旅と宿 No.015

五ヶ瀬川最上流の地に泊まる
宮崎県五ヶ瀬町/菊池旅館
(掲載 2024. 1.31)

 

 高千穂旅館が電話に出て来てくれない。丁度5年前に一度泊まったことがあり、宿の場所も大体覚えているので、また利用させてもらおうと思ったのだが、どうしたのだろうか。 確かその宿は女将さん一人で切り盛りしていたので、何かの都合で電話に出られないのかもしれない。あるいは休館中なのだろうか
 
 東京フェリーターミナル発のフェリーを使って九州に上陸してから今日で3日目になる。フェリー泊が2回に野宿泊が2回続いていた。船酔し易い性質(たち)なので、フェリーの狭い2段ベッドではよく眠れなかった。 野宿も慣れているとはいえ、やはり肉体的負担は大きい。それに今日は一日中雨が降っている。今夜くらい旅館でぐっすり寝たとしても、罰(ばち)は当たらないだろう。 時間ももう午後3時を過ぎているので、それで電話したのだったが、どうしたものか。
 
  (本話は以前掲載した「迷旅館・迷ホテル案内」四軒目のリメイクです)

 

五ヶ瀬町鞍岡の街中
国道265線沿い
右手の建物が旅館・高千穂屋
(撮影 1999. 5. 4)

 

<五ヶ瀬町>
 ここは宮崎県の五ヶ瀬町(ごかせちょう)。熊本県との県境に接する地で、県中でも奥深い内陸に位置する町だ。 今しも南隣りの椎葉村(しいばそん)から国道265号の旧道・国見峠(みくにとうげ)を越え、この地へと下りて来た。 町の名の「五ヶ瀬」は五ヶ瀬川(ごかせがわ)に由来する。国見峠付近を源流とし、一時熊本県内を流れ、最終的に宮崎県延岡市で日向灘に注ぐ。お隣の椎葉村は秘境の地として知られるが、五ヶ瀬町もなかなか山深い。
 
 よって、宿もなかなか見付け難い土地柄である。県内なら海岸沿いの宮崎市や日南市、日向市、延岡市といった大都市なら、宿には全く不自由しない。また、内陸部だが観光地で知られる高千穂町も宿は多い。 しかし、わざわざ宿泊するだけの目的で、そんな大都市や混雑する観光地まで出て行くのは無駄である。そもそも、私が旅をしたい所は内陸ばかりに偏っているのだ。 明日の旅程の都合もあり、何とかこの五ヶ瀬町で宿を見付けられないものか。
 
<電話(余談)>
 ところで、旅の最中に宿を探すのには毎回苦労させられたが、最近、とても便利な道具を手に入れた。と言っても今では何ら特別なことではない。携帯電話である。昨年(1998年)の初め頃から利用している。 会社の社内では以前からPHSを使っていたが、やっと個人でも携帯電話を持てる時代になったのだ。それまでは宿の予約をしようとすると、まずは公衆電話を探さなければ話が始まらなかった。
 
 5年前に高千穂旅館を予約したのも、道路沿いで見付けた電話ボックスからだった。当時の一部の公衆電話は、相手に繋がると1秒間ぐらい大きな音で「ブー」とブザーが鳴った。 そのブザー音は相手には聞こえないが、電話をかけた方はうるさいので鳴り止むまで話し掛けられない。 どうも電話に出た旅館の女将さんは気が短いらしく、ブザーが止まって話し始めようとした瞬間、もう電話を切られてしまった。宿を予約するにはこの公衆電話だけが頼りである。 再びテレホンカードを差し入れ、祈る思いで電話をかけ直し、どうにか宿を予約できたのだった。
 
 さすがに国見峠の峠道沿いでは携帯の電波は入らないが、五ヶ瀬町の集落が出て来る頃には圏内である。ただ、当時の携帯電話は電池の持ちが悪い。それに充電するには専用のACアダプターとコンセントが必要だった。 旅先の肝心な時に電池切れになることもしばしばだ。なるべく大事に携帯電話を使う。
 
<宿探し>
 宿泊表を取り出し、五ヶ瀬町の欄を眺める。やはり泊まり易そうなホテルの類はこの町には1軒もない。ただ、旅館なら高千穂旅館の他にまだ2軒あった。森の宿しらいわと菊池旅館である。 何となく無難な名前の菊池旅館に電話してみた。すると、あっさり宿泊予約は取れた。今日は5月4日のゴールデンウィーク真っ最中である。 ちょっとした観光旅館なら、宿泊当日に電話して、しかも一人の利用では泊めてくれる訳がない。その点、普通の町中にある昔ながらの一般旅館なら、満室でない限り断られることは滅多にないのがいい。
 
 電話での話しでは、その旅館は五ヶ瀬町の町役場の近くにあるそうだ。町の最も繁華な中心地である。道順も教えてくれたのだが、何せ周辺の地名や道路名を覚えている訳ではないので、全く理解できない。 でも、行けば分かるだろうと、そのまま電話を切ったのだった。
 
<三ヶ所へ>
 五ヶ瀬町は大きく三ヶ所(さんかしょ)、鞍岡(くらおか)、桑野内(くわのうち)の3大字から成る。文献(角川日本地名大辞典)では三ヶ所は「さんがしょ」と出ていた。 元は三ヶ所村と鞍岡村が合併して五ヶ瀬町となったもので、三ヶ所と鞍岡に比較的大きな集落がある。国見峠を下って来た五ヶ瀬川本流域が鞍岡で、高千穂旅館はこの鞍岡市街にあった。 一方、今回の旅館はその支流の三ヶ所川沿いの三ヶ所にある。このまま国道を行ってもいいが、丁度いい抜け道があった。
 
<笠部隧道(余談)>
 それは県道202号・鞍岡赤谷線で、この鞍岡市街と三ヶ所の中心地・赤谷(あかだに)を直接結んでいる。今夜の宿もその赤谷にある。ちょっとした峠道で途中に笠部隧道という峠越えがある。 5年前に鞍岡に泊まった時も、夕食まで少し時間があったので旅館を抜け出し、その県道を走って三ヶ所まで行き、国道を走り繋いで旅館まで戻って来たことがあった。 峠を趣味としている者としては、この程度の峠道も走っておきたいのである。今回は趣味ではなく、実用で使用する。

 

笠部隧道
鞍岡と三ヶ所を結ぶ県道の峠
手前が鞍岡、奥が三ヶ所
(撮影 1999. 5. 4)

 

<コンビニに寄る>
 県道を抜けると三ヶ所川沿いに通じる国道218号に出た。目的の宿はもう近い。国道沿いの直ぐ先の左手にコンビニを見付けた。確かヤマザキショップだったと思う。 今夜の宿は2食付きで予約してあったので、食事の準備は要らないが、食後に飲むジュースでも買う積もりでいた。そのコンビニに寄り、ついでに旅館の場所を聞こうと思う。
 
 レジには可愛らしい女の子が2人、仲良く並んで店番をしていた。中学生くらいにしか見えない。こんな子供が働いていいのかとも思うが、まあ、治安のいい田舎のことである。 地元の子がちょっとした手伝いの延長でやっていることなのだろう。店の外にも一人、年長の女性の店員が居るのだが、そちらはさっきから若い男性の客と立ち話しに夢中である。 本来、女の子たちを監督する立場なのだろうが、仕事そっちのけだ。2人の女の子の方が、よっぽど役に立ちそうなのであった。
 
 レジを済ませ、予定通り旅館の場所を聞いてみた。やっぱり地元の子らしく、直ぐに目的の旅館は分かった。小さな町である。これが大都市だと、通り掛かりの人に道を聞いても、なかなか分からない場合が多い。
 

 

<宿へ>
 女の子たちに言われた通り、コンビニの直ぐ先を右に折れ、三ヶ所川を三ヶ所橋で渡って三ヶ所の集落内を通る県道(8号・竹田五ヶ瀬線)に入る。国道の方はそのまま三ヶ所川左岸沿いを進み、五ヶ瀬隧道を抜けて行く。 元々は右岸の集落内を通る方が国道で、現在は込み入った町並みをバイパスする形で国道は対岸に換線され、通じている。
 
 旧国道である町のメインストリートは、雨が降っていることもあり、ひっそりと寂しい雰囲気だ。5年前に笠部隧道を越えて三ヶ所を訪れた時はそのまま国道の方を走ったので、この街中に踏み入るのは初めてのことだ。 今夜の宿はその通りに面しているとのこと。中心部へと続く下流方向に100m余り進むと、右手に「旅館菊池」と書かれた看板を見付けた。 道沿いに軒を連ねた商店や民家と並び、モルタル2階建てのその宿はあった(地理院地図)。 他の建物と同様、車道の直ぐ際まで建物が迫っている。駐車場はあるのかと心配したが、道を挟んで反対側に数台置けるスペースがあった。 そこにジムニーをバックで停め、エンジンを切って一安心。運転席から宿の様子をしげしげと眺めてみた。

 

旅館の正面の様子
無事宿に着いて一安心
(撮影 1999. 5. 4)

 

<宿の様子>
 ここはホテルや旅館が豊富な大都市でもなく温泉などの観光地でもない。五ヶ瀬町全体を見回しても、あまり観光名所らしい場所は多くはなさそうである。 しかし、国見峠を筆頭として飯干峠や大石越などの峠があり、隣の諸塚村(もろつかそん)と共に険しい林道も通じていて、私にとってはとても楽しい土地だ。 一方、普通の観光客が旅行先にと好んで訪れる土地ではないことも否めない。宿泊施設の需要はそう多くはないであろう。この五ヶ瀬町の町役場もある中心地・三ヶ所でさえ、今回の旅館がただ一軒あるのみだ。
 
 こういう土地柄では主に仕事関係で町を訪れた者が利用する宿が多い。いわゆる「商人宿」と呼ばれる類だ。宿泊という実務に徹し、風呂に入り、食事をし、夜は寝るという基本的なサービスの提供を主眼とする。 観光旅館のような手厚いもてなしやウェルカムドリンクなどの付加的サービスはあまり関係ない。宿の外見や設備の良さも、宿泊料金とのトレードオフであり、安ければそれで何も文句はない。 仕事なので連泊することが多く、日々、同じような暮らしが続けられればそれでいい。 仕事から疲れて帰ったらまず風呂に入って身体を癒し、夕食を摂って明日への活力を養い、後は部屋でのんびりくつろぐ。朝はさっさと朝食を掻き込み、仕事の現場へと急ぐ。
 
 こうした商人宿でも仕事ではなく釣りや登山を趣味とした者も来るだろう。峠や林道が目的の私も、ちょっと異質だがその部類に入る。そうした者たちは、仕事ではないにしろ、宿に余計な期待は持っていない。 しかし、中には稀に普通の観光客も泊まりに来るかもしれない。都会の洗練されたホテルや立派な構えの観光旅館とは大きく異なる。そうした宿に慣れている者は少し戸惑うかもしれない。
 
 その点、私は百戦錬磨である。数々の宿を経験してきている。ちょっとしたことではもう動じることはない。それに、常に先を予想して行動している聡明な私のことである。 突然の出来事に驚かされるなんて、無様な失態を演じる訳がないのだ。それでも、ここが今日の宿か・・・と思うと、ちょっと気が引けない訳ではなかった。 今夜は辛い野宿ではなく、ゆっくり旅館で寝られると思い、かなり気が緩んでいたようだ。宿を目の前に、暫し見入ってしまった。
 

 

<チェックイン>
 気を取り直し、宿に入る前にジムニーの荷室に散らかった荷物の整理を行う。旅の途中では車の中は野宿道具などでめちゃくちゃになっている。 宿に持ち込む手荷物をまとめるついでに、いろいろ片付けをしなければならない。その作業の合間合間にも宿の方が気になり、時々ちらちら目が行ってしまう。今夜はどの部屋に寝ることになるのだろうか。 玄関の真上にある、あの部屋だろうか。カーテンは中途半端に開かれ、何だか荷物がいろいろ置かれている。しかも、あそこに見えるは、どうも扇風機のようなのだが・・・。 今は春のゴールデンウィーク真っ最中である。
 
 荷物整理に手間取っていると、宿の玄関がガラリと開き、一人の恰幅のいいおばさんが出て来た。宿の女将さんのようである。こちらがなかなか入って来ないので不審に思ったらしく、顔を出したのだった。 こちらがちょこっと会釈すると、また中に戻って行った。慌てて荷物を持って宿に向かう。

 

玄関の真上の部屋
窓際に扇風機が見える
(撮影 1999. 5. 4)

 

<部屋へ>
 あまり愛想のない女将さんに事務的に通された部屋は雑然とし、何となく違和感があった。季節的にはもうほとんど使う必要がないのに、コタツと石油ストーブが乱雑に置かれている。 石油ストーブの上には、ヤカンが掛けられたままだ。床の間の飾り棚には灰皿や蚊取り線香が無造作に並んでいる。壁に貼った注意書きも、古くて汚れていて、剥がれかけたりしている。 襖の破れはそのままほってある。障子には大きなシミが残っている。部屋のあちこちに木製や針金やらのハンガーが使ったままに吊り下げられている。 部屋の隅には既に布団が敷かれてあったのだが、前夜使われた布団がそのまま置かれているんじゃないのかと怪ぶみたくなってきた。ポットと茶器がコタツの上に用意してあるのたが、胃腸の悪い私である。 これには手を触れない方が無難かもしれない。

 

部屋の様子(1/2)
何となく雑然としている
(撮影 1999. 5. 4)

 

 部屋の車道側に窓に面して狭い廊下がある。広縁と言っていいだろうか。そこには一般的な日本の旅館によくあるように、小さなテーブルと椅子が2脚置かれていた。しかし、如何にも狭く、片方の椅子には座れない。 障子の陰を覗いてみると、廊下の左右に荷物が仕舞われていて、その分廊下が狭くなっているのだった。右手の奥には、また別の石油ストーブとその上に例の扇風機が何のカバーも掛けられることなく置かれている。 季節感も何もあったものではない。左手にはベニヤ板の様な壁が設けられ、その向こうに何やら荷物が詰め込まれているのだった。板の上から長い棒のような物が出っ張っている。
 
 これまでにもいろいろな宿に泊まったことがあり、中には設備の古い宿も少なくない。 しかし、大抵は宿のそこかしこに修繕の努力が見られ、日々の掃除は行き届き、宿泊者が気持ち良く泊まれるようにと小奇麗にされているのが普通だった。 有名旅館の様に隅々まできれいに整えられ、生け花さえ飾られているなどというのは元から期待しないが、ここまで手が抜かれている宿というのもそうそうあるものじゃない。 ある意味、小気味がいい程に徹底している。先程のやや太りぎみの女将さんが思い出された。

 

部屋の様子(2/2)
障子の影に扇風機などが置かれていた
(撮影 1999. 5. 4)

 

 言うまでもなく、その日の泊り客は私一人であった。ゴールデンウィークで賑わう世間をよそに、ここでは混雑などどこ吹く風である。泊り客がたった一人だけというのは、私の旅ではままあることだ。 5年前に高千穂旅館に泊まった時も、確か一人だった。最初の内はかなり気まずいものなのだが、それももう慣れっこで、最近ではさほど気にも留めずに済む体質になっている。 かえって他の泊り客と顔を合わせる必要がなく、気楽にさえ思う。
 
 半分開かれたカーテンの間から通りの様子を望む。愛車ジムニーはポツンと雨の中だ。高千穂旅館に泊まった時は、建て替えたのかリホーム仕立てか、宿の建物全体が真新しく、気持ちが良かった。 同じ五ヶ瀬町でも、今夜の宿は対照的である。

 

部屋の窓から見る通りの様子
我ジムニーが停まる
(撮影 1999. 5. 4)

 

<風呂へ>
 時間は夕方の5時で、夕食までにはまだまだ間がある。さりとて、この雨で町中散歩する訳にはいかない。風呂にすることとした。フェリーで入って以来、何日か振りの風呂でさっぱりしようと思う。
 
 風呂は宿の裏手の階段を下りた1階にあった。廊下や浴室が薄暗く狭いだけならまだしも、脱衣所の足拭きマットは曲がって皺が寄った状態で置かれている。このまま裸足で踏みたくない。 誰が使ったか分からないタオルも掛けたままだ。もう少し何とかならないものかとは思う。
 
<潔癖症(余談)>
 今は汗と埃にまみれて野宿旅などしている私だが、高校生くらいの時から異常な程の潔癖症になった。人の触った物など指一本触れたくない。昔の公衆トイレは汚なかったが、使うのが嫌で嫌でしょうがなかった。 公衆浴場など入る人の気が知れない。時には自分の唾さえ気持ち悪くて呑み込めない始末であった。それがいつしか吹っ切れ、温泉と聞けば喜んで入り、旅先で下着を何日も変えなくても、一向に気にならなくなった。 気が付けが、大人は何て汚いことをするのか・・・と思っていたことを、平気でしている自分が居た。
 
 それでも時に昔の潔癖症が頭をもたげる瞬間がある。トイレの便座や風呂の椅子は念入りに拭かないと座れない。 ある旅先で妻が酷い水虫に罹った。どうやら宿の風呂場のマットを踏んで感染したようだ。それを聞いてから足拭きマットが怖くてしょうがない。 宿や日帰り温泉で、浴室の出入り口にマットが敷かれていると、必ず避けて通っている。
 
 今回の宿の風呂は、何となく他人の家に来て風呂に入っているような気がするが、それでもやっぱり風呂はいい。 埃と汗でゴワゴワになっていた頭髪をシャンプーし、体中を泡立てて洗えば、石鹸の香りも心地良く、気持ちがほぐれて行った。
 
 そろそろ上がろうかと思った時点になって、自分のタオルを持って来るのを忘れていたことに気付いた。しかし、例の備え付けのタオルを使う訳にはいかない。 誰も見ている者がないのをいいことに、身体に付いた水滴を手で払い落とした後は、下着を着けず、浴衣を羽織っただけで部屋まで戻った。その途中、隣の客室をちょっと開けて覗いてみた。すると同じような惨状だった。 私の部屋だけ特別という訳ではなかった。

 

一階の廊下の様子
風呂へ行く
(撮影 1999. 5. 4)

 

<夕食へ>
 食事は下の階の一室に呼ばれた。畳敷きの和室である。この分だと食事もあまり期待できないかと思っていたが、こちらはまあまあ普通であった。野宿旅でロクな物を口にしていなかったこともあり、美味しく全部平らげた。
 
 食事のテーブルの隅に無造作に一冊の大学ノートの宿帳が置かれてあった。女将さんからは記帳してくれとも何とも言われていないが、きっちり記入することとした。本日は1999年5月4日。 他の日付のページをめくってみると、いろいろ感想なども書かれている。単なる仕事関係以外の利用もあるようだ。私も書くことにした。「峠をまわって旅してます」。  
 
<部屋にて>
 食後は寝床の側にテレビを移動し、寝っころがってコンビニのジュースを飲みながらのんびり眺めることにした。こんな怠惰な生活は普段の自宅ではやらない。これをやったらどこまでも堕落しそうだからだ。 旅先でのみ許される贅沢である。布団のシーツのしみがちょっと気になった。ちらりと昔の潔癖症が頭をよぎるが、一度横になってしまったらもう平気である。大の字に手足を伸ばす。
 
 ただ、こうして宿に泊まった時に必ずやらなければならないことがあった。電気カミソリなどの充電である。野宿ではコンセントが用意できないのだ。携帯電話のバッテリーもチェックを忘れない。 後にデジカメが普及すればその充電も必要になった。こうした電気製品は電力が小さいので、その電気代は10円にも満たない。この程度は宿のサービスだと思い、部屋のコンセントを使わせてもらう。
 
 何だかんだと言っても、電話一本でこうして雨をしのげる屋根の下、風呂に入り、食事をし、布団の上に寝っ転がってテレビを見られるというのは有難いことだ。それにまだ一円たりとも払っていない。 宿の者の側からすれば、どこの馬の骨とも分からない人間を泊めるのである。愛想よくできる訳もない。宿泊という実務に徹して頂ければそれでいい。ただ、やや徹し過ぎたきらいはあるが・・・。
 
 ツーリングマップルを眺め、明日の旅程を考えなければならないのだが、横になっているとだんだん眠たくなってきた。何だか面倒だし旅の疲れもあるので、このまま怠惰に寝てしまおう。 宿の中も外も物音一つしない。宿の前は集落のメインストリートなのだが、ほとんど通る車はないようだ。静かな夜が更けていった。

 
 

<翌朝>
 翌日は朝6時にはもう起きていた。野宿旅では朝早いのが習慣となっている。朝食前に宿を出て、町の様子を見て回った。

 

三ヶ所川沿いに立地する三ヶ所の集落
三ヶ所川に架かる国道218号の橋より下流側を望む
(撮影 1999. 5. 5)

 

集落途中に架かる三ヶ所橋
対岸に通じる国道へと渡る
「昭和三十年三月竣工」とある
(撮影 1999. 5. 5)

 

三ヶ所橋より上流方向に見る
(撮影 1999. 5. 5)

 

 バイパス国道ができているので、朝の町のメインストリートは車が全く通らず、散歩するには向いていた。住民にとっては何でもないいつもの町の風景だろうが、そんな町中を散策するのが好きである。

 

三ヶ所橋の袂より下流方向の集落の様子
この道の先の右手に宿がある
(撮影 1999. 5. 5)

 

 ここにも人の暮らしがある。電気屋があり、八百屋があり、魚屋があり、雑貨屋があり、そして宿もある。そんな様子を見て歩く。

 

宿の全景
(撮影 1999. 5. 5)

 

<医院>
 宿の並びの少し先に「樂天堂醫院」と表札を掲げた建物があった。病気が治りそうな、治らなそうな、変わった名前だ。建物は古く、昔から住民が通った医院なのだろう。
 
<余談>
 そう言えば、私がまだ小学生低学年の昭和30年代頃、近所に「つじやまさん」という医院があった。多分「辻山医院」であったろうが、みんな「つじやまさん」、「つじやまさん」と呼んでいた。 表札や建物の佇まいも樂天堂醫院に似ているような気がする。医院に隣接して庭木の多い自宅も構えていた。恰幅があり髭を蓄えた厳つい顔の医師が地域住民を診ていた。 子供心に怖そうに思えたが、今どきの医師に比べると威厳があった。 風邪などひいて母親につじやまさんに連れられて行くのが嫌だった。帰りにアイスクリームを買ってくれるというのに釣られ、しぶしぶ出掛けた。 病室にはあのアルコール臭独特のにおいが漂っていた。診察室の壁に中国風の丸い飾り窓があったのが印象的だった。
 
 丁度都合いいことに、家の帰り道に小さな売店があり、そこで約束のアイスを買ってもらった。当時、棒アイスが5円で買えた。10円出すとカップアイスが買えた。子供の小遣いでは10円は惜しく、滅多にカップアイスは食べなかった。 今でもカップアイスは高級品というイメージが残っている。当時のアイスクリームにはチクロという甘味料が使われていた。間もなく日本では使用禁止となったが、あの独特な甘さが懐かしい。

 

集落途中にあった樂天堂醫院
(撮影 1999. 5. 5)

 

<商店街>
 間もなく右に県道8号・竹田五ヶ瀬線が曲がって行く。その丁字路付近が商店街となっている。小売店ばかりで、店構えは古いものが多い。それでもここが三ヶ所で一番繁華な中心地と言っていいのだろう。 大きなビルに入り、豊富な品揃えの百貨店やスーパー、ディスカウントショップなどを使い慣れてしまった者には、ちょっと立ち寄り難い気がする。でもどこか懐かしい雰囲気だ。

 

集落の中心地
商店などが並ぶ
(撮影 1999. 5. 5)

 

集落の中心地を宿方向に見る
(撮影 1999. 5. 5)

 

<赤谷橋>
 商店街を過ぎると、味のある眼鏡橋の赤谷橋で三ヶ所川の左岸へと渡る。川岸には駐車場や遊歩道が設けられていた。そんなところも歩いてみる。

 

商店街の北部に架かる赤谷橋
下流方向に見る
(撮影 1999. 5. 5)

 

赤谷橋より上流方向を望む
(撮影 1999. 5. 5)

 

<町役場付近>
 赤谷橋を渡った先は様相が一変する。近代的な病院や町役場、奥に中学校など大きな建物が立地する。五ヶ瀬町の官庁街といったところだろうか。比較的最近に再開発された地区と思われる。 一方、昔からの人家は少ない。
 
<九州島発祥の地(余談)>
 役場の近く、広い駐車場の一角に電話ボックスが立ち、その陰に「九州島発祥の地」と書かれた一本の標柱があった。 今回ちょっと調べてみると、大石越の直ぐ北にある祇園山(1307m)が関係している。その山に相当する部分が地殻変動により海から最初に顔を出し、九州の陸地の始まりとなって行ったそうだ。 ただ、あまり五ヶ瀬町の観光資源とはなっていないように思う。

 

「九州島発祥の地」標柱
(撮影 1999. 5. 5)

 

 町役場を過ぎると、バイパス路の国道に出てしまう。国道との角にタイムカプセルの記念碑などを見付けた。役場手前を右に曲がって貫原橋を中学校方面に渡ると、また集落の続きがあるようだ。
 
<あいさつ(余談)>
 1時間程の散歩の間に地元の方を数人見掛ける。祠に祀ってある地蔵に手を合わせる人が居た。いつもの朝の日課のようである。都会ではもうこんな信心深い習慣は見られない。 新聞を配る少年が「おはようございます」と挨拶して行った。こちらも言葉を返す。他の人も、たとえこちらがどこの誰だか知らなくても、すれ違えば会釈し言葉を交わして通る。 声を出すのはちょっと照れくさいが、後の気分はいい。
 
 本来それが人と人がうまく関わり合っていく、テクニックなのだと改めて思わされる。人が社会生活を営む上での、潤滑剤的な意味がある。 都会の圧倒的な数の人込みの中では、そうしたテクニックは成立しない。都会で他人同士が言葉を交わす時、それは既にトラブルの始まりであることが多い。 旅先ではこうしていろいろと勉強になる。挨拶は重要だなと本当に思う。そのくせ旅から戻れば、相変わらず会社では滅多に人と挨拶を交わさない。 その日の仕事が終われば黙って席を立ち、さっさと帰ってしまう、極めてドライな私であった。

 
 

<出発>
 7時過ぎには散歩から戻り、ご飯に味噌汁、海苔に卵、塩鮭に漬物といった極めて日本的でオーソドックスな朝食を済ませた。旅先ではこうした普通の食事が美味しく頂ける。朝の散歩で体を動かした効果でもある。 まあ、野宿の朝に即席ラーメンばかり食べるような食生活を続けていれば、何でも美味しいに決まっているが。部屋に戻り、元あった以上に部屋をきれいに片付け、宿を後にする。
 
<宿代>
 宿の支払いは2食付きで6,000円ぽっきりであった。当時は消費税5%の時代だが、それを含んでの価格なのだろうか。 父が個人事業主であった時、私は事業専従者として所得税や消費税の納税を担当していたことがあり、税務には少々詳しい。経費などの領収書管理はきっちりやっていた。 そこにいくと、今回の宿は宿帳の記入もゆるく、正式な領収書の発行もなかった。かなりルーズそうである。その分、6,000円と格安であった。正しく宿泊に徹した宿である。
 
 尚、以前泊まった高千穂旅館は、全面改築直後とあって部屋も風呂も新しくきれいで、トイレも立派な水洗であった。その代わりかどうかは知らないが、値段は少し上がって7,000円也。 これでも一般相場として高くはない。もしまた五ヶ瀬町に泊まるとしたら、どちらの旅館を選ぶかは言うまでもなかった。
 
 今日は天候も回復したので、九州一長い林道の峠、椎矢峠(しいやとうげ)を越えようと思う。

 
 

<あとがき(余談)>
 自動車交通が発達した現代では、三ヶ所の国道沿いに立つコンビニは使われるだろうが、町中にある昔ながらの旅館を利用する者は増々少なくなるだろう。 子供の頃、家に置き薬の箱があり、たまに富山の売薬さんが訪ねて来て、紙風船などをもらった記憶がある。そんな旅をしならが商いをする行商人など、もう見掛けることはない。 商人宿といった宿の形態も成り立たない時代である。
 
 ちょっとネットで調べてみると、今回の宿はもう閉館しているようだ。三ヶ所の赤谷地区に宿泊施設が見当たらない。どうやら宿の跡地には赤谷集会センターが建っているらしい。 商店街も寂しくなったかもしれない。
 
 自分が子供の頃の昔を振り返ってみても、随分世の中は変わったものだと思う。良くも悪くもこれが世の趨勢である。
 
 このホームページ「旅と宿」は、いろいろな宿に泊まった時の経験を、簡潔に記しておこうと思って始めた。スマホでも閲覧し易いようにと、文字や写真の配置も簡素なものにした。 それなのに、子供の頃の昔話まで持ち出し、無用にだらだらと長くなってしまった。この歳になると昔を思い出すのは懐かしく、まだまだ書きたいことは尽きないのだが、自重しなければ身体がもちそうにない。

 

1999年5月4日(火)
宮崎県五ヶ瀬町・菊池旅館泊

 
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