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信州峠
 
しんしゅうとうげ No.180
 
高原野菜の農園が広がる峠道
 
(初掲載 2011. 8. 4  最終峠走行 2011. 7. 4)
 
  
 
信州峠 (撮影 2011. 7. 4)
手前が長野県川上村・原
奥が山梨県北杜市(ほくとし、旧須玉町)・小尾(おび)黒森
峠の標高は1,464m(文献より)
道は山梨県側が県道610号、長野県側が県道106号
原浅尾韮崎線
 
 
 
 信州峠。とても良い名だ。シンプルで、そしてどこか雄大な峠を想像させる。信州峠はその名の通り、甲州(甲斐の国、山梨県)から信州(信濃の国、長野県)へ越える、国境(くにざかい、県境)の峠である。信州には峠が多く、峠マニアには嬉しい土地だ。その「信州」を冠する峠である。期待しない訳にはいかない。
 
 ところが、その実態はと言うと、ちょっと裏寂しい何の変哲もない県道の峠である。険しさを感じるでもなく、奥深さを感じるでもなく、辺ぴさを感じるでもない。道は極めておとなしく全線舗装で、周辺に山また山の景色が広がる訳でもない。遥かなる県境の峠とばかりに期待して行くと、ややがっかりさせられる嫌いがある。
 
 信州峠の所在は、山梨県の北辺に於いて、東の甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)から西の八ヶ岳との間で長野県と接する県境上にある。この部分の県境を越える車道の峠としては、信州峠の東、国師ヶ岳の近くにあの大弛峠(おおだるみ)が存在する。大弛峠は標高が2,360mあり、日本の中で車道が越える峠としてはトップクラスだ。最近は林道の舗装化が進んでいる模様だが、それでも険しい山岳道路には変わりない。
 
 またその近くで、信州峠を長野県側に下った川上村から、東の埼玉県秩父市に越える三国峠がある。この峠は埼玉県と長野県をつなぐ唯一の車道の峠となっている。埼玉県側の中津川林道は、現在(2011年7月)も未舗装のまま健在で、それに何と言っても峠の形が絶品だ。岩肌を露出したV字型の見事な切り通しになっている。全く惚れ惚れする。
 
 これでは相手が悪かった。大弛峠や三国峠などの名だたる峠と比べられたら、信州峠など消し飛んでしまう。現に、わたしが信州峠を初めて越えたのは、大弛峠や三国峠を経験した数年後のことで、しかも、大弛峠に引き続きそのまま信州峠に向かって車を走らせたのだった。まだ大弛峠を越えた興奮が冷めやらぬ内に信州峠に着く。これでは何の感動も起きなくて当たり前だ。平凡な舗装の県道の峠に、ほとんど立ち止まることもなく、漫然と通り過ぎてしまった。勿論、写真を撮ることも一切なかった。
 
 しかし、後になってみると、いろいろ気になる点もある峠である。前述の山梨県の北辺で長野県と境を成す部分を通過する交通の大動脈は、現在では国道141号・佐久甲州街道とJR小海線である。その県境部分は野辺山峠(のべやま)とも呼ばれ、標高が1,375mと高く、JRの最高地点として知られている。
 
 何と信州峠はこの交通路より歴史が古いと言うのだ。かつて穂坂路(ほさかじ)と呼ばれた、いにしえの古道が存在し、甲州と信州佐久地方を結ぶ主要路であった。その穂坂路が越えていたのが、現在の信州峠なのだそうだ。野辺山近辺がまだ人も通わぬ荒野であった時代に、信州峠には人の足跡があった。それを思うと驚くばかりだ。
 
 また、中世の武田氏の時代には、甲府と信州を結ぶ最短路として、戦略上の交通路ともなった。信玄の父・信虎(のぶとら)も、隣国信州との勢力争いで、この信州峠に思いを馳せたことだろう。
 
 近世以降は、八ヶ岳山麓の念場原を通る佐久往還(佐久甲州街道、現在の国道141号)が発達し、信州峠は寂れていった。
 
 現在の信州峠の峠道からは、あまり遠望が利かないが、それでも峠を北の長野県川上村側に下ると、一面の高原野菜の農園が広がり、独特な景観を見せてくれる。
 
 信州峠を通る県道原浅尾韮崎線の前身は、甲信林道と呼ばれる林道で、文献によるとその開通記念碑が峠に立つと言う。しかし、そんな記念碑などこれまで見掛けたことがなかったが、この程、見付けることができた。
 
 峠の南側、北杜市(ほくとし)の旧須玉町(すたまちょう)の地区には、瑞牆山(みずがきやま)があるが、その独特な山容が目を引く。また、峠道からは少しそれるが、日本有数のラジウム含有量を誇る増富ラジウム温泉がある。改めて考えてみると、信州峠の周辺は、旅をするのに面白い地なのである。 
 
 
山梨県側から峠を目指す
 

茅ヶ岳広域農道を走る (撮影 2005. 6.25)
広くて走り易い道だ
 中央高速道路で来ると、須玉ICで降りるのが近い。東京方面からなら、その一つ手前の韮崎(にらさき)ICで降り、茅ヶ岳(かやがたけ)広域農道でも走れば、早々と旅の雰囲気だ。
 
 古道・穂坂路のルートは、甲府の千塚−竜地(りゅうじ、旧双葉町)−穂坂町三ツ澤(韮崎市)−浅尾(旧明野村)−黒森(旧須玉町)などを経由し、峠を越えて信州の原(川上村)へと至るそうだ。韮崎ICの北東に穂坂町三ツ澤の地名が見える。穂坂路の名は、いにしえの穂坂牧(荘)と呼ばれる地名からきているそうだが、それが穂坂町三ツ澤だろうか。その近くを茅ヶ岳広域農道が茅ヶ岳の西麓へと走る。この農道のルートは、昔の穂坂路に近いと思われる。
 
 茅ヶ岳広域農道は良く整備された道で、途中に展望所などもあり、田園風景などを楽しみながら走れる。道は最後に県道23号・増富ラジウムラインに乗る。この県道はみずがき湖まで、峠道の本線となる。穂坂路とも重なる。
 
 県道23号は茅ヶ岳の西麓から北麓へと回り込んで北上する。途中、T字路で左から県道が一本合流する。須玉ICを利用した場合は、この県道をやって来ることとなる。
 
 この分岐にある標識には、その県道方向に若神子(わかみこ)とある。その若神子を経由して佐久往還・現在の国道141号が北上している。穂坂路に取って代わった宿敵の道だ。
 
 尚、穂坂路を川上口、佐久往還を平沢口とも呼んだそうだ。「川上」とは、現在の川上村に関係するのだろうか。また、国道141号を長野県に入った南牧村(みなみまきむら)に、平沢牧場などの「平沢」の文字が見える。ここが平沢口の平沢宿があった地だろうか。

左から県道601号が合流 (撮影 2005. 6.25)
正面の標識には
左:若神子(わかみこ) R141
右:黒森 増富
 

この先で左に県道610号が分岐 (撮影 2005. 6.25)
 県道23号は快適な2車線路が続いていて、距離は進むが、あまり印象が残らない。
 
 行く手に分岐の道路標識が現れ、その先でT字路に突き当たる。右が県道23号の続きで、信州峠へは左の県道610号を行く。
 
 
みずがき湖
 
 T字を左折すると、直ぐにトンネルを抜け、その先でダムの堰堤を渡る。右手に日本100名山の一つ、瑞牆山(みずがきやま)の名を取ったみずがき湖が広がる。ダムの名前は塩川ダム。塩川は釜無川の支流で、ここまでほぼ県道23号がその川に沿っていた。
 
 堰堤を渡ると右手に駐車場があり、湖を眺めたり、季節によっては色とりどりの花が楽しめる。尚、湖のビジターセンターはT字を右の県道23号方向に行った左手にあり、大きな駐車場も隣接する。
 
 古いツーリングマップなどには、このみずがき湖の記載はない。20年位前、この地を訪れたことがある筈なのだが、その当時、どのような様子だったか全く記憶がない。ただ、2005年にビジターセンターに立寄った時は、周囲に工事車両が多くいて、まだ残工事を進めている最中らしかった。
 
 ビジターセンター近くのベンチに腰掛け、連れと二人でぼんやり湖を眺めていると、10時の休憩中らしく駐車場の一角に腰を下ろして休んでいた作業員の中の一人が、こちらに近付いて来た。そして「仲の良いカップルさん」と言いながら、干しぶどうを手の平に分けてくれた。

堰堤付近からみずがき湖を眺める (撮影 2005. 6.25)
(画像をクリックすると湖の概要図がご覧頂けます)
 

ビジターセンター近くにあるモニュメント (撮影 2005. 6.25)
遠方に白い鹿鳴峡大橋が見える
 もう少しで50歳に手が届くというのに、「仲の良いカップルさん」などと呼ばれては照れくさい。その作業員とわたしでそれ程歳は違わないのだ。16歳若い女性の連れと臆面もなくベンチに並んで腰掛けている様は、やはり少し奇異に映ったのだろうか。自分でも、少し変かなと感じていた矢先の出来事だったので、「しまった」と思った。あるいは、まだ連れとは結婚前だったので、夫婦にしては少しぎこちなさを感じ取ったのだろうか。何れにしろ、片や労働に励み、片や女性同伴の遊びである。やや申し訳なく思った。
 
 新しく造られたみずがき湖周辺は、観光施設としても良く整備されている。ビジターセンターに入って見学したり、周囲を散策したりと、旅の途中に立寄るには、持って来いの場所だ。
 
 みずがき湖には周遊道路があり、湖を一周できる。ダムのちょうど対岸に展望台が設けられている。塩川ダムや県道610号上に架かる白い鹿鳴峡大橋を眺める。

対岸の展望台よりダムを眺める (撮影 2005. 6.25)
 
 
黒森近辺
 

県道610号を行く (撮影 2005. 6.25)
 県道610号・原浅尾韮崎線は、みずがき湖の上流、塩川の源流部へと峠を目指す。ところで、「原浅尾韮崎線」の「原」は、峠を長野県側に越えた川上村にある地名で、それは納得するが、浅尾(旧明野村)や韮崎は、ここよりずっと手前にある。県道610号は、みずがき湖の県道23号から分岐して始まっている筈なので、奇異な感じを受けるのだ。ただ、原−浅尾−韮崎は古道・穂坂路のルートそのもので、県道名に穂坂路の名残を留めている様に思えてならない。
 
 この周辺の地名は旧須玉町の小尾(おび)と言う。かつてこの地方を武士の小尾氏が支配していたそうだ。沿道には穏やかな山村の風景が広がる。
 
県道610号の沿線の様子 (撮影 2005. 6.25)
峠とは逆方向に見る
 
 塩川の上流部は釜瀬川と名を変える。その川沿いに小尾の黒森と呼ぶ地がある。ここはかつて交通の要地として口留番所が置かれ、小尾党が警備に当たったと言う。信州峠の丁度南側の直下に位置する。尚、峠はこの地名を取って、黒森峠とも呼ばれたそうだ。また、信州側の地名を取って、川上峠と呼ばれたとも。
 
 黒森周辺には、みずがきランドなどの鉱泉施設がある。車を走らせながら右手を望めば、デコボコした岩の山容が目を引く。瑞牆山だ。
 
 黒森からは右方向に大きな分岐が一本ある。釜瀬林道の分岐だ。林道と言っても全線舗装である。瑞牆山への登山基地ともなる瑞牆山荘へ通じる。また、県道23号の終点、増富ラジウム温泉にも出られる。よって、県道610号を来る代わりに、みずがき湖から県道23号を行き、釜瀬林道で黒森に出るのも一興だ。瑞牆山を間近に眺められる。
 
 尚、釜瀬林道は、本谷釜瀬林道とか、本谷釜瀬川道とか、いろいろ書かれている。また、クリスタルラインの一部でもある。

右に釜瀬林道への分岐 (撮影 2005. 6.25)
 
 
黒森から峠へ
 

峠への登り (撮影 2005. 6.25)
 釜瀬林道への分岐を過ぎると、人家はぱったり途切れる。道の勾配もやや急になり、峠へのしっかりした登りが始まる。センターラインも消えて、道幅もやや狭くなる。しかし、急なぺピンカーブがある訳ではなく、険しさなどは感じない。また、終始林の中を行き、遠望はほとんど望めず、あまり楽しい峠道ではない。
 
 やはりこのあたりが、信州峠を面白い峠とは思えない理由だろうか。全般に地形が穏やかなので、これから県境を越えるぞという意気込みなど、全く無用である。本格的な登りが始まってからも僅か3kmほどであっさり峠に着いてしまう。

もう少しで峠 (撮影 2005. 6.25)
 
 
増富ラジウム温泉郷(寄り道)
 

増富ラジウム温泉 (撮影 2011. 7. 4)
赤い欄干の湯橋
その向こうに見える金泉閣に宿泊した
 信州峠を旅するには、やはりその周辺を寄り道しないと、ちょっと物足りない。わたしの自宅からだと、少し無理をすれば日帰りで行って来られる信州峠だが、一泊すれば時間のゆとりを持って旅を楽しめる。山梨県は林道が多く、また良く整備されている。以前のわたしなら、その林道脇の空き地にでも野宿し、峠や林道三昧の休日を過ごしたのだが、最近は体力の衰えもあって、安易に旅館やホテルに泊まってしまう。増富ラジウム温泉郷も、以前は何の関心もなくその前を素通りしたが、最近は信州峠より温泉が目当てで旅をする始末だ。
 
 みずがき湖から塩川の支流・本谷川沿いの県道23号・韮崎増富線を行くと、その増富ラジウム温泉郷がある。温泉地にはお決まりの赤い欄干の橋・湯橋が本谷川に架かり、その前後の道沿いに温泉街が形成されている。旅館や民宿、食堂や土産物屋などが建ち並び、そこを夏の夕涼みにと浴衣を着てそぞろ歩くのも一興だ。やや寂れた感が無きにしもあらずだが、そこも味わいである。
 
 増富ラジウム温泉は、それとは知らずに浴槽に足を入れると、冷たくてびっくりする。この温度で身体を沈めることができるのかと危ぶむ程の鉱泉であった。しかし、我慢して長く入っていると、身体がポカポカ温まるから不思議である。温泉の入り方には30分も入っている様に書いてあったが、気長な気持ちがないと、なかなかそれまで入っていられない。わたしには無理だった。
 
 県道23号は湯橋が終点で、そこから上流には本谷釜瀬林道(本谷林道)が続いている。湯橋より下流には通仙峡と呼ばれる景勝地があるが、上流も本谷川の渓流が美しい。

夏の夕方、浴衣に丹前を羽織って散策 (撮影 2011. 7. 3)
県道とは川の対岸に通る森林浴遊歩道に入ろうとしたが、
藪がひどくて浴衣にサンダル履きでは入れなかった
 

増富ラジウム温泉郷案内図 (撮影 2011. 7. 3)
(画像をクリックすると拡大画像がご覧頂けます)

増富ラジウム温泉付近案内図 (撮影 2011. 7. 4)
(画像をクリックすると拡大画像がご覧頂けます)
 
 
みずがき山自然公園(寄り道)
 
 信州峠への峠道の途中からも瑞牆山は望めるが、増富温泉より更に本谷釜瀬林道を奥に入れば、間近にその変わった山容が眺められる。道は落合で木賊峠(とくさ)より下って来た林道を合し、その先はクリスタルラインとも呼ばれるようになる。沿線には瑞牆山への登山基地となる瑞牆山荘などが建つ。支線林道も幾つか分岐し、最近では小川山林道の方に、皇室による植樹祭が行われた跡地を使って、大きなみずがき山自然公園ができている。そこからは眼前に瑞牆山を望む。日本100名山の中でも、車でちょっと来ただけで、これ程目の前に大きく望める山は少ないのではなかろうか。
 

植樹祭跡地のみずがき山自然公園 (撮影 2011. 7. 4)
奥に瑞牆山を間近に望む

周辺案内図 (撮影 2011. 7. 4)
(画像をクリックすると拡大画像がご覧頂けます)
 
 
松平林道(寄り道)
 

松平林道の案内図 (撮影 2011. 7. 4)
地図は右が「北」
(画像をクリックすると地図の拡大画像がご覧頂けます)
 寄り道ついでに、道路地図などにはなかなか載っていない林道を見付けた。小川山林道(あるいはみずがき林道?)から西へと分岐する松平林道だ。みずがき山自然公園から北西へと進むと、その林道の分岐が出てくる。その方向に「信州峠」とあったので、恐る恐る入ってみた。
 
 初めの内はコンクリートによる舗装済だったが、途中から未舗装になった。この付近の道は、林道と言えども比較的良く舗装が行き届いている。そんな中で、松平線は多くの部分がまだ未舗装で残っていた。思わぬ所で未舗装走行を楽しむこととなった。
 
 概ね砂利が敷き詰められた道で、整備は行き届いているので、一般車でも走れないことはなさそうだ。左手に振り返ると、瑞牆山が時々見える。それ以外はあまり遠望は利かないが、林の中を抜け、小川のほとりを走り、林道ならではの楽しさがある。

松平林道 (撮影 2011. 7. 4)
 

この先、出口 (撮影 2011. 7. 4)
さて、どこに出るのやら
 松平線は延長6km余りで、終点になる。一体どこに出たのかさっぱり分からない。突き当たったのは寂しいアスファルトの舗装路だが、そこには何の案内看板も立っていなかった。相変らず妻は、その道をどちらに進んで良いのか、さっぱり方向感覚が分からない様子だ。わたしは直ぐにピンと来た。そのアスファルトの道は右方向に登っている。これは信州峠への登りだろう。迷わず右折すると、アッと言う間に峠に着いた。信州峠であった。
 
 
 
信州峠 (撮影 2011. 7. 4)
奥が長野県川上村
手前が山梨県北杜市(旧須玉町)
 
6年前の信州峠 (撮影 2005. 6.25)
上とほぼ同じ場所
 
 信州峠はあっさりしている。まあまあそれなりの峠らしい峠なのだが、県境を越える峠としては、やはりどこか物足りない。
 
 峠の山梨県側に駐車場所が設けられている。峠からは尾根伝いに西の横尾山へと登山道が伸びている。その登山者の利便が主な様だ。
 

峠より北杜市側を見る (撮影 2011. 7. 4)
左側に駐車場所がある

6年前 (撮影 2005. 6.25)
左とほぼ同じ場所
 
 最初に信州峠を越えたのは、1993年の10月のことだったが、写真などは全く残っていない。おぼろげな記憶からも、今とさして変わりはない様に思う。ただ、須玉町が新しく生れた市名・北杜市の一部となったことにより、県境を示す看板が変えられたことくらいだろうか。
 

長野県川上村側より峠を見る (撮影 2011. 7. 4)
「山梨県 北杜市」とある

 6年前 (撮影 2005. 6.25)
左とほぼ同じ場所
「ここから山梨県 須玉町」とある
 
長野県川上村側より峠を見る (撮影 1996. 8.18)
後になって偶然この写真を見付けた
峠の写真だけだったので、最初はどこだか分からず
「ここから 山梨県 須玉町」とあることで今回の信州峠と判明
私が持つ最も古い信州峠の写真となるようだ (追記 2017. 8.17)
 

峠の川上村側
 
長野県川上村側から峠を見る (撮影 2005. 6.25)
(このページの最初の写真と比較)
今よりもなかなか味わいがある
 
 それでも、峠の川上村側はここ何年かでやや変わった。このページの最初に掲載した写真と直ぐ上の写真は、ほぼ同じ場所を写している。6年前はコンクリートによる狭い舗装路だったが、今はアスファルトによるセンターラインもある二車線路が峠まで到達している。北杜市側より遥かに良い道になった。
 

峠から川上村側を見る (撮影 2011. 7. 4)
県境を示す看板は右側にあり、
長野県 川上村」とある

6年前 (撮影 2005. 6.25)
左とほぼ同じ場所
左に「川上村」とある
 

峠から下る川上村側を見る (撮影 2011. 7. 4)
峠を下って最初の右カーブがある
 6年前には、峠を川上村側に下って最初の右カーブを曲がった先の左手に、駐車場所があった(下の写真)。こちらにも登山客の物らしい車が停められていた。今は、道の拡幅とガードレールの設置により、路肩に車を停めるスペースはない。
 
 改めて6年前のコンクリート舗装の峠を見ると、それなりに味があるように思える。アスファルトと違ってひびが入った無骨なコンクリートは、少しは険しさを感じさせてくれる。
 

最初の右カーブの後 (撮影 2011. 7. 4)

6年前 (撮影 2005. 6.25)
左とほぼ同じ場所
駐車場所があった
 
 右カーブの途中からは、西へと枝道の林道が一本分岐している。但し、ゲートにより入ることはできない。現在は道の拡幅により、分岐もあまり目立たなくなっている。

分岐する林道 (撮影 2005. 6.25)
 

以前の駐車場所にあった看板 (撮影 2005. 6.25)
 峠には県境を示す看板はあるが、観光案内の看板などはあまり見当たらない。ただ、以前の川上村側の駐車場所の奥には、「川上郷案内図」と言う看板が立っていた。6年前には既に朽ちていて、僅かに「千曲川源流 高原野菜の里」と読めるだけだった。現在も、これと同じ看板をどこかで見たような気がするが、さて、どこだったろうか。
 
 そう言えば、峠は県境らしく見えないが、正しくこの信州峠は中央分水嶺、すなわち日本列島を太平洋側と日本海側に分かつ大分水界の峠であった。峠を長野県側に下った所には、日本屈指の大河、確か日本最長の川、千曲川が流れる。千曲川は新潟に入って信濃川と名前を変え、新潟市で日本海に注ぐ。一方、山梨県側の塩川は釜無川に注ぎ、更に富士川となって太平洋の駿河湾に注ぐ。この地から駿河湾までは何となく想像がつくが、日本海までは遥かに遠く感じる。
 
 
林道開通記念碑など
 
 峠の西側の法面を形作るコンクリート壁に、尾根上に登る階段が設けられている。北杜市側と川上村側の両方から登れるようになっている。そこには横尾山登山口とある。峠は東の小川山と西の横尾山との鞍部に位置する。小川山方面への尾根伝いには、はっきりした登山道は見当たらない。

北杜市側からの横尾山登山口 (撮影 2011. 7. 4)
 

川上村側からの横尾山登山口 (撮影 2011. 7. 4)
見難いが、写真の中央辺りに碑が立つ
 文献を読んで、信州峠に林道の開通記念碑が建っていることを、最近になって知った。しかし、車道沿いにそれらしき物は見当たらない。横尾山への登山道を登ると、そこにあった。車道らもよくよく見れば、それらしい石柱が立っているのが確認できるが、探す積りで見なければ、林の中にポツンと立つその記念碑は、見つかるものじゃない。
 
 現在の県道・原浅尾韮崎線の前身は、昭和37年に完成した、須玉町の黒森から川上村の原に至る甲信林道だったそうだ。この甲信林道と言う名は、現在の道路地図では、なかなかお目にかかれない。昔のツーリングマップにも記されていない。ただ、良く見ると、2003年4月発行のツーリングマップル 4 中部北陸編(昭文社)には、県道の横にその文字が見えた。
 
 記念碑には確かに「昭和37年10月竣工」と刻まれていて、林道の開通が昭和37年であることが確認される。それまでの信州峠は車を通さぬ峠だったのだろう。比較的最近のことで、わたしなどは既に生れている年だ。
 
 しかし、どうして目立たない登山道横の林の中に、開通記念碑が立っているのだろうか。想像するに、開通当初は記念碑のある高さに林道が通っていたのではないだろうか。その後の道路の改修によって、峠は掘り下げられ、現在の位置まで車道が下がった。しかし、開通記念碑はそれが建てられた当時のままに残されたのではないだろうか。
 
 尚、峠の標高は、ツーリングマップなどでは1,470mとあるが、文献には1,464mとある。2万5千分1地形図を見ると、1,470mを示す等高線に少し足らないので、1,464mが正しいのではないだろうか。しかし、開通記念碑と現在の車道では2mほどの差がある。もしかしたら、現在の県道の峠の標高は1,462mではないかと、勝手に想像するのであった。

甲信林道開通記念碑 (撮影 2011. 7. 4)
 

小さな地蔵 (撮影 2011. 7. 4)
 記念碑の石柱に並んでその左に、とても小さな石の地蔵が二体祀られている。右の一体はほとんど四角いただの石で、左の一体も顔などはっきり彫られていない素朴な地蔵だが、両手を胸元で合掌した姿が、何とも切なげな地蔵様だ。これらの石像もやはり甲信林道の開通当初は、誇りっぽい車道の側らに、ひっそり佇んでいたのだろうか。あるいは、林道開通以前からこの場にあったのかもしれない。いにしえの穂坂路とは言わずとも、戦国の武田氏の時代には、既にここにこうして道行く旅人の安全を祈っていたのではないかと想像したくなる。
 
 戦国の世が過ぎ、江戸時代の初期には五街道の一つとして甲州街道が整備され、その脇往還として佐久方面に至る佐久往還が利用され始めた。これにより、信州峠の道は衰退の一途を辿ることとなる。歴史の表舞台から姿を消した信州峠は、昭和37年に林道が開通するまでの長い間、峠の地蔵と共にこの地にひっそり佇んでいたのだろう。
 
 今の信州峠にその名を記した物は少ない。横尾山登山道の案内標識の片隅に、カッコ付きで(信州峠)とあるくらいだろうか。
 
 林道開通記念碑や小さな地蔵を見たことで、信州峠のイメージはだんだんと変わっていく。単なる詰まらない県道の峠ではなく、少なからず歴史の重みも感じる峠となる。ただ、信州峠という名前だけは、どうもシックリ来ない。信州に通じる峠と言う意味で、間違いはないのだが、ちょっと大げさな気がしないでもない。峠で手を合わせるあの小さな地蔵の様に、もう少し控えめな方が良い。信州側の地名を取って、黒森峠とも呼ばれたそうだが、そうした何でもない名前の方が良かったような気がする。

横尾山の案内標識 (撮影 2011. 7. 4)
右上の片隅に(信州峠)とある
 
 
川上村へ下る
 
 峠から長野県側の川上村に下る。道は峠よりずっとセンターラインがある二車線路だ。快適なスロープが描かれている。6年前に訪れた時も、峠を少し下ればもうそこまでアスファルトの舗装路が届いていた。改修間近だったのだろう。

川上村に下る道 (撮影 2005. 6.25)
6年前
 

快適な二車線路 (撮影 2011. 7. 4)
 文献などでは、信州峠から金峰山(きんぷさん)や瑞牆山、八ヶ岳連峰などの山岳景観に優れるとあったが、峠やその前後からでは、ほとんど眺望が無い。川上村側に暫く下って来ても、ドーンと山々の景色が広がる訳ではなく、時折林の切れ目から、どこぞの山がチラリと見えたりするだけだ。位置的には金峰山や瑞牆山は右後方にあり、もう望むべくも無い。八ヶ岳連峰は左手にある筈だが、そちら方向には木々が多く、視界はほとんど無い。
 
 代わりに道の前方に、それ程高くない山並みが時折見えてくる。川上村とその北に位置する南牧村や南相木村との境を成す峰だ。その峰の南麓には千曲川が流れていることになる。信州峠の道は真っ直ぐ北へ、その千曲川へと下っているのだ。

林の中の道が続く (撮影 2011. 7. 4)
 

視界が広がり始める (撮影 2011. 7. 4)
 木々に囲まれた単調な道も、やがて周囲の林が切れてきて、視界が広がりだす。さて、これからがこの峠道のクライマックスだ。
 
 
高原野菜畑が広がる
 
高原野菜畑が広がる (撮影 2005. 6.25)
6年前
 
 どこまでも真っ直ぐに伸びる道の両側に、高原野菜の広い畑が広がる。壮観な眺めである。看板にもあった様に、現在の川上村は高原野菜の里となっている。こうした風景が川上村の隅々に広がっているのだ。以前は日本の米作の最高所だったそうだが、高原野菜に切り替えて大成功を収めた。
 
上の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2011. 7. 4)
 
 信州峠の峠道は、勾配が比較的穏やかな道が多く、あまり高度感を感じないが、川上村で高原野菜畑が広がりだす地点は、まだ標高1,300m以上ある高地である。こうした所にこれだけ広い野菜畑が広がる景観は、日本の中でも珍しいものと思う。
 
 特に峠道を下りながら眺めるのは壮観だ。よって信州峠は、川上村側から登るより、旧須玉町側から登って川上村に下るのがお勧めである。歴史のある峠道と言えども、今の信州峠を旅する上での実質的な楽しみは、この高原野菜の農園風景を堪能することが一番であろう。
 
 道は快適だが、農作業に従事する方の軽トラックや、時には農耕車も通る。ここではあくまで部外者なのだから、仕事の妨げにならない様にしたいものだ。、

前方に男山や天狗山を望む (撮影 2011. 7. 4)
 

右に「わらび山荘」とある (撮影 2011. 7. 4)
 県道の左右には畑の為の作業道が伸びる。その中で右に一本、高登谷高原(たかとやこうげん)への分岐がある。その先1.5kmに保険休養地があると看板が示す。「信濃 わらび山荘 蕨市立」と言う看板も立つ。地図には別荘地があるようにも記載されている。最近の夏は暑く、節電でクーラーもままならない。どこかいい避暑地に行きたいと切に思うが、ここなどはどうだろうか。一夏、安価に過ごせる方法はないものだろうか。
 
 
 
 道は一本道で、ただただ真っ直ぐ走っていれば良い。その内千曲川沿いを通る県道(主要地方道)68号・梓山海ノ口線に突き当たる筈だ。道も平坦になった頃、前方に山並がそびえる。その麓に千曲川が流れ、目的の県道68号が走っている筈だ。もう信州峠の峠道も終わりに近い。
 
北にそびえる峰が迫って来た (撮影 2011. 7. 4)
 
 
県道68号?
 
 暫く信州峠にはやって来なかったので、この付近の道路のことをすっかり忘れてしまっていた。県道106号(610号)・原浅尾韮崎線は、その名が示す川上村の原で、単純に県道68号に突き当たって終わるものと思い込んでいた。
 
 予想通り、T字路に突き当たる。道路標識には次のようにあった。
  左:清里 野辺山 国道141号
  右:秩父 川上駅
 
 次なる旅の目的地は、埼玉県との県境に位置する三国峠だ。県道68号を東の終点方向へ進めばよい。迷わずそのT字を右折する。これで県道68号に乗った積りになっていた。
 

農免農道(川上地区)に突き当たる (撮影 2011. 7. 4)
これを県道68号と思い込んだ

6年前 (撮影 2005. 6.25)
左とほぼ同じ場所
 

T字路から峠方向に見る (撮影 2011. 7. 4)
 後で考えてみると、県道68号の表記がどこにも無かった。しかし、何とも思わない。思い込みとは恐ろしいものである。
 
 T字路の脇には、峠方向への看板が幾つか立つ。
 
 信濃 わらび山荘
 三鷹市 川上郷自然の村
 
 これらが信州峠へ通じる道を示す看板だが、これだけではやや寂しい。もっと、山梨県側に通じる点を強調してほしいものだ。

T字路脇に立つ看板 (撮影 2011. 7. 4)
 
 
迷走中
 
 県道68号だと思い込んでいる道を東へと走る。大型の輸送トラックが頻繁に往来する。高原野菜を運んでいるのだろう。しかしどうもおかしい。間もなく左に「佐久、川上駅」と書かれた道路標識が出て来た。千曲川沿いを走る一本道の県道の筈なのだが・・・。
 
 助手席に陣取りナビをしてくれている妻は、県別マップルを食い入るように見ている。この異常事態を察知してか、どうも落ち着きが無い。すると、県道脇に建つ村役場の近くに、「森の交友館」と言うのがある。そこでトイレを借りられないかと、見当外れの事を言うのだ。妻はただただトイレに行きたくて、それでどこかに良い場所はないかと、必至に地図とにらめっこしていたのだった。
 
 しかし、今現在、県道を走っているにしては、様子がおかしいではないか。これでは村役場も、その「森の交友館」とやらも見付けられる訳が無い。わたしは頭の中で道の状況をいろいろと想像するが、何の見当もつかない。

東へ走る (撮影 2011. 7. 4)
左に佐久 川上駅への分岐
 直進は秩父 川上村役場
 

千曲川が遠い (撮影 2011. 7. 4)
 道の左手を見ると、畑が広がっている。寄り添うべき筈の千曲川が無い。道は右手に連なる山裾にそって延びている。のんびりした田園風景が広がる。
 
 大きな橋を一つ渡る。千曲川の支流なのだろうが、この付近ではまだ谷は深い。本流からはずっと離れているのだ。
 
 
 あれよあれよと言う間に、道はT字路に突き当たった。もう何が何だか、さっぱり分からない。ナビ役の妻も既に放心状態で、どちらへ曲がれば良いのか、何の指示も出そうとしない。とにかく東へ進むべく、そこを右折した。

県道68号に出る (撮影 2011. 7. 4)
左:佐久 川上駅
右:秩父 川上村役場
 

県道68号を東へ走る (撮影 2011. 7. 4)
 これでいい加減、県道68号に乗っただろうと思うと、直ぐに橋を渡り、その先で右にカーブするが、そこで渋滞を起していた。路上駐車の車があり、あの大型トラックの群れが行き違うのに手間取っていたのだ。
 
 何とかその場をクリアし、やっと落ち着いて走れるかと思ったら、例の「森の交友館」を過ぎてしまったと、妻が絶望的な声を上げる。妻は地図は読めなくても、動体視力が抜群なので、わたしが全く気付かなかったその何とか館と言うのを、しっかり目で捕捉したのだ。しかし、急に言われてもどうしようもない。引き返そうかと聞いたが、いいと断わりながらも落胆の色を隠せない妻であった。はたして妻の行く末は・・・。

 

 
 後になって調べてみると、信州峠から下る県道は、途中で右にそれている。道が改修されたのか、峠から道なりに真っ直ぐ進むと、気付かぬ内に途中から県道ではない道に入り込んでしまうらしい。地図上では今でも黄色く塗られた県道が、そのまま一筋県道68号まで続いている。妻はそれを見て、最初のT字路で県道68号に入ったと思い込んだまま、もう考えを修正する手立てを知らない。
 
 県道からそれた道は、一旦農免農道(川上区間)に突き当たる。その農免農道を右に行くと、暫く県道68号の南を走った後、村役場の1km余り西で県道68号に突き当たる。その交差点の角に、ナナーズと言う店がある。
 
 県道106号(610号)・原浅尾韮崎線が、そのまま真っ直ぐ行くと直接県道68号に突き当たる道だと言う思い込みを、現場でリアルタイムに修正し、即座に現在位置を割り出すのは、並大抵の能力ではない。それを方向音痴で地図が読めない妻に望むのは酷な事だった。幸い、三国峠を登る前に立寄った十文字峠への登山口・毛木場(もうきば)の駐車場に、偶然にもきれいなトイレが完備されていて、妻は事なきを得たのだった。
 
 初めの内は詰まらない峠と思っていた信州峠ではあったが、荒々しい大弛峠や三国峠とは、また違った味わいがある峠に思えてきた。特に、胸元で手を合わせた小さな石の地蔵が印象的である。長い歴史をそっと見守っている様な、そんな気がする信州峠であった。
 
  
 
<走行日>
・1993.10. 2 川上村→旧須玉町(ジムニー)
・1996. 8.18 旧須玉町→川上村(ジムニー)
・2005. 6.25 旧須玉町→川上村(パジェロ・ミニ)
・2011. 7. 4 北杜市→川上村(パジェロ・ミニ)

 
<参考資料>
・昭文社 関東 ツーリングマップ 1989年1月発行
・昭文社 ツーリングマップル 3 関東 1997年3月発行
・昭文社 ツーリングマップル 3 関東甲信越 2003年4月発行
・昭文社 ツーリングマップル 4 中部北陸 2003年4月発行
・昭文社 県別マップル道路地図 山梨県 2002年5月発行
・昭文社 県別マップル道路地図 長野県 2004年4月発行
・エスコート WideMap 関東甲信越 (1991年頃の発行)
・角川書店 角川日本地名大辞典 19 山梨県 平成8年6月20日5版発行(信州峠の項、他)
・国土地理院 地図閲覧サービス 2万5千分1地形図  瑞牆山(甲府)、及びその周辺
・その他(インターネットでの検索など)
 
<Copyright 蓑上誠一>
  
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