ホームページ★ 峠と旅

土呂部峠
  どろぶとうげ  (峠と旅 No.348)
  旧栗山村の「表」と「裏」を繋いだ峠道
  (掲載 2026. 3.26  最終峠走行 2024.10.16)

   
   
   
image
   

土呂部峠 (撮影 2024.10.16)
奥が栃木県日光市(旧塩谷郡栗山村)湯西川
手前が同市(旧塩谷郡栗山村)土呂部
道は県道249号・黒部西川線
峠手前を左に県道350号・栗山館山線が始まる
峠の標高は1,193m (地理院地図より)

峠部分は三叉路になっていて、姿としては余り峠らしくない
この峠は旧栗山村内にあって、表栗山と裏栗山を結ぶ重要な往還だった
近年、湯西川ダム建設に伴い、湯西川沿いの区間が大幅に改修され、
この峠を利用する車は増々少なくなるものと思う

   
   
   

   

<掲載動機(余談)>
 前回の掲載は長野・岐阜県境の鞍掛峠だった。訪れたのは30年前後も前なのだが、今思い返してもとても魅力的な峠道だ。 こうした峠はそう多くない。去年は四国や紀伊半島の峠を片っ端から掲載してみたが、小さな峠も多かった。ほとんど印象に残っていない峠も少なくない。これからは少し峠の選別を慎重にしてみようかと思い、この土呂部峠を選んでみた。

   

<土呂部>
 土呂部(どろぶ)という地名は、一度聞くと記憶に残り易い。文字もシンプルだ。土呂部は旧栗山村(現日光市の一部)にある小さな集落で、最近の日光市のデータによると、人口は30人にも満たない。この山間の集落を知っている者はそう多くはないだろう。
 
 しかし、NHKの首都圏ニュースを視聴すると、時折この土呂部の名を目にし、耳にすることになる。冬場に「土呂部で積雪何々cm」とアナウンサーが読み上げるのだ。妻曰く、土呂部に気象観測所、いわゆるアメダスがあるのだろう。 至極ごもっともだ。巨大な人口を有する東京都とその近県に住む者がそんなニュースを目にするのだから、土呂部の名は想像以上に多くの人々に知れ渡っているものではないだろうか。その一方で、土呂部が一体全体どこにあるか、知る人は限られると思う。
 
 土呂部の積雪がニュースになるのは、それ程雪深い地だからでもある。私の場合、土呂部と聞くとやはり土呂部峠のことを思い出す。 土呂部集落の積雪が話題に上る季節になると、きっとその奥に位置する土呂部峠も深い雪に埋もれ、峠道は閉ざされているのだろうと思いをはせる。土呂部峠前後は冬期通行止の道である。

   

<所在>
 峠道は全て旧塩谷郡(しおやぐん)栗山村(くりやまむら)の中にある。平成18年(2006年)3月に日光市、今市市、藤原町、足尾町、栗山村が合併して新しい日光市が誕生してからは、住所表記から「栗山」の文字が消えた。 その為、現在の地図では旧栗山村の村域が分かり難くて困る。大ざっぱに言って、栃木県の北東の端で、福島県と群馬県との県境に接する地だ。
 
 峠前後は概ね南北方向に通じるが、峠道全体はぐるっと3/4程の円弧を描く様に延びる。
 
 峠の南側は旧栗山村の大字土呂部で、現在の住所では日光市土呂部になる。
 
 峠の直ぐ北側は旧栗山村の大字湯西川(ゆにしがわ)で、同じく現日光市湯西川だ。文献(角川日本地名大辞典や日本歴史地名大系)では「湯西川」は「ゆにしかわ」で出ているが、一般的には「川」は「がわ」と読んでいる。
 
 峠は旧栗山村の時代は土呂部と湯西川の大字境に位置していた。また、江戸期から明治22年(1889年)までは土呂部村と湯西川村の村境であった。現在の日光市の場合は、大字境と言っていいのだろうか。

   

<地理院地図(参考)>
 国土地理院地理院地図 にリンクします。


   
本ページでは地理院地図上での地点を適宜リンクで示してあります。
   

<水系>
 峠道の範疇を明確にする上では、やはり水系・水域の考察は欠かせない。
 
<土呂部川>
 峠の土呂部側は鬼怒川(きぬがわ)の支流・土呂部川(地理院地図)水域になる。土呂部川の上部はシダミ沢(地理院地図)と荷揚沢(地理院地図)に分かれていて、峠はシダミ沢上流部に位置する。地図を見る限りには、荷揚沢源流の方が奥深い所にあり、そちらが土呂部川本流の源流の様に思える。荷揚沢とシダミ沢を合わせた以降を土呂部川と呼ぶようだ。
 
<湯西川>
 峠の湯西川側は湯西川水域だ。地名と川名が同じなので、煩雑である。峠直下にはまずマグラリュウ沢(地理院地図)が流れ下り、道はマグラリュウ沢沿いから一時藤花沢沿いを迂回し(地理院地図)、その後マグラリュウ沢と藤花沢を合わせた橋立沢(地理院地図)沿になる。
 
 橋立沢と三河沢(みかわさわ、三河沢川とも)を合わせた後は湯西川となり(地理院地図)、遥かに下って男鹿川(おじかがわ、稀に「おががわ」)を堰き止めた五十里(いかり)ダムの五十里湖右岸に注ぐ(地理院地図)。五十里ダム直後に男鹿川も鬼怒川に注ぐ。
 
 鬼怒川は利根川水系である。峠は同じ利根川水系・鬼怒川水域にあり、その支流の土呂部川と男鹿川の分水界に位置する。男鹿川側は更にその支流の湯西川水域になる。

   

<五十里湖付近(余談)>
 何となく、五十里湖は鬼怒川本流の様な気になる。それは湖岸に通じる大幹線路の国道121号・会津西街道が北上し、行く行くは山王峠(山王トンネル)を越えて福島県に通じている。 鬼怒川と国道はいつも一緒だというイメージがあるからだ。
 
 しかし、冷静に考えると、鬼怒川の源流は西の群馬県境にある鬼怒沼(地理院地図)近辺である。 そこより東流、男鹿川を合わせてから南流し、それ以降国道と沿うことになる。ただ、文献によっては明らかに男鹿川を鬼怒川と取り違えているのを見掛けた。勘違いは私だけではないらしい。尚、男鹿川を「五十里川」と呼ぶこともあるようだ。 五十里湖が出現する前には五十里村と呼ばれる村があったそうだ。
 
 また、湯西川は鬼怒川の一次支流だという勘違いもある。男鹿川も湯西川も同じ五十里湖に注ぐので、ちょっと見はどちらが本流か分からない。 しかし、よく見ると五十里ダム下流には男鹿川と記されていて、男鹿川の方が一次支流であることが分かる。やっと今回すっきりした気分だ。

   

<立地>
 旧栗山村(以後、簡略化して栗山村とも記す)に於いては、鬼怒川と支流の湯西川が二大河川となる。男鹿川については五十里湖の一部が村域に僅かに接するだけの存在だ。 鬼怒川沿いには県道23号(主要地方道)・川俣温泉川治線が通じ、栗山村の大多数の集落はその沿線に立地する。一方、湯西川沿いにも県道249号・黒部西川線が通り、湯西川と西川(にしかわ)の集落が点在する。栗山村については大きくこうした構図が描ける。

   

<役割>
<表・裏栗山を繋ぐ>
 かつて、鬼怒川沿いの地区を「表栗山」、湯西川沿いを「裏栗山」と表現したことがあったそうだ。表栗山と裏栗山は下流の男鹿川経由で繋がっているが、上流側でこの2地区を結んでいるのが、今回の土呂部峠ということになる。 古くから村内の行き来に利用されていたものと思う。文献(日本歴史地名大系)にも、この経路は表栗山と裏栗山を結ぶ重要な往還だったと記されている(土呂部峠とは記していないが)。
 
<黒部・日蔭へ>
 土呂部峠を土呂部側に下り、鬼怒川沿いに辿り着いたところは大字黒部(くろべ)で(地理院地図)、その東隣は村の中心地の大字日蔭(ひかげ、地理院地図)になる。日蔭の青柳平(地理院地図)にはかつて村役場があった。土呂部峠は裏栗山と村の中心地・日蔭を最短で結ぶ道でもある。
 
<日光・今市へ>
 また、日蔭を経由して更に南下すれば、今市や日光などの都市部へと通じる。湯西川上流部の住民にとって土呂部峠はそうした利用もあったようだ。

   

<峠名>
 土呂部峠の名は、湯西川側の立場から見て土呂部へと越える峠という意味合いに取れる。こうした名の峠が存在することは確かだが、ツーリングマップル以外にこの峠名が記載された地図を見たことがない。 インターネット上でも地理院地図をはじめGoogle マップ、Yahoo!マップなどなど、色々調べてみたが土呂部峠の記載は見付からなかった。栗山村の観光パンフレット類にも見当たらない。
 
 また、初期のツーリングマップ(ル)でも未記載だった。その為、土呂部峠の少し北西に田代山林道(現県道栗山館山線)と馬坂林道の分岐点があるが(地理院地図)、そこを土呂部峠だと勘違いしていた時期があった。
 
 文献(日本歴史地名大系)では、湯西川村から黒部村に山越えの経路があったとか、湯西川西端の集落・高手(たかで)から南進、峠を越えて土呂部・黒部へ通じていたとか、明らかに今回の土呂部峠のルートの存在を示していた。しかし、「土呂部峠」とは一言も記していない。
 
 尚、文献(角川日本地名大辞典)で土呂部峠が登場するのは湯西川村(近世)の項になる。「明治元年の戊辰戦争の際には(途中省略)、土呂部峠に作られた1番胸壁から4番胸壁までの守りにつかされた(山口家文書)」と出ている。湯西川村から見ての土呂部峠だから、やはり今回の峠の位置だとは思う。
 
 いろいろ調べてみると、詳しいことは分からないが「口ケ坂峠」という別称もあるようだ。とにかく、地形的に峠であることは間違いないが、あまり峠名をはっきり記載されることはない。

   

<栗山村の峠(余談)>
 栗山村は、日光市の一部になってからも含め、8回訪れている。その内2回は川俣温泉に、1回は湯西川温泉に宿泊した。残念ながら野宿の経験はない。 栃木県は観光で行きたい都道府県順位では下位の方にあり、その栃木県の中でも栗山村は北西の端っこに位置する。その地をこれ程よく訪れたのは、峠に無関係ではなかった。
 
 栗山村は鬼怒川最源流に位置し、一説には村域の95%以上が森林とも言われる。鬼怒川本流沿いまたは湯西川沿いに遡る以外、村と外界との行き来は全て峠道となる。 今回の土呂部峠は村内に通じる峠道だが、村外との間に名だたる峠道が存在する。主な峠を以下に列記してみる。
 
 ●山王峠地理院地図)、山王林道(奧鬼怒林道とも)
 ●富士見峠(地理院地図)、車道未開通
 ●大笹越(え)(地理院地図)、県道169号・栗山日光線
 ●帝釈山峠地理院地図)、川俣檜枝岐林道
  (馬坂林道、舟岐林道、馬坂峰越連絡林道などとも)
 ●田代山峠地理院地図)、県道350号・栗山館山線
  (田代山林道、村道田代線などとも)
 ●安ヶ森峠地理院地図)、安ヶ森林道(村道鱒沢線などとも)
 ●湯坂峠(地理院地図)、平沢芦沢林道(未開通)
 
 注:地理院地図などには峠名の記載がないことが多く、上記の中には仮称らしき峠名も含まれる。

   
image

山王峠 (撮影 2005.10.30)

image

帝釈山峠 (撮影 1998. 7.25)

   
image

田代山峠 (撮影 1994. 8.12)

image

安ヶ森峠 (撮影 2001.10.21)

   

 こう見ると、そうそうたる峠が並ぶ。これだけの峠を指をくわえて見ている訳には行かない。自然、栗山村へと誘(いざな)われ、それで何度も訪れることになったのだ。 勿論、峠ばかりではなく温泉なども豊富で、ダムなどの景勝地にも事欠かない。ただ、現在は帝釈山峠、田代山峠、安ヶ森峠などは通行止となっている様子で、とても残念である。これらの峠を掲載したのはもう随分と前のことになる。 次回は安ヶ森峠でも詳しく再掲載したいと思う。  安ヶ森峠(再掲)

   
   
   

土呂部方面から峠へ

   

<栗山村の中心地へ>
 前回の長野県の王滝村程ではないが、栃木県の栗山村へと旅をするのも、なかなか容易なことではない。栗山村の中心地日蔭(ひかげ)に辿り着くにも、鬼怒川沿いのあまり広くもない県道23号・川俣温泉川治線を遥々と遡ることになる。ただ、一応主要地方道の道ではある。
 
<日蔭(余談)>
 日蔭は大きく下流側の字日蔭と上流側の字青柳平の2集落に分かれる。まずは県道沿いに日蔭集落が出て来る(地理院地図)。ただ、沿道に人家がちょっと多く見られるなという程度で、余り村の中心地という意識は持たない。そもそも村の中心なら役場や郵便局があってしかるべきだ。しかし、何度も訪れている栗山村だが、そうした場所の心当たりがない。

   

<青柳平(余談)>
 今回調べてみると、元の県道23号は黒部(くろべ)ダムの堰堤(地理院地図)を渡っていたようだ。 現在は青柳トンネル(竣工:1983年1月)と青柳大橋などによるバイパス路が通じていて、役場などがある青柳平集落は旧道側に立地していたのだった。それでこれまで一度も村の中心地を見たことがない。 日光市の一部になってからも、暫くは日光市役所の栗山総合支所が青柳平に置かれていたそうだ。

image

黒部ダムを望む (撮影 2005.10.31)
県道23の青柳大橋上より

   

<日光市栗山庁舎(余談)>
 ところが、最近は快適なバイパス路の延長上に栗山行政センターなどの公共施設が移転されたようだ。青柳大橋を渡った直ぐ先の道路脇に新しい庁舎の施設などが立つ(地理院地図)。土呂部峠への分岐の近くなので、ちょっと車を停めさせて頂いた。トイレなどが借りられるかと思ったが、観光施設の類はないようだった。

   
image

県道23号を青柳大橋方向に見る (撮影 2024.10.16)
右手に栗山行政センターがある

image

栗山行政センターなどの看板 (撮影 2024.10.16)

   

 この栗山庁舎の住所は大字日蔭でなく、大字黒部になるようだ。庁舎の建物以外、県道沿いに人家などは全くない。これまで村の中心は日蔭と言われてきたが、微妙なことになった。

   

<土呂部峠への分岐>
 栗山庁舎から少し日蔭方向に戻った所に「土呂部(どろぶ)」と示した分岐の道路標識が立つ。ここが実質的に土呂部峠への分岐点になる。

   
image

県道23号を青柳大橋(東)方向に見る (撮影 2024.10.16)
左(北)に土呂部への道が分岐する

image

土呂部を示す道路標識 (撮影 2024.10.16)

   

<分岐付近の様子>
 近くには「くろべ茶屋」があり、分岐方向には黒部温泉の案内看板が立ち、ちょっとした観光地の雰囲気はある。ここには約20年前にも訪れたが、その間に少し寂れたように感じる。

   
image
   

上の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2005.10.31)
左手には「くろべ茶屋」がある

   

<県道23号旧道方向へ>
 道路標識の青看板には県道249号の番号が示されているが、その道は青柳平集落を抜けて来た道の出口でもある。バイパス路ができた経緯からすると、それは県道23号の旧道とも言える。道路地図によっては、23号としていたり249号とあったりと、まちまちである。

   
image

黒部橋を渡る (撮影 2024.10.16)

<黒部橋>
 右手に黒部温泉を見て過ぎると、土呂部川(どろぶがわ)を黒部橋(くろべばし)で左岸に渡る。この川が土呂部峠から遥々流れ下って来た川で、黒部橋の直後に黒部ダムの湖に注いでいる。鬼怒川の一次支流だ。
 
 この黒部の地では慣例的に「黒部川」(くろべがわ)とも呼ぶようである。勿論、正式な河川名ではない。多分、上流部に土呂部ダムがあるが、それより少し下流になる大字黒部内でそう呼ぶのかもしれない。 黒部川とか黒部ダムなどと、富山県にある有名な方の川やダムと間違われそうである。ネット検索の時には何らかの工夫が必要だ。

   

<十字路>
 黒部橋を渡った直後に変則的な小さな十字路がある。右が県道23号の旧道で、看板にはまだ「日光市役所 栗山総合支所」とあった。現在、旧栗山村役場の跡地は公園になっていようだ(地理院地図)。
 
<県道249号の旧起点>
 奥を左に曲がって行くのが県道249号・黒部西川線になり、大字土呂部を経て土呂部峠に至る。県道23号のバイパス路ができる前は、この十字路が県道黒部西川線の起点であり、同時に峠道の起点であった。
 
<黒部集落>
 十字路左手前を土呂部川左岸沿いに遡るのは黒部集落内へと至る道だ。元は日蔭から黒部へと繋がる村の幹線路だったと思う。 今は青柳大橋などによるバイパス路が通じ、そこへショートカットする黒部橋もできて、黒部集落は村の幹線路から全く外れた存在になっている。私が栗山村を訪れるようになったのは1990年代からだが、その時点ではほぼ現在の道路状況になっていた。よって、青柳平も黒部も訪れたことがない。

   
image
   

黒部橋を渡った先に立つ看板 (撮影 2024.10.16)
左は県道249号、右は県道23号県道
249号に並行するのは黒部集落へ

   
   
   

県道249号へ

   

<県道249号へ>
 分岐から先は駐在所の横を過ぎる。正式には「今市警察署栗山黒部警察官駐在所」というようだ。日光市になってからは住所表記から「栗山」の文字が消えたが、郵便局などこうした公共施設の名称には残っている。

   
image
   

駐在所前を過ぎる (撮影 2024.10.16)
奥が峠方向、手前が十字路

   

<県道栗山舘岩線>
 駐在所の先に県道標識や道路情報が出ている。栗山舘岩線(福島方面)「全面通行止」と出ていた。ちょっと驚くが、この県道350号・栗山館山線は土呂部峠から分かれ、田代山峠を越えて福島県の南会津町、旧舘山村に通じる道だ。 「湯西川・土呂部方面通行可」とことわっている。
 
<馬坂林道>
 また、村道馬坂線が通行できませんとも看板にある。これは土呂部峠の少し先で栗山舘岩線から分岐する馬坂林道のことだ。川俣湖方面に通じ、途中からは帝釈山峠を越える川俣檜枝岐林道が分かれて行く。結局、土呂部峠から先は湯西川方面以外は全て通行止ということになる。

image

県道標識などが立つ (撮影 2024.10.16)

   
image
   

県道標識など (撮影 2024.10.16)
「村道馬坂線は・・・通行できません」

   
image

土呂部ダム (撮影 2024.10.16)

<土呂部ダム付近へ>
 駐在所前から数100mくらいの間は、沿道にも黒部集落に関係した建物が僅かに見られる。ただ、集落の中心地は道路面より少し下の土呂部川左岸沿いに位置する。時折林の間から人家が覗く。
 
 そこを過ぎると土呂部集落まで人家は皆無だ。視界のない寂しい1.5車線路が続く。一部に細かな屈曲もあるが険しい程ではない。
 
 道が土呂部ダムの湖畔に出ると、ちょっと視界が広がる(地理院地図)。ダムは昭和19年(1944年)3月に完成し、その土呂部調整池は昭和38年(1963年)に増設されている。下流には黒部ダムがあったが、栗山村には大小多くのダムが存在する(後述)。

   

<一渡戸橋>
 土呂部ダムの少し手前からは大字黒部から大字土呂部に入っている(地理院地図)。
 
 道は土呂部調整池のちょっと上流側で一渡戸橋を渡って土呂部川右岸に移る(地理院地図)。橋の上からは土呂部川を間近に見る。

image

一渡戸橋を渡る (撮影 2024.10.16)

   
image

銘板には「土呂部川」とある (撮影 2024.10.16)

<土呂部川>
 旅から帰ってこうしてホームページを書いたりする時、橋の名や川の名を確認したい時がままある。その為にと最近はなるべく橋の銘板を写真に撮るように心掛けている。一渡戸橋では川の名は確かに「土呂部川」と出ていた。黒部川ではなかった。
 
 福島・群馬との県境や、隣接する市町村との間の峰々に囲まれた栗山村では、多くの川がそうした村境に源を発することが多い。しかし、土呂部川は村境ではなく、村内に源流を持つ。湯西川水域と馬坂沢(馬坂川とも)水域とが接する付近が源流となるようだ(地理院地図)。この辺りは地形図の等高線が複雑に入り組み、土呂部峠も本当に峠なのか判断が付き難い。

   

<湿地>
 文献(角川日本地名大辞典や日本歴史地名大系)などによると、土呂部は「どろべ」ともよばれたそうで、その語源は「泥」に関係するそうだ。水芭蕉が繁茂するような湿原、泥地があり、そこに発達した集落だったとのこと。
 
 その由来を裏付けるように右手の林の向こうに幾つもの池が見えてくるようになる(地理院地図)。

image

林の間から湿地が見える (撮影 2024.10.16)

   
image

店が見られる (撮影 2024.10.16)

 まだ土呂部集落に入った訳ではないが、沿道に僅かながらも建物が見える。食堂などを営む店もあるようだった。一部の池を利用して釣り堀などを営むのかもしれない。

   

<屈曲>
 最初の湿地帯を抜け、また少し高度を上げる。道は細かな屈曲部分を登る(地理院地図)。この峠道の土呂部側には、こうしたS字の坂道が随所に見られる。しかし、どれも規模は小さく、峠道らしい面白味はあまり感じられない。全般的に穏やかな道が続く。

image

屈曲部分 (撮影 2024.10.16)

   
image

「大滝」などの看板が立つ (撮影 2024.10.16)

<広い平坦地へ>
 S坂を登り切ると、その先は暫く広い平坦地を行くことになる。「土呂部」の語源ともなる本格的な広い湿地帯が始まるのだ。その中に土呂部集落も位置する。
 
 その集落入口ともなる平坦地の取っ付きに看板が立つ(地理院地図)。「土呂部の四季をまるかじり!」などとある。具体的にはキャンプ場(あと1Km、地理院地図)や大滝(ここから400m、地理院地図)と呼ばれる土呂部川に架かる滝が案内されていた。

   
image
   

平坦地の入口に立つ看板 (撮影 2024.10.16)
面白いモニュメントが2体並ぶ
多分、「ドロブックル」とは「土呂部のコロボックル」だと思う

   
image

左手に水芭蕉自生地への入口がある (撮影 2024.10.16)

<水芭蕉>
 湿地帯を特徴付けるのが水芭蕉の存在だ。道の左手に水芭蕉自生地への入口が出て来る(地理院地図)。鹿などの害獣被害から守る為、ネットフェンスにより自生地全体は囲われている。入口の扉に鍵は掛かっておらず、見学の為に自由に開閉していいようだ。その先に木道が延びている。入口周囲には駐車スペースやトイレもあった。

   
image

水芭蕉自生地への入口 (撮影 2024.10.16)
ネットフェンスは害獣除け

image

入口の様子 (撮影 2024.10.16)
「水ばしょう自生地」と看板にある

   
   
   

土呂部集落

   

<沿道に建屋>
 土呂部川の支流・オッパタ沢という小さな川を小さな氷草橋(ひぐさばし)で渡ると(地理院地図)、その先の沿道に建物が見えだす。土呂部の集落は近い。

   
image
   

沿道に建物が見え始める (撮影 2024.10.16)

   

<民宿など>
 まずは人家が集まる集落ではなく、観光向けの民宿や食堂などが目立つ。人家はあっても僅かなようだ。奥の方に比較的大きな建屋も見えたが、倉庫や農業用の納屋などのようであった。

image

沿道に民宿 (撮影 2024.10.16)
黒部方向に見る
(後部ドラレコ画面より)

   
image
   

奥に大きな建屋も見える (撮影 2024.10.16)

   

 畑をなどの耕作地も見られるが、家屋の脇に害獣除けのネットで囲んで僅かに栽培しているものが多かった。ほとんど自給用という程度の小ささで、地域産業としての規模には思えなかった。季節柄、ススキが繁茂している。広い平坦地も、ほとんど利用されていなようであった。

   
image
   

ススキが繁茂する (撮影 2024.10.16)

   

<下河原橋>
 間もなく土呂部川本流を下河原橋(竣工:1968年3月)で渡る(地理院地図)。道は直線的に延びるが、川の方が蛇行している。

   
image
   

下河原橋を渡る (撮影 2024.10.16)
その先に土呂部集落が広がる

   

<土呂部集落>
 下河原橋の先にはいよいよ土呂部の中心集落が広がる。栗山村に通じる幹線路・県道23号から分かれて約6Km。車ならのんびり走っても15分で訪れることができる地だ。秘境でも何でもない。 峠の反対側の湯西川の方がよっぽど山深い地にある。それでもこの土呂部を訪れる者はそう多くはないように思う。釣を趣味とする者や、滝や・水芭蕉を見学しに来る人達であろうか。 一部に食堂や民宿・キャンプ場といった観光施設もあるが、集落そのものは極めて素朴な佇まいである。

   
image
   

土呂部集落 (撮影 2024.10.16)

   

<集落の様子>
 この土呂部を訪れるのはこの時(2024年10月)で3回目であった。最初は1994年8月のことで、今から30年以上も前になる。ただ、栗山村の峠越えが目的であり、車を停めてまで立寄ったことはない。いつも通り過ぎてばかりの集落だった。 釣を楽しんだり水芭蕉を見学する趣味はないのだ。よって、集落に関する記憶はおぼろげだが、その雰囲気はあまり変わらないように思う。この間に栗山村は日光市になったが、土呂部は昔ながらの素朴な集落に映った。

   
image
   

集落内にポツンと立つ県道標識 (撮影 2024.10.16)
住所は「日光市 土呂部」と改められていた

   

 集落内に通じる県道は1.5車線幅と狭いが、それでも後年に通じたバイパス路だと思う。下河原橋の竣工年からして、1968年以降に通じたものと想像する。この道路沿いに人家は少なく、少し北側に通じる旧道の両脇に人家が密集する。 県道をそのまま走っているだけでは、余り集落の様子は伺えない。その為かこの集落の記憶はあいまいだ。この30年で過疎化も進み、人家も少なくなったかもしれない。 ただ、狭い集落内によそ者が何の目的もなくお邪魔するのはどうかと思い、遠慮することとした。今回も県道の方をのんびり走るだけで、写真ばかり撮っていた。前後に設置したドラレコの動画も保存してある。

   
image
   

土呂部集落を黒部方向に見る (撮影 2024.10.16)
珍しく道路脇に人家が立つ(地理院地図
(ドラレコの後部画面より)

   

<公民館付近>
 集落の中心部も過ぎ、人家の間を抜けて来た旧道を合わせた所で、右手に比較的大きな白い建物が目に入って来る(地理院地図)。

   
image
   

右手の白い建物が土呂部公民館 (撮影 2024.10.16)

   

 その入口に「土呂部公民館」とあった。その反対側には消防団の建屋が立つ。

   
image

公民館の建屋 (撮影 2024.10.16)

image

公民館の様子 (撮影 2024.10.16)

   

<集落の端>
 この付近が土呂部集落の北西の端になる。この奥に人の住む人家はなさそうだ。

   
image
   

土呂部集落を黒部方向に見る (撮影 2024.10.16)
左手に公民館、右手にアメダス

   

<土呂部の地>
 下河原橋から約400mがほぼその集落の全貌となる。土呂部川左岸の平坦地に広がる。貴重な平地がある割には耕作地が少ないように伺える。草地や林の方が多いようだ。河岸段丘上とは言えないような川沿いの低地に位置する。 耕作に向かない湿地帯であるということも関係するのだろうか。享保八年(1723年)には、この付近一帯で大洪水が発生したそうだ。土呂部川も氾濫し、土呂部の人家はことごとく流出、生存者は10余名だったと伝わるとのこと。 やはり田畑の耕作にはあまり向かない土地柄なのかもしれない。
 
<土呂部村>
 この地は江戸期から土呂部村と呼ばれ、初めは下流側の黒部村の枝郷としての存在だったようだ。それが幕末期には分村した。既に近世(江戸期)中期以降には荒廃が著しかったそうで、先の洪水被害にも見舞われた。 明治22年には栗山村の大字となり、一時期は世帯30、人口も100以上を数えたそうだが、過疎化の波には勝てなかった。

   

<気象観測所>
 そんな土呂部だが、前述の様に東京で放送される首都圏ニュースに登場するのだ。その要因となる気象庁の地域気象観測所、いわゆるアメダスがこの土呂部にある筈である。写真を沢山撮ったりしたのも、そのアメダスを見付ける為だった。 ところが遂に発見できなかった。多分、林の奥の方に設置されていたのだろうと諦めた。
 
 ところが今回調べてみると、後部に取り付けたドラレコ画像にそのアメダスが映っていた。公民館のはす向かいで、その手前に立つ小屋や林の陰になっていて、前方を向いている限りには気付きようがなかったのだ。 消防団倉庫の真向いになる。アメダスとはもっとしっかりした建屋が付属する立派な設備かと想像していたが、青いネットフェンスに囲まれた小さな敷地の中に、僅かな観測機器が野ざらしに立っているだけだった。

image

土呂部のアメダス (撮影 2024.10.16)

   

 土呂部に設置されたアメダスの標高は925mだそうだ(気象庁のホームページより)。土呂部の中心地もほぼその標高ということになる。これだけの集落が立地する地としては、なかなか高い標高だ。 現在住む山梨県では、例えば富士の麓の富士吉田よりも高い。これでは積雪も多くなることだろう。今年の秋頃には東京都に転居する予定なので、来年の冬には、またテレビで土呂部の豪雪のニュースを聞けるかもしれない。

   
   
   

土呂部集落以降

   

<木戸沢橋>
 アメダスの脇を過ぎると、木戸沢橋で木戸沢を渡る(地理院地図)。橋の手前にはちょっとしたゲートが設けられていて、側らには道路情報や雨量通行止の看板が立つ。ここから先は全く人気(ひとけ)がなくなる。

   
image
   

木戸沢橋を渡る (撮影 2024.10.16)
左手前に簡易的なゲートバー
右手前には道路情報の看板など

   

<冬期通行止>
 道路情報には「落石・崩土等のおそれ 土呂部〜湯西川 高手」とある。「高手」(たかで)とは土呂部峠を湯西川側に下って最初に出て来る集落になる。
 
 また、雨量規制にある11.5Kmとは、この木戸沢橋から峠を越え、湯西川側に下って三河沢(みかわさわ)こ架かる三河沢橋(地理院地図)までの距離となる。栃木県の道路情報でも、木戸沢橋から三河沢橋までを冬期通行止としている。最近では去年12月6日12時から今年の4月18日12時までだそうだ。毎年4ヶ月以上、土呂部峠は車の通行を阻む峠となる。

   
image
   

道路情報の看板など (撮影 2024.10.16)

   

<キャンプ場>
 木戸沢橋以降は冬期閉鎖ということもあり、人が住む人家は皆無で、その他の建物もほとんど見られない。そんな中、比較的大きなキャンプ場がある。初めて訪れた時から気になる存在だった。 しっかりした管理棟があり、県道からは見えないが奥にコテージなどが並ぶようだ。ただ、決まり切ったキャンプ場で野営するのは苦手なので、ついぞ利用したことはなく、栗山村での野宿は皆無に終わった。

   
image

左手にキャンプ場 (撮影 2024.10.16)
名称は「ドロブックル」
土呂部を「コロボックル」に掛けたのだろう
アイヌの伝承に登場する小人で
以前家にも木彫りの置物の人形があった
鮭をくわえたヒグマと一緒に並んでいたと思う 

image

キャンプ場の看板 (撮影 2024.10.16)

   
image

沿道の土呂部川 (撮影 2024.10.16)
土呂部集落方向に見る

<赤四郎沢・木城沢(余談)>
 木戸沢橋の次に赤四郎沢を渡る(地理院地図)。地理院地図ではそのような川名になっているが、橋の名は木城沢橋と呼ぶようだ。よって川も木城沢かもしれない。ある地図では「本城沢」と出ていたが、これは誤植だろう。
 
<土呂部川右岸沿い>
 その後、道は暫く土呂部川に寄り添って進む。土呂部川沿いに通じていながら、こうして川面を間近に見る機会は少ない。釣り人への注意書きなどを各所に見たが、釣目的で訪れる者が多いのだろう。
 
 この先は、沿道にこれと言って見るべきものはない。周囲を見渡しても林ばかりだ。峠までもう4Km余りの距離で、起点の黒部からも11Km足らずである。それ程長い峠の旅ではない。

   

<橋の連続>
 道は峠直下まで土呂部川沿いを遡る。本流やその支流を渡る橋が5つ架かっている。ついでなので全て写真に撮ってみた。ドラレコにも映像が残っている。どれも小さな橋なので、銘板は見当たらない。よって橋の名前が分からなかったのは残念だ。(後で、栃木県の公式ページで橋名が判明)
 
<河川名など(余談)>
 峠道が主眼なので、橋の名はそれほど重要ではない。それでも通過点として橋はいい目安になる。橋名ばかりでなく、小さな支流の川名、トンネル名、枝道の林道名なども知りたい時がある。しかし、一般の道路地図などではさっぱり分からない。 なるべく現地に立つの看板などで調べておこうと思うが、それもうまく行かない場合が多い。

image

前方の橋で右岸へ (撮影 2024.10.16)
ささくら橋 (地理院地図

   

<個人のホームページ(余談)>
 そんな時、ネット上で公開されている個人のウェブページやブログが役立つことがある。橋、川、トンネル、ダム、廃村などなどニッチな所に拘ったページに行き当たり、そこに名称などの情報が見いだされると、何となく嬉しい気持ちになる。
 
 そもそも、ダイヤルアップ回線の時代に「峠と旅」をオープンした頃は、そうした個人制作のページが多かった。峠に関するページもいくつかあった。それぞれの拘りを競い合い、お互いに面白がっていた。
 
 ネット社会が大きく発展・巨大化するに従い、そうした個人の零細ページは少なくなったように思う。営利主義もはびこり、画面には広告ばかりが映し出され、素朴な面白味が半減した。見栄えもせず、特殊なテクニックも使われず、写真を貼り付けて後は文章で語る、そんな簡素なページが懐かしい。
 
 いわば「峠と旅」はネット社会に於ける数少ない生き残りである。だから、同類のページを見付けるととても嬉しいのだ。ほとんど何の役にも立たないだろうが、一部の人に覗いてもらい、クスリとでも笑ってもらえればそれで本望である。

   
image

2番目の橋 (撮影 2024.10.16)
大窪橋 (地理院地図

image

3番目の橋 (撮影 2024.10.16)
ひらなめ橋 (地理院地図

   

 土呂部集落から峠までの間は暇である。周囲は林ばかりで視界が広がらない。小刻みに道は屈曲する。ただただ、車の運転に注力するしかない。この区間は3度走っているが、捉え所がなく、記憶に残ることがほとんどない。

   
image

4番目の橋 (撮影 2024.10.16)
鉤内橋 (地理院地図

image

5番目の橋 (撮影 2024.10.16)
シタシ沢橋 (地理院地図
右手に土呂部牧場入口

   

<土呂部牧入口>
 木戸沢橋以降の5番目の橋は支流のシタシ沢を渡る。その袂よりシタシ沢左岸沿いに道が分かれる。「土呂部牧場入口」と看板にあるが、道はチェーンで通行止だ。
 
<枝道>
 この県道249号の土呂部側には、他にもいくつかの枝道が分かれていた。しかし、地図を見る限りどれも途中で行止りだ。このシタシ沢沿いの道も土呂部牧場までのようである。ここは土呂部峠を越える以外、どこにも道が通じていない地帯である。

   
image

土呂部牧場入口 (撮影 2024.10.16)

image

土呂部牧場の看板 (撮影 2024.10.16)

   

<峠直下の登り>
 シタシ沢橋の後、道は峠直下のS字の登り坂を呈す。しかし、それ程峠道らしくはない。ちょっとしたお印程度である。高度を上げるので、それまでの川沿いに比べると明るい雰囲気だ。もう少しで視界が広がりそうな箇所もあるが、やはり遠望には恵まれない。
 
<路程の看板>
 県道249号沿いには所々に起点からの距離、路程を示した小さな看板が立つ。S字カーブの途中にもあった(地理院地図)。8.9Kmを示していた。こうした看板が写真やドラレコに写っているのだが、距離0の看板が見当たらない。正確な県道起点が知りたいところだった。

   
image

坂道の途中 (撮影 2024.10.16)
路程を示した看板が立つ

image

路程の看板 (撮影 2024.10.16)
「8.9」とある

   
   
   

土呂部峠

   

<峠の様子>
 この峠は5回訪れている。林に囲まれた小さな三叉路の峠で、土呂部と湯西川を結ぶ場合、峠で鋭角に曲がるのが何とも奇異に思えた峠だった。

   
image
   

土呂部峠 (撮影 2024.10.16)
手前が土呂部方面
右に曲がると湯西川方面
ほぼ直進が川俣や田代山峠を越えて福島県方面へ

   
image

以前の峠の様子 (撮影 2003.11.29)
土呂部側から見る
今から約20年前
生憎の雨模様

image

以前の峠の様子 (撮影 2003.11.29)

   

<以前の峠>
 最初に訪れてから30年以上経ったが、峠の様子はあまり変わっていないと思っていた。しかし、古い写真を見てみると、以前はもう少し開けた峠だったようだ。天候の悪い雨の日に訪れた時もあったが、ガスっていなかったら意外と眺めがあったのかもしれない。やはり沿道の木々が伸びてしまったようだ。

   
image

峠から湯西川方面を見る (撮影 2024.10.16)

image

峠から土呂部方面を見る (撮影 2024.10.16)
矢印看板に「土呂部 黒部」とある

   

<峠の写真(余談)>
 最初の頃はここが土呂部峠とはつゆ知らず、殆ど写真を撮っていなかった。三叉路なのが一つの原因だ。峠道とは上って下る道で、その最高所が峠である。しかし、土呂部峠は見方によってはまだ道は上りの途中なのだ。変な点で印象深い峠であった。

image

上の写真と同じ場所 (撮影 2003.11.29)
今より開けた雰囲気

   
image

峠の湯西川方面 (撮影 2024.10.16)
直ぐにゲート箇所がある

<湯西川方面のゲート箇所>
 峠から土呂部方面にはあまり案内看板などはない。辛うじて「土呂部 黒部」と矢印看板が立つばかりだ。
 
 一方、湯西川方面にはいろいろ案内がある。また、峠から湯西川側に進んだ直後にゲート箇所が待っている。ただ、冬期などは峠前後の道は全て通行止である。ここにゲートがあってもあまり活躍する機会はないようには思う。冬場は深い雪に閉ざされる峠である。

   

 峠部分は三叉路ということもあって、道幅は広い。路肩に寄せれば充分車は停められる。周辺の木々は伸びてしまったが、峠部分だけポッカリと空間が広がっている。峠らしい切り通しなどはないが、ちょっと休憩に立ち止まってみたい落ち着いた雰囲気がある。

   
image
   

湯西川側から見る土呂部峠 (撮影 2024.10.16)

   

<栗山館山線>
 土呂部方面から登って来て、峠は抜けず、そのまま直進方向に延びるのが県道350号・栗山館山線になるようだ。付近に県道番号は見られないが、「栗山館山線」と書かれた看板は立っている。 その名が示すように、この旧栗山村と県境を田代山峠で越えた先の福島県旧舘岩村(たていわむら)を結ぶ。舘岩村は現在は南会津郡南会津町(あいづまち)の一部になっているようだ。 元々険しい林道の峠道だったが、それが県道に昇格するとは、思いもよらないことだった。ただ、付近に立つ看板には「栗山館山線」とは書かれているが、「県道」とはどこにも謳っていない。県道と言うにはおこがましくて、遠慮しているように思えてならない。

   
image
   

峠より旧村道馬坂線方向を見る (撮影 1998. 7.25)
現在は県道350号・栗山館山線
この時、土呂部峠の写真を初めて撮ったのだが、
残念ながらピンボケ

   
image

上の写真と同じほぼ場所 (撮影 2003.11.29)
道路情報看板から「村道馬坂線道」の文字はなくなっている

image

上の写真と同じほぼ場所 (撮影 2024.10.16)
それでもまだ道路情報看板自身は残っている

   
image

古い道路情報看板 (撮影 1998. 7.25)
辛うじて「一級村道馬坂線」と読める
「この先路肩決壊のため
川俣方面は通り抜けできません」
ともあるようだ

<村道馬坂線・馬坂林道>
 栗山館山線方向には今でも(2024年10月現在)古い道路情報の看板が立っている。しかし、何も書かれていない。しかし、少なくとも1998年以前はそこに「一級村道馬坂線」と出ていた。この道は一般には「林道馬坂線」とか単に「馬坂林道」とも呼ばれていた.(以後馬坂線と記す)。
 
 元の馬坂線はこの土呂部峠から分かれ、鬼怒川支流の馬坂沢(馬坂川とも)の右岸沿いに下り、川俣湖の川俣大橋の袂に至る(地理院地図)。しかし、新しく県道栗山館山線が設定された為、土呂部峠から田代山峠への分岐までは、馬坂線から除かれたようである。(馬坂線の一部は林道川俣桧枝岐線との名もある)
 
 林道・村道から県道に昇格された田代山峠ではあるが、看板には「通行止」、「通り抜け出来ません」などの文字が並ぶ。

   
image

道路情報看板 (撮影 2003.11.29)
既に「村道馬坂線道」の文字はなくなっている
「栃木県側通行止」と看板にあるが、
これは栗山館山線(田代山峠)の栃木県側のことだろう

image

「栗山館山線」の看板の方は新しい (撮影 2003.11.29)
それでもやはり通行止
(この看板はもうないようだ)

   
image
   

比較的最近の看板 (撮影 2024.10.16)
道路情報看板はまだ立っている

   

<変則的な峠(余談)>
 前述の様に、土呂部方面からやって来てそのまま栗山館山線方向に直進すると、道は絶えず上りを続けることになる。これでは峠の体(てい)を成さない。 但し、湯西川方面に曲がれば、そこで確かに土呂部川水域と湯西川水域の分水界を跨ぐので、明らかに峠である。それは重々承知しているのだが、どうにも生理的にここが峠だと納得する気になれない。峠に分岐がある例はままあるので、三叉路だということだけでは説明がつかない。
 
 いろいろ地図などを眺めていると、やはり地形的な要因があるように思えてくる。土呂部峠は土呂部川水域最上流部の頂点付近まで登り詰めている。 その先は、東の湯西川水域と西の馬坂沢水域がせめぎ合い、その3水域が接する接点(地理院地図)も近い。 栗山館山線はその付近をフラフラと登って行く。本来なら、栗山館山線側にもこの近くに水域を跨ぐ峠があって然るべきだ。それが地図上で明確になっていない。なぜ土呂部峠の方だけ峠と呼ばれるのかと、疑問に思う訳である。 場合によっては栗山館山線の方にこそ、土呂部川水域を範疇とする峠があるのではないだろうか。

image

峠から県道栗山館山線方向を見る (撮影 2024.10.16)
道は更に登って行く

   
image
   

県道栗山館山線側から見る土呂部峠 (撮影 2024.10.16)
左が湯西川方面、奥が土呂部方面
どこから見ても余り峠らしくない

   

<案内看板など>
 以前は峠の僅かな切り通しの部分にいろいろな看板が並んでいた。特に湯西川温泉の民宿などの案内が多かった。しかし、最近はそうした観光に関する看板はほとんどなくなってしまったようだ。 湯西川温泉へのアクセス路としてこの峠を越えて行く観光客はいないだろう。ましてや、大型の観光バスなどは通る筈もない。しかも最近は湯西川ダムの完成に伴い、五十里湖方面からのアクセスが格段に良くなっている。
 
 尚、峠の路程看板は「10.7」を示している。2003年に来た時は、沿道にそうした路程看板はなかったようだ。

   
image
   

峠に立つ看板類 (撮影 2024.10.16)
古い看板の残骸が見られる
(背後の小山はまるで一里塚のよう)

   

<栗山村の案内看板>
 以前並んでいた看板の中では、栗山村の案内看板が参考になった。村全体の案内図だったので、細かな情報は得られなかったが、少なくとも「現在値」の確認には役立った。「至湯の花」とあるのは田代山峠の道だ。川俣湖方面には「馬坂林道」が通じている。

   
image

以前の峠の様子 (撮影 1998. 7.25)
観光案内の看板が多く立ち並び
小ぎれいな峠だった

image

栗山村の観光案内の看板 (撮影 1998. 7.25
この時、既に文字はかすれかけていた

   
image
   

観光案内看板の詳細画像 (撮影 1998. 7.25)

   

 私がこうしたか観光案内を見掛けた時には、既に看板は色あせ、文字もかすれていた。しかし、道の路面はしっかり整備され、峠全体に小ぎれいにされていたという印象だ。しかし、最近は朽ちた看板の残骸が見られ、殺風景で寂れた感じは否めない。
 
<保安林・県営林の看板(余談)>
 観光案内に関する看板はなくなっていたが、保安林の看板は立て替えられ、湯西川県営林の看板が新しく立てられていた。地名、河川名、道路名などの参考にと、デジカメになってからはこうした看板は大抵写真に撮る。 これで土呂部という峠名が載っていれば言うことなしなのだが、無駄だった。やはり「土呂部峠」とはあまり一般には使われない峠名なのかもしれない。 湯西川県営林の看板にあった「字橋立」という地名と、「林道湯西川前沢線」の林道名は参考になったが、他は地理院地図にも載っている名称ばかりだった。

image

2003年に訪れた時 (撮影 2003.11.29)
この時はまだこの看板は残っていた
(現在値がピンク色に縁どられていた)

   
image

水源かん養・保健保安林の看板 (撮影 2024.10.16)
平成2年(1990年)度とあるが
この看板自体は新しそうだ

image

湯西川県営林の看板 (撮影 2024.10.16)
この看板の現在地にも「土呂部峠」の文字はない

   

<標高など>
 地理院地図に峠名はないが、「1193」と標高は記されている。前高倉山(1426m、地理院地図)から西に延びる土呂部川・湯西川の分水嶺上に位置する。前高倉山は土呂部川水域では一番高い山ではないだろうか。
 
<1/4周>
 また、峠は県道黒部西川線の中で最も西に位置する。起点の黒部が最も南で、黒部から峠までがほぼ円弧1/4周分に相当する。
 
<宅配便(余談)>
 峠で数分間ほど写真を撮ったりしていると、珍しく湯西川方面から車が一台登って来た。見ると、町でよく見掛ける宅配便(S社)の小型トラックだった。土呂部峠を抜けるとさっさと土呂部方面へ下って行った。 黒部から土呂部集落に来る間、2台の乗用車とすれ違ったが、集落以降の峠まで一台の車も見掛けていない。やはり集落から先の交通量は皆無かと思っていたので、宅配の車とは意外だった。 宅配する経路によっては、土呂部峠も利用価値があるのかもしれない。それにしても仕事とはいえ、この狭い峠道を走るのは気苦労が多いことだろう。

   
   
   

峠より湯西川方面へ

   

<マグラリュウ沢右岸>
 峠から湯西川水域に入った県道は、まずは前高倉山方面から続く分水界の稜線近くを行く。多分、元の峠道はこの下に流れるマグラリュウ沢沿いへと直接下って行ったものと思うが、そこは勾配が急過ぎる。そこで車道は前高倉山方面へと大きく迂回したようだ。
 
<覆道>
 土呂部側は全般に穏やかな道だったが、一転して険しい様相を呈す。この峠道全線に於いて、峠からマグラリュウ沢沿いに降り立つまでが地形が最も険しい地帯と言える。 それを如実に示すかのように、高くガッチリしたコンクリート擁壁が頻繁に現れる。上部がせり出していて「覆道」と言ってもいいような物もあった。これらに守られていないと道は直ぐに埋もれてしまうだろう。

image

覆道 (撮影 2024.10.16)

   
image

覆道の様子 (撮影 2024.10.16)

image

覆道の様子 (撮影 2024.10.16)

   

<道の様子>
 地形は厳しいが路面はしっかりしていて、ワイヤー式だがガードレールも完備されている。地形が急峻な分、開けた雰囲気だ。

   
image

道の様子 (撮影 2024.10.16)
開けて来た
道は前高倉山方面に向いている(地理院地図

image

県道標識 (撮影 2024.10.16)
「湯西川」とある

   

<眺め>
 沿道には林が多く、なかなか遠望は利かない。それでも時折いい眺めがある。ここを下り切ってしまえば、また暗い林の中だ。貴重な一時である。

   
image
   

沿道からの眺め (撮影 2024.10.16)
中央奥の山が前高倉山だと思うのだが?

   

<林道湯西川前沢線の分岐>
 急な下り坂途中で湯西川県営林の看板にもあった林道湯西川前沢線が分岐する(地理院地図)。地図上では川戸(かわど)方面などに通じている。
 
 県道栗山館山線などを除けば、この峠道から分岐して他所に抜けられる道は限られる。しかし湯西川前沢線はゲートが閉じられ、全面通行止と看板にある。まあ、栗山館山線の方も通れないことが多い道だが。

image

前方に林道湯西川前沢線の分岐 (撮影 2024.10.16)

   
image
   

林道湯西川前沢線の入口の様子 (撮影 2024.10.16)
「全面通行止」

   

<マグラリュウ沢沿いへ>
 湯西川前沢線分岐を過ぎると、方向転換してマグラリュウ沢源流部へと一気に下って行く。道は細かい蛇行を繰り返し、この区間もなかなか険しい。途中、幅員減少の看板が立ち、法面がやや崩れている箇所を過ぎた。

   
image

幅員減少の看板 (撮影 2024.10.16)

image

崩落個所 (撮影 2024.10.16)

   

<マグラリュウ橋>
 地理院地図には描かれていないが、マグラリュウ沢をマグラリュウ橋(まぐらりゅうばし)で渡ってその左岸に出る(地理院地図)。 小さな橋だが銘板があり、辛うじて「マグラリュウ」の名が分かった。
 
 検索してみると、栃木県の公式ページに架設年次が1968年と出ていた。この沢が土呂部峠を源頭とする川だ。その左岸沿いを上流方向に見ると、何となく道が続いているように見える(右上の写真)。多分それが土呂部峠に車道が開通する前の旧道であろう。

   
image

マグラリュウ橋を渡る (撮影 2024.10.16)

image

マグラリュウ沢左岸を上流方向に見る (撮影 2024.10.16)
道らしき痕跡が僅かに見られる

   

<マグラリュウの名(余談)>
 「マグラリュウ」とは面白い名だ。何を意味するのだろうか。全く関係ないだろうが、小田越地理院地図)で出て来た「タイマグラ」を連想する。岩手県宮古市(旧川井村)大字江繋(えつなぎ)にある地名だ(地理院地図)。字名は「向神楽」と書くらしい。この読み方が分からないのだが、当て字として「たいまぐら」と読ませるのではないかと思ったりする。
 
 このタイマグラは、アイヌ語で「タイ・マク(森の奥)」が転じたものと、ネット上などでは伝わっている。「マグラ」とは何となく、「奥の方」とうニュアンスなのだろう。
 
 一方、「リュウ」は湯西川に3箇所あるそうだ。コジキリュウ、ヤマガリュウを合わせ「湯西川の三大リュウ」と呼ぶとのこと(湯西川にある民宿さんのページより)。岩などが張り出して雨宿りができるような場所を指したように思える。 険しい峠越えの最中、悪天候に見舞われた時などの避難場所となったのだろう。場合によってはそこで一夜を明かしたこともあったかもしれない。
 
 「マグラリュウ」とは湯西川最奥(マグラ)にある避難場所(リュウ)とでもいう意味だろうか。全く見当はずれかもしれないが・・・。

   

<車道開通>
 土呂部峠という峠名自体があまり一般的に使われないので、この峠に車道が開通した時期はなかなかはっきりしない。少なくともマグラリュウ橋架設の1968年(昭和43年)以降ではあろう。
 文献(日本歴史地名大系)を色々見ていると、栗山村の項に表栗山と裏栗山を結ぶ村道が昭和57年(1982年)に開通したとあった。土呂部峠とはことわっていないが、正に土呂部峠を越える道筋である。ただ、マグラリュウ橋架設の時期とはややズレている。
 
<土呂部側の車道開通>
 また、同じ文献に黒部と舘山村の間の村道が昭和48年(1973年)に通じたとある。この道筋は田代山峠を越える現在の県道栗山館山線に相当する。少なくともこの時点で土呂部峠の土呂部側の車道は開通していた。
 一方、土呂部川水域最上流のシタシ沢に架かる橋(シタシ沢橋)の架設年次がマグラリュウ橋と同じ1968年とのこと。土呂部側の車道開通はこの年以降になる。
 
<湯西川側の車道開通>
 土呂部側に比べ、湯西川側の車道開通が遅れたのは頷ける。確かにマグラリュウ橋から峠までの区間は険しく、車道開削は難航したのだろう。その工事の時期は1968年以降で、1982年までの間とは限定できる。 地理院地図の1974年〜1978年の年代別航空写真を見てみると、少なくともその時点でマグラリュウ橋以降、林道湯西川前沢線分岐の少し先までは車道が延びていたようだ。
 
 結論としては、やはり文献(日本歴史地名大系)の記述を信用するしかなく、1982年が土呂部峠の車道が全通した年と考えよう。
 
 私が土呂部峠を初めて訪れたのは1992年9月のことだった。1982年車道開通だとすると、その僅か10年後である。当時使っていた1989年発行のツーリングマップには既に道が描かれていたが、アスファルト舗装などはまだまだ新しかったように思う。 また、開削直後とあってか沿道の木々が少なく、もっと開けた峠道だったようだ。

   

<マグラリュウ沢沿い>
 道はマグラリュウ沢の狭い谷の左岸沿いに通じる。川に沿う道で、急勾配などはなくなった。それでもまた覆道が現れたりして、なかなか安心させてはくれない。

   
image

マグラリュウ沢沿いの道 (撮影 2024.10.16)
ここにもまた覆道

image

マグラリュウ沢沿いの道 (撮影 2024.10.16)
県道標識が立つ

   
image

藤花橋を渡る (撮影 2024.10.16)
架設年次は1960年

<藤花沢沿い>
 道は一路藤花沢上流方向に少し迂回し、藤花橋(ふじさわばし)を渡ってその左岸沿いに出る(地理院地図)。この橋にはしっかり銘板が付いている。架設年次は1960年とマグラリュウ橋より古い。峠に向かって徐々に車道が延びて行ったことが伺える。
 
<別の峠?>
 藤花沢左岸上流方向にもしっかり道が始まっている。関係者以外立入禁止の看板が立つ。車道は途中で止まっているようだが、そこをどこまでも歩いて登り詰めれば、馬坂沢水域との分水界の尾根に至る(地理院地図)。そこから馬坂沢水域側には馬坂林道が下ってもいる。ここにも旧峠道があったのではないかと疑いたくなるが、考え過ぎだろうか。

   

<橋立沢沿い>
 藤花橋の400m程下流で藤花沢はマグラリュウ沢を合わせ(地理院地図)、以降橋立沢と名を変える。道は引き続きその左岸を行く。
 
 車道としては何ら不思議のない道筋だが、徒歩道として400mも迂回するのは合理性に欠く。橋立沢沿いから直接マグラリュウ沢沿いに移った方が峠には近い。この付近、現在の車道とは違った道筋に旧峠道が通じていたかもしれない。

image

橋立沢沿いでまた覆道 (撮影 2024.10.16)
地理院地図

   

<道の様子>
 覆道があったり、高い擁壁が出てきたりと、まだまだ険しい道は続く。橋立沢は三河沢と合わせて湯西川源流を構成する2大支流になる。三河沢は福島との県境を源流とするので、そちらの方が湯西川の本流と言えそうだ。 それでも、それまでの小さな沢と違って、橋立沢は流長が長く、次第に大きな谷を形成して行く。沿道も開けた雰囲気を見せ始める。

   
image

橋立沢沿いの道 (撮影 2024.10.16)
路程の看板が立つ(地理院地図

image

路程の看板 (撮影 2024.10.16)
15.7Km

   
image
   

橋立沢沿いの道 (撮影 2024.10.16)
谷が広がり、開けた雰囲気に

   

<記念植樹>
 また一段と谷が広がったかと思うと、道の左右に白い柱が沢山さん並んで立っていた(地理院地図)。こうした植林を見ると、いつも何となくムーミンのニョロニョロを思い出す。トーベ・ヤンソンの物語を英語版で読んだことがあるが、英語では「Hattifatteners」と書いていた。

   
image
   

記念植樹 (撮影 2024.10.16)

   
image

記念植樹の様子 (撮影 2024.10.16)

<勝訴証拠記念林の碑>
 植樹の一角に保安林の看板と、記念林の碑が立っていた。「勝訴証拠」とある。その記念林そのものはこの付近一帯の範囲に広がる。沿道に見られる植樹は記念の為の一部である。
 
 写真は今から僅か2年も経たない前のものだが、現在は様変わりしていて、記念林の碑もそこにあるのが分からない程のようだ。植林が伸び、他の林と区別が付かなくなっているらしい。自然の力はすごい。

   
image

保安林の看板 (撮影 2024.10.16)

image

記念植樹の碑 (撮影 2024.10.16)

   

<現在地の確認(余談)>
 以前は現地に立つ保安林の看板などで現在地を確認したものだが、最近はハイテクになった。現場ではカーナビがあり、家に戻ってからはドラレコ画像がある。 専用ソフトで再生すると、グーグルの地図が同時に表示され、逐次図上に現在地が示されるのだ。ドラレコの動画データにGPSの位置情報も記憶されているらしい。便利な世になった。
 
<字橋立>
 橋立沢沿いの地名は多分字橋立というのであろう。現在、湯西川側最奥の集落は高手となっていて、それ以降に字名は記載されていない。 しかし、かつて橋立村と呼ばれたこの地には人が住み、峠越えの旅人の為に茶屋なども商いされていたようである。今は人家があったような痕跡も見られない。記念植樹の様に、森と化したのだろう。

   

<三河沢橋>
 橋立沢沿いの約2Kmの道を下り切ると、三河沢(みかわさわ)との合流点に至り、三河沢を三河沢橋(みかわさわばし)で渡る(地理院地図)。地理院地図では川名は「三河沢」と出ているが、橋の銘板では「三河沢川」(みかわさわがわ)としている。こうしたことはままある。河川法上では「三河沢川」の方が正しいようだが、ここでは単に三河沢としておいた。
 
<三河沢落合>
 ここは三河沢落合と呼ばれる地になる。橋立沢と三河沢という大きな2源流が合流し、これ以降を湯西川と呼ぶことになる。三河沢落合という名がある点は、橋立沢の方が本流(本線)との認識からだろうか。 やはり、土呂部峠を越えて表・裏の栗山村を結ぶ重要路が橋立沢沿いに通じていた証になろう。また、橋立の方に人の居住が多かったのかもしれない。

image

三河沢橋 (撮影 2024.10.16)
手前を林道三河沢線が分かれる

   

<湯西川源流>
 一方、文献(角川日本地名大辞典)では湯西川の源流は福島県との県境の枯木山(1,755m、地理院地図)としている。 正確には枯木山は県境にないので、その「山頂近くの県境」ということになろうか。それは三河沢の支流・アサズマ沢(悪至沢川?)の源流部になる。それからすると、やはり橋立沢より三河沢の方が本流という扱いになる。

   
image

県道を峠方向に見る (撮影 2024.10.16)
ゲート箇所がある

<ゲート箇所>
 三河沢橋手前から峠方向に見ると、そこにゲート箇所がある。落石注意と共に雨量規制の看板が立つ。近くに見られる路程の札には「17.7」と出ている。
 
 土呂部側の木戸沢橋からこの三河沢橋までの11.5Kmが雨量規制区間であり、冬期通行止になる箇所になるようだ。冬期は人を寄せ付けない地帯である。

   

<林道三河沢線>
 三河沢橋手前から三河沢右岸沿いに道が延びる。林道三河沢線となる。側らに三河沢ダムと案内がある。しかし、しっかりしたゲートで通行止だ。もっぱらダムなどの管理用として使われる道らしい。
 
 林道三河沢線は途中で止まっているが、三河沢沿いをそのまま遡った所には田代山峠が位置する。よって、この峠は三河沢水域の峠となる。ただ、その峠道は馬坂沢との分水界となる尾根近くに通じ、三河沢沿いとはほとんど無関係である。

   
image

林道三河沢線の入口 (撮影 2024.10.16)
ゲートで通行止

image

三河沢ダムの案内など (撮影 2024.10.16)

   

<三河沢ダム(余談)>
 数年前からダムカードを集め始めている。この三河沢程度の小さな川に架かるダムなどちょっと大き目な砂防ダム程度で、ダムカードなどあろう筈がないと思っていた。仮にあったとしても、林道が通行止では管理所まで行けない。 そもそも見たこともないダムのカードがもらえるのだろうか。ところが「湯西川水の郷」という施設に寄ったところ、
三河沢ダムのカードが頂けた。カードの写真を見ると、なかなかの堤高がある予想外に立派なダムだった。カードはいい記念になった。

   
image

三河沢ダムのダムカード/表 (撮影 2026. 2. 8)
「湯西川水の郷」で頂いた
裏面に記された河川名は「三河沢川」になっている

image

三河沢ダムのダムカード/裏 (撮影 2026. 2. 8)

   

<湯西川沿い>
 湯西川沿いになると、それまで概ね北に向いていた道は、やや北東へと方向を転じる。その後、増々東寄りへと進んで行くことになる。
 
 湯西川本流ともあり、沿道にちょっとした平坦地も見える(地理院地図)。かつては農地として利用されていたかもしれない。ただ、今は活用されている様子はなく、建物なども見られない。その一方、谷が狭まる箇所では高い擁壁や法面を覆う落石防止ネットが見られたりする。まだまだ、険しさを残す湯西川である。

image

沿道に平坦地が見える (撮影 2024.10.16)

   
image

湯西川沿いの道 (撮影 2024.10.16)
覆道が見られる

image

湯西川沿いの道 (撮影 2024.10.16)
高い擁壁がある

   
   
   

湯西川集落

   

<湯西川集落へ>
 それまで湯西川左岸にピッタリ沿っていた道が、川岸から離れてその周辺に平坦地が広がりだす(地理院地図)。それまでの険しさも陰をひそめ、やっと落ち着いた雰囲気になった。人里の気配がする。

   
image
   

沿道が開け始めた (撮影 2024.10.16)

   

<建物>
 沿道に建物が見えだす(地理院地図)。始めは倉庫の様な建屋だったり、人家でも既に廃屋となっている物だったりする。

   
image

倉庫の様な建物 (撮影 2024.10.16)

image

沿道に廃屋 (撮影 2024.10.16)

   

<平家狩人村(余談)>
 ここはまだ湯西川集落の北西のはずれだが、ちょっとした観光施設がある。道路沿いにその看板が立ち(地理院地図)、「平家狩人村 入口ここです」とある。ただ、入口にはチェーンが渡され、もう営業されていないようだった。最近は集落の中心地に「平家の里」という施設が出来ていて、そちらでこの地の郷土史などを知ることができる。

   
image

左に平家狩人村の入口 (撮影 2024.10.16)

image

入口には綱が張られている (撮影 2024.10.16)
峠方向に見る

   

<沿道の様子>
 進むにつれ、沿道には看板や現役の建物がなどが見られるようになる。

   
image

沿道の様子 (撮影 2024.10.16)
民宿の看板が出て来た

image

沿道の様子 (撮影 2024.10.16)
利用されている建物が立つ

   
image

民宿の看板 (撮影 2024.10.16)
歓迎「湯西川温泉郷」とある

<民宿の看板(余談)>
 「湯西川温泉」というと、それなりのブランド名である。栃木県の観光案内では鬼怒川や川治などの温泉地に並び、この湯西川が紹介されている。旅番組なのでもしばしば登場するのを目にした。 しかし、それは大型の観光旅館やホテルが出来てからのことのようだ。以前は木造の旅館や民宿ばかりの素朴な温泉保養地だったとのこと。
 
 沿道にポツンと民宿の看板が立っていた。7〜9軒の宿が並んで記されている。以前はこれと同じような物が峠に立っていた。土呂部峠を越えて湯西川を訪れる者もあったということだろうか。一方、大きな観光ホテル・旅館の類の看板は見掛けなかった。
 
 湯西川温泉が世に知られるようになってからは、会津鬼怒川線の湯西川温泉駅のある五十里湖方面より、大型バスでドッと多くの温泉客が訪れるようになった。土呂部峠を越えて来る者は、昔ながらの素朴な温泉地を好む人たちかもしれない。

   
image

峠にあった民宿の看板 (撮影 1998. 7.25)

image

峠にあった民宿の看板 (撮影 2003.11.29)
歓迎「平家落人の里」とあった

   

<民宿が並ぶ>
 温泉の町らしく、人の住む人家より先に民宿が並んで出て来た(地理院地図)。峠を越え、やっと湯西川の集落に辿り着いたと実感させられる。何となく大観光地の湯西川温泉を、裏口からコソコソと入って行くような気分でもある。

   
image

建物が出て来た (撮影 2024.10.16)

image

民宿2軒が並ぶ (撮影 2024.10.16)

   

<道路情報看板>
 最初に出て来た民宿の前より峠方向を窺うと、その直ぐ先に道路情報の看板が立っている。「落石・崩土等のおそれ 土呂部〜湯西川 高手」とある。土呂部側の木戸沢橋袂にも同じ物が立っていた。2つの道路情報看板に挟まれる道程は約13.5Kmになる。その間、人の住む人家はやはりないものと思う。

image

民宿の前より峠方向を見る (撮影 2024.10.16)
道路情報看板が立っている
この先に人家はない

   
image

人家も出て来た (撮影 2024.10.16)

<高手>
 直ぐに人家も沿道に見られるようになる。庭先をかすめるように道が通じる箇所もある。ただ、まだ大きな集落ではない。この付近の字名は「高手」(たかで)となるようだ。先程の民宿も含め、現在では湯西川最奥の集落になっているものと思う。

   

<2車線路>
 小さな沢を小さな橋(堂ノ沢橋?)で渡った先で、道幅が一挙に広くなる(地理院地図)。 多分、この県道黒部西川線を土呂部方面より走って来て、初めてお目に掛る2車線路ではないだろうか。直ぐ脇には立派な門構えの旅館も見られる。側らに流れる湯西川の谷も大きく広がり、こうした眺めもこれまでなかったものだ。 これで湯西川の中心街に入ったかと思うと大間違いで、数100mも進むと元の木阿弥となる。また、これまで通りの狭い道に戻る(地理院地図)。
 
<右岸の道(余談)>
 途中、沢口橋を渡って右岸側に通じる道が分かれる(地理院地図)。この県道の先の人家が密集する地区をバイパスし、湯西川温泉の中心街へと直接通じる。2車線路と言う訳にはいかないが、沿線に人家は少なく、交通量の少ない走り易い道だ。ただ、途中に消防署があり、大きな消防車の後ろをノロノロ走ることになったこともある。

image

一時的に2車線路に (撮影 2024.10.16)
大きな宿もある

   

<天楽堂つり橋(余談)>
 繁華な温泉街からはちょっと離れているが、のんびりした散策路がある。県道からは天楽堂(てんがくどう)つり橋を渡って行く(地理院地図)。右岸側に通じる車道まで歩け、付近には公園が広がり、「平家の里」の施設にも行ける。宿泊したことがある宿もその近くだった。

   
image

左に天楽堂つり橋 (撮影 2024.10.17)
県道を峠方向に見る

image

つり橋の袂に立つ看板 (撮影 2024.10.17)
8つの字名が記されている(石上がない)

   

<9つの字(余談)>
 文献などを読んでいると、湯西川には9つ余りの字があるそうだ。つり橋の袂に立つ看板に、その内の幾つかが記されていた。大字湯西川は大きく下湯西川と上湯西川に分かれ、それぞれの字は次のようになる。
 
●下湯西川
 川戸(かわど)より下流で、平沢(ひらさわ)、仲内(なかうち)など
 
●上湯西川
 湯平(ゆだいら)より上流で、石上(いしがみ)、今淵(いまぶち))、沢口(さわぐち)、花和(はなわ)、高手(たかで)など
 
 地理院地図やツーリングマップ(ル)上でもこれら9つの字名が記されていた。ただ、文献では「など」とことわっている。上記以外の字名も存在するからだろう。例えば「橋立」や「赤沢」という字があるようだ。橋立は湯西川源流の支流・橋立沢沿い、また石上の近くで赤沢という川(地理院地図)沿いに字赤沢があるのだろう。

   

<今淵付近>
 天楽堂つり橋を過ぎた先から今淵の集落内に入る。この峠道の中では最も人家が密集している箇所だと思う。今淵の次の湯平が湯西川温泉の中心地で、そちらも沿道に建物が並ぶが、旅館や土産物屋などの方が多い。
 
 今淵では湯西川の川沿い近くに道が通じる。路面と川面との高低差があまりなく、直ぐそこに川の流れが見える。県道は窮屈そうに人家の軒先に通じる。峠から高手に至る間は僅か1台の対向車とすれ違っただけだった。しかし、こうした集落内になると、さすがに車の通行は多くなる。離合には神経を使う。

   
image

今淵付近 (撮影 2024.10.16)
地理院地図
湯西川が直ぐ側らを流れる

image

今淵付近 (撮影 2024.10.16)
地理院地図
県道は人家の間を縫って通じる

   
   
   

湯平・湯西川温泉

   

<湯平>
 今淵集落を過ぎた所で、県道より右手鋭角に道が分岐する(地理院地図)。沢口橋から右岸沿いに通じた道が、湯平橋を渡って合流して来ている。この分岐付近から下流側が湯平(ゆだいら)になるものと思う。湯西川温泉として一番繁華な地区だ。大型の旅館やホテルなどはもっぱらこの付近の県道沿いに集中する。
 
 
<湯平橋の道(余談)>
 県道から分かれて湯平橋を渡り、400m程行くと「平家の里」がある(地理院地図)。湯西川温泉にある観光施設では最も大きいのではないだろうか。県道沿いは温泉街としてややゴミゴミしているが、「平家の里」では広い駐車場があり、その近辺は落ち着いてのんびりした雰囲気が漂う。 

image

県道より湯平橋方向を見る (撮影 2024.10.17)
右奥が峠方向

   
image

「平家の里」の様子 (撮影 2003.11.29)
以前来た時に寄った

<湯西川に宿泊(余談)>
 それまで湯西川温泉には3回訪れていたが、あまりのんびり過ごしたことはなかった。ちょっと立ち寄っては、また次の峠道へと車を走らせていた。やはり一度は泊まってみようと妻と相談し、2年前(2024年)に再び湯西川を訪れた。 宿は「平家の里」の裏手辺りにある、元「平家本陣」をリニューアルした比較的大きなホテルだった。温泉街からは少し外れているが、宿の周りには散策もできるゆったりした敷地が広がっていた。
 
 宿泊の翌朝には歩いて温泉街を見て回った。 湯平橋のちょっと下流側に遊歩道の太鼓橋・湯前橋が架かっている。そこからは観光ガイドによく載っている湯西川温泉の景色が眺められる。

   
image

湯前橋より上流方向を望む(1/2) (撮影 2024.10.17)
ここは平家集落の代表的な風景として、
観光案内などでよく掲載される
前方の古風な宿は、ちょっと前までは茅葺き屋根だった
今は鋼板葺になっている

image

湯前橋より上流方向を望む(2/2) (撮影 2024.10.17)
奥に架かるのが湯平橋
ここは湯西川の川面を間近に見られる

   

<三河沢ダムの看板(余談)>
 前述の三河沢ダムは湯西川温泉より遥か上流に位置する。温泉街を散歩していると、そのダムに関する看板を見掛けた。増水時の湯前橋付近の写真が載っていた。なかなか恐ろしい光景だ。 ダムの機能の一つが洪水調節だが、最近の異常気象ではもう対応の限界を超えることもあるだろう。峠道を通る時なども注意したいものだ。看板には「湯西川水の郷」がダムカード配布場所としてあった。

image

湯西川温泉にあった三河沢ダムの看板 (撮影 2024.10.17)
増水時の様子が出ていた

   

<湯西川の地名>
 「湯西川」の地名の由来は、この湯平に温泉が湧出し、元々あったこの地の地名・西川(にしかわ)に「湯」を付けたて「湯西川」(ゆにしかわ)となったそうだ。現在でも湯西川下流側は日光市西川(旧栗山村大字西川)である。 その由来からして「ゆにしかわ」と呼ぶ方が正しいのかも知れない。文献(角川日本地名大辞典、日本歴史地名大系)でもそう出ている。但し、現在では「ゆにしがわ」と呼ぶのが普通だ。
 
<西川(余談)>
 更に、「西川」とは、現在の湯西川の元の川名だったとか、「五十里川」の西に位置することからの地名だったとか、言われるそうだ。「五十里川」とは現在の男鹿川のことだと思う。「五十里」の語源は江戸から50里の地点にあることに由来する。50里は約200Kmだ。
 
 現在の男鹿川には大きな五十里湖が出来ているが、かつてのこの河床には五十里・西川の2つの村落があったそうだ。大元の「西川」という地名は、その男鹿川沿いを中心とする集落の名として誕生したのではないだろうか。

   
image
   

県道沿いの湯西川温泉街の様子 (撮影 2024.10.17)
県道を峠方向に見る (地理院地図
この付近が最も繁華で、沿道には宿や土産物屋、飲食店などが並ぶ

   

<湯西川温泉の記憶(余談)>
 湯西川温泉を最初に訪れたのは1992年9月のことだった。福島県側から安ヶ森峠を越えて初めての栗山村に入り、湯西川温泉を抜けて土呂部峠に至り、そこから馬坂林道を進んで川俣温泉方面へ出て、山王峠を越えて日光へと向かった。 かつては木造の旅館や民宿ばかりで、一部に茅葺き屋根も残る山間の鄙びた温泉保養地と言われた湯西川温泉だったそうだが、私が訪れた当時は既に大型の観光旅館やホテルが並んでいた。テレビCMなども流されていたと思う。 まだまだ団体旅行が行われていた時代で、ホテルの前には大型バスが横付けされ、和服姿の宿の従業員が団体客の見送りをしている光景などを目にした。野宿旅をしていた頃なので、何とも肌が合わない場所だという印象を持った。
 
 今は温泉街に通じる県道の一部が2車線路に拡幅されているが、当時は狭い道の両側に建物が林立していた(下の写真)。そこを大型観光バスも通るので、おちおちしていられない。結局湯西川温泉には立寄らず、素通りしてしまった。

   
image

以前の温泉街の様子 (撮影 2003.11.29)
県道を五十里湖方面に見る (地理院地図
この時はまだ狭い道沿いに建物がひしめき合っていた

image

左の写真とほぼ同じ場所 (撮影 2024.10.17)
県道は2車線路になったが、
やや閑散とした雰囲気は否めない

   

 あれから30年以上経ってやっと湯西川温泉に泊まることになった(2024年10月)。団体旅行は影を潜め、一時は名をはせた大型ホテルも名を変えていた。県道は走りよくなったが、どこか活気が失われているような気もする。 たった一泊だけで湯西川温泉のことが全て分かる訳ではないが、それでもまだ朝早い温泉街の風景などを見ることができた。消防団の車が朝の訓練なのか、狭い県道を走って行く。日本人の代りに外国人観光客が目立つ。 団体の中国人を乗せた大型バスが、丁度ホテルを出発しようとしていた。乗客の一人が楽しそうに窓からこちらに手を振った。国同士はギクシャクしているが、こうして日本を観光しようと来てくれた個人には何のこだわりもない。楽しい旅の思い出を持ち帰ってほしいと、こちらも手を振り返した。
 
 湯平橋から下流側300〜400mの県道沿いに温泉街が続く。「平家最中」と書かれた和菓子屋が出てくれば、そこが東の外れだ。勿論その区間以外にも旅館やホテル、民宿などは点在する。直ぐに県道は細くなり、沿道は学校などがある普通の景色を取り戻す。

   
image

沿道の様子 (撮影 2001.10.21)
県道を五十里湖方面に見る (地理院地図
この付近が温泉街の東の外れ

image

左の写真と同じ場所 (撮影 2024.10.17)
「平家最中」の看板が見える

   
   
   

湯平以降

   

<権現橋の道路情報板>
 それまで絶えず湯西川左岸に通じていた県道が、権現橋(架設年次:1966年)という小さな橋で右岸に移る(地理院地図)。その手前に道路情報板の表示が出ていて、「土砂崩れのおそれあり 湯西川〜海尻橋」となっている。海尻橋(しおじりばし)とは五十里湖の途中に架かる橋で(地理院地図)、現在は国道121号の途中にあるが、以前はその橋の袂までが県道黒部西川線であった。土呂部峠前後の険しい区間はとっくに過ぎているのに、権現橋から先でもまだ道は険しいと、その道路情報板は注意を促しているのだ。海尻橋まで15Km前後の道程を残していた。

image

権現橋を渡る (撮影 2024.10.17)
手前が峠方向、奥が五十里湖方面
橋の袂に道路情報板が立つ

   

 但し、今は大きく事情が変わっている。この先の県道は大幅に改修されたのだ。中でも湯西川ダムの建設が大きく関わっている。道路地図の様相が変わる程だ。かつての険しい狭路区間は本の僅かに残るだけで、道程もぐっと短縮されている。 国道121号に接続するまで、13Kmにも満たないだろう。権現橋の袂に立つ道路情報の看板は、かつての難路を示す名残りである。撤去される日も近いのではないだろうか。

   

<湯西川右岸沿い>
 道路情報板の注意書きとは裏腹に、権現橋から数100mも進むと湯西川右岸沿いに快適な2車線路が通じている。この区間は湯西川ダム完成の以前から改修されていた。

   
image
   

湯西川右岸沿いの道 (撮影 2001.10.21)
この時は既に快適な2車線路 (地理院地図
(奥に見える建物は旧伴久ホテル)

   

<安ヶ森峠分岐>
 名を変えた大きなホテルの前を過ぎれば、広い範囲での湯西川温泉は終わる。五十里湖方面から来れば、そこが湯西川温泉の入口となる。その直ぐ脇に安ヶ森峠への分岐がある(地理院地図)。
 
 県道黒部西川線は、黒部と西川の間で他所へ抜けられる車道は非常に限られる。前沢林道など常時通行止の道を除けば、土呂部峠から北に始まる県道350号・栗山館山線方向と、この安ヶ森峠を越えて福島県に通じる安ヶ森林道だけと言っていい。これらは冬期閉鎖は勿論のこと、災害などで通行止になることも多い。最近の様子では、安ヶ森峠は車では越えられないようだ。この峠を最後に越えたのはもう20年以上前となる。今度詳しく再掲載したいと思う。

   
image

安ヶ森峠への入口 (撮影 2001.10.21)
手前に県道が通る
ジムニーはこれから安ヶ森峠を越えて行く

image

右に安ヶ森峠への分岐 (撮影 2001.10.21)
県道を湯西川温泉方向に見る
「安ヶ森ロッジ・キャンプ場」などの案内看板が立つ

   

<1/2周>
 安ヶ森峠分岐付近で県道黒部西川線は最も北に至る。その真南には黒部が位置し、丁度半周したことになる。分岐以降は南東方向に進路を変え、五十里湖に架かる海尻橋袂を目指す。残り1/4周である。
 
<夫婦橋と高房トンネル>
 今の県道は夫婦橋(架設年次:2008年)を渡り、続いて高房(たかふさ)トンネル(地理院地図)を抜けて行く。この新道が通じる前は、赤倉橋(架設年次:1962年、地理院地図)を渡る500m程の旧道が通じていた。それとは気付かず、素通りしてしまった。この区間は湯西川ダムとは直接関係ない位置だが、道路改修の一環なのだろう。
 
 
<川戸・水の郷>
 高房トンネルが湯平と川戸(かわど)との境になるようだ。川戸には「湯西川水の郷」という大きな観光施設がある(地理院地図)。 最近できたようで(竣工:2006年8月)、手持ちの道路地図や観光ガイドには載っていなかった。今回(2024年)湯西川温泉に泊まって入手したパンフレットで初めてその存在を知った。そのお陰で前述の様でダムカードを手に入れたのだった。湯西川に沿った立地で、休憩や土産物以外にも、吊り橋が架かる遊歩道が楽しめる。

   
image

湯西川水の郷 (撮影 2024.10.17)
湯西川沿いから見る

image

湯西川総合案内図の看板 (撮影 2024.10.17)
湯西川水の郷にあったもの
地図は右がほぼ北

   

<仲内>
 次の仲内(なかうち)では右に旧道が分かれて行く(地理院地図)。ここから先は湯西川ダムによる影響が大きい。旧道はほとんど通行できず、その大半が湖底に沈んでいる。新道は快適な2車線路として湯西川温泉駅近くまで続く。

image

右に旧道が分かれる (2024.10.17)

   
   
   

湯西川ダム湖付近

   

<付替道路>
 ちょっとした道路の改修などと異なり、ダム建設に伴う大幅な道路の付替えは風景を一変させる。 銚子(ちょうし)トンネル(地理院地図)を抜けた辺りから沿道の景観が劇的に変わった。 蛇行する湯西川の遥か上空を直線的に県道が通じる。この付替道路は、何でも夫婦橋から湯西川温泉駅手前の上野(うわの)トンネルまで、10のトンネルと17の橋で構成されているそうだ。土呂部峠を越える同じ県道とは思えない、全くの別世界が広がっている。

   
image
   

湯西川ダムによる付替道路 (撮影 2024.10.17)
臼の平紅葉大橋付近(湯西川温泉方向に見る)
奥に見える坑口は銚子トンネル
(後部ドラレコ画像より)
右手に見えるのは旧道近くに建つ湯西川水処理センター

   

 一方、旧道は臼の平紅葉(うすのたいらもみじ)大橋の下辺り(地理院地図)で消え失せているようだ。そこより下流側はダム湖に沈んでいる。

   
image

一ツ石大橋よりダム湖を望む (撮影 2024.10.17)
この付近は西川の一ツ石

 旧栗山村の湯西川水域は、上流側の大字湯西川と下流側の大字西川に分かれる。湯西川側では字仲内と字平沢(ひらさわ)が最下流に位置し、それ以降集落名が見られない。
 
<西川へ>
 一方、西川に入って最初の集落が一ツ石だった。新道は栗山沢を一ツ石大橋で渡るが(地理院地図)、以前の旧道には栗山沢橋が架かっていた。その橋より少し上流側にポツンと一つ、一ツ石は位置していた。民宿も一軒あったようだ。当然ながら集落の場所は今は湖底にある。どのような集落だったか、全く記憶はない。但し、地理院地図にはまだその名が残る(地理院地図)。
 
 ダム湖畔沿いは確かに風光明媚だが、長いトンネルが多いことは否めない。湖面を眺める機会はあまり多くはない。

   
image
   

オクタホリ沢橋(地理院地図)よりダム湖を望む (撮影 2024.10.17)
かつての湯西川渓谷の面影は全く失われた

   

<湯西川渓谷>
 現在ダム湖となっている区間は、以前は「湯西川渓谷」などとも呼ばれていた。約10Kmに渡り狭い谷間を縫って川が蛇行していた。紅葉の名所でもあった。その側らを狭い県道が細々と通じていた。
 
<最大の難所>
 土呂部峠を越える県道黒部西川線に於いて、峠前後の地形が険しい区間はさして難関ではなかった。慎重に走ってさえいれば、何ら問題ない道だった。
 
 この県道の最大の難所は、この湯西川渓谷沿いであった。全線舗装だし、ほぼ1.5車線の幅は確保されている。単独で車を走らせている限りには、何ら支障はない。

image

かつての湯西川渓谷沿い (撮影 2003.11.29)
パジェロ・ミニは五十里湖方面に向かっている
残念ながら生憎の雨で、渓谷は霞んでいた

   
image
   

紅葉の湯西川渓谷 (撮影 2001.10.21)
ジムニーは湯西川温泉へと向かう途中
ちょっと立ち止まって記念写真 (渓谷の写真はこれくらいしか残らない)

   

 問題なのはその交通量だ。奥に湯西川という大きな温泉地を控えているので、険しい割に車の往来が多いのだ。個人の乗用車は勿論のこと、特に困ったのは大型バスの存在だ。路線バスやら観光バス、宿の送迎バスなどが行き交う。 バスは狭い県道を道幅一杯になってやって来る。その離合は一筋縄ではいかない。普段、車に乗っていない観光客だろうか、慣れない運転で離合に手こずったりもする。 未舗装林道の険しい峠道を走り慣れていた私も、これにはつくづく閉口した。ツーリングマップルに「ほそい」と一言注意書きを加えて置いた。
 
 のんびり車を停めて休む場所もなく、湯西川渓谷を写した写真はほとんど残っていない。今はダム湖に沈んでいると思うと、もっとシャッターを切っておけば良かったと後悔している。

   
image

湯西川ダムの堰堤 (撮影 2024.10.17)
「湯西川ダム」(ゆにしがわダム)とある

<湯西川ダム>
 かつての湯西川渓谷の終わり近くに、今は巨大な湯西川ダムが完成している(地理院地図)。かつての打越という集落付近だ。ゆっくり見学し、ダムカードもしっかり頂いた。

   
image

ダム湖(1/2) (撮影 2024.10.17)

image

ダム湖(2/2) (撮影 2024.10.17)

   

<ダム下流(余談)>
 ダム堰堤より下流直下を覗いてみた。どこかに旧道らしき痕跡がないかと探したが、何も確認できなかった。県道が通じ、その沿道に打越集落があったのは右岸側だが、その部分は林で隠れていた。 左岸側に吊り橋の跡らしい、古そうな橋脚が立っていた。打越の住民が左岸へと渡る生活路だったかもしれない。そこで畑などを耕していたかもしれないと想像した。
 
 
<ダム湖の村(余談)>
 鬼怒川源流域にある旧栗山村は、「ダム湖の村」というイメージが強い。まず、国道121号を福島県を目指してやって来ると、五十里湖の脇を通過する。冬期(1993.12.29)に山王峠(トンネル)を越えようと訪れたことがあったが、湖岸には人の気配を全く感じさせない凍てついた景色が広がった。
 
 また、五十里ダムの近くには鬼怒川本流を堰き止めた川治ダムがある。正確には五十里ダムも川治ダムも旧藤原町に位置するが、そのダム湖は旧栗谷村の領域に延びている。更に鬼怒川上流部には川俣ダムの川俣湖が大きく広がっている。

image

ダム下流を望む (撮影 2024.10.17)
この川の右岸沿いに県道が通じていた

   
image

湯西川ダムにあった看板 (撮影 2024.10.17)

<9つのダム群(余談)>
 湯西川ダムを見学していると。「鬼怒川上流ダム群案内図」と題した看板を見掛けた。国土交通省管轄のダムが4つ、それ以外が5つ、合計9つのダムが紹介されていた。なかなか壮観である。こんなに多かったとは、改めてダム湖だらけの村だったと痛感する。
 
 国交省の4番目で最も新しいダムが湯西川ダムになる。そのダム湖は「湯西川湖」と命名されているようだが、まだ余り市民権を得ているとは言えないようだ。五十里湖が支流の湯西川へも及んでいて、その直ぐ上流に湯西川ダムが出現した。五十里湖から湯西川湖へと、ほとんど途切れなく湖が続くようになった。と

   
image

看板の地図 (撮影 2024.10.17)
鬼怒川上流ダム群案内図

image

ダムの一覧 (撮影 2024.10.17)

   
image

上野集落を通過 (撮影 2024.10.17)

<湯西川ダム以降>
 湯西川ダムより下流側は県道の旧道が残っていてもいい筈だが、新道は全く異なったコースを通る。
 
 新道は途中、上野(うわの)の集落を通過する(地理院地図)。 街並みが新しい。道路付替えに伴い、旧道沿いからこの新道沿いに移転したのではないだろうか。天和3年(1683年)9月1日の日光大地震では、西川村は古五十里湖に水没した。その折、集落は字上野などに避難したそうだ。今度は湯西川ダムにより、再び移転したということだろうか。

   

<旧道に寄り道>
 上野集落に続いて上野トンネルをくぐる。これで夫婦橋との間に通じた付替道路は終わりとなる。
 トンネルを抜けた先で湯西川ダム方向に旧道が分岐する(地理院地図)。ついでだからちょっと覗いて来ようと思う。
 
 五十里湖の一部となる湯西川の右岸沿いに寂しい道が通じる。それでもまだ使われている様子が窺えた。150m程進むと右にゲートがある道が下って行く。 湖岸沿いで何かの工事を行っているようだ。それでまだこの旧道が使われているらしい。余り深入りしてもと思い、そこで引き返した。どうやらその先の旧道は通行止となっているようだ。それでは上野などの集落は移転せざるを得ない。

image

左が上野トンネル (撮影 2024.10.17)
湯西川ダム方向に見る
右に旧道が分かれる

   
image

旧道の様子 (撮影 2024.10.17)
湯西川ダム方向に進む

image

旧道の様子 (撮影 2024.10.17)
左が旧道の続き、右は工事用の道と思う

   

<以前の道の様子(余談)>
 場所は特定できないのだが、五十里湖方面から湯西川温泉に向けてジムニーを走らせた時(2001年10月)の写真が残っている(下の写真)。湯西川温泉駅の付近だと思う。 ダム建設に関係するか分からないが、その付近一帯で改修工事が進められていた。信号待ちで車列ができ、運悪く大型バス2台が先行する。その後を県外ナンバーの乗用車が続いた。多分、湯西川温泉に向かう観光客だろう。 路線バスは鬼怒川温泉駅と湯西川温泉の間を1時間少しで結ぶ。この車列がこのまま湯西川温泉まで続くのだろうかと、不安になったことを覚えている。土呂部峠の「最大の難所」たる所以である。こんな光景はもう見られない。

   
image
   

路線バスが先導する (撮影 2001.10.21)
これからジムニーで湯西川温泉を目指す

   
   
   

湯西川温泉駅以降

   
image

湯西川温泉駅前の様子 (撮影 2024.10.17)
湯西川温泉方向に見る
左手が駅、右手に五十里湖が広がる

<湯西川温泉駅>
 付替道路が完成する以前から、大字西川では湯西川温泉の様な大きな集落を見掛けたという記憶がない。しかし、県道が会津鬼怒川線の湯西川温泉駅前を通過する箇所だけは、ちょっと賑やかな雰囲気があった。 路線バスもここを経由する。目の前には湯西川上流方向に延びる五十里湖が望める。最近は駅に隣接して道の駅・湯西川もでき、観光地らしい華やいだ雰囲気が増した。
 
 これまでは「湯西川温泉駅」と言いながら、湯西川温泉からは随分離れているのが気になっていた。でもこれからは、快適な道を乗用車なら15分余りで辿り着けるだろう。

   
image
   

湯西川温泉駅前より五十里湖を望む (撮影 2024.10.17)
野岩鉄道・会津鬼怒川線が湖を渡って行く

   
image

前方で国道121号に接続 (撮影 2024.10.17)
左は南会津、右は鬼怒川

<国道121号に接続>
 駅前を過ぎて300m足らずで国道121号・会津西街道に突き当たる(地理院地図)。現在はここが県道249号・黒部西川線の終点になる。国道を左に行けば福島県方面へ、右に行けば川治温泉・鬼怒川温泉方面に至る。
 
<五十里バイパス>
 但し、以前の県道黒部西川線は海尻橋(うみじりばし)の袂まで続いていた。海尻橋袂以北の現在の国道は、五十里バイパスとして平成16年(2004年)1月に開通した道になる。

   

<湯の郷トンネル区間>
 国道を川治温泉方向に進むと、直ぐに湯の郷トンネル(開通:2002.11)を抜ける。以前の県道はその区間を五十里湖沿いに通じていた。

   
image

国道を湯の郷トンネル方向に見る (撮影 2024.10.17)
左に旧道が分岐する

image

湯の郷トンネル手前を福島県方向に見る (撮影 2024.10.17)
右に旧道が分岐する

   

<湯の郷トンネル以降>
 湯の郷トンネルを抜ければ、以前の県道とほぼ同じ道筋だ。側らに五十里湖の景色が大きく広がる。前方奥には海尻橋も見えて来る。

image

湯の郷トンネルを福島県方向に見る (撮影 2024.10.17)
右に旧道が分岐する

   
image
   

現国道より五十里湖を望む (撮影 2024.10.17)
右手奥に海尻橋が架かる
この景色は以前は県道から眺めた

   

<海尻橋>
 かつての国道は海尻橋(竣工:1955年、地理院地図)を渡り、それ以降は湖左岸側を北上していた。国道に代わって県道黒部西川線が右岸側に始まっていた。

   
image

海尻橋の袂 (撮影 2024.10.17)
現国道を川治温泉方向に見る
ここがかつての県道の西川側起点

image

海尻橋方向を示す看板 (撮影 2024.10.17)
国道の「旧道」とある

   

<海尻>
 現在の五十里湖は五十里ダム(竣工:1956年)による人造湖だが、古くは天和3年の日光大地震により自然の古五十里湖ができている。近くの葛老山が崩壊し、男鹿川と湯西川の合流地点で川を逼塞したことにより出現したそうだ。 海尻橋は当時の堰堤部分に当たり、そこから「海尻」の名が興ったとのこと。これまで海尻橋は五十里湖における唯一の架橋であったが、五十里バイパスによる五十里海渡り大橋が新しく完成している(地理院地図)。
 
<峠道起点>
 現在、男鹿川と湯西川の合流点付近には広く五十里湖が広がり、かつての合流点は曖昧だ。しかし、前記の話からして、海尻橋付近が元の合流点であったことになる。 土呂部峠の道が湯西川水域全域とすれば、海尻橋を起点とするのは理にかなっている。海尻橋の丁度西に土呂部峠が位置し、峠から半周、黒部からはほぼ3/4周したことになる。

   
image

海尻橋の左岸側袂 (撮影 2024.10.17)

image

袂に立つ看板 (撮影 2024.10.17)

   
image

旧国道の先 (撮影 2024.10.17)
「通り抜け出来ません」の看板が立つ

<旧国道(余談)>
 海尻橋を渡って旧国道に少し入ってみた。以前通った道だ。橋は旧栗山村と旧藤原町との境でもあった。すると、100mも行かないで、「湖畔亭より先 通り抜け出来ません」と看板が立っていた。あっさり引き返した。かつて旅をした道がなくなったり通れなくなったりしたのは寂しい。

   
   
   

<終わりに(余談)>
 今回の土呂部峠は訪れた回数も多く、それなりに思い入れがある峠だ。意気込んで始めた割には、何ともポイントがはっきりせずピンボケの話しに終始した。それでいて、どうも物足りなさを感じる。 湯西川温泉に泊まったことなどもいろいろ書きたかったがあまり峠と関係ないと、これも中途半端に終わってしまった。
 
 栗山村を訪れたのは2024年10月が最後だが、その前は2005年10月以前である。その間に長い年月が過ぎた。峠道にもいろいろ変化があり、中でも湯西川ダムの完成がやはり大きい。以前の湯西川渓谷沿いに通じていた道とは別世界だ。 少なくともそうした変化の前後を目にすることができたことは幸運だった。一方で、かつて旅をした思い出のある道が廃れて行く様子を見るのは寂しく感じた、土呂部峠であった。

   
   
   

<走行日>
・1992. 9.15 安ヶ森峠→湯西川→土呂部峠→馬坂林道→川俣/ジムニー にて
・1993.12.29 国道121号にて五十里湖通過/ジムニー にて
・1994. 8.12 土呂部→土呂部峠→田代山峠分岐→田代山峠/ジムニー にて
・1998. 7.25 土呂部→土呂部峠→田代山峠分岐→帝釈山峠/ジムニー にて
・2001.10.21 大笹越え→西川→湯西川温泉で引き返し→安ヶ森峠/ジムニー にて
・2003.11.28 川俣温泉泊/パジェロ・ミニにて
・2003.11.29 川俣→馬坂林道→土呂部峠→湯西川/パジェロ・ミニにて
・2005.10.30 山王峠→川俣温泉泊/パジェロ・ミニにて
・2005.10.31 川俣→黒部→日蔭→大笹越え/パジェロ・ミニにて
・2024.10.16 大笹越え→土呂部→土呂部峠→湯西川温泉泊/ヤリス・クロスにて
・2024.10.17 湯西川温泉→西川/ヤリス・クロスにて
 
<参考資料>
・東北 2輪車 ツーリングマップ 1989年5月発行 昭文社
・関東 2輪車 ツーリングマップ 1989年1月発行 昭文社
・ツーリングマップル 2 東北 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 3 関東 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 3 関東甲信越 2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・マックスマップル 東北道路地図 2011年2版13刷発行 昭文社
・WideMap 関東甲信越 (1991年頃の発行) エスコート
・福島県 広域道路地図  1996年7月発行 人文社
・県別マップル道路地図 9 栃木県 2003年 7月 発行 昭文社
・角川日本地名大辞典 7 福島県 昭和56年 3月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典 9 栃木県 昭和59年12月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・日本歴史地名大系 7巻 福井県の地名 1993. 6.15 初版第一刷 (株)平凡社
・日本歴史地名大系 9巻 栃木県の地名 1988. 8.25 初版第一刷 (株)平凡社
・旅先で入手した観光パンフレット各種
・地図のウェブサイト 「NAVITIME」、「MapFan」、「Yahoo!マップ」など
・川のウェブサイト 「川の名前を調べる地図」(道路名も参考に)
・栃木県・日光市の公式ホームページ
・その他の各種ウェブサイト
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

<1997〜2026 Copyright 蓑上誠一>
   
   
   
峠と旅        峠リスト