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地蔵峠   和歌山県田辺市中辺路町
  じぞうとうげ  (峠と旅 No.336)
  3世代の異なる車道が通じた峠道
  (掲載 2025. 5.24  最終峠走行 2018. 5.29)
   
   

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地蔵峠 (撮影 2018. 5.29)
手前は和歌山県田辺市中辺路町大内川
奥は同県同市中辺路町石船
道は国道371号
峠の標高は約345m (地理院地図の等高線より)
ご覧の通り、峠は立派な切り通しだが、その前後の道は今でも狭い
ここにはかつて幾つかの異なる峠が通じていたらしい

   

   

<峠の旧道>
 この地蔵峠は1990年頃に越えたことがある。多分、バイク旅だったと思う。その時の写真も記憶も、今はもう全く残っていない。 改めて当時使っていた1989年7月発行のツーリングマップ(関西 2輪車 昭文社)を開いてみると、国道371号の峠道とは別に、そのちょっと南に旧道らしき屈曲した道が描かれていた。現在の道路地図や地理院地図ではただ一本の国道が通じるのみである。そうか、この峠には旧道があったのか。
 
<峠のトンネル>
 しかも、新道の道をよくよく見ると、峠部分は短いながらもトンネルになっている。この地蔵峠は2018年5月に再訪したのだが、トンネルなどどこにもなかった筈だ。ツーリングマップの誤記かと疑ったが、そうでもなさそうなのである。 現在の峠は比較的長い直線路の切り通しになっているが、トンネルの峠は若干カーブしている。峠の位置も現在とは異なり、微妙に北側にズレている。
 
<3世代の峠>
 どうやらこの地蔵峠には現在の峠を含めて3世代の車道の峠道が通じていたという経歴がありそうなのだ。はたして35年前にバイクで越えたのは一体どの峠だったのだろうか。

   

<掲載動機>
 前回も同じ紀伊半島・紀伊山地の峠として野々川隧道の峠を掲載した。とても小さな峠で、この程度の規模の峠道なら紀伊山地だけでも無数に存在する。それらをいちいち取り上げていては切りがない。しかし、今回の峠は何だか謎めいている。少しでも謎解きができればいいのだが。

   

<所在>
 峠はほぼ東西方向に通じる。
 
 峠の東側は和歌山県田辺市(たなべし)中辺路町(なかへちちょう)大内川(おおうちがわ)になる。旧西牟婁群(にしむろぐん)中辺路町の大字大内川であった。田辺市は平成17年(2005年)5月1日に旧田辺市、龍神村、中辺路町、大塔村、本宮町が合併して新しい田辺市になっている。
 
 峠の西側は同じく中辺路町の石船(いしぶり)になる。旧中辺路町の大字石船であった。
 
 峠は市町村境などではなく、田辺市中辺路町の大字境である。

   

<地理院地図(参考)>
 国土地理院地理院地図 にリンクします。


   
本ページでは地理院地図上での地点を適宜リンクで示してあります。
   

<水系>
 地形的にはしっかり分水界上に峠は位置する。
 
<日置川水系>
 東側は日置川(ひきがわ)水系で、その一次支流の巨鼇川(こごうがわ、地理院地図)の上流部に峠はある。 それにしても「鼇」とは難しい漢字だ。初めて見る。音読みは「ごう」、訓読みは「おおうみがめ、おおすっぽん」とのこと。大きなウミガメということらしいが、それに巨が付いた巨鼇(こごう)とは、巨大なウミガメということになるだろうか。何かしらの由来があるのだろうが、不明である。
 
<巨鼇と小合>
 地理院地図などでは「巨鼇川」と書くが、文献(角川日本地名大辞典)やツーリングマップ(ル)などの一部の地図では「小合川」としている。読みは同じく「こごう」であろう。本来「巨鼇」と書くところ、それではあまりに難しいので「小合」の字を当てたのかと邪推したりする。
 
<大内川>
 それで話が済めばいいのだが、地図によっては「大内川」という名も見られる。地名に大内川(おおうちがわ)があるので、それももっともなことだ。文献によると地名の大内川は、「小合川をもと大内川と呼んだことに由来する」としている。大内川は小合川の古名らしい。
 
 「巨鼇川」もいい名だが、ちょっと難し過ぎるので、ここでは「小合川」と書いておくこととする。

   

<富田川水系>
 峠の西側は富田川(とんだがわ)水系で、その一次支流・石船川(いしぶりがわ、地理院地図)の上流部に峠は位置する。

   

<峠道の範囲>
 日置川も富田川も、その源流は北部に連なる果無山脈(はてなしさんみゃく、地理院地図)の南斜面になる。 この連山は概ね和歌山・奈良の県境を成して東西方向に連なる。古来、高野山と熊野本宮大社を結ぶ参詣道「果無道」が通じていた。行けども行けども果てし無く山道が続くことからその名があるとのこと。 果無道は昭和46年和歌山国体登山部門のコースとして整備されたそうだが、その後利用者もなく荒れていった。しかし、近年は熊野参詣道が世界遺産ともなり、高い峰上に立地する果無集落が一躍注目され、テレビ画面に登場したりしている。 私も訪れたことがあることを引牛越のページにちょっと記した。
 
 今回の地蔵峠は日置川と富田川の分水界上に立地し、両川を繋ぐ峠道になる。しかし、ここより上流側には同じような立地で国道311号の逢坂隧道(地理院地図)や逢坂トンネル(地理院地図)が通じ、峠道としてはそちらの方が格上となる。更に日置川も富田川もその源流方向に林道が延びて行き、どこが最源流の峠だかあまりよく分からないほどだ。とにかく、今回の地蔵峠は日置川の支流・小合川と富田川支流・石船川の水域のみの、狭い領域の峠道になる。

   

<峠名>
 地蔵峠は全国に多く存在し、その名は峠に地蔵尊が祀られることが由来となることがほとんどだ。今回の地蔵峠にも一体の地蔵が佇む。他にも別称があってもよさそうだが、見付からない。どこにもある有り触れた地蔵峠という名でも、地元民にとっては特に支障はないことだろう。

   
   
   

旧大塔村より峠へ

   

<旧大塔村>
 日置川(ひきがわ)沿いに通じる国道317号を遡り、平瀬トンネル(地理院地図)を抜けると田辺市平瀬(ひらせ)に入る。今回の峠道の東側起点の地だ。
 
 平瀬は元は西牟婁群(にしむろぐん)大塔村(おおとうむら)の大字で、大塔村は中辺路町(なかへちちょう)と同時期に田辺市と合併している。現在の田辺市の住所表記では、「中辺路町」は登場するが、「大塔」の文字はもう見られない。 今の地図で旧大塔村の村域を調べるのは難しくなっている。

   

<大塔村の峠(余談)>
 大塔村と言えば、大杉隧道の峠(仮称:大杉峠地理院地図)を思い出す。大塔村北東端の旧本宮町との境にある峠で、なかなか険しい林道の峠道が通じていた。2度程訪れたことがある。

   
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大杉隧道の旧大塔村側坑口 (撮影 1994.10.10)
(本編とは特に関係なし)

   

<奈良県の大塔村(更に余談)>
 余談ついでに、大塔村というのは奈良県にもあった。現在は五條市大塔町となっている。その旧大塔村となると、その北端に天辻峠がある(地理院地図)。 既に国道168号の新天辻隧道が通じていたが、わざわざその旧道の天辻隧道をジムニーで、しかも真冬に越えたことがあった。なかなか険しく、しかも危険な峠越えだった。随分余計なことをしたものだと思う。 大杉峠も天辻峠も、もう随分前の掲載になる。じっくり焼き直したいところだが、そんな時間はもうなさそうだ。

   
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天辻隧道の旧西吉野村(現五條市西吉野町)側坑口 (撮影 1991.12.30)
(本編とは特に関係なし)

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路肩でコーヒーブレイク (撮影 2018. 5.29)

<平瀬>
 平瀬トンネルを抜けた先は直ぐにも周辺に平瀬の人家が点在し始める。のどかな雰囲気だ。国道脇に広い路肩を見付けたので、車を停めて小休止とする(左の写真、地理院地図)。 車を降り、のんびり周辺を眺めながらインスタント・コーヒーをすする。こうした休憩の為にと、いつもホテルからの出掛けにお湯をポットに詰めて来ている。自販機はまず使わない。節約するというより、その場その場で臨機応変に対応したいからだ。

   

<分岐>
 平瀬内をちょっと進むと分岐の道路標識が出て来た(下の写真、地理院地図)。直進は国道371号で地蔵峠を越え、中辺路町栗栖川(くりすがわ)の滝尻に至る(地理院地図)。そこが今回の峠道の西側起点になる。その先、富田川沿いを下れば沿岸部の白浜に出る。

   
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分岐を示す道路標識 (撮影 2018. 5.29)

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分岐の道路標識 (撮影 2018. 5.29)

   

<県道217号分岐>
 一方、右に分岐する道の行先は「本宮・近露」と出ている。分岐の先で直ぐに県道217号・近露平瀬線に合流し、日置川沿いを遡って中辺路町近露(ちかつゆ)方面に出る(地理院地図)。

   
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左手に歴史民俗資料館が出て来る (撮影 2018. 5.29)

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更に右に近露への道が分岐 (撮影 2018. 5.29)
この時は県道217号は通行止

   

<県道通行止(余談)>
 ところが今回はその分岐(地理院地図)の角に通行止の看板が立っていた。 県道の近露平瀬線が崩土のため近露地内で通れないようだった。平瀬は旧大塔村の中で日置川沿い最北端の地だ。その日置川沿いを遡る県道が通れないとなると、後は国道371号しか道はない。その国道の地蔵峠もなかなか険しい道だ。平瀬がやや孤立した立地であることを物語る。

   
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県道通行止の看板 (撮影 2018. 5.29)

   

<乙女の寝顔(余談)>
 国道を振り返る方向に「乙女の寝顔(半作嶺894m)展望ポイント」という看板が立っていた。地図に確かにその名の山がある(地理院地図)。山容が乙女の寝顔に見えるようだ。

   
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国道を振り返る方向に見る (撮影 2018. 5.29)
歴史民俗資料館と「乙女の寝顔」の展望ポイントがある

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「乙女の寝顔」展望ポイント (撮影 2018. 5.29)
奥の山が乙女の寝顔に見える?

   
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平瀬の展望ポイントから望む半作嶺 (撮影 2018. 5.29)
はたして乙女の寝顔に見えるだろうか

   

<歴史民俗資料館>
 国道脇に田辺市平瀬歴史民俗資料館が立つ。元は大塔村立の「大塔村歴史民俗資料館」であった。その名残を示す古い看板も立っていた。

   
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歴史民俗資料館 (撮影 2018. 5.29)

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歴史民俗資料館に立つ観光案内の看板 (撮影 2018. 5.29)

   

<観光案内図>
 その敷地内に「田辺市大塔行政局管内観光案内図」という看板が立つ。「大塔行政局管内」とはちょっと仰々しいが、簡単に言えば旧大塔村のことだろう。案内図の右端に大杉隧道が描かれている。それ以外、大塔村ではあまり旅をしたことがなかった。

   
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観光案内図の拡大 (撮影 2018. 5.29)

   

<平瀬村>
 平瀬は旧大塔村の中でも北端に近い集落になる。日置川沿いの小盆地にそのほとんどの人家が集中する。文献(角川日本地名大辞典)によると、日置川と小合川の合流点の瀬がやや広いことに「平瀬」の地名の由来があるそうだ(続風土記より)。
 
 旧大塔村は昭和31年に三川村及び富里村(とみさとむら)・鮎川村の各一部が合併して成立している。それ以前、平瀬は富里村の役場が置かれた土地で、行政・経済の中心地であったそうだ。
 
 江戸期からの平瀬村で、明治22年(1889年)に平瀬・下川上・下川下・和田・大内川の5か村が合併して富里村となってからは大字平瀬となる。かつて平瀬小学校も設立されたそうだが、昭和57年(1982年)に廃校となっている。 半農半林が営まれるとのことで、盆地の中には比較的多くの田畑が広がるが、中には休耕田も見掛ける。代わりに今時らしく太陽光パネルがずらりと並んでいたりする。

   

<小合川沿い>
 歴史民俗資料館の前を過ぎる頃には、既に日置川支流・小合川沿いと言っていい。以前はもっと川に沿って国道が通じていた。今の真っ直ぐに通った国道沿いには人家は少ない。平瀬郵便局も旧道側にあるようだ(地理院地図)。
 
<巨鼇橋>
 平瀬の集落も尽きた所で巨鼇橋(こごうはし、地理院地図)を渡って小合川の左岸に出る。 橋の銘板では橋の名は「巨鼇」だが、川の名は「大内川」となっていた。巨鼇川でも小合川でもない。どうやら地元では大内川の名で通っているらしい。この川の上流部が中辺路町大内川なので、分かり易い名ではある。それにしても、どう呼んでいいか迷わせる川だ。
 
 余談だが、日置川沿いに合川(ごうがわ)という地名が見られる(地理院地図)。日置川と前の川(前ノ川)、将軍川の3河川が当地で落ち合うことに由来するそいだ。現在は合川ダムによる合川貯水池となっている。「小合川」とは「合川」の小規模サイズを表すのかと思ったりする。

   
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巨鼇橋を渡る (撮影 2018. 5.29)
川の名は大内川となっている
(ドラレコ画像)

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巨鼇橋を平瀬集落方向に見る (撮影 2018. 5.29)
橋の手前を左手に県道217号が分岐する
(後部ドラレコ画像)

   

 巨鼇橋の竣功は平成7年(1995年)10月とのことなので、私がバイクで地蔵峠を越えた時にはまだこの橋はなかったようだ。巨鼇橋の下流200m程に小さな橋が架かるが(地理院地図)、元の国道はそちらを渡っていた。

   

<狭小区間へ>
 巨鼇橋の直後に早くも路面のセンターラインが消え、国道は狭小区間へと入って行く。後日、写真を見直しても、これは国道だったのだろうかと疑いたくなるような道になる。

   
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狭小区間へ (撮影 2018. 5.29)
この先センターラインが消える

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道の様子 (撮影 2018. 5.29)
なかなか狭い
これでも国道

   
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大内川の看板が立つ (撮影 2018. 5.29)
ここは旧町村境

<大内川へ>
 暫く小合川左岸を遡ると、国道標識に「田辺市・中辺路町・大内川」と出て来る(地理院地図)。そこから先は大内川(おおうちがわ)の地だ。現在、この地点は同じ田辺市の平瀬と大内川の大字境だが、かつては大塔村と中辺路町との町村境であった。
 
 地蔵峠に町村境がなく、こうした所に境があるのがちょっと不思議ではある。これより上流側に位置する集落は、下流側の平瀬より、峠を越えた先の石船(いしぶり)とのつながりが強かったことになる。

   
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大内川の看板 (撮影 2018. 5.29)

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大字境を平瀬方向に見る (撮影 2018. 5.29)
看板には「田辺市平瀬」とある

   

<農業施設>
 巨鼇橋から2Km余り、何もなかった沿道に比較的大きな建物が並びだす(地理院地図)。大内川の集落かと思ったが、人家ではなさそうだ。何かの農業施設のようである。養鶏場の類だろうか。

   
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農業施設が出て来る (撮影 2018. 5.29)

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農業施設の様子 (撮影 2018. 5.29)
下流方向に見る

   
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農業施設の様子 (撮影 2018. 5.29)

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農業施設の様子 (撮影 2018. 5.29)
下流方向に見る道

   

<下ノ川への分岐>
 農業施設を過ぎた所で、小合川支流・香ノ川沿いを遡る道が分岐する(地理院地図)。ドラレコ画像を確認してみると、入口に「八体大稲荷大神 参道入口」と書かれた看板が立っていたようだ。
 
 地図上ではその道を行った先に立田(地理院地図)、下ノ川(地理院地図)という集落名が見られる。これらも大内川の集落になるのだろうが、現在住民は居るのだろうか。また、立田には大きな農業施設があるようだ(地理院地図)。車道としては行止りとなるが、近露方面へと徒歩道が延びている。

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下ノ川への分岐 (撮影 2018. 5.29)

   

<小合川の様子>
 分岐近くでは湾曲した小合川に香ノ川が注ぎ、ちょっと開けた谷が形成されている。車道からも川の様子がよく伺える。

   
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湾曲した小合川を望む (撮影 2018. 5.29)
左手奥が平瀬方向

   

<春日神社>
 分岐近くに神社のマークが見られるが(地理院地図)、参道入口は少し上流側にある(地理院地図)。春日神社(春日明神社)になる。

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春日神社の参道入口 (撮影 2018. 5.29)

   

<下地の集落>
 神社があったので集落は近い。間もなく小合川の谷は開け、周辺に田畑が広がりだした。人家もポツポツ点在し始める。地図には「下地」という集落名が見られた(地理院地図)。

   
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下地集落付近 (撮影 2018. 5.29)
平瀬方向に見る

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下地集落付近 (撮影 2018. 5.29)

   

<十丈峠(余談)>
 下地集落内に分岐がある(地理院地図)。支流の十丈又川沿いに遡り、その先に十丈峠(じゅうじょうとうげ)が位置する(地理院地図)。この峠には高原村(現中辺路町高原)から近露村(現中辺路町近露)へと向かうかつての熊野街道・中辺路(なかへち)が通じていた。峠には休息所があったそうだ。

   
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大内川小学校跡地 (撮影 2018. 5.29)

<大内川小学校跡>
 分岐からまた少し行くと、左手に人家とは異なる比較的大きな建物が見られる(地理院地図)。その敷地も広いが、あまり利用されている様子はない。調べてみると、やはり大内川小学校の跡地であった。当時まだ大内川村だった頃の明治10年(1877年)の開校と、なかなか古い。ただ、残念ながら昭和47年(1972年)には閉校となったそうだ。

   

<中切の集落
 国道沿いに人家が見られるようになってからは、ほとんど途切れることなく集落は続く。地図には今度は中切という集落名が見られる(地理院地図)。
 
 
<串崎の集落>
 道がちょっと屈曲した先でまた田畑が広がる(下の写真、地理院地図)。地図には串崎という集落名が記されている。こうして集落が点在するには、川沿いにそれなりの平坦地が必要であったのだろう。

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中切集落付近 (撮影 2018. 5.29)

   
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串崎集落付近 (撮影 2018. 5.29)
小合川沿いに棚田が広がる

   

<大内川を過ぎる>
 串崎の集落も過ぎると、これで大内川の人家は尽きる(地理院地図)。地図にはまだ人家の記号が残るが、既に空き地となっている箇所もある。

   
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串崎集落方向を振り返る (撮影 2018. 5.29)
この付近にも以前は人家が立っていたようだ

   

<大内川村>
 この小合川上流域に立地する大字大内川は江戸期からの大内川村であった。文献(角川日本地名大辞典)では小名(こな)には十丈峠と下野川があったと記している。下野川は下ノ川流域の集落だろう。すると、十丈又川流域と本流沿いの下地・中切・串崎は小名では十丈峠となるのだろうか。
 
 明治22年に平瀬と同じ富里村の大字となっている。よって、その後昭和31年に中辺路町と大塔村に分かれるまで、大内川と平瀬は同じ村であった。

   

<県道中辺路本宮田辺線>
 この付近の山間地域にとって、沿岸部の田辺市街との間の交通は重要である。文献によると、大内川には滝尻方面から県道中辺路本宮田辺線が通じていたとのこと。その県道が現在の地蔵峠を越える国道371号の前身になるものと思う。 昭和26年に国鉄バスが大内川まで乗入れを開始したそうだが、バスはその県道中辺路本宮田辺線を走ったものと思う。

   

<水呑峠>
 一方、平瀬より田辺方面に向かうには、文献によると「竹ノ又・水呑峠・鮎川を通り、男の足で約半日かかったという」としている。竹ノ又は小合川より下流側の支流・竹ノ又川沿いの地で(地理院地図)、平瀬からは多分、定峠(地理院地図)を越えて行ったのではないだろうか。竹ノ又からは水吞峠(地理院地図)を越えて富田川水系に入り、鮎川(現田辺市鮎川、地理院地図)に下ってその後田辺に向かったようだ。
 
<地蔵峠と水吞峠>
 大内川と平瀬はかつてはお隣同士の村だったが、田辺市街との交通は、一方は地蔵峠、一方は水吞峠と別々の峠を越えたようだ。一時期は同じ富里村の大字だったが、後に中辺路町と大塔村に分かれた。それには上記のような事情が関係しているかもしれない。

   

<地蔵峠の役割>
 現在は同じ田辺市になった大内川と平瀬である。但し、地蔵峠前後は車道としては今でも険しい道で、この峠を越えるのはその直近の大内川集落の住民くらいだけではないだろうか。 一方、平瀬からは日置川沿いに下る道が発達し、平瀬トンネルも開通したので、田辺市方面に行くのにわざわざ地蔵峠を越えるとは考え難い。自然、地蔵峠の役割はかなり限られたものになるように思える。

   
   
   

大内川集落以降

   
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左手に林道竹ノ又坂又線が分岐 (撮影 2018. 5.29)

<林道竹ノ又坂又線>
 大内川の集落が過ぎた直後、左手(南方)に林道竹ノ又坂又線が分岐する。坂又峠(地理院地図)を越えて竹ノ又へと出られるようだ。残念ながら坂又峠は訪れたことがない。紀伊山地にはこうした小さな峠が無数に通じるので、全く手に負えない。ところが驚くことに、グーグル・ストリートビューがこの坂又峠を越えている。
 
 林道看板によると、林道延長は3.5Kmである。竹ノ又川沿いに通じる県道219号・下川上牟婁線に接続するまで約4.6Kmあるので、林道区間はその手前までになる。多分、地理院地図で標高225mとある地点までだろう(地理院地図)。

   
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林道竹ノ又坂又線の分岐 (撮影 2018. 5.29)
大内川集落方向に見る

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林道看板と林道標柱 (撮影 2018. 5.29)

   

<2本の林道標柱(余談)>
 一方、林道標柱には延長380mとあった。どういうことだろうと思っていると、平成20年度の改良工事の区間であるようだった。横に古い林道標柱がもう一本立っていた。

   
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林道標柱 (撮影 2018. 5.29)
新旧2本の標柱が立つ

   

<林道竹ノ又坂又線の様子(余談)>
 近年の改良工事によるものか、分岐付近はきれいなコンクリート舗装になっている。しかし、グーグル・ストリートビューを見ると、全線舗装済みながらもなかなか険しそうな峠道だ。一度は越えてみたかった。
 
呑  尚、県道219号の水呑峠は1994年10月10日に一度越えている。しかし、既に新しい水呑隧道が開通していて、有り触れた県道という印象だった。残念ながら峠の旧道は見たことがない。 その県道219号を西に向かえば、あの大杉隧道(仮称:大杉峠)である。

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林道竹ノ又坂又線方向を見る (撮影 2018. 5.29)

   

<小合川の源流>
 ところで、坂又峠を源流とする川(地理院地図)を小合川(巨鼇川、こごうがわ)と記す地図がある。地蔵峠(約345m)に比べると、坂又峠(約450m)の方が標高が高く、立地としても奥まっている。政城山(地理院地図)を源流とする川(地理院地図)も源流候補だが、そちらは「栗の木谷川」と呼ぶそうだ。やはり坂又峠が小合川源流であろう。
 
 尚、地蔵峠を源流とする川を小合川とし、坂又峠からの支流を合わせて以降を大内川とする地図もある。その場合の坂又峠側の川の名は不明となっていた。

   

<道の様子>
 大内川集落の先も、道は狭いながらもきれいな舗装路面が続き、よく整備されていることが伺われた。集落が途切れると途端に道が悪くなる例があるが、この峠道は異なる。地蔵峠が大内川集落の住民にとって重要な生活路となっているからだろう。

   
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道の様子 (撮影 2018. 5.29)

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道の様子 (撮影 2018. 5.29)
きれいなアスファルト舗装が続く

   

<旧道1の分岐>
 峠の300m程手前で右手の川沿いへと下る道が分岐する(地理院地図)。 後で考えると、これも旧道の名残だったかもしれない。かつてトンネルを抜けていた国道の峠は、現在の切り通しの峠より少し北側に通じていたようだ。その道の痕跡だったかもしれない。今後、他の旧道も登場するので、トンネルの方の旧道は「旧道1」と呼んでおくことにする。

   
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右下に降りる道がある (撮影 2018. 5.29)
旧道か?

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分岐を大内川集落方向に見る (撮影 2018. 5.29)

   

<旧道2の分岐>
 更に峠方面に進むと、峠の手前170m辺りに今度は左手に分岐がある(地理院地図)。こちらは明らかに旧道の様相だ。前述の旧道1と区別する為、ここでは旧道2としておく。

   
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今度は左手に旧道の分岐 (撮影 2018. 5.29)

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旧道分岐を大内川集落方向に見る (撮影 2018. 5.29)

   
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旧道分岐の様子 (撮影 2018. 5.29)
看板はゴミの不法投棄を禁止するものだった

<旧道2の様子>
 道の入口にはゴミの不法投棄禁止の看板が立つくらいで、勿論何の案内もない。その時は通行止とはなっていなかったが、入り込んだことはなく、通り向けできたか分からない。
 
 この旧道の道筋については現在の地理院地図にも全く記されていない。唯一、古いツーリングマップ(1989年7月発 行)にのみ見られた。他にはなかなか手掛かりが見付からない。

   
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これがかつての旧道 (撮影 2018. 5.29)

   

<古い航空写真>
 最近移住を考えていて、土地探しに地理院地図の古い航空写真を参考にしている。土地の造成前の地形を確認する目的だ。それ程豊富な航空写真が閲覧できる訳ではないが、それでもなかなか参考になる。 最近のグーグルの航空写真は精細でとても便利だが、日本の昔の様子は分からない。その点、地理院地図の航空写真は価値がある。
 
 そこで今回の地蔵峠についても調べてみると、1974年〜1978年の航空写真が見付かった(以下のリンク)。

   

<地理院地図(参考)>
 国土地理院地理院地図 にリンクします。


   
地理院地図の年代別写真 1974年〜1978年
   

<旧道2について>
 それにははっきり旧道2の道筋が写っていた。現在の立派な切り通しの峠も、トンネルを抜ける旧道1も、まだないようだ。少なくとも1978年(昭和53年)以前は、旧道2が現役だったようである。 滝尻方面から大内川に至る国鉄バスは、そのクネクネ道を越えたことになる。峠の位置は現在の切り通しより僅かに南にあったようだ。

   

<旧道2の石船側分岐>
 旧道2の石船(いしぶり)側の分岐は、地ヶ谷橋(ちけたにはし)で石船川を渡る手前である(地理院地図)。

   
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地ヶ谷橋袂の様子 (撮影 2018. 5.29)
右に旧道2が分岐

   

<新道の開通時期>
 地ヶ谷橋は昭和54年(1979年)7月の竣工なので、旧道2に代わるトンネルを抜ける新道(旧道1)が通じたのは、その年以降となる。古い航空写真(1978年以前)とつじつまが合う。
 
<地ヶ谷>
 尚、地ヶ谷橋の名から分かるように、川の名は地ヶ谷(ちけたに)となっていた。しかし、地図を見る限り石船川本流そのものである(地理院地図)。一方、峠から流れ下る川も本流候補ではある(地理院地図)。
 
 地ヶ谷橋が架かる付近の谷は深く、ここに橋を架けるのは大工事であったろう。それまで峠道は大きく南を迂回し(旧道2)、クネクネと曲がることになったようだ。

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旧道2の様子 (撮影 2018. 5.29)

   

<幅員増加>
 大内川側の旧道2の分岐付近以降、道幅はそれまでとは異なり明らかに広くなっていった。センターラインこそないものの、それなりの国道の様相である。大内川の集落以降、全く見なかった国道標識も立っていた。やはり、現在の峠前後の道は新道(旧道1以降)開削によって誕生た道筋で、それで立派なのだろうと思う。

   
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峠直前 (撮影 2018. 5.29)
国道標識が立つ
道もいい

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国道標識 (撮影 2018. 5.29)

   

<旧道1への分岐?>
 最後に左カーブして地蔵峠の切通しに入って行くが、そのカーブミラーが立つ付近がまた怪しい。どうも道が分かれていたようなのだ。

   
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峠直前を右手に分岐 (撮影 2018. 5.29)
カーブミラーの付近

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分岐の様子 (撮影 2018. 5.29)

   
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分岐を大内川集落方向に見る (撮影 2018. 5.29)

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分岐の様子 (撮影 2018. 5.29)
カーブミラーの手前に道があったようなのだ

   

 訪れた時は草木が茂ってはっきりしなかったが、グーグル・ストリートビューには間違いなく道が写っている。あくまで想像だが、かつてはその先にトンネルの地蔵峠があったのではないだろうか。 地ヶ谷橋の完成直後、暫くはトンネルの地蔵峠があり、その後現在の大規模な切り通しの峠になったのではないかと思う。

   

グーグル・ストリートビュー
かつてのトンネルの峠へと続く道か?
(誰かこの先を見て来てくれないものか)

   
   
   

   

<峠の様子>
 現在の地蔵峠は大きな切り通し状になっている。旧道2の分岐辺りから始まる広い新道が、そのまま深く切り下げた切り通しを抜けている。両側は高いコンクリート擁壁となっている部分が多い。 かつてこの少し南側に小さなトンネルの峠があったようだが、トンネルなどを穿つより、こうして分水界の峰を大きく崩して道を通した方が、快適な道にするには合理的だったのかもしれない。 峠は市町村境などではないこともあって、境を示す看板などは皆無だ。さっぱりし過ぎていて、物足りないくらいである。

   
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大内川側から見る地蔵峠 (撮影 2018. 5.29)
大きな切り通しの峠

   

<標高>
 看板がないので正確な境界は分からないが、切り通しの途中に道の最高所があり、その付近が大内川と石船との境だろう。その標高は地理院地図の等高線で340mと350mの間なので、約345mと考えておこうと思う。地図によっては切がよく350mとするものを見掛ける。どちらにしろ高い峠ではない。
 
<道程>
 また、平瀬の中心地・平瀬郵便局郵付近から峠まで約5.8Km。峠から滝尻で国道311号に接続するまで約5.7Km。合計約11.5Kmと、比較的道程も短い峠道だ。ただ、日置川、富田川水系共に中流域以上に位置し、アクセスするにはなかなか奥まった地ではある。

   
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石船側から見る地蔵峠 (撮影 2018. 5.29)
切り通し手前を左(南)に林道政城線が分岐する
(妻はタイヤに挟まった石を取ることに余念がない)

   

<林道政城線の分岐>
 余り特徴がない峠にあって、石船側から道が一本分岐するのが注目される。林道政城線が南へと分岐している(地理院地図)。この林道は2015年発行のツーリングマップル(関西 2015年8版1刷発行 昭文社)にも記載がない。正確な時期は分からないが、比較的最近に開削された道だろう。

   
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林道政城線の様子 (撮影 2018. 5.29)

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林道政城線分岐の様子 (撮影 2018. 5.29)
分岐角に地蔵の社がある(中央奥)

   

<林道政城線について(余談)>
 林道看板の日付は平成24年(2012年)3月となっていたが、林道竹ノ又坂又線に関しても同じ日付で、これは林道開通年とは異なるだろう。延長は約15Kmと長い。政城山至近を通り、十丈峠をかすめ、逢坂隧道の道に合流するようだ(地理院地図)。
 
 看板に比べ林道標柱は古く、記載内容はあまり読めない。こちらが起点であることだけは分かった。
 
 かつてあったであろうトンネルの地蔵峠は、この林道政城線を少し行った所に通じていたのではないだろうか。林道開削により、もう何の痕跡も残っていないのだろう。

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林道政城線の林道看板 (撮影 2018. 5.29)

   
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林道政城線の林道標柱 (撮影 2018. 5.29)
「林道政城線 起点」とあるようだ

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林道政城線の林道標柱 (撮影 2018. 5.29)
延長などの記載内容は全く読めない

   

<峠地蔵尊>
 林道政城線分岐の角に地蔵の祠(ほこら)が立つ。木造の祠はやや傷んでいるが、中に佇む峠地蔵尊は丁寧に祀られている。仏像自身はかなり新しそうだ。
 
 古くは現在の切り通しの上空、高い位置に地蔵峠が通じ、そこに地蔵が祀られていたのだろう。その後車道の峠が開通し、それも3世代あるようだ。峠の地蔵はあっちこっちと引っ越しさせられたのではないだろうか。
 
 現在の地蔵ははたして何代目になるのだろうか。菩薩の中でも地蔵菩薩は位が高いのだと妻が言う。峠は大規模な切り通しの姿になり、その端っこにちょこんと佇む地蔵は、今はあまり目立たない存在だ。

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分岐の角に地蔵の祠 (撮影 2018. 5.29)

   
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地蔵の祠 (撮影 2018. 5.29)

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中に祀られる峠地蔵尊 (撮影 2018. 5.29)

   

<峠の石船側>
 峠からは石船側にも幅広い道が下る。道の直ぐ脇ははっきりした谷の地形だ。本流かどうか不明だが、これが石船川の源流の一つだ。谷は林道政城線方向へともう少し登って行く。

   
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峠の石船側の様子 (撮影 2018. 5.29)

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車道の脇は谷 (撮影 2018. 5.29)
石船川の源流

   
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石船川源流方向を望む (撮影 2018. 5.29)

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石船側より峠を望む (撮影 2018. 5.29)

   

<峠の変遷(おさらい)>
 現在の峠は政城山から北に連なる日置川・富田川の分水嶺の鞍部に位置する。車道開通前の古くからの峠も、高さの違いこそあれ、正にこの地に通じていたものと思う。
 
<旧道2>
 年代は不明だが、その後県道中辺路本宮田辺線となる車道が地ヶ谷(ちけたに)上流方向を迂回する形で切り開かれた。その峠は現在の切り通しより僅かに南に通されたものと思う。 昭和26年(1951年)からはその車道を使って国鉄バスが大内川まで運行された。現在では稜線の峰が大きく切り崩されてしまっているので、それまでの峠の痕跡は残っていないだろう。その前後の道も通行止となっているようだ。これからはただただ朽ち果てて行く運命になる。
 
<旧道1>
 昭和54年(1979年)には地ヶ谷に大きな地ヶ谷橋が架かり、ほぼ現在の道筋が完成する。これで峠前後の屈曲は解消された。ただ、最初は峠に狭いトンネルが掘られたようだ。
 
<現在>
 今は稜線を大規模工事で切り通しとし、幅の広い車道を通した。峠前後の約700mの新道区間は国道らしい立派な道である。ただ、それ以外はまだまだ狭い区間を多く残す峠道でもある。

   
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峠の南側を望む (撮影 2018. 5.29)
切り通しの高い擁壁が続く
かつてこの上方に旧道2が通じていたのだろう

   
   
   

石船側へ下る

   
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峠より石船側へ下る道 (撮影 2018. 5.29)
暫くは快適

<石船>
 峠より石船(いしぶり)側へ下る道も、暫く快適だ。引き続き右手に谷を臨む。石船川という名であるかどうか、まだ迷うところだが、地蔵峠を源頭とする川であることには間違いない。
 
<石船村>
 現在の田辺市中辺路町石船は江戸期からの石船村で、明治22年に栗栖川(くるすかわ)、石船、他計10か村が合併して新しい西牟婁郡(にしむろぐん)栗栖川村(くるすかわのむら)が成し、その大字となる。 現在の地蔵峠は単なる大字境であるが、江戸期には石船村と大内川村、明治22年からは栗栖川村と富里村の村境であったことになる。

   

 昭和31年には二川村・栗栖川村・近野村及び富里村の一部が合併して中辺路町になっている。この時以降、峠を挟んで隣り合う石船と大内川が、同じ町の所属となったようだ。

   

<地ヶ谷橋>
 峠から350m程で前述の地ヶ谷橋(ちけたにはし)が出て来る。大きな谷を渡る。橋の銘板からは川は地ヶ谷と呼ばれるようだが、大抵の地図では石船川本流になっている。 この川の源流は坂又峠に近い日置川との分水嶺のようだ(地理院地図)。

   
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地ヶ谷橋を渡る手前 (撮影 2018. 5.29)
国道標識が立つ

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国道標識 (撮影 2018. 5.29)

   

<地ヶ谷橋以降>
 地ヶ谷橋を渡り、左より旧道2を合した後、道は狭くなる(地理院地図)。2車線幅のある地ヶ谷橋を架け、そこより峠方向には立派な道を開削したが、地ヶ谷橋より下流方向はほぼ元の道のままで残されたようだ。

   
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地ヶ谷橋より峠方向を見る (撮影 2018. 5.29)

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地ヶ谷橋より石船集落方向を見る (撮影 2018. 5.29)
左手から旧道2が合する
本線はこの先狭くなる

   
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右手に分岐 (撮影 2018. 5.29)
その先に田畑や人家がある

<人里>
 峠から1Km余りも下ると、もう人里に降り立つ(地理院地図)。右手に石船川沿いに下る道が分かれ、その先に田畑や人家があるようだった。

   
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何かの建物が見える (撮影 2018. 5.29)

   

<人家>
 更に下ると車道からも人家や水田が見渡せるようになる(地理院地図)。大内川側に流れる小合川より幾分谷が広い気がする。

   
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石船川沿いに人家や水田を見渡す (撮影 2018. 5.29)

   

<沿道の様子>
 峠の標高は約345mと低く、その両側に流れ下る川の谷も険しくはない。峠道としては全般に穏やかそのものだ。その分、雄大な眺めが広がることは期待できない。代わって沿道に見える素朴な山里の風景が、この峠の旅の楽しみとなる。

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石船川の谷を峠方向に望む (撮影 2018. 5.29)
峠までは見通せない

   
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沿道にも人家が立つ (撮影 2018. 5.29)
上石船付近

<上石船>
 国道の直ぐ脇にも人家が立つようになる(地理院地図)。地図には上石船(かみいしぶり)という集落名が見える(地理院地図)。石船川最上流の集落になるのだろう。ツーリングマップ(ル)には「上石」と書かれていた。大字は「石船」となっているので、誤植などではないようだ。
 
 昭和26年にこの上石船集落を経由して大内川まで国鉄バスが通じている。

   

<八柱神社(余談)>
 上石船集落を過ぎ、暫し林の中を行くと、左手に八柱神社が出て来る(地理院地図)。

   
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左手に八柱神社 (撮影 2018. 5.29)

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八柱神社の鳥居 (撮影 2018. 5.29)

   

<カク地蔵尊(余談)>
 また、八柱神社の道を挟んではす向かいにはカク地蔵尊が祀られる。 側らに立つ由緒書には、「この地蔵尊はカク地蔵と呼び、癌で苦しむ人々を助けたと伝えられている」とある。 「カク」とは癌のことを指すそうだ。この地で胃癌に相当する病が流行り、それを治癒すべくこの地蔵尊を建立したようだ。

   
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八柱神社のはす向かい (撮影 2018. 5.29)
右下にカク地蔵尊が祀られる(小さな祠)

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沿道にまた人家が見える (撮影 2018. 5.29)
中切付近

<中切>
 八柱神社直後にまた集落が現れる。地理院地図に集落名の記載はないが、古いツーリングマップでは国道の左手が「中切」ということになっている(地理院地図)。 しかし、人家は極めて少ない。大内川にも同名の集落があった。

   

<中村>
 中切に続いて国道の右手は中村(なかむら)の集落となるようだ(地理院地図)。 石船川の谷は広くなったり狭くなったりを繰り返し、広い箇所ではこうして集落が形成されている。中村はこの石船川流域では最も大きな集落に思えた。

   
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沿道の人家の様子 (撮影 2018. 5.29)
中切から中村への途中
こうして一部に道は広いが、一時的

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集落の様子 (撮影 2018. 5.29)
この付近は対岸に人家が多い
中村付近

   

<石船小学校跡(余談)>
 中村は石船川沿いに点在する集落の中央部分に位置する。それもあってか、以前は石船小学校があったようだ。右岸側に渡る橋の先辺りが跡地と思われる(地理院地図)。
 
 文献によると、明治42年栗栖川第一小学校の分教場として開設、昭和25年石船小学校として独立とのこと。しかし、昭和30年代から石船の地は過疎化に見舞われ、昭和44年に石船小学校は廃校となったそうだ。

   
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右岸側の集落の様子 (撮影 2018. 5.29)
石船小学校の跡地付近を望む

<下地>
 中村の次に国道の左手に人家が見えて来る。これも地理院地図に記載がない集落名だが、ツーリングマップでは「下地」と書かれている(地理院地図)。人家の数は少なそうだった。「下地」についても大内川に同名の集落があった。何か理由があるのだろうか。

   
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前方に下地集落の人家 (撮影 2018. 5.29)

<寺ノ口>
 また暫く人家が途切れ、次に出て来るのは寺ノ口(てらのぐち)の集落になる(地理院地図)。この集落も比較的大きいようだ。

   
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沿道の集落の様子 (撮影 2018. 5.29)
寺ノ口付近を峠方向に見る

   

<下谷3号橋>
 地ヶ谷橋以降、ほぼ1.5車線幅の道が続く。一部に道路改修が行われていたり、2車線幅の広い箇所もあったりしたが、概ね昔ながらの狭い道である。あまり胸を張って国道だとは言い難い。
 
 しかし、遂に路面上にセンターラインが出て来た。下谷3号橋(しもたに3ごうはし)を渡る直前である(地理院地図)。ただ、既に寺ノ口の集落も過ぎてしまっている。この後、暫く集落らしい集落はない。
 
 下谷3号橋を峠方向に見ると、橋の手前に幅員減少の道路標識や看板が立つ。

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下谷3号橋の手前 (撮影 2018. 5.29)
センターラインが出て来る

   
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下谷3号橋を峠方向に見る (撮影 2018. 5.29)
左手に幅員減少の道路標識が立つ

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下谷3号橋を峠方向に見る看板 (撮影 2018. 5.29)
左の写真より更に手前
「幅員減少注意」と看板が立つ

   

<石船川右岸沿い>
 地ヶ谷橋以降、道は終始石船川左岸沿いに通じていたが、下谷3号橋で右岸に入る。
 
<下谷トンネル(余談)>
 その後、下谷2号橋でちょっと左岸に入り(地理院地図)、下谷トンネルを抜け、続いて下谷1号橋でまた右岸に戻る。橋やトンネルの名となる下谷(しもたに)の集落は、下谷トンネルによってバイパスされた旧道に位置する(地理院地図)。橋やトンネルの開通は2000年(平成12年)頃なので、初めて地蔵峠を越えて来た時は、下谷集落の前を通っていたことになる。

   
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下谷2号橋とその先に下谷トンネル (撮影 2018. 5.29)
手前を右に下谷集落への旧道が分岐する

   
   
   

滝尻

   

<滝尻>
 地蔵峠の旅は滝尻(たきじり)が終焉の地となる。下谷3号橋以降、快適な2車線路が続くが、沿道にはほとんど人家は見られない。再び建物が並びだしたと思うと、そこが中辺路町栗栖川(くりすがわ、くるすかわ)の滝尻だ。

   
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滝尻 (撮影 2018. 5.29)
国道沿いに建物が並ぶ

   

<滝尻の様子(余談)>
 国道371号沿いの滝尻は、あまり集落らしい様子がない。どうやら人家より観光施設の方が多いようで、大型の観光バスが停まっていたりする。
 
 
<中辺路>
 それもその筈、滝尻は熊野参詣道・中辺路(なかへち)の通過点にあたる。「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産になってからは、特に注目されているものと思う。ここ滝尻の地も、観光客で賑わうようだ。

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滝尻より峠方向を望む (撮影 2018. 5.29)
石船川が流れ下る

   
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熊野古道館へ渡る橋 (撮影 2018. 5.29)

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橋の入口付近 (撮影 2018. 5.29)
その直ぐ先で国道311号に接続する

   

<熊野古道館(余談)>
 世界遺産に関係するかどうか分からないが、国道から歩道の橋で石船川を渡った先に熊野古道館が建っている(地理院地図)。駐車場は少し離れた上流側にあり、熊野古道館まで左岸沿いに歩道が通じている。

   
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歩道の橋より熊野古道館を望む (撮影 2018. 5.29)
足元で石船川が富田川に注ぐ

   

<中辺路(余談)>
 熊野参詣道・中辺路の通過点を示す滝尻王子宮は、熊野古道館とは石船川を挟んで反対側にある。今回の地蔵峠の道とはほとんど関係ないが、折角だからいろいろ見学するといい。中辺路については牛馬童子像付近のみ歩いたことがある。

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中辺路の道筋 (撮影 2018. 5.29)
「歴史の道・熊野道」の看板より
(大内川に流れる川はここでは「小合川」と書かれている)

   
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滝尻橋手前 (撮影 2018. 5.29)
道路標識が出て来た
前方に国道311号が通じる

<国道311号へ>
 峠道は最後に滝尻橋(たきじりはし)で富田川を渡り、国道311号に接続して終わる。反対側の起点である素朴な山里の平瀬と比べると、滝尻は観光地然として随分開けた雰囲気だ。
 
 国道311号沿いの道路標識では、国道371号方向に「合川、平瀬」とある(下の写真)。合川(ごうがわ)は平瀬より日置川を下った合川貯水池周辺の地であった。

   
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国道311号から国道371号分岐を見る (撮影 2018. 5.29)
行先は「合川、平瀬」

   
   
   

 結局、初めて地蔵峠を越えた時に峠でトンネルをくぐったかどうか、はっきりしない。地ヶ谷橋を渡る新道になっていたことは間違いないが、現在の立派な切り通しが既に開通していたどうか、全く覚えがない。 当時はもっぱらAX−1やジムニーを走らせるばかりで、カメラさえ持って行かないことが多かった。せめて峠の写真だけでも撮っておけえばよかったと悔やむ、地蔵峠であった。

   
   
   

<走行日>
・年月日不明 大内川→石船/AX−1にて
・2018. 5.29 大内川→石船/ハスラーにて
 
<参考資料>
・関西 2輪車 ツーリングマップ 1989年7月発行 昭文社
・ツーリングマップル 5 関西 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 関西 2015年8版1刷発行 昭文社
・角川日本地名大辞典 30 和歌山県 1985年7月 発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・田辺市のホームページ
・五條市のホームページ
・その他、地形図(地理院地図)、道路地図、河川地図、一般のウェブサイトなど
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

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