旅と宿 No.012

広い食堂でたった一人の夕食を
石川県輪島市/国民宿舎・輪島荘
(掲載 2023.12.25)

 

<国民宿舎>
 前回、かんぽの宿(峰山高原・簡易保険総合レクセンター)を掲載したのだが、今回の宿も「公営の宿」の一種だ。 公営の国民宿舎になる。都道府県や市町村が厚生年金保険や国民年金の積立金から融資を受け、建設・運営する施設とのこと。 国民年金は全ての国民に関係するので、他の公営の宿と比べ、何となく利用し易いような気がする。
 
 公営とは別に民営の国民宿舎があるが、こちらは既存のホテルや旅館などから選ばれた施設が、(財)国立公園協会から補助を受けて経営しているそうだ。 それによって比較的安価な料金で利用できるようになっている。一般の民宿なども国民宿舎となり得るので、宿の建物や設備はまちまちだ。 一方、公営の方は建設の時点から融資を受けているので、比較的立派な施設が多いように思う。この点はかんぽの宿とやや似ている。 今回はその公営の国民宿舎での話となる。

 

<冬の能登半島>
 旅の目的地として能登半島はとても魅力的な地域だ。古くは松本清張の小説「ゼロの焦点」の舞台でもあった。久我美子さん主演で映画化されたが、その白黒映画を今でもたまに見る。 険しい断崖の上で犯人や刑事などの関係者が言い争ったりするシーンは、その後のテレビドラマのサスペンス物に大きく影響し、定番化したとか。 映画に出て来る能登半島は雪降る冬のシーンが多い。そこで一度冬の能登半島を旅したいと思っていた。しかし、年末年始の休みを除くと冬期には適当な連休がない。 そこで、土日の休みに有給休暇を付け、3日間の弾丸で2月初旬の能登半島を旅することにした。
 
<禄剛崎>
 その旅の2日目、やっと半島先端の禄剛崎(ろっこうざき、ろっこうさき)に辿り着いた。もういつの事だったか忘れたが、ここには1、2度訪れたことがある。 県道沿いに広い駐車場(現在は道の駅になっている)があり、そこにバイクや車を停め、その近くから始まる遊歩道を登って禄剛埼灯台(灯台の場合は「埼」と書く)まで散策するのが、お決まりの観光コースだ。
 
 ところが、駐車場と思しき敷地は雪で埋まり、車が入れる状態ではない。これは困ったと思っていると、折しもその遊歩道を一台の乗用車が下りて来た。何だ、車でもう少し行けたのかと、こちらもキャミで上がって行った。 しかし、それは大間違いだった。数10mも登ると道は右に急カーブするのだが、その先は車など通れるような道ではなく、完全な歩道であった。一方、左は個人宅の敷地である。 キャミを回転できるスペースなど皆無で、進退窮まった。仕方なく、狭い急坂を慎重にバックで県道まで引き返して来た。今はその道の入口に「車の乗り入れ禁止」の看板が立っているようだ。 これでもう被害者はなくなったことだろう。
 
 仕方がないので県道脇にキャミを停め、仕切り直して徒歩で灯台へ向かう。なかなか歩きでがある。雪が積った坂道はすべり易いので注意が必要だ。普通の運動靴だったので直ぐに中がびっしょりになった。 県道から灯台まで、誰一人として居ない。こんな禄剛埼灯台はなかなか見られないだろうと、写真を沢山撮った。

 

禄剛埼灯台
「能登半島最北端」の標柱が立つ
(撮影 2003. 2. 2)

 

 車に戻ると、大事な作業が残っていた。今夜のねぐらを決めるのだ。午後3時を過ぎているので、もうそろそろ確保しておいた方が無難だ。勿論、この寒い冬の時期に野宿はできない。 れっきとしたホテルか旅館に泊まるのだ。それにしても便利な世になった。携帯電話を使い、暖かい車内に居ながらにして予約の電話ができる。 これが数年前なら、まず公衆電話を探し出し、そして宿泊表などの分厚いガイドブックやボールペンにメモを持ち、寒さに凍えながら予約が取れるまで辛抱強くあちこち電話を架けなければならなかった。 さすがにまだスマホが使える時代ではなかったので、宿のネット検索などできないが、それでも慣れた自分の車の中で落ち着いて電話ができるというのは有難いことだった。
 
 これから宿に向かうにしても、時間に余裕が持てる所として輪島市を選んだ。能登半島の中でも屈指の大都市で、そこなら宿も多い。それから、安くていい宿となるとやはり公営の宿である。 調べてみると、公営の国民宿舎・輪島荘というのが見付かった。電話をすると、あっさり予約が取れた。食事は要るかと聞く。この時間でもまだ夕食の準備ができるそうだ。朝夕2食付きで頼んだ。
 
 この禄剛崎が位置するのは石川県珠洲市(すずし)の狼煙町(のろしまち)という地だ。日本海に突き出た能登半島の、正に先端部に当たる。小さいながらも人家が密集した集落を形成している。 こうして携帯電話は繋がるし、除雪された県道沿いに人の往来もちらほら見られた。勿論、観光客などではなく、地元住民だろう。そんな人の営みを眺めていると、旅情を感じる。 禄剛埼灯台を見学するばかりが旅ではない。こうして何気ない日常の風景を見ているだけでも、冬の能登半島を訪れた甲斐があったと思う。
 
<真浦海岸>
 禄剛崎を後に半島の北側の海沿いを輪島市方向に進んだ。県道上には雪も多く、近場の宿を予約してよかったと思う。やがて荒々しい冬の日本海の風景が広がった。沿道にはぽつりぽつりと小さな寒村が点在する。 輪島市との境の珠洲市側にある真浦町(まうらまち)に入る。1999年3月、ここにあったホテルに泊まったことがある(ホテル・ニューまうら)。 そのホテルは既に閉館していたが、目の前の真浦海岸はきれいに整備され、垂水の滝の見学も容易になっていた。

 

真浦海岸
奥に見えるのは垂水の滝
(撮影 2003. 2. 2)

 

 窓岩ポケットパークや白米の千枚田などにも寄りつつ、輪島市街を目指す。道の駅・千枚田に寄った時、一人のおばあさんが近付いて来た。そして籠に入った手作りだと思われる小さな藁細工のような土産を薦めてきた。 普段から土産など全く買わないので断っていたのだが、しつこく付きまとって来る。結局、半強制的に500円を支払うことになった。能登の暮らしは厳しいものがあるのあろう。これも経験である。 その馬をかたどったような藁細工は、後に妻となる女性へのプレゼントとなった。妻に聞いてみたが、今はもうどこに行ったか分からないようだ。
 
 やっと輪島市街に入る。市内は狭い。路肩や歩道にまで雪が積もる雪の町だ。「朝市」と書かれた看板を見掛ける。日本三大朝市の一つに数えられる輪島の朝市は、1999年3月に真浦に泊まった翌日、見学したことがある。 今回は市内は素通りで、市の西へと延びる県道に折れた。袖ヶ浜沿いへと通じる。 目的の宿はその県道から分かれ、高台へと登って行く道を進んだ終点に位置する(地理院地図)。 ごみごみした街中にあるより分かり易くていい。曲がりくねった坂道を登ると、眼下に袖ヶ浜が見渡せるようになった。

 

宿の前より袖ヶ浦を望む
(撮影 2003. 2. 2)

 

 宿は日本海を望む高台にある一軒宿で、こうした立地はかんぽの宿とも類似している。この宿の為だけに土地を切り開き、県道から宿までの専用の車道を開削したのではないだろうか。 それなりの資金力が必要だ。公営の国民宿舎ならではであろうか。

 

坂道を登り切るとそこに宿がある
(撮影 2003. 2. 2)

 

 建物は3階建てでそれほど大きくはないが、中はなかなか豪華である。赤いじゅうたんのエントランスに、日が暮れると賑やかな照明が灯った。時間は午後の5時を少し回ったくらいである。 丁度いいタイミングでチェックインができた。カウンターには予約の電話をした時に出たらしい女性が一人、その応対がなかなか感じがいい。

 

吹き抜けのロビーの照明
(撮影 2003. 2. 2)

 

<部屋>
 部屋は2階の203号室となった。確か「白峰」とかいう名前がついていた。中に入ると玄関の下駄箱に並んで洗面台がある。部屋はいたって普通の和室だが、前もって暖房が効かせてあって暖かい。 こうした心遣いが嬉しく感じる。部屋の奥の障子を開くとそこは広縁になっていて、冷蔵庫とタオル掛けが備え付けられていた。窓のカーテンを開けるとやはり眺めがいい。ちょっとした展望室になる。 この為にここに宿が建設されたと言ってもいいくらいだ。ただ、寒いので長居は出来ない。直ぐにカーテンを閉め、部屋に戻って障子も閉じた。

 

部屋の様子
普通の和室
(撮影 2003. 2. 2)

 

<風呂>
 夕食前に風呂に行く。部屋のある2階を食堂とは反対側の奥に進んだ所にある。宿泊棟とは別棟になっているようだ。明るくて感じがいい。こうした立派な風呂もかんぽの宿を彷彿とさせる。先客は誰も居ない。 宿に入ってから何となく閑散としていると思っていた。従業員もあまり見掛けないが、他の泊り客の気配がほとんど感じられないのだ。一人で気兼ねなく風呂を楽しむことにする。 炭のシャンプー、洗顔シャンプー、ボディーシャンプーと備品も揃っているので、みんな試させてもらう。途中でやっと一人の男性が入って来た。 掛け湯もせず、そのまま浴槽に入って行き、湯に浸かりながらしきりに唸り声をあげている。浴室の窓からは街灯が灯った海岸線沿いの県道が眺められた。
 
 この宿の湯は温泉だそうだ。「輪島温泉 なごみの湯」などと呼ぶそうな。市内で湧いた温泉を運んで使用しているらしい。よって、入湯税を支払うことになる。

 

奥に見える別棟が浴場
(撮影 2003. 2. 3)

 

<布団敷き>
 部屋に戻り、自分で布団を敷く。夕食を摂っている間に従業員に敷いてもらうこともできるようだが、泊り客が自ら敷いてもいいようだ。 その場合は布団敷き不要を知らせる為、ドアノブにその旨を記した札を掛けるようになっている。こういう従業員の省力化の仕組みはいいことだと思う。
 
 それと、自分で率先して布団を敷くのには、ちょっとした訳があった。野宿旅などやっている割には、敷布団が硬いのは大の苦手だ。貧相な身体なので、背中や腰が痛くて眠れないのだ。 テント内で寝る時は、厚みのあるエアーベッドと厚手のシュラフを常用している。宿の布団で寝る時も、マットレスを2重にするか、マットレスがない場合は敷布団を2枚重ねにしている。 既に布団が敷いてある場合も、わざわざ押し入れからもう一枚マットレスや敷布団を出して来て、敷き直すのだ。どうせ敷き直すなら、最初から自分で敷いてしまってもあまり変わらないのである。

 

<夕食>
 6時ちょっと過ぎに電話があり、夕食の支度が整ったとのこと。浴衣のまま同じ階の食堂に向かう。食堂には80人分くらいの席が並んでいるのだが、用意されていたのは1人分の食事だけだった。 広いテーブルに寂しげにぽつんと膳が置かれている。そこが私の席らしい。食堂内には係の者も誰も居ないので、厨房に声を掛け、ご飯と味噌汁が運ばれて来るのを待つ。 食堂の片隅で1台のテレビがニュースか何かを放映している。その音声だけが広い食堂に響いていた。近眼の上にひどい乱視なのだが、鼻パッドがうっとうしいので車の運転以外ではメガネを掛ける習慣がない。 裸眼の私にそのテレビは余りに遠過ぎた。目を凝らしても、何を映し出しているのかさっぱり分からない。手持ち無沙汰で見上げた天井には、200個程の電球が煌々と灯されていた。 外は雪が積もる真冬で、しかも日本海の冷たい風が吹きつける高台だ。浴衣姿の私だが、気が付いてみると先程から全く寒さを感じていない。それだけ館内の暖房が効いている証拠だ。 余談だが、ある年の大晦日、琵琶湖畔のこじんまりとした国民宿舎に泊まったのだが、夕食時の食堂が寒くてコートが必要なくらいだった。客は私たち二人ともう一組のカップルしか居なかった。 多分、経費節約であまり暖房を効かせていなかったようだ。その宿は民営の方の国民宿舎であった。
 
 こちらの宿の収容人数は百数十名らしい。 それにはこれだけの規模の食堂を確保する必要があったのだろう。照明や暖房など、これらが全て自分一人だけの為かと思うと、恐縮してしまう。 もう日が落ちた窓の外に目をやると、海上と思しき暗がりにぽつぽつ明かりが見える。漁船の漁火(いさりび)だろうか。
 
 ご飯などが運ばれて来た。給仕を担当していたのは一人の中年女性で、素朴で自然体の立ち振る舞いだ。地元の方だろうか、優しい給食のおばちゃんといった雰囲気である。 こうした宿の運営は地元住民の雇用の機会を増やすことにも役立つのだろう。 食事の内容は、海が近いのでやはり海産物が多い。カキがメインで、鍋の中にも魚や貝が沢山入っている。しかし、相変わらず小食な私には多過ぎるようだ。この分だとご飯を控えめにしも、おかずが食べ切れそうにない。
 
 給仕のおばさんが来た時、どうせ一人しか居ないからとテレビのリモコンをわざわざ私のテーブルまで持って来てくれていた。その好意を無にしてはいけないと、あまり良く見えていないテレビのリモコンを操作した。 ところが、チャンネルを変えた筈なのにテレビには何の反応もない。いろいろボタンを押すが、やはりダメだ。電池でも切れているのだろうか。 ふと思い当たることがあり、リモコンを片手に席を立ってテレビまで近付いた。そしてボタンを押すと、案の定テレビは正常に反応した。私の席からは遠過ぎて、リモコンの赤外線が届かなかったようだ。 このリモコンを持ち帰っても何の役にも立たないので、テレビの側に置いて席に戻った。テレビがよく見えないのは私の目が悪いだけではなく、そもそもリモコンの作動範囲も超えた遠距離だったからであった。
 
 結局、カキも海鮮鍋もほとんど手を付けられないまま、厨房に一声掛けて食堂を後にした。夕食は宿が提供するもてなしの最たるものだろうが、私にはほとんど効果がないのであった。 食堂では一人だったが、風呂場で男性を見掛けたように、他に泊り客が居ない訳ではない。食堂の手前にちょっとした宴会場があるらしく、グループ客がそこで食事をしている様子だった。 それでも、その気配からしてさほどの人数ではない。今日は日曜日で旅行客は少ないかもしれないが、それにしてもこれで経営が成り立つかのと心配になる。

 

宿の正面玄関
2階の明るく照明が灯った所が食堂
そこで一人で食事を摂った
(撮影 2003. 2. 3)

 

<就寝>
 部屋ではほとんど何もすることがない。寒くなければ広縁に出て、窓から夜景でも眺めるのだが、障子やカーテンを開けると部屋の中まで冷気が入って来てしまう。 そこで布団の上に寝転がり、テレビを見たり、地図を眺めたりしながら怠惰に夜の一時を過ごす。明日の旅程も少しは考えるが、いつも行き当たりばったりだから、計画するだけ無駄である。

 

<起床>
 年を取った最近は、夜はなかなか寝付けないし、やっと寝付いても1、2時間すると目が覚めてしまう中途覚醒に悩まされ、朝方になってやっと深い眠りに付く始末。これでは早起きなどできたものではない。 昼間は眠いし、身体はだるいしで活発に活動できず、身体が十分に疲れないので夜また眠むれないという悪循環が繰り返される毎日だ。
 
 しかし、20年前の40歳代半ばの私は元気なものだ。輪島に宿泊した朝も、6時には起床し、髭剃りなどの身支度を整え、まずは朝風呂に出掛けた。浴室にはやはり誰も居ない。 湯は少しぬるかったが、暫くすると暖かく感じるようになり、長湯ができる丁度いい湯加減だった。昨晩は暗くて見えなかったが、窓の外の海の沖に島影が5つ程並ぶ。 後で地図を確認すると、多分、七ッ島という群島だったと思う。近そうに思えたが、岸から20キロ以上離れているようだ。

 

沖に七ッ島が見える
(撮影 2003. 2. 2)

 

<竜ヶ崎へ>
 朝風呂を済ませてもまだまだ活動は止まない。朝食の時間まで30分程あるので、昨晩降った雪をキャミから降ろすべく、屋外に出た。空はどんより曇り、薄暗く寒々しい。 カメラを持って来るのを忘れたので、一度部屋に取って返し、宿や宿の周辺を写真に収める。宿の敷地から目の前に袖ヶ浜、それに続いて右手奥に竜ヶ崎も望む。 近そうなので、車で行ってみることとした。

 

宿の前から眺める袖ヶ浜
(撮影 2003. 2. 3)

 

竜ヶ崎も望む
(撮影 2003. 2. 2)

 

<竜ヶ崎にて>
 灯台の麓の駐車場へと、サラサラと数センチばかり積もった雪道をゆっくり走る。駐車場からは急な階段を歩くが、直進すると別の所に出てしまった。灯台へは途中で左の階段を行く。 灯台や展望台などを散策した。日和山の方角石なども見学する。あまりせかせかと歩き回っていたので、つるつるした石の上の雪に滑って転倒してしまった。一人旅では思わぬ所に危険が潜んでいる。 こんな冬の季節に灯台まで見学しに来る者は他に居ない。頭など打って気絶したら事であった。幸い、右肘を打撲しただけで済んだが、旅から帰ってからもしばらく痛みは続いた。
 
 展望台からは宿の方角にも視界が広がった。斜面の途中に今回の宿が見える。明かりが灯るのは食堂の窓らしい。

 

竜ヶ崎より袖ヶ浦を望む
中央の山腹に宿が建つ
(撮影 2003. 2. 3)

 

竜ヶ崎からの宿の遠景
窓に明かりが灯る
(撮影 2003. 2. 3)

 

<朝食>
 7時半位に宿に戻り、そのままフロントに寄って朝食はもう食べられるかと尋ねてみた。若い男性の係りが電話で確認してくれる。準備はできているとのことで、部屋には戻らずそのまま食堂へ行く。 またあの広い食堂で一人の食事であった。他の泊り客は一体どこへ行ってしまったのだろうか。ご飯は少なめにと給仕係に頼む。それでも食べ切れそうにないので、デザートのヨーグルトはそっと持って帰った。 この寒さだから、要冷蔵の食べ物でも暫くは問題ないだろう。今日の旅の途中で食べよう。

 

<出立>
 部屋に戻り、歯を磨いてトイレを済ませば、直ぐにも出発だ。フロントに降りてチェックアウトする。料金は2食付き税別で6,800円だった。もっと設備の良くない温泉旅館でも普通に12,000円前後する。 やはり公営の国民宿舎はリーズナブルだ。

 

領収証
当時は消費税5%
入湯税も課かる
(撮影 2023.12.22)

 

箸袋
裏面にも何か書かれているのは珍しい
輪島塗の箸は持ち帰った筈だが、
もう古くなって捨てたと思う
(撮影 2023.12.22)

 

 8時ちょっと過ぎにはもうキャミを走らせていた。今日は月曜日、一週間の始まりである。輪島市内では朝の通勤・通学の風景を目にする。雪道に自転車をこぐ学生たちが大変そうだ。 国道に入り、まずは金沢方面に向かう。今日中にこの輪島の地から東京の自宅まで戻らなければならない。しかし、当時の私の身体は自分の思い通りに動いてくれていた。何の不安もない。 いつもの様に、あっちの峠こっちの峠道と、いろいろ寄り道しながら帰ろう。

 

 あの宿はその後どうなっているかと調べてみると、既に閉館し、建物も取り壊されているようだ。まさか、私が食堂を一人で使った為に経営が悪化したという訳ではないが、何となく気が引ける。 宿があった高台の跡地には、今は老人ホームが建っているらしい。これも世の趨勢であろうか。

 

2003年2月2日(日)
国民宿舎・輪島荘泊

 
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