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境峠
  さかいとうげ  (峠と旅 No.315)
  木曽川源流の地・木祖村を行く峠道
  (掲載 2022. 6. 5  最終峠走行 2008. 8.13)
   
   
   
境峠
境峠 (撮影 2001. 4.28)
手前は長野県木曽郡木祖村大字小木曽
奥は同県松本市奈川
道は県道(主要地方道)26号・奈川木祖線
峠の標高は1,486m (文献などより)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
21年前の峠の様子
この峠にはもっと以前より訪れていたが、峠の写真を撮ったのはこの時が最初
 
 

   

<木曽川源流の峠>
 最近、鳥居峠鉢盛峠を再掲載して、その惰性でこの境峠も掲載しようと思った。 繋がりは、「木曽川源流の峠」ということである。これら3つの峠を合わせ、「木曽川源流三大峠」などと勝手に呼んでいる。 最源流は鉢盛峠だが、2番目に境峠が木曽川源流域の奥深い所に位置するようだ。鉢盛峠が一般車では行き難い峠なのに対し、境峠は誰でも普通に訪れることができる。「木曽川の源流 ふるさと木祖村」と刻まれた石碑も峠に立つ。
 
 ただ、それ程面白い峠道という訳ではない。峠の旅を始めた1990年前後には既に訪れている筈なのだが、写真などは全く撮らなかった。 その近くにある野麦峠月夜沢峠地蔵峠白樺峠安房峠(トンネル未開通の頃)、権兵衛峠(トンネル未開通の頃)などを越える時、ただただ通り過ぎるばかりの峠道と思っていた。 快適な県道(主要地方道)が通じ、何の険しさもないのだ。調べてみると、2001年にやっと峠の写真を残していた。
 
 しかし、今思えば懐かしい峠でもある。旅にどっぷりつかっていた頃に何度も越えた。野麦峠から権兵衛峠に梯子するなど、野宿しながら一日に幾つもの峠を夢中で訪れていた時期だ。旅の思い出はどんなことでも懐かしいものに思えるようになってきた。

   

<所在>
 峠はほぼ南北方向に通じ、北は長野県松本市(まつもとし)奈川(ながわ)、旧南安曇郡(みなみあずみぐん)奈川村(ながわむら)になる。旧奈川村は大字を編成しなかったので、これ以上細かな住所名が示せない。
 
 南は同県木曽郡(きそぐん)木祖村(きそむら)大字小木曽(おおあざおぎそ)になる。鉢盛峠と同じだ。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<水系>
 木祖村側は木曽川源流ということで、まぎれもなく木曽川水系である。木曽川源流部の支流・笹川の上流部に位置する。笹川上流は幾つかの支流に分かれているが、その最も奥から発する枯尾沢の源頭部に峠は位置すると言える。
 
 一方、峠の松本市側には境川が流れ下り、一旦大寄合川に合し、間もなく野麦峠方面から発する奈川(ながわ)に注ぐ。更に奈川は梓湖(あずさこ)で安房峠方面から発する梓川(あずさがわ)に合する。 梓川は犀川(さいがわ)本流の上流部であり、正式には犀川になるのだが、一般には通称名である梓川が使われる。 梓川は鳥居峠や鉢盛峠方面からの奈良井川(ならいがわ)を合して改めて犀川と呼ばれ、行く行く千曲川(信濃川上流部の通称名)から信濃川へと下って日本海に注ぐ。よって、境峠は太平洋岸と日本海を分かつ中央分水嶺に位置する。

   

<立地>
 野麦峠は飛騨山脈(北アルプス)を越える峠だが、その南北方向に大きく連なる飛騨山脈と、日本列島を横断する中央分水嶺が交差する間近に峠は位置する。飛騨山脈越えの峠道の補助的な役割があるようだ。

   
   
   

木祖村藪原より峠へ

   

<藪原>
 木祖村大字藪原(やぶはら)は江戸期の五街道の一つ・中山道(なかせんどう)の宿場であった。鳥居峠を挟んで奈良井宿と対を成す。現在は国道19号が通じている。境峠の旅はここ藪原から始まる。
 
 新鳥居トンネルを抜ける国道19号から分かれ、一路県道(主要地方道)26号・奈川木祖線を進む。県道の行先には「上高地・奈川高原・野麦峠スキー場」などど案内されている。木曽川本流を堰き止めてできた奥木曽湖(おくぎそこ)完成後は、「味噌川ダム 7.7Km」と看板も立つ。


藪原内の国道19号を北上する (撮影 2001.11.10)
車は多い
この先、左手に県道26号が分岐
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<藪原市街>
 輸送トラックなども多い大幹線路である国道19号に比べ、境峠を越える県道26号は交通量が少ない。ちょっとホッとする。暫し、藪原の市街地脇を抜ける。 かつての藪原宿は背後に難所鳥居峠を控え、奈良井宿と並び重要な地であったが、今は新鳥居トンネルの快適な国道が通じている。立ち寄る車は少ない。 また、奈良井宿のように江戸期の宿場の面影を留めて観光客で賑わうような様子もあまり見られない。私も立ち寄った記憶がない。
 
<飛騨街道奈川道>
 藪原宿は中山道木曽路から分かれ、飛騨高山へと至る飛騨街道奈川道の分岐点としての役割もあったそうだ。 この場合の「飛騨街道」とは狭義の美濃・飛騨間を結ぶ街道のことではなく、広く飛騨に通じる街道一般を指すようだ。その内の奈川を通る街道という意味だろう。 藪原から境峠を越えて奈川、更に野麦峠を越えて飛騨へと行ったものと思う。
 
<木曽川右岸>
 藪原市街を抜け、その先で県道は木曽川右岸へ渡る。「奈川 22Km」の看板が出て来た(地理院地図)。旧奈川村は広く、どこが「奈川」かと思う。どうやら上高地乗鞍スーパー林道が分岐する黒川渡(くろかわど)が旧奈川村の中心になるようだ。今は松本市の奈川支所がある。

   

木曽川右岸 (撮影 2008. 8.13)
(下流方向に見て川の右側が右岸になる)

奈川22Kmの道路看板 (撮影 2008. 8.13)
   

沿道の様子 (撮影 2008. 8.13)
木材が積まれる
この付近から小木曽になる

<小木曽へ>
 周囲に大きな建物はなく、沿道にはまだ木曽川の谷が大きく開けて眺めが広がる。峠方向に眺望があるが、まだ峠が越える中央分水嶺までは見通せていないようだ。途中、藪原から小木曽(おぎそ)に入る(地理院地図)。小木曽は木祖村北部の大きな範囲を占める。
 
 道は快適で、知らぬ間に木曽川本流沿いからその支流の笹川右岸沿いに移って行く。

   

<あやめ公園池分岐>
 藪原から境峠方面に向かうと、もう外界との出入りができる車道は少ない。以前は木曽川上流の味噌川(みそがわ)沿いに林道が延び、鉢盛峠を越えて松本盆地方面の朝日村へと通じていたようだが、味噌川ダム建設が始まって以来、木祖村側が通行止になってしまった。

   
左手に分岐 (撮影 2008. 8.13)
   

 それでもただ一筋、あやめ公園池(藪原高原スキー場)への分岐を入り、小さな峠を越えて菅川沿いに国道19号へと戻るルートがある。これも一つの峠道だと思い、以前一度、国道側から越えたことがある。のんびりした道で、ほとんど印象に残らず、写真も一枚も撮らなかった。


分岐の看板 (撮影 2008. 8.13)
   

笹川右岸 (撮影 2001.11.10)
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<笹川沿い>
 右手に笹川と木曽川本流とを分かつ尾根が迫って来る。徐々に谷も狭くなる。前方には境峠が通じる峰が見え始める。

   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2008. 8.13)
この時、峠の峰は霞んでいた
   

<笹川左岸へ>
 県道は左岸へ渡る。その所でこの付近では珍しい道の立体交差がある。地図を見ると、上に通る道は味噌川ダムへと続くようだ。ただ、藪原方面から来た時はもっと手前で分かれる道を行く方が早い。

   
道が立体交差する (撮影 2008. 8.13)
   

<笹川左岸>
 谷はいよいよ狭くなる。屈曲しているので、見通しも悪い。
 
 
<チェーン着脱場>
 いつしか沿道から人家が絶え、すると右手に大型車用のチェーン着脱場が出て来る(地理院地図)。その後、一般車のチェーン着脱場(地理院地図)が左手にある。


笹川左岸沿い (撮影 2001.11.10)
谷が狭くなる
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右手に大型車用のチェーン着脱場 (撮影 2008. 8.13)
   

一般のチェーン着脱場に立つ看板 (撮影 2001. 4.28)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<木祖村の案内看板>
 一般用のチェーン着脱場には、藪原方向に見る木祖村の案内看板が立つ。境峠から下って来た観光客向けのようだ。鳥居峠(信濃路自然歩道)も紹介されている。峠方向には「しらかば平別荘地」が示される。

   

<九十九折りへ>
 一般用のチェーン着脱場付近では地理院地図上で1,192.7mと標高が記されている。その直ぐ先で道は九十九折りを始める。 最初のカーブの正面に大きなコンクリート壁が見えるが、笹川に架かる砂防ダムと思われる。峠の標高が1,486mなので、これより標高差293mを駆け上がることになる。
 
<眺め>
 境峠の道で残念なのは、ほとんど眺望に恵まれないことだ。それもあり、何度も走った道だが、峠道としてはあまり関心が向かなかった。


前方に砂防ダム (撮影 2008. 8.13)
その先九十九折り
   
九十九折り途中の眺め (撮影 2008. 8.13)
あまり視界が広がらない
   

 それでも、今回写真アルバムを引っ張り出してみると、なかなか景色がいい場所があったことが分かった(下の写真)。もう21年前の写真だ。 道の改修が進んだ頃で、まだ沿道の木々も伸びていなかったのだろう。最初、その場所がどこだか分からず、やっと特定できた。九十九折りを登り始めて直ぐの所だ(地理院地図)。その7年後、偶然同じ場所を撮っていた(前の写真)。季節の違いを考慮しても、全く同じ場所とは思えない。

   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2001. 4.28)
以前は眺めが良かった
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<尾根沿い>
 道は笹川上流部の枯尾沢と上押出沢との間の尾根上を行くようになる。谷筋でないので暗い雰囲気はない。しかし、林に囲まれ全く視界が広がらない。やはり境峠に眺めは期待できない。

   

白樺平付近 (撮影 2008. 8.13)
県道標識には
(主)奈川木祖線
木祖村 白樺平
とある

県道標識 (撮影 2008. 8.13)
   

<別荘地>
 沿道の林の間からちらちらと建物が覗くようになる。普通の民家には見えない。ちょっと洒落ている。 木祖村の案内看板にあった「しらかば平別荘地」がこの周辺に広がっているらしい。その中を道は蛇行して登る。 時折建物脇に車が停められていたりするので、別荘が利用されていることが分かる。こうした別荘地がある為もあって、道が良いのではないかと思ったりする。

   

右手に別荘らしき建物 (撮影 2008. 8.13)

道の様子 (撮影 2008. 8.13)
視界は広がらない
   

<峠直前>
 道は快適な2車線路が続く。勾配は緩く、急カーブもない。視界が広がらないので、どこを走っているのかさっぱり分からないまま、前方に峠が見えて来る。藪原から約15Km、時間にして20分余りのドライブであった。

   
峠直前 (撮影 2008. 8.13)
   
峠直前 (撮影 2008. 8.13)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
   
   

峠の木祖村側

  
境峠
木祖村側から見る境峠 (撮影 2008. 8.13)
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<峠の木祖村側>
 境峠は道がゆったり登ってゆったり下って行く。あまり峠に到達したという感慨が湧かない。道のピークよりちょっと木祖村側に下った所に門扉のような形の看板と石碑が立つ。他に車を停めるスペースなどは見当たらない。

   

前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2001. 4.28)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2002. 9.29)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

木祖村の石碑 (撮影 2008. 8.13)

<木祖村の石碑>
 石碑は比較的大きく、どっしりしている。ちょっと赤みを帯びた石に文字が刻まれる。
 
 木祖村ではこうした石碑、石の道標の類が所々に見られる。鳥居峠には「左 明治道路、右 旧国道」という道標が立つ。 鳥居隧道には「國道十九号線 開道記念碑」という石碑がある。藪原市街には旧中山道沿いに同じような道標があったようだ。 鳥居隧道の石碑については建之日が昭和41年(1966年)10月であることが分かっている。他の石碑や道標も多分同じような時期に建てられたものと思う。 これらは沿道のちょっとしたアクセントになり、シンプルな碑文にも何となく味わいがあっていい。境峠を訪れた時には、何度かこの石碑を写真に収めいた。

   

木祖村の石碑 (撮影 2001. 4.28)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

木祖村の石碑 (撮影 2002. 9.29)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<碑文>
 石碑の文字には「木曽川の源流 ふるさと木祖村」とあり、最後に「木祖村長 武重善博書」と刻まれる。この境峠が木曽川の源流だと言っているのではなく、どうやら木祖村が木曽川源流の地であるという意味であった。
 
<源流の地>
 木曽川は木祖村北端にそびえる鉢盛山(2,446m)が最源流だが、広くは鳥居峠方面から鉢盛山を通って境峠方面に到る中央分水嶺から発する水が集まって源流の流れとなる。 車で用意に行ける源流の地としては、やはり本流の味噌川ダムの奥木曽湖だろうが、標高は1,150m程度である。鳥居峠も1,197mとあまり高くない。一方、境峠は支流側だが、標高は1,486mと高い。こちらの源流の地も十分に訪れる価値があると思う。

   
石碑の拡大 (撮影 2008. 8.13)
   
石碑の拡大 (撮影 2001. 4.28)
以前の方が文字がはっきりしていたようだ
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<木曽の看板>
 境峠で印象的なのは、板格子状の門扉のような看板である。木祖村方向に見て中央に「木曽」と大きく書かれ、左右に「ようこそ木曽へ Welcome to kiso」とある。この場合、「木祖」ではなく「木曽」である。これとほぼ同じ物が長峰峠(ながみねとうげ)に立っている。国道361号の木曽町と岐阜県高山市高根町との境の峠だ。それもあって、この境峠と長峰峠を時々混同してしまうことがある。
 
<木曽>
 この看板に言う「木曽」の定義などはよく分からない。文献には「木曽川の源流域および奈良井川流域」と示してあったりするが、歴史的変遷などもあるようで、正確には定まらないのかもしれない。概ね現在の木曽郡の領域だが、鳥居峠を越えた塩尻市奈良井(旧楢川村)側もまぎれもなく木曽である。
 
 木曽と外界とを繋ぐ峠としては、境峠・長峰峠の他に、鉢盛峠、権兵衛峠、大平峠、清内路峠、馬籠峠、真弓峠、白巣峠、鞍掛峠などではないかと推測する。どこかに門扉の様な看板が他にあっただろうか。

   
門扉のような看板 (撮影 2008. 8.13)
   

<木祖村方向に見る>
 石碑と「木曽」の看板以外には、市町村境を示す「木祖村」と書かれた看板が立つ程度だ。

   
峠より木祖村方向に見る (撮影 2008. 8.13)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2001. 4.28)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

木祖村方向に見る (撮影 2008. 8.13)
左手に県道標識が立つ

木祖村側に立つ県道標識 (撮影 2008. 8.13)
   

<境峠の文字>
 峠では峠名を記した看板や道標などがあること期待するのだが、境峠の木祖村側には何もなさそうだ。
 
 ただ、峠より少し木祖村側に進んだ所に、以前より県道標識が立っていたのだが、どうやら最近、その標識に「木祖村 境峠」とあるようだ。


木祖村方向に下る道 (撮影 2008. 8.13)
   

<切通し>
 境を示す「木祖村」と「松本市」(以前は「奈川村」)と書かれた看板の間に道のピークがあり、左右をコンクリート壁で覆った浅い切通しになっている。ここがピンポイントの峠となる。 日本列島を太平洋側と日本海側に分かつ分水界が横切る。ここに降る雨は僅かな違いで太平洋か日本海かに大きく分かれて行くことになる。

   

峠の切通しを木祖村方向に見る (撮影 2008. 8.13)

峠の切通しを松本市方向に見る (撮影 2008. 8.13)
   

<標高>
 峠の標高は文献や一般の道路地図には1,486mと出ている。現在の地理院地図でも等高線で1,480を少し越えた所に車道が通じる。ただ、その脇に「1,486.6m」という記述があり、これが正確な峠の標高かもしれない。
 
 この境峠に車道が通じた時期は不明だが、ずっと以前より飛騨街道奈川道などの峠道が通じていた筈だ。 この付近の稜線で最も低い鞍部に位置することなどから、車道開通前もほぼ同じ場所に峠があったものと思う。ただ、車道開削により切通しが深く掘り下げられ、その分、峠の標高は下がっただろう。

   
   
   

峠の松本市奈川側

   

<峠の松本市奈川側>
 境峠は比較的開けた峠で、道がほぼ南北方向に通じることもあって日当たりが良く、明るい雰囲気だ。木祖村から松本市奈川へと中央分水嶺をゆったり道が越える。

   

峠より松本市奈川側を見る (撮影 2008. 8.13)

左の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2001. 4.28)
ここでも以前は見通しが良かった
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<峠からの眺め>
 木祖村側は緩やかな坂道が長く続くので、その先の眺望が全く期待できない。一方、松本市奈川側は比較的勾配が急で、僅かながらも遠望が得られる。 以前は乗鞍岳付近の飛騨山脈が峠からも望めたのではないかと思う。ただし、最近は樹木が伸び、視界がかなり狭まってしまったようだ。

   
峠より松本市奈川方面を見る (撮影 2001. 4.28)
左右に林道が分かれて行く
左手の時速制限40Kmの奥に「奈川村」と書かれた看板が立つ
遠くに雪をいただく山並みも望めた
   
松本市奈川方向に見る (撮影 2008. 8.13)
   

松本市の看板 (撮影 2008. 8.13)
かつては「奈川村」であった

<松本市>
 最近は梓川上流部の安曇村(あずみむら)や奈川村が松本市になってしまった。境峠を越えた先がもう松本市というのが奇妙な感じである。松本城がそびえる松本市街まで、遥か彼方に思える。
 
 峠に立つ市村境を示す看板も、「奈川村」から「松本市」に変わっていた。残念ながら「奈川村」時代の看板を写真に残して置かなかった。2001年4月に峠からの景色を撮った写真の片隅に、どうにか奈川村と読める看板が写り込んでいた。

   

<林道分岐>
 境峠の木祖村側は一本道だったが、松本市側では林道が2本分岐する。まず右手に分かれるが、ずっと以前から入口はゲートで封鎖されていた。関心が向かないので、林道名なども確認していない。地図上では稜線沿いを北の鉢盛山方向へと少し進んで行く。


右手の林道はいつもゲート (撮影 2008. 8.13)
   
林道入口などの様子 (撮影 2008. 8.13)
   

 峠から少し下った先、今度は左手に道が分かれる。何の看板もないので、どこかに通じる林道かどうかも分からなかった。

   

左に林道分岐 (撮影 2008. 8.13)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

林道の様子 (撮影 2008. 8.13)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

道の先に建物はない (撮影 2008. 8.13)
看板は「奈川村」ではなく松本市「奈川」になっている

<小屋>
 それに、以前はその道の先に建物が見えた。その小屋へのアプローチ路かとも思えた。

   
以前の林道分岐の様子 (撮影 2002. 9.29)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
林道奥に建物が見える (撮影 2002. 9.29)
この時はまだ「奈川村」
   

 古い写真を確認してみると、やはり林道の先に小屋がしっかり写っていた。何かの倉庫か作業小屋だったのだろう。境峠は峠周辺の木々が成長したくらいで、この数10年の間、あまり変わりがなさそうだが、こうして少しづつ変化はあるようだ。

   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2001.11.10)
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林道の奥に小屋 (撮影 2001.11.10)
この時は車の往来が多かった
   

奈川の案内看板が立つ (撮影 2008. 8.13)

<「ながわ」の看板>
 木祖村側には石碑や「木曽」の看板が立つ程度で、村の案内看板などは一切ないが、奈川側には僅かながら案内がある。林道分岐の少し先にその看板が立つ。野麦峠スキー場や野麦峠、奈川温泉などが紹介されている。その裏側には国道19号までの距離などが示されている。
 
<ここは境峠>
 また、看板の下に「ここは境峠」と書かれている。「境峠」の文字はこの峠部分に限らず、この峠道全般であまり目にすることはない。

   
「ながわ」の案内看板 (撮影 2008. 8.13)
   

奈川側から見る峠 (撮影 2001. 4.28)
この時期まだ路肩に少し雪が残る
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

「ながわ」の看板(裏側) (撮影 2001. 4.28)
国道19号までの距離などが示される
   

<峠名>
 境峠の名は文献(角川日本地名大辞典)によると、「古代から近世中期まで美濃と信濃の国境であったことから、この峠名がつけられたという」、とある。古くは木曽が美濃国に所属していたのだ。現在の木祖村側が美濃(現岐阜県)、旧奈川村側が信濃(現長野県)である。鳥居峠なども同様に美濃・信濃の国境であった。
 
 美濃国ば現在の岐阜県の南半分にほぼ相当する。今の感覚では、この境峠までが岐阜県になっていたかもしれないとは、ちょっと信じがたい。ただ、境峠や鳥居峠が中央分水界に位置する峠であることを考慮すると、少しは納得する面がある。
 
 ところで、境峠という名はちょっと安易な感じがしないでもない。峠は大抵何らかの境である。自然の地形的な観点からは、水系・水域の境であることがほとんどだ。 また人工的には行政区域の境になっている場合が多い。まあ、この境峠の場合は国境という大きな境ではあった。明治維新後、日本という一つの国家になる前の時代のことで、国境とは現在の県境などよりずっと重いものだったのだろう。

   
奈川側に下る道 (撮影 2001. 4.28)
奥に飛騨山脈を望む
左手に「注意 この先 急坂 急カーブ」の看板
その下の幅員減少の道路標識は、多分道路改修前の物
この時既に道は拡幅が完了していた
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奈川側から峠方向を見る (撮影 2001. 4.28)
なかなか豪快な峠へのアプローチ
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
   
   

奈川側に下る

   

<旧奈川村へ>
 旧奈川村は大字を編成していなかったので、松本市になった今も峠の奈川側は単に「松本市奈川」で、それ以上細かい地名が示せない。また、暫く人家も出て来ない。
 
<境川沿い>
 1Kmも下ればはっきりと境川沿いになるが、谷は浅く、明るい雰囲気の道が続く。道幅もゆったりした2車線路で快適だ。 日本に境川という名の川は多いが、ここの境川は梓川(犀川)の支流の奈川の更に支流になる。流長も10Kmはなく、小さな川だ。境峠を源頭とし、その左右に連なる中央分水嶺を水源に持つ。境峠から流れ出す川だから境川なのか、峠名と同じく国境を水源とするから境川なのか、そのどちらかだろう。

   

キャンプ場の案内 (撮影 2008. 8.13)

道の様子 (撮影 2008. 8.13)
快適な2車線路が続く
   

<沿道の様子>
 建物などの人工物は全く見られない。勾配8%とあったりするが、カーブは少なく、危険な感じはしない。

   

8%勾配の道路標識 (撮影 2008. 8.13)

道の様子 (撮影 2008. 8.13)
   

<そばの里>
 峠から3Km程下ると、やっと建物が一軒出て来る。但し民家などではなく観光向けの店である。そば屋を営んでいるようだ。大きな店構えを見せている。
 
<スキー場分岐>
 その店の脇から野麦峠スキー場への分岐がある。入口に立つ看板にはスキー場以外にもいろいろと案内されてる。広い敷地にロッジなどの宿泊施設も点在するようだ。ただ、一度もその地に足を踏み入れたことがない。


右手にそば屋 (撮影 2008. 8.13)
   
店の先で右手に分岐 (撮影 2008. 8.13)
   

<奈川の印象>
 峠の木祖村側は国道19号という幹線路が通り、また中央本線(西線)という鉄路も通じている。奥木曽湖や旧中山道藪原宿などの観光地的な側面の他に、産業・流通などの色合いも感じられる。 しかし、峠一つ越えたこの奈川の地は、県道を走る限りにはどこか寂しげだ。通る車は乗用車ばかりで、地元車に一部観光客の車が少し混じる程度だろうか。 そば屋一軒では少なくとも観光地然とした雰囲気はしない。しかし、野麦峠スキー場方面に入り込めば、一大リゾート地が開けているのかもしれない。しかし、まだ見たことはない。

   

道の様子 (撮影 2001. 4.28)
峠方向に見る (地理院地図でこの地点
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

道の様子 (撮影 2001. 4.28)
峠方向に見る (地理院地図でこの地点
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

奈川市街方向に見る (撮影 2008. 8.13)

<視界>
 県道が沿う境川の谷は浅く、道幅も広いので暗い雰囲気はない。ただ、周囲の林はしっかり成長していて、視界は広がらない。ほとんど遠望が期待できないまま、道はひたすら下って行く。
 
<大寄合川>
 相変わらず道の左手に川が流れているが、いつの間にか大寄合川になっている。どこかで境川が大寄合川に注いでいるのだが、どちらも同じような大きさの川なので、それとは気付かない。
 
<最初の集落>
 間もなく集落が出て来る。峠から僅かに4.5Km程で、快適な道なので車で10分も掛からない。木祖村市街地の藪原からでも30分あれば十分だ。

   

<寄合渡>
 最初に出て来たのは寄合渡と呼ばれる集落のようだ。旧奈川村は大字を編成していなかったので、寄合渡とは字名ということになるのだろうか。 「渡」は「ど」と読み、寄合渡は「よりあいど」(稀に「よりあいと」)である。ちょっと変わった読み方に思えるが、「渡船」とか「渡海」という言葉があるように「渡」の音読みは「と」だ。 それが発音のしやすさなどから濁って「ど」と呼ばれたのだろう。
 
<渡・川の合流地>
 旧奈川村には他に奈川渡(ながわど)と黒川渡(くろかわど)という地名がある。どれも川の合流点に位置する。寄合渡は大寄合川が奈川に、黒川渡は黒川が奈川に、奈川渡は奈川が梓川に、それぞれ合流する地点である。ただ、寄合渡の場合「大」は付かないらしい。
 
 こうした川が合流する場所には集落ができることが多く、また生活路とする橋も架けられたのもと思う。その様なことから「渡」が付いた地名が生まれたのではないかと想像する。


集落が出て来る (撮影 2008. 8.13)
   
この先、大寄合川を左岸へと渡る (撮影 2008. 8.13)
沿道には寄合渡の集落が続く
   

寄合渡集落 (撮影 2008. 8.13)

<寄合渡集落の様子>
 道は直ぐに大寄合川を左岸へと渡る。寄合渡の集落は川沿いに1Km程の長さで続く。対岸にも道が通じる。奈川では松本市奈川支所がある黒川渡に次ぐ大きさの集落ではないだろうか。

   

<曽倉石仏群(余談)>
 旧奈川村では峠から峠への移動ばかりで、車を停めてどこかに立ち寄ったということはほとんどない。それでも本の気まぐれで、寄道することがあった。 寄合渡集落の途中、分教場の脇から県道を離れて大寄合川を右岸に渡り、そのまま曽倉(そぐら)集落の方向へ少し進んだ所の道端に石仏が並んでいる(地理院地図)。 「曽倉石仏群」と標柱が立っていた。ただそれだけなのだが、その様子を写真に収めて引き返して来た。
 
 今となっては何故そこに立寄ったのかさっぱり覚えていない。曽倉集落を見て来ようと思ったのか、県道沿いに曽倉石仏群を示す案内看板を見掛けたのか。旅というのは、そんなたわいもないものなのかもしれない。


曽倉石仏群 (撮影 2001. 4.28)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

 こうした石仏群はこの寄合渡やこの先の大平(おおびら)など、旧奈川村に点在してあるようだ。

   
   
   

野麦峠などの分岐

   

<T字路>
 県道26号は旧奈川村を南北に貫く最大の幹線路なのだが、寄合渡の北端でT字路に突き当たる。それを知らずに漫然と走っていると、不意を突かれる。

   
この先T字路 (撮影 2008. 8.13)
   

<野麦峠分岐>
 T字路を左へは野麦峠を越える県道(主要地方道)39号・奈川野麦高根線・通称野麦街道(飛騨街道とも)が分かれて行く。県道26号の続きは右に曲がる。道路標識の行先は「松本、上高地」とある。

   

T字路の道路標識 (撮影 2008. 8.13)

T字路の様子 (撮影 2008. 8.13)
   

 この分岐は野麦峠への入口ともなるので、ちょっと立止って写真を撮ることが多かった。昔撮った写真を見比べても、あまり変化はなさそうだ。

   

T字路の様子 (撮影 2008. 8.13)

T字路の様子 (撮影 2001. 4.28)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
T字路の様子 (撮影 2002. 9.29)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

 分岐周辺には商店なども並び、ちょっとした市街地となっている。近くに学校(分教場)もあったようだが、今は閉校となっているようだ。

   
T字路を背に峠方向を見る (撮影 2001. 4.28)
「木曽福島 35Km、木祖 19Km」
左手の大きな建物は旧分教場
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

野麦峠方向から分岐を見る (撮影 2001. 4.28)
道路標識には右に「木曽福島、木祖」とある
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<野麦街道>
 松本方面から来ると、この分岐をそのまま直進すれば野麦峠へと進んでしまう。もっとも、野麦峠を越えて信州松本と飛騨高山を結んだのが野麦街道で、こちらの方が本線と言えるかもしれない。 一方、この寄合渡から南に折れ、境峠を越えて木曽藪原に出るルートも利用されたようだ。野麦峠は女工哀史で有名となったが、諏訪の製糸工場へと飛騨の娘たちが出稼ぎに行く時、藪原経由で中山道を北上する道筋が使われたようだ。その方が諏訪に近い。
 
 明治4年、筑摩県の本庁が松本に、支庁が高山に置かれた時は野麦街道が公用路として用いられたそうだが、現在の野麦峠は長い冬期閉鎖となり、交通は深い雪に途絶する。 今の奈川の住人にとって、かつて繁栄した野麦街道より、鉄路や国道19号などの幹線路が通じる藪原へと出られる境峠の方が、よほど重要であろう。

   

<飛騨ブリ>
 文献などではしばしば「飛騨ブリ」というのが登場する。越中(富山県)や能登(石川県)で獲れた寒ブリのことだ。 信濃(長野県)の魚商人が飛騨高山(岐阜県)の魚問屋で仕入れ、正月用の魚として松本盆地などへ運んだもので、これを信濃で「飛騨ブリ」と呼んだ。 今回の境峠もその飛騨ブリの流通経路の一つになるそうだ。野麦峠に続いて境峠を越え、藪原方面へと運んだようだ。なかなか広範囲な流通路を形成していた。 尚、飛騨ブリは野麦峠ばかりでなく、飛騨山脈を中尾峠(地理院地図)でも越えているとのこと。中尾峠の標高は2,100m余りにもなる。
 
<峠道の役割>
 かつての境峠は製糸工女や善光寺参りなどの旅人が往来し、飛騨ブリなどの物流も担っていた。 野麦峠と境峠との分岐路に当たるこの寄合渡は、そうした旅人・行商人で賑わい、それを目当てに多くの店や宿も営まれていたものと思う。しかし、明治期の鉄道開通以降は次第に廃れて行った。 現在の境峠は地元民の生活路としての役割の他は、たまに観光客の移動路に使われる程度だろうか。寄合度に足を止める者も少ないことと思う。
 
<野宿(余談)>
 旧奈川村には20回前後訪れているが、宿泊したことは僅かに一度だけである。それも旅館や民宿を使った訳ではなく、野宿であった。寄合度から野麦峠方面に行く途中、月夜沢峠への林道分岐近くの奈川の河原だった。多分、赤田沢という支流が流れ込んだ直後に砂防ダムが架かっていて、それで広い河原が形成されていた。しかも県道から車で河原に降りられた(地理院地図)。その野宿のことは比較的よく覚えている。珍しいことに女性のキャンパーが近くに泊っていた。

   

<寄合渡以降>
 野麦峠への分岐を過ぎると、道は大寄合川の本流・奈川の右岸沿いになる。奈川の源頭は野麦峠。その意味でこれより下流側は野麦峠の領域と言える。でも、現在の道路としては県道26号の続きなので、もう少し話しの方も続けたい。
 
<旧奈川村>
 旧奈川村は梓川(犀川の上流部)の支流・奈川の水域がほぼそのままそっくり村域となっていた。文献(角川日本地名大辞典)によると奈川村は江戸期を通じて上郷・下郷の二つに分かれ、合計15の集落があったそうだ。奈川の上流側に上郷、下流側に下郷が位置していたものと思う。
 
<上郷>
 更に文献では上郷いついて「金原・追平・大平・曽倉・寄合渡・神谷・保平・川浦の8集落」となっていた。 現在の地理院地図でも奈川の下流側より金原(かなばら)・追平(おいだいら)・大平(おおびら)・曽倉(そぐら)・寄合渡(よりあいど)・神谷(かみや)・保平(ほだいら)・川浦(かわうら)の8集落が見られる。 その内、神谷・保平・川浦の3集落は寄合渡より更に上流側の奈川沿いに位置する。一方、大寄合川・境川沿いに集落は見られない。
 
<下郷>
 残念ながら文献では下郷の集落については明記されていなかった。 現在の地図から推測すると、入山(にゅうやま)・角ヶ平(角ケ平、つのがだいら)・田ノ萱(たのかや)・古宿(ふるやど)・黒川渡(くろかわど)・屋形原(やかたはら)・駒ケ原(こまがはら)の計7集落ではないかと思う。 この内、角ヶ平は奈川渡ダムによってできた梓湖(あずさこ)の湖底に沈んでしまっている。現在は県道26号にある角ヶ平隧道でその集落名が残る。角ヶ平がなくなった代わりと言っては何だが、奈川高原という新し地名があるようだ。野麦峠スキー場近辺を指す。これにより奈川には昔も今も15集落があることになる。
 
<奈川沿い>
  曽倉は奈川沿いにないので、道は大平、追平、金原の順に過ぎる。どこも人家が密集した集落といった感じはなく、沿道にポツポツと建物が点在する光景が続 く。もっとも、人家は県道沿いばかりにある訳でないので、はっきりした集落の様子は掴めない。金原から先は黒川渡の市街をバイパスして古宿に抜ける新道か 開通したようだが、まだ通ったことはない。

   

<黒川渡>
 やがて奈川の中心地・黒川渡に至る。集落としても最も大きい。右岸の高台や県道とは反対の奈川左岸沿いに人家が集中する。県道からはあまり様子は分からない。
 
<白樺峠分岐>
 ここ黒川渡で重要なのは乗鞍高原への分岐があることだ。乗鞍高原を訪れる場合、梓川沿いの国道158号より分かれる県道84号・乗鞍岳線を行くのが一般的で、そちらが表玄関と言える。 一方、この黒川渡からは林道を使った白樺峠の峠越えになり、裏口という感じだろうか。
 
 こうして旧奈川村では野麦峠、白樺峠という2つの楽しい峠道が分かれて行く。境峠から下って来た場合、峠道終点の梓湖に至る手前で大抵それらの峠道に曲がってしまう。 同じように梓湖側から遡って来た時もそのまま境峠に到ることは滅多にない。例外なのは冬期で、野麦峠・白樺峠供に毎年ゴールデンウィーク過ぎにならないと開通しない。そんな時はただただ梓湖〜境峠間を走り通すばかりだ。

   

乗鞍高原分岐 (撮影 2002. 9.29)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

乗鞍高原分岐 (撮影 2001.11.10)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<黒川渡以降>
 下郷と思われる屋形原・駒ケ原は、黒川渡で奈川に注ぐ支流・黒川水域に位置する。よって、黒川渡以降の県道沿いには古宿、田ノ萱、(角ヶ平)、入山と続くことになる。
 
<チェーン着脱場>
 古宿にはチェーン着脱場がある(地理院地図)。 ここのいいところはトイレが完備されていることだ。駐車場も広く、車で立寄り易い。県道26号沿いには他にもトイレスポットはあるようだが、この先の奈川渡ダム近辺でもトイレを探すのにちょっと苦労する。その点、この場所は沿道に「チェーン着脱場」と看板が出ていて見付け易い。
 
 チェーン着脱場の敷地の脇には奈川が流れている。ここより下流側になるとダム湖の様そうになるので、昔ながらの川らしい様子が眺められるのはこの付近までだ。 ただ、立寄った時は草木が多く、あまり川面が見られる状態ではなかった。

   

チェーン着脱場のトイレ (撮影 2016.10. 6)
手前に大きな駐車場が広がる

チェーン着脱場から見る奈川 (撮影 2016.10. 6)
   

<新野麦街道>
 古宿から田ノ萱へと、沿道にはそば屋などの大きな店も見られ、人家だけではないちょっとした観光地的な雰囲気も見られる。田ノ萱では黒川渡集落をバイパスして来た新道の出口(境峠方向への入口)がある。改めて看板を見ると、「新野麦街道」と命名されていた。

   

新野麦街道の看板が立つ (撮影 2016.10. 6)
境峠方向に見る

新野麦街道の看板 (撮影 2016.10. 6)
境峠方向に見る
   

<田ノ萱以降>
 田ノ萱以降、奈川はもう梓湖の一部となり、沿道から人家が消える。崖沿いに穿たれたトンネルの連続となる。角ヶ平の集落が湖底に沈んだのもこの付近だ。境峠の峠道の中では、この区間が一番険しいかもしれない。

   
   
   

峠道の終点・奈川渡

   

<峠道の終点>
 境峠を越えて来た県道26号・奈川木祖線は、梓川沿いに通じる国道158号に接続して終わる。ここが同時に野麦峠、あるいは境峠の峠道の終点となる。 奈川が梓川に合流する地点であるのだが、一帯は奈川渡ダムによってできた梓湖が広がる。梓川と奈川の2つの谷の方向へとV字型に湖面が延びる。
 
<安房峠>
 代わって、梓川沿いに通じる国道158号は安房峠の領分になる。 今は安房トンネルが通じて便利になったが、かつては野麦峠などと同様、冬期通行止の峠であった。 松本市街方面から国道158号を遡って来ると、旧奈川村や旧安曇村から先は雪に阻まれ、車では越えられない。ほとんど行き止まりの地に等しかった。 唯一、境峠を越えて国道19号方面へと出られた。旧奈川村・旧安曇村にとって境峠は、国道158号が災害通行止などの緊急時に、脱出路のような役割があったと言える。
 
 現在は1997年12月に併用開始された安房トンネルによって信州松本と飛騨高山間が通年通行可能となっている。古くは野麦峠を越える野麦街道の脇役的存在だったかもしれないが、今や主役の座に躍り出た安房峠であった。
 
<松本市奈川渡>
 国道に接続する直前の県道標識には「松本市奈川渡」と出ている。しかし、旧奈川村に「奈川渡」という集落は見当たらない。 角ヶ平(つのがだいら)のように湖底に沈んだのかとも思ったが、下郷(本来七か村)に奈川渡を加えると八か村になってしまうように思う。一方、この付近の集落としては入山(にゅうやま)がある。奈川右岸のやや高い場所に人家が残るらしいが、県道からは全くその様子はうかがえない。

   
左手に梓湖 (撮影 2016.10. 6)
この先、国道158号に接続
   
   
   

以降は余談

   

<テプコ館>
 奈川渡ダム堰堤脇の交差点付近は梓湖を望む観光スポットになっている。国道沿いに東京電力の大きな建物が立つが、以前は「水と電気の展示館・梓川テプコ館」という展示施設だった。

   
県道が国道に接続する交差点 (撮影 2016.10. 6)
正面の建物は以前の梓川テプコ館
   

<レストハウス>
 また、県道の湖畔沿いに駐車場が設けられ、敷地内に「奈川渡ダム観光 レストハウス」という2階建の食堂があり、「定食 純手打そば」などと看板を出していた。 国道沿いには駐車場所がないので、テプコ館に行くには国道を渡ることになるが、その為の便宜として国道の下を通る地下道が設けられていた。今はテプコ館は営業していないが、一階フロアにあるトイレが利用できるようで、地下道を通るようにと案内がある。

   

旧レストハウスの建物 (撮影 2016.10. 6)
営業している様子はない

地下道を案内する看板 (撮影 2016.10. 6)
ダム脇の建物の一階フロアでトイレが利用可能とある
看板のキャラクターはデンコちゃんだと思うが、以前と違う
   

以前のレストハウス付近の様子 (撮影 1993. 9.11)
私のアルバムの中では最も古い梓湖周辺の写真
観光客で賑わい、車もはみ出さんばかり
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<以前の様子>
 奈川渡ダムは昭和44年(1969年)の築造だそうだ。ここには1990年頃から来ているが、以前はもっと観光客で賑わっていたように思う。今はもうレストハウスは営業している様子がない。 東京電力の梓川テプコ館も看板を下ろしてしまった。東日本大震災(2011年)以降、東京電力はやや不評なのかもしれない。また、安房トンネルが開通したことも少しは影響があるだろう。 ここで寄道などせず先を急げば岐阜県までもう少しだ。奥飛騨温泉郷やその先の飛騨高山といった観光地が待っている。トンネル開通前なら安房峠越えという難所を控え、ここで一息入れておく必要があった。

   
県道脇の駐車場とレストハウス (撮影 2001. 4.28)
愛車ジムニーが停まる
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

 松本市街からも30Km近くの距離があり、一方ここから先は梓川沿いの険しい谷間が続いて適当な休憩場所が少ない。また、観光帰りに松本市街方面へと向かう時も、休日は国道158号が大渋滞して非常に疲れる。その点でもここは貴重な休憩スポットであった。


レストハウスと梓湖 (撮影 2003. 8.16)
   

テプコ館前のT字路 (撮影 2001. 4.28)
松本方向には入山隧道がある
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<信号のない交差点>
 ただ、駐車場は県道26号沿いにあるので、国道に戻るにはT字路を左折か右折することになるのだが、この交差点には信号機がない。松本方向には直ぐに入山トンネルがあり、遠くを見通せない。それでも安房峠方向に左折するのはまだいいが、松本方向に右折するのが苦手であった。

   

<入山隧道>
 松本方向から登って来ると、ダム堰堤の直前に入山隧道がある。このトンネルは面白く、中で分岐がある。そこを左折すると直接県道に出られ、湖畔の駐車場に行くには便利だ。
 
<駒ヶ滝トンネル>
 分岐があるトンネルは世の中にいくつかあるようだ。埼玉県秩父市の二瀬ダムがそうだった。国道140号を秩父市街方面からやって来ると、駒ヶ滝トンネルの手前で信号待ちになる。 これだけでもちょっと不審だ。更に狭いトンネルの中に入ると左に分岐があり、そこを行くと二瀬ダムの堰堤を渡って三峰山方面へと進めた。トンネルの中の分岐というのはちょっと怖かった。しかし、今は道が大きく改良され、トンネルは廃止されているようだ。


入山隧道内の分岐 (撮影 2016.10. 6)
安房峠方向に見る
   
入山隧道を背に安房峠方向を見る (撮影 2008. 7. 6)
左に県道26号が分岐
前方の車の下辺りに地下道が通じる
   

<分岐の様子>
 入山隧道を抜けると県道分岐の道路標識が出ている。行先は「木祖、奈川」とある。また、「木曽路」とも看板にある。木祖村藪原で木曽路・現在の国道19号に接続する。

   
分岐の様子 (撮影 2008. 7. 6)
中央の小屋は地下道への出入口
   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2003. 8.16)
車の交通量は意外と多い
   

 こうして古い写真を眺めていると、何となく昔の方が観光客で賑わっていたように思えてくる。テプコ館などの看板も賑やかだった。

   

国道上から松本方向に見る (撮影 2008. 7. 7)

県道分岐の道路標識など (撮影 2008. 7. 7)
   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2008. 8.16)
   

<案内図>
 駐車場の向いのコンクリート擁壁にダム周辺や奈川の詳しい案内図が出ている。旧奈川村にはあまり立寄ったことがなかったが、もっといろいろ見ておけば良かったと思う。

   

ダム附近案内図 (撮影 2016.10. 6)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

奈川の案内図 (撮影 2016.10. 6)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
奈川の地図 (撮影 2016.10. 6)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

テプコ館からの眺め(1/3) (撮影 2003. 8.16)

<テプコ館>
 テプコ館はトイレを借りる以外に一度だけしっかり館内を見学したことがあった。入館無料だった。上階の展望所からダムやダム湖がよく眺められた。閉館してしまったのはやや残念だ。

   

テプコ館からの眺め(2/3) (撮影 2003. 8.16)

テプコ館からの眺め(3/3) (撮影 2003. 8.16)
   
   
   

 境峠は快適な主要地方道が通じ、ともすればあまり記憶に残らない単なるドライブになりがちだ。そこをちょっと寄道し、旧奈川村各所にある石仏群でも見て歩くと、それなりに面白い峠の旅になるのではないかと思う、境峠であった。

   
   
   

<走行日>
(1993. 9.11 梓湖から白樺峠へ/ジムニーにて)
・1993. 9.12 野麦峠から境峠(奈川村→木祖村)、更に権兵衛峠へ/ジムニーにて
(1994. 9.26 安房峠から梓湖、松本へ/ジムニー )
(1996. 8.12 安房峠から梓湖、松本へ/ジムニー)
・2001. 4.28 梓湖から境峠(奈川村→木祖村)/ジムニーにて
(2001. 7.30 安房峠(安房トンネル)から梓湖、松本へ/ジムニー)
・2001.11.10 境峠(木祖村→奈川村)から白樺峠へ/ジムニーにて
・2002. 9.29 境峠(木祖村→奈川村)から白樺峠へ/キャミにて
(2002. 9.30 野麦峠から梓湖へ/キャミにて)
(2003. 2. 3 安房峠(安房トンネル)から梓湖、松本へ/キャミにて)
(2003. 8.16 安房峠から梓湖、松本へ/キャミにて)
(2008. 7. 6 梓湖から上高地へ/パジェロ・ミニにて)
(2008. 7. 7 上高地から梓湖、松本へ/パジェロ・ミニにて)
・2008. 8.13 境峠(木祖村→奈川村)から野麦峠へ/パジェロ・ミニにて
(2008. 8.16 安房峠(トンネル)から梓湖、松本へ/パジェロ・ミニにて)
(2016.10. 6 梓湖から白樺峠へ/ハスラーにて)
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 20 長野県 平成 3年9月1日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・中部 2輪車 ツーリングマップ 1988年5月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部北陸 2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・県別マップル道路地図 20 長野県 2004年 4月 2版 7刷発行 昭文社
・日本百名峠 井出孫六編 平成11年8月1日発行 メディアハウス
・日本の分水嶺 堀公俊著 2000年9月10日発行 山と渓谷社
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

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