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神坂峠
                みさかとうげ   (峠と旅 No.010-2)
  今も神 が宿るような、天にそびえる峠道
  (初掲載 2013.12.28  最終峠走行 2013. 5.22)
   
   
   
神坂峠 (撮影 2013. 5.22)
手前は長野県下伊那郡阿智村智里
奥は岐阜県中津川市神坂
道は林道大谷霧ヶ原線
峠の標高は1,569m (国土地理院の地形図より)

  
  
  神坂峠は正に一級の峠だ。
 このホームページ「峠と旅」を1997年6月20日にオープンした時、僅かに10の峠を掲載して始めたのだが、その中の一つがこの神坂峠であった(
神坂峠)。初めてホームページとやらを個人で出すので、なるべく面白そうな峠を選ん だ積り である。神坂峠についても、「この峠は凄いぞ」という思いがあった。そこがいにしえの東山道 の峠であることなどはあまり意識なく、ただただ単純にジムニーで峠を越えた時の感動が、ストレートに「凄い」と思わせていたようである。
 
 その後、峠道の一部に通行止などもあって、結局21年前に一度越えただけの峠になっていたが、折に触れ思い出すことは多かった。再び越えてみたいとは思 いつつも、通行止が解除される様子は一向になく、あの時通った険しい未舗装林道のことを考えると、神坂峠は容易には人を寄せ付けない峠なんだと思い込むよ うになっ ていった。
  
<今 回の旅のきっかけ(余談)>
  神坂峠は長野県と岐阜県の境に位置する峠である。両県を繋ぐ峠道の全線はいつまで経っても走れる状況にはならない。しかし、どちらか片方側から峠にだけは 辿り着け そう ではある。いろいろ思い出すだけではやはり詰らない。もう一度、一目でいいから峠を見てみたい。丁度今年(2013年)は山梨県に引っ越して長野県は近い 存在になった。体調は芳しくないが、 ここは一つ出掛けて見るかと出発した旅で、どうにか再び神坂峠を訪れることができたのだった。
  
21年前の神坂峠 (撮影 1992.10.22)
右端に林道に関する「警告」の看板があるが、
今もほぼ同じ物が同じ場所に立つ
  
  21年振りの神坂峠はほとんど変わりがなかった。峠の切通しの具合や、峠から岐阜県側に広がる眺めなどはそのままであった。元から険しかった長野県側の道 はやは り走れなかったが、それでも岐阜県側から登り、峠の近くで視界が広がりだす辺りは、改めて「凄い」と思わせる峠道であった。今回はこの道が東山道であった ことも意 識し、長野県側の旧道脇にある神坂神社に寄ったりして、また一味違う神坂峠も堪能できたのだった。
  
長野県側から神坂神社へ
   
<長 野県側通行止>
  峠の旅の前に道路状況などを下調べするのはあまり好まない。何の予備知識や先入観がないまま、とにかく現地に行ってみて、自分自身で体験し、発見するのが 楽 しいのだ。
 
 しかし、今回だけは別である。神坂峠は容易ならざる峠だと思っているので、通行止の情報だけはネットで仕入れた。ただ、妻が代行した。折角出掛ける旅行 なので、妻は宿のことなどいろいろと下調べに余念がない。私はやはり必要以上に知りたくなかったので、結果だけ聞いた。やはり長野県側からは峠に行けない が、岐阜県側からは大丈夫なようだ。それさえ分れば十分である。
   
<あ えて長 野県側へ>
  長野県側が通れないからといっても、ちょっと訪れてみたい所があった。神坂峠は古くは東山道の峠であったが、後の世に長野県側に開削された林道は、東山道 とは全く別ルートを採っている。代わりに元の東山道にほぼ沿って、峠道の途中までだが別の車道が通じ、その途中には神坂神社がある。多分その沿道には、他 にも東山道に関した史跡が多いことだろう。どうせ峠に続く林道は通行止だから、そちらには足を踏み込まず、いにしえの東山道を探訪しようと思う。
  

国道153号を阿智村へ (撮影 2013. 5.21)
飯田市から阿智村に入った辺り
前方に阿智村の市街地が望める
<国道153号を行く>
 長野県の飯田市方面から国道153号を南下する。近くを中央自動車道も並走する。道はいつしか飯田市から阿智村(あちむら)へと入って行く。
 
<阿智村へ>
 神坂峠の長野県側は阿智村となる。天竜川の支流・阿知川(あちがわ)の上流域に位置する。西の背面に恵那山(えなさん、2,191m)がそびえる。木曽 駒ケ岳 (2,956m)を主峰とする木曽山脈(通称中央アルプス)が南北に連なるが、その南端にある山だ。恵那山の東麓に流れ下る沢や川が、行く行くは阿知川と なって東流し、天竜川に注いでいる。
  
<峠の所在>
 木曽山脈の主稜は、そのほとんどは長野県内にあるが、恵那山周辺だけは長野県と岐阜県の境となる。 そこに神坂峠がある。 細かくは、恵那山と、その北に位置する富士見台(1,739m)との間の鞍部に位置する。
 
<峠名>
 神坂峠は、旧国名でいうと信濃(しなの)国(長野県側)と美濃(みの)国(岐阜県側)の境となる。都から東国を目指す者にとって、峠は美濃から信濃へと 入る 玄関口に当たり、「信濃坂」(しなのざか)とも呼ばれた。一般には、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国征伐の際に通ったという伝承によるとされる。 「神の通った坂 道」、「神の御坂(みさか)」で「神坂峠」である。知らないと「神坂」を「かみさか」と読みそうになる。
 
<村名>
 阿智村の名前の由来は神坂峠を越える東山道と関係するようだ。信濃国側にあった古代の駅名が「阿智駅」(あちのうまや)であったそうな。村名はその「阿 智」が元になって いると言う。
 
<阿智駅>
 阿智駅の所在は現在の阿智村駒場である。「こまんば」が「こまば」と呼ばれるようになった。国道153号が走り、村役場もある村の中心街だ。飯田市側か ら来ると、国道はその村の中心へと緩やかに下って行く。その谷間には阿知川も流れる。道の前方にそこだけ賑やかそうな、かつての阿智駅の市街地が望める。
 
<坂本駅>
 ちなみに、峠を挟んだ美濃国側の駅は坂本駅である。神坂峠は坂本と阿智という2つの駅の間を結ぶ峠道となる。尚、これらの場合の「駅」は「うまや」と呼 ぶそうだ。阿智駅は「あちのうまや」、坂本駅は「さかもとのうまや」となるらしい。
  
<阿 知川沿い>
 快適な国道を走っていると、阿智村市街はあっと言う間に過ぎてしまい、何の感想も残らなかった。かつて、険しい神坂峠を越え、この駒場の駅に辿り着いた 者は、安堵の胸を撫で下ろしたことであろう。しかし、それは遥か昔のこととしかいいようがない。道は阿知川沿いとなり、阿智駅も過ぎたので、神坂峠の峠道 に入ったと言える。神坂峠は阿知川の支流・園原川の源頭部に位置する。
 
 尚、「阿知川」は阿智村と同じ「阿川」とも書く ようだが、ここでは阿知川で踏襲する。
  
<国道256号分岐>
 道は駒場から智里(ちさと)に入る。阿智村の西の広い範囲が智里で、峠も智里にある。直ぐに国道の分岐がある。ここまでの国道は153号と256号の 併用区間で、ここで国道153号、通称三州街道は南へ向かう。以前は153号の方が左(南)へ分岐する格好だった筈だが、最近は立体交差になったようで、 ちょっと慌てた。153号の本線から左にそれるように256号の方が分岐し、その先で153号の下をくぐって行く。
 
 分岐後、153号は三州街道の名の通り、三河国・愛知県へと向かい、一方256号は
清内路峠(せいないじ)で木曽山脈を越 え、木曽へ出る。

国道256号の分岐 (撮影 2013. 5.21)
左が256号、右が153号
  

国道の立体交差 (撮影 2013. 5.21)
下が256号、上が153号

<三州街道との関係>
 清内路峠、そしてその北にある大平峠 (おおだいら)などは、木曽山 脈を挟んで東西に位置する伊那と木曽を結ぶ峠だが、それらの峠道と三州街道とはある意味因縁の関係にあった。木曽山脈越の峠は伊那と木曽を結ぶだけでな く、木曽から木曽路を南下すれば尾張・名古屋へと続く道でもある。この経路で伊那谷と名古屋との間で物資輸送が行われることもあった。それが茶臼山の北を 越える三州 街道が発達すると、物資輸送は三州街道へと流れて行った。言ってみれば、かつての国道153号と256号は興亡の関係にあったのだ。
 
 現在の関係はどうなのか分らないが、国道153号から分かれて清内路峠に向かう国道256号はやや寂しい。立体交差で153号の下を小 さなトンネルが抜けて行く。
   
<昼神温泉通過>
 道は立派だが沿道はやや寂しい国道256号が、また少し賑やかになる。昼神温泉郷を通過するのだ。国道沿いにも温泉ホテルが何軒か並ぶが、この付近、国 道 は阿知川とは少し離れていて、国道と阿知川に挟まれた地が温泉街になっているようだ。国道からはその様子はあまりうかがえない。

この先昼神温泉 (撮影 2013. 5.21)
ガイドセンター付近
   
<昼 食(余談)>
 丁度昼時なので、昼食を採ることとした。ここを逃せば、この先適当な店は少ないだろう。体調不良なので、クーラーの利いた涼しい店で、軽くそばでもとい うこと になった。うまい具合に直ぐにそば屋が見付かり、入ってみると観光客などでなかなか繁盛している。観光気分もあり、ざるそばだけをたのむ積りが、ついつい 奮発しててんぷら付きの高価なメニューを選んでしまった。運ばれてきた料理は以外にボリュームがあり、完食するのに苦労した。食後、食べ過ぎらしく夫婦共 々腹部に違和感 が生じ、慣れないことはするものではないと痛感した。いつもなら、路肩に停まってカセットコンロで湯を沸かし、カップ麺である。
  
  
県道89号へ
   

左に県道89号が分岐 (撮影 2013. 5.21)
<県道89号分岐>
 国道は昼神温泉だけ賑やかで、そこを過ぎるとまた閑散とする。間もなく左に県道(主要地方道)89号・園原インター線が分岐する。神坂峠へはその県道に 入る。
 
 一方、国道256号の続きは、阿知川の支流・黒川沿いに北上し、途中から更に支流の清内路川に沿って遡り、清内路峠を越えて木曽へと抜けている。以前は 峠の手前に清内路村という村があったが、今は阿智村の一部になっているようだ。
   
<県道入口>
 県道の園原インター線は、国道からの分岐が終点になっていて、園原ICとここを結ぶ非常に短い主要地方道だ。分岐点の地名は「阿智村智里昼神」。道の入 口には中央自動車道の情報が電光表示板などに大きく出ている。
 
<県道を行く>
 国道は支流沿いを進むが、県道の方が本流の阿知川沿いである。左手に大きく蛇行する阿知川を望む(下の写真)。対岸に僅かに家屋を認めるが、その付近が 最終である。ここより上流は阿知川の谷は険しさを増し、県道沿いに人家などはパッタリ途絶える。

県道89号 (撮影 2013. 5.21)
右上に国道256号
   
阿知川を望む (撮影 2013. 5.21)
  

県道89号を行く (撮影 2013. 5.21)
<県道沿い>
 道は阿知川支流の黒川を渡り、左手に吾道太神宮という神社の鳥居を見て過ぎる。そろそろ古代東山道の名残となるものがないかと沿道に注意する。しかし、 現在の県道は、右手の山側にはコンクリートやブロックが積まれた高い擁壁がそそり立ち、左手の谷側は直ぐに切り落ちた崖で、昔の面影などは残っていそうも ない道路だ。(後で分かったが、古代東山道は阿知川沿いではなく、網掛峠を越えていたらしい)
 
 道は小刻みな屈曲を繰り返し、あまり先の見通しが利かない。それでも、網掛トンネルを出て来た中央自動車道が左手に眺められるようになると、 阿知川の谷は幾分開けてくる。それにしても、中央道などの自動車道がほぼ同じ目線の高さで間近に通じているのを見ると、ちょっと異様な感じがする(下の写 真)。
   
中央道を望む (撮影 2013. 5.21)
  
<県 道109号分岐>
 暫し中央道と並走した後、県道はその自動車道の下をくぐる(下の写真)。そのちょっと手前右に県道109号が分岐している。この道は、支流の横川川沿い を進み、横川峠で旧清内路村へと越える。峠手前に横川郷という山里があるようだが、まだ訪れたことがない。一度行ってみたい小さな峠道だ。
   

前方で中央道をくぐる (撮影 2013. 5.21)
手前に県道109号の分岐

右手に県道109号が分岐 (撮影 2013. 5.21)
   
<県道177号へ>
 県道109号を右に見て過ぎ、横川川を渡り、中央道の直ぐ下をくぐると、左に阿知川を渡って道が分岐する。それが県道89号の続きで、園原IC(イン ターチェンジ)で終点だ。道なりにそのまま直進すると、道は県道477号に変わる。
 
<園原>
 「園原」の名は中央道の園原ICでお馴染みだが、この地は阿智村智里の園原である。東山道は阿智駅から昼神、園原と続いて神坂峠に登って行った。

道路看板 (撮影 2013. 5.21)
   
   
神坂神社がある古道へ分岐
  

前方右に神坂神社への分岐 (撮影 2013. 5.21)
<古道への分岐>
 県道477号に入って間もなく、また右に分岐がある。園原川が阿知川に注ぐ手前を園原川の左岸沿いに遡る道だ。県道でも何でもない。道の入口にはいろい ろと看板が立つ。中でも「歴史の里園原 神坂神社・広拯院」 とあるのに注目だ(下の写真)。神坂峠は園原川の源頭部に位置し、この川沿いに峠を目指すのが古代の東山道であった。
   

神坂神社への道の入口 (撮影 2013. 5.21)
角に看板などが立つ

道の入口にある看板 (撮影 2013. 5.21)
   
 看板群に並んで立つ道先案内 となる矢印看板には、「古代 東山道」、「古代東山道登口」、「神坂神社まで2.6Km」と書かれている。古代東山道となる古 道と現在の車道では、必ずしもその道筋は一致しない。しかし、少なくともその沿線に神坂神社があるのだから、古道に限りなく近い車道であることは確かだ。 今回はまず神坂神社を目指そうと思う。
 
<県道477号の先>
 県道477号の続きは、この先の戸沢が県道終点で、そこからは林道となって神坂峠に登って行く。県道名は「富士見台公園線」と呼ぶようになったらしい。 峠の少し北に位置する富士見台の名が出ているからは、峠にまで到達する意欲がある県道である。しかし、現在は県道に続く林道の区間が通行止のようだ。今回 はそちらには行かなかった。

矢印看板 (撮影 2013. 5.21)
   
<阿 知川の先>
 尚、園原川と別れた阿知川は、本谷川と名を変える。奥深い恵那山の方から流れ下る川なので、阿知川の本流だと思う。本谷川沿いを登った林道は、途中で ちょっとしたピークを越え、園原川上流域に入って峠を目指すのだ。
  
  
古道沿いを行く
   
<古道沿い>
 阿知川本流沿いの県道とはやはり一味違い、園原川沿いに入った道は、やはりどこか落ち着きがある。道はまだセンターラインもある広いアスファルト道だ が、 沿道の人家の佇まいも、何となく歴史を感じさせる。
 
<T字分岐>
 園原川左岸を数100m程登ると、T字の分岐に行き当たる。右が神坂神社・広拯院へ、左は富士見台高原ロープウェイの山麓駅を経て、本谷川左岸を上流部 へ進む。神坂神社への道には、「村道 2-16号線 園原→」 と案内看板がある。

沿道の様子 (撮影 2013. 5.21)
   

T字の分岐 (撮影 2013. 5.21)

神坂神社方向の道を見る (撮影 2013. 5.21)
   
  T字分岐より、道は狭くなったり広くなったりする。川沿いを離れ、屈曲も多い。古代東山道の道筋にはちょっと思えない。T字分岐の正面は人家で、その先に 道が続いていそうではなかった。もっと川の近くを通っていたのか。
 
<園原集落>
 それでも現在の車道沿いには意外と人家が多い。園原の集落である。古代の幹線路が通じていた地であるからこそ、この様な山里にこれだけの集落が形成され たの かと思わされる。神坂峠を信濃側に下って来ると、園原が最初の人里となった。
 
 車道を離れて少し脇に入ると、長者屋敷跡などがあるようだが、それらを大々的に宣伝するような看板はなく、素朴な佇まいの集落が続く。沿道に古そうな石 碑や石像などが 散見され、これが古代東山道の道筋そのものではないにしろ、歴史の深さを感じさせる道になっている。
   

園原の集落を行く (撮影 2013. 5.21)

園原の集落を行く (撮影 2013. 5.21)
   
   
ビジターセンター以降
   
<ビ ジターセンター>
 ひとしきり集落内を蛇行する坂道を登ると、やや小高い開けた場所に出た。道が鋭く左にカーブする所で、両側に人家ではない建物が立つ。左には「阿智村  東山道・園原ビジターセンター はゝき木館」と書かれた看板があり、右には「食事処門前屋」とある。それまでの集落内とは違って、ここはちょっとした観光 地の雰囲気がある。
   

道の左にビジターセンター (撮影 2013. 5.21)

道の右に食事処門前屋 (撮影 2013. 5.21)
建物の奥の上の方に鐘楼が見える
   

ビジターセンター前を過ぎた先 (撮影 2013. 5.21)
 ビジターセンター付近では車も停められそうで、園原集落はここを拠点に散策 すると良さそうだ。沿道からは園原川の谷の眺めが広がり、気分が良い。近くには、これまでにも案内看板があった、「信濃比叡 広拯院」がある。
 
 ところで、ビジターセンターの名称になっている「はゝき木」であるが、これは源氏物語にある「帚(箒)木(ははきぎ)の 心もしらで園原や 道にあやなく まどいぬるかな」 という歌などに出て来る「ははき木」のようだ。こうして古くから歌枕にもなる程、この園原の歴史は深い。
   
<駒つなぎの桜付近>
 ビジターセンターを過ぎると、道は園原川の谷を左に見て進む。もう暫くは人家が点在したが、それも間もなく途切れる。細い谷筋の斜面に通じる、狭く寂し い道となる。
 
 すると、左手の谷側に歩道が下り、その入口に「東山道史跡苑」とある。反対の右側には「駒つなぎの桜」と案内看板が立つ場所を通過する。

「駒つなぎの桜」付近 (撮影 2013. 5.21)
   

東山道史跡苑入口 (撮影 2013. 5.21)
左端に見えるのが「駒つなぎの桜」か
<東山道史跡苑>
 その史跡苑の方を眺めると、園原川の谷の中腹に、ちょっとした開けた場所があり、展望台のような物も設けられている。そこへ下る道を指して「古代東山道  神坂神社まで1.2Km」とあるので、その道が古い東山道の道筋なのかもしれない。入口にある看板には、「ははき木、神坂神社、朝日松、暮白の滝」など と案内がある。
   
<「駒つなぎの桜」の看板>
 「駒つなぎの桜」の案内看板は、道の右手(山側)にあったが、後から考えてみると、その桜の所在は左手(谷側)だったようだ。看板だけ写真に撮って、肝 心な桜には関心を持たなかった。上の写真の左端に辛うじて写っている木がそうであろうか。
 
 看板によると、源義経が奥州に下向する時、この木に馬を繋いだと伝わるそうだ。案内文にある「吉次」(きちじ)とは「金売(かねうり)吉次」のことで、 NHKの大 河ドラマなどで登場していたのを思い出す。奥州藤原氏と京の公家との間を、奥州で採れる金などを献上することで、仲立ちする役割を演じていた。吉次の手助 けで藤原氏と義経の縁ができたが、行く行くは頼朝により義経もろとも藤原氏が滅ぼされる元となったとも言える。

駒つなぎの桜の看板 (撮影 2013. 5.21)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
   
東山道史跡苑を眺める (撮影 2013. 5.21)
   
  駒つなぎの桜を過ぎると、その先で車道が一本、史跡苑へと別れて下っている。それから道は少し林の中を進む。側に「ははき木」と案内看板があったり、歌碑 が立っていたりと、目移りばかりさせられる。こうした古代東山道の史跡をじっくり訪ねてみたいものだが、時間が許されない。ここはとにかく神坂神社まで直 行する。
   

「ははき木」入口 (撮影 2013. 5.21)
この時は道の先を急ぎ、
「ははき木」なるものがどんな物かは分らずじまい

歌碑 (撮影 2013. 5.21)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
  
  
神坂神社入口
   

神坂神社入口の周辺 (撮影 2013. 5.21)
手前方向が神社
左奥が車道の続き
<神坂神社入口付近>
 道が鋭くヘアピンカーブする前方に階段があり、その奥に鳥居が覗いた。手前の道路脇には駐車場があり、数台の車が停まっている。目的の神坂神社に着いた ようだ。
 
 付近を散策していると、1台の乗用車がやって来て停まり、一人の男性が降りて来た。しかし、また車を走らせ、車道の続きを登って行く。この先間もなく通 行止の筈だと思っていると、案の定、直ぐにその車が引き返して来た。それを見て、我々は車道の行止りまでは行かないこととした。戻って来た男性は、神社で も見学するのかと思っていたら、そのまま車を走らせ、元来た道を下って行ってしまった。
   
<道案内の看板>
 神社への階段の横に立つ道案内の看板に、「萬岳荘まで 6.0km」とある。この「萬岳荘」とは神坂峠の少し北に立つ大きな山荘風の建物だ。別の看板では神坂峠まで6.8kmとある。古代東山道は、この神坂神 社の脇を通り、現在の萬岳荘を経由し、峠に至っていたようだ。
   

道案内 (撮影 2013. 5.21)

道案内 (撮影 2013. 5.21)
   

神社への入口付近 (撮影 2013. 5.21)

神社への入口付近 (撮影 2013. 5.21)
   
<東 山道のこと>
  万葉集の歌碑が並ぶが、その碑文に「和銅六年(713年)吉蘇路(東山道)開通に関係ある歌か」とある。ここでは吉蘇路(きそのみち)を東山道としてい る。しかし、文献(角川日本地名大辞典)では、東山道とは別の道を指しているような記述があった。「吉蘇路」とは現在の「木曽路」のことで、木曽谷を通る 江戸期以降の中山道と同じ経路を指すとも考えられるそうだ。
   

歌碑 (撮影 2013. 5.21)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)

石碑 (撮影 2013. 5.21)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
   

古代東山道の看板 (撮影 2013. 5.21)
 神社前の駐車場に「古代東山 道」と題した看板があった。こちらでは大宝元年(701年)に朝廷が東山道をつくったとある。文献では、後の吉蘇路の開通で一時期東山道が衰微したが、平 安期に再び官道とされたとあった。どちらにしろ1300年の歴史を持つ道である。
 
 看板のルート図を見ると、長野県側だけだが、古代の道筋がよく分る。阿智駅から園原に至る経路が現在と全く違っていたことが分かった。中央道の網掛トン ネ ルより南に位置する網掛峠を越えてたようだ。
   
   

看板のルート図 (撮影 2013. 5.21)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)

看板の案内文 (撮影 2013. 5.21)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
   
   
神坂神社
   
<神 坂神社へ>
  車道より神社の鳥居へと登る。すると、一人の若い女性とすれ違った。こんな寂しい山中ということもあってか、女性の方から「こんにちは」と挨拶してきた。 こちらも直ぐに言葉を返す。その女性は駐車場に停めてあったかわいらしい軽自動車に一人乗り、麓方向へと走り去って行った。静とした感じの女性で、万葉の 歌などに関心を持つ女学生であろうか。いつもの険しい峠の旅では、こんな人は見掛けることはない。
 
 鳥居の手前を左に分ける道がある。そちらが東山道であろうか。
   

神坂神社の鳥居 (撮影 2013. 5.21)

神社を背に麓方向に見る (撮影 2013. 5.21)
   
<神 坂神社>
 急な斜面に築かれた 神社の境内は狭い。その中で日本杉(やまとすぎ)と呼ばれる大きな御神木が、やや窮屈そうにそびえている。妻はご朱印を貰うのが趣味だが、神主が常駐する ような神社ではなかった。いろいろ案内看板やら歌碑などが散見される。駐車場に置かれている車で来たと思われる訪問客が数名散策していた。
   

神坂神社の看板 (撮影 2013. 5.21)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)

日本杉の看板 (撮影 2013. 5.21)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
   

日本杉 (撮影 2013. 5.21)

「信濃坂を渉る」の漢詩 (撮影 2013. 5.21)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
   
 神社の裏手は、神社の脇を通っている古代東山道の道筋に再び合する。その 先、細い山道が峠方向へと続いている。側の標柱には「左 神坂峠まで 六、三キロ」とあった。
 
 標柱に並んで「信濃坂を渉る」と題した漢詩の石碑や碑文がある。神坂峠の古名である信濃坂の険しさが、朗々と詠われている。

神社の裏手 (撮影 2013. 5.21)
麓方向に見る
   

峠への細い山道 (撮影 2013. 5.21)
神坂神社の裏手から先に続く

標柱 (撮影 2013. 5.21)
   

神社前から先の車道 (撮影 2013. 5.21)
左手の擁壁に行止りを示す看板が立て掛けてある
<車道の先>
 神社入口の前で急カーブする車道の先には、「富士見台・中津川方 面への車両での通行・通り抜けはできません。(この道路は途中で行き止まりになっています)」と看板がある。既に引き返して来た車を目撃し ているので、自分らでは先に進まなかった。
 
<余談>
 本当は、時間さえあれば行ける所まで行ってみたい。ゲートで道が閉ざされているか、道が尽きている所まで進んで、この目で確認したいのだが、なかなかそ んな余裕はない。
   
<余 談>
  それに加え、最近は体調が許さない。神坂神社から園原IC入口近くまで戻って来ると、路傍に車を停めた。このまま中央道の上りで山梨の自宅に戻るか、下り で恵那山トンネルを抜け、中津川市街にでももう一泊し、明日改めて中津川市側から神坂峠を目指すか、思案する為だ。妻が言うには、峠道を走っている時は比 較的 元気だが、峠道への関心がなくなると途端に不調になるらしい。この時も、車の助手席でぐったりするばかりである。気分が悪く、これ以上旅を続ける気力が湧 かない。しかし、この程度で旅を諦めていては、もうどこにも行けやしない。暫し考えた後、園原ICを下り方向に入ることとした。
 
 結局、それ程体調は悪化せず、無事に中津川市街での夜を過ごすことができた。翌日は快晴である。21年振りの神坂峠を見ることができた。後で思い返して も、旅の続行を決断して良かったと思えた。
   
   
中津川市から峠に向かう
   

国道19号を北上する (撮影 2013. 5.22)
県道7号の分岐を示す道路看板が出て来た
<国道19号を行く>
 中津川市街から国道19号で塩尻方面へと北上する。最初に目指すは、この国道より分岐する県道7号だ。国道19号は現代の中山道・木曽路であり、木曽川 沿いに進む。一方、県道7号は中山道の宿場であった馬籠宿へと続く旧中山道の道筋に近い。木曽川筋を離れて馬籠峠を越えて行く。
   
<坂 本駅と落合宿>
 古代東山道の美濃側(岐阜県側)の駅は坂本駅(さかもとのうまや)だが、現在、中津川市に「坂本」の地名を探しても見付からない。今でも坂本駅の場所は 特定されていないよう だ。中津川市駒場付近との説もあるそうで、そうするとJR中津川駅より更に西に位置することになる。
 
 一方、江戸期以降の中山道の宿場としてこの付近にあったのが落合宿である。南の恵那山の方から流れ下る落合川が本流の木曽川に流れ込んでいるが、その合 流点付近が落合となる。中津川市の中心街からはかなり離れている。もっとも、中津川市街付近には別に中山道の宿場、中津川宿があったようだ。
   
<県 道7号の分岐>
 大幹線路である国道19号から分かれる県道7号の標識が出て来た(下の写真)。行先は馬籠宿(まごめじゅく)、藤村堂(とうそんどう)とある。「藤村」 とは勿論「島崎藤村」のことである。県道に入る右折車線には意外と多くの車が並んだ。
   
前方右に県道7号が分岐 (撮影 2013. 5.22)
国道19号上から見る
   
<沖 田の交差点>
 県道7号が分かれる交差点は国道19号の中でも一段と大きく、歩道橋が架かり、交差点名には「沖田」とあった。何となく「落合」という交差点だろうと 思っていたが、全く違った。
   
沖田の交差点を右折 (撮影 2013. 5.22)
   
<県 道7号に入る>
 県道7号は中津川南木曽(なぎそ)線と呼ぶ。主要地方道である。馬籠宿から馬籠峠を越え、妻籠宿の南端にある「橋場」まで行き、そこで国道256号に接 続してい る。古くは県道橋場中津川線と呼んだ。
 
 道は、始めの内は落合川の左岸側を遡る。「中山道 落合宿周辺図」と題した観光案内の看板などが沿道に見られる。これが馬籠峠のページなら、その看板な ども詳しく掲載するところだが、今は神坂峠へと先を急ぐ。
   
県道7号を行く (撮影 2013. 5.22)
左に「中山道 落合宿周辺図」の看板
   
<コ メリ(余談)>
 右手に「コメリ」があった。これまでならこのニワトリマークなど全く気にも留めなかったのだが、山梨に引っ越してから、随分利用させてもらっている。自 宅近くに店舗がないので、大抵がネット販売を使う。カラー石板を300枚とか、大きな300リッタータンクである。自分で運ぶことを考えると、非常に便利 である。
   
左前方に中央道の橋梁を望む (撮影 2013. 5.22)
(右手にコメリ)
   
<落 合川沿い>
 県道脇には人家は少ない。左手の落合川の川岸近く、県道より一段低くなった土地に人家が密集していた。その中に通じるのが旧道だろう。旧中山道もそこに 通じていたのかもしれない。現在の県道はもう暫く落合川沿いを進むが、本来の旧中山道は早々と落合川を渡り、馬籠宿へと登って行ったようだ。
   
落合川をちらりと望む (撮影 2013. 5.22)
旧中仙道はこの対岸に渡り、馬籠宿を目指して登る
   
   
落合川橋以降
   

上に中央道が通る (撮影 2013. 5.22)
<落合川橋>
 県道の行先に大きな橋梁が架かっているのが望めるようになる。長野県側から恵那山トンネルを抜けて来た中央道が落合川を渡る橋だ。大きなランドマークで ある。その中央道の橋を上に眺めながらくぐると、こちらの県道も落合川を落合川橋で渡る。
   
<湯舟沢川沿いに>
 落合川橋の先、道は落合川の支流となる湯舟沢川沿いに遡る。神坂峠は、本流の落合川ではなく、支流の湯舟沢川の上流部に位置することになる。
 
 直ぐに右手方向への分岐が出て来る(下の写真)。その道が本流の落合川沿いを遡る道だが、途中で行止りとなるようだ。

この先落合川橋 (撮影 2013. 5.22)
国道19号方向に見る(峠からの帰り道)
   
右に落合川沿いの道を分ける (撮影 2013. 5.22)
   
<湯 舟沢川沿いを行く>
 道は湯舟沢川の左岸を行くが、左手に川面などはほとんど見られない。沿道に人家も少なく、僅かな畑を見掛ける程度で、ただただ走り易い舗装路が殺風景に 続く。時折、県道標識や「馬籠宿 5km」などと案内が出て来るだけである。
   

左手に県道標識 (撮影 2013. 5.22)

「馬籠宿 5km」の看板 (撮影 2013. 5.22)
   

湯舟沢川右岸沿い (撮影 2013. 5.22)
<中津川市神坂へ>
 道は湯舟沢川を渡り、今度は右岸沿いとなる。この付近はもう落合から中津川市神坂へと入っている。神坂峠の岐阜県側の峠道は、ほとんどがこの神坂の地に ある。
   
<二 つの神坂>
 「神坂」という地名は、この中津川市にあるが、その北に接する山口村にも存在する。しかも、山口村は長野県に属す。
 
 「神坂」は元々は一つの村だったようだ。地名は古来著名な神坂峠に由来し、馬籠村と湯舟沢村が合併して明治7年に成立した。明治22年からは新らしく施 行された市制町村制による神坂村(大字編成せず)となり、昭和33年まで続いている。属する県は長野県で西筑摩郡の内である。往古からの街道筋として栄え た神坂村だったが、明治後半からは衰退していったそうだ。木曽川沿いに国道19号が通じたことが大きく関係するのだろう。
 
 その村に岐阜・長野の県境を越えての合併問題が起こった。村を二分する紛争となり、結局、神坂村の馬籠地区は長野県山口村大字神坂に、湯舟沢地区は岐阜 県中津川 市神坂と、分かれてしまったようだ。
 
 現在の山口村の神坂は江戸期の馬籠村に相当する。今では旧中山道の馬籠宿が有名な観光地となって、再び賑わいを見せるようになった。一方、中津川市の神 坂 は旧湯舟沢村となる。こちらには中山道の代わりに古代東山道の神坂峠がある。
   
  県道脇にポツンと、「ようこそ東山道 湯舟の里へ」と書かれた看板が立っていた(下の写真)。長野県側の園原などは史跡も多く、神坂神社では訪れる人たち も見掛けた。しかし、こちらの湯舟沢では、やや観光資源の魅力に欠けるものがあるのかもしれない。私には、馬籠宿などより何より、神坂峠に絶大な魅力を感 じるのだが。
   
中津川市神坂を行く (撮影 2013. 5.22)
右手に「ようこそ東山道 湯舟の里へ」の看板
   
  道は単調な二車線路が続いている。江戸期の湯舟沢村である中津川市神坂の中心地も近くなってきたので、人家もポツポツ散見される。前方を望めば、神坂峠が 位 置する長野県との県境の峰々が見渡せるようになってきた。
   
前方に県境の峰々を望む (撮影 2013. 5.22)
   
  ところで、現在の神坂峠は岐阜・長野の県境であるが、明治期の神坂村は長野県であった筈だ。昭和33年に湯舟沢地区が岐阜県の中津川市に編入された。する とそれまで、神坂峠は長野県の内で、県境ではなかったことになる。あれだけの峠が県境の峠でなかたっとは、不思議な感じがする。
   
   
馬籠宿への分岐以降
   
<島田川を渡る>
 湯舟沢川の右岸を行く県道が、その支流である島田川(しまだがわ)を渡る。この地より北の方角から流れ下って来ている。この川の上流部に馬籠宿があり、 川の源頭部に馬籠峠がある。
 
<馬籠宿への分岐>
 間もなく左へ馬籠宿への分岐が出て来る(下の写真)。ほぼ島田川にそって馬籠宿に向かう。この道が県道7号の続きなのだが、県道のことより、馬籠宿の方 が大きく看板に示されている。

島田川を渡る (撮影 2013. 5.22)
   

看板に「←馬籠宿」とある (撮影 2013. 5.22)

左に馬籠宿への県道が曲がる (撮影 2013. 5.22)
   

神坂の中心地へ入る (撮影 2013. 5.22)
右手に「歓迎 中津川温泉 クアリゾート湯舟沢」の看板
<県道分岐の先>
 左へ馬籠宿へと県道が分かれて行った後、直進する道は神坂の中心地へと入って行く。その入口付近に「歓迎 中津川温泉 クアリゾート湯舟沢」と看板が あった。立寄り湯の温泉施設にホテルも隣接するようだ。
 
 国道19号から分かれた時は、車の数も多かったが、この付近に至ると、交通量は激減している。
   
<神坂の中心地を過ぎる>
 道の右手に一際目立つ近代的な建物が現れる。それが「クアリゾート湯舟沢」である。この付近が神坂では一番賑わっている場所で、その先、公民館など市の 施設も並んでいる。人家もその近隣に多い。
 
 ここは江戸期の湯舟沢村の中心でもあったのだろう。そして更に古く、古代東山道もこの集落を経由していたことと思う。「湯舟沢」という名前も、由緒ある ものだそうだ。しかし、現在の道路地図などでは「湯舟 沢」の名はほとんど見掛けない。河川名や温泉施設の名に残るばかりだ。

前方にクアリゾート湯舟沢 (撮影 2013. 5.22)
   

温泉施設への入口 (撮影 2013. 5.22)
<湯舟沢川の支流>
 丁度、温泉施設の裏手付近で湯舟沢川が大きく二手に分かれている。西寄りの温川(ぬるかわ)と東寄りの冷川(つめたがわ)で、どちらも恵那山から北東に 延びる県境の峰 に源流を発する。湯舟沢川はほぼこの「温」と「冷」の二つの川が合流してできていると言っていい。神坂峠は冷川の源頭部の方に位置する。
 
 ただ、冷川の方が本流のようで、冷川側はもう暫く湯舟沢川と呼ぶようだ。後に冷川側の上流を渡るが、そこに架かる橋にはまだ「湯舟澤川」と出ていたの だ。
   
  道はいつしか支流の温川を分けた後の湯舟沢川(後に冷川)の右岸沿いを進むようになる。神坂の中心地を過ぎると、沿道に人家はあまり見られなくなり、心 持ち道も寂しくなる。屈曲やアップ・ダウ ンも多くなっていった。
   
   
湯舟沢川の左岸へ
   
<分 岐に注意>
 この先、峠への道は右に分岐して湯舟沢川を渡る。初めて来た時は、その分岐を見落とし、真っ直ぐ進んで山中の行止りまで行ってしまった。中央道恵那山ト ンネルの中津川市側坑口近くである。地図には「兼行(兼好)法師墓」とある地点だ。
 
 慎重に車を進めると、しっかり看板が立っていた(下の写真)。「富士見台高原、恵那山登山口、神坂峠 50メートル先右折」と案内が書かれていた。
   

左手に案内看板 (撮影 2013. 5.22)
前方に橋も見える

案内看板 (撮影 2013. 5.22)
   
<分岐>
 その分岐にもいろいろ看板が立っていた。
伝教大師ご遺跡 天台宗 広済院 右折2.5km
老人ホーム 広済寮 右折 4km
 
富 士 見 台 高 原 15km
神坂峠(恵那山登山口) 13km
神 坂 大 檜  入口 10km
けやき平キャンプ場    5km
 
 などとある。多分、以前はこうした看板はなかったのだろう。そうでなければ、この分岐は見落としようがない。

右に分岐 (撮影 2013. 5.22)
   
右に分岐して橋を渡る (撮影 2013. 5.22)
分岐の角にいろいろ看板が立つ
  
<川 を渡る>
  分岐を曲がると直ぐに川を渡る。これは冷川だと思っていたのだが、橋の欄干に「湯舟川」とあり、冷川はもう少し上流になってからのようだ。橋の 上からは眺めが良い。北西方向に流れ下る湯舟沢川の様子と、その右岸にひっそり佇む集落が見渡せる(下の写真)。上流方向には、幾段にも砂防ダムが築か れ、ここより上は急流であることをうかがわせる。
  
橋上より湯舟沢川の下流方向を眺める (撮影 2013. 5.22)
   

湯舟沢川の左岸より中央道の橋梁を望む (撮影 2013. 5.22)
<湯舟沢川の左岸>
 橋を過ぎると、道は湯舟沢川の左岸沿いを少し進む。対岸にはまだ人家が続いている。その奥に中央道の橋脚を望む。池ヶ谷橋と思われる。その下を湯舟沢川 の支流が流れ下っているが、その合流点より上流が冷川になるらしい。
   
<ヘアピンカーブ>
 橋を渡って100m程で、道は川岸を離れて行く。ヘアピンカーブで180度方向転回する。そのカーブ途中から川沿いに進む道が分岐する。未舗装だ。地図 上では冷川沿いを遡るが、途中で行止りのようだ。
 
 ヘアピンカーブを過ぎると、道は左岸の急斜面を登りだす。もうセンターラインがある様な道ではなくなった。

湯舟沢川左岸沿いの道 (撮影 2013. 5.22)
未舗装
   

ペアピンカーブ (撮影 2013. 5.22)
トラックが二台降りて来た

へピンカーブを望む (撮影 2013. 5.22)
   
   
霧ヶ原
   
<霧ヶ 原>
 急坂を一息登ると、雰囲気が一変する。温川と冷川との間に挟まれた土地は、比較的平らな台地状になっていて、その上に出るのだ。空は開け、見通しも良 い。その上、別荘らしい洒落た建物も見られる。沿道に売り物件を示す不動産屋の看板も立っている。それまでの湯舟沢川沿いの古くからの集落とは違い、 ちょっとし たリゾート地のような感もある。ここは霧ヶ原と呼ばれるようだ。折しも青空が晴れ渡り、気分も晴れる。
   
霧ヶ原に出る (撮影 2013. 5.22)
   
  湯舟沢川沿いには平地が少なく、人家が密集している所は多かったが、広い田畑などは少なかった。一方、この霧ヶ原では、人家はポツリポツリと点在するばか りだが、広い水田があちこちに見られた。ちょうど田植えが終った後の水を張った田んぼが、大空に映えてすがすがしい。
   
このような水田が多く見られた (撮影 2013. 5.22)
   
沿道の様子 (撮影 2013. 5.22)
前方に見えるは恵那山か
   

沿道の様子 (撮影 2013. 5.22)
 道幅は狭いが、霧ヶ原の台地の上を道はゆったりと進む。時折前方になだらか な山容の高山を望む。多分恵那山だと思う。沿道に点在する人家は造りが大きな物が多く、この台地にしっかり根ざした感じだ。
   
沿道の様子 (撮影 2013. 5.22)
   
 霧ヶ原の丁度真ん中付近で、 人家がやや密集し道路脇に公会堂もある地点を通過する。そこでやっと小さな案内看板を見付けた(下の写真)。
 
 けやき平キャンプ場3km
 富士見台高原13km
とある。富士見台高原とは萬岳荘のある所を指すようで、峠の先、数100mにある。よって峠まではまだまだ13km近く残すことになる。
 
 この部分の道はまだバス路線のようで、近くに中津川市巡回バスのバス停があったが、バス停の名前は消されていた。

霧ヶ原の中ほど (撮影 2013. 5.22)
霧ヶ原公会堂付近
   

左手に小さな案内看板 (撮影 2013. 5.22)

案内看板 (撮影 2013. 5.22)
   
麓方向を望む (撮影 2013. 5.22)
この付近の家からの眺めはさぞいいことだろう
  
  
老人ホーム近辺
   

右手に老人ホーム (撮影 2013. 5.22)
 霧ヶ原の台地も後半になるとさすがに山がちになり、道は時々林の中に入る。 しかし、かな り上の方まで水田が切り開かれていたりする。
 
<老人ホーム前>
 また少し林に入ったと思うと、右手のちょっと開けた所に大きな建物が出て来た。老人ホームの広済寮である。正確には「特別養護老人ホーム 延暦寺 広済寮」となる。いわゆる「特養」(とくよう)と呼ばれる施設だ。両親の介護をしたので、こうした施設には敏感になった。
   
<最澄の石像>
 入口の脇には石像が立ち「伝教大師(でんぎょうだいし)御尊前」とある。天台宗の最澄(さいちょう)である。最近「空海の風景」(司馬遼太郎著)を読ん で、空海とほぼ 同時期に生存した最澄に関しても僅かながら知識を持った。知識があるとまた関心が向く。こうした石像にも目が留まる。
 
<東山道の案内看板>
 ホームの入口近くに「東山道 神坂峠周辺のご案内」と題した案内看板があり、いろいろ参考になる(下の写真)。
 最澄に関しては、「峠の東西に、広拯院と広済院という2つの布施屋(救済小屋)を設計しました」とある。広拯院(月見堂)は阿智村側の園原にあった。

最澄の石像 (撮影 2013. 5.22)
   

東山道に関した看板 (撮影 2013. 5.21)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
 一方、広済院はこのホームが ある場所かと思ったら、ここより2kmほど手前にあったようだ。公会堂に近い当りだ。この道沿いから少し外れていたようで、気付かなかった。
 
 最澄は西暦800年前後の人物で、東山道開通が約700年だから、最澄の時代には既に東山道が利用されている。最澄は教えを広める為にこの峠道を越え、 その困難さを実感したのだろう。それで布施屋を設けることを思い付いた。その「お助け小屋」とも言える広済院跡がこの霧ヶ原にあるのだから、古代東山道も 正にこの地に通じていたことになる。もっと冷川の川筋に近い所に通じていたのかとも思ったが、この広い台地を選んだようだ。古くから集落も形成されたのだ ろう。
   
 看板を見ていると面白い。東山道きっての難所である神坂峠の標高は1, 595mとある(地図中)。これは現在の車道の峠ではなく、元の東山道の峠だと思われる(後述)。車道の峠は国土地理院の地形図にあるように1,569m である。
 
 また、温川の上流部に「湯舟」の記述がある。「伊邪那美大神が天照大神をお産みになった時にここで産湯を使ったといわれます」とある。「湯舟」の地名に はこうした伝承があった。

老人ホームの前の道 (撮影 2013. 5.22)
   

道の様子 (撮影 2013. 5.22)
左手に小さな看板
 ホームの前を過ぎると、道はいよいよ山の中へと入って行く。もう霧が原の台 地も尽きようとしているのだ。ここからが本格的な峠道となる。小さな看板に「けやき平キャンプ場 0.5km、富士見台高原 10.5km」とあった。当面、次なる目標地点はそのキャンプ場だ。そこにはちょっとした思い出がある。
  
  
林道大谷霧ヶ原線に入る
  
<冷川を渡る>
  道はいつしか小高い台地から川筋へと至る。暗い林の中で小さな流れを横切る。多分これが冷川である。橋から見えるのはチョロチョロとしたか細い水の滴りだ が、これが神坂峠から流れ落ちて来た川の本流であろう。
 
<林道看板>
 橋を渡ると直ぐに林道看板があった(下の写真)。「林道大谷霧ヶ原線 起点」とある。道の延長は L=7,869m(全体 L=17,519m)と記されている。ちょっと前にあった看板からすると、峠までまだ10km近く残っているので、この最初の L=約8km では峠に届かな い。この「霧ヶ原」が起点だろうから、峠の手前に「大谷」があるのか、それとも L=約17.5km の終点が大谷か。

冷川 (撮影 2013. 5.22)
上流方向に見る
   

道路脇に林道看板 (撮影 2013. 5.22)

林道看板 (撮影 2013. 5.22)
   

林道の様子 (撮影 2013. 5.22)
<ソウレ沢橋梁>
 道は冷川の右岸側に入って大谷霧ヶ原林道となり、大きく東へ迂回し始めた。視界は利かない。ただ、新緑の緑が明るく、狭苦しい感じを和らげている。
 
 迂回した道が冷川とは違う川を渡る(下の写真)。橋の欄干ともなっているガードレールに、「ソウレ沢橋梁」とあった。竣功年などは朽ちていて「昭和」と だ けしか読めない。橋の名からすれば、この川は「ソウレ沢」と呼ぶのだろう。冷川の支流だ。道は、冷川から更にその支流までも横切り、大きく迂回する。
   

ソウレ沢橋梁 (撮影 2013. 5.22)

朽ち掛けた看板 (撮影 2013. 5.22)
   
  
けやき平キャンプ場
   
<キャンプ場>
 道の左手にトイレや管理棟のような建物が出て来ると、そこが霧ヶ原欅(黶Aけやき)平キャンプ場である。湯舟沢川沿いからでも5km、中津川市内からだ とかなりの距離にある。こんな山の中にと、ちょっと辺ぴな感じがしないでもない。その地にちょっとした思い出がある。21年前、ここで野宿したのだった。

けやき平キャンプ (撮影 2013. 5.22)
   

グラウンド入口 (撮影 2013. 5.22)

車道から望むグラウンド (撮影 2013. 5.22)
多分ここで野宿したと思う
ここから夕日を見た筈だが、今は周囲は木々で囲まれている
 
<21 年前の旅(余談)>
 21年前、サラリーマンを一時辞め、半年ほどブラブラしていた時期があった。その時、西日本中心に17日間、野宿しながら旅をして回ったことがある(
西への長い旅 Part3)。
 
 その旅の15日目のこと。いつも食事作りに使っているキャンピングガス製のポケットコンロ(今はもう製造中止)のLPガスが残り少なくなった。ちょうど 通り掛かった中津川市内なら買えるのではないかと、あまり好まない街中に入って行った。しかし、何の当てもなくジムニーでさまよっても、そんなキャンプ道 具を売っている店など見付かる訳がない。結局諦めて、そのまま神坂峠に向かった。
 
 もう夕暮れが近く、峠を越える前に日が落ちそうである。この峠道沿いに何とか野宿地を探そうと思う。もう何日も野宿の日々を送っていたので、それ程心配 はしていなかった。そういう時こそ、かえってうまく野宿地が見付かるものである。道に隣接してグラウンドらしき広場が見付かった。この山の中でこれ程広い 場所はなかなかない。単なる空き地と違って、こうした公共の施設にテントを張るのは気が引けるが、もう日が暮れる時刻で、これ以上人が来る様子はない。広 場の隅に東屋がポツンと建ち、今日は一日中雨降りだったので、雨をしのぐにも最適である。場合によっては東屋の下にテントを張ってもよい。
  

野宿の夕暮れ (撮影 1992.10.21)
 東屋に寄せてジムニーを停 め、野宿の支度をする。その内に雨が上がり、西の空の雲が晴れた。今にも山陰に落ちようとする陽が、一時赤く輝いた。この分な ら明日は晴天である。峠越えには最適な日になりそうである。
 
 雨が止んだので、東屋の近くにテントを張る。LPガスが残り少ないので、菓子パンと魚肉ソーセージ、1リッターの紙パックの飲み物(多分コーヒー牛乳) で冷た い夕食を済ます。日が暮れてから風がやや強くなった。こうした高台の広場は空が開けて野宿するにも気分がいいが、風当たりが強いのでテントを飛ばされない ように注意が必要だ。更に雨の日は落雷なども心配だが、今夜はもう雨が上がり、テントが濡れるという面倒もない。
   
 無事に夜が明ければ、さっさと野宿地を出発するに限る。あまり人目には付き たくないのだ。テントを片付け、朝食の準備に取り掛かる。10月も下旬に入り、朝はかなり冷え込む。それにこのグラウンドは標高約900mの高地にあるの だ。こういう寒い野宿の朝は即席ラーメンが定番になっている。温かいスープがいい。LPガスの残りを心配しながら、アルミ製の片手鍋でラーメンを煮始め た。
 
 しかし、いつまで経っても水が沸騰しない。コンロの火は消えないのだが、心許ない火力である。PLガスの残量不足と、寒さの為に液化ガスが充分揮発しな いことが原因のようだ。


野宿の朝 (撮影 1992.10.22)
  
  何か他に手はないかと思案。付近に燃える物はないかと探すと、空の飲物用紙パックが目に付いた。たったこれだけ燃やしても、ラーメンが煮えるとは思わな かったが、試しに火を着けてみた。すると、なかなかの火力である。1リッターの紙パックが燃え尽きる前に水が沸騰し、見事にラーメンが茹で上がった。食事 を終えると、そそくさとグラウンド横の野宿地を出発し、まだ早朝の神坂峠に立ったのだった。
 
 今思えば、その当時は随分勝手気ままな生活をしていた。17日間も何の連絡もせず、どこに居るともいつ帰るとも知らせなかった。何の相談もせず転職を繰 り返し、休みといえば旅ばかり。それでも両親からは小言一つ言われた覚えはない。内心は心配していたことだろうに。そんな母は重い病の果てに去年亡くな り、父も寝たきりで言葉を掛けても何の反応も示せない状態が続いている。「孝行を したい時に 親はなし」などとよく言われるが、今からでも何かできない ものかと思う。
  
キャンプ場から先
   

グラウンド横を過ぎる (撮影 2013. 5.22)
右手に「冬季通行止」の看板
<冬季通行止>
 キャンプ場を過ぎると「冬季通行止」の看板が立っていた。
 冬季通行止
 積雪、落石のため
 強清水より先通行できません
 中津川市
とある。この先に「強清水」と呼ばれる場所があるが、そこまでは冬季間でも行けるらしい。
   
<分岐一つ>
 キャンプ場を過ぎた道は、尚も東方へ迂回している。冷川から500m程離れて、やっとヘアピンカーブを曲がり、冷川方面に戻りだした。そのカーブ途中で 林道が一本、更に東へと延びていたが、ゲートで通行止。
 
<木材伐採場>
 道の両側が開けたと思うと、切り出した材木が沿道に積まれていた(下の写真)。

左手に分岐 (撮影 2013. 5.22)
   
木材の集積箇所 (撮影 2013. 5.22)
   

伐採場 (撮影 2013. 5.22)
峠方向に見る
 道から山の上の方に渡っては、木々が伐採されていて、峠までも見えそうであ る。
 
<ソウレ沢を渡り返す>
 道は、冷川沿いに戻るべく進んでいる。その前に支流のソウレ沢(多分)を渡る(下の写真)。橋ではなく、道の下を鋼管が3本通って水を通す方式になって いた。上流側には直ぐに砂防ダムがあり、その上は大きな岩がゴロゴロしている。下流側の川底も石が並び、水の流れは見られなかった。
   

ソウレ沢を渡る (撮影 2013. 5.22)

ソウレ沢を下流方向に見る (撮影 2013. 5.22)
   
<一の沢林道>
 右に林道の分岐が見られると、ほぼ冷川沿いに戻ってきたことになる。林道名は「一の沢線」とある。この分岐点がその林道の起点でもある。行き先は「一の 沢 方面」とある。その林道を行けば直ぐに冷川を渡り、その左岸側に出るようだ。「一の沢」がどの川か所在が分らないが、まさか冷川の上流部をそう呼ぶのだろ うか。とにかく、林道入り口はワイヤーが張られ、通行止である。

右に一の沢林道が分岐 (撮影 2013. 5.22)
   

立杭方面への分岐 (撮影 2013. 5.22)
<立杭方面への分岐>
 道は大きく蛇行している。蛇行する度に分岐ある。今度は右カーブの所で左に林道が分岐した。林道名は分からないが、行先に「立杭方面」とある。ゲートは な い。地図を見ると、その道はソウレ沢上流部を経て、その先すごい九十九折りがある。一度行ってみたい誘惑に駆られるが、そんな暇はない。分岐点には「富士 見台は→です」と看板があるので、峠に向かって急ぐ。
   
<冷川上流部沿いへ>
 道は蛇行の振れ幅を徐々に小さくしながら、冷川の上流部へと進んでいる。もうほとんど川筋に来たと思うのだが、川らしいものは既に見受けられなくなっ た。周囲は高い林で、その中を道は小刻みに屈曲するばかりだ。
 
 もう川筋ということもあり、古代東山道もこの近辺に通じていたことと思う。しかし、後に開削されたこの林道と違い、古道はもう少し直線的に道が通ってい たことだろう。この付近で古道の痕跡を探すのは難しそうに思えた。

道の様子 (撮影 2013. 5.22)
   
  
神坂の風穴
 
<神 坂の風穴>
 また一つの右ペアピンカーブを曲がろうとすると、その角に「神坂の風穴」と看板が立っていた(下の写真)。こういう所で寄り道を繰り返していると、峠の 旅はなかなか終らない(このページも終らない)。が、しかし、立寄ることにした。
  

神坂の風穴入口 (撮影 2013. 5.22)

神坂の風穴の看板 (撮影 2013. 5.21)
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  風穴は車道から近かった。階段を少し登った先にあった。蚕の卵の冷蔵貯蔵用として使われた石室で、神坂峠の西麓に幾つもあったようだ。幕末から明治、大正 と利用されたとのこと。古代東山道とは直接は関係ないようだ。
 
 車道脇にあった看板からは、この先峠までの間に、「強清水」、「追分」、「神坂大ヒノキ」、「水またぎ」などがあるようだ。いちいち立ち寄っていては身 がもたない。尚、峠の標高はここでは「1576m」とある。
   

神坂の風穴 (撮影 2013. 5.22)
石室になっている
確かに冷気が漂っていた

神坂の風穴の看板 (撮影 2013. 5.21)
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強清水
   

強清水 (撮影 2013. 5.22)
<強清水>
 風穴から左程もなく強清水に着いた。道の左手、峠方向側に清水が湧き、水桶に溜められている。強清水は「こわしみず」と読むものと思う。「このは清水」 とも呼ばれたと案内看板にある。
 
 ここは標高約1,100mとのことで、地形図では確かに冷川の上流部を右岸から左岸へ車道が横切っている。古代東山道もまさにこの地点を通過していたの である。古(いにしえ)の旅人たちが喉を潤した清水ではあるが、現在は「環境の変化により、水が汚染されつつありますので、生水では飲まないでください」 と注意看板が立っている。
   

強清水 (撮影 2013. 5.22)

強清水の看板 (撮影 2013. 5.21)
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<登山の出発点>
 この強清水には、清水が湧くこと以外に、休憩小屋があり、近くにトイレがあり、登山案内の看板が立つ。「タクシーのりば」と書かれたポールもある。ここ は恵那山や富士見台への登山の出発点とのこと。しかし、どうせ車で来るなら、神坂峠やその先の萬岳荘まで行った方が、登山は容易である。
 
 小屋の脇からは峠方向に登山道が始まっている。この登山道は古代東山道にほぼ重なるものだろう。その古道を歩くなら、ここを起点とする価値がある。

登山道 (撮影 2013. 5.22)
   

橋があった (撮影 2013. 5.22)
<冷川上流部を遡る>
 道はほぼ川筋を細かく蛇行する。川の名前は定かでないが、冷川本流の上流部である。この川の上方に神坂峠が鎮座する。はっきりした橋を渡る所が一箇所ほ どあったが、それ以外はほとんど川を認識できない。
   
<登山道を横切る>
 道が蛇行する毎に、路傍に「登山道」と書かれた粗末な看板が立っている。その脇を登山道が林の中へと通じている。これらが神坂峠に至る古代東山道でもあ るのだろう。今は林道がその道を幾重にも寸断している格好だ。
 
 その間、道は終始林の中で、遠望は全くない。視界が利かない中、ただただ山中をさ迷っているかのようだ。

道の様子 (撮影 2013. 5.22)
  
  
大檜入口
 
<大 檜入口>
 やっと視界が広がる所に出た。道の右手(麓方向)に広場があり、車を停めてひと休憩するには格好の場所になっている。
  

この先、右手に広場 (撮影 2013. 5.22)

広場と大ヒノキへの道 (撮影 2013. 5.22)
   

広場から車道を見る (撮影 2013. 5.22)
その向こうに峠

大ヒノキの看板など (撮影 2013. 5.22)
左端は登山届のポスト
   

神坂大檜(みさかおおひ)の看板 (撮影 2013. 5.21)
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<神坂大檜>
 広場の脇を恵那山の北麓方向へと道が延びている。分岐に「大檜入口→」とその道を指す看板が立っている。「神坂大桧 この先直進1.6km」ともある。
 
 その大ヒノキは平成9年に発見された物で、神坂大檜(みさかおおひ)と呼ばれていることなどが看板にある。東山道の名所とは関係ないようだ。ここから先 は車では行くことができないとのことで、時間が掛かるため、当然ながら探訪は諦めた。
 
 広場で少しうろうろしていると、下から登って来た大型の工事車輌が数台、大檜の方へと走り去って行った。「神坂の風穴」に車を停めている最中も、同じよ うな車輌が目の前を通過するのを見ている。車道からはみ出さんばかりの大型なので、途中で出くわさなくて本当に助かったと思った。大檜方向で治山ダムなど の治山工事が行われているようである。ならば、これから峠方向は安全だろう。
   
<恵那山最終登山届提出所>
 広場への入口脇から、峠方向に登る登山道が始まっていた。「恵那山最終登山届提出所」と看板があり、登山届のポストが立っている。「神坂峠まであと 3km」ともある。車道ならば、この先また大きく蛇行して登るので、3km程度はあると思える。しかし、登山道はもう少し直線的に登っている筈で、地図上 ではそれ程の距離があるようには見えない。
 
 林道大谷霧ヶ原線の林道看板で、最初の延長距離(L=7,869m)にあるのがほぼこの地点だと思う。神坂大檜への道が分岐することもあり、その可能性 が高いだろう。
 
<峠を望む>
 広場から峠方向を望むと、峠がある鞍部が見える(下の写真)。よくよく見ると、その鞍部にガードレ−ルがあるのが確認できる。まさにそこが神坂峠であ る。

登山道 (撮影 2013. 5.22)
   
大檜入口の広場より峠を望む (撮影 2013. 5.22)
ガードレールがある所が神坂峠
   
<大檜入口の先>
 神坂大檜への分岐を過ぎると、道はまた振れ幅の大きな蛇行を始める。時折、峠がある稜線の暗部が覗く。登るに従い、蛇行の度が増し、峠を目の前にして、 右往左往しているかのようだ。


正面に峠の鞍部が見える (撮影 2013. 5.22)
  
  
空が近くなる
  

空が近くなってきた (撮影 2013. 5.22)
<空が開ける>
 ここまでこの峠道は何度も蛇行を繰り返してきたが、同じ蛇行でもこれからは様子が一変する。標高も1,400mを越え、高地の為かあまり高い木がなくな る。また峠から西に下る急傾斜地に差し掛かるので、空が開け、視界がぐんと広がるのだ。天候も快晴とあって、晴れ晴れする気分だ。峠道を走っていて、これ 程浮き浮きさせられることも少ない。「神坂峠はやっぱり凄い」と改めて思わされる瞬間だ。
   
峠道のクライマックス (撮影 2013. 5.22)
   
<峠 道のクライマックス>
 峠に着いてからも中津川市側には雄大な眺めがあるが、峠から下る谷が、途中で少し屈曲しているので、峠道の途中からと峠からの眺めは異なる。峠から大檜 入口付近までの谷は真西へ、大檜入口付近から麓へは北西へと谷が下る。大檜入口を過ぎて空が開けた辺りから中津川市方向を望むと、遠く麓の平地までも見通 せて、その眺めは素晴しい(下の写真)。道を走っても良し、立ち止って眺めても良し。ここはこの神坂峠の峠道に於ける、最大の見せ場、クライマックスと言 える。
  
峠道の途中より中津川市方向を望む (撮影 1992.10.22)
21年前の景色
まだ早朝なので、背後(東側)にある峠の鞍部の影が、山肌にくっきり落ちている
 
  
<峠 直下の急傾斜地を行く>
  眺めがいい分、地形は峻険である。岩肌が露出した所も多く、道路脇の法面を支える擁壁も多く築かれている。付近の山肌には潅木や大岩などが目立つ。峠は直 ぐその上にあるのだが、なかなか辿り着けない。
  

急傾斜地を行く (撮影 2013. 5.22)

急傾斜地を行く (撮影 2013. 5.22)
前方に見えるのが峠
  
  
水またぎを過ぎる
   

水またぎ (撮影 2013. 5.22)
<水またぎ>
 道の左手にちょっとした広場があり、その片隅に看板が立っていた。「水またぎ」とある。その場所を登山道が車道を横切っている。
 
 ここは古代東山道を通る旅人が水を補給したり休憩する場所だったとのこと。林道の敷設で旧道の多くが失われた中、この場所は昔の面影を最もよく残す所と 看板に ある。
   
 この場所は確かに峠から流れ 下る沢筋に当たるが、ちょっと見たところでは、水の流れなどはなさそうであった。時期によっては、必ずしも飲み水が得られたのではないだろう。旅人の苦渋 が偲ばれる。
 
 車道が開削された今では、正確なことは分からないが、この付近はちょっとした平地になっていて、安心して休める場所ではある。峠直下は特に急峻だが、こ の水またぎ付近からやや傾斜が緩くなり、地形が安定してくる。「水またぎ」とは関所等を表す古地名だそうだが、山小屋程度の家屋なら建てられそうな場所で ある。峠の頂上は風雨に晒され易いが、その点、この場所の方が避難小屋などには向くのではないか。
 
 峠からの急坂を下って来た旅人は、この水またぎに降り立って安堵の胸を撫で下ろしたことだろう。また、麓から登って来た者は、ここで一息入れ、最後の急 登に挑んで行くのだった。

水またぎの看板 (撮影 2013. 5.21)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
   

峠直下のガレた斜面 (撮影 2013. 5.22)
<峠直下>
 車道は水またぎを横切り、その先で反転して水またぎの直ぐ上部を通過する。峠方向を見上げると、崩れ易そうなガレた岩場がのぞく。峠までは標高差で約 100mだが、ここが神坂峠の中津川市側で最も急峻な箇所ではないだろうか。そこを現在の登山道、しいては古代東山道は、真っ正直に峠を目指して登って行 く。
   
 一方、車道の方は、最後の大きな一振りに取り掛かる。真上に見えていた峠か ら、一旦南西方向へ大きく離れ、急カーブで向きを変え、やっと峠に向かって進路をとる。

車道の様子 (撮影 2013. 5.22)
   

峠直前 (撮影 2013. 5.22)
 「水またぎ」付近でやや展望 を失った道に、また眺望が戻って来る。もう、峠に立った時と同じ視界が広がっている。脇見はせず、峠に急ぐこととする。
   
  
   
神坂峠 (撮影 2013. 5.22)
中津川市側から見る
    
<峠>
 21年ぶりに見る神坂峠は全く変わっていない様に思われた。細かいことを言えば、峠付近に立つ看板などはほとんど建て替えられているが、切通しとなる峠 の佇まいは、以前のままである。
   
峠から中津川市側の眺望 (撮影 2013. 5.22)
  
<中 津川市側の眺め>
 峠から中津川市側に広がる眺めも、昔と変わらず素晴しい(上の写真)。望遠カメラで覗けば、山肌に蛇行する一筋の道が望める(下の写真)。よくこれ程の 林道を切り開いたものだと感心させられる。
 
峠に登って来る道を望む (撮影 2013. 5.22)
  
  
峠の中津川市側
  
<峠 の中津川市側>
 峠の中津川市側は、下からでも見えていたガードレールが、切通しの手前、崖の渕に沿って設けられている。ここが一種、展望所のような所となる。ガード レールに寄り添って中津川市側に広がる眺めを堪能することとなる。
  
峠の中津川市側 (撮影 2013. 5.22)
   

切通しの手前 (撮影 2013. 5.22)
<看板など>
 ガードレールが尽きた先、車道は右に曲がって峠の切通しを通過するが、そこに幾つかの看板が立つ。その左端に「富士見台登山道」と道案内の看板が立ち、 峰の稜線方向に山道が延びている。富士見台へはその登山道を歩いてもよいが、阿智村側に途中まで車道が通じている。
 
 それらの看板の中で最も気になるのは、その登山道方向を指して、「神坂峠 この奥100m」とある物だ。車道の切通しの峠を横目に、神坂峠はあっちだと 山の中を矢印が示している。
   
<本来の神坂峠>
 今回の神坂峠行きで最も関心があったのは、本来の神坂峠、古代東山道が通じていた神坂峠である。現在、コンクリート擁壁で挟まれた切通しの峠は、林道開 削時に通されたものだ。この場所とは異なる所に本来の神坂峠があるのだが、その場所がどこだか分らなかった。初めてここを訪れた時は、旧峠の存在自体、知 らな かった。
 
 後に調べてみると、この峠はそこで発掘された遺跡などで有名である。地形図でも「神坂峠」ではなく、「神坂峠遺跡」と記されている。いろいろ思い返して みたが、その様な遺跡が車道の峠の近くにあったかどうか、全く心当たりがない。今回は何としても、その旧峠に立ちたいのだ。(旧峠は後ほど)

神坂峠の看板 (撮影 2013. 5.21)
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峠の阿智村側
  
<峠 の阿智村側>
 車道の切通し峠を阿智村側に抜けると、道は左右の二手に分かれる。左は下り、右は登る。右に登る方が車道の峠道で、林道大谷霧ヶ原線の続きである。左は 富士見台登山口へと続く。
  

峠の阿智村側 (撮影 2013. 5.22)
切通しの上よい眺める

切通しから阿智村側を正面に見る (撮影 2013. 5.22)
   

阿智村側を富士見台方向へ進む車道 (撮影 2013. 5.22)

峠から阿智村へ延びる峠道 (撮影 2013. 5.22)
左に林道大谷霧ヶ原線の看板が立つ
 
  峠の阿智村側の崖渕に立つと、その直下を園原川の谷が東へと下っている。左右から山が迫り、あまり眺めは広がらない(下の写真)。
  
峠から阿智村側を眺める (撮影 2013. 5.22)
   

阿智村側の峠道から峠を見る (撮影 2013. 5.22)

富士見台方向から峠を見る (撮影 2013. 5.22)
   
阿智村側の看板など
   
  峠の阿智村側からは、稜線を南の方へ登る登山道がある(下の写真)。稜線伝いに恵那山へ通じるようだ。山頂まで6.8kmとある。
  

恵那山登山口 (撮影 2013. 5.22)

保安林の看板 (撮影 2013. 5.21)
かすれてあまりよく読めない
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ガイドマップ (撮影 2013. 5.21)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
<ガイドマップ>
 恵那山登山口とは車道を挟んで反対側にも看板が多い。以前はこんなには並んでいなかった。中でも「富士見台 風致探勝林」と題したガイドマップが新し く、カラーで写真入りであるい。近くに例の神坂峠祭祀遺跡があることや、富士見台萬岳荘が何だかとても立派な建物であることが分かる。
 
<以前の看板>
 最初に訪れた時の神坂峠には、林道の落石や崩壊を注意した「警告」の看板があり、ほぼ同じ物が現在も立っている。保安林の看板も古そうだ。しかし、当時 はまだ萬岳荘はなく、東山道の神坂峠遺跡に関してもあまり知られていなかったのか、それらに関する案内看板などはなかったように思う。
   
<阿 智国有林の看板>
 ただ、ちょっと変わったところで、「阿智国有林 −神坂峠−」と題した木製の看板が、唯一の案内看板としてポツンと峠に立っていた筈だ(下の写真)。当 時、 既に朽ち掛けていて、今はもう撤去されたのか、どこにあったのかも分からない。案内文は判読が難しく、ホームページを見てもらった方から教えて頂いた。
   
  阿智国有林 −神坂峠−
 この辺り一帯は阿智国有林と呼び、この面積は1, 265.85haあり、飯田営林署で経営し管理致しております。昭和33年以来、保安林として治山治水や造林事業の推進等に努めた結果、漸く保安林として の成果が現われ、私達の国民生活にも欠くことの出来ない大きな役割を果してくれています。
 
 またこの地は奈良の昔、京と東国を結ぶ要路であった と云われ遥々旅する古人が杖を止め暫しこの風景に讃詞を惜しまなかったであろう自然の眺めは今も私達の心に潤いを与えてくれます。
 
 利用される方一人一人がこの自然を愛し育てるようお 互いが心掛けましょう。
 
 「園原の 山を行くかと なげくまに
  君も我が身も さかり過ぎ行く」
                大伴家持
  飯田営林署

阿智国有林の看板 (撮影 1992.10.22)
右下に「神坂峠同志社」とある
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  案内文では、この地を「京と東国を結ぶ要路」と言っている。今では「東山道」と一言で呼んでいるが、以前はあまり一般には使われていなかったのだろうか。
    
富士見台方向へ
   

富士見台方向への道 (撮影 2013. 5.22)
<駐車場>
 この車道の神坂峠では、「路上駐車、はみ出し駐車 禁止」と看板があり、迂闊に車を停められない。 代わりに富士見台登山口方向へ「恵那山登山者駐車場」と案内がある。 他には「県立富士見台公園、富士見台高原・萬岳荘」などとも看板がある。
 
 そちらの道を少し下ると、直ぐにも路肩に駐車スペースが設けられている。 東に面して園原川の谷を見下ろす地だ。 砂利敷きの小さな広場で、10台も車を停めれば、もう一杯だろう。 折しも4台ほどの車とバイクが1台、停められていた。
   
 これらの車やバイクの持ち主は、今頃どこかの登山道をせっせと歩いていることだろう。 私は峠が趣味なので、もうこの地に到達するだけで、ほぼ目標達成である。 峠道からの景色は堪能したし、峠の様子もじっくり見られた。 しかし、登山者にとって峠は出発点みたいなものだ。 ここまで遥々峠道を登って来ても、やっとスタートラインに立っただけである。 なかなかご苦労なことである。
   

駐車場 (撮影 2013. 5.22)
富士見台方向に見る

駐車場 (撮影 2013. 5.22)
峠方向に見る
   
 
旧峠へ
  
<遺跡へ>
 駐車場とは反対の山側を見ると、そこに「古代東山道 神坂峠」と矢印看板が立っている。 何てことはない。神坂峠遺跡や旧神坂峠は、直ぐ近くにあったのだ。初めて来た時も、この道を通り過ぎたのだが、何も気付かなかった。 今は遊歩道などが整えられているが、以前はこうした公園のように整備されていなかったのではないだろうか。
 
 歩道に沿って遺跡や旧峠がある稜線方向へと登る。この道は、古代東山道に近いものかもしれない。 すると、峰の東斜面の一画が柵で囲われ、その中に「神坂峠遺跡」と書かれた標柱が立っていた。

旧峠への道 (撮影 2013. 5.22)
   

遺跡へ登る道 (撮影 2013. 5.22)
峰の頂上は近い

神坂峠遺跡と書かれた標柱 (撮影 2013. 5.22)
   
<神 坂峠遺跡>
 稜線上には北の富士見台方向へと登山道が通じている。その稜線から東へ下る緩斜面の小広い空き地が、神坂遺跡の発掘された場所らしい。見渡しても標柱以 外、目に付くものはない。小さな岩が所々に転がっていたが、遺跡とは関係なさそうだ。
 
 ここで多数の遺跡が発見されたのは昭和26年とのこと。これにより、古代東山道がこの地、神坂峠に通じていたことが改めて確認された。祭祀遺跡(さいし いせき)と呼ばれ、石積状遺構が見られ、祭祀的遺物が1,400点にも上ったそうだ。
   
遺跡を見下ろす (撮影 2013. 5.22)
稜線上を北に見る
   

本来の神坂峠 (撮影 2013. 5.22)
阿智村側から見る
<旧峠>
 祭祀遺跡にはストーンサークルなどがあるのかと期待していたが、今は草がきれいに刈られているだけの空き地であった。 次なるは、旧峠、古代東山道が通じていた本来の神坂峠である。
 
 遺跡より少し南へ行った稜線上に、それはあった。 なだらかな稜線なので、峠は深い切通しのような形態にはなっていない。 稜線を斜めに細い山道が横切っているといった感じだ。
   
 峠の頂上には、「神坂峠」と刻まれた楕円形の碑が建てられ、側に案内看板が設けられている。 峠からは阿智村側に遺跡の場所が見下ろせるが、その先の遠望は樹木にさえぎられている。 中津川市側は更に木々が多く、見通しは全く利かない。 細々とした山道が林の中に消え入りそうに下っているだけである。
 
 これが本来の神坂峠の全貌であった。 「神坂峠祭祀遺跡」などと言われていたので、大きな岩などが巧みに積まれたり、石像などが立ち並ぶ、もっと凄い物を期待していたのだが、そういう訳ではなかった。 しかし、車道の峠ではない、正しく「神坂峠」と呼べる峠をこの目で見られたことに満足である。

阿智村方向に見る峠 (撮影 2013. 5.22)
この先、少し下った所が遺跡
   

中津川市側から見た峠 (撮影 2013. 5.22)

中津川市側へ下る道 (撮影 2013. 5.22)
   

峠の案内看板 (撮影 2013. 5.21)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
<峠の案内文>
 峠にあった看板の案内文を下記に写す。
 
 東山道 神坂峠
 
 此の峠は標高一、五八五メートルあり、古くは信濃坂 とよばれました。昭和四十二.四十三年に発掘調査が行われ、剣・鏡などを形どった滑石製の模造品や玉類、鉄製品などが発見されました。 ここを旅人が旅の安全を祈り荒ぶる峠の神に幣として供えたものとされています。
 このように、神坂峠は東山道の要衝にあたり、 古墳時代から中世に及ぶ峠祭祀の実態をうかがう代表的遺跡として重要です。
 阿智村教育委員会
   
<峠 の標高>
 細かいことだが、峠の標高である。車道の峠は国土地理院の地形図に「1569m」の記載があり、等高線からもそれらしく思える。
 
 一方、本来の神坂峠は、文献では1585mとか1595mとある。峠にあった案内看板などを含め、峠付近に立つ看板類ではほとんど全て1585mで統一 されている。ただ、「神坂の風穴」に立つ看板は1576mであった。
 
 地形図で本来の神坂峠がある場所の等高線を読むと、1570mと1580mの間に位置する。それからすると、風穴の1576mは信憑性がある。 少なくとも、1585mとか1595mには届かない。
 
 しかし、標高とか海抜などの正確な定義を知らず、過去から現在に至る間、そうした定義が不変だったとも思えない。 また、標高などを測る技術の精度の変遷もあるだろう。古くは1585mとされていたのかもしれない。 風穴の看板の1576mは、現在の地形図に示された等高線と根拠を一にするのかもしれない。
   
旧峠から中津川市側に下る
   
<中津川市側の旧道>
 本来の峠から中津川市側に下ってみた。稜線の西側に沿って細い道が通じている。視界はない。数10m行くと、「東山道」と道案内の看板があり、その先で 下る道が分岐する(下の写真)。その方向を指して「強清水」とある。それが「水またぎ」を経て強清水へと続く現代の登山道、すなわち古代東山道の旧道とい うことになる。
 
 車道の峠が正に峰の鞍部を少し切り崩して通じたのに対し、旧峠は鞍部より少し北寄りを通じていたようだ。それで車道開削にも関わらず、旧峠やその前後の 旧道が残ったのか。あるいは、車道開通は昭46年とのことだそうだが、貴重な祭祀遺跡の保存を考慮し、車道を通す場所を選んだのだのだろうか。

旧峠から中津川市側に下る道 (撮影 2013. 5.22)
   

この先、右に下る道が分岐する (撮影 2013. 5.22)
左の道案内の看板には「東山道」
下る道を指して「強清水」

強清水へ下る道 (撮影 2013. 5.22)
   
  強清水へ下る道の分岐を過ぎ、そのまま稜線と並行に真っ直ぐ行くと、車道の峠に出る。ガードレール脇の看板が立つ所だ。看板には「神坂峠 この奥 100m」とあったが、それ程の距離には思えなかった。帰りは車道沿いに駐車場まで戻った。
   
富士見台登山口へ
   

富士見台登山口への道 (撮影 2013. 5.22)
 駐車場の前の道を更に北へ進む。峠から北へ続く稜線上に富士見台 (1739m)と呼ばれる山があり、その登山口まで車道がもう暫く延びている。約700m程だ。
 
 南東方向に面した明るい舗装路が続く。途中、登山者数名のグループとすれ違う。
 
<萬岳荘>
 車道の終点は、以前と全く違ってしまった。驚くほど大きな建物があった。それが萬岳荘らしい。単なる山小屋ではなさそうだ。何かの行事を行う施設なのか もしれない。困ったことに、その前に車を停めるには管理人の許可が必要と断り書きがある。それもあってか、一般車は1台も停められていない。萬岳荘に至る 少し 手前に僅かな駐車場が路肩にあったが、そちらには数台停まっていた。何だか近寄り難い所なっているので、車も降りずに引き返したのだった。
   

車道の終点 (撮影 2013. 5.22)
富士見台への登山道が登っている

萬岳荘 (撮影 2013. 5.22)
   
<富 士見台(余談)>
 萬岳荘の脇からは富士見台への登山道が始まっている。山頂まで1.0kmとある。
 
 初めて神坂峠を訪れた時は、まだまだ若くて元気だった。野宿明けの早朝、ここまでジムニーでやって来て、その富士見台とやらへ富士を眺めに歩き出したの であった。初めから登山などする積もりはないので、何も持たず、着の身着のままである。途中、「落雷注意」の看板が目に付いた。空が開けた登山道なので、 雷が落ちる可能性が高いのだろう。
   
富士見台付近からの眺め (撮影 1992.10.22)
  
  暫く歩いたが、富士見台が見付からない。富士見台を「富士を眺める展望台」だと思っていたのだ。そんな展望台はないし、どこにも富士が見えない。後で分 かったことだが、富士見台からは富士は望めないらしいのだ。しかし、雄大な眺めが広がった。パノラマ写真を何枚か撮って、適当な所で引き返したのだった。
 
富士見台付近からの眺め (撮影 1992.10.22)
 
<阿 智村に下る東山道>
 ところで、阿智村側の古道はどの様に通じていたのだろうか。始めは、神坂峠から祭祀遺跡を通って下の恵那山登山者駐車場に出て、そこから直接園原川の源 流部へと下って行ったのかと 思った。しかし、駐車場から見下ろす崖は険しく、道などありそうにない。後で地形図などを調べると、富士見台登山口から、現在の萬岳荘の裏手を通って、園 原川の左岸側を神坂神社へ下る登山道があるようだ。それがほぼ古代東山道の道筋らしい。恵那山登山者駐車場から富士見台登山口まで、現在は舗装路だが、そ の部分も古代東山道の可能性がある。
   
<峠道の変遷>
 古墳時代からも利用されたといわれる古代東山道であるが、官道であった平安期をピークに衰退していった。 それでもこの神坂峠を越える道は、大正時代頃まで使われたそうだ。
 
 明治44年に木曽谷を通る国鉄の中央本線が全通すると、伊那方面からこの峠道を越え、鉄路に乗り換え、中京方面と結ぶ最短路となり、盛んに利用されたと 文献にある。
 
 しかし、大正12年に伊那電気鉄道(現JR飯田線)が伊那谷で辰野と飯田の間に通じると、峠は衰退していったそうだ。三州街道の整備も関係することだろ う。恵那山から南に続く木曽山脈を越える峠道に代わり、別系統の交通手段が発達していった訳である。
 
 神坂峠に車道が通じたのは昭和46年、阿智村の本谷川の戸沢から本谷川上流部を経て、県境を越え、中津川市の霧ヶ原に通じる林道が完成した時である。こ れにより、以前の物資輸送ではなく、観光客や登山者、ハイカーの利用が興ったようである。
 
 神坂峠がある意味、本格的に復権したのは、昭和50年、中央自動車道の恵那山トンネルが開通した時であったろう。それまで木曽山脈を越えるのは国道 256号の清内路峠だったが、一挙に挽回である。
 
 現在、古代東山道は、その一部が登山道となって残されている。しかし、恵那山や富士見台を登山する者は、林道を車で神坂峠頂上や富士見台登山口まで走り 登ってしまうことだろう。あえて古代東山道を歩こうとしない限り、神坂峠の古道は足を踏み入れる者が少ないように思う。
 
 
峠より阿智村側へ
   
<林 道で阿智村へ進む>
 阿智村に下る古代東山道は、峠より一路北に向かい、園原川の左岸に出て、神坂神社経由で園原へ下る。一方、林道の峠道は、峠から南に大きく迂回し、阿知 川の本流と思われる本谷川に沿って園原方面に下る。新旧の二つの道は峠から別々の道を歩むのだ。
 
 林道が古い道とは違う経路を採用したのは、やはり車道開削のし易さだろう。本谷川沿いに車道が通し易かった。あるいは早くから本谷川の途中まで道が通じ ていたのかもしれない。それで、神坂峠は園原川源頭部に位置するが、林道は園原川流域からひょいと一尾根越え、場所を本谷川流域に切り替えて、阿智村を 下ったようだ。
 
 そんな理由もあって、阿智村側の林道の峠道は、峠から下るのではなく、まず は登る。峠の標高は1569mだったが、そこから1640m近い所まで登って行く。
 
 この林道は霧ヶ原を起点とした大谷霧ヶ原線の続きである。全長が17.5kmだったが、大雑把に中津川市側が10km、阿智村側が7.5km。多分、阿 智村側は本谷川沿いに至るまでの距離だ。本谷川沿いは別の名の林道だろう。林道名にある「大谷」が結局不明のままだが、本谷川沿いにある地名かもしれな い。

阿智村側に進む (撮影 2013. 5.22)
道は登っている
   
峠方向を振り返る (撮影 2013. 5.22)
左の奥の方に峠の鞍部がある
   

恵那山への登山道 (撮影 2013. 5.22)
<恵那山登山口>
 林道は1640m近い高度を維持しながら暫く進む。明確なピークはない。その内、右手に恵那山への登山口がある。その登山道は、園原川と本谷川を分ける 尾根に登って、そこより恵那山から続く主脈を目指す。この登山口を過ぎた辺りから、やっと車道は下りだす。21年前、初めてこの道をジムニーで走った時 は、まだ未舗装区間を残していた。なかなか険しい林道であった。今は中津川市側よりも走り易いアスファルト舗装の道である。また、谷筋ではなく、南面の山 腹を巻くように走る道なので、明るく開けた感じがする。
 
<追分>
 尚、「神坂の風穴」にあった看板に、強清水などと並んで「追分」という場所が示されていた。大雑把な地図なので、その場所はよく分らない。ただ、前述の 登山道を進み、尾根から主脈に接続する部分にその「追分」があるようにも取れる。園原川と本谷川の谷が分かれる所であるので、「追分」の名はふさわしい気 がする。
   
  
展望所
 
<展望所>
 道が途中で通行止であるにも関わらず、阿智村側に進んで来たのは、途中で見晴のいい場所でもあるだろうと期待したからだ。案の定、展望所が見付かった。 道が東の園原川の谷へ、一段と張り出した場所だ。道はそこでヘアピンカーブを描く。
 
 展望所にはいろいろ看板が立つ。ここから望める一帯が富士見台高原と呼ばれるようだ。展望所からは園原川の谷を中心の眺めが広がる。その眺めの中に、富 士見台高原ロープウェイの山頂駅と思われる建物が見えた。最初に訪れた時は、このロープウェイはまだなかった。

展望所 (撮影 2013. 5.22)
   

展望所から先の道 (撮影 2013. 5.22)

展望所前のヘアピンカーブ (撮影 2013. 5.22)
ここは園原川方向に突き出している
   
展望所からの眺め (撮影 2013. 5.22)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
   

展望所からの眺め(望遠) (撮影 2013. 5.22)
園原川左岸の崩落箇所

展望所からの眺め(望遠) (撮影 2013. 5.22)
南アルプスだろうか、雪を頂いている
   

展望所からの眺め(望遠) (撮影 2013. 5.22)
ヘブンスそのはら
見えている建物は富士見台高原ロープウェイの山頂駅だろう

恵那山・富士見台 案内図 (撮影 2013. 5.21)
(上の画像をクリックすると地図部分の拡大画像が表示されます)
   
   
林道通行止箇所へ
   

崩れ易そうな法面 (撮影 2013. 5.22)
<展望所の先へ>
 ついでなので、もう少し道を下る。崩れ易そうな崖を通過する。僅かだが路面に崩れてきた石が散らばっていた。勾配もやや急になり、路面は舗装済みだが、 以前の険しさの片鱗を残している。道は園原川から本谷川の谷へと移って行く。
   
<通行止箇所>
 峠から本谷川沿いに至る中間点ぐらいで、道は通行止となった。左に「ヘブンスそのはら」への道が分岐する地点である。右に下る峠道の本線の方には、しっ かりゲートが設けられており、この通行止が本格的なものであることをうかがわせる。一方、「ヘブンスそのはら」への道は、簡単なワイヤーが張られただけの 通行止だ。「一般車輌進入禁止」とある。「ヘブンスそのはら」の関係者が時折使用する道なのだろう。

通行止箇所 (撮影 2013. 5.22)
右は園原に下る峠道の続き
左は「ヘブンスそのはら」への道
   

林道京平線開設工事の看板 (撮影 1992.10.22)
(上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます)
<京平林道>
 1992年にこの道を通った時、途中で分岐する新しい林道の工事が行われていた。工事看板には「林道京平線開設工事」とあった。現在、その林道名は地図 に見掛けないが、工事看板に描かれたその道の形から、「ヘブンスそのはら」への道ではないかと思う。
 
 通行止箇所はまだ本谷川の谷間にほとんど踏み込んでいない。もう少し下ると、恵那山が好く見えた筈である。下の写真は多分恵那山だと思うのだが。
   
恵那山を望む (撮影 1992.10.22)
  
<本谷川沿い>
 更に下って本谷川沿いになった時の砂防ダムの写真が一枚残っている。水の色がきれいだったので写したようだ。この付近は今も通行できるのだろうか。

本谷川の砂防ダム (撮影 1992.10.22)
   
  
   
  神坂峠を再掲し、思いのたけを吐き出したといった感じである。これまでで、最も長いページになってしまった。ホームページを出し始めた時、最初の10峠の 一つとして選んだことは、やはり間違いなかった。それに、野宿をしたり、今はもう通れない未舗装林道を走ったりと、いい思い出をもらったと思う、神坂峠で あった。
   
  
   
<走行日>
・1992.10.22 中津川市→阿智村 ジムニーにて(前日、中津川市側の欅平にあったグラウンドにて野宿)
・2012.11. 3 中津川市→阿智村 パジェロミニにて

<参考資料>
・角川日本地名大辞典 20 長野県 1990年 7月18日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典 21 岐阜県 昭和55年 9月20日発行 角川書店
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒ 資料

<ドラレコ画像>
下記の動画をYou Tubeにアップロードしてみました。
神坂峠1/長野県側・沖田交差点より県道7号を延暦寺広済寮まで(登り)
神坂峠2/長野県側・延暦寺広済寮から林道大谷霧ヶ原線を大檜入口まで(登り)
神坂峠3/長野県側・林道大谷霧ヶ原線を大檜入口から峠まで(登り)
神坂峠4/岐阜県側・林道大谷霧ヶ原線を峠から通行止箇所(林道京平線分岐)まで(往復)
神坂峠5/長野県側・林道大谷霧ヶ原線を峠から延暦寺広済寮まで(下り)
神坂峠6/長野県側・県道7号を延暦寺広済寮から沖田交差点まで(下り)
神坂峠7/岐阜県側・神坂神社から県道477号への接続まで(下り)
神坂峠8/岐阜県側・峠から萬岳荘まで(往復)

<1997〜2013 Copyright 蓑上誠一>
   
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