霧越峠
きりごえとうげ
(峠と旅 No.326)
険しいというより、長く寂しい国道の峠道
(掲載 2024. 7. 2 最終峠走行 2000. 1. 1)
ここは車道の霧越峠 (撮影 1993. 5. 2)
この左側は徳島県海部郡海陽町小川の皆ノ瀬
右側は同県那賀郡那賀町海川の上海川
道は国道193号
峠の標高は約755m (地理院地図の等高線より読む)
こちらは本来の霧越峠ではなく、車道開通により新しく誕生した峠
国道の前身となる林道の開通記念碑がポツンと立つ
ここより海陽町側に1Km程行った所に元の霧越峠が位置する
この日は生憎の雨模様で、「霧越」の名に相応しく峠周辺は霧が立ち込めていた
<掲載理由(余談)>
前回、前々回と四国を南北に縦断(横断?)する国道193号の峠を掲載した。その続きにある。
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<所在>
国道193号が、北の瀬戸内海沿いの香川県高松市から、南の太平洋沿いの徳島県海陽町までを繋いでいる。よって、国道193号上のどの峠道も、概ね南北方向に通じる。
霧越峠の北側は徳島県那賀郡(なかぐん)那賀町(なかちょう)海川(かいかわ)で、以前の那賀郡上那賀町(かみなかちょう)海川である。海川は大字だが、合併後の住所表示に「大字」は付けないようだ。
ただ、那賀町になる前の上那賀町の時代かららしい。峠より海川へ下ると上海川(かみかいかわ)という集落が地図に見える。それは字名だろう。住所表示では「上カイカワ」とするようだが。
南側は同県海部郡(かいふぐん)海陽町(かいようちょう)小川(おがわ)で、以前の海部郡海南町(かいなんちょう)小川である。小川も大字だが、やはり以前から住所表示に「大字」は付けないらしい。峠を小川側に下ると、最初に皆ノ瀬(かいのせ)の集落に辿り着く。皆ノ瀬は字名だと思う。
峠は那賀町(旧上那賀町)と海陽町(旧海南町)との町境、更に広くは那賀郡と海部郡との群境になる。
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<地理院地図(参考)>
国土地理院の
地理院地図
にリンクします。
本ページでは地理院地図上での地点を適宜リンクで示してあります。
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<立地>
国道193号上の峠として、北から経の坂峠(倉羅峠)、雲早隧道(土須峠)と掲載した。
そして今回の霧越峠が最も南に位置する。よって、霧越峠を更に南下すると、道は下る一方で、最終的に太平洋岸に行き当たる。
ところで、経の坂(きょうのさか)、倉羅(くらら)、雲早(くもさ、くもそう)、霧越(きりごえ)のどれも、偶然ながら「か」行で始まる峠名であった。
以上の3峠共に、大ざっぱには四国山地の東部に位置すると言える。中でも雲早隧道・土須峠は四国山地東部を成す剣山地(つるぎさんち)の主稜を越えている。経の坂峠(倉羅峠)は主稜を外れるが、雲早隧道・土須峠には近い存在だ。その点、霧越峠はやや南に離れて位置する。
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<北側は那賀川水系>
四国東部の主峰・剣山の南斜面に発した那賀川(なかがわ)が、概ね東流して紀伊水道に注ぐ。
那賀川の最上流部には徳島・高知県境に四ツ足峠(地理院地図)があり、現在は国道195号の四ツ足峠トンネルが通じている。
よって四ツ足峠は那賀川水系を代表する峠と言える。
次いで那珂川左岸側に最大の支流・坂州木頭川(さかしゅうぎとうがわ)があり、その上流部に雲早隧道 ・土須峠がある。
そして右岸の支流・海川谷川の上流部の支流・海川谷東俣(地理院地図)の源頭部に今回の霧越峠がある。よって霧越峠の北側は那賀川水系で、その一次支流の海川谷川水域になる。
尚、細かい話だが、車道が通じる前の本来の霧越峠(地理院地図)は、微妙ながら那賀川支流・古屋谷川の上流部の支流・古屋川西(地理院地図)の源頭部に位置する。しかし、峠道は概ね海川谷川水域にあったようだ。
<那賀川水系の3大峠>
更に余談だが、那賀川水系に於いては駒背越隧道(地理院地図)など一部の林道の峠を除くと、車道が通じた峠として四ツ足峠トンネル、雲早隧道、霧越峠がトップ3と言えるだろう。
四ツ足峠トンネルは昭和39年(1964年)11月の開通、雲早隧道は昭和42年(1967年)3月の竣功、霧越峠に通じた林道は昭和43年(1968年)3月の開通となる。ほぼ同時期である。しかも、それ程古い話ではない。その時まで那賀川上流の地帯は、車道としては行止りの地であったことになる。
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<南側は海部川水系>
高知県境の貧田丸(地理院地図)を源流とする海部川(かいふがわ)が、最初概ね東流し、海陽町小川の皆ノ瀬で一転南流、そのまま太平洋に注いでいる。霧越峠は皆ノ瀬で分かれる支流の皆ノ瀬谷川(地理院地図)の上流部に位置する。よって、峠の南側は海部川水系で、その一次支流の皆ノ瀬谷川水域になる。
尚、海部川の最源流部にはあの大木屋小石川隧道の峠(地理院地図)が通じている。
高知県馬路村の魚梁瀬(やなせ)地区に通じる険しい林道の峠道だ。よって、霧越峠は海部川水系でナンバー2の地位となる。ただ、太平洋岸から海部川をほぼ真っ直ぐ北に遡った位置にあり、何と言っても国道が越える峠であるので、海部川水系を代表する峠と言っていいだろう。
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<海部山地(余談)>
四国山地東部にあり、那賀川以南の山地の俗称として、海部山地(かいふさんち)という呼び名があるそうだ。
この山地の主稜は、那賀川源流の四ツ足峠から始まって徳島・高知県境を南、更に東へ進み、湯桶(ゆとう)丸付近で県境を離れ、吉野丸・鰻轟山(うなぎとどろきやま)・霧越峠と過ぎ、徐々に高度を下げて行く行くは蒲生田岬に至る。霧越峠はその海部山地の主稜上にあり、1000m級の山が尽きる辺りに位置する。
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<海陽町(余談)>
現在、海部川水系はスッポリ海陽町に納まり、そして町域の多くを占めているようだ。海陽町は2006年3月31日に海南町、海部町、宍喰町が合併して発足したとのこと。
<旧海南町(余談)>
ネット社会が発達し、最新の情報が遅延なく得られるようになり、それはそれで便利だが、一方、古い情報は削除されて得難いように感じる。旧海南町の町域が知りたくても、なかなかネット上で調べることができない。結局、以前のツーリングマップルを眺めるという、極めてアナログ式な手段を採らざるを得なかったりする。
<海南町>
峠の南側に位置する旧海南町は海部川水系の殆どを占め、海部川河口の太平洋岸にまで町域を延ばしていた。河口近くの主に右岸の一部だけが、海部町であったようだ。
余談だが、海部川水域の中で、更に海部郡内で一番の広大な面積を占めるのが海南町で、小さい方が海部町である。どうも海南と海部を取り違えてしまい易い。
昭和30年に浅川村・川東村・川上村が合併して海南町が成立した。その地名は、海部川上流域に広がりつつも、「海に面した南の町」であることによるらしい。
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以前の阿波海南駅 (撮影 1998.12.28)
海部川河口の市街地にある
駅前に「四方原開拓之碑」が立つ
(本文とは関係なし)
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<海部川河口(余談)>
海部川の河口は、蒲生田岬から室戸岬に至る海岸線のほぼ中間にあり、その河口付近には比較的大きな市街地を形成している。国道55号が通じ、牟岐線の阿波海南駅がある。
<国道193号>
海部川沿いには河口から小川の皆ノ瀬(かいのせ)まで、ほぼ従順に国道193号が通じている。但し、海部川最源流部には木屋小石川隧道の峠が存在するので、国道193号の海部川沿い区間はその峠道の範疇と言える。
しかし、木屋小石川隧道前後の峠道はあまりにマイナーである。一方、霧越峠には国道193号の続きがそのままほぼ直線的に通っている。そこで前述のように、海陽町側の国道193号は全て、霧越峠の道と言ってしまっても過言ではない。
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<峠道の役割>
そもそも霧越峠の道は、藩政期以降「那賀奥」と呼ばれた那賀川上流域と、海部川河口付近の地域とを結ぶ交易路として機能した。
海部川ではその為の舟運が盛んで、上流の皆ノ瀬と河口の鞆奥(ともおく)の間に高瀬舟が1日航程で上下したそうだ。霧越峠は人馬により、海部川では舟で荷が運ばれた。
上りは米・酒・塩、下りは木炭・茶・シュロ皮が主な交易物であったそうだ。
<峠道の衰退>
明治初期には荷船数が少なくとも100隻に達っする隆盛を極めた舟運は昭和初期まで続いた。しかし、大正7年(1918年)に海部川沿いに車道が開通し、高瀬舟に代わって大八車や馬車が物資の輸送を担うようになった。
現在の国道193号である。更に大正11年(1922年)には、那賀川沿いに平谷(ひらだに、地理院地図)まで車道が通じた。現在の国道195号に相当する。これにより那賀川上流域と他地域との交通は、那賀川沿いを幹線路とすることとなった。一方、霧越峠や海部川の舟運はその機能を失って行った。
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<海部川沿いを上流部へ>
海部川は暫くゆったり流れている。谷は浅く、その中を国道ものんびり通じる。何か特別に観光することはなく、ぼんやり周辺の山河の景色を眺めていればいい。
<神野橋(余談)>
海部川中流域で神野(こうの)という土地を過ぎる。神野は旧川上村の中心地だったそうだ。そこで海部川に架かる一本の橋を写真に撮ったりした(右の写真)。今となっては何故撮ったのか、その訳を覚えていない。
橋を渡った先に、峠道が続いているだろうかと思ったのかもしれない。それにしても今から見ると狭い橋だ。欄干も異常に低い。同じ徳島県の吉野川で見られる沈下橋にちょっと似ている気がする。
もしかすると、大水の時でも流され難いように考えられた橋なのかもしれない。現在はこの橋はなく、少し下流に新しい神野橋が架かっているそうだ。
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以前の神野に架かる橋 (撮影 2000. 1. 1) (地理院地図)
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<小川>
神野を過ぎると間もなく小川(おがわ)に入る。ここから峠の境までが全て大字小川だ。江戸期から明治22年(1889年)までの小川村。その後、川上村(かわかみそん)の大字となり、昭和30年からは海南町の大字になる。
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右にヤレヤレ峠分岐 (撮影 2000. 1. 1)
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<ヤレヤレ峠分岐>
河口から10数Km遡ると、小川の樫ノ瀬でヤレヤレ峠への分岐を通過する。道路看板には行き先が「牟岐」(むぎ)とだけなっている。直ぐに海部川を渡るが、その橋がなかなか味わい深かった印象がある。昔の神野の橋に似ている気がする。
海部川沿いから東西方向へと峠道が何本か分岐するが、車道がしっかり通じた峠は少ない。ヤレヤレ峠にはやれやれ峠隧道が開通していて、貴重な車道だ。
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分岐の様子 (撮影 2000. 1. 1)
直進は上那賀、軣の滝、右はヤレヤレ峠を越えて牟岐へ
<皆ノ瀬>
河口から18Km程で小川の皆ノ瀬(かいのせ)に到着する。その集落に入る手前で大きな分岐が出て来る。道路看板では、直進が国道193号の続きで、そこを県道148号・中部三渓轟公園線が左に分岐する。
しかし、実情はほぼY字路になっている。しかも、国道を進むより、県道方向に曲がるタイヤ痕の方が多く、大抵の車が県道方向に通行していることが分かる。
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皆ノ瀬の分岐に出る (撮影 2000. 1. 1)
左の県道方向に進むのが本線の様に見える
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分岐の道路看板 (撮影 2000. 1. 1)
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<分岐の様子>
分岐には広い路肩に皆ノ瀬バス停が佇み、バスの待合場らしい小屋も立っていた。バス停の左側には「平井林道記念碑」という石碑が並んでいる。県道148号を行った先に海陽町(旧海南町)平井があり、平井林道とは現在の県道148号の前身となる車道であろう。
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分岐の様子 (撮影 2000. 1. 1)
左が県道、右が国道を霧越峠へ
中央に皆ノ瀬バス停や県道の道路情報看板
この時ジムニーは高知県側より大木屋小石川隧道を越えて来た
<県道148号>
分岐には県道に関する道路情報の看板が立ち、「通行注意」と出ていた。県道方向に向かって「轟の滝 これより10Km」などとも案内されている。
県道は最終的に轟の滝付近で行止りとなるが、途中より大木屋小石川林道が接続していて、県境を越え、高知県馬路村へと通じている。
2000年1月に訪れた時は、馬路村側より県境を越えて来た。長く険しい峠越えも一段落で、この皆ノ瀬の分岐に出てホッと一息である。その後、霧越峠から林道六丁轟線に向かうのだった。昔はタフだった。
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<皆ノ瀬集落>
県道を分岐した直後の国道は、これでも国道かと疑いたくなるような狭い道になる。直ぐに皆ノ瀬の集落内を通過する。屈曲した道が人家の軒先をかすめて通じる。その間約300m、車の離合は不可能だ。ただ、道は狭いが、沿道に並ぶ人家はどれも比較的大きい。
この皆ノ瀬は海部川を利用した舟運の起点であり、霧越峠を越えた物資の集積地・中継基地の役割を果たしたものと思う。集落の裏手には海部川に支流の皆ノ瀬谷川が合流していて、付近にちょっとした広い河原が形成されている。
そこで高瀬舟の船荷の積み下ろしが行われていたのかもしれない。かつての皆ノ瀬では旅館や飲食店が営まれていたとのこと。集落内に見られる大きな家屋は、そうした宿や商店、倉庫などの名残なのかもしれない。
中には豪商が構える屋敷もあったことだろう。今は過疎に見舞われるこの地も、人や物の往来で賑わった時代があった。道が狭いので早く通り過ぎたいとばかり思っていたが、もっとじっくり集落内を見ておけばよかったと思う。
<集落以降>
皆ノ瀬が霧越峠の海陽町側最後の集落となり、続いて道は林の中へと入って行く。それまでの海部川本流と違って、これからは支流の皆ノ瀬谷川沿いだ。谷はまだまだ広いが、林で視界はほとんど遮ぎられてしまう。車道の霧越峠まで残すところ約11Kmの登り坂である。
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<山間部へ>
道は一旦皆ノ瀬谷川本流とは反対の東の支流上部へと登る。大きな迂回だ。古くからの霧越峠の道筋とは随分異なるものと思う。高度を上げてもあまり視界が広がらない。
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途中の谷の景色 (撮影 2000. 1. 1)
あまり眺望は期待できない
<道の様子>
皆ノ瀬集落を離れると、道はかえって広くなり、いたって普通の車道である。勿論センターラインがある訳ではないが、乗用車同士の離合も場所を選べば問題ないレベルだ。
急なカーブなどは道幅が十分確保され、カーブミラーも立っている。要所要所にガードレールが設けられていて、危険も感じさせない。こうした点は、さすがに国道だと思う。
落ち着いて車を走らせれば、何ということもない道だ。しかし、林で視界がほとんど利かない。屈曲も多く、方向感が持てない。峠まで11Km程の道程が、やたらに長く感じさせられる。
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道の様子 (撮影 2000. 1. 1)
車道の峠の手前2.8Km程の地点 (地理院地図)
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道の様子 (撮影 2000. 1. 1)
この区間、右手が谷になる (地理院地図)
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<景色>
それでも支流沿いから皆ノ瀬谷川本流左岸沿いに戻って来ると、若干視界が広くなる。上空も開け、峠が近いことを感じさせる。海部川本流の南東方向に山並みが望めた(下の写真)。ただ、私が訪れたのは24年以上も前のことで、今頃は木々が成長して視界が悪くなっているかもしれない。
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南東方向を望む (撮影 2000. 1. 1)
左の山肌に道筋が見える
<峠>
道は海部山地の主稜へと徐々に接近し、それにほぼ並行したなだらかな直線路を行くと、道路看板が立っている。林道六丁轟線の分岐を示している。そこが霧越峠(地理院地図)だ。
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本来の霧越峠 (撮影 2000. 1. 1)
こちら側は旧海南町小川で、手前が皆ノ瀬方向、奥が車道の霧越峠へ
右の林道に入った先が旧上那賀町海川
<旧峠道>
ツーリングマップ(ル)や一般の道路地図、地理院地図でも、この林道分岐点に「霧越峠」と出ている。しかし、稜線を越えて行く林道は峠道ではない筈だ。林道の行き先は旧上那賀町の川俣である。霧越峠は海川に下らなければならない。それがこれまでずっと疑問だった。
すると文献(角川日本地名大辞典)に、「旧道は峠から北へ861.1mの峰の東斜面上部を通り、海川まではほとんど尾根に近いコースをとっていた」と出ていた。「861.1mの峰」とは現在 861.2mの主脈上のピークとして地理院地図にある(地理院地図)。このピークの東側には今は何の道筋も描かれていないが、そのピークの東肩から更に北に延びる支脈近くに旧峠道が通じていたようだ。
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林道分岐の看板 (撮影 2000. 1. 1)
この林道に曲がって直ぐ左に旧道が分かれる
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こうした事情を知らないものだから、この本来の霧越峠については殆ど写真を撮っていなかった。もう少し付近をしっかり見ておくべきだった。国道から林道に曲がり、稜線を過ぎた直ぐ左手に、どうやら旧道の痕跡が残っていたようだ。
<標高など>
峠の標高については、文献では約700m、ツーリングマップ(ル)などの道路地図では690mとか700mと出ている。地理院地図の等高線では700mを若干切っているようだ。
よって約695mでどうだろうか。
主稜上、北西の861.2mのピークと南東の742mのピークの間のなだらかな鞍部に峠は位置する。林道などが開削された今ても、峠の位置や標高はほとんど変わっていないものと思う。
<旧道の距離>
文献によると、「阿波国漫遊記」に「皆ノ瀬から峠まで上り1里8町、海川へ下り2里」とあるそうだ。1里8町は約4.8Kmで、現在の国道の距離約10Kmの半分以下だ。また、2里は約7.9Kmで、国道で海川集落(地理院地図)までの約16Kmのやはり半分だ。ただ、旧道が一体どこに通じていたかはよく分からない。
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<林道六丁轟線へ>
現在霧越峠を越えて延びる林道六丁轟線は、本来の峠道ではないが、実際に海部山地の主稜を越えて通じる峠道であることには間違いない。やや寄り道になるが、林道六丁轟線を下ってみる。
当時(2000年1月)、林道六丁轟線はまだ開削されて間もない道のようで、未舗装ながらきれいに整地された砂利道が霧越峠より続いていた。1989年7月発行のツーリングマップにはまだ全く記載がなかったが、1997年9月発行のツーリングマップルには多くが未舗装の林道として載っていた。
峠から少し進むと新品のアスファルト舗装になった。峠から東へと続く主脈に沿って、その少し北側を進む。左手に古屋川西の谷を臨むことになる。最初は旧上那賀町海川だが、ちょっとした尾根を越えると、一時期右手に視界が広がる(下の写真、地理院地図)。そこから先は旧上那賀町の川俣となるようだ。
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林道六丁轟線の様子 (撮影 2000. 1. 1)
舗装はまだ新しい
<道の様子>
道は急坂で稜線上へと下って行く。その坂の手前で道の様子が手に取るように眺められた(下の写真)。なかなか険しい。
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林道六丁轟線の様子 (撮影 2000. 1. 1)
なかなか豪快な道
林道六丁轟線は稜線より左下へと下る
そのまま稜線上に延びるのは林道谷山霧越線
<林道谷山霧越線分岐>
道は一旦稜線上に降り立つ。道の両側が切れ落ち、平均台を行くようだ。間もなく道は左急カーブで、古屋川西の谷へと下って行く(地理院地図)。そこを直進方向に林道谷山霧越線が分岐していた。
その林道はほぼ稜線上を進み、最終的に林道古屋川大越線の峠(地理院地図)に接続する。但し、1994年5月に林道古屋川大越線を訪れた時に林道谷山霧越線を進んでみたが、途中で道は途切れていた。尚、現在林道古屋川大越線は全線県道36号・日和佐上那賀線の一部となっているようだ。
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<林道標柱>
稜線をから下って直ぐ、道の右手に比較的大きな林道標柱が立っている(地理院地図)。「峰越連絡林道六丁軣線」と題され、当時の上那賀町長の名が刻まれていた。また、昭和50年(1975年)着工、平成3年(1991年)完成とある。総延長は約11.5Km。麓の川俣集落側が起点で、霧越峠が終点となる。
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林道標柱 (撮影 2000. 1. 1)
なかなか立派
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<古屋川西沿い>
道は古屋川西沿いに降り、その左岸を概ね東へと進む。谷沿いになると、殆ど遠望はない。谷は細かな屈曲を繰り返す複雑な地形で、道も若干のアップダウンがあったと記憶する。
一部に未舗装路が残っていた。路肩が谷に急角度で切れ落ちている箇所もあったが、ガードレールは申し訳程度にしか設置されていない。ちょっと緊張する場面もあった。
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古屋川西の谷を東に望む (撮影 2000. 1. 1)
谷の左岸沿いに道が通じる
<人家>
林道の総延長に相当する約12Kmを走り下ると、やっと一軒の人家が沿道に現れた。その直ぐ先で農道が逆Y字に分岐する(地理院地図)。
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林道と農道の分岐 (撮影 2000. 1. 1)
左奥に人家が見える
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分岐の看板 (撮影 2000. 1. 1)
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<川俣>
この川俣の集落は、その名の通り、古屋(谷)川西と古屋(谷)川東の2つの川が合流し、古屋谷川になる周辺に人家が点在する。辺りを見渡すと、谷の奥まった所にも人家が見える。
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川俣の集落内を行く (撮影 2000. 1. 1)
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周辺に人家が見える (撮影 2000. 1. 1)
古屋川西を右岸に渡った先(地理院地図)
県道に接続 (撮影 2000. 1. 1)
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<県道36号に接続>
間もなく古屋川東を渡って県道36号・日和佐上那賀線に接続する(地理院地図)。分岐に立つ看板には、霧越峠方面に「町道川俣線」とあった。県道方向は「日和佐」である。町道が狭いのは分かるが、県道も負けず劣らず狭い。無事に日和佐町へ越えられるか心配になる道だ。日和佐町は現在は美波町の一部になっているらしい。
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分岐の様子 (撮影 2000. 1. 1)
左は県道を旧日和佐町へ、右は霧越峠方面
どちらも狭い
<車道の峠>
話は戻って、本来の霧越峠から更に1km程国道を進むと、立派な石碑が立つ峠に至る。ここが旧来の霧越峠に代わり、新しく開削された車道の峠である。「新霧越峠」と言ってもいいのではないか。
地図によってはこの地点にも「霧越峠」と記載しているものがあるくらいだ。ただ、元の峠とは距離がやや離れていて、ここも「霧越峠」だと断言するには、ちょっと抵抗を感じる。
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車道の霧越峠 (撮影 2000. 1. 1)
手前は海陽町、奥が那賀町
峠に立つ石碑 (撮影 2000. 1. 1)
町境の看板には「上那賀町」とある
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<開通記念碑>
ただ、立派な林道開通記念碑が立っていて、元の霧越峠よりよっぽど峠らしい佇まいだ。林道の名前も「関連林道霧越線」で、「霧越」の名が冠されている。ここが霧越峠だと勘違いされても仕方がない。
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<林道開通日>
碑文によると、この林道は昭和37年6月着工で、総延長16,041mとのこと。工事の竣功日がはっきりしないが、記念碑の建立日は昭和43年(1968年)3月22日となっていて、ほぼそれが林道開通日でもあろう。
こうした道路の使用開始は年度初めにすることが多く、林道併用開始は昭和43年4月からかもしれない。
<林道区間>
現在の国道193号は昭和50年(1975年)の昇格だ。今となっては林道霧越線の区間ははっきりしない。那賀町側の上海川集落から峠まで13Km余り、海陽町側の皆ノ瀬集落からは約11Kmである。合計で24Km余りは、林道総延長約16Kmを大きく越えてしまう。
これは単なる勘だが、上海川集落より上流の海川谷東俣沿いで林道が分岐する地点がある(地理院地図)。一方、皆ノ瀬集落から川沿いに遡り、皆ノ瀬谷川の支流最上部で道が反転する箇所がある(地理院地図)。峠を挟んだこの間の距離が、おおよそ16Kmだ。当たらずしも遠からずだと思う。 |
開通記念碑の全体像 (撮影 2000. 1. 1)
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開通記念碑の碑文 (撮影 2000. 1. 1)
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石碑の題字 (撮影 2000. 1. 1)
「関連林道霧越線開通記念碑」とある
<碑文について>
碑文の一部を抜粋する。
本路線は往古より霧越峠を越えて
狭隘な歩道により上那須町と海南町
を結ぶ経済文化の交流をなす主要道
路として利用されていた路線である
これを読んでどこかで見た覚えがあると思った。雲早隧道を越える林道木沢神山線の開通記念碑だった。現在は同じ国道193号が通じる。その碑文には、「本路線は、往古より土須峠を越える狭あいなる歩道により、木沢、神山両町村を結ぶ経済交流の主要路線として長い歴史を有していたもので・・・(以下略)」とある。まあ、開通記念の碑文などはどれも同じようなもので、道の開通年と総延長くらいが分かればいい。本当はもう少し歴史的な内容を含んでいると参考になるのだが。
余談だが、志賀坂峠には「志賀坂峠開鑿記念」という立派な石碑が立っていて、細かな字でとても長い碑文が刻まれている。
字体も石碑その物も古く、解読が難しい。その石碑を10枚くらいの写真に撮ってあり、いつしか碑文を読み取ろうと思いつつ、今だに果たせていない。このままだと、何が書かれているか分からず仕舞いになりそうだ。
誰か碑文の内容を読み取ってくれないだろうか。まあ、そんな暇人は居そうもないが。
碑文中、「四国東部の横断路線」とある。
木沢神山線開通記念碑にも「海南町より香川県松市に通ずる四国横断道路」との記述がある。これは正に現在の国道193号のことである。
こうして四国横断道路は一応の完成を見たが、碑文の言う森林資源開発、交通文化交流、観光資源開発等にどれ程資することができているのだろうか。その行く末を霧越峠、雲早隧道、経の坂峠(倉羅峠)が静かに見守っている。
また碑文は国道55号に連絡する意義を謳っている。古くから霧越峠は那賀川上流の山間部と県南部を結ぶという役割が強かった。その意味で車道開通は峠道本来の意義に即していると言える。
碑文は最後に当時の上那賀町、海部町、海南町の各町長の連名で締めくくられている。一方、石碑の題字は徳島県知事によるものだった。
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国道の峠を旧上那賀町側から見る (撮影 2000. 1. 1)
峠の西(右側)は開けていた
<標高など>
車道の霧越峠の標高を記した資料は見たことがない。地理院地図の等高線では約755mと読める。本来の霧越峠の約695mより60m程高い。
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峠を旧上那賀町側から見る (撮影 2000. 1. 1)
町境の看板には「海南町」とある
<峠の形状>
峠は稜線上、東の861.2mのピークと西の902mのピークの間の鞍部近くに通じる。完全な鞍部ではないので、峠の西側が僅かに下っている。記念碑の背後である。
初めて訪れた時は雲が立ち込め、何も見えなかった。2度目の時もどういう訳か写真を撮っていない。どんな眺めだったろうか。この峠は切通しの形をしていないので、あまり峠らしく見えないのが難点だ。
記念碑の脇から稜線上を西の鰻轟山(うなぎとどろきやま、1046m)へと登山道が延びているそうだ。約1時間10分の距離とのこと。文献では鰻轟山の項で、この記念碑が立つ峠を霧越峠と呼んでしまっている。
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峠に立つ開通記念碑 (撮影 1993. 5. 2)
初めて訪れた時
<星越峠(余談)>
古くから霧越峠は那賀川上流域と太平洋岸方面を繋ぐ峠道であったが、那賀川の最上流部は木頭村(きとうそん)になる。今では那賀町の一部になっている。
現在は那賀川沿いに国道195号が幹線路として通じているが、藩政期から明治・大正期に掛けては星越峠(ほしごえとうげ、ほしごしとうげ、地理院地図)が主要路として使われたそうだ。
文献によると、その峠の大正初期の状況について「木頭村誌」に、「皆ノ瀬ノ方ハ出原マデノ間霧越ノ道路悪シ。川上村ノ分ハ修繕シ、馬一頭ニ付拾銭ノ通行費ヲ徴収シ居ルト。海川ヨリ出原マデノ星越峠ノ道悪シキ故ニ運賃高シ」とあるそうだ。「霧越ノ道路」とは霧越峠の峠道である。川上村とは合併後に海南町の一部になった村だ。川上村の皆ノ瀬から霧越峠を越えて海川、更に星越峠を越えて木頭出原(地理院地図)と繋がっていた。霧越峠も星越峠も道が悪かったようだ。その峠道を人の肩や馬の背に荷を積んで人々が往来した。
<峠名>
残念ながら霧越峠の「霧越」についての由来は不明だ。
参考まで、星越峠は「峠越えが長い道のりのため、星を仰ぎながら越えることがあったことにちなむか」と文献に載っている。
霧越峠に比べれば星越峠はそんなに長い峠道ではないので、夜間にまで往来するものかとも思う。逆にそれ程険しい道ではないので、星明り程度でも越えられたのかもしれない。
想像するに、「霧越」は霧の中で峠を越えることが多かったことにちなむのだろう。初めて訪れた時は正にその状態だったので、個人的には充分納得が行く。地形的に霧が掛かり易い場所なのかもしれない。
<「え」と「し」(余談)>
余談だが、「星越」は「ほしごえ」が本来だが、「ほしごし」とも呼ぶと文献にあった。同じ理屈で「霧越」の「きりごえ」は「きりごし」または「きりこし」でも良さそうに思える。
ちょっと似たケースで、峠道にはお馴染みの「九十九折」は「つづらおり」で、「つづらおれ」ではないようだ。
ローマ字で書いた場合、最後が「e」になるか「i」になるかである。「越」(goe)は「e」が正しく、「折」(ori)は「i」が正しい。
山形県大蔵村の十部一峠の麓に肘折温泉がある。
こちらの「肘折」も「ひじおり」であるが、以前は間違って「ひじおれ」と呼んでいた。
頭を整理する為にこんなことを書いたが、かえって混乱するばかりであった。
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<峠の旧上那賀町側(割愛)>
旧上那賀町の地には3回ほど足を踏み入れたことがあった。しかし、長安口ダムに立ち寄った程度で、殆ど観光らしい事をしたことがない。ただただ通り過ぎてばかりだったようだ。
特に理由がある訳ではないが、どうも那賀川流域には旅先としてあまり馴染みがない。「なかがわ」と聞くと、茨城県で鹿島灘に注ぐ那珂川の方を思い出す。その最上流部には大川峠が通じている。険しい未舗装路の峠道だった。
と言う訳で、霧越峠の北側の上那賀町に関しては、ここに掲載する写真も、旅の記録もない。話も長くなったので、ここですっぱり割愛するしかないようだ。
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実は、霧越峠はこれまで捉え所がない峠という印象しか持ってなかった。初めて訪れた時は雨模様の天気で、峠周辺は深い霧に包まれていた。林道開通記念碑が雨に濡れて寂しくポツンと佇むばかりである。
それにどうにも峠らしくない。そもそも、新旧二つの峠が存在し、どういうことになっているのかさっぱり分からない。峠の上那賀町側については殆ど土地勘がない。道はただただ長いばかりで、険しいというより、寂しいだけの峠道という記憶だった。
今回、僅かに撮ってあった写真を改めて眺め、地図や文献を調べ、それによって霧越峠について少しは理解が深まった気がする。
それでも峠を最後に訪れてから24年以上が経ち、やはり相変わらず霧に包まれているように感じる、霧越峠であった。
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<走行日>
・1993. 5. 2 上那賀町→海南町、続いて大小屋小石川隧道へ/ジムニーにて
(1994. 5.22 林道小屋川大越線で上那賀町へ/ジムニーにて)
(1997. 9.27 国道193号からヤレヤレ峠へ/ジムニーにて)
(1998.12.28 雲早隧道、長安口ダム、阿波海南駅/ミラージュにて)
・2000. 1. 1 大小屋小石川隧道、海南町→峠→六丁轟林道/ジムニーにて
<参考資料>
・中国四国 2輪車 ツーリングマップ 1989年7月発行 昭文社
・ツーリングマップル 6 中国四国 1997年9月発行 昭文社
・マックスマップル 中国・四国道路地図 2011年2版13刷発行 昭文社(2016年より使用)
・角川日本地名大辞典 36 徳島県 昭和61年12月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・その他、一般の道路地図など
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