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山中峠
  やまなかたお  (峠と旅 No.275)
  大垰という名の集落に通じる峠道
  (掲載 2017. 4.22  最終峠走行 2016. 4.18)
   
   
   
山中峠 (撮影 2016. 4.18)
手前は山口県長門市渋木(しぶき)の山中(やまなか)集落
奥は同市渋木の大垰(おおとう)地区
道は県道268号・豊田三隅線
峠の標高は340m (マックスマップル 中国・四国道路地図より)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
特に何の変哲もない峠
同じ長門市渋木内にある山中集落と大垰集落の境でしかなく、看板類も皆無だ
それでもここは瀬戸内海側と日本海側を分かつ大分水界に位置する
 
 
 
   

<なかやまたお>
 「山中」という名の峠はままある峠で、もう古いことだが岐阜県の山中峠を掲載したことがある。 ただ、今回の山口県長門市にある山中峠は「やまなかたお」と発音する。「峠」を「たお」とか「だお」と読むのは、中国地方などの一部で見られることで、前回の大ヶ峠(おおがたお)のページでも少し触れた。
 
 煩雑なことに、山口県の中にはもう一つ美祢市(みねし、旧美東町)の県道28号上にも山中峠があり、こちらは「やまなかだお」と読むようだ。 地形図ではこれらの山中峠に振られたルビをわざわざ「たお」と「だお」とに書き分けているのだ。ただ、「たお」か「だお」かはそれ程厳密に区別することもないと思う。実際にも長門市の中山峠を「なかやまだお」としている資料を見掛けた。

   

<所在>
 峠は山口県長門市の渋木(しぶき)内にある。渋木は日本海に面した長門市にあっては随分南に張り出した位置にある。峠道はほぼ南北に通じ、峠の北側直下に山中という集落名が見え、南側には大垰(おおとう)という集落がある。峠はこれらの集落の境ということになるだろう。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<水系>
 峠は大きな行政区画の境ではないが、地形的には日本の本州を貫く大分水界上に位置する。
 
<深川川水系>
 峠の北側には大地川(おおじがわ)が流れ下り、本流の深川川(ふかわがわ)に注ぐ。深川川は深川湾で日本海に流れ出る深川川水系を構成している川だ。前回掲載した大ヶ峠も大地川上流部にあったが、山中峠の方がより深川川の源流部に近い。
 
<木屋川水系>
 一方、峠の南側には大垰川(おおとうがわ)が流れ下り、長門市から下関市に入って白根川(しろねがわ)と名を変え、豊田湖(とよたこ)に注ぐ。 豊田湖は木屋川(こやがわ)中流にある木屋川ダム(こやがわだむ)によって堰き止められた人造湖だ。木屋川は豊田湖より南流し、下関市小月で瀬戸内海の周防灘(すおうなだ)に注ぐ。
 
 山中峠は、このように広くは日本海側の深川川水系と瀬戸内海側の木屋川水系を分かつ大分水界上にある。 しかし、深川川の最上流部には荒ヶ峠(あらがたお)があり、木屋川の源流部には大笹峠(おおささだお)が通じる。よって山中峠は、狭くは大地川と白根川(大垰川)の分水界に位置する。

   

<垰(余談)>
 白根川の上流部を大垰川(おおとうがわ)と呼び、その川沿いに大垰(おおとう)という集落がある。地形図では「垰」の字を使っているが、道路地図や看板などによっては「峠」で代用している場合もあるようだ。
 
 「峠」も「垰」もどちらも国字で、峠は「とうげ」、垰は「たお」と読むのが一般的と思う。峠は道を登って下り始める頂点、垰は峰の稜線が窪んだいわゆる鞍部(あんぶ)を意味するようだ。 峠と垰では同じ地点を指すが、見る方向が異なっていることになる。尚、「たお」では「田尾」の字を当てる場合も見掛ける。大垰の場合の「とう」は「たお」の転訛であろうか。
 
 鞍部を意味する語として他に「たわ」がある。「たわむ」という言葉と関係するようだ。乢(たわ)や「タワ」などと記す。峠名にこの「たわ」を使うこともあり、鳥ヶ乢(とりがたわ)がその一例だろう。また、仮称ヤマビコ峠で掲載した峠は「大ダワ」とも呼ばれる。大多和峠の「多和」(たわ)も同じ意味を含むのかもしれない。また「たるみ」というのもあった。大垂水(おおだるみ)峠とか大弛峠などだ。
 
 峠と垰では本来意味が違うのだろうが、あまり一般的でない「垰」の代わりによく知られた「峠」の字で代用することが多いようだ。 その場合、「峠」も「たお」、「だお」、「たわ」、「だわ」、「たう」、「とう」などと発音される。峠を指す言葉として少数派ながら、峠の成り立ちなどにも関係するのではないかと想像する。

   
   
   
豊田湖より峠へ 
   

豊田町の観光案内の看板 (撮影 2016. 4.18)
豊田湖畔公園に立つ
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<豊田町>
 山中峠は長門市にあるが、南に下ると間もなく下関市に入る。よって広くは長門市と下関市を繋ぐ峠道である。ただ、現在の下関市ではあまりにも広い。 豊浦郡(とようらぐん)の旧豊田町(とよたちょう)といった方が分かり易い。豊田町は昭和29年に西市町・豊田中村・殿居村・豊田下村が合併して成立している。
 
<豊田湖>
 同じ年、県営の木屋川ダムが完成し、豊田湖が出現した。現在、豊田湖畔公園という広い施設ができている。 旅の途中、スーパーで食料を調達した後、その公園で湖でも眺めながら昼食を摂ろう向かう。 ところが、キャンプ場などの有料施設が多いようで、入口近くのそっけない駐車場に車を停め、車中で食事をすることとなった。湖など全く見えない。

   

 豊田湖畔公園にあった豊田町の観光案内の看板には、「ホタルといで湯の里」と題してあった。これから向かう山中峠は豊田町の中でも最も東の方に位置する。途中に石柱渓(せきちゅうけい)という観光名所があることになっている。

   

豊田湖畔公園の駐車場 (撮影 2016. 4.18)
片隅にトイレがあるだけ
ここで昼食

駐車場脇に立つ公園の案内図 (撮影 2016. 4.18)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<白根川沿いへ>
 豊田湖東岸を行く県道34号(主要地方道)・下関長門線を北上すると、豊田湖へ注ぐ白根川(しろねがわ)を渡る。多分、荒川橋という。車道とは別に歩道用の橋が架かっている。橋の袂に例の「石柱渓 3.0Km」の看板が立つ。橋の上からやっと豊田湖が望めた。


白根川を渡る (撮影 2016. 4.18)
   
荒川橋より豊田湖を望む (撮影 2016. 4.18)
   

<県道38号分岐>
 白根川を渡ると右に白根川沿いを遡る道が分かれる。道路看板には直進方向に「長門 24Km」、右折方向に「美祢 19Km」とある。また右折方向に「石柱渓 2.5km」とか「台ヶ原サイホン 」などと案内されている。

   

右に県道38号分岐 (撮影 2016. 4.18)

石柱渓などの案内看板が立つ (撮影 2016. 4.18)
右端には「台ヶ原サイホン」とある
   

県道標識 (撮影 2016. 4.18)

<白根川右岸沿い>
 白根川沿いの道に曲がる。直ぐに県道j標識が立ち、「県道 38 山口 美祢油谷線 下関市豊田町下台」とある。 美祢油谷線は美祢市(みねし)と長門市油谷(ゆや、旧油谷町)を結び、現在は主要地方道となっている。一旦は山中峠方面へと進むが、峠の少し手前で峠道をそれ、美祢市へと移って行く。

   
   
   
今出へ
   

<今出>
 道は白根川の狭い谷に沿い、一部にセンターラインがある2車線幅の区間も見られるが、全般的には1.5車線の細い道だ。白根川を500m余り遡ると、豊田町の大字今出(いまで)に入る。 今出はこの白根川と北に流れる今出川との中上流域に広がる地になる。地名の由来は今出という名の武士がここに住んでいたことから起こったという。
 
 江戸期から今出村があった。 明治22年に今出村の他、矢田村・殿敷村・地吉村・西市町・庭田村・大河内村・楢原村の8町村が合併して豊田奥村(とよたおくそん)が成立、今出は豊田奥村の大字となった。その後、明治32年に西市村、大正13年に西市町、昭和29年に豊田町の大字となって行く。
 
 大字今出の行政区は台と今出の2区に分かれるとのこと。概ね白根川沿いが台地区、今出川沿いが今出地区になるものと思う。台地区は更に上流側から久下、上台、中台、下台に分かれ、今出地区はやはり上流側から夕ヶ峠、三歩一、伊藤田に分かれるとのこと。
 
<下台>
 県道38号に入って最初の人家が見えて来る。下台の集落だと思う。下台付近は豊田湖の影響でまだ水面が高く、車道も高みに通じる。道路脇ぎりぎりに人家が立ち、付近に耕地などの平坦地はほとんど見られない。

   
下台の人家が見えて来る (撮影 2016. 4.18)
   

<下台バス停付近>
 下台の人家は川に沿ってポツンポツンと点在する。途中、「下台」というバス停を見掛けたが、その付近には人家が比較的多く集まり、下台の中心地かと思われた。 ただ、バス停の時刻表部分は酷く錆びて、どう見ても使われていそうにない。一般的な路線バスはもう運行されていないようだ。既に住民がいなくなった家屋も見られ、寂れた感じは否めない。


右手に「下台」のバス停が立つ (撮影 2016. 4.18)
   

集落内を行く (撮影 2016. 4.18)

<田畑が広がる>
 それでも白根川沿いを1.4km程も遡ると、谷間は広くなり、田畑も見られるようになる。人家の数も多く、豊かな土地となる。
 
<中台へ>
 道は下台から中台へと移動している筈だが、人家の点在は途切れることがなく、境目はよく分からない。途中、河内神社の鳥居の前を過ぎるが、ここは中台的場にあり、既に中台に入っていることになる。台地区の中ではこの中台が最も人家が多いそうだ。 

   

左手に河内神社の鳥居 (撮影 2016. 4.18)
周辺に田畑が広がる

「美祢」の看板 (撮影 2016. 4.18)
   

 谷は広くなったが、路面にはもうセンターラインが出て来なくなった。白根川はもう渓谷の様相は微塵もなく、車道からも川面が近い。途中、護岸工事を行っている様子だった。しかし、交通量は少なく、のんびりした道が続く。
 
<県道268号の分岐>
 中台の集落を過ぎると、谷は一旦狭まる。すると、右手に分岐が出て来る(下の写真)。


工事個所 (撮影 2016. 4.18)
中台付近
   
右手に分岐 (撮影 2016. 4.18)
   

分岐の道路看板 (撮影 2016. 4.18)

<分岐の様子>
 道路看板には直進方向に「長門」、右折方向に「田代」とある。この分岐より直進が県道268号・豊田三隅線で、この先長門市に入り山中峠を越えて行く。一方、右折が県道32号の続きとなる。工事看板が立っていたが、工事箇所は県道32号の方にあるようだった。

   

 右に曲がって白根川を渡る県道32号の方が本線ではあるが、一見して寂しい道だ。


分岐の様子 (撮影 2016. 4.18)
角に鳥獣保護区の看板が立つ
   

鳥獣保護区の看板 (撮影 2016. 4.18)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<鳥獣保護区の看板>
 分岐の角に「豊田湖鳥獣保護区区域図」と書かれた看板が立つ。県道32号には美祢油谷線、県道268号には豊田三隅線とある。また、県道美祢油谷線沿いに「石柱渓」(せきちゅうけい)と出ている。
 
<とうとう川>
 文献(角川日本地名大辞典)によると、石柱渓は白根川上流部の支流・とうとう川にある渓谷としている。ドウドウ川ともしている。大洲田川ともあったが、その川は地形図では下台よりも下流に注ぐ支流であり、誤植だろう。ここでは石柱渓のある川をとうとう川と呼んでおく。

   
   
   
県道32号を美祢市へ(寄道) 
   

<石柱渓探し>
 山中峠ではこれと言って期待することがない。越え応えのある険しい峠道ではないのだ。そこで、せめてその石柱渓とやらに寄ってみようと思う。分岐には何の案内看板もないが、県道38号沿いにあるものと思う。道路地図でも県道38号の脇に「石柱渓」と出ている。
 
<県道38号を行く>
 白根川を渡ると直ぐに県道標識が立つ。「豊田町上台」とあり、既に上台に入っていたことが分かった、その前に新しそうに「下関市」という文字が付け加えられている。 最近になって豊田町が下関市の一部になったことが分かる。県道標識の直ぐ後ろから、とうとう川左岸沿いに工事用の砂利道が始まっていた。


県道32号を進む (撮影 2016. 4.18)
まずは白根川を渡る
   

県道標識 (撮影 2016. 4.18)
その先で左に工事用の道が分かれる

県道標識 (撮影 2016. 4.18)
ここは「上台」
「下関市」は新しい
   

下関市と美祢市の境 (撮影 2016. 4.18)
一見、峠に見える

<県道38号の市境>
 一方、県道38号の方はとうとう川左岸の高みに通じ、道の左手は深い渓谷になっている。どこかに石柱渓への入口がないかと探すが、谷に下る道など全くない。
 
 その内、下関市と美祢市との境に着いてしまった。道は市境をピークに下り始める。その先に「美祢市」の看板が立ち、長門市側に比べて穏やかな道が続いて行く。
 
<峠と勘違い>
 ここは如何にも峠らしい感じだ。実際に、これまで名前の分からない峠だと思っていた。しかし、今回じっくり調べてみると、市境前後で水域が変わっていない。 石柱渓のあるとうとう川がそのまま美祢市側まで遡っているのだ。ただ、峠の定義はあいまいで、この場所が絶対峠ではないとも断定できないが。

   
市境より美祢市側の様子 (撮影 2016. 4.18)
「美祢市」の看板が立つ
   

<美祢市側>
 市境付近にUターンする適当な場所もなく、そのまま美祢市側に下る。そこは美祢市於福町上(おふくちょいうかみ)で、大ヶ峠の南側の地として大ヶ峠のページでも触れている。 市境から300mも下ると水田などが広がる平坦地となり、人家もポツポツ見られる。まるで峠を麓に降り立ったように錯覚させられた。
 
 木屋川水系の白根川(その支流とうとう川)上流域にあるこの地は、於福町上の上田代となるようだ。その南側に位置する下田代と合わせて田代地区と呼ばれる。 於福町上、更に広く美祢市全域は厚狭川(あさがわ)水系にあるものと思い込んでいた。下田代も厚狭川支流・麦川川の上流部にある。ところが、どうやら上田代だけは特別な存在で、ここだけ木屋川水系であった。
 
 この県道38号の峠の様な場所は、1997年5月2日に美祢市から旧豊田町へと越えたことがある。しかし、何の記録も記憶も残ってない。峠かどうかなどと詮索することもなく、石柱峡の存在も知らなかった。 


美祢市側より市境を見る (撮影 2016. 4.18)
「長門市」と看板が立つ
   
県道38号を美祢市側に下って来たところ (撮影 2016. 4.18)
直ぐにも上田代の人家が見える
   

「→石柱渓」と看板が立つ (撮影 2016. 4.18)
青看板には、右へ長門19km、左へ豊田11kmとある

<県道268号へ戻る>
 上田代の集落を見て引き返し。帰り道の途中も必死に石柱渓を探すが、やはり見付からない。石柱渓がどのようなものか全く知らないので、一般観光客には近付き難い険しい所にあるのかと思ったりした。
 
 ところが、県道268号の分岐点の直前まで戻って来ると、左方向に「木屋川ダム 3.2km・豊田湖畔公園 7.1km」、右方向に「石柱渓 0.3km」としっかり出ている。 豊田湖方面から来ると、県道38号などへ曲がることなく、そのまま県道268号へと直進すれば良かったのだ。 石柱渓は県道38号に沿っているので、県道38号に行かなければという先入観があった。それにしても、豊田方面から来た時の案内看板も立ててあると良かったのにと思う。

   

<下関市生活バス(余談)>
 県道268号の分岐点まで、丁度前方を1台のマイクロバスが通り掛かった。ボディーに「下関市生活バス」とある。「予約制」とも書かれていたようだ。 最近の道路地図では、豊田湖畔沿いの県道38号分岐に「石柱渓口」、白根川沿いに「台自治会」、今出川沿いに「今出自治会」というバス停が見られる。確かに石柱渓口バス停はあったが、台自治会バス停の方は見覚えがない。
 
 文献では「石柱渓まではサンデン交通バスが1日2往復する」とあるが、その定期路線バスはもう廃止されたようだ。 今はこうして非定期ながらもバスの運行がある。今出川沿いと白根川沿いは上流部で道が繋がっていて、バスは今出地区と台地区を周遊して走るようだ。


「下関市生活バス」が通り掛かる (撮影 2016. 4.18)
県道268号の分岐に戻って来たところ
バスは豊田湖畔方面へと走り去って行った
   
   
   
石柱渓付近 
   

<県道268号へ>
 分岐より県道268号・豊田三隅線を進む。県道標識には「豊田町上台」とあり、直ぐにその上台集落の人家が出て来る。沿道には商店らしき建物も見られる。
 
 すると、建物とは反対側の川沿いに「石柱渓」と書かれた大きな看板が立っていた。その脇から遊歩道が下る。そこが石柱渓への入口らしかった。


左手に品谷商店 (撮影 2016. 4.18)
右手に石柱渓の看板が立つ
   

分岐の角に駐車場の案内看板が立つ (撮影 2016. 4.18)
左の道は夕ヶ峠へ

<駐車場>
 車をどうしようかと思っていると、ちょっと先に看板が立ち、30m先に専用の駐車場があると示されていた。
 
 尚、駐車場の案内看板が立つ所から県道と分かれ、北へと向かう細い道が始まっていた。地図上では今出川沿いの夕ヶ峠という集落へと繋がっている。台地区と今出地区を周遊する下関市生活バスは、その道を使うのかもしれない。

   

右手に駐車場 (撮影 2016. 4.18)
先客が1台

<石柱渓探訪(余談)>
 結局、石柱渓の看板から40m程離れて川岸に駐車区画が設けられていた。無料である。5台分の白線が引かれていたが、白線通りに停めると出し入れが難しい。1台の先客は、やや大型のワンボックスということもあり、白線を外して停められていた。こちらもそれに倣う。

   

石柱渓の看板を豊田湖方面に見る (撮影 2016. 4.18)
看板脇より歩道が下る

看板脇より石柱渓へと進む (撮影 2016. 4.18)
妻が先行する
   

<石柱渓へ>
 県道沿いに立つ看板近くには公衆トイレもあり、いろいろな道標なども並ぶ。少し古いがなかなかしっかりした観光地の様相だ。反対側に立つ商店も、観光客相手だったのかもしれない。かつては豊田町市街とこの石柱渓とを結んだ路線バスが、多くの観光客を運んで来ていたのだろう。
 
 看板脇から始まる遊歩道はまず白根川を左岸へと渡り、更に進んで石柱渓となる支流のとうとう川右岸沿いを遡る。とうとう川沿いの入口に、記念碑となる石柱などが立ち並ぶ。


石碑などが立つ (撮影 2016. 4.18)
   

石柱渓の看板 (撮影 2016. 4.18)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<案内看板>
 石柱渓は国名勝および天然記念物となっている。大きな石柱には史跡名勝天然記念物保存法により大正15年10月20日に指定された旨が刻まれていた。大正15年は昭和元年でもあり、西暦で1926年のこととなる。なかなかに古い。
 
 案合図もあるのだが、所用時間はどの程度かかるかが分からない。とにかく歩き出す。

   

天然記念物の看板 (撮影 2016. 4.18)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

あんない図 (撮影 2016. 4.18)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<石柱渓の様子>
 暫くは川岸の高みに歩道が通じる。下を覗くと、河川工事を行っていた。砂防ダムでも建設しているようだった。県道38号から左岸沿いに通じる作業道は、この工事の為の道だったらしい。
 
 始めこそ舗装されて立派な遊歩道であったが、進むにつれて様子がおかしくなった。アップダウンの激しい細い道である。それでもやっと川沿いになると、渓流に幾段もの小さな滝が連なった様子は、すがすがしさが感じられた。


砂防ダム工事らしい (撮影 2016. 4.18)
   
思想の滝 (撮影 2016. 4.18)
奥は五竜の滝
   

 石柱渓はちょっとした渓谷となるだけあって、川岸を伝う道は険しさを増すばかりだ。急な階段が出て来て、時に路肩が崩れ、時に道に土砂が流れ込んで傾いている。
 
 すると、前方より5、6人の集団客が引き返して来た。年配の方が多い。道が狭いのでこちらが脇に退避し、道を譲る。老人ということもあり、すれ違いにとても時間が掛かった。最後の方に、どこまで行けばいいのでしょうかと聞いてみたが、道が悪く足腰が衰えた者も居るので、途中で引き返して来たとのこと。

   
急な登り (撮影 2016. 4.18)
「足元注意」の看板
   

 何の目標もなるズルズルと先に進む。足を滑らせて川底に落ちれば、ちょっとした怪我では済まされないような箇所もある。これはもう登山道に近い。夫婦でお互いに気を付けるよう声を掛けて歩く。

   

おしどり観音? (撮影 2016. 4.18)

おしどり観音の看板 (撮影 2016. 4.18)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<おしどり観音>
 おしどり観音の由来を書いた看板が立つ所に達した。矢印が指す方向を見ても、幾つか小さな石碑らしい物があるが、どれがおしどり観音であるかよく分からなかった。建立は昭和43年でそれなりの月日が経っている。

   
滑り落ちそうな道 (撮影 2016. 4.18)
戻り方向に見る
   

石柱 (撮影 2016. 4.18)
五角形?、六角形?

<石柱>
 もう暫く進む。この先には休憩所もあることになっているが、道は険しく、草木につかまって歩かなければならない場所もある。まだ半分くらいしか来てないが、これでは危険で切がないということで、引き返すこととした。
 
 ところで、石柱渓の由来となる「石柱」はどこにあるのだろうかと夫婦で疑問に思っていた。案内看板は写真に写すが、その場で中身を読むことはあまりない。 きっと大きな見上げるように高い一本の石柱がどこかに立っているのだろうと思っていたのだ。しかし、帰りの道すがらちょっと考えてみると、柱状節理のことかもしれないと思い当たった。 注意して歩道脇の崖を見ていると、確かに直径30cm前後の石柱が並んで立っている所が何箇所かあった。 ツーリングマップルでは五角形と言い、看板では「横径15cm〜70cmで、四角ないし六角形を呈し」と出ていたようだ。我々が見たのはほぼ五角形で、細かく見ると六角形に見えなくもなかった。

   

 林の中から抜け出てやっと石碑のある箇所まで戻ると、丁度次の観光客がやって来た。中年の夫婦連れのようだった。道がちょっと険しいとだけ告げた。 女性の方はやや不安そうだが、男性の方はズンズン進んで行く。その跡を追うように歩き出す女性を見送って、我々は車へと戻った。
 
 石柱渓は文献でも紹介されていて、旧豊田町屈指の観光名所のようである。一時は賑わったこともあるのだろうが、現在はやや廃れた感じは否めない。 豊田湖畔公園などが整備され、もっと便利で楽しめる行楽が増えた。そこへいくと石柱渓はやや地味である。しかし、大正期の観光地は平成の今も、ポツリポツリとではあるが観光客が訪れている。


石柱渓から戻る (撮影 2016. 4.18)
石碑や看板が立つ所
   
   
   
上台以降 
   

この先で白根川の左岸へ渡る (撮影 2016. 4.18)
その付近に上台集落の人家が集まる

<上台集落内>
 道は上台集落内を行く。間もなく白根川を渡って左岸へと移る。その付近に人家がやや集まるが、全般的に道沿いに家屋は少ない。この付近にまで遡ると、中台の様な白根川沿いに広がる耕地もあまり見られない。

   

<久下>
 白根川左岸沿いの寂しい道を暫く行くと、また人家が出て来る。多分、久下の集落ではないかと思う。家屋の前の道路脇に、古い大きな土管が一本置かれていたのが目に付いた。(後で考えてみると、台ヶ原サイホンの渡樋などに使われる構造物の一部ではないかと思った)

   

久下集落に差し掛かる (撮影 2016. 4.18)

道路脇に大きな土管が横たわる (撮影 2016. 4.18)
   

台ヶ原サイホンの看板 (撮影 2016. 4.18)

<台ヶ原サイホン>
 すると、その反対側に古い橋のような物が川を渡っていた。「台ヶ原サイホン 豊田田園空間整備事業」と看板があった。

   
白根川を渡る渡樋 (撮影 2016. 4.18)
   

<駐車場>
 これまでもこの台ヶ原(だいがはら)サイホンに関しては案内看板があったようだが、全く意識していなかった。車を徐行させながらもそのまま通り過ぎようかと思っていると、右手に駐車場がある。そこまでしてくれるならと、立ち寄ることとした。


右手に駐車場 (撮影 2016. 4.18)
   

渡樋の反対側 (撮影 2016. 4.18)
土管の口のような物が露出している
初期の渡樋はもう使われていないようだ

美祢市側にある貯水池方面を見る (撮影 2016. 4.18)
この峰の中に管が埋設されているのだろう
   

台ヶ原サイホンの看板 (撮影 2016. 4.18)
駐車場の隅に立つ

<台ヶ原サイホンとは>
 駐車場の一角に写真や説明文が載った看板が立ち、台ヶ原サイホンの参考になる。
 
 台ヶ原は白根川と今出川を分かつ尾根上の台地に位置し、中台付近を中心に広く分布するようだ。上流側の久下近くでは、看板にもあるように、標高は190mになる。
 
 この丘陵地帯に灌漑を施そうという訳である。東の美祢市側に大堤という貯水池が見られる。田代地区の上田代である。 白根川の支流(とうとう川)の上流に位置し、貯水池の標高は台ヶ原より高く200mを超える。ここが水源となるようだ。ここから台ヶ原まで水路長1.3km以上の逆サイホンを構築したようだ。

   

看板の写真 (撮影 2016. 4.18)
渡樋からその先の台ヶ原方面を見るようだ
伏樋がまだ露出している

看板の写真 (撮影 2016. 4.18)
場所は不明(台ヶ原の吹き上げ口付近だろうか)
盛大な祝いの様子だ
   

<渡樋>
 白根川に架かるのは水管橋で、そこに渡樋(わたしどい)が通じている。県道の直ぐ脇にあり目立つ存在だが、巨大な台ヶ原サイホンのほんの一部に過ぎない。 多くは伏樋(ふせどい)やトンネルなどで地面の下に埋設され、一目には付き難いのだろう。白根川を横断する部分は、さすがに伏樋構造などは難しく、地上に露出した渡樋となったようだ。
 
 渡樋は白根川の谷の底にあり標高は約140mで、大堤の貯水池とは60m以上の高低差がある。 水柱10mは約1気圧、100KPa(キロパスカル)だから渡樋には600KPa以上の高圧がかかる計算となる。 一般の上水道で数100KPaだから、大正時代としてはこれはかなりの圧力ではなかったか。渡樋に亀裂でもできれば勢いよく水が飛び出すことだろう。

   
看板の説明文 (撮影 2016. 4.18)
これによって白根川の「白根」は「しろね」と読むことが分かった
   

 ただし、今は元の水管橋の数m上流側に鋼管を抱えた別の水管橋が架かる。現在のサイホンはそちらに繋がれているようだ。かつての古い渡樋は遺構として保存されているらしい。 台ヶ原に登れば逆サイホンの原理で水が吹き上げている様子が見られるのかもしれない。本来なら石柱渓を流れ下る水が、人工的な流路によって台ヶ原へと導かれている。

   

<久下集落内>
 久下の集落では、あまり人家の集合は見られず、ここに一軒、あちらに二軒という具合に点在する。白根川沿いの耕地もあまり広くない。
 
 
<長門市との境>
 下関市から長門市へと入る境は、唐突にやって来る(下の写真)。左手に流れる川の様子に何ら変わりはない。しかし、この山中峠方面から下って来る川は、下関市側では白根川と呼ばれたが、長門市側では大垰川(おおとうがわ)と呼ぶものと思う。 


人家が点在する (撮影 2016. 4.18)
   
長門市との境 (撮影 2016. 4.18)
   
   
   
大垰地区 
   

県道標識が立つ (撮影 2016. 4.18)

<大垰>
 市境看板の直ぐ先に立つ県道標識は「長門市 大峠」と変わった。「大峠」は「垰」の字は使っていないが、「おおとう」と読ませるものと思う。
 
<渋木>
 この地の現在の住所は山口県長門市渋木(しぶき)である。江戸期から長門国(ながとのくに)大津郡深川(深河とも)荘に渋木村という村があった。 明治22年に深川(ふかわ)村の大字渋木となり、その後昭和3年に深川町、同29年からは長門市の大字となって行く。大垰村は渋木村に属す枝村としての存在だったようだ。

   

<大垰の立地>
 大字渋木にありながら、この大垰地区は特異な立地にある。渋木の多くは日本海側の深川川(ふかわがわ)水系にあり、深川川の上流及びその支流・大地川流域に広がる。 ところが大垰地区は大分水界を越えた瀬戸内海側の木屋川水系の白根川上流部(大垰川)に位置する。 かつての大垰村の正確な村域は分からないが、多分、渋木村の内、大分水界を越えた部分が大垰村であったろう。 同じ渋木村というには立地が大きく異なり、大垰村という枝村ながら独立した扱いがなされたことだろう。現在の渋木は5集落から成るそうだが、その一つが大垰である。(他は渋木、渋木中、山小根(やまおね)、坂水だと思う)


県道標識 (撮影 2016. 4.18)
   

<大垰の由来>
 文献(角川日本地名大辞典)によると、大垰という地名の由来は「山間部の険しい地形にあり、渋木から西市へ至る道の峠となっていることによるか」としている。 「西市」とは現在の下関市豊田町西市で、木屋川沿いにあるかつての豊田町の中心地だ。 簡単に言えば、渋木から西市へは険しい峠、すなわち大きな峠を越えることから大垰と呼び習わしたのではないだろうか。ただ、峠そのものの名は今は山中峠である。 この名は渋木の中心地側にある集落・山中から来ていると思うが、峠を大峠(垰)とも呼んだのかもしれない。文献でも大垰を峠の様に表現している箇所が見られた。
 
 ところが、山中峠から東に続く大分水界上に大ヶ峠(おおがたお)がある。僅か1.3km程しか離れてなく、同じ大地川水域でもある。大ヶ峠には日本海側の長門市街と瀬戸内海側の厚狭(あさ)を最短で結ぶ幹線路(現在の国道316号)が通じ、その意味では名前の通り「大きな峠」と言える。「大」はそちらに譲り、大垰の方の峠は名を変えて山中峠としたようにも思える。

   
大垰川左岸を遡る (撮影 2016. 4.18)
意外と広い田んぼが見られる
   

<大垰集落>
 大垰地区には長門市の台地区などと比べても意外と多くの人家が大垰川沿いに長く点在する。ここはもう白根川の最上流部(大垰川)に位置するが、田畑となる耕作地はかえって広そうだ。 その中をのんびりとした田舎道が一本、峠に向かって通じる。おばあさんが二人、道路脇の側溝の清掃に精を出していた。ここではのんびりとした時間が過ぎているように感じた。

   
大垰集落内 (撮影 2016. 4.18)
   

大垰川を右岸へと渡る (撮影 2016. 4.18)

 この山里には菅原道真がこの地で一夜を明かしたという伝承が残るそうだ。古い資料だが、享保13年(1728年)の大垰村の家数は23、人数は107とのこと。ただ、現在の世帯数は10に満たないようだ。
 
<大垰川右岸へ>
 集落の後半、道は大垰川の右岸沿いとなる。もう峠まで2km程の道程だが、川の流れは依然穏やかで、子供の水遊びができそうな小川の様相だ。山口県内では大分水界を越える峠と言えども、それ程険しい渓谷沿いとはならない場合が多い。石柱渓などは特異な存在だろうか。

   

<左岸へ>
 集落の終わり頃、道はまた左岸側へと渡る。そこから先は大垰川本流沿いを離れ、山中峠より流れ下る支流(名は不明)沿いに遡り始める。
 
 大垰川本流の源流は、山中峠より北西へと続く大分水界上で、厳密には山中峠からは1km程離れているが、概ね山中峠は大垰川の源流と言ってもいい位置にある。


大垰川を左岸へ (撮影 2016. 4.18)
この先は大垰川本流沿いを離れる
   

そろそろ大垰集落の終り (撮影 2016. 4.18)

<大垰集落以降>
 左岸へと渡った所で数軒の人家を見て過ぎると、それで大垰集落も尽きる。谷間は細く、道の勾配も増す。
 
 それでもまだ暫くは沿道に棚田が見られる。地形図上では大垰川本流よりこちらの支流の方が、谷が広く平坦地が多いようだ。
 
 その棚田も尽きる頃、前方に峠の鞍部らしい部分が確認できるようになる。峠までもう1kmもない。

   

峠への登り (撮影 2016. 4.18)
前方に峠の鞍部付近が見通せる

峠直前 (撮影 2016. 4.18)
落石注意の標識が立つ
   

<プラント>
 すると巨大な建造物が姿を現した。「深川養鶏農業協同組合堆肥センター ハザカプラント長門」と書かれていた。車やトラックなども停まり、作業を行っている様子だった。 多分、鶏糞から堆肥を作るプラントのようだ。やはり臭いの問題もあり、こうした辺ぴな地に建設されたのだろう。

   

大きな建造物 (撮影 2016. 4.18)

ハガサプラント長門 (撮影 2016. 4.18)
   

<つづら折り>
 山口県に通じる大分水界を越える峠道は、概ね日本海側が険しいように思う。この山中峠もその傾向にあるが、それでもこの瀬戸内海側にも峠道らしい箇所があった。 堆肥プラントを過ぎた先、大きな屈曲がある。「つづら折り」という程には何度もカーブする訳ではないが、それなりに峠らしい雰囲気が感じられた。


この先、つづら折り (撮影 2016. 4.18)
   
つづら折り途中より麓方向を見る (撮影 2016. 4.18)
   

また建物 (撮影 2016. 4.18)

<峠直下>
 屈曲を過ぎると、また大きな建物が見えて来た。長門市の何かの施設で、多分、リサイクルセンターか何かだった。
 
 県道標識に示された住所は「長門市大垰」から「長門市山中」と変わった。峠の直前なので、大垰か山中なのかは微妙であろう。峠に立つ電柱には「大峠」と書かれていたが。

   

県道標識が立つ (撮影 2016. 4.18)
その奥を左鋭角に分岐あり

県道標識 (撮影 2016. 4.18)
「長門市山中」と変わった
   

<分岐>
 峠直前に分岐がある。入口には林道看板が立ち、「長門市林道 鈩大峠線 L=6365m 終点」とあった。但し、通行止の看板も立つ。


分岐を麓方向に見る (撮影 2016. 4.18)
左が大垰集落へと下る本線
   

分岐する道 (撮影 2016. 4.18)

<鈩大峠線>
 「鈩」は「たたら」と読むようだ。この山中峠から大垰川源頭部を横切り、木津川(木屋川水系)の支流・黒川川の上流部にある鈩集落へと通じるようだ。 中国地方はタタラ製鉄発祥の地と思うが、その「タタラ」と関係するのだろうか。それにしても、鈩集落はとても奥深い地にある。
 
 林道名には「大峠」とあるが、これも本来は集落名の「大垰」とすべきなのであろう。

   
林道看板など (撮影 2016. 4.18)
   
   
   
 
   
大垰側から見る山中峠 (撮影 2016. 4.18)
   

<峠>
 山中峠は特に心惹かれるというようなことはない。ここに至る道程も比較的容易だったので、峠に辿り着いたという感慨も薄い。この峠を境に、大きく日本海側と瀬戸内海側とに水域が分かれるのだが、そんな大それた感じもない。その辺のどこにでもある小さな峠である。
 
 標高は、道路地図で340mと記されていたのを見掛けた。地形図の等高線では330mと340mの間である。大して高くはないが、この付近の大分水界を越える峠の中ではまだ高い方だ。

   
山中峠 (撮影 2016. 4.18)
手前は大垰、奥が山中
   

<山中側>
 峠の前後は急勾配だ。峠を登り切らないとその先が見えて来ない。
 
 峠を北の山中集落方面に少し下ると、直ぐにもまた大きな建物が見えて来る。その一帯は長門市の清掃工場の敷地となるようだ。 「年金積立金還元融資」と看板が立つ。峠の近くにこうした広い敷地が確保できることからも、山中側の地形が穏やかであることが分かる。


峠より山中方面を見る (撮影 2016. 4.18)
   
峠の山中側 (撮影 2016. 4.18)
清掃工場が立つ
   

<峠の通行>
 峠の前後は同じ長門市になる。峠の南側にも市の施設があるので、ゴミ処理などの車両は頻繁にこの峠を行き来するのだろう。 また、大垰集落の住民は行政区の関係で市役所などに出向く時はこの峠を越えることとなる。麓に下ればJR美祢線が通じ、渋木の山小根(やまおね)地区に渋木駅がある。 鉄路に並行して国道316号が通じ、日用品の調達なども長門市街へと山中峠を越えるのかもしれない。
 
 ただ、峠は北の長門市と南の豊田町西市との中間くらいにあり、どちらの市街地に出た方が便利か微妙な位置である。 下関市の台地区の住民などは、果たしてどれくらい山中峠を利用するのかと思う。
 少なくとも、峠に佇む数分の間、一台の車も通らなかった。

   
山中側から見る山中峠 (撮影 2016. 4.18)
峠近くまで清掃工場の施設が迫る
県道標識は「長門市山中」とある
   
   
   
山中へ下る 
   

山中側へ下る (撮影 2016. 4.18)

<山中側へ>
 道は清掃工場の大きな建物を巻きながら下る。直ぐにも大地川(おおじがわ)の左岸沿いとなる。

   

 トラックが一台登って来た。清掃工場関係らしい。峠を越えたかどうかは分からない。
 
 
<分岐>
 清掃工場の擁壁とは反対側に、大地川沿いへと下る道が分かれている。 現在の山中峠を越える県道268号は、概ね大地川左岸沿いに下るが、途中で川沿いを離れ、国道316号の大ヶ迫隧道の先で国道に接続する。 道路地図ではそれとは別に、大地川沿いを忠実に下り、途中大ヶ峠(おおがたお)の峠道と一緒になって大ヶ迫集落を通り、国道316号に接続する道が描かれている。道の具合から、そちらが元の峠道のように思える。


清掃工場の車らしい (撮影 2016. 4.18)
その後ろに分岐がある
   
分岐付近の様子 (撮影 2016. 4.18)
   

<通行止>
 そちらのコースを通りたかったのだが、残念ながら訪れた時には通行止の看板が立っていた。ゲートなどはなかったが、工事の邪魔になるので入るのは遠慮するしかない。


この時は通行止 (撮影 2016. 4.18)
   

大ヶ迫側の入口 (撮影 2016. 4.18)

<市道山中線>
 その後、大ヶ迫集落を通って大ヶ峠へ向かった。その時、麓の大ヶ迫側の道の分岐に立ち寄った。やはり、通行止の看板が立つ。また、側らに大きな工事看板が立ち、その道が「市道山中線」と呼ばれることが分かった。

   
工事看板などが立つ (撮影 2016. 4.18)
   
工事看板 (撮影 2016. 4.18)
「市道山中線道路災害復旧工事」とある
   

<バス停など>
 工事看板に並んで「大ヶ迫」というバス停が立つ。またその足元に「豊田方面」と書かれた札が転がっていた。確かにこの市道山中線を登り、山中峠を越えて行けば豊田町市街へと通じる。しかし、わざわざこの市道を使って豊田方面へと向かう車はなさそうだ。


バス停など (撮影 2016. 4.18)
   

<通行規制区間>
 市道山中線を分けた先から県道268号には通行規制区間が始まる。立派そうな県道の方が大雨の時に通行規制があり、市道の方はそれがないのだろうか。

   

ここから通行規制区間 (撮影 2016. 4.18)

通行規制区間の看板 (撮影 2016. 4.18)
   

県道を峠方向に見る (撮影 2016. 4.18)
清掃工場の建物を望む

<道の様子>
 峠の大垰側は終始1.5車線幅の道だったが、山中側は清掃工場の前からほぼ2車線路が下り始めた。久しぶりに快適な道である。

   
   
   
山中集落 
   

<大地川の眺め>
 県道は大地川の谷のやや高みに通じる。途中、谷間の様子が見渡せた。下に市道山中線が通っているのも見える。

   
大地川の谷を望む (撮影 2016. 4.18)
市道が通じる
   

<山中集落>
 その市道沿いに人家らしい建物が少し見えた。地形図上でも市道沿いにポツリポツリと人家があることになっている。それらが山中集落だと思う。この集落の存在からも、現在の市道山中線こそが元からあった山中峠の峠道ではないかと思うのだ。
 
 大垰は渋木の一地区を形成するが、山中は人家の数も数軒という小さな集落だ。多分、大ヶ迫などと一緒に渋木中地区の一部ではないだろうか。

   
山中集落の人家の一部 (撮影 2016. 4.18)
   

<谷間の様子>
 大地川の谷間は、山深いながらも穏やかな雰囲気だ。谷を縫って一筋の道が通じ、沿道に人家が佇む様子は何となくホッとさせられる。味わい深そうな峠道である。

   
大地川の谷を峠方向に望む (撮影 2016. 4.18)
   

道の様子 (撮影 2016. 4.18)

<県道の様子>
 一方、県道はそっけない。ただただ山中峠に快適な車道を通す為だけに造られたようなものだ。武骨な擁壁も連なる。

   

<工事箇所>
 また、所々に狭い区間を残している。この県道の道筋は、峠の南側に位置する大垰集落や峠前後にある長門市の清掃施設などの便宜を図ったものだろうが、完全な2車線路とはなっていない。 途中、擁壁が崩れたのだろうか、工事箇所も過ぎる。やや険しい様相だ。道の後半は大地川の谷間から分かれ、狭い山間を縫って下る。視界も広がらない。
 
<開けた所へ>
 山間を抜け、大地川支流の谷に出るとやっと開けた雰囲気となる。棚田が下るようだが、もう休耕地となっている所も多いようだ。この後は快適な2車線路が下り続ける。


工事箇所 (撮影 2016. 4.18)
   
開けた所に出る (撮影 2016. 4.18)
   

この先で国道316号に接続 (撮影 2016. 4.18)

<国道316号に接続>
 峠からは僅か3km弱で、大ヶ峠隧道・大ヶ迫隧道を抜けて来た国道316号に接続する。その間の県道沿いに人家はなく、やはり味気ない峠道であることは否めない。もっぱら大垰地区の住民の生活路、清掃工場の業務用道路に徹している。
 
 県道268号も国道316号も、どちらも後の世に通じた峠道である。その2つの道の交差点も、やはりどことなく殺風景だ。

   

国道との接続部 (撮影 2016. 4.18)
右が県道

県道を峠方向に見る (撮影 2016. 4.18)
   

<峠道の終点>
 大地川本流沿いに出るまでは更に国道を下らなければならない。本来、大地川沿いはずっと山中峠の峠道と言えそうだが、相手は日本海側と瀬戸内海側を結ぶ幹線路の大ヶ峠(隧道)を越えて来た国道である。そちらに道を譲り、山中峠の峠道はここで終点とする。

   

国道側から見る分岐 (撮影 2016. 4.18)
県道268号の行先は「豊田」とある
(大ヶ迫隧道を抜けて来たところ)

国道側から見る分岐 (撮影 2016. 4.18)
左折が県道268号、直進は国道316号を長門市方面へ
この先は大ヶ峠の峠道としておく
   
   
   

 前回大ヶ峠を掲載したので、今回の山中峠はほとんどそのついでである。この峠道に関し、これといって特に関心を引かた点があった訳ではない。 あまり書くことがないので、石柱渓や台ヶ原サイホンのことなど、観光案内のようになってしまった感がある。それでも、大垰というちょっと変わった峠に関わる名の集落に通じる峠道である。 記憶の片隅に留めておいてもいいのではないかと思う、山中峠であった。

   
   
   

<走行日>
(1992.10.15 県道319号で豊田湖通過 ジムニーにて)
(1997 .5. 2 美祢市から県道38号で豊田湖へ ジムニーにて)
・2016. 4.18 大垰→山中 ハスラーにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 35 山口県 1988年12月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・中国四国 2輪車 ツーリングマップ 1989年7月発行 昭文社
・ツーリングマップル 6 中国四国 1997年9月発行 昭文社
・マックスマップル 中国・四国道路地図 2011年2版13刷発行 昭文社
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

<1997〜2017 Copyright 蓑上誠一>
   
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