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矢久峠
やきゅうとうげ   (峠と旅 No.208)
  上武山地を越える、また一つの峠道
  (初掲載 2013. 5.29  最終峠走行 2012. 9.13)
    
  
    
矢久峠 (撮影 2012. 9.13)
左手奥に進む道は高萩林道で
群馬県(多野郡)神流町(旧万場町)青梨へ下る
右手奥に進む道は西秩父林道で
埼玉県(秩父郡)小鹿野町藤倉矢久へ下る
手前に延びる道は西秩父林道を二子山方向(西)へ進む
峠の標高は800〜810m
(国土地理院の1/25,000地形図より読む)

  
  
上武山地の峠群
    
  この矢久峠も埼玉・群馬の県境を成す上武山地の山稜を越える峠の一つで、 つい最近掲載した太田部峠などと同じ仲間といってよいと思う。 東西に連なる上武山地の25km程の稜線上を、南北に越える峠道がいく筋か並んでいる。 主な峠を東の方から列記すると次のようになる。
 
・風早峠(かざはや)
・奈良尾峠(ならお)
・石間峠(いさま、城峯1号林道の峠)
太田部峠 (おおたぶ)
・土坂峠(つちさか、峠は土坂トンネル)
・矢久峠(やきゅう)
志賀坂峠 (しがさか、峠は志賀坂トンネル)
天丸峠 (てんまる、峠名は仮称、峠は天丸トンネル)
 
 天丸トンネルが最も西に位置する峠で、この峠より西には県境を越える車道はないようだ。 ただ、天丸トンネルは新しい林道の開削とともにできた峠らしく、トンネル開通以前、ここに峠はなかったと思われる。また、通行止も多い。
 
 これ以外の峠では、車道開通以前から峠が存在していたものが多い。土坂峠と志賀坂峠は、古くからある峠の下にトンネルが穿たれて車道が通じた。 また、太田部峠や矢久峠では、古い峠の近くを林道の峠が開通している。よってこれらの車道の峠は、正確には太田部峠とか矢久峠とは命名されていない。 しかし、便宜的に車道の峠も古くかある峠の名で呼んでしまっているようだ。

    
 上武山地にはまだ車道が通じていない峠も多い。 上州(群馬県)側の旧山中領(ほぼ上野村、旧中里村、旧万場町の範囲)には、武州との間に古くから8つの峠があったと文献にある。 それらは土坂峠、杉ノ峠、坂丸峠、矢久峠、魚尾道峠(よのおみち、よのうみち)、志賀坂峠、赤岩峠、雁掛峠だと思うのだが、 この内「杉ノ」、「坂丸」、「魚尾道」、「赤岩」、「雁掛」の5つの峠には車道が通じていない模様だ。
 
 天丸トンネルを除き、これら上武山地を越える多くの峠たちは、元々は地元民の生活路として開かれたのではないだろうか。 その為、峠の名前もその地域の地名が使われている場合が多い。 今回の矢久峠の名も、小鹿野町側の大字藤倉にある小さな集落の地名「矢久」から来ている。 志賀坂峠を通る国道299号は、埼玉県から群馬県、更にその先長野県までと続く別格の幹線路だが、それ以外はこじんまりした峠道ばかりである。 よって、峠道の味わいも、こじんまりとしたものとなる。
    
  そんな矢久峠を初めて越えたのは、比較的最近のことだと思っていたが、それでも今から10年程も前になる。去年(2012年)、久しぶりに訪れたので、そ の変化などを丹念に見ていきたい。
    
  
埼玉県側から峠を目指す
    
 上武山地を大雑把に見ると、北の群馬県側では利根川水系の神流川(かんながわ)が東流し、南の埼玉県側では荒川水系の赤平川(あかびらがわ)がやはり東流する。 赤平川の源流部には志賀坂峠が位置する。 一方、石間峠から矢久峠までの峠は、赤平川の支流・吉田川やそのまた支流の水源域にある。 これらの峠の内、最も西奥に位置する矢久峠が吉田川本流の源流部かと思ったら、土坂峠から流れ下る川にも「吉田川」と地図に書かれているではないか。
 
 峠道を考える場合、そこに流れる川に注目する。もし矢久峠が吉田川最奥の源流部とするなら、吉田川沿いの道は、ある意味、全て矢久峠の峠道ととれる。 土坂峠が源流なら、土坂峠の道から矢久峠の道が途中で枝分かれしていることになる。 だから、吉田川の「本家」が矢久か土坂か、それが問題なのだ。 確かなことは言えないが、矢久峠の方がやはり山奥にあるので、矢久峠が吉田川の「本家」、土坂峠は「分家」だと思っていた。

    

県道71号を土坂峠方向に見る (撮影 2007.11.10)
上吉田運動公園の近辺
ここではセンターラインがない
 赤平川から分かれた吉田川沿いには、まず県道(主要地方道)37号・皆野両神荒川線が通じ、 宮戸(みやど)の交差点からは県道(主要地方道)71号・高崎神流秩父線(旧吉田万場線)が吉田川沿いに土坂峠を目指す。 どちらが吉田川の本家か分らないが、少なくとも現在の車道の形態からは、 土坂峠の峠道である県道71号から矢久峠へ続く県道282号が分岐する形だ。
 
 県道71号は以前の吉田町(よしだまち)、現在の秩父市上吉田(かみよしだ)内を行く。 ほとんどがセンターラインがある片側二車線の道だが、一部にまだ少し狭い区間を残す。 土坂峠の群馬県側は旧万場町(まんばまち)で、以前は単純に「吉田万場線」との呼び名だったが、 途中から「高崎万場秩父線」、更に「高崎神流秩父線」と変わっていった。 群馬県の高崎まで延長され、また万場町が神流町(かんなまち)となっての変更らしい。 ただ、高崎までの間には、まだ未開通区間もあるようだ。
    
  
塚越の分岐
    
 途中、これといって目を引く看板もない県道に、県道分岐を示す道路看板や「吉田元気村」という案内看板などが出て来る。 それらの看板を過ぎると、左に県道282号が分岐する。 ここは塚越(つかごし)と呼ばれる信号機がある交差点だ。割と大きな合角ダムの案内看板も立っている。 道路地図に掲載された合角ダムの「合角」が、どう読むのか分らなかったのだが、この看板で「かっかく」と読むことを知ったのだった。

前方に看板 (撮影 2007.11.10)
    

塚越の分岐 (撮影 2003. 2. 1)
左に県道282号分岐

合角ダムの案内看板 (撮影 2003. 2. 1)
「合角」は「かっかく」と読む
湖底に沈んだ集落の名前
    

上とほぼ同じ場所 (撮影 2007.11.10)
 道路看板に示された県道282号の行き先には、「藤倉」(ふじくら)と「女 形」(おながた)とある。藤倉が県道の終点となる。
 
 県道方向には他に、「毘沙門水」、「子之権現」、「城峯山 キャンプ場」などと看板がある。
    

 分岐した県道は直ぐに川を渡る。これが問題の吉田川だ。土坂峠から流れ下って来た方の吉田川である。 これから進む県道282号線沿いの川も吉田川だと思うのだが。

県道282号の橋上より吉田川上流方向を望む (撮影 2003. 2. 1)
この川を遡った所に土坂峠はある
    
  
何度か訪れた塚越の分岐
    
  塚越の交差点は、土坂峠や矢久峠を訪れる時に通るが、それ以外にもここを通り過ぎることが何度かあった。 吉田元気村に寄ったり、合角ダムを訪れたり、 ちょっと離れているが、小鹿野町(おがのまち)の「みどりの村」というのがあり、 そこの宿泊施設「おがの山荘」に泊まった時なども、この辺りをうろうろしたのだった。
    

土坂峠を下って来た時の塚越の交差点 (撮影 2012. 9.12)

道路看板 (撮影 2012. 9.12)
行き先は藤倉と女形
    

塚越の交差点 (撮影 2012. 9.12)
土坂峠方向を背に見る
この右が県道282号

塚越の交差点 (撮影 2012. 9.12)
県道282号方向を見る
  

塚越の交差点 (撮影 2004. 2.15)
こちら側からも合角ダムの看板が見える

塚越の交差点 (撮影 2004. 2.15)
県道282号側から見る
人家が立ち並ぶ
    
  
県道282号を合角ダムへ
    
  塚越の交差点から入った県道282号は、センターラインもある良い道である。 この直ぐ先に合角ダムができ、それに伴ってこの付近の道はかなり付け替えられたようだ。
    
県道282号に入ったところ (撮影 2003. 2. 1)
峠方向に見る
この左手奥に合角ダムがある
    
  県道282号に入って200m程進むと、左に下る細い道がある。ダム下流の吉田川沿いに出る。そちらに入り、川を渡った右岸の高台に吉田元気村がある。 近くの川沿いには車が停められるスペースもあり、ちょっと休憩するのに良い場所だ。 ダムができる前の矢久峠の道は、多分その辺りを通っていたのだろう。
 
 県道を先に進むと左手に大きな合角ダムが現れる。道は坂を登ってダムの堰堤脇を通る。 堰堤付近に駐車場隣接の休憩所もあり、ダムやダム湖を眺められる。 湖の名前は「西秩父桃湖」と呼ぶらしい。
    

合角ダム (撮影 2003. 2. 1)

ダムと湖の石碑 (撮影 2003. 2. 1)
合角ダムと西秩父桃湖の記念碑が並ぶ
    
合角ダムの下流方向を望む (撮影 2003. 2. 1)
下を矢久峠から流れ下って来た方の吉田川が流れる
右の大きな建物が吉田元気村
川沿いに駐車場もある(写真手前)
奥に県道71号が横切る
左手の山沿いの道が県道282号
    
 合角ダムは比較的新しい。手持ちの1989年1月発行のツーリングマップに はまだダムの影も形もない。1997年3月発行のツーリングマップルには、「合角ダム建設中」とあるが、やはりダム湖はまだ描かれていない。代わりに小鹿 野町に「合 角」という 集落名が載っている。これがダムの名前の由来だろう。

西秩父桃湖 (撮影 2003. 2. 1)
ダム堰堤近くより上流方向に見る
    

合角ダム周辺案内板 (撮影 2003. 2. 1)
写真の左が地図の北
(上の画像をクリックすると地図の拡大画像が表示されます)
 ダム湖は複雑な形をしている。 元々あった吉田川がS字に大きく蛇行していたのと、それに支流の女形川がダム近くで合流しているからだ。 残念ながらダムができる前にこの地を訪れたことがなく、ダム湖に水が満たされる前の姿を知らない。 今は立派な橋やトンネルを使った良い道が湖の周辺に巡らされ、風光明媚な地となっている。 幹線路路の県道を外れてぼんやり走っていると、迷子になりそうだ。それも湖の形が複雑だからである。
    
  
倉尾橋・昭和トンネル以降
    
 県道はダムの管理所脇を過ぎ、赤い鉄骨の倉尾橋で女形川を渡り、直ぐに昭和トンネルをくぐる。 このトンネルは秩父市(旧吉田町)と小鹿野町との境になっている。 また、大きく蛇行するダム湖沿いをショートカットし、ダム湖の上流部へと出る近道でもある。 ダム湖ができる以前の古い道路地図にも、町境のここにトンネルがあり、川の蛇行をバイパスしていたようだ。
 
 昭和トンネルを抜けると、ここでもまだ大きく蛇行する湖の上流部が目に飛び込んでくる(下の写真)。なかなか壮観である。 ダム建設により道が良くなる前は、険しい川沿いに道が通っていたのだろう。

昭和トンネル (撮影 2012. 9.13)
合角ダム方向に見る(手前が峠方向)
トンネルのこちら側は小鹿野町、向こう側は秩父市
トンネル手前を右手に、ダム湖左岸沿いの道が分岐
    
大きく蛇行するダム湖の上流部 (撮影 2012. 9.13)
左手が下流、右手が上流
昭和トンネル近くより望む
この写真の右手に県道が通じる
    

ダム湖左岸沿いを行く (撮影 2012. 9.13)
 道はまた吉田川の左岸を行く。 幅の広い快適な道だが、暫く沿道に人家などは皆無で、味わいはない。右岸の岩崖を望む展望所がポツンとあったりするくらいだ。 観光道路の気分である。
    
  
日尾の集落
    
 それでも程なくして道沿いに人家が現れる。対岸にも一かたまりの集落が見え 出す。この付近は小鹿野町の日尾(ひお)と呼ばれる地区だ。

沿道の集落 (撮影 2012. 9.13)
    

道が狭まる (撮影 2012. 9.13)
ここからは昔の峠道
 塚越の分岐から集落付近までは快適な県道だったが、人家が途切れるとその先で道は極端に狭まる(左の写真)。 ここにきて道路改修の効力も遂に尽きたようだ。 ダム湖の影響もなくなり、側を流れる吉田川は細い流れとなっている。 道路改修はダム建設に伴うものと想像され、道が狭まってからは以前からあった峠道なのであろう。
    
  
杉ノ峠への分岐
    
 道が狭くなって間もなく、県道は左に急カーブする。 そこを直進方向に道が分岐している(右の写真)。その道は支流の長久保川沿いを北の県境方向に進む。 長久保川の源流は県境にそびえる父不見山(ててみずやま、ててみえずやま)周辺である。 また、父不見山の東の鞍部には杉ノ峠がある。
 
 杉ノ峠には車道は通じていないようだが、長久保川沿いに分岐した道は峠直下まで延びているようだ。 しかし、県道から覗き込む杉ノ峠への道は、あまり車では入り込みたくないような狭さだ。 それでも、この上流部には長久保などの集落があるらしい。

県道は左へカーブ (撮影 2012. 9.13)
直進方向に杉ノ峠への道が分岐
    

杉ノ峠分岐以降の県道 (撮影 2012. 9.13)
 本流の吉田川は、長久保川よりもう少し西へ、大きく蛇行しながら遡る。 その川に沿って細々と県道が続いている。沿道の人家は暫く途切れているが、のどかな雰囲気だ。
    
  
藤倉の地へ
    
 長久保川より西側は、藤倉(ふじくら)と呼ばれる地となる。 ここより県境の矢久峠までの範囲が全て小鹿野町大字藤倉である。
 
 文献によると、藤倉という地名にある「クラ」とは、岩、断崖、岩場の意で、「藤倉」とは「岩石がそばだったところ」、 「断崖に藤の生じていたところ」から起こったと解されるそうだ。 この先、峠に至るまでの間、何となく険しさを想像させられる地名である。
 
 間もなく藤倉に入って最初の集落が現れる。馬上(もうえ)の集落だと思う。 吉田川の対岸にも人家が点在し、藤倉の中では比較的多くの人が集まっている集落だ。

藤倉の最初の集落 (撮影 2012. 9.13)
右手に馬上のバス停
    

ポツンと「御手洗」の立て看板 (撮影 2012. 9.13)
 県道からは対岸に続く道が分岐し、大きなT字路を形成している。 T字路沿いには馬上のバス停が立ち、待合所のような場所も隣接する。ここは集落の中心地的な存在だ。 のどかな雰囲気である。私が子供の頃には、近くにもこのような場所があった。 まだ自家用車は少なく、交通手段としてはバスが多く利用されていた。 未舗装の砂利道も残っていて、夏の昼下がりなどには、バスを待つ間、むせ返る暑さに土の匂いがしていた。懐かしい記憶である。
 
 T字路の直ぐ先には「御手洗」と書かれた看板が左の建物を矢印で示している。その付近に交番もあるようだ。
    
 暫く進むとまた左手の吉田川を渡る道が分岐している(右の写真)。地図では その道の方に「秩父カタクリの里・毘沙門水」とやらがあるようだ。
 
 そこを過ぎると対岸に墓石が並んでいた。龍石寺という寺があるようだ。

左への分岐有り (撮影 2012. 9.13)
    
  
要トンネル
    

新要トンネル (撮影 2012. 9.13)
手前を左に入る道が旧道
吉田川対岸の建物は旧倉尾中学校
 馬上の人家が途切れた先で、真新しいトンネルが現れる。 「新要トンネル」とある。100m程のトンネルで、あっと言う間に通り過ぎてしまい、意識していないとトンネルをくぐったことも覚えていない。 その坑口手前を左に、吉田川を渡って林道が分岐する。長合沢線だ。地図を見る限りには、1Kmも行かずに行止りのようだ。
     
 長合沢林道の道に入って直ぐ右に、以前は倉尾中学校があった(右の写真)。 コンクリート製の大きな建物は体育館だったらしい。「中学校前」というバス停も立っていた。 倉尾中学は昭和22年の開校だそうだが、今はもうそこにはないようだ。 バス停の名も「要トンネル」に変わっているらしい。 尚、現在では住所地としての「倉尾」の名が見られないが、明治22年から昭和31年まであった村の名前で、藤倉は倉尾村の大字だった。
 
 その長合沢林道を分けた後、尚も吉田川の左岸を新要トンネルと平行に狭い道が続いている。 それが以前の県道である。その先に、旧要トンネルがある(下の写真)。

新要トンネルができる以前 (撮影 2003. 2. 1)
中学校前のバス停、林道長合沢線、倉尾中学校
    
旧要トンネル (撮影 2003. 2. 1)
手前に「徐行 (倉尾地区PTA)」の看板
    
 旧要トンネルは思わず立ち止りそうなトンネルだった。 吉田川に張り出した岩盤をくりぬいた僅か数10mのトンネルで、車を通すには非常に狭く感じた。それもまだ、ほんの10年前は現役だったのだ。
 
 トンネルの銘板を写真に収めて置いたが、何と書いてあるかよく分らない(右の写真)。 多分、「かなめとんえる」だと思うのだが、一部に変わった字体を使っている。 竣工日は「昭和弐拾壱年三月拾五日」(s21.3.15)とあるようだ。石工は上吉田村の出身となっている。 上吉田村は昭和31年に旧吉田町と合併し、新しい吉田町になっている。その新吉田町も現在は秩父市に組み入れられた。

旧要トンネルの銘板 (撮影 2003. 2. 1)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
    

旧要トンネルを出るところ (撮影 2003. 2. 1)
 今回(2013年9月)は、旧要トンネルのある旧道には寄らなかったが、まだその洞穴のようなトンネルは通れるのだろうか。 近くの中学校もなくなり、ここは寂しい場所となった。 新要トンネルは快適なので、もう気にも止まらずに通り過ぎる地点である。
    
  
池原、強矢、八谷
    
 馬上とは要トンネルで境を成し、今度は池原、強矢(すねや)、八谷(やがい)と集落が続く。 新要トンネル以降は道が改修されていて、池原の人家が並ぶ付近はセンターラインがある県道となる。 主要地方道71号から別れて、ほぼ峠までの中間地点である。

池原付近 (撮影 2012. 9.13)
    

強矢のバス停前 (撮影 2012. 9.13)

八谷付近 (撮影 2012. 9.13)
    

この先、道が狭まる (撮影 2012. 9.13)
 それにしても、強矢とか八谷など、読みが難しい地名が続く。確認するのに手間が掛かる。 西部バスのホームページが参考になった。バス停の読み方がしっかり掲載されていた。
 
 八谷の人家がもう直ぐ尽きようとする頃、道幅が狭くなる。丁度、拡幅工事を行っている様子だった。
 
 その先、吉田川の谷は狭まり、川沿いの狭くくねった舗装路が続く。
    
  
倉尾神社近辺
    
  県道から左に下る道に林道看板が出ている。 「茅ノ坂峠線」とある。その道は直ぐに吉田川を渡り、その先、左に藤倉集会所、右手に倉尾神社が見える。 何となく印象に残る場所で、以前来た時も何枚かの写真を撮っておいた。
    

左に林道分岐 (撮影 2012. 9.13)
入口に通行止を知らせる黄色い看板が立っている

左とほぼ同じ場所 (撮影 2003. 2. 1)
    

茅ノ坂峠線の林道標識が立つ (撮影 2012. 9.13)

左とほぼ同じ場所 (撮影 2003. 2. 1)
    
 以前の道路地図では、茅ノ坂峠林道はどこにも通じていなかったが、今では峠を越えて南の赤平川沿いを通る国道299号まで行けるようだ。 「峠」の字を使った林道となると、これは一度は走ってみたい。ただ、通行止の看板も出ていて、いつでも取れる道ではなさそうだ。

林道茅ノ坂峠線の林道標識 (撮影 2012. 9.13)
    
林道の分起点より八谷方向を振り返る (撮影 2003. 2. 1)
吉田川の狭い谷に、畑などが作られている
    
  倉尾神社は県道から分かれて少し奥まった所にある為か、県道沿いに「倉尾神社」と彫られた石柱が立っている。 また、倉尾神社には小鹿野町指定の文化財があるようで、それを示す標柱も少し離れて立っている。
    

林道分岐から先 (撮影 2012. 9.13)
左手に倉尾神社の石柱などが立つ

小鹿野町の文化財を示す標柱 (撮影 2003. 2. 1)
小鹿野町指定 無形民俗文化財
倉尾神社の長旗付き煙火
    

県道上より林道方向を見る (撮影 2012. 9.13)
正面が藤倉集会所、右手の林に隠れて倉尾神社
以前は橋を渡った所に鳥居があった

左とほぼ同じ場所 (撮影 2003. 2. 1)
県道沿いに倉尾神社と彫られた石柱が立つ
この時はまだ鳥居がある
    

吉田川の谷が狭まった区間を行く (撮影 2012. 9.13)
 倉尾神社への道を分けた後、県道は狭い林の中へと入って行く。 この付近は吉田川の谷が特に狭まっていて、何となく別世界への入口のような感じがする。暫し視界が利かない道を進む。
    
  
富田、大石津
    
 再び視界が広がり、別世界に出たかと思ったら、相変わらず吉田川左岸沿いの平凡な道が続いている。 センターラインが現れ、立派な県道である。先の狭小区間を境に、今度は富田集落の領域だ。県道沿いの右手に富田の人家が現れだす。

狭い区間を抜けたところ (撮影 2012. 9.13)
    

大石津のバス停付近 (撮影 2012. 9.13
 富田のバス停を過ぎると、次は大石津のバス停がある。 ここは大石津(おおしづ)の集落だ。こうして県道沿いにはポツリポツリと集落が現れる。 大石津付近では道はまた元の狭さに戻る。吉田川の谷も集落付近ではやや広さを取り戻すが、徐々に狭さを増してきている。 沿道に見られる家々も、谷の傾斜地に石積みの段差を築き、その上に建っている。
    
  
長沢
    
 西武バスの終点は長沢である。普通「ながさわ」と読むだろうが、 何となく胸騒ぎがするので念の為、西武バスのホームページを調べると、「ちょうざわ」と出ていた。地名とは恐るべし。
 
 長沢の集落では、人家が急傾斜地にも建っていて、いよいよ険しくなったと思わせる。 「クラ」の語源である「断崖」とか「岩場」が実感させられる。
 
 県道から分かれて吉田川を渡って行く道がいくつか分岐するが、この周辺の集落を繋ぐ道のようで、どこへとも抜けられないようだ。

長沢集落に入る (撮影 2012. 9.13)
    
  道は相変わらず吉田川に沿っているが、勾配が急になってきた。長沢集落の終りの方に長沢のバス停があり、その先にバスの折返し場が隣接する。 ここが西武バスの終点である。長沢の上流側にもまだ集落が点在するが、もう西武バスのホームページには頼ることはできないのであった。
 
 長沢バス停を過ぎた少し先に、道路の左手、少し奥まった所に、比較的大きなお堂があった。馬頭観音菩薩と書かれていた。ここで長沢集落は終わる。
    

長沢バス停 (撮影 2012. 9.13)
ここがバスの終点

バスの折返し場 (撮影 2012. 9.13)
西武観光バスの「バス専用折返し場」の看板が立つ
    
  
宮沢
    
 道は更に険しさを増していく。土石流注 意の看板も見掛ける。宮沢の集落を過ぎる。
    

宮沢集落に入る (撮影 2012. 9.13)
正面の建物は小鹿野町消防団の第4支団第2分団

右手に公衆便所の看板 (撮影 2012. 9.13)
この右手に上郷生活改善センターなるものあるようだが、
そこに公衆トイレがあるのだろうか?
    
  
坂丸峠への分岐点
    

右手に坂丸峠への分岐 (撮影 2012. 9.13)
 森戸と呼ばれる集落だと思うが、そこに右に分かれる道がある。 吉田川の支流・西沢沿いを遡り、坂丸峠方向へと延びる道だ。分岐の角に行先を示した案内看板が立ち、確かにその道を指して「坂丸峠」と書いてある。
 
 坂丸峠には車道は通じていないが、その直下を東西に走る林道がある。 手持ちの県別マップル(群馬県)では、森戸からその林道まで車道が通じていることになっていた。 その坂丸峠への道を覗くと、車ではちょっと尻込みしそうな細い道である。地図にはその道を少し行くと、福昌寺という寺があることになっている。 道の側には坂丸峠より流れ下って来た西沢の細い流れがあった。抜けられる道なら一度は走ってみたいが、今はまず矢久峠を目指すこととする。
    

分岐に立つ行先案内の看板 (撮影 2012. 9.13)
進行方向は「矢久峠」、手前は「長沢」
右の分岐方向に「坂丸峠」の文字
(この上に林道標識があった)

坂丸峠方向への道を見る (撮影 2012. 9.13)
道の右側に西沢の細い流れが下って来ている
    
<県道の終点、林道の起点>
 
 ところで、現地には明確な県道標識はなかったようだが、道路地図ではこの坂丸峠への道が分岐する地点が、県道藤倉吉田線の終点となっている。 後で写真を良く見てみると、行先案内の看板の上に林道看板があった。文字はかすれて判読できなかったが、多分「二子山線」とあったのではないだろうか。 県道に引継ぎ、ここより峠方向の道は、その林道である。
    
<吉田川と藤倉川>
 
 道の側には吉田川が目の前に流れている(右の写真)。そこへ支流の西沢が流れ込んでいる。 川幅は狭いが急流の為か、川底に幾段にも段差が設けられている。
 
 分岐から数m程行った左側に、木製の標柱があった(下の写真)。何の案内かと思ったら「藤倉川」と書いてある。 こうした河川名を記した標柱は、それ程頻繁にある訳ではない。わざわざこうして標柱を立てるからには、それなりに理由があるのだろう。 もしかしたら、これより下流は吉田川で、ここより上流は藤倉川と呼ぶのではないだろうか。藤倉川と西沢が合流し、以下は吉田川となるのでは。

吉田川を下流方向に見る (撮影 2012. 9.13)
直ぐそこで支流の西沢が流れ込んでいる
    

河川名を記した標柱 (撮影 2012. 9.13)

「藤倉川」とある (撮影 2012. 9.13)
吉田川の上流部は藤倉川と呼ぶのだろうか
    
  
矢久峠より流れ下って来る川
    

左に藤倉川を渡る分岐がある (撮影 2012. 9.13)
 森戸の集落を過ぎ、人家が途切れた藤倉川沿いを寂しい林道が続く。 すると、左手に川を渡って分岐がある(左の写真)。藤倉川右岸を長沢方向へと戻る道だ。 その沿線には、「太駄」とか「遠嶽」、「中平」といった集落名が地図上に見られる。 しかし、もう西武バスのホームページには頼れないので、読み方は不明である。
    
 吉田川の上流部・藤倉川の源流は、矢久峠より更に西に位置する二子山付近だ。 よって、矢久峠への峠道は、途中より本流の藤倉川沿いを離れて行く筈である。
 
 太駄集落などへの分岐の直ぐ先で、矢久峠より流れ下って来ている川が右手より藤倉川に注いでいる。そのか細い流れの川の名は地図には載っていない。 その川沿いを林の中へと歩道が続いていた(右の写真)。矢久峠の旧道かとも思った。 しかし、後で地形図を確認すると、そこよりもう少し藤倉川沿い下流から始まる点線が示されてあり、それが旧道らしかった。

矢久峠から流れ下って来る川 (撮影 2012. 9.13)
その右岸沿いに歩道が続いている
    
<林 道標識>
 車道の峠道の方はもう暫く藤倉川の左岸沿いを進む。比較的新しそうな林道標識が出て来た(下の写真)。 「二子山線」とある。確かに、このままずっと藤倉川沿いを行けば二子山方面だが、矢久峠へは途中で北の県境方向へと方向転換してしまう。 林道名としては、やや奇異な感じがする。
    

左手に林道標識 (撮影 2012. 9.13)

林道 二子山線 (撮影 2012. 9.13)
    

上の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2003. 2. 1)
林道標識の前に通行不能の看板
 初めて矢久峠を訪れたのは、2月初旬であった。 真冬の一番寒い時期である。果たしてこんな季節に寂しい矢久峠が越えられるかどうか疑問であった。 県道に引き続いて林道に入った頃から、沿道に雪が目立ち始める。二子山線の林道標識が立っていた所には、
この先積雪時には 通行不能 の場合があります
と看板が出ていた(左の写真)。きっぱり「通行不能」と言い切るのではなく、「の場合があります」と付け加えられているのだ。 通れるかどうかは、自分で判断するらしい。
    
  
藤倉川沿いを離れ、矢久集落へ
    

左手に未舗装路が分岐する (撮影 2012. 9.13)
 人家のない寂しい藤倉川沿いの道が尚も続く。そして左手に分岐が出て来る。 草が茂った未舗装路だ。その道は入って直ぐに藤倉川を渡り、右岸沿いを遡って行く。 道路地図を見る限り、車道は長くは続かず、途中から山道になっているようだ。
    
 その道を指して「二子山 (登山口)」と書かれた矢印看板が立木に打ち 付けられている(右の写真)。
 
 また、脇にはキロポストが立っていた。「1.0km」とある。森戸を林道起点とした距離を示しているらしかった。
 
 この分岐を過ぎると、矢久峠の道は藤倉川沿いを離れ、山腹をよじ登り始める。塚越からずっと一緒の吉田川及び藤倉川ともお別れである。

「二子山 (登山口)」とある (撮影 2012. 9.13)
脇にキロポストも立つ
    

ポツンと駐車車輌 (撮影 2012. 9.13)
近くに人家なし
 勾配が増した道の沿線に視界はほとんど広がらない。 この先、峠の名前ともなった矢久の集落がある筈である。しかし、作業小屋のような物しか見当たらない。路肩にポツンと車が置かれていた。 その脇から少し遠望が得られる。送電線が望めた。その送電線は坂丸峠近くの県境を越えている。
 
 それでも、僅かに人家らしき家屋が点在し始めた。車道から少し奥まった所に母屋を構える家もあった。墓石なども沿道に見掛けられる。
    

少し遠望があった (撮影 2012. 9.13)
送電線が見える

やや集落の雰囲気がしてきた (撮影 2012. 9.13)
    
 冬場に来た時は、路肩に雪が多いなりにも、矢久集落の人家がある付近までは路面上はしっかり除雪され、車での通行に不安はなかった(右の写真)。 冬枯れで木々の葉は少なく見通しが利き、晴天だったこともあり、かえってすがすがしい気分だった。

上の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2003. 2. 1)
矢久の集落付近
    
  
矢久集落以後
    

矢久の人家が途切れた頃 (撮影 2003. 2. 1)
 しかし、矢久の人家が途切れた頃から、アスファルト路面にもうっすら雪が積もりだした(左の写真)。 車が通ったわだちの跡が見て取れ、それが何となく救いであった。
 
 車道から右に分かれる山道が出てきた(下の写真)。カーブミラーに並び、矢印看板が立っている。 車道の進行方向に「矢久峠」、分岐する山道を差して「森戸」とある。 地形図などから類推すると、その山道は矢久峠から流れ下り藤倉川に注ぐ川沿いを下って行くようだ。 下の藤倉川沿いを通った時に見掛けた歩道と繋がっているのかもしれない。 矢久峠の旧道かとも思うのだが、国土地理院の1/25,000地形図には、もっと東よりに点線の道が描かれていて、やはりそちらが旧道の峠道らしかった。
    

右に森戸への分岐 (撮影 2012. 9.13)
矢久峠の旧道ではなさそう

分岐に立つ矢印看板 (撮影 2012. 9.13)
「矢久峠  森 戸」
    
 矢久峠への車道は、藤倉川支流の川沿いは避け、県境の稜線より南に張り出した尾根上を蛇行して登って行く。 木々に囲まれて視界は広がらないが、それ程暗い感じもない。森戸分岐までは右側にあった谷が、暫く進むと今度は左側に移る。 そしてまた右へと転じて行く。

森戸分岐以降の道 (撮影 2012. 9.13)
この時、谷は左側に来ている
    
  
林道西秩父線との接続点
    

前方に分岐 (撮影 2012. 9.13)
左が西秩父線を峠方向に
右は同じく西秩父線を土坂峠方向へ
 矢久峠の峠道は、そのまま単純には峠に到着しない。 峠より100mちょっと手前の所で林道西秩父線に接続する。そこは広い分岐点になっていて、僅かながらも景色が広がる。 道を確認する為にも一旦停止となる。
    

接続点より二子山線方向を見る (撮影 2012. 9.13)

左とほぼ同じ場所 (撮影 2003. 2. 1)
    
 接続点よりここまで登って来た道の方を見ると、左側に林道標識があり、「林道 二子山線」とある。 確かに森戸の集落からここまでは二子山線であったようだ。
 
 一方、接続点より東に向かう道には、大きな林道看板も立ち、西秩父線と呼ぶことが分かる(下の写真)。
 
 古いツーリングマップなどでは、矢久峠を越える車道はただの一本だけで、西秩父線などの林道は交差していなかった。 元々の峠道は単純に一筋の道だったようである。 後に、この西秩父線が開通して、峠道と交差した。正確には分からないが、東の土坂峠方面から県境の嶺の南側をほぼ東西方向に通じ、 西の二子山南麓を巻いて志賀坂峠の国道299号へと達している林道のようだ。

二子山線を見る (撮影 2012. 9.13)
林道標識が立っている
    

西秩父線を土坂峠方向に見る (撮影 2012. 9.13)

左とほぼ同じ場所 (撮影 2003. 2. 1)
奥に建屋が見える
友山工房というらしい
    

西秩父線の脇に立つ看板 (撮影 2012. 9.13)
「森林管理道 西秩父線」とある

西秩父線の林道看板 (撮影 2012. 9.13)
起点より12.224Kmとある
    

峠方向の道 (撮影 2012. 9.13)
これも西秩父線
 よって、この分岐点より峠に向かう道は、西秩父線の続きである。 元々は矢久峠の峠道として別の名前であった筈だ。
 
 こうした事情は太田部峠と似ている。古くは太田部峠林道が一本通っていた所に、上武秩父線が横断して開通した。 その為、元の峠道は太田部峠1号線と太田部峠2号線という名に分断されることになった。 そして太田部峠では、森林管理道とも呼ばれる上武秩父線が大きな顔をしている。
    

峠方向から見る分岐点の様子 (撮影 2012. 9.13)
左の道は西秩父線を土坂峠(東)方向に
右の道は二子山線を森戸集落へ
手前は西秩父線を峠へ

峠方向から見る分岐点の様子 (撮影 2012. 9.13)
   
林道の接続点より眺めた景色 (撮影 2003. 2. 1)
藤倉川の谷間を望んでいる
   

「林道 西秩父線(起点より12.224m)」の看板 (撮影 1996. 5.11)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
<土坂峠より> (追記 2015. 7.27)
 今回の矢久峠を最初に訪れたのは2003年のことだったかと思っていたら、 最近土坂峠を掲載した折り、何だか見覚えのある看板の写真が見付かった。 「林道 西秩父線(起点より12.224m)」とある。 これはと思い調べてみると、西秩父林道の起点となる土坂峠からジムニーで走って来ていたのだった。
 
 その後も西秩父林道を通って矢久峠を過ぎ、志賀坂峠方向に進むと途中で林道は行き止まった。 まだ当時は林道開削途中だったのだ。仕方なく矢久峠に引き返し、高萩林道で旧万場町へ下り、多分国道経由で志賀坂峠に向かったのだった。

   
   
旧道散策などに寄り道
    
友山工房
 西秩父林道への接続点より西秩父林道を土坂峠方向を見ると、少し登った所に何やら建屋が見える。こんな所にポツンと一軒、何の建物かと思う。 地図によってはと「友山工房」と記載しているものがある。最初に来た時には見通しが良く、青い屋根がはっきり見えていた。
 
 今回ちょっと寄り道してみると、ゲートが閉ざされ、建物もやや傷み、あまり使われている様子はなかった(右の写真)。 外見からは何の工房だか分らないが、人里離れたこの地で、一時の独居生活を楽しんでいたのだろうか。 雨樋から流れ落ちる雨水を溜める大きな黄色いタンクが目立っていた。

友山工房 (撮影 2012. 9.13)
    
<余談>
 新居の我家でもつい最近300リッターのタンクを購入し、カーポートに降る雨水などを溜めるように細工をした。 溜めた水は生垣の水遣りや庭仕事の後の手洗いに使っている。 何でもない住宅街の中の一戸建てだが、晴れれば庭で生垣造りの穴掘りなどをして泥だらけになり、また、雨が降ればタンクに溜まる水が楽しみで、 わざわざ雨の中、タンクの中をのぞきに外に出る。友山工房には遠く及ばないが、自宅でちょっとしたアウトドア気分である。 この頃、野宿旅はトンとご無沙汰あので、その内、庭にテントを張ってやろうと思っている。 現在、テントサイト作りを計画中だ。

    

旧峠入口付近 (撮影 2012. 9.13)
道の痕跡は見付からない(帰りに撮影)
この嶺を越える旧峠がどこかにある筈
<旧峠>
 友山工房の前の左カーブを曲がり、もう少し西秩父林道を先に進む。どこかに旧道の痕跡がないかと思ったのだ。 進行方向左手に連なる稜線を探したが、旧峠へと登る道の痕跡は、残念ながら見付からなかった。
 
 この状況も太田部峠に似ている。元々あった峠とは少し離れた所に車道が通じ、旧峠への道が掻き消されてしまった。 矢久峠の場合も、現在の車道の峠より北東に300m〜400mほど離れた所に旧峠があったようだ。 国土地理院の1/25,000地形図には、そこに点線で道が描かれている。 また、ツーリングマップルなどでは、その場所に矢久峠と記されていたりする。 尚、ツーリングマッルプでは標高が790mと併記されているが、それは誤記ではないだろうか。 地形図を読む限り、旧峠の標高は830mを少し上回る高さである。 また、県別マップル(群馬県版、2006年発行)には、間違って旧道の位置に車道まで描かれていた。 しかし、どこをどう探しても、人の踏み跡のようなものさえ発見できなかった。
    
<坂丸峠>
 尚、同じ県別マップルには、森戸の集落から西沢沿いを登り、坂丸峠直下でこの西秩父林道に接続する車道が描かれていた。 それを確認すべく、更に西秩父林道を東へ進むのであった。
 
 すると、まず左手の嶺に上る山道があり、「坂丸峠」と書かれた看板が出ていた(下の写真)。 矢久峠の旧道は失われたようだが、車道が通じなかったこちらの坂丸峠の道は、今も残っているようだ。
    

坂丸峠への登り口 (撮影 2012. 9.13)

登り口に立つ看板 (撮影 2012. 9.13)
    
  峠に登る道の少し先には、今度は谷側に坂丸峠の看板が立っていた(下の写真)。そこが森戸から続いて来た峠道だろうか。しかし、看板脇から下を覗き込んで も、人が歩く道さえ判然としない。勿論、車道など 影も形もない。
    

谷側に立つ坂丸峠の看板 (撮影 2012. 9.13)

谷を見下ろす (撮影 2012. 9.13)
    
  腑に落ちぬまま、更に車道を探して先に進む。しかし、狭く寂しい林道が果てしなく続くばかりで、目的の分岐は出て来ない。 道の両側からは草木が迫り、道幅は正に車一台分。待避所もほとんどなく、これで対向車が来たら一体どうしたらいいか分らない。 坂丸峠直下と森戸集落を繋ぐ車道はないものと諦め、早々に引き返したのだった。
    
  
峠へ
    

前方が峠 (撮影 2012. 9.13)
 二子山線が西秩父線に接続する地点に戻り、西秩父線の続きで峠に向かう。 距離は僅かに150m前後だ。峠への最後の登りである。右手に連なる埼玉・群馬の県境となる稜線上へ徐々に接近していく。 残念ながら木々に覆われて遠望はない。
    
  
    
矢久峠 (撮影 2012. 9.13)
埼玉県側から見る
左前方へと西秩父線が続く
右にヘアピンカーブで高萩線が群馬県側に下る
    
 冬期に訪れた時は、矢久峠はもっと広々とした峠だったような気がしていた (右の写真)。今回訪れてみると、峠の周囲は木々が生い茂って遠望がなく、単に3本の林道が交じり合う寂しい三叉路といった感じだ。 これは季節の違いだけでなく、約10年の月日が経ち、それなりに峠も変貌したことによるのだろう。
 
 峠は、埼玉県側から登って来た西秩父線が、ほぼそのまま稜線上を西へと更に延びている。 そこを右へのヘアピンカーブで群馬県側に下る峠道が分かれている。

矢久峠 (撮影 2003. 2. 1)
上の写真とほぼ同じ場所
    

峠より埼玉県側に下る道を見る (撮影 2012. 9.13)

左の写真の更に先 (撮影 2012. 9.13)
  
 矢久峠は埼玉県と群馬県の境に位置する。 埼玉県側は小鹿野町大字藤倉、群馬県側は、現在は神流町大字青梨(あおなし)、以前の万場町の大字青梨である。 県境であるのは間違いないとは思うが、県境を示す看板などはない。
 
 また、残念ながらここが矢久峠だと示す物も見当たらない。昔からあった本来の矢旧峠に対し、こちらは後から通じた車道の峠である。 そんな引け目もあろうか。あまり大っぴらに「矢久峠」と公言できないのが辛いところである。
    
<青梨子峠>
 県境に位置する峠ながら、峠の名前は峠の藤倉側にある小さな集落・矢久の名が付けられている。 江戸期から明治22年まで藤倉村と呼ぶ村が存在したが、 文献では、 「 村内の道は坂丸峠もしくは青梨子峠を越えて上野国(こうずけのくに)甘楽郡(かんらぐん)へ」通じていたとある。
 
 青梨子(あおなし)峠とは初耳である。文献の文面からは坂丸峠に並ぶ峠となり、この矢久峠を差しているように取れる。 矢久峠の群馬県(上野国)側は、江戸期から明治22年まで青梨子村と呼ぶ村であった。甘楽郡の山中領下山郷に属す。 そのことからも、青梨子峠とは矢久峠の別称ではなかったかと想像する。 峠の南側にある矢久集落の名を使うか、北側にある青梨子村の名を使うかの違いである。 藤倉村にしてみれば、青梨子村側に越える峠であり、矢久峠と呼ぶより青梨子峠と呼ぶのは、至極自然なことである。
  

峠より青梨に下る道を見る (撮影 2012. 9.13)
側に高萩線の青い林道看板が立つ
<林道高萩線>
 峠から群馬県側に下る道は林道高萩線と呼ぶようだ。峠に林道標識や林道看板が立っている。青い林道看板に示された行き先は「至万場町」とある。 以前は「終点」の文字も書かれていたが、今はどういう訳か消されている。代わりに西への矢印が増え、高萩線が延長されたかのように見える。 しかし、そちらは西秩父線の筈だが。
 
 矢久峠に関係するこの付近の林道名は複雑である。 国道などでは2本以上の国道が1本の道を共用する「併用区間」などというのがあるが、林道でもそうした場合があるのだろうか。 この矢久峠には幹線林道とも言える存在の西秩父線が通過し、一連のキロポストも立っている。 延長された高萩線は、一部でこの西秩父線と併用しているのだろうか。単に高萩線の看板が古いのかもしれないが。
    
峠から青梨に下る道を見る (撮影 2003. 2. 1)
この頃は群馬県側が開けていて、少し遠望もあった
峠には積雪があったが、これでどうにか群馬県側に下れそうである
    
   
峠の様子
    
 峠には、以前から林道高萩線の林道標識に並んで真っ赤に塗られたドラム缶が2、3個程並び、アクセントになっている。 防火水槽である。坂丸峠の上り口にも同じような物があった。 周辺の案内地図でもないかと探したが、側に立つ群馬県林業公社の看板(右の写真)をのぞいてみても、 そこに描かれた地図はあまり参考にならなかった。

以前からある群馬県林業公社の看板 (撮影 2012. 9.13)
地図はあまり参考にならない
    

峠より埼玉県側に下る道を見る (撮影 2003. 2. 1)
稜線の上に白い像が立っている
 峠より東に続く稜線上に、以前は白い像が立っているのが見えた。 観音像だろうか。今回は草木が生い茂り、あまり目立たない存在になっていた。 その観音像が立つ稜線上の先に、旧矢久峠がある筈である。 
   
 峠からは稜線上を西へ西秩父林道が続いている(右の写真)。 その道の右手上をちょっとのぞくと、草木に囲まれて小さな石造りの祠があった(下の写真)。 祠には赤い炎を背にした不動明王のような石像も居る。またその近くには石の小さな仏像も草に埋もれそうになりながら佇んでいた。
 
 白い観音像はまだ新しそうで、ここに車道が通じた時に建立されたものと思っていたが、こちらの祠や仏像は如何にも年代物という感じがする。 しかし、ここは古くからある矢久峠ではない筈だ。するとこの古そうな祠などの説明がつかない。 どこからか、例えば本来の矢久峠から移築したのだろうか。それにしてはあまりにも人目に付き難い場所にある。 県境の峰を切り崩して車道を通した為、峰上の側に取り残されたといった感じである。 車道が通じる以前、ここも一つの峠だったのだろうか。矢久峠には何度かの変遷があるのかもしれない。

峠より西秩父線を二子山方向に見る (撮影 2012. 9.13)
道の右手の林の中に祠などがあった
    

小さな石造りの祠 (撮影 2012. 9.13)
赤い炎を背にした不動明王のような石像が佇む

近くに小さな石仏も (撮影 2012. 9.13)
どちらも目立たない存在
   
<1996年の峠> (追記 2015. 7.27)
 以前は上武山地を越える峠道よりも、上武山地の中腹に通じる未舗装林道の方に関心があった。 西秩父林道を走った折り、この矢久峠も訪れていたが、そんなことは全く忘れていた。矢久峠の写真も2つ見付かった(下の写真)。19年前の峠の様子である。
 
 それにしても、2012年に訪れた時は西秩父林道を土坂峠方向に少し走ってみたが、何とも険しく感じた。 その林道を19年前はジムニーで事もなく走り抜けていたことになる。体力・気力ともに衰えを痛感するのであった。

   
「父不見山・坂丸峠」の看板 (撮影 1996. 5.11)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
林道 高萩線の看板など (撮影 1996. 5.11)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
   
 多分、峠から旧万場町方面の景色を撮ったらしい写真が一枚残る(下の写真)。 最近は峠周辺の木々が伸びて視界が広がらないが、やはり以前の矢久峠はもっと開けていたようだ。 下を流れる神流川付近まで見下ろすことができていたらしい。
   
多分、峠から旧万場町方面を望んだ写真 (撮影 1996. 5.11)
   
   
青梨に下る
    

道の右手に父不見山への登山道 (撮影 2012. 9.13)
 峠から高萩線で群馬県側に下る。直ぐに右手の稜線上に登る登山口がある。 「父不見山」と案内看板に出ている。稜線の上を東へと進むその登山道を行けば、途中で旧矢久峠や坂丸峠を通過する筈である。 時間と体力と根気があれば、歩いてそれらの峠を確認できる。しかし、どこかいま一つ乗り気にはなれない。 旧峠を調査しに来ている訳ではないのだ。旅を楽しむのが目的である。などと、体力の衰えを棚に上げ、体のいい言い訳をするのであった。 こうして旧矢久峠が本当にあるのかどうか、今もって謎のままである。
    
 道は右手に埼玉・群馬の県境の峰を見上げながら、穏やかに下って行く。 先の登山道以外に、矢久峠の旧道がないかと車内から目を凝らすが、道らしき跡さえも見付からない。 一部はコンクリートで固められた擁壁になっていて、これでは旧道があったとしても、跡形も残る訳がない。

峠直下の道 (撮影 2012. 9.13)
    

右手に山火事用心の看板 (撮影 2012. 9.13)

擁壁が連なる (撮影 2012. 9.13)
    

左にカーブ (撮影 2012. 9.13)
 峠から700m程も下ると、ヘアピンカーブを曲がり、その後は左手に峰を見 る。道は一転、西へと向かう。
    
 現在の車道の峠道が大きく蛇行するのに対し、昔の道はこの下を流れ下る平六沢川へと直線的に下っていたようだ。 車道はその旧道を再び横切る筈であるが、はっきりそれと分かる箇所はやはり見出せなかった。道は平六沢川の源頭部がある西へと下って行く。

左手が山、右手が谷 (撮影 2012. 9.13)
    
  
冬の頃
    
冬期の群馬県側の眺め (撮影 2003. 2. 1)
    

凍て付いた雪道を下る (撮影 2003. 2. 1)
 冬場に来た時は、群馬県の旧万場町側に下ると、時折遠望があった。 神流川を挟んだ北側に、御荷鉾山などの山々が連なっているのが望めた。 峠の北側で、路面の雪が多く、ゆっくり慎重な運転を心掛けての下り道であった。
    
  
高萩線の起点
    
 矢久峠に関わる林道は複雑だが、神流町に下って最初の疑問箇所が現れる。 道が平六沢川上流部に掛かる少し手前で、左手に分岐が出て来る。 そこには林道標識や案内看板も立つ(下の写真)。
    

左手に分岐 (撮影 2012. 9.13)

林道高萩線 起点の看板 (撮影 2012. 9.13)
    
 分岐に立つ林道標識は峠方向に見て「起点 林道 高萩線 管理者 神流町」とあり、 その脇に並ぶ案内看板には「至小野路町 矢久峠」とある(下の写真)。 高萩線の終点はどこだか分らないが、少なくともこの分岐を起点とし矢久峠に至っている林道であることは確かなようだ。 尚、分岐する道の行先は、どういう事情か分らないが、消された跡がある。
    

林道標識 (撮影 2012. 9.13)

案内看板 (撮影 2012. 9.13)
分岐する道については案内が消されている
    
 それでは、この分岐点より下に続く道は何なのか。 そのヒントが西へ分岐する方の道にあった。道の側に林道看板が立ち、「林道二子山線(起点より2.0K)」とある(下の写真)。 二子山線とは小鹿野町の森戸を起点としていた林道ではなかったのか。同じ名前の別の林道なのだろうか。 県が違うので、そんなこともあるのかも知れない。とにかく、こちらの二子山線は、下の方から登って来て、この分岐を経由し、更に西へと進んで行くらしい。 西方には二子山が位置し、林道の名前としてはふさわしい。
    

西へ分岐する道を見る (撮影 2012. 9.13)
側に二子山線の林道看板が立つ

林道看板 (撮影 2012. 9.13)
林道二子山線とある
    
  
二子山線に乗る
    
 高萩線の起点となる分岐より、今度は二子山線に乗って下る。 直ぐに峠方向に向いて工事看板が立っていた(下の写真)。この先6Km地点より全面通行止とある。 工事期間は8月23日〜11月30日で、今はその真っ只中だ。しかし、ここに至るまで工事箇所など全くなかった。 この看板は二子山線に関してのことなのだろうか。高萩線起点の分岐より西へ分かれた先で通行止なのかもしれない。 それにしても、こちら側から峠に登って行く時、この看板を見たら、矢久峠の道が通行止だと勘違いしそうだ。
    

工事看板 (撮影 2012. 9.13)

全面通行止とある (撮影 2012. 9.13)
    
 道は平六沢川の上流部を横切った後、左岸側の斜面を小刻みな九十九折りで 下っ て行く。川が流れ下る谷間に近くなった為か、視界が開けなくなっていった。

平六沢川上流部へと下る (撮影 2012. 9.13)
    

平六沢川の左岸を下る (撮影 2012. 9.13)

視界の利かない道になっていく (撮影 2012. 9.13)
    
  
二子山線の起点
    
 平六沢川左岸を下る中、何度目かの左カーブで、今後は右手に分岐がある。
    

分岐を峠方向に見る (撮影 2012. 9.13)
左に坂丸線?

分岐を峠方向に見る (撮影 2012. 9.13)
右に二子山線(峠方向)
    

分岐に立つ案内看板や林道標識 (撮影 2012. 9.13)
 その分岐点に峠方向を向いて立つ林道標識には、「起点 林道 二子山線」とあり、案内看板の行 先は「至小鹿野町 矢久峠」となっている。ここでも 分岐する方の道の行先は案内看板から消されていた。
    
 分岐する方の道には路上に看板が立て掛けられ、「全面通行止のお知らせ この先5.3Kmは 地すべり防止工事のため 通り抜 けできません」とある。
 
 以前来た時、この分岐の案内看板を写真に撮ってあった。それには分岐する道を指して、「林道 坂丸線 至土坂峠」とあった。なぜ、この文字が看板から 消されたか不明であるが、下から登って来て、この分岐より東の土坂峠方向へ進む道は、一応坂丸線ということにしておく。
 
 古いツーリングマップ(関東 2輪車 1989年1月発行 昭文社)には、矢久峠を越える道は、単純にただ一本描かれているだけだった。 その道を横切る西秩父線などの余計な林道は皆無であった。 ところが、ここまで辿って来たところによると、二子山線、西秩父線、高萩線、そしてまた二子山線、坂丸線と、 一つの峠道を走っているだけなのに、いくつもの林道名が現れては消えていった。なかなか複雑な状況になったものである。

分岐する道に立つ通行止の看板 (撮影 2012. 9.13)
    
  
坂丸線を下る
    

冬の頃 (撮影 2003. 2. 1)
 二子山線の起点となる分岐から下は、多分坂丸線だということで、その坂丸林 道を下る。冬場に来た時は、北斜面で日陰が多く、路面の雪も凍り付いていた(左の写真)。 こんな寂しく怖い道を一人で走っていると、本当に心細い限りである。もう歳も歳なので、こんなまねはできそうにない。
    
 ヘアピンカーブを2、3箇所曲がる付近から、沿道に人工物が目立ちだす(下の写真)。 この下にある青梨集落に関係した設備だと思う。水道とかガスなどのインフラだろう。
    

人工物が出て来る (撮影 2012. 9.13)

何かのタンクと配管 (撮影 2012. 9.13)
    
  道は平六沢川沿いから更に西の川(名前は不明)へと移って行く。 その途中は尾根を越えるので少し視界が広い(下の写真)。 神流川こそ見えないが、その川に沿う谷間の景色がもう随分と近付いてきた。
    
神流川流域方向の眺め (撮影 2012. 9.13)
     
   
青梨集落へ
    
 またひと時、林の中に入り、そして最後にその薄暗がりを抜けると、パッと広々とした場所に出る(下の写真)。 周囲の緩斜面には野菜などの畑が広がる。下の方には人家の屋根が並んでいる。その向こうには神流川左岸に連なる山並みが眼前に見渡せる。

最後の林を抜ける (撮影 2012. 9.13)
    
青梨の集落が見えてくる (撮影 2012. 9.13)
    
  冬の時期にここまで来た時は、ほっと胸を撫で下ろす思いであった。好きで峠めぐりをしているが、やはり雪の峠道は怖いのだ。 路面の雪もなくなり、前方に家並みが見えた時、これで無事に峠越えができたと思った。
    
上とほぼ同じ場所 (撮影 2003. 2. 1)
ここまで下ればもう安心
    

沿道に広がる畑 (撮影 2012. 9.13)
キャベツ畑だろうか

これより人家が並ぶ集落内に入る (撮影 2012. 9.13)
    
  
青梨の集落内を行く
    
  耕作地を過ぎると、道は青梨集落の人家が密集した箇所を通る。軒先を抜ける道は狭く、思いのほかクネクネ曲がっていた。 詳細な道路地図を見ると集落内に分岐も多く迷いそうだ。峠道ももう少しと言う所で、素直に終点には着けないかと心配させられた。 しかし、実際は本線さえ外さなければ何ら問題ない。
    

集落内の様子 (撮影 2012. 9.13)

集落内の様子 (撮影 2012. 9.13)
    
  青梨集落の元は、江戸期から明治22年まであった青梨子村だったようだが、ここには国境(くにさかい)論争があったそうだ。 元禄11年、幕府が国絵図を改めた時、青梨子村が属す山中領と武蔵国秩父郡の境が図示されなかった。 幕府は神流川の流路を境とする「川切り」を考えていたらしい。 しかし、山中領は古来「峰切り」が当該地の国境と主張、そのように幕府の裁可が下った。 これで矢久峠(または青梨子峠)も国境の峠となり、青梨子村は上野国と定まったようだ。
 
 明治22年に青梨の名は神川村の大字として存続し、大正15年に神川村に町制が施行されて万場町の大字となる。今は神流町の大字だ。 いろいろな変遷がある。
    

集落内の様子 (撮影 2012. 9.13)

集落内の様子 (撮影 2012. 9.13)
    
  
国道に出る
    
  ひと時、青梨集落ののどかな雰囲気を堪能すると、矢久峠の道も終焉が近い。前方に神流川沿いを走る幹線路・国道462号が現れて、道はそこで尽きる。
    

集落を抜けたところ (撮影 2012. 9.13)

前方が国道462号 (撮影 2012. 9.13)
    

坂丸線の林道標識 (撮影 2012. 9.13)
 国道に突き当たった左手に、やや古そうな林道標識が立っていた(左の写 真)。「林道 坂丸線 管理者 神流町」とある。こ こが坂丸線の起点らしい。
 
 ここで矢久峠の峠道を青梨側から辿ると、大体次のようになる。
・国道462号からの分岐=坂丸線の起点
    〜 坂丸線 〜
・二子山線の起点 (坂丸線は土坂峠方面へ)
    〜 二子山線 〜
・高萩線の起点 (二子山線は二子山方面へ)
    〜 高萩線 〜
・峠
    〜 西秩父線 〜
・西秩父線と二子山線の接続点 (西秩父線は東へ)
    〜 二子山線 〜
・二子山線起点=県道終点
    〜 県道282号・藤倉吉田線 〜
・県道71号からの分岐点(塚越)
 
 以上が正しいかどうか、あまり自信がないが、とにかく複雑であることだけは確かだ。
    
 林道標識とは反対側の角を見ると、いろいろ看板が立つ。これらが矢久峠入口 の目安になるだろう。美容室の看板が一番目に付く。また、「神流町  大字青梨」と現在地が表示され、また行先案内に「矢 久峠・小鹿野・秩父 方面」とある(下の写真)。特に「矢久峠」と書かれているのが嬉しい。しかし、繰り返すようだ が、車道の峠に「矢久峠」の文字は見当たらない。
 
 国道に出た左手直ぐに、ポツンと
日本中央バスのバス停が立つ。「青梨」と書かれたそのバス停を見て、これで矢久峠の探訪も終 りとする。

分岐に立つ看板 (撮影 2012. 9.13)
    

分岐に立つ看板 (撮影 2012. 9.13)
現在地と行先を示す

青梨のバス停 (撮影 2012. 9.13)
    
<余 談>
 初めて冬期の矢久峠を越えた日は、その後塩ノ沢峠を越え、最終的に新潟県の上越市まで走って泊まり、2日目は能登半島先端の禄剛崎に立った後、石川県の 輪島市に投宿、3日目には東京の自宅に舞い戻った。
10 年前のことだが、よくそんな元気があったものだ。つい最近、4泊5日の車の旅をしたが、新居がある山梨県の直ぐ隣の長野県のほんの一部と、岐阜県にちょ こっと入っただけ で帰って来た。それでもクタクタで、体調も崩してしまった。もう身体が言うことを利かない。
    
     
    
  矢久峠は県境に位置する峠と言えども、その近辺にある土坂峠や太田部峠など細々とした峠道の一つに過ぎない。峠の峰を挟んで小さな集落同士を繋ぐ、地味な 味わいである。それでも、10年程の月日を経て再訪 し、要トンネルや峠からの眺めなど、いろいろ変化を感じさせられた。それより何より、自分自身の身体の変化に驚く、矢久峠であった。
    
     
    
<走行日>
・1996. 5.11 土坂峠から西秩父林道で峠→旧万場 ジムニーにて
・2003. 2. 1 小鹿野町→旧万場町 キャミにて
・2012. 9.13 小鹿野町→神流町 パジェロ・ミニにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 10 群馬県 平成 3年 2月15日再発行 (初版 昭和63年 7月 8日) 角川書店
・角川日本地名大辞典 11 埼玉県 昭和55年 7月 8日発行 角川書店
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒ 資料
  
<1997〜2013 Copyright 蓑上誠一>
   
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