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奈良峠
  ならとうげ  (峠と旅 No.333)
  安芸川・舞川・西の川の最奥を行く林道の峠道
  (掲載 2025. 3. 6  最終峠走行 1997. 9.26)
   
   

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奈良峠 (撮影 1994. 5.23)
切り通しの手前は高知県香南市香我美町舞川(まいかわ)
奥は同市香我美町奥西川(おくにしがわ)
道は林道畑山奥西川線
標高は約600m(地理院地図の等高線より)
今から30年以上前の峠の様子
峠に林道が開通してまだ間もない頃で、
路面のアスファルトも新品同様だ

   

全般

   

<掲載動機(余談)>
 林道畑山奥西川線は寂しい道だ。かと言って、私が訪れた1994年5月現在では既に全線舗装済みの林道だった。 道幅はそれなりに狭いが、そもそも付近に通じる県道や主要地方道でさえも皆同じようなもので、その林道だけ険しいという訳ではなかった。また、人が住まないような深い山奥に通じる道でもなく、その逆にポツンポツンと点在する小さな集落同士を繋いで通じる生活路的な道だった。
 
 それでも何だか寂しいと感じたのは、そうした沿道の集落が消え掛けていたからかもしれない。地図には集落名が記されていても、もう人家が見当たらないような場合もあった。 険しい未舗装の山岳道路などは走り慣れていて、嬉々としてジムニーを運転していたが、人気がない寂れた集落の前を通り過ぎるのは、何となく気が引ける思いがあった。
 
<林道畑山奥西川線>
 その林道畑山奥西川線は3つの水域に跨ってほぼ東西方向に通じる。よってその林道には2つの峠が存在することになる。その一つが前回の弓木隧道 で、今回の奈良峠が2つ目の峠だ。一路線の林道に2回の峠越えがあるというのは、ちょっと珍しいかも知れない。
 
 林道畑山奥西川線の東の起点は高知県の安芸市(あきし)畑山(はたやま)で、安芸川水系安芸川本流の上流部(畑山川とも)に位置する。西の終点は香南市香我美町(旧香我美町)の奥西川で、それで林道名も「畑山奥西川線」となる。 香我美町では同じ物部川水系にあるが、その支流同士の分水界を越えるので、そこに奈良峠が存在するという訳だ。
 
 白髪峠に始まって四国の峠ばかりの掲載が続き、今回の奈良峠で14峠目になる。ちょっと考えても四国にはまだまだ限りなく峠はある。

   

<所在>
 峠の北東側は高知県香南市(こうなんし)香我美町(かがみちょう)舞川(まいかわ)になる。香南市は平成18年3月1日に誕生しているが、それ以前は香美郡(かみぐん)香我美町(かがみちょう)の大字舞川であった。
 
 峠の南西側は同市同町の奥西川(おくにしがわ)だ。その前は同じく香美郡香我美町の大字奥西川であった。尚、詳しくは分からないが、最近の住所表記では奥西川乙(おつ)と表すようだ。
 
 現在の奈良峠は同じ香南市香我美町内にあって、その大字の境となる。その直前では香美郡香我美町の大字境であった。
 
<旧住所>
 ちょっと古く、明治22年から昭和30年までは西川(にしがわ)村の大字舞川と大字奥西川を結ぶ峠であったようだ。更に江戸期まで遡ると峠一帯は奥西川村となり、舞川は元は奥西川村の一部だったらしい。

   

<地理院地図(参考)>
 国土地理院地理院地図 にリンクします。


   
本ページでは地理院地図上での地点を適宜リンクで示してあります。
   

<水系>
 舞川(地名)側では舞川(河川名)が北流し、本流の物部川(ものべがわ)に注ぐ。奈良峠はその舞川の支流・長谷川の上流部になる。
 
 尚、舞川の源流は、弓木隧道のページにも記したように、大字舞川より上流に位置する大字撫川(むがわ)の地にあり、そこで県道51号・夜須物部線が舞川最源流を越えている(峠名は不明、地理院地図)。 よって、舞川水域に於いては弓木隧道同様、奈良峠は2番手以降の峠道となる。
 
 更に弓木隧道は本の僅かだが奈良峠より上流側の支流源頭部に位置する。また、弓木隧道は物部川水系と安芸川水系の分水界でもあり、奈良峠より一段格上の峠と言えるかもしれない。 ただ、峠の標高は弓木隧道坑口の約500mに対し、奈良峠の方は約600mと高い。これは片方がトンネルだから仕方がない。
 
 峠の奥西川側は西の川が始め南流、香美市(かみし)香北町(かほくちょう)に入ってからは北流し、本流の物部川に注ぐ。
 
 よって、奈良峠の峠道は全て物部川水系にあり、その一次支流同士の舞川と西の川の分水界に峠は位置する。

   

<西の川>
 「西の川」という河川名は地理院地図に見られる(地理院地図)。時に「西ノ川」とも書かれる。
 
<西川川、奈良川>
 それとは別に「西川川」と言う名もあるようだ。西川川の源流は安場坂(やすばざか、安場峠とも、地理院地図)とのことで、その場合今回の奈良峠から下る川を「奈良川」と呼び、香美市香北町西川の佐敷(さじき)で西川川に合流(地理院地図)、その後物部川へと下って行く。本稿では西の川とするが、その上流部は奈良川とも呼ばせてもらう。その方が峠との関係も分かり易い。
 
 西の川(西川川)水域では、安場坂より奈良峠の方がより奥まった所にある。峠の標高も安場坂の約280mに対し、奈良峠は約600mである。よって、奈良峠がこの水域の最源流と思われ、西の川水域最大の峠と言える。

   
   
   

舞川側より峠へ

   

<舞川側起点>
 奈良峠の舞川側の起点は、地図に「日向川」(ひなたがわ)と記されている集落になる(地理院地図)。より厳密には林道畑山奥西川線が県道(主要地方道)29号・安芸物部線(県道51号・夜須物部線との併用)と交差する十字路が起点だ(地理院地図)。その地点より東側が弓木隧道の峠道、西側が奈良峠の峠道という分岐点でもある。
 
<集落の様子>
 日向川は林道畑山奥西川線の途中に於いては最も大きな集落で、舞川公民館もあり、香我美町大字舞川の中でも中心地な存在だ。「大蛇藤」と呼ばれる藤の木が立ち、林道沿いなどにもその案内看板を見掛けた。
 
 林道畑山奥西川線はその集落内を真一文字に貫いている。林道開削時に土地の一部を切り崩したようで、集落の中に一本の高架が架かっている。集落の一角には「広域基幹林道畑山奥西川線 開通記念碑」と題した石碑も建立されているようだ。

   
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林道が県道と交わる十字路 (撮影 1994. 5.23)
奥が奈良峠方向
手前が弓木隧道方面
(30年以上前の様子)


<交差点の様子>
 日向川の交差点は都合3回訪れている。林道を東に行けば弓木隧道を抜けて安芸市畑山へ。西は奈良峠を越えて奥西川へ。また、県道を南に行けば物部川水系を抜けて土佐湾岸沿いに至り、大都市高知市街も近い。 一方北に進めば物部川本流沿いの大栃(おおどち)に出て、更に知県北東部の山間地帯に入って行ける。この交差点は小さくとも、大きな分岐路であり、印象深い地点だった。
 
 以前は分岐の角に自販機が立ち、周辺の民家も健在の様子で、ちょっとした賑わいを感じる場所だった。ただ、この地も過疎化は厳しく、かつては舞川小学校もあったそうだが、とっくに廃校であった。その後も寂れて行ったことと思う。こうした点が寂しい道に思わせる。

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分岐の看板 (撮影 1994. 5.23)

   

<長谷川沿い>
 交差点の近くでは舞川本流にその支流の長谷川が注いでいる(地理院地図)。奈良峠に向かう林道はその長谷川左岸側に通じる。峠まで3.5Km余りの僅かな道程だ。
 
 川沿いでは高低差はほとんどなく、途中長谷の集落を過ぎる(地理院地図)。ただ、数軒の人家が沿道に点在するばかりの本当に小さな集落らしく、倉庫のような建物を見掛けたような気がするばかりだ。集落後は峠への登りが始まり、ちょっとした蛇行もあるが、完全舗装の林道は何の問題もなく走り易い。

   
   
   

   

<峠の様子>
 奈良峠はカーブした浅い切り通しになっている。ほぼ南北方向に延びる舞川・西の川の分水界の尾根上にある、ちょっとした鞍部に通じる。峠としては最も妥当な地点である。

   
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奈良峠(再掲) (撮影 1994. 5.23)


<峠名>
 地理院地図や一般の道路地図には、この「奈良峠」の文字はまず見られない。とても小さな峠なので、道路地図をちょっと眺めただけでは、そこに峠があることさえも気付かない。 等高線が記された地形図でも、丁寧に等高線を追わないと、峠の位置を直ぐに見失ってしまう。ただし、現地に至れば、何の看板も立ってないが、そこが峠だと直ぐに分かる。私が訪れた時は、名前などは分からないので、ツーリングマップにただ「峠」とだけ記しておいた。
 
 しかし、峠を奥西川側に下ると、「奈良峠」というバス停が出て来て、「奈良」という集落もあった(地理院地図)。よって、薄々「奈良峠」と呼ぶ峠だろうとは思っていた。
 
 今回、文献(角川日本地名大辞典)を知べてみると、さすがに「奈良峠」という項はなかったが、記念坂(きねんざか)の項に以下の様にあった。
 
 東川地区別役(べつちやく)から急坂で上り、奥西川地区の奈良側へ出る曲路で、県道奥西川岸本線が通り、定期バスの運行もみる。
 さらに北東の奈良峠を経て、夜須からの県道撫川夜須線と長者が森の北西部で結ばれ、物部川上流の大栃方面へ通じる。
 
 尚、文中の「県道撫川夜須線」とは現在の県道51号・夜須物部線の一部であろう。また、同文献の「舞川」の項に、「長者が森を源とする舞川は奈良峠付近を源とする長谷川をあわせ・・・」という記述も見付かった。
 
 これらからして、現在林道畑山奥西川線が越える峠は、まず間違いなく奈良峠であろう。
 
<楢峠(余談)>
 全くの余談になるが、奈良峠という名の峠は他にありそうでなかなか見付からない。ただ、同じ読みの楢峠(ならとうげ)というのはある。今回の峠とは異なり、岐阜県と富山県に跨る長大で険しい峠道だ。特に道の険しさは天下一品である。

   

<峠道の変遷>
 こうして峠に名前があるからには、由緒正しい歴史ある峠道と思われる。林道開通前から舞川の日向川集落と奥西川の奈良集落を結んで、人が往来したものと思う。
 
 この近辺には、古くは土佐湾沿いの海岸地方と物部川上流域の山間部を結ぶ、いわゆる「塩の道」が通じていた。安場坂(峠)はその代表各になる。 舞川の上流部・撫川(地理院地図)方面にも徳善往還とか長国寺越とか呼ばれる道が通じていたそうだ。
 
 奈良峠もそうした「塩の道」の一つではないかと想像したが、安場坂を越えた「塩の道」は その後西の川沿いに下ってしまう。記念坂もあまり「塩の道」としての色彩は濃くない。奈良峠は「塩の道」の様に広域で利用される峠道ではなく、もっぱら地域住民が移動する生活路としての意味合いが強かったのではなかったか。 西の川水域では最も高い地点を越えるので、その点も不利である。

   

<車道開通>
 奈良峠に林道が開通した正確な年月は分からないが、弓木隧道の竣工が1982年(昭和57年)3月なので、その前後だろう。
 
 手持ちの道路地図の一つ(マックスマップル 中国・四国道路地図 2011年2版13刷発行 昭文社)では、舞川側の長谷集落jから先、峠を越えて奥西川側に1Km程入った所まで、徒歩道を示す点線表記のままだった。畑山奥西川線の林道開削工事では、その奈良峠区間が最も最後に開通したようだ。
 
 1990年代までに発行されたツーリングマップ(ル)では、林道開通後の当初、峠前後は未舗装表記になっていた。しかし、私が訪れた1994年5月時点では、既に真新しいアスファルトの舗装路に生まれ変わっていた。 道幅も概ね1.5車線はあり、林道と言えども走り易い道であった。
 
 現在の奈良峠はコンクリート擁壁の切り通しで、如何にも車道の峠という雰囲気だ。往時の面影などほとんど感じられない。しかし、この近辺に連なる分水界の峰に於いては、最も低い鞍部を越えている峠である。車道開通前の古い峠も、正にその同じ地点に通じていたものと思う。

   
   
   

峠より奥西川側へ

   

<土佐湾を望む>
 峠より奥西川側へ少し下ると、土佐湾まで見通せる地点があった(地理院地図)。 そこはまだ物部川の支流上部で、記念坂を越えた先の香宗川(こうそうがわ)水系の様に、直接土佐湾に注ぐ水域ではない。それだけ奈良峠は高所に位置することを意味するのだろう。ただ、私が訪れたのはまだ林道開削間もない頃で、沿道の草木も少なかったと思う。今頃はあまり景色は期待できないかもしれない。

   
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奥西川側での景色 (撮影 1994. 5.23)

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遠く土佐湾を望む (撮影 1994. 5.23)

   

<峠集落>
 途中、峠という集落を過ぎる(地理院地図)。この付近、林道は大きく蛇行し、かつての峠道の道筋とは異なるだろう。しかし、その峠集落は林道開通前からあったものと思う。古い奈良峠の道は峠集落内に通じていたのだろう。
 
 余談だが、峠という一文字の集落は意外と多く、日本のあちこちに点在する。今になって島崎藤村の「夜明け前」を再読しているのだが、その冒頭近くに馬籠宿の小名(こな)の一つとして峠(たうげ)という部落名が登場する。取りも直さず馬籠峠の近くに位置する(地理院地図)。この峠集落などは比較的有名だろう。
 
 ところで、馬籠峠はまだ「峠と旅」では掲載していない。これまで何度か取り上げてみようかと思ったこともあったが、あまりに有名過ぎる。馬籠宿は観光客で賑わっているし、峠に関係して何を書いても面白くなさそうである。

   

<林道終点>
 峠から3Km弱も下ると、県道221号・奥西川岸本線に接続する(地理院地図)。そこが林道畑山奥西川線の終点になる。日向川の十字路からは6.5Km弱、安芸市畑山の起点からの林道総延長は約17Kmとなる。

   
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林道畑山奥西川線の終点 (撮影 1994. 5.23)
左手前が林道方向
右手前は県道221号を西の川沿いに下る
ジムニーが向く方向は県道221号を登って県道51号に接続する


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林道終点の様子 (撮影 1994. 5.23)
林道看板などが並ぶ

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林道看板など (撮影 1997. 9.26)
2度目に訪れた時

<林道終点の様子>
 分岐角の林道脇には、いろいろな看板が並んで賑やかだ。多くは林道方向の案内である。
 
 
<林道看板>
 中でも林道看板は定番だ。当時の看板には「終点」とは書かれていなかったが、最近では終点の文字が見られるようだ。よって畑山側か起点になる。しかし、畑山では林道看板そのものが見付けられなかった。

   
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林道看板 (撮影 1994. 5.23)
右のリスの看板は「たばこの投げ捨て、火事のもと」
下に括りつけた細長い木の看板にも舞川の案内が記されている

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林道看板 (撮影 1997. 9.26)

   

<舞川の案内看板>
 舞川方面に関しては、キャンプ場と大蛇藤が案内されていた。「6キロ余」などと距離が示されている。多分、舞川キャンプ場は舞川小学校の跡地に設けられたのではないだろうか。日向川集落内にある高架を渡った先にあったようだ。今はその集落も寂れ、こうした案内看板も朽ちたことだろう。

   
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舞川の案内看板 (撮影 1994. 5.23)
上はごみステーションの看板
右は山菜類の採集に関する注意看板

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舞川の案内看板 (撮影 1997. 9.26)
同じくキャンプ場と大蛇藤を案内している

   
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林道通行止の看板 (撮影 1997. 9.26)

<林道通行止>
 2度目に香美市香北町方面からこの林道終点に訪れた時は、林道の全面通行止の看板が出ていた。改めてよく見ると、場所の項に「奈良峠」とあった。現地に立つ看板で「奈良峠」の文字を見ることは、他にはまずない。
 
 林道が通行できないので、看板が示す迂回路を進んだ。看板の迂回路は単純に県道奥西川岸本線(県道221号)となっているが、その道だけでは舞川には辿り着けない。途中で県道51号・夜須物部線に乗って北上する必要がある。 その県道は舞川水域最奥の撫川(むがわ)の地を通るが、とても寂しい道だった。林道畑山奥西川線の方がよっぽどましである。それでもなかなかいい経験をしたと思う。世の中にこのような県道が存在することを知った。

   

<通行制限の看板>
 林道の全面通行止とは別に、通行時間制限の看板も立っていた。場所は長谷と日向川の間である。「仁井屋」という地名も記されてあったが、一般の地図にその名は見当たらない。
 
 他にも峠、撫川、轟(とどろ)、大栃(おおどち)といったこの近辺の主要な地名が出ている。こうした現地の看板は貴重である。

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通行制限の看板 (撮影 1997. 9.26)

   

<奈良峠バス停>
 林道が終わっても峠道はまだ続く。県道221号・奥西川岸本線に乗り換え、西の川沿い方面へと下って行く。150m程で県道は急カーブし、西の川沿いに降り立つ(地理院地図)。そのカーブの途中に奈良峠バス停が立つ。

   
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奈良峠バス停 (撮影 1997. 9.26)
西の川上流方向に見る


 バス停は奈良峠という名だが、ここが峠でないことは明らかだ。「峠下」とでも表現したい場所である。それでも、地図には全く出て来ない奈良峠という峠名をこのバス停は教えてくれていた。「奈良峠」でネット検索しても本来の奈良峠はまずヒットしない。代わりにこのバス停が出て来る。
 
 多分、ここがバスの終点なのだろう。記念坂を越えて来た定期バスはここで折り返し、この先の峠方面には向かわないものと思う。

   

<奈良川橋>
 奈良峠バス停より西の川左岸沿いを1Km余り下ると、奈良集落付近に至る。そこに奈良川橋が架かっていて(地理院地図)、そこより右岸沿いには県道224号・奈良香北線が続いている。「奈良川橋」という名からして、川の名が奈良川なのだと思う。西の川本流の上流部であることも確かだ。

   

<奈良集落付近の様子>
 林道終点より県道221号を登る方向に暫く進むと、奈良集落付近の西の川の谷間を遠望できる箇所があった(地理院地図)。ちょっとした盆地の地形をしている。

   
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県道221号沿いより奈良集落方面を望む (撮影 1994. 5.23)
谷間の小さな盆地


 奈良川とも呼ばれるその西の川源流部だけ、どういう訳か香南市香我美町に属し、それより下流側は香美市(かみし)香北町(かほくちょう)になる。

   
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西の川沿い部分の拡大 (撮影 1994. 5.23)
西の川は右奥へと流れ下る
左手奥は記念坂へ


<西川村>
 古く江戸期には西川(にしがわ)村という一つの村だったそうだ。明治22年に市制町村制施行による西川村となる。当初大字は編成しなかったが、明治29年に従前の集落名を継承し、口西川・中西川・奥西川および舞川の4大字を設置した。
 
 ところが、昭和30年になって西川村は分割され、香我美町(現香南市)・美良布町(現香北町)・槙山村(物部村を経て現香美市)・畑山村(現安芸市)の各一部となった。ここからが複雑だ。
 
<奥西川>
 まず、大字奥西川は香我美町奥西川と美良布(びらふ)町奥西川に分かれた。同じ西の川水域にありながら、どうして分割されたのだろうか。 思うに、香我美町奥西川の地は記念坂を経てその南の別役(べっちゃく)などの地域との繋がり強かったのだろう。定期バスの運行も記念坂を越えて行われた。西の川沿いから物部川沿いに延々と下るより、短距離で繁華な土佐湾岸沿いに出られる。
 
<舞川>
 また、香我美町奥西川の背後に通じる奈良峠を越えれば、同じ旧西川村に属していた舞川に至る。よって、舞川も香我美町になることは納得できる。しかし、舞川は3分割された。 大きく香我美町と槙山村に分かれ、更に舞川轟(とどろ)の集落は畑山村の一部になった。同じ舞川水域にありながら、上流部は香我美町、下流部は槙山村に属した。 ただ、轟は元々舞川水域ではなく、安芸川水系・畑山川水域であったので、地形的には納得できる。しかし、古くからの集落同士の繋がりとしては、轟はやはり舞川水域の集落との間で強かったようだ。
 
 こうした事情は、この近辺の地形が複雑で水域が入り組んでいることに関係しているだろう。しかし、そればかりではない。合併による自治体名の変化が大きく関わっている。中には現在の地図にはほとんど出て来ない地名もある。 例えば槙山(まきやま)や美良布(びらふ)である。前回の弓木隧道や今回の奈良峠を掲載するのに当たり、こうした地名を理解するのが大変厄介であった。

   
   
   

香美市香北町内(余談)

   

<香美市香北町内>
 奈良峠の峠道は、香我美町奥西川の奈良集落付近で終わりでも構わない。前述の様に、この後は記念坂というまた別の峠道を行く。ただ、地形的には西の川沿いの道は全て奈良峠の範疇と言える。そこでちょっと香美市香北町内の西の川沿いについて触れてみる。
 
<香北町小川より>
 物部川沿いの国道195号からは西の川沿いに県道(主要地方道)30号・香北赤岡線が分岐して行く(地理院地図)。暫くは香北町小川の集落内を行く(下の写真、地理院地図)。しかし、300mくらいも行くと沿道からは人家は途絶えてしまう。 

   
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香北町小川の集落内 (撮影 1997. 9.26)
ここから峠を目指す


<林道影の谷線(余談)>
 途中、林道影の谷線が分岐する(地理院地図)。抜けられるものだろうかと試しに入り込んだが、行止りであった(右の写真、地理院地図)。こんなことばかりやっているので、時間は掛かるし一体どこに行き着くか分からない旅であった。

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林道影の谷線の行止り (撮影 1997. 9.26)

   
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県道224号沿いの様子 (撮影 1997. 9.26)

<安場坂>
 県道30号は途中で本流沿いを外れ、安場坂(やすばざか)方面に向かってしまう(地理院地図)。現在のこの県道30号の道筋が、概ねかつての「塩の道」に相当するものと思う。
 
<県道224号>
 代わって西の川本流沿いを行くのは県道224号・奈良香北線になる。佐敷橋(地理院地図)を渡って右岸沿いに遡る。地図によってはこの川を奈良川としている。谷は増々狭くなり、沿道の人家の点在もほとんど見られなくなる(左の写真、地理院地図)。

   

<旧町境>
 同じ西の川沿いを遡っているのに、途中で旧町境を過ぎる(地理院地図)。町境を示す看板が立っていないと、それとは全く気付かない。

   
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旧町境 (撮影 1997. 9.26)
手前は旧香北町、奥は旧香我美町


<境の変遷(余談)>
 ここは古くは同じ西川村大字奥西川で、何の境でもなかったものと思う。それが昭和30年に突如、美良布町と香我美町の町境となったようだ。
 
 その後、美良布町は昭和31年に大宮町(おおみやちょう)の一部になり、その大宮町も昭和36年(1961年)に香北町の一部となる。ここまでは町境であった。私が訪れたのはこの時代だ。
 
 下って平成18年(2006年)3月1日、香我美町は香南市(こうなんし)の一部、香北町は香美市(かみし)の一部になり、一挙に市境となった。今は境を示す看板も変わったことだろう。

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旧町境の看板 (撮影 1997. 9.26)
{香我美町」とある

   

<美良布町奥西川>
 尚、現在の香美市側の住所は香北町西川となっている。「西川」であって「奥西川」ではないのが腑に落ちない。元々美良布町奥西川だった地域は、大宮町になった折りに大宮町西川と改められたようだ。
 
 江戸期からの古い西川村は奥西川を含むもっと広い範囲であった。それが今の大字西川は西川村の枝郷と言われた奥西川のみを指すことになっている。そして奥西川の地名は香我美町側にのみ残る。何と複雑なこと。

   

 旧町境付近の西の川の谷は狭く屈曲している。そこを抜け、奈良集落が出て来るころになると、一転して谷は大きく広がる。ちょっとした別世界の感がある。 西の川に支流の北谷が合流する扇状地に、耕作地がのどかに広がる。周囲はぐるりと山に囲まれ、外界と隔絶した桃源郷のようだ。この地から南に向かえば記念坂、北へ向かえば奈良峠である。

   
   
   

<あとがき(余談)>
 この奈良峠のページは去年(2024年)の暮れから作り始めたが、今年に入って暫くパソコンに向かう気がしなかった。それがやっと3月になって製作を再開した。
 
 他にもいろいろやりたい事がある。「夜明け前」の再読を始める前に、「坂の上の雲」(司馬遼太郎作)の再読を始めていたのだった。この小説もなかなかの長編だ。録り溜めたテレビ番組も100本以上残る。 ダウンロードした昔のドラマも同程度ある。コロナ禍以降、ジグソーパズルに凝っていて、1000ピースや2016ピースのパズルを5、6枚完成させた。まだ手付かずが4、5枚残っている。勿論旅行にも出掛けて行きたい。 できれば海外も。家を新築する予定だが、なかなか手頃な土地が見付からず困っている。学生の時から株式投資を始め、商品先物などにも手を出したが、最近はETF、FX、仮想通貨、ファンドラップ、貴金属等と更に手を広げてしまった。 経済番組を熱心に視聴し、パソコンのトレード画面に食い入る毎日だ。こうしてホームページを製作しながらも、裏の画面で動く為替のチャートが気になって仕方がない。
 
 と言っても、お金が欲しいかというと、そういう訳ではない。一旦ホームページを作り始めると、体調が悪くなるまで何時間でもパソコンの前に座っている。ジグソーパズルを始めると、妻が止めないといつまでもパズルから目を離さない。 あまりお金を使わなくても、十分楽しめる性格た。凝り性であることだけは確かである。
 
 残りの人生、そう長くない。あれもこれもという訳にはいかない。やる事を絞り込まなければならないが、どれを選んでいいか分からない。やりたいことは山ほどある様に思え、それでいてどうしてもやりたいということでもなさそうだ。 刹那的に没頭できていてば、それでいいようである。
 
 ホームページ作りに関しても、いろいろアイデアはある。掲載してみようかと思う峠も沢山候補がある。次回は十津川村の引牛越にしよかと思ったりする。始めればまた夢中になるだろうが、それでどうしたというのだろうか。 自分は人生の中で何か成したのだろうか。そんな一抹の不安はある。こうして奈良峠を掲載したとて、何も変わらない。ただ、今後googleなどで「奈良峠」と検索すれば、このページがヒットするかもしれない。 その程度のことだと思う、奈良峠であった。
 
(アッ、ドル円が5ヶ月振りに底が抜けた。ドル買建てで大損だ)

   
   
   

<走行日>
・1994. 5.23 旧香我美町舞川→奈良峠→林道終点→県道221号→県道51号/ジムニーにて
・1997. 9.26 県道30号→県道224号→県道221号→奈良峠バス停・林道終点→県道51号/ジムニーにて
 
<参考資料>
・中国四国 2輪車 ツーリングマップ 1989年7月発行 昭文社
・ツーリングマップル 6 中国四国 1997年9月発行 昭文社
・マックスマップル 中国・四国道路地図 2011年2版13刷発行 昭文社
・角川日本地名大辞典 39 高知県 昭和61年 3月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・四国森林管理局のホームページ
・香南市のホームページ
・香美市のホームページ
・その他一般の道路地図、webサイト、観光パンフレットなど
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

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