ホームページ★ 峠と旅
弓木隧道
  ゆみぎ/ゆみき ずいどう  (峠と旅 No.332)
  安芸川最奥の地を行く峠道
  (掲載 2024.12.29  最終峠走行 1997. 9.26)
   
   

image
弓木隧道 (撮影 1993. 5. 3)
トンネルのこちら側は高知県安芸市舞川(まいかわ)
反対側は同県香南市香我美町撫川(むがわ)
道は林道畑山奥西川線
坑口標高は約500m(地理院地図の等高線より)
今から30年以上前の峠の様子
トンネルが開通してまだ11年程の頃

   

   

<掲載動機>
 トンネル坑口を写した古い一枚の写真が残る(上の写真)。何とも寂しい佇まいだ。この日は少し天候が悪かったことも影響しているのだろう。坑口上部に掛かる扁額には「弓木隧道」とあるようだ。 こうしてわざわざジムニーから降り、写真まで撮っていることからして、どこかの峠であることは間違いない。しかし、どこの峠だったか、さっぱり思い出せない。四国の、それも高知県のどこかではある。
 
 アルバムに収まっているその写真の前の一枚は、「北川村案内図」という看板を写していた(左下の写真)。 それは四郎ヶ野峠(しろがねとうげ)を越える国道493号線沿いで、奈半利川(なはりがわ)に架かる野友橋(のともばし)の袂でのことだ(地理院地図)。 そして弓木隧道の次の一枚はというと、矢筈峠(やはずとうげ)であった(右下の写真)。 徳島県との県境にある林道の峠である(地理院地図)。 弓木隧道とやらはその2地点の間で寄ったことになるが、野友橋と矢筈峠では全く場所が違う。一体どのようなルートでジムニーを走らせたのだろうか。それにしても、他にもっと写真を撮っておけば、手掛かりにもなったのにと思う。 その頃は険しい道を求め、ただひたすらジムニーを走らせてばかりいたようだ。

   
image

四郎ヶ野峠を越える国道493号線沿いにて (撮影 1993. 5. 3)
奈半利川に架かる野友橋の袂に立つ看板
「北川村案内図」とある

image

矢筈峠 (撮影 1993. 5. 3)
笹峠とも呼ばれるようだ
切り通しの手前は高知県、奥は徳島県

   

 当時使っていたツーリングマップ(1989年7月発行)には走行経路を記してあった。それを調べてみると、弓木隧道は高知県の安芸市と香我美町(現香南市)との境の峠であった。 ツーリングマップにはトンネル名は記されておらず、「新設路線 峠はトンネル」とコメントされていた。そこでボールペンで「弓木隧道」とメモしておいたようだ。 このところ、白髪峠に始まって四国の峠ばかり12峠掲載してきた。こうなったら、もう少し掲載を続けようと思う。

   

<地理院地図(参考)>
 国土地理院地理院地図 にリンクします。


   
本ページでは地理院地図上での地点を適宜リンクで示してあります。
   

<所在>
 峠道はほぼ東西方向に通じ、峠の東側の住所表記は高知県安芸市舞川(まいかわ)になるようだ。安芸川上流域は古くは畑山(はたやま)村で、昭和29年(1954年)には安芸市の大字畑山になっている。しかし、当時はまだ舞川は安芸市に含まれず、翌昭和30年に安芸市大字畑山に編入されたそうだ。現在の住所表記では、元の畑山は畑山甲・ 乙・丙の3地区に分かれ、それに舞川が加わるようだ。
 
<舞川(余談)>
 舞川の経緯は複雑だ。現在の香美市(かみし)にも物部町舞川(旧物部村の大字)があり、香南市(こうなんし)にも香我美町(かがみちょう)舞川(旧香我美町の大字)がある。安芸市の舞川を合わせ、元は旧西川村の一つの大字舞川だった。 それが昭和30年に3つに分割された。安芸市の一部になったのは、舞川の字轟(とどろ)と呼ばれる地だ。 地理院地図にもその名が見られる(地理院地図)。江戸期には頓路(とどろ)村とも呼ばれた。
 
<撫川>
 ならば、峠の西側は香南市の香我美町舞川かと思いきや、そうではなかった。同じ香南市香我美町の撫川(むがわ)になる。旧香我美町の大字撫川だ。「舞川」と「撫川」、字も似ていて間違い易そうだ。

   
   
   

安芸市側

   

<安芸川沿い>
 複雑な舞川の地名とは異なり、安芸市側の峠道に関する地形・水系はシンプルだ。ほぼ安芸市内を南北に安芸川(あきがわ)が流れるが、その谷に沿ってどこまでも上流に遡ればいい。道は土佐湾岸の国道55号から分かれ(地理院地図)、まず県道29号・安芸物部線を進み、続いて栃ノ木(地理院地図)で県道210号・畑山栃木線に乗り換える。野友橋を後にしてジムニーを走らせた時も、多分そのルートを辿ったらしい。何故、その先にある弓木隧道を目指したかは今となっては不明だが、とにかく山の中へと入りたかったのだろう。 

   

<安芸川水域>
 中流域にある安芸ノ川乙では、宝蔵峠への道を分ける(地理院地図)。 安芸川が土佐湾に注ぐ安芸平野付近を除けば、安芸川水域から他水域へ抜けられる車道は、この宝蔵峠くらいに限られる。しかし、宝蔵峠は険しい林道の峠で、普通には通れない。その意味で安芸川水域はほとんど閉じられた世界と言える。 唯一、その最上流部で香我美町に抜けられるのが、今回の弓木隧道になる。 

   

<畑山川>
 宝蔵峠のページでも記したことだが、安芸川の上流部は畑山川(はたやまがわ)という別称を持つ。宝蔵峠方面から流れ下る張川を合わせるまでだとか、弓木隧道方面からの支流を合わせるまでだとか、いろいろな説があるようだ。 しかし、最も分かり易いのは大字畑山内での呼称とすることだ。本ページではそれに倣う。安芸ノ川乙を過ぎると直ぐに畑山甲に入る。

   

<畑山温泉付近>
 安芸川から更に畑山川沿いを遡ること合計20Km余り、ちょっと大きな集落内に入って行く。以前はその一角に畑山温泉という看板が立っていた(地理院地図)。
 
 付近の畑山川沿いには、谷口(たにぐち)、上段(うわだん)、奈路(なろ)、和田(わだ)、小川名(おがわみょう)といった集落が集まっている。実質、ここが安芸川(畑山川)沿い最終の集落になる。

image

畑山温泉前 (撮影 1997. 9.26)
2度目に弓木隧道を訪れた時
ジムニーは弓木隧道方面から下って来たところ
この後、宝蔵峠に向かった

   
image

畑山温泉の様子 (撮影 1997. 9.26)

<林道畑山奥西川線>
 県道210号は小川名までで、その先は林道畑山奥西川線になる。畑山側の林道起点はあまりはっきりしないが、終点は香我美町側の奥西川(おくにしがわ)にある(地理院地図)。 この林道は今回の弓木隧道の峠と、その先にもう一つ奈良峠を越える。次回はその峠にしようかと思ったりする。 (奈良峠 掲載 2025. 3. 6)
 
 1997年9月に弓木隧道方面から林道を下って来ると、途中で道路の補修工事を行っていた(地理院地図)。ここは既に安芸市側の最終集落を過ぎているが、こうして隣の香我美町へと至るルートが確保されている様子だった。
 
 大字畑山内では道は概ね畑山川(安芸川)右岸沿いに通じるが、花ノ久保橋(はなのくぼばし)を渡ってからは左岸を進む(地理院地図)。

   
image

畑山林道の分岐に立つ看板 (撮影 1997. 9.26)
看板しか写真を撮っていなかった

<畑山林道分岐>
 安芸川水域から出られる車道は、弓木隧道以外には宝蔵峠だけだと書いたが、実はそうではなかった。林道畑山奥西川線を暫く行くと、畑山川本流沿いに畑山林道が分岐して行く(地理院地図)。林道の幅員3.6m、延長4,265mと林道標柱にある。その距離からして、畑山林道は地理院地図に見られる堂平(どうだいら、地理院地図)までの道を指すのだろう。
 
 更に道標には畑山林道方向の行先に「中津尾 宇筒舞方面」とある。市境を越えて香美市(かみし)物部町(ものべちょう、旧物部村)の中津尾(なかつお、地理院地図)や、更にその先の物部町仙頭(せんどう)の宇筒舞(うつつまい、地理院地図)集落に至るとするのだ。

   
image

道標 (撮影 1997. 9.26)
左は「舞川 大蛇フジ方面」
右は「中津尾 宇筒舞方面」

image

林道標柱 (撮影 1997. 9.26)

   

 宝蔵峠では「四国の山深さを痛感する」などと記したが、この畑山林道の山深さはどうだ。安芸川水系と物部川水系を繋ぐことから、一種の峠道にもなるはずである。すると、弓木隧道を抜いて安芸川水系最奥の峠道ということになってしまう。 ただ、一般には通り抜けられるような道ではなさそうなので、やはり弓木隧道が一番としておこうと思う。

   
image

林道看板 (撮影 1997. 9.26)

image

注意書き (撮影 1997. 9.26)

   

<中津尾(余談)>
 中津尾には堂平と下中津尾の集落があるようだ。この2つの集落については林野庁のホームページに詳しい。それによると、2016年からこの地に住民は居ないようである。畑山林道も通れなくなったのではないだろうか。

   

<道標の舞川>
 畑山林道分岐に立つ道標に「舞川 大蛇フジ方面」とあったが、この場合の「舞川」はまだ安芸市側の舞川を指すのであろうか。弓木隧道を抜けた先の香南市(旧香我美町)側にも舞川があるので、どこを指すかはっきりしない。
 
<大蛇藤>
 一方、「大蛇フジ」とは香南市に関してのことだ。香我美町舞川の日向川集落に「大蛇」と形容される藤の木(大蛇藤)があるそうだ(地理院地図)。それを案内していたようだ。

   

<安芸市舞川へ>
 畑山林道の分岐を過ぎると、道は新道橋(地理院地図)で畑山川(安芸川)本流を渡る。その橋以降、道は安芸市舞川を行く。旧西川村舞川の字轟(とどろ)の地だ。道は少し本流沿いを戻ってから、弓木隧道方面から流れ下る支流の左岸沿いを遡る。ただただ狭い谷を狭い道が細々と続いている。
 
<舞川同士を結ぶ道>
 途中、北へ向かう道の分岐がある(地理院地図)。畑山林道と違って何の看板もなく、全く気には留めなかった。しかし、今になって地理院地図を見てみると、その道は途中車道ではない区間もあるが、香美市物部町(旧物部村)舞川の栃本集落付近(地理院地図)に至る。この一帯の舞川は元は一つの小村であった。村内に点在する小さな集落同士は、こうした道で繋がっていたのものと思う。
 
<轟集落>
 現在の道路地図にも轟(とどろ)という集落名が残る(地理院地図)。ただ、その付近で人家を見たような覚えがない。林の中に隠れていたのだろうか。
 
 当時使っていたツーリングマップ(ル)上では、轟集落から先の3Km程は未舗装となっていた。しかし、初めて訪れた1993年5月時点で、林道畑山奥西川線は既に舗装済みとなっていた。

   
   
   

   

<弓木隧道の様子>
 安芸市側はほとんど眺望もないまま隧道坑口前に至る。そこに寂しいトンネルがぽっかり口を開けている。トンネル内に照明はない。駒背峠隧道や畑山林道の道が通れない時は、このトンネルが唯一、安芸市北部の山間部から外界へと通じる車道になる。

   
image

弓木隧道の安芸市側(再掲) (撮影 1993. 5. 3)

 調べてみると、弓木隧道は2度訪れていた(1993年5月と1997年9月)。2度目は旧香我美町側から越え(下の写真)、その後、宝蔵峠に向かったのだった。そのことを思い出し、前回はまず先に宝蔵峠を再掲載したのだった。

   
image

弓木隧道の香南市(旧香我美町)側 (撮影 1997. 9.26)

<隧道名>
 「弓木」という名の由来は分からないし、そもそも「弓木」をどう読むのかも定かでない。多分「ゆみぎ」か「ゆみき」のどちらかではある。 関東は千葉県の大多喜町に弓木(ゆみぎ)という地があるようで、最初は「ゆみぎ」だろうと思ったりしていた。しかし、いつも頼りにする文献(角川日本地名大辞典)では、千葉県の弓木(ゆみぎ)の他にも、京都府の弓木(ゆみき)が検索される。結局、「ぎ」か「き」かどちらか分からない。
 
 この文献は大字より小さな字や小字の地名については、あまり掲載されない。多分、弓木隧道の付近に大字より小さい「弓木」という地名があるのだろうか想像する。

   

<トンネル開通>
 トンネル銘板によると、このトンネルの竣工は1982年(昭和57年)3月だそうだ。その当時、香南市側はまだ香我美町だった。香南市は平成18年(2006年)3月に誕生している。私が訪れた時もまだ香我美町の時代だ。 トンネル開通から11年後に訪れていることになり、トンネルもまだ新しかった。また、トンネル前後の道路面も舗装したばかりの様で、白線もくっきりと白かった。

   

<扁額>
 トンネルのどちら側の坑口にも「弓木隧道」と書かれた扁額が掲げられている。字体は異なっているので、多分、それぞれの市長・町長の筆によるものと思う。

   

<「隧道」と「トンネル」(余談)>
 扁額の文字が「トンネル」ではなく「隧道」となっている。個人的な経験なのだが、昭和40年代以降は「隧道」の代わりに「トンネル」が用いられ始めるようになる。ちなみに、扁額に「隧道」の文字が使われる四国の峠を分かる範囲で列記してみた(年代順)。
 
 寒風山隧道:昭和39年(貫通)
 白髪隧道:昭和41年頃
 川井隧道:昭和41年
 見の越隧道:昭和41年3月(完成)
 雲早隧道:昭和42年3月(竣功)
 美馬峠隧道:昭和45年3月(竣工)
 やれやれ峠隧道:昭和47年1月
 大小屋小石川隧道:昭和53年3月(竣功)
 井内峠隧道:昭和53年11月
 弓木隧道:昭和57年3月(竣工)
 
 こうしてみると、昭和50年代になってもまだ暫く「隧道」の文字が使われるケースがあったようだ。その中でも弓木隧道は最も新しい方のトンネルになる。私などの世代でさえ普段の生活で「隧道」などと書くことはまずない。 しかし、トンネルの扁額ではカタカナの「トンネル」より「隧道」の方が、文字として見栄えはする。

   
image

安芸市側の扁額 (撮影 1993. 5. 3)

image

香南市側の扁額 (撮影 1997. 9.26)

   

 それにしても、四国ではトンネル開通が概ね昭和40年代以降と、比較的最近であることが多い。トンネル開通が峠の車道開通に等しい場合が少なくなく、四国の地では車道の発達が遅れていたことを示すものではないかと思える。

   

<弓木隧道以前>
 弓木隧道の開通以前に、はたしてこの付近に峠道が通じていたであろうか。林道畑山奥西川線が轟集落前に通じて初めて、香我美町方面と繋がったようなことをどこかで読んだような気がする。
 
 旧西川村の舞川同士として、安芸市舞川の轟集落と物部町舞川の栃本集落との間には、どうやら道が通じていたようだ。同様に、轟集落と香我美町舞川の日向川集落との間にも、直接の行き来があったとしてもおかしくない。 ただ、弓木隧道の香我美町側は暫く撫川の地を通る。やはり、弓木隧道以前に峠道はなかったかもしれない。

   
   
   

香南市側

   

<香南市>
 弓木隧道の西側は、今は香南市(こうなんし)香我美町(かがみちょう)となっている。以前の香美郡(かみぐん)香我美町になる。その北に接するのは香美市(かみし)であった(「こうみし」ではない)。元の香美郡物部村(ものべむら)だ。「香南」(こうなん)や「香美」(かみ)は何とも馴染みがない地名で、元はどこの町村だったかのかと思う。
 
 調べてみると、香南市は香我美町の他、赤岡町、野市町、夜須町、吉川村の5町村が合併して誕生したとのこと。この中では旧香我美町が最も広い面積を持ち、その町域は北部の山間部にまで延びていた。それで旧物部村と接し、弓木隧道を通じて安芸市とも繋がっていた。
 
 旧香我美町は香美郡(かみぐん)に属す。また、安芸市側の旧畑山村は安芸郡(あきぐん)に属していた。よって弓木隧道の位置は、古くは郡境であったが、弓木隧道が開通した時点(1982年3月)では、既に安芸市が誕生(1954年)している。

   

<香南市側の水系>
 弓木隧道の安芸市側では、安芸川が安芸市内を概ね南流して土佐湾に注いでいた。香南市側も同じように市内を南下する川が流れているのかと思いきや、全く違う。弓木隧道方面から流れ下った川がその本流の舞川(まいかわ)に注ぐが(地理院地図)、その後舞川は北へと流れて行ってしまう。
 
<舞川>
 舞川(まいかわ)は北部を流れる物部川(ものべがわ、地理院地図)左岸の一次支流になる。長者が森(772m、地理院地図)の北西麓に源を発し、北流して香美市物部町大栃(おおどち)で物部川に合流する(地理院地図)。文献では「回曲が多いため、「廻(まい)の川」と別称される(香美郡町村誌西川村)」とする。弓木隧道の香南市側は物部川水系・舞川水域となる。
 
舞川 (余談)>
 ところで、「舞川」は河川名であり、地名でもある。特に地名の方は香我美町舞川、物部町舞川、安芸市舞川と三ヶ所に分かれて記載があり、地理院地図を眺めていても、河川名と混同してしまいそうだ。しかし、よくよく見ると、地名の場合は普通のフォントだが(地理院地図)、河川名の時は斜体を使っている(地理院地図)。こうした記述のルールがあるとはこれまで知らなかった。

   

<撫川>
 撫川(むがわ)は舞川最源流の地だ。文献では「香長平野東方の山岳重畳の地に立地する」と形容している。香長平野(かちょうへいや)とは高知平野(地理院地図)の東半分を指す。撫川は同じ香南市にありながら、土佐湾沿いの地域とは分水界で隔てられている。撫川には舞川沿いに県道51号・夜須物部線が通じ、その途中に撫川集落がある(地理院地図)。以前、一度だけ訪れたことがあるが、とても寂しい道だった。

   

<撫川内>
 弓木隧道から1.6Km程は撫川の地を下る。その間、撫川の集落などは皆無だ。沿道は安芸市側に比べればやや開けた雰囲気があるが、やはり遠望はない。ただただ、川沿いの狭い道を下る。

   
image

日向川の十字路 (撮影 1997. 9.26)
手前が弓木隧道方面
この時、ジムニーは撫川方面(左)からやって来て、
その後、弓木隧道(手前)へと向かった

<舞川の中心地>
 道が舞川本流沿いになると、ほぼ同時に撫川から舞川の地に入る。更に進むこと400mくらいで舞川を左岸に渡る。すると直ぐに十字路に出る(地理院地図)。その付近が香我美町舞川の中心地となるようだ。地図には「日向川」という集落名が見える。ここには1993年5月、1994年5月、1997年9月と、3度訪れている。
 
<日向川の十字路>
 十字路を直進するのは林道畑山奥西川線の続きで、舞川の支流・長谷川沿いに遡り、奈良峠(地理院地図)を越えて行く。一方、交差する道は県道29号・安芸物部線で、県道51号・夜須物部線との併用区間でもあるようだ。

   

<看板の行先>
 林道畑山奥西川線を進む方向には、奈良峠を越えた先の林道終点がある香我美町「奥西川」を道路看板は示している(左下の写真)。現在は土佐湾岸沿いの香我美町「岸本」(地理院地図)へも、この奈良峠越えの道を通るように推奨しているようだ。以前の看板(右下の写真)では県道51号・夜須物部線で南に向かうようになっていた。香南市「野市町」(旧野市町)へも同様である。
 
 今の県道51号・夜須物部線を南下する方面は、香我美町「撫川」と香南市「夜須町」(旧夜須町)と変わっている。尚、「撫川」は文献などでは「むがわ」で出ているが、この看板では「Mukawa](むかわ)となっていた。
 
 県道29号・安芸物部線及び県道51号・夜須物部線を北上する方向は、物部町「大栃」(おおどち)で国道195号に接続することに変わりない。「北上」と言っても、舞川沿いに下る道である。尚、県道29号・安芸物部線は、本来その名からして安芸市と繋がる県道のようだが、市境付近が未開通だ。

   
image

分岐の看板 (撮影 1997. 9.26)

image

ちょっと古い分岐の看板 (撮影 1994. 5.23)

   

<日向川集落の様子>
 林道と県道が交差するこの日向川の十字路近辺には、舞川公民館や舞川キャンプ場・管理事務所、看板に案内されていた大蛇藤などがあり、民家も集中していて舞川の中心集落としての雰囲気があった。分岐の角には自動販売機も立っていた。
 
 また、小さな陸橋が架かっているのが印象的だった。多分、林道畑山奥西川線を通した折り、集落内の往来の便宜を図って建設したものだろう。

   
image

日向川の十字路 (撮影 1994. 5.23)
30年前の様子
この時、ジムニーは大栃方面(右)から来て、
次に奈良峠(奥)へと向かった

 ただ、安芸市側の舞川(轟)が既に無住となっていたように、香我美町の舞川の過疎化も急激に進んだようだ。今頃はこの十字路付近の様子も随分変わったことだろう。

   

<弓木隧道の道の起点>
 舞川(河川の方)沿いには、県道29号・安芸物部線に続いて県道51号・夜須物部線が延び、北の大栃に始まって途中撫川を経由、舞川源流の峰を越えて土佐湾岸沿いにまで至る。よって、舞川本流沿いはそれら県道の峠道の領分と言える。 また、日向川から先の林道畑山奥西川線は、支流の長谷川沿いを遡って奈良峠を越える峠道になる。よって、弓木隧道の峠道は、日向川の十字路で終点ということになろう。

   
   
   

舞川沿いの峠道(余談)

   

<舞川沿いの峠道>
 舞川源流を越える道はちょっと複雑で、峠の位置もはっきりしないし、名前もない。だからと言って、このままほっておく訳にもいかない。一度だけだが越えたことがあるので、この場を借りてちょっと触れたいと思う。

   

<物部町大栃〜香我美町舞川の間>
 旧物部村(現香美市物部町)には幹線路となる国道195号が通じる。そこより舞川沿いに県道29号・安芸物部線が分岐する(地理院地図)。 舞川が本流の物部川に注ぐのは物部町大栃(おおどち)だが(地理院地図)、国道が一部舞川沿いに通じるので、県道が分岐する地点は物部町山崎になるようだ。
 
 2車線路の立派な国道側から見る県道29号は、1.5車線幅もないような如何にも寂しい道だ。それでも舞川水域に広く点在する集落に通じる重要な生活路となる。ただ、地元民以外の一般の旅行者が、好き好んで入り込むような道ではない。よっぽどの事情がない限り、その存在さえ気付かないだろう。その道を私は上りと下り、それぞれ一回ずつジムニーを走らせたことがある。

   

<塩の道>
 舞川水域に通じる道は、現在はほとんどその近辺の集落を結ぶ為だけの道だが、かつてはいわゆる「塩の道」(「塩道」とも書く)が通っていた。
 
 大栃では舞川とその反対側から上韮生川(かみにろうがわ)が合流するが、そこより上流の物部川本流を槙山川(まきやまがわ)とも呼んだ。江戸期にはその槙山川流域は槙山郷と称されたそうだ。 現在の香美市物部町に「槙山」の名はほとんど見られないが、一般呼称として「槙山地区」とか「槙山地方」といった呼び方が残るようだ。
 
 その槙山地方などへ土佐湾岸沿いより塩や乾魚を移入する経路が舞川水域に通じていたとのこと。但し、「廻(まい)の川」とも別称される迂曲激しい舞川である。「塩の道」は舞川沿いを避け、峰伝いに通じていたらしい。
 
 内陸部への物資の搬入路として重要な「塩も道」も、明治22年(1889年)に物部川本流沿いに県道が敷設され、その価値を失った。険しい峠越えに代わり、川沿いに高知市街方面へと至る道が通じたのだ。 それが後の国道195号にもなる。かつての「塩の道」は、今ではその路跡も判然としないとのこと。尚、同じ明治22年には市制町村制施行による槙山村が誕生している。

   

<県道29号の様子>
 現在の県道29号はかつての「塩の道」とは全く異なり、舞川の激しい屈曲をほぼそのまま、なぞるようにして通じる。よって道の屈曲が尋常ではない。交通量は少な目なのだが、皆無と言う訳にもいかない。 一度だが香我美町側から下って来た対向車に出くわした。もう塩を運ぶことはないだろうが、車は通るのだ。油断はできない。

   

<旧舞川の地>
 地名の方の「舞川」という名の由来は、川の「舞川」から来ているそうだ。概ね、舞川上流域に位置する。
 
 中世は「舞川ノ村」と呼ばれ、江戸期には西川(にしがわ)村の枝郷・奥西川村の小村であった。明治22年に市制町村制施行による西川村が誕生する。当初、大字は編成しなかったようだが、明治29年に西川村の大字舞川となる。
 
 更に昭和30年には前述のように旧舞川の地は3つに分かれる。槙山村の大字舞川、香我美町の大字舞川、安芸市の大字舞川である。尚、槙山村は翌年物部村の一部となり、物部村の大字舞川に変わる。
 
 旧物部村と旧香我美町の舞川は同じ物部川水系・舞川水域にあるが、安芸市の舞川(旧字轟)だけは安芸川水系となる。他の集落とは分水界の峰で隔てられるが、位置的に近い関係だったのだろう。

   

<栃本>
 香美市(旧物部村)の舞川では、舞川沿いに栃本という集落がある(地理院地図)。その付近に人家が集中し、平坦地も広い。そこが旧舞川では最も大きな集落であるように思う。

   

<香我美町舞川>
 旧舞川に於いては、香南市(旧香我美町)の舞川が一番面積が広いようだ。道が香南市に入ると常安、ナガトロ、藤が谷と言った集落が点在する。どれも人家が数戸という小さい集落のようだ。旧舞川ではこうした集落同士がお互いに行き来し、肩を寄せ合うようにして生活を営んでいたのだろう。

   

<杉木立>
 県道29号の道の狭さと屈曲の多さは終始変わらない。国道195号から日向川の十字路までの10数Kmというもの、絶えずハンドル操作をしているようなもので、休む暇がない。
 
 日向川のちょっと手前で珍しく直線路があった(地理院地図)。杉木立の中を道が行く。面白い景観なので、記念写真を2枚ほど撮ってみた(下の写真)。

   
image

県道29号の様子 (撮影 1994. 5.23)
杉木立の中を行く
奥が大栃方面、手前が日向川

<撫川>
 日向川の十字路は3回訪れているが、一度も直進したことがない。いつもどちらかに曲がっていた。日向川より上流の舞川沿いは撫川の地だ。そこには源流側から下って来たことが一度あった。
 
 撫川は舞川水域にあって、舞川よりも更に奥に位置する。中世の「無川ノ村」で、江戸期には東川村の小村・無川村であった。古くは「無」の字を持ちいたようだ。
 
 同じ舞川水域にあり、舞川とは隣り合う村だったが、舞川は西川村で撫川は東川村と、別だったことが不思議である。
 
 東川村は明治22年に市制町村制が施行された。当初は大字を編成しなかったが、明治29年に13大字を設置した。それにより旧無川村の地は大字撫川となった。昭和30年には東川村が解体され、撫川は香我美町の大字となった。

   

<県道51号>
 日向川の十字路以降も県道29号・安芸物部線と県道51号・夜須物部線の併用区間は続くようだ。途中、撫川の中心地を通るが(地理院地図)、概ねそこを過ぎると県道51号のみになるらしい。舞川を忠実に辿る道なので急勾配などはないが、とにかく寂しい道だ。山岳道路などの険しさとは異なり、人が住んで居るような居ないような、不思議な雰囲気がする。

   

<舞川源流部>
 さすがに舞川源流部では県道も川沿いを離れ、左岸の斜面を屈曲しながら登って行く。途中、県道標識がポツンと立つ(地理院地図)。舞川水域最奥に立つ看板になる(下の写真)。

   
image

県道標識が立つ (撮影 1997. 9.26)
撫川の中心地へと下っている時
看板の文字は読めなかったが
看板部分だけスキャナで取り直すと
やっと読める程度に文字が浮かんで来た

image

県道標識 (撮影 1997. 9.26)

   

<県道標識>
 この近辺に立つ県道標識はちょっと変わっている。4つの看板が縦に串刺しになっている。一番上は県道番号で、「県道 51 高知」とある。2番目は路線名で、「夜須物部線」となっている。 3番目は所在地で、「香我美町 撫川」だ。今頃は香南市となっていることだろう。最後の「22Km」はどうやら起点からの距離を示すようだ。県道51号の場合、国道55号からの分岐が起点になる(地理院地図)。
 
<撫川夜須線>
 現在の県道は夜須物部線と呼ばれる。土佐湾岸沿いに立地する旧夜須町(やすちょう)から、物部川沿いの旧物部村大栃に至ることを意味するのだろう。この道の前身は県道撫川夜須線という名であったそうだ。旧夜須町から撫川を経由し、舞川日向川の十字路辺りまでをそう呼んだものだろうか。更にその前は、明治43年に開通した郡道だったようである。

   
image

舞川水域最奥を越える小さな峠 (撮影 1997. 9.26)
手前は香我美町撫川
奥は香我美町奥西川乙

<舞川水域最奥の峠道>
 県道51号は思い掛けない所で舞川水域を抜け出ている(地理院地図)。くねくね蛇行している最中に小さな切り通しを抜ける。そこが分水界の峠である。その北東側は香我美町撫川、南西側は香我美町奥西川(乙)である。大字境となるようだ。道もその付近での最高所となり、標高は約575m。
 
<西の川水域>
 水系も、物部川水系から土佐湾岸側の夜須川水系辺りに移るのかと思いきや、そうではない。同じ物部川水系の支流・西の川(地理院地図)の水域になるようだ。
 
 「西の川」(西ノ川)は地図によっては「西川川」と書かれ、その上流部のこの峠直下付近では「奈良川」と記されている場合もある。ここでは西の川としておく。
 
 県道51号は一気に土佐湾岸沿いの水系には越えない。それがこの峠道を複雑化している要因になっている。

   
image

峠の様子 (撮影 1997. 9.26)

<徳善往還>
 内陸の槙山地方へと通じる「塩の道」は一本とは限らず、複数の道筋が存在したようだ。その中で撫川の地を経由した「塩の道」は徳善往還と呼ばれた。概ね現在の県道に近い経路を辿って撫川の地に入ったとのこと。すると、現在の県道が通じる峠は、かつて塩が運ばれた峠であったかもしれない。
 
<鳥越坂>
 文献(角川日本地名大辞典)によると、徳善往還は「鳥越坂」を越して奥地に通じていたとする。その鳥越坂と呼ばれる峠がどこか分からないが、舞川水域最奥の峠も、その一候補である。

   

<県道221号分岐>
 西の川水域をゆったり下って来ると、右鋭角に県道221号・奥西川岸本線が分岐する(地理院地図)。行先は「岸本」で、「国道55号」とも看板が示している。道は一旦、西の川の上流部沿いに出て(地理院地図)、記念坂(地理院地図)を越え、その後香宗川沿いに土佐湾岸に出る。

   
image

県道221号の分岐 (撮影 1997. 9.26)
ジムニーは県道51号の撫川方向に向く
ジムニーの奥を右に県道221号が分かれて行く

image

分岐に立つ看板 (撮影 1997. 9.26)
左は県道51号の続きを夜須道町羽尾へ
右は県道221号を岸本へ

   
   
   

県道221号(余談の余談)

   

 県道51号の舞川水域最奥の峠は撫川と奥西川との境だったので、峠道としては県道221号の方をこのまま下り、西の川沿いへと至るのが本来だ。
 
<県道221号沿い>
 県道221号は一転して北の西の川上流部へと下る。途中、展望が開ける箇所を通る(地理院地図)。

   
image

県道221号線沿いの様子 (撮影 1997. 9.26)
西の川沿いへと下る方向に見る

image

奥西川(乙)の奈良集落を望む (撮影 1997. 9.26)
左端に県道221号、右端に県道224号が通る

<奈良集落>
 下界を覗くと、西の川沿いに立地する奈良という集落付近が望めた。その一帯は旧香我美町にありながら、唯一物部川水系の西の川水域に属する。北に奈良峠、南に記念坂という2つの峠に挟まれた西の川源流部だ。 奈良集落では、記念坂を越える県道221号から西の川沿いに通じる県道224号・奈良香北線が分かれて行く。

   
image

西の川の谷の遠景 (撮影 1997. 9.26)
左奥へは記念坂
右手前は西の川上流部を越える奈良峠方面
右奥は西の川沿いに県道224号が下る

<林道畑山奥西川線の分岐>
 概ね「西の川」沿いまで下った所で林道畑山奥西川線が右の上流方向に分岐する(地理院地図)。これ以降は地形的には奈良峠の峠道と言える。県道は更に土佐湾岸沿いに通じる国道55号まで至るが、撫川から越えて来た峠道はここで一旦終了と言えるだろう。
 
 この分岐は林道畑山奥西川線の終点になる。安芸市側の畑山の起点から弓木隧道を越え、更に奈良峠を越えてここに至る。
 
 奈良峠には今回の弓木隧道を越える同じ林道畑山奥西川線が通じていて、やっぱり次回は奈良峠を掲載しようかと思う。
 (奈良峠 掲載 2025. 3. 6)

image

林道畑山奥西川線の分岐点 (撮影 1994. 5.23)
左手前がその林道
右奥が県道221号を県道51号方面へ
右は西の川沿いを県道が奈良集落へ

   
   
   

県道51号の続き(余談)

   

<夜須町羽尾へ>
 県道221号を分けた後の県道51号を、一応追ってみる。まず、西の川水域に入った次は、赤野川水系に入る(地理院地図)。地名は香南市夜須町(旧夜須町)羽尾(はお)に変わる。
 
<仲木屋林道の分岐>
 その分水界を越えた直後、仲木屋林道が分岐する。正式には林道畑山・仲木屋線というようで、この分岐が林道の終点となるようだ。
 
<長谷寺分岐>
 途中、長谷寺への分岐がある(地理院地図)。こんな山奥に寺があるのかと、驚かされる。
 
<夜須町国光>
 次にやっと土佐湾に直接注ぐ夜須川水系に入る(地理院地図)。最初は夜須町国光(くにみつ)の地を通る。
 
 県道51号はいろいろな水系・水域が絡み合い、峠道としてはどうにも理解し難い。ここまでの記述にも間違いがあるかもしれない。
 
<手結羽尾林道の分岐>
 直ぐに手結(てい)羽尾林道が分岐する(地理院地図)。今は林道城山・羽尾線となっているようだ。

   
image

手結羽尾林道の途中 (撮影 1994. 5.23)

<手結羽尾林道へ>
 手結羽尾林道は尾根上を進んで土佐湾に突き出た手結岬(地理院地図)付近へと至る。明るく開けた道だ。このまま県道51号を下って夜須川沿いの市街地を通るより面白そうなので、手結羽尾林道に入った。

   

<手結羽尾林道沿い(余談)>
 林道と言っても道は全線舗装で、途中に眺めがいい箇所が多かった。夜須川沿いの様子や、土佐湾を眺めた。面白い道だった。

image

手結羽尾林道からの眺め (撮影 1994. 5.23)
夜須川沿いの中野集落辺りを望む

   
image

手結羽尾林道からの眺め (撮影 1994. 5.23)

   
image

土佐湾岸を望む (撮影 1994. 5.23)
夜須川河口から雄物川河口付近が見えている

   
   
   

 最近は「弓木隧道」とネット検索すると、災害復旧の記事が出て来る。トンネルに土砂が堆積し、その前後の林道畑山奥西川線が通行止になっているようだ(2024年12月現在)。
 
 その近辺では迂回路はまず期待できない。偶然にも表題に「安芸川最奥の地を行く峠道」としたが、弓木隧道が越えられなくなると、最奥の畑山は行止りの地となってしまう。四国の片隅にあるほんの小さな峠道だが、是非とも復帰してもらいたいと思う、弓木隧道であった。

   
   
   

<走行日>
・1993. 5. 3 安芸市→弓木隧道→旧香我美町舞川→旧物部村大栃/ジムニーにて
・1994. 5.23 旧物部村大栃→旧香我美町舞川→奈良峠/ジムニーにて
・1997. 9.26 撫川→旧香我美町舞川→弓木隧道→安芸市→宝蔵峠/ジムニーにて
 
<参考資料>
・中国四国 2輪車 ツーリングマップ 1989年7月発行 昭文社
・ツーリングマップル 6 中国四国 1997年9月発行 昭文社
・マックスマップル 中国・四国道路地図 2011年2版13刷発行 昭文社
・角川日本地名大辞典 39 高知県 昭和61年 3月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・四国森林管理局のホームページ
・香南市のホームページ
・香美市のホームページ
・その他一般の道路地図、webサイト、観光パンフレットなど
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

<1997〜2024 Copyright 蓑上誠一>
   
   
   
峠と旅        峠リスト