、落合峠より矢筈山までの方が距離が遠く、そちらが本流かもしれない。 しかし、ここでは落合峠の顔を立て、落合峠から流れ下る方を本流としておく。
 
 道は落合峠が越える山稜の北斜面を蛇行しながら登り始めた訳だが、出だしはまだ支流の谷沿いとあって、あまり視界は広がらない。 それでもちょっとしたつづら折りを交えながら高度を上げて行く。道はほぼ1.5車線幅を維持し、路面状態も全般的に良好だ。 深渕川沿いを外れてから峠までの区間は、落合峠では一番最後まで未舗装路を残していた箇所だが、こうした新しそうな道を見ると、 つい最近舗装工事が完了したのではないかと思ってしまう。 実際はとっくに全線舗装化されていて、部分的に路面やガードレールなどの補修が続けられているのだろう。

支流沿いに東へ (撮影 2015. 5.28)
左手に支流の谷を見る
谷側の法面がきれいに改修されている
   

本流の谷へと南西方向へ向かう (撮影 2015. 5.28)
今度は右手に谷を望む
右に下る道が分岐、何かの作業道らしい
<南西へ転換>
 峠道は、深渕川右岸に入ってから2.6km程東に向かい、その後一転して峠のある南西方向に進路を変えた。 もう谷沿いではなく、山腹の傾斜を斜めによじ登りだす。いよいよ山岳道路の雰囲気である。峠まで後3km程の道程を残す。
   
 ただ、訪れたのは5月の新緑の頃で、やや樹木の葉が多く茂り、視界は今一つだった。淡い緑の木陰の中を行く。
 
<視界が広がりだす>
 それでも、木々の間から時折視界が広がりだす(下の写真)。峠の北側直下に下る深渕川の谷が見えて来る。 落合峠の旧道は、多分その谷の底に通じていたのだろう。
 
 峠も程近い所に至って、軽自動車一台と離合した。思えば、棧敷峠を深渕側に越えてから、ほとんど対向車に出合わなかった。 棧敷峠の東みよし町側では、偶然だろうか、何度か車とすれ違っている。

林の中の道 (撮影 2015. 5.28)
   
視界が広がりだす (撮影 2015. 5.28)
   

工事中 (撮影 2015. 5.28)
<補修工事中>
 すると、工事個所に出くわした。崖崩れの復旧工事などではなく、道路の老朽化に伴う補修工事のような小規模なものだった。 傷んだアスファルト路面を修復し、白線などを引き直している様子だった。 やはり、道が新しそうに見えたのは、こうした修復工事がしばしば行われているからだろう。
   
<道の様子>
 道は、峠から北に下る急斜面を斜めに上って行く。山ひだの起伏に伴い、道は僅かな蛇行を繰り返す。 傾斜は急で険しいが、やはり樹木が繁茂し、思うように視界が広がらないのは残念だ。
 
<深渕川源流部>
 遂に道は峠直下に流れ下る深渕川の源流部を横切る。とは言っても、ただ車に乗って走っているだけでは、なかなかその箇所は分からない。 それまでも何度か緩い蛇行を繰り返してきたが、そうしたカーブの一つでしかない。 また、源流と言っても、橋が架かるでなく、小さな沢らしき溝が道路脇に確認できるだけだ。

道の様子 (撮影 2015. 5.28)
   

道が右カーブする辺りが深渕川源流部 (撮影 2015. 5.28)
そこで旧道を横切っている筈なのだが
 こういう場合はドラレコ動画が活躍する。地形図と見比べながら、画像を再生すると、この場所がそうだったかと判明する訳だ(左の写真)。
 
 何故源流部にこうまでこだわるかというと、そこに旧道が通じていた可能性が極めて高いからだ。 かつての峠道をその箇所で車道が横切っていることになる。 しかし、ドラレコ動画では車道の両側の様子までは写らない。少なくともそこを通過した時、標識などは見掛けていない。 峠に登る方向には、沢なのか踏み跡なのか分からないようなものが通じていたようだが、車道から谷に下る方向は、崖が鋭く切れ落ちるばかりだ。 既に往時の名残など全く留めていないことだろう。
   
   
   
峠直下のつづら折り
   
<峠直下のつづら折り>
 源流部を過ぎると、峠直下のつづら折りに差し掛かる。源流を過ぎた分、戻って来なければならない訳だ。 それまで右手に面していた谷が、ヘアピンカーブを一つ曲がると、左手が谷となる。

この先左ヘアピンカーブ (撮影 2015. 5.28)
ここまでは右に谷を望む
   

峠直下のつづら折り区間 (撮影 2015. 5.28)
左下に谷を望む
 視界も広がりだす。峠から東の矢筈山へと続く稜線も見えだす。
 
 つづら折りとなるくらいだから、斜面の傾斜はきつく道も険しい様相だ。路肩が僅かに決壊している箇所があった(下の写真)。 決壊箇所から下をのぞくと、下にも道が通じていた。つづら折りであることがはっきり分かった。
   

路肩決壊箇所 (撮影 2015. 5.28)

路肩より下をのぞく (撮影 2015. 5.28)
   
<峠直前>
 落合峠の深渕側では峠の鞍部は最後まで望めない。 道が大きく東へ迂回していたり、峠直下の傾斜がきつく、つづら折りになっていたりする為、最後のカーブを曲がるまで、峠が出て来ないのだ。

峠直前 (撮影 2015. 5.28)
この先の右手に峠の鞍部があるが、
最後まで見えてこない
   
   
   
峠の深渕側
   

峠の深渕側 (撮影 2015. 5.28)
この先、峠のピークまではまだ幾つかカーブを残す
<峠の深渕側>
 それまでの急峻な地形に比べ、峠が通じる山稜上は広くなだらかだ。峠道の頂上に立つより、稜線を越える道の端の方からが眺めが広がる。 峠より2つ手前のカーブ辺りからが丁度良い。
 
 峠の真下には樹林が多く、麓方向にはほとんど視界がないが、真北から西の稜線方向へと眺めがある(下の写真)。
   
深渕側の眺め (撮影 2015. 5.28)
北西の鳥帽子山方向を望む
   
深渕側の眺め (撮影 2015. 5.28)
北の深渕川本流の谷沿いを望む
中央遥かに見えるのは讃岐山脈だろうか
   
<深渕川源流>
  つづら折りを登って来たので、再び深渕川源流を車道は横切っていた。 車を停めた場所より少し麓側を見ると、車道の下に土管が埋め込まれているようで、峠の鞍部の方から側溝のような沢が下って来ていた。 谷側には土管の口が開き、峠を源流とする川の水が注がれるようになっていた。
 
 その付近に車道を横切るような山道の痕跡は見られない。旧道はどのようにこの付近に通じていたことだろうか。

車道の下を土管が通る (撮影 2015. 5.28)
これも深渕川源流部?
   
峠を背に深渕方向を見る (撮影 2015. 5.28)
車の左脇に木製の標柱が一本立つ
   
 車を停めた路肩の一隅に、木製の標柱が立っていた。 峠の記念碑か何かかとのぞいてみると、どうやら駐車禁止の注意看板であった。そそくさと落合側に立ち退くこととする。
 
 峠のピークまでは小さなS坂をもう少し登らなくてはならない。空が広がっていく。落合峠は広々とした峠だ。
   

峠に登るS坂 (撮影 2015. 5.28)

S坂を過ぎ、ほぼ峠を見通す (撮影 2015. 5.28)
   

峠に登る途中より深渕方面を望む (撮影 2015. 5.28)
右手(東側)の視界が遮られる
 峠から東へと続く稜線には、所々に岩肌が露出した崖が深渕側に大きく張り出していて、深渕側東方の視界を遮っている。 残念ながら峠のピークに登るに従い、視界は狭まって行く。
   
 道が稜線上を横断する区間は長い。直線で70mくらいもあるだろうか。深渕側の方が長い登り坂道になっている。
 
 峠が越える鞍部は非常になだらかで、道は狭い切通しなどではない。広々とした高原の中を行くようだ。 落合峠は、棧敷峠と共に三加茂市街と落合集落とを繋ぐ峠道であるが、棧敷峠が深く狭い切通しであったのとは全く対照的である。
 
 途中、道路脇に気象観測所のような小さな建屋を見る。それ以外、周囲は一面の笹原で、僅かな灌木がポツリポツリと茂るだけだ。この笹はシコクザサと呼ば れるらしい。峠は一般に風の通り道である。特に落合峠は強風が吹き抜けやすい地形ではないだろうか。 その為、大きな樹木が育たないのかとも思った。

深渕側より見る峠 (撮影 2015. 5.28)
長い上り坂
   

峠を背に深渕方面を望む (撮影 2015. 5.28)
<東みよし町方面の眺め>
 峠近くになると深渕の麓方面の視界は全くなくなる。代わりに奥の方に棧敷峠がある山稜などが望める(下の写真)。
 
 一番奥に薄っすらと見えるのは讃岐山脈であろう。徳島・香川の県境になる稜線が空との境を成している。その手前は棧敷峠がある峰であろうか。 右端にはっきりとした鞍部が確認できるが、棧敷峠の一つ西側にある鞍部ではないかと思う。 棧敷峠は右から張り出した崖に丁度隠れているものと思う。
   
棧敷峠方向を見る (撮影 2015. 5.28)
   
   
   
峠の落合側
   
峠より落合方向を見る (撮影 2015. 5.28)
   
<峠の落合側>
 落合峠は同じ東祖谷落合の中にあるので、境を示す看板など何もないまま、道は 峠を過ぎる。坂をほぼ登り切った先が直ぐに谷となり、目の前に広々とした景観が広がる。それが落合峠の落合側だ。
 
<標柱と句碑>
 雄大な山の景色をバックに、小岩とそれに並んで峠の標柱が立つ。 標柱には特徴的な文字で「落合峠」と書かれ、寄り添う別の標柱に「標高一.五二〇メートル」とある。標柱のてっぺんには木彫りのフクロウが飾ってあった。 これらは比較的最近に補修したもののようで、人の手がしばしば入れられていることがうかがえる。
 
 小岩には見覚えがあった。後で古い写真を調べると、岩の表面に句が刻まれている句碑だったのだ(下の写真)。 ただ、歳月を経て、この小岩は少し傾いてしまい、刻まれた文字には気付かなかった。 「落人もこの坂こえて杖を置く 落合 伏平」とあった筈である。

句碑や落合峠の標柱 (撮影 2015. 5.28)
   
以前の句碑 (撮影 1993. 5. 3)
   
<眺め>
 落合側をほぼ真南に向いて眺めると、左手より落合谷川の上流部の谷が下り始めて正面方向へと続き、その先に多分祖谷川本流沿いの山稜となる山並みが望める。 右手は鳥帽子山などへと続く山稜が盛り上がり、シコクザサが覆っている。
   
落合側の眺め(その1) (撮影 2015. 5.28)
左手から落合谷川の上流部の谷が下る
   
落合側の眺め(その2) (撮影 2015. 5.28)
落合集落方向に山道が下る
途中に見えているのはトイレの屋根
前方の支尾根のどこかがサガリハゲ山
   
<トイレ>
 小岩の句碑の前から正面の谷へと下る登山道がある。その先に赤い屋根が見える。 車道脇に「トイレ」と案内看板があったと思う。 旧東祖谷山村では、以前から峠の南側の直下に避難小屋・水場を設け、落合集落の人たちが代々管理して来たそうだ。 古くは吉野川沿いの加茂市街とを結ぶ重要な生活路であり、今は登山基地ともなる落合峠である。 強風を避け、少し麓に下った所に避難所を設けたものと思う。その延長が現在の登山者向けトイレに引き継がれているのだろう。
   
落合側の眺め(その3) (撮影 2015. 5.28)
一番奥の峰は、祖谷川南岸の山稜か
   
落合側の眺め(その4) (撮影 2015. 5.28)
シコクザサが覆う
  
<登山道>
 峠からは稜線上を東の矢筈山(1849m)方面へと登山道が始まる。シコクザサの中を細い道が通じ、稜線の上へと登って行く。 矢筈山からは更に東へ小島峠、見ノ越を通って剣山まで山稜が続く。 落合峠に訪れる登山者の中には剣山まで縦走する者も居るのだろうか。

東の矢筈山へ続く登山道 (撮影 2015. 5.28)
   

西の鳥帽子山などへと続く登山道 (撮影 2015. 5.28)
右手に古い峠の標柱
 同じように、西の稜線方向へも登山道ができている。 入口に古そうな標柱が立ち、「落合峠 標高 一.五二〇」とある。下の方は埋もれて読めない。
 
<標高>
 文献では峠の標高を1,519mとしてあった。 その他は、こうした峠に立つ標柱も地形図やツーリングマップルなどでも全て1,520mと書かれている。
 
<峠の地蔵?>
 西へ延びる登山道の途中から外れ、少し稜線上へと登った途中に、石像が何体か並んでいるようだった(下の写真)。峠の地蔵かと思った。 近くまで行って確認したかったのだが笹が多くて断念した。現在の車道の峠は広々としているが、ある程度は稜線を切り崩して通したものと思う。 昔の峠道はもう少し高い位置に通じていた可能性がある。石像が佇む辺りが、元の落合峠だったかもしれない。 現在の登山道のようにシコクザサを踏み分けるような細い道であったろう。
   

登山の注意看板など (撮影 2015. 5.28)
上の方に石像

斜面の一角に石像 (撮影 2015. 5.28)
   
<落合側の旧道>
 落合峠からトイレへと下る道は、その先落合谷川の西側の尾根近くを伝い、直接落合集落へと至る道になっているようだ。 一方、落合谷川沿いにも道が通じ、祖谷川沿いの国道439号が渡る落合橋の袂へと至る。どちらが落合峠の旧峠道であったろうかと迷う。
 
 この付近では落合集落は大きな集落であり、尾根沿いに落合集落へ続く道の方が元の峠道ではなかったと思える。 現在、峠直下の道沿いにトイレが設けられていて、その前身は避難小屋であったらしいことからも、そう思わえる。
 
 一方、落合谷川の上流部は峠より1.3km程西に位置し、そちらを経由すると随分遠回りになる。 歩いて越えた昔の峠道がそのような迂回路をとったとはあまり考えられない。ただ、他には何の確証もないのだが。
   
落合峠の落合側を東方へと眺める (撮影 2015. 5.28)
車道脇に登山者の車が停められていた
旧道はこの左手前から下り、右手奥へと下っていたのではないか
   

車の後ろ辺りに石像がある (撮影 2015. 5.28)
トイレのある落合集落側から登って来ると
このように落合峠が見える

落合峠からトイレへと下る道 (撮影 2015. 5.28)
果してこれが旧道であろう?
   
   
   
落合側に下る
   
<車道の道筋>
 現在の落合側へと下る車道は、大きく東へと迂回するコースを行く。 まずは落合谷川の源頭部を目指しているのだ。
 
 落合峠から矢筈山へと続く主稜から、南に張り出したサガリハゲ山(三角点の標高は1722m)を通って祖谷川本流の谷へと支尾根が下っている。 道の前方から右手へとその尾根を望む。道の方向はほぼ矢筈山に向いているが、その支尾根越しに矢筈山が少しは見えていたのかもしれない。

峠から下る車道は一路東へ (撮影 2015. 5.28)
   

途中には駐車場があった (撮影 2015. 5.28)
峠方向に見る
<駐車場>
 道は暫く矢筈山へと続く主稜に沿って緩く下る。視界は南に大きく開けている。すると直ぐに立派な駐車場が出て来た。 登山用にここまで大きな駐車場を設けたのかと、ちょっと不思議な感じがする程だ。登山者用以外にも何か目的があるのだろうか。
 
<石像群>
 また少し進むと、小さな建屋の傍らに、多くの石像が並んでいた(下の写真)。石像の中にはお遍路で知られる四国らしく、弘法大師像らしいものも見られ た。道を挟んで谷側には、草地のちょっとした広場があった。ベンチのような台も置かれ、眺めが良さそうである。広場の手前、車道から少し下った所には、お 手洗いらしい家屋も見えた。
   
左手に石像群、右手に草地の広場 (撮影 2015. 5.28)
矢筈山方向に見る
   
<祭事場所?>
 この石像が並んだ場所は、ちょっと異様な感じも受けた。祭壇ではないかと思われる木組みの櫓もある。何かの祭事を行う場所かもしれない。 手前にあった駐車場もその祭事に関係して造られた可能性もある。
 
 落合峠には山里に住む人々の雨乞いの場所「雲の山」という伝説があるそうだ。今でも落合集落の人たちによる、何らかの行事がここで催されるのかもしれない。

石像群 (撮影 2015. 5.28)
   

しばし東へ進む (撮影 2015. 5.28)
右手に作業道?
<以前の林道>
 最初に落合峠を訪れた時(1993年)、深渕落合林道の落合側は既に舗装済みであったと記憶する。 その為、未舗装林道を写した下の写真は、峠から深渕側に下る時のものかと思っていた。道もやや下っているように見える。
 
 しかし、今回じっくり眺めてみると、矢筈山方面から峠に向けて稜線近くに通じる道のようだ。左手に広がる景色は峠から落合側に眺める山々に似ている。 当時、深渕落合林道は峠の落合側にも一部に未舗装路を残していたことになる。 随分開けた感じの道だったようだが、今は少し木々が多くなってしまっている。
   
未舗装路の頃の峠道 (撮影 1993. 5. 3)
なかなか険しい
  
<お詫び>
 初めて落合峠を訪れた時は、高知県との境の矢筈峠に続いて越えたのだった。 矢筈峠も未舗装路の険しい峠道で、どうもその矢筈峠とこの落合峠を混同して記憶してしまった部分がある。 峠の様子などは落合峠で記したのは矢筈峠の方のことだったようだ。大変失礼いたしました。
   
   
   
落合谷川左岸へ
   

落合谷川源流部を渡る (撮影 2015. 5.28)
<落合谷側源流部を渡る>
 道は東方に目いっぱい詰め、落合谷川の源流部を横切る。そこに橋が一本架かっている。 落合谷川の水源はそこより更に北東に遡った、主稜と南に下る支尾根に囲まれた範囲だ。 矢筈山がもう近いが、矢筈山は支尾根を東に越えた霧谷川の水源となる。
 
<左岸沿い>
 落合谷川上流部を渡った道は、一転して谷の左岸沿いに急降下を始める。稜線沿いから谷沿いの道へとダイナミックな展開だ。
   
谷の左岸を下りだす (撮影 2015. 5.28)
正面に峠の鞍部を望む
   
<林道開通時期>
 道は落合谷川本流の谷の左岸に沿いつつも、一路、支尾根より流れ下る支流方向へとやや迂回する。サガリハゲ山と呼ばれる山に近い。
 
 文献の「サガリハゲ山」の項には、「東祖谷山村落合から、落合峠を経由して深渕へと抜ける車道が、 現在この山の西中腹に建設中である」とあった。この「車道」とは今の深渕落合林道のことらしい。 この林道の開通年など詳しいことは分からないが、文献発刊当時にできた道と推測される。 発行年は1986年(昭和61年)である。初めて落合峠を越えた時は、林道開通後まだ10年位しか経っていなかったことになる。

支流への迂回 (撮影 2015. 5.28)
  
<古い峠の写真(余談)>
 尚、文献の「東祖谷山村」の項を読んでいると、そこに記述された内容とは何の脈絡もなく、一枚の白黒写真が掲載されていた。 キャプションに「落合峠」とだけある。峠の落合側が展望所のようになっていて、その周辺に幾張ものテントが設営されている。 写真はその展望所を中心に矢筈山方向(東)に眺めたものであった。辺りには登山者の姿も見え、今では想像できない程、賑わった峠の様子である。 展望所部分から北や東へ延びる車道があるのかどうだか、写真の画像からは判然としなかった。ただ、少なくとも車の姿は一台も写っていない。 写真が撮られた時期などは不明だが、その写真は林道開通前の落合峠ではないかと思えた。「サガリハゲ山」の項の記述からもそう想像される。 車で行けない峠だったからこそ、峠にテントを張ってそこを登山基地としたのではないだろうか。 昭和の時代に登山ブームがあったということもあるが、林道開通前の落合峠の方が、かえって登山客で賑わっていたのかもしれない。
 
 文献に掲載された落合峠の写真は、当時の東祖谷山村を代表するものとして選定されたのだろう。他に何かなかったのだろうかという気がしないでもない。 今なら間違いなく重伝建地区に指定された落合集落の様子が載る筈だ。 編者が登山好きだっか単なる偶然か、とにかく文献に古い落合峠の姿を見ることができたのは嬉しかった。
   

つづら折りを望む (撮影 2015. 5.28)
支流の左岸沿いより
<つづら折り>
 道は支流の谷沿いを下るようになる。それまでも屈曲の多かった道が、遂につづら折りとなる。谷が右に左へと展開する。支流の川を何度となく渡り返す。
 
 落合峠の道はやはり落合側が楽しい。見晴らしのいい稜線沿いから、屈曲が連続する谷沿いへと、変化に富む山岳道路である。 特に全線が舗装化されてしまった今では、深渕側は険しいばかりで面白みに少し欠けるかもしれない。
 
 落合側のつづら折りの様子を写した写真が一枚残る(下の写真)。落合谷川本流右岸沿いからつづら折りを見上げた写真だ。 当時はまだ林道開通からあまり時を経ていなかった為か、木々が伐採されていて見通しが非常に良かった。つづら折りが手に取るように望めている。 今は沿道の樹木が繁茂し、こうした眺めは得られない。
   
峠方向につづら折りを望む (撮影 1993. 5. 3)
右手に落合谷川本流が流れる
   
   
   
落合谷川右岸
   
<落合谷川右岸へ>
 峠から4、5km下って落合谷川本流の右岸沿いとなる。山岳道路の醍醐味もここまでだ。 ここから暫く続く右岸沿いは、直線的な道でやや冗長的な感じである。谷底に近く、視界も広がらない。
 
<川沿いの歩道>
 この付近、地形図には車道とは別に川沿いに通じる点線表記の徒歩道が描かれている。 下って落合東という集落を過ぎ、落合橋の袂で国道439号に接続する。これが落合峠の旧道候補だ。 ただ、落合谷川本流沿いから峠方面へと登る道は直ぐに途切れている。やはり旧峠道ではないのだろうか。

右岸沿いの道 (撮影 2015. 5.28)
やや単調
   

工事個所 (撮影 2015. 5.28)
右の擁壁沿いに配管が通る
<工事個所>
 偶然だろうか、落合峠では工事個所が多かった。一般車より、工事車両の方を多く見掛けることとなった。 ショベルカーやトラックにどいてもらって通過する。
 
<謎の配管>
 ところで、右岸沿いになってから間もなく、道の端の擁壁沿いに配管が何本か通り始めた。工事個所の間も、途切れることなく続いている。
   
 ドラレコ動画で元を確認すると、路肩にコンクリート製の大きなマスが置かれ、そこから配管が始まっていた。 本数は途中で1本であったり3本であったり、もっと多かったりする。多分水の配管ではないかと思う。
 
 この麓に位置する落合集落は、山腹というか広い尾根上にあり、谷筋に比べれば水が得難い立地だ。 また人家は高低差の大きな急傾斜地に広がり、祖谷川から水を汲み上げるのも限界があるだろう。 そこで落合谷川の上流部から生活用水を人家まで引き込んでいるのではないだろうか。 ただ、集落までは5km以上の距離がある。配管の維持管理は大変であろう。また、配管に掛かる水圧も大きなものとなる。 その為か、途中に中継のマスが置かれているようだった。

トラックにどいてもらった (撮影 2015. 5.28)
擁壁沿いの配管は続く
   

道の様子 (撮影 2015. 5.28)
左手に小さな祠
<祠など>
 気になるのは、現在の林道が旧峠道とどのような関係にあるのかだ。全く違う道筋にも思える。 一方、生活用水らしい配管を通している点などは、以前から行われていたことのようにも思われる。
 
 途中、岩を切り開いて道を通したような箇所があった。その岩の足元には小さな祠が祀られている。 林道開通時に建立されたのか、それ以前にあった物か。
   
<林道分岐>
 あまり変化のない道に分岐が一つ現れる。入口には林道看板が立ち、「林道日和茶坂瀬線」とあった。ただ、工事中で行止りとある。地図上では、この道は落合谷川の西側の尾根方向へ数キロ登り、行止っているようだ。

右に林道分岐 (撮影 2015. 5.28)
   

つづら折り区間 (撮影 2015. 5.28)
一時的に眺めが広がる
<僅かにつづら折り>
 林道分岐の後、僅かにつづら折りのある個所を過ぎる。一時的に落合谷川の谷に眺めが広がる。 ヘアピンカーブや岩の露出した斜面を望み、ちょっと気分が盛り上がるが、そこを過ぎるとまた林の中だ。
 
<九十九谷>
 つづら折りを下り切った辺り、地形図の落合谷川沿いには「九十九谷」と書かれている。 「九十九」は「つくも」とか「つづら」とも読む。落合谷川の上流部を九十九谷と呼ぶのであろうか。 「九十九」と表現する程沢山の支流が流れ込んでいるということだろうか。
   
ちょっと開けた場所を通過 (撮影 2015. 5.28)
   
<道の様子>
 道には例の配管が続く。よくこれだけの配管を通したものだと思う。他に目を引く物はほとんどない。 それでも暫くすると墓地が出てきたり、僅かな建屋が見られたりし始めた。徐々に人里に近付いている。
 
 少し谷に張り出した箇所を過ぎる。そこからは落合谷川の谷間が広く眺められた。

落合谷川の東方を望む (撮影 2015. 5.28)
この麓辺りが落合東
   
   
   
落合東への分岐
   

左に鋭角に分岐 (撮影 2015. 5.28)
<分岐>
 コンクリート舗装の険しそうな道が鋭い角度で分岐する。 分岐の角には小さな看板が立ち、分岐方向に「国道439号」、直進する本線方向に「落合重伝建」と矢印が示す。 「重伝建」とは例の「重要伝統的建造物群」のことだ。
 
 分岐する道はペアピンカーブで急坂を下り、落合谷川を左岸に渡って落合東の集落に至り、更に左岸沿いに下って、 最後に落合橋の袂で国道439号に接続しているようだ。 以前は、この右岸沿いに通る深渕落合林道から左岸へと渡る車道は道路地図には存在しなかった。今でも地形図にこの車道は描かれていない。
   

分岐する道 (撮影 2015. 5.28)
工事通行制限の看板が立つ

分岐する道の方向を見る (撮影 2015. 5.28)
この先、ヘアピンカーブで急坂を下って行く
  
 その道はコンクリート舗装であり、まだ工事途中でもあるようだった。何となく急ごしらえの感がある。 多分、落合集落が重伝建保存地区に指定されてたことを受け、国道439号から落合集落までの交通の便を図ったものだろう。 元々落合東へと続く車道が左岸に通じていた。その道を活用したようだ。 ただ、新しく道路地図に車道が加えられた部分にも、地形図には元から数件の人家が記されている。 始めから何らかの道が通じていたところを、今回の改修となったようだ。
   
<人家>
 路肩には物置程度の小屋などが出てきて、地蔵なども見られるようになる。 そして遂にこの道沿いにも人家が現れる。落合峠から下り始めて、最初に見る人が住む家屋であろう。 峠の深渕側は廃屋も多かったが、落合側は今もって健全である。

道路脇に人家の屋根が見える (撮影 2015. 5.28)
   

右に落合重伝建地区への分岐 (撮影 2015. 5.28)
<重伝建地区への分岐>
 間もなく右への分岐が出て来る。以前なら何の看板もなかったであろう細い道だが、今はしっかりと「落合重伝建地区」などと案内がある。
 
 林道深渕落合線をそのまま行っても落合集落内を通り、最後には国道439号に至る。 しかし、山腹の傾斜地に広がる落合集落の一番上へ行くには、ここで分岐する道を使う。上方から落合集落全体を眺めることができる。
   

分岐に立つ看板 (撮影 2015. 5.28)

本線沿いの看板 (撮影 2015. 5.28)
   
<落合集落へ寄り道>
 峠の旅とは直接関係ないが、今回の旅の目的の一つが、この落合集落を探訪することだった。ここでちょっと寄り道する。

分岐方向を示す看板 (撮影 2015. 5.28)
   
   
   
落合集落へ
   

「平家伝説の里 東祖谷落合集落」の標柱 (撮影 2015. 5.28)
<落合集落へ>
 ちょっと狭い谷沿いを通り、林を抜けると視界が広がりだす。道は、落合峠の少し西側から南へと下って来た支尾根の上部に躍り出ようとしている。 落合集落の中心地は、この尾根の先端部に位置し、急傾斜地の広い範囲に人家が点在して立つ。
 
<落合集落の標柱>
 道路脇に人の手が指をさした絵が描かれる標柱が立っていた(左の写真)。「平家伝説の里 東祖谷落合集落」とある。 その後、同じ標柱を所々に見掛けた。比較的新しそうで、これも「重伝建地区」関係であろうか。
 
 間もなく雛壇のようにして人家が並ぶ様子がうかがえるようになる(下の写真)。その中を狭い道が蛇行して登って行く。 この道はこの集落の住民の貴重な生活路だ。
   
中腹より落合集落を眺める (撮影 2015. 5.28)
   
<落合に住む方(余談)>
 落合峠を越えた日、宿に困って急きょ近場の祖谷渓温泉・ホテル秘境の湯に投宿した。ちょっと高級な宿だが、体調不良でとにかく休養を取りたかった。 早々と宿に入り、2時間ほど眠るとどうにか持ち直した。夕食を付けない宿泊コースとしていたので、ホテルに隣接する食堂まで浴衣姿でのこのこと出掛けてみた。 立ち寄り湯の客も利用する食堂とあってか、ホテルの格式に比べると、極めてリーズナブルな値段だった。サラダ付きカレー600円を注文する。 
   
  客は我々夫婦以外に5、6人の家族連れが一組居るだけで、食堂内はややガランとした雰囲気だった。 若い女性の給仕の方が気さくな人で、仕事も立て込んでいないこともあってか、食事中にそばを通った折り、少し話し掛けて来た。 いやしの温泉郷に最近できたモノレールに乗った話などをする。その後、水のお代りをする時にまたしばらく話す。 すると、その方は落合集落に住んでいるとのこと。車で登る途中、怖そうな人形が居たでしょうと言う。確かにその場所を写真に撮ってあった。 そこがそのMさんの自宅とのこと。

左にMさんの家 (撮影 2015. 5.28)
車庫の脇に案山子が立つ
   
 Mさんのお父さんはボランティア・ガイドなどもなさっているそうで、また、落合峠の下にあるトイレでも、 雨水を貯めて手洗い場を作ったりする活動をしているとのこと。こうして落合集落の人々によって、落合峠の道は今も守られているのであった。
 
 この落合が重伝建保存地区に指定されてから、落合集落は有名になったらしい。 来客があって家の扉を開けると、そこに芸能人が立っていた、などということが起こるようになったと話すMさんは嬉しそうだった。
 
 ただ、落合集落の冬は1mの積雪があるとのこと。険しい地にあることには変わりない。また、Mさんは自宅とホテルの間を車で通勤しているらしい。 この狭い道を夜中に通るのは大変なことだろう。
   
集落の上部から見下ろす (撮影 2015. 5.28)
   

落合集落から戻って来たところ (撮影 2015. 5.28)
前方に通るのは深渕落合林道
左が峠、右が集落内を通って国道へ
<落合集落の最上部へ>
 細い車道は集落最上部に位置する人家の庭先に出て行き止まる。そこまで一般車が入り込んでは住民の方の迷惑だ。 途中の路肩に車を停め、歩いて見学させてもらった。
 
 最上部からは、落合集落だけでなく、祖谷川を挟んだ山腹のあちこちに集落が点在するのが望めた(上の写真)。 ちょっとした「天空の集落」である。
   
   
   
林道の続き
   
<林道の続きへ>
 峠道の本線である深渕落合林道に戻り、先に進む。するとまた右に分岐があった。コンクリート舗装の道が登って行く。 しかし、入口に「行き止り」と看板が立つ。でも、下から眺めると、駐車場のような場所も見えるので、そこに車を停めて周囲を見学できるのかもしれない。

右に分岐 (撮影 2015. 5.28)
中央に立つ看板に「行き止り」とある
   

中内農道の看板 (撮影 2015. 5.28)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
 その道沿いに「中山間地域総合整備事業 東祖谷地区 中内農道工事」と看板が立っていた。 落合集落の景観に配慮して建造した農道とのこと。斜面に立地する落合集落の中程を水平に横断している道だ。 行止りだが、集落内の人家や畑へと続いている生活道路だと思う。
 
 落合集落は傾斜が急なので、一本の車道が下から上まで続いている訳ではない。歩く道は通っているだろうが、この急傾斜では車道は簡単には登れない。 その為、集落内を段差を持って何本かの車道が横切っている。 先程の集落最上部に至る道や中内農道、そして深渕落合林道自身などもそうした車道の一つとなる。
   
<集落の中へ>
 中内農道分岐を過ぎ、更に暫く行くと沿道に人家が現れ出す。上から眺めた落合集落の只中を通過することとなる。 改めてその急傾斜ぶりに驚く(下の写真)。この地によくもこれだけの家屋を築き、人の暮らしを連綿と続けてきたと感心する。

これから集落の中に入って行く (撮影 2015. 5.28)
   
沿道より下の落合集落を望む (撮影 2015. 5.28)
直ぐ下にも別の車道が通じている
谷を一つ隔てた向こうの山腹にもまた別の集落が見える
   

沿道より落合集落を見下ろす (撮影 2015. 5.28)
祖谷川対岸にも集落が見える
 思うに、祖谷川の谷間は狭く、平坦地は極めて少ない。現在、川沿いに国道439号が通じるものの、その道の狭さからも祖谷川の谷に平地がないことが知れる。 そこで人は、谷間の上の方へと住居地を求めざるを得なかったのではないだろうか。また、川の氾濫などから身を守るという利点がある。 落人伝説がある地だが、山中に隠れ住むという意味合いもあったのかもしれない。
 
 今回、重伝建地区に指定されたのは一部の落合集落だけだが、その周囲を見渡せば、そこここの山腹に小規模ながらも集落が望める。 山肌を切り開き、人家が寄り添って暮らす様子は、けなげにも思える。
   
<左に分岐>
 落合集落の主要部分を横切ってしまうと、左鋭角に道が分岐する。路面が一般的なアスファルト舗装でなく、薄茶色をしている。 これも、土の道に近い色合いを出すことで、落合集落の景観に配慮したものだろうか。
 
 その道はまた集落主要部へと引き返して行く。先程下に見えていた道で、こうして落合集落の中を何段にも狭い車道が東西方向に横切っている。 窮屈ながらも住民たちが普段から往来する重要な生活路となっているようだ。

左に車道が分岐 (撮影 2015. 5.28)
集落内に戻る道
   
   
   
国道へ
   

鎖谷川沿い (撮影 2015. 5.28)
<鎖谷川沿いへ>
 落合集落の主要部を過ぎた先も、沿道にポツポツと人家は立っている。 また、右に左にと狭い道が登ったり下ったりし、その先に人家の庭先があったり、小さな畑があったりする。
 
 道は集落が位置する広い尾根の先端部分を回り込むと、西の鎖谷川沿いにまで出る。そしてやっとその川の左岸沿いに下り始める。 随分と遠回りだ。落合集落の中心部からだと、歩いて下れば数100mの距離にある国道439まで、車道は数kmの道程を経なければならない。
   
<鎖谷川左岸>
 道が鎖谷川沿いに下り始めると、人家はほとんど見られない。林に囲まれた暗い谷筋となる。右手に谷を望む。
 
 落合集落の最上部の方に住む方も、この道沿いに帰宅するのだろうか。夜などは街灯などもあまりなく、暗く寂しい道であろう。
 
<左へ分岐>
 国道に出るまでもう数100mという辺りで、左に分岐がある。これも落合集落を東西に横断する道の一つのようだ。 入口に「長岡家住宅」、「落合重伝建地区」と案内看板が立つ。

長岡家住宅の案内看板 (撮影 2015. 5.28)
   

左へ分岐 (撮影 2015. 5.28)
「長岡家住宅」と案内看板が立つ
 分岐する道は、落合集落の中では最も下に通じる車道へと至るようだ。そちら方向に古民家を復元した長岡家住宅があるらしい。
 
 看板には「落合重伝建地区」ともあるが、あちこちが落合重伝建地区なので、観光客などはどの様に訪れればよいか分からないだろう。 下手に車で入り込んで、駐車場がなく、回転場所もないとなると、地元住民に迷惑を掛けるばかりだ。 元から平地が少ない地形である。落合集落の観光地化はなかなか難しことであろう。
   
<国道へ>
 落合峠の道もやっと終点に至る。前方に国道439号が見えて来る。しかし、国道といってもそれまでの道と大して変わらない。 国道沿いに立つ道路看板がなければ、それまでにもあった単なる分岐かと思ってしまいそうだ。

この先、国道へ (撮影 2015. 5.28)
左上には歩道が登る
   

国道に出る部分 (撮影 2015. 5.28)
前方は見ノ越方面
右に鋭角に行くのは祖谷峡方面へ

国道沿いに立つ看板 (撮影 2015. 5.28)
   
   
   
国道からの分岐部分
   

少し開けた分岐部分 (撮影 2015. 5.28)
国道を見ノ越方面に見る
<分岐部分>
  国道439号は全般的に狭いが、落合峠の道が分岐する部分は少し道幅が広くなっている。 祖谷渓方面から遡って来ると、落合峠へは左に鋭角に曲がらなくてはならない。 しかし、いくら道幅が広くても、余程走り慣れていないと、一度では曲がり切れないだろう。国道沿いには商店らしい大きな家も見える。
 
<看板など>
 また、分岐近くには看板などがいろいろと立つ。 小さな石の祠や、何かこの落合に名所でもあったのか、「百地蔵」と読める古い案内看板などが石垣沿いに並んでいる。
   
分岐近くの国道沿いに看板やバス停が並ぶ (撮影 2015. 5.28)
   

石の祠 (撮影 2015. 5.28)

「百地蔵」と読める看板 (撮影 2015. 5.28)
   

ありったけの案内看板 (撮影 2015. 5.28)
<案内看板>
 また、落合峠の道の方向には、そちらにあるありったけの案内が出ている。落合峠がトップにあるのはうれしい。 「落合重伝建地区」などは最近になって加えられたものか。
   
<林道看板>
 案内看板などに混じって林道看板があるのは見逃せない。「林道 深渕落合線 (終点)」とある。 深渕側の起点はどこだか分からなかったが、少なくとも国道439号からの分岐点が林道の終点であることがはっきりする。 深渕側の途中まで通じていた主要地方道44号など、いつの間にかどこかへ消えてしまっていた。

林道看板 (撮影 2015. 5.28)
   

鎖谷のバス停 (撮影 2015. 5.28)
<バス停>
 よく見ると、バス停の名前は川の名前であった。「鎖谷」とある。「鎖」の字は古いもので、ここで表示できる同じフォントはなかった。 鎖谷川の河口はこのバス停の位置より、もう500m程西にある。落合は東の落合谷と西の鎖谷との間にある尾根上に位置する集落であった。
   
国道から右へ落合峠の道が分岐する (撮影 2015. 5.28)
国道沿いを祖谷渓方向に見る
   
以前の分岐部分 (撮影 1997. 9.25)
林道看板などは今とあまり変わらないようだ
   
<分岐の様子>
  今は、三大奇橋としても有名な「かずら橋」などがある祖谷渓方面から奥祖谷を目指してやって来ると、「落合峠」を示す大きな道路看板が立つ。 他にも落合集落が重伝建地区に指定されたことを受け、それに関する看板が多く立っている(下の写真)。この分岐を見逃すことはまずないだろう。
 
 以前は、こうした案内看板は少なく、道路看板も不備で、分かり難い分岐だった。 第一、やはりカーブが急過ぎて、余程手前から気構えていないと、一度では曲がり切れないと思う。

分岐の様子 (撮影 2015. 5.28)
祖谷渓方面から来ると急なカーブになる
   

分岐に立つ看板 (撮影 2015. 5.28)
<峠道の総括>
 現在は、国道からの分岐点付近のあちこちに「落合峠」の文字を見る。 「落合重伝建地区」に匹敵する多さだ。眺めが良い落合峠ではあるが、それ程の観光地とも思えない。 それでも、登山者などには重要な情報となるのであろう。看板の一つによると峠まで12kmとのこと。 程良い距離だ。峠道としてそれなりに走り応えを感じる長さである。
 
 ただし、峠に辿り着いただけでは峠の旅は終わらない。深渕へと下ることになるが、その深渕に関する案内はここにはほとんど見られない。 深渕キャンプ場などもやはりもう営業していないのであろう。この落合から深渕まで、およそ24kmである。
 
 深渕からは更に棧敷峠を越えなければ、下界へと生還できない。棧敷峠の区間は約16.5kmだ。合計40kmを優に超える。 その間、ほとんどが狭く屈曲する坂道となる。一本の道がこれだけ長く険しいのも珍しいことではないだろうか。
   
<棧敷峠との比較>
 棧敷峠は「日本百名峠」に選ばれているが、同じ道筋にあるこちらの落合峠と比べ、何が違うのであろうか。
 車で走った場合の道の面白さでは、落合峠の方が優っていると思う。ただ、現在の車道と旧道との関係は希薄だ。 林道を走る険しさは感じても、歴史の重さを感じることはない。
 一方、棧敷峠は吉野川沿いの人が多く住む地に近い。より人の歴史への関わりが深いことになる。 棧敷峠からは三加茂市街を望むが、「日本百名峠」に「美濃加茂を『平安京の夢誘う里』といった人がいた」とある。 落合峠からも祖谷川沿いの山々の雄大な景色を望むが、その眺めに人の歴史は感じない。
 「日本百名峠」などで峠が選ばれる場合、やはり知名度が大きく影響していると思う。自然、人との関わりが多い峠になる。 その点、落合峠の方は不利であろう。
 それでも、峠から眺める祖谷川の谷間には、落合集落などの人々の暮らしが今も尚続けられている。 また、重伝建地区への指定も手伝い、外からの人が訪れる地としても伸びていきそうだ。 ただ残念ながら、落合峠を越えて奥祖谷へと越える観光客は出て来そうにない。今後も知名度では棧敷峠に勝てそうにない。
   
   
   
落合橋付近
   
 落合峠の道に関してはこれで一応終了だが、もう少し落合集落の周辺を見ておきたい。
 
<落合集落の中心地>
 深渕落合林道の分岐点より500m程国道を見ノ越(剣山)方向に遡ると、郵便局や駐在所が立つ箇所がある。 人家が立て込み道は極めて狭い。国道沿いでもあり、ここが落合集落の中心地と言える。 落合集落が立地する尾根が祖谷川本流の谷へと下り終わる地点でもある。
 
 後で調べると、立ち並ぶ人家の隙間から狭い階段が始まり、山腹の落合集落へと登れるようだった。 その入口には落合集落の標柱も立ち、階段方向を指が指し示していた。 今は落合集落内にも幾筋かの車道が通じるが、もっぱら徒歩を交通手段としていた時代は、こうした道が生活路として日常的に使われていたのではないだろうか。

落合集落の中心地 (撮影 2015. 5.28)
国道沿いを祖谷川下流方向に見る
この右手が駐在所、少し進むと郵便局が左手にある
この右手に並ぶ人家の間から上の集落へと登る階段がある
   

落合橋 (撮影 2015. 5.28)
国道沿いを祖谷渓方向に見る
右手に落合橋のバス停が立つ
<落合橋付近>
  落合峠を下って来た深渕落合林道は、落合谷川沿いから落合集落を横断して鎖谷川沿いに下って終った。 落合谷川をそのまま下ると国道の落合橋の下を流れて本流の祖谷川に注いでいる。落合橋の左岸の袂にはバス停「落合橋」が立っている。 傍らに「平家伝説の里 東祖谷落合集落」という看板が立ち、集落内の案合図になっている。 集落の中心地にある駐在所から200m程東の地点だ。
 
 橋の右岸沿いには道が遡り始めているが、その入口に立つ落合集落の標柱は、尚も国道沿いを指している。 多分、駐在所の先の階段を登れということだ。その右岸沿いの道も、車道として上の落合集落へと通じてはいるようだ。
   

落合橋の近くに立つそば道場 (撮影 2015. 5.28)
この付近では祖谷そばが名物

落合谷川左岸沿いの道 (撮影 2015. 5.28)
国道の行先は剣山
   
<左岸の道>
 落合谷川左岸を遡る道は、入ったことはないが、以前から落合東の集落へと続く車道であった。 当然ながら、車道開通前から落合東に通じる道はあったろうし、集落の先、落合谷川沿いに山道が峠方向にも延びていたようだ。 これが林道開通前の古い峠道だった可能性もあるのだが、何ら確証はない。 現在の道路地図ではこの車道部分が主要地方道44号となっている。この落合橋の袂が落合峠を越える主要地方道やかつての県道の起点となっていた。
 
 ただ、最近の道路看板には、その道の方向には何も記されていない。単に、ここで国道が曲がっていることのみ示している。 落合重伝建地区への車でのアクセス路として、深渕落合林道との接続も改良されたのに、どうしたことであろうか。
 
 以前の分岐の様子では、道路看板は県道表記になっていて「265」という古い県道番号が記されていた(下の写真)。 行先も「落合」となっている。落合峠の前後がなかなかつながらない県道であった。
 
 この道と深渕落合林道との接続もまだ改修工事中であったが、いつの日か峠を越える道の全線が主要地方道と呼ばれる時が来るのだろうか。

国道は左折、直進が県道44号? (撮影 2015. 5.28)
国道を祖谷渓方向に見る
行先は大歩危、かずらばし
   
以前は県道265号とある (撮影 1997. 9.25)
   
   
   
展望所(余談)
   

展望所 (撮影 2015. 5.28)
<展望所へ>
 余談は続く。観光ガイドの本に落合集落を望む展望所が記されていた。祖谷川を挟んだ南側の斜面から落合集落を眺めるようだ。 なかなか手間だが、途中の道沿いに案内看板が完備されていて、迷わず行けるようになっていた。
   
<展望所>
  落合集落の対岸の斜面を登った途中に、車数台の駐車スペースとトイレが併設された新しそうな展望所が設けられていた。 「平家伝説の里 東祖谷落合集落」と題した案内看板も立つ。この看板は落合集落付近でも何箇所かで見られたものだ。 集落に関する簡単な説明文と、集落内の地図が掲載されている。 地図には山腹に広がる落合集落内に車の通る林道や人が歩く里道が縦横に通じる様子が描かれていた。
 
 一つ気になっていたのは、落合谷と鎖谷との境となる尾根上を落合峠方面から下って来る道が、そのまま落合集落に達していたのではないかと思ったのだが、 そのような道は描かれていない。落合峠旧道は謎のままだ。

「平家伝説の里 東祖谷落合集落」の説明文 (撮影 2015. 5.28)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
   

落合集落の地図 (撮影 2015. 5.28)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
<展望>
 展望所からは対岸の山腹に広がる落合集落が手に取るように眺められる(下の写真)。集落の中腹よりやや上を長く水平に横断するのが深渕落合林道だ。 落合峠は右奥に延びる谷の上流部にあり、展望所の位置からは尾根に隠れて望めなかった。
 
 看板の地図を詳しく見たり、何枚も撮った落合集落の写真をじっくり眺めると、いろいろなことが分かる気がするが、これ以上の詮索はもう止めにしておこう。
   
展望所より対岸の落合集落を望む (撮影 2015. 5.28)
   
   
   
 重伝建地区に指定された落合集落のみならず、その周辺に散見される山腹の集落には、改めて感動させられる。 また、今回久しぶりに国道439号線を走ったが、一部に改修された個所もあるものの、その狭さは相変わらずだ。 何度対向車との離合に苦労させられたか分からない。
 
 落合集落が有名になり、更に祖谷川の上流部に「いやしの温泉郷」ができたりして、この奥祖谷にまでも観光の手が随分と延びて来た感がある。 サングラスを掛けた若い女性が運転する高級乗用車ともすれ違わなければならない始末。軽自動車のこちら側がバックして道を譲らなければならなかった。 「対向車注意」の電光表示板への対処方法も分からないドライバーも居るようだ。
 
 吉野川本流の大歩危・小歩危(おおぼけ・こぼけ)や支流・祖谷川の祖谷渓(いやけい、いやだに)などは、観光ガイドで「秘境」とも紹介される。 祖谷川上流部の奥祖谷は尚更「秘境」であろう。でも、今回の旅では、どこもなかなか賑わっている様子だった。 つい先日も、奥祖谷観光周遊モノレールがテレビで紹介されているのを見掛けた (私たちが乗る前に受けた説明では、救助する場合3時間くらい掛かるかもしれませんが、絶対!!!助けますから、と言われたのを思い出す)。
 
 ただ、有名人も訪れる落合集落とは対照的に、深渕集落は寂しい姿だった。この棧敷・落合の2つの峠に挟まれた地は、随分と離村が進んでいるらしい。 観光地化で訪ねて来る人も多い秘境・奥祖谷から峠一つを越えると、そこにまた静かな秘境・深渕が佇む、そんな落合峠であった。
   
   
   
<走行日>
・1993. 5. 3 旧東祖谷山村→旧三加茂町 ジムニーにて
(1997. 9.25 国道439号沿いの落合を通過 ジムニーにて)
・2015. 5.28 東みよし町→三好市 パジェロ・ミニにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 36 徳島県 1986年11月発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、 こちらを参照 ⇒  資料
 
<1997〜2015 Copyright 蓑上誠一>
   
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