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京柱峠
  きょうばしらとうげ  (峠と旅 No.004-2)
  「四国の屋根」を行く峠道
  (掲載 2024. 6. 2  最終峠走行 2004. 5. 6)
   
   
   
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京柱峠 (撮影 1992. 4.27)
手前は徳島県三好郡東祖谷山村(現好市東祖谷)樫尾
奥は高知県長岡郡大豊町西峯
道は国道439号
峠の標高は約1,130m (地理院地図の等高線より読む)
この写真は初めて京柱峠を訪れた時のもの
今から32年前になる
峠にはバイク旅の先客が一人居た
こちらもジムニーでの一人旅

   

   

<掲載理由>
 前回、白髪隧道(猿田峠)を掲載してみたのだが、同じく四国山地を越える峠として、この京柱峠は欠かせない。 ホームページ「峠と旅」は1997年6月20日にオープンしたのだが、いろいろ考えた末、最初に10の峠を選んで掲載した。その一つがこの京柱峠であった。四国山地は「四国の屋根」とも呼ばれる。 京柱峠は正にその屋根の上を越えて行くような雄大な峠道だ。
 
 京柱峠を初めて掲載した時はまだインターネットが充分に発達する前で、今からすると内容がとても乏しかった。また、記述に間違いや勘違いも多々あった(大変失礼しました)。 京柱峠は初掲載の後にも2度訪れている。そこで、内容の正確性や充実を目的に、ここに再掲載しようと思うのであった。

   

<所在>
 峠道はほぼ東西方向に通じ、東は徳島県、西は高知県になる。
 
<都道府県番号(余談)>
 こうした県境の峠の住所を示す時は、都道府県番号の若い方から示すようにしている。この番号は多分、厚労省が定めたようで、徳島県は36、高知県は39になる。 以前にも書いたことだが、1番の北海道から47番の沖縄県まで、その都道府県名と都道府県庁所在地と旧国名(北海道と沖縄県を除く)を都道府県番号順に諳(そら)んじることができる。 各都道府県の番号を直接暗記している訳ではないが、順番は分かっている。また、三重県が47都道府県の真ん中の24番であることも覚えているので、暗唱する時の確認に使っている。 夜なかなか寝られない時、ベッドの上で旧国名などを順番に、時に逆の順で何度も思い返すのだ。この調子では、一生忘れる危惧はない。
 
<峠の東側>
 現在の住所は徳島県三好市(みよしし)東祖谷(ひがしいや)樫尾(かしお)になる。三好市東祖谷は旧三好郡(みよしぐん)東祖谷山村(ひがしいややまそん)である。 文献(角川日本地名大辞典)によると、東祖谷山村は元は「ひがしいややまむら」と呼んだそうだ。確か東祖谷山村は大字を編成していなかったと思うので、「樫尾」は大字ではなく、字名であろうか。 文献では大字までは記載があるのだが、それより小さい地名については専用の項がない。やはり東祖谷山村の「樫尾」で検索しても、何も得るものはなかった。
 
<峠の西側>
 今も以前も:高知県長岡郡(ながおかぐん)大豊町(おおとよちょう)西峯(にしみね)だ。西峯は大字である。 江戸期からの西峯村で、明治22年(1889年)に東豊永村の大字となり、昭和30年(1955年)に大豊(おおとよ)村、同47年(1972年)からは現在の大豊町の大字となって行く。
 
 大字西峯より細かな地名では、京柱峠を高知県側に下って来ると最初に「沖」(おき)という集落名が見られる(地理院地図)。これが字かそれに相応する地名であろう。

   

<地理院地図(参考)>
国土地理院地理院地図 にリンクします。

本ページでは地理院地図を参考に、その地点などをリンクで示します

   

<立地>
 京柱峠が越えている四国山地は、大きく東より剣山山地(つるぎさんさんち、剣山地、剣山脈などとも)、中央山地(中間山地)、石鎚山地(いしづちさんち、石鎚山脈とも)に分かれる。 京柱峠は東の剣山山地に属す。四国第二の高峰である剣山(1,955m)を中心にした一大山塊の中に峠道は通じる。
 
 余談だが、剣山は日本百名山の一つであり、私が登ったことがある数少ない日本百名山の一つだ。 その登山の様子は見ノ越のページで掲載した。更に余談だが、日本百名山で唯一、標高1,000mを下回るのが開聞岳だが、ちょっと変わったところで、その山にも登ったことがある。

   

<水系>
 京柱峠は四国山地を越えているので、峠の前後で水系が変わっていてもおかしくないように思う。実際にも京柱峠より少し東に行くと、四国山地は吉野川と物部川の分水嶺となっている。 しかし、京柱峠では峠のどちら側も同じ吉野川水系だ。四国山地の主脈と吉野川本流は京柱峠の少し西でXの形で交差している。四国山地は中央山地の部分で、一旦吉野川沿いに落ち込んでいたのだ。
 
<祖谷川水域>
 峠の東側は吉野川の一次支流・祖谷川(いやがわ)の水域になる。祖谷川の源頭には見ノ越があり、よって祖谷川本流沿いは見ノ越の峠道と言える。 一方、京柱峠は祖谷川の支流・谷道川水域で、峠は更にその支流の源頭部となる。
 
<南小川水域>
 峠の西側は吉野川の一次支流・南小川(みなみおがわ)の水域で、ほぼ京柱峠は南小川の源流部に位置する。
 
 いつも参考にする文献(角川日本地名大辞典)では、水系を成す川と、その主な一次支流までを解説した項はあるが、それより更に支流の川となると、あまり詳しくない。 今回の場合も、祖谷川と南小川の項は見付かったが、谷道川については何の情報もない。「谷道」は「たにみち」と読むのは多分間違いないが。

   

<峠名の由来>
 文献では、「弘法大師が土佐へ越えた時、祖谷の山里からあまりにも遠く、この峠へ行き着くためには京へ上るほどであったということからこの名がついたといわれる」とある。 ほぼ同じ内容のことがネット上などでも散見される。ただ、この説の出所がはっきりしない。また、「京柱」の「京」についてはこの説で分かるが、「柱」とは何を言っているのか、今一つ判然としない。

   

<峠の特徴>
 峠は道の最高点であることが殆どだが、意外にも眺望に恵まれないことが多い。峠の立地状況によって山影になったり、林が視界を遮ったりと、峠から直接は景色が望めない場合が大多数だ。
 
 その点、京柱峠からの眺望は素晴らしい。しかも、徳島・高知の両県側に景色が広がる。大抵の峠ではその前後で地形が大きく異なり、片側は急峻、片側は傾斜が穏やかで、急傾斜側だけに景色が楽しめることになる。 しかし、京柱峠では峠の両側に大きな視界が広がる。この点で珍しい峠と言えるだろう。
 
<酷道>
 また、京柱峠の特徴としては、やはり険しい国道の峠である点で、時に「酷道」などとも評される。国道番号の439号から「ヨサク」という呼称も持つ。しかし、豪快な山岳道路とはちょっと趣が違う。 その険しさの真髄は道の狭さであろう。徳島県側では小川・樫尾といった集落、高知県側では西峯に点在するいくつかの集落の中を国道439号は通る。これらの集落は山間部の急な斜面に立地する。 落合峠で掲載した落合集落などがその代表格だろう。平坦地がないので、集落内の道は人家の軒先をかすめるようにして通じ、その道幅は車が通れる極限まで狭い。そして急カーブの細かな蛇行を繰り返しながら急斜面を上り下りする。これが京柱峠越えの醍醐味のような気がする。

   
   
   

徳島県側

   

<徳島県側の様子>
 京柱峠は都合3回越えているが、いつも徳島県側からだった。自宅が関東方面にあったことから、旅の経路の都合上、どうしても東から西へと移動する事が多かったようだ。
 
<京上バイパス(余談)>
 東の見ノ越(地理院地図)方面から祖谷川沿いに国道439号を下って来ると、旧東祖谷山村の村役場、現在の三好市役所東祖谷総合支所がある京上(きょうじょう、地理院地図)に出る。ただ、今は集落のある右岸とは反対の左岸側に京上バイパスが通じ、国道は集落内を通っていない。国道は集落の手前で京上大橋(平成3年4月竣工、地理院地図)に導かれて対岸に渡ってしまい、その先に長い京上トンネル(平成13年3月竣工)が待っている。 ただ、京上トンネル開通前の一時期は、下浦橋(平成6年10月竣工、地理院地図)で再び右岸に戻されていた。
 
 京柱峠は平成4年(1992年)4月、平成9年(1997年)9月、平成16年(2004年)5月に越えているが、京上を通過する時はどれも違うコースを取っていたのだった。1度目は京上集落内、2度目は京上大橋から下浦橋、3度目は京上大橋から京上トンネルを抜けていた。

   
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京上街角マップ (撮影 2004. 5. 6)
東祖谷歴史民族資料館の前にて
まだ東祖谷山村の時代のマップ

<京上>
 「京上」と聞いて、直ぐにピンと来る。峠名の由来は「京へ上るほど」祖谷の山里から土佐まで遠いというのであった。祖谷側の峠道の起点がこの旧東祖谷山村の中心地であり、故に「京上」と名付けられたように思えてならない。しかし、地名の由来などについて何ら手掛かりがない。
 
 弘法大師は西暦800年前後の人物で、地名の起源もそれなりに古いのだろう。弘法大師については作家・司馬遼太郎氏の「空海の風景」を何度か読んだ程度で、こちらもあまり詳しくない。

   
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「京上街角マップ」の拡大 (撮影 2004. 5. 6)
地図は下が北
地図にないが、この時は既に京上トンネルが開通している

   

<京上トンネル・新居屋橋(余談)>
 現在の京上バイパスは、京上トンネルに続き新居屋橋(にいやばし)を渡って終わる。新居屋橋もトンネルと同じく平成13年(2001年)3月の竣工のようだ。

   
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前方に京上トンネル (撮影 2015. 5.28)

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京上トンネルの京上側坑口 (撮影 2015. 5.28)

   
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京上トンネルに続き新居屋橋を渡る (撮影 2015. 5.28)
正面に見える大きな建物は小学校跡

   

<峠道起点>
 新居屋橋を渡った先は東祖谷新居屋(にいや)の地になる。祖谷川左岸とその支流・谷道川左岸沿いに広がる。ここは地形的な意味で京柱峠の徳島県側起点と言える。 見ノ越方面から下って来た国道439号は、一転して谷道川左岸沿いへと登り始める。代わって祖谷川左岸沿いには県道32号・山城東祖谷山線が分岐して下って行く。 付近にはいよいよ目的の「京柱峠」を案内する道路看板などが増える。

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新居屋橋を渡った先は丁字に分岐 (撮影 2004. 5. 6)

   
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分岐の看板など (撮影 2015. 5.28)
左は国道439号を「京柱峠」へ、右は県道32号を「池田」方面へ

   
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分岐より国道を京柱峠方向に見る (撮影 2004. 5. 6)

<分岐付近の様子>
 高い擁壁で広い車道が確保されているが、周囲に人家はほとんど見られない。京柱峠の起点としてはやや寂しい雰囲気だ。やはり、京上の集落を起点とする方が味わいがあっていい。かつて徒歩で峠越えをした時代、旅人は京上で休息し、京上に宿泊したものと思う。
 
 擁壁の上に大きな建物が見上げられる。以前は栃之瀬小学校だった筈だが、今は廃校になっているらしい。

   
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分岐を県道方向に見る (撮影 2004. 5. 6)
上に栃之瀬小学校跡

   

<県道32号方向>
 分岐から県道方向に50mほど進むと、右手に別の橋が架かる。橋の正面には「実現しよう京柱トンネル」の看板が掛かっている。また、橋の袂には商店などの建物が並ぶ。

   
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県道方向に少し進む (撮影 2015. 5.28)
右手に別の橋が出て来る

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橋の袂の様子 (撮影 2015. 5.28)
「実現しよう京柱トンネル」の看板が見える

   
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「実現しよう京柱トンネル」の看板 (撮影 2004. 5. 6)
土佐(高知県)と阿波(徳島県)を合わせて「土阿」(ドア)と呼んでいる

   
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県道側より分岐を見る (撮影 2004. 5. 6)
左手に新居屋橋と京上トンネル

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分岐の看板 (撮影 2004. 5. 6)
ここにも「京柱峠」の案内

   

<祖谷川橋>
 新居屋橋は谷道川を渡っているが、その少し下流側に架かる橋は本流の祖谷川の方を渡っている。その名も祖谷川橋(いやがわばし、地理院地図)。京上バイパスが完成する前は、こちらが国道であった。京上集落からそのまま祖谷川右岸沿いに下り、この祖谷川橋を渡った先の丁字路で、左に国道、右に県道が分岐していた。

   
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祖谷川橋の左岸側の袂の様子 (撮影 2004. 5. 6)
かつてはここが県道との分岐点

   

 通常、橋の銘板には河川名、橋の名、竣工日が書かれるが、祖谷川橋の場合、「至徳島一二八粁」という道標的な文字も刻まれる。 古いコンクリート製の欄干に描かれているので、橋ができた当初からある物だろう。この橋の袂を起点に徳島市街まで128Kmということだが、現在の国道439号を使うルートでは100Km余りになる。 多分、その間に国道が改修され、距離が短くなったのではないだろうか。

   
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祖谷川橋を京上方向に見る (撮影 2004. 5. 6)
この時は既に国道ではなくなっていた

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祖谷川橋の袂 (撮影 2004. 5. 6)
「至徳島一二八粁」とある
横に立つ木製の看板には「古式そば打ち塾」とある

   

<分岐付近の変遷>
 2004年に訪れた時は、京上バイパスの京上トンネル・新居屋橋は完成していて、祖谷川橋は旧道になっていた。1997年に訪れた時は、京上バイパスはまだ一部が開通しただけで、祖谷川橋はまだ現役の国道であった。橋の袂には分岐を示す看板もしっかり立っていた。

   
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祖谷川橋から分岐方向を見る (撮影 2004. 5. 6)
この時はもう国道ではない

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祖谷川橋から分岐方向を見る (撮影 1997. 9.25)
この時はまだ国道
分岐を示す青色の道路看板もしっかり立つ

   

 それにしても、僅か10数年の間に3回訪れただけだが、その間にこの分岐付近の様子は大きく変わった。その変遷を目の当たりにできたのは偶然で、ある意味ラッキーだったと思う。

   
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かつての分岐の様子 (撮影 1992. 4.27)
付近にはいろいろ看板が立つ

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分岐の看板 (撮影 1992. 4.27)
「東祖谷山村 栃ノ瀬」とある

   

<古い橋>
 1997年に訪れた時、祖谷川橋より更に下流側を望むと、古いコンクリート製の支柱が立っていた。対岸と対になっていて、橋の遺構と思われる。現在の祖谷川橋が架かる以前にあった橋だろう。 今は左岸側の支柱はなくなっているが、右岸側の支柱は残っている模様だ。そう言えば、右岸側では現在の祖谷川橋袂より更に下流側に少し道が伸びていた。下の写真に映る青い屋根の建物の裏手を通る。そこが元のルートだったのだろう。

   
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祖谷川橋より下流側を望む (撮影 1997. 9.25)
古い橋の支柱らしき遺構が見える

   
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栃之瀬小学校へと上がる道 (撮影 2004. 5. 6)

<栃之瀬(余談)>
 この栃之瀬(栃ノ瀬)と呼ばれる地点は、祖谷川を遡って徳島市街方面、祖谷川を下って阿波池田方面、国境を越えて土佐国方面と、道が3方に分かれる交通の要衝と言えるだろう。川を渡る橋も何世代かに分かれて架け替えられて来た。
 
 今になってはただただ想像するばかりだが、この付近一帯の景観は大きく変貌したものと思う。高い擁壁が築かれ、その上に立派な小学校も建設されだ。通りは学童たちの姿で賑わったことだろう。今は京上バイパスも通じ、道は更に良くなったが、かえって寂しい雰囲気が漂う。

   

<看板(余談)>
 祖谷川橋がまだ国道の本線だった頃、橋の袂付近にはいろいろ看板が立っていた。特に「東祖谷山村 観光案内図」と題された看板が大きく目立っていた。東祖谷山村は2006年3月に三好市の一部になるのだが、その前の村の時代の観光案内である。東祖谷山の集落はほぼ祖谷川沿いとその支流・谷道川沿いに多く集中しているのが分かる。

   
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観光案内図の看板 (撮影 1992. 4.27)

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観光案内図の看板 (撮影 1997. 9.25)
地図は下がほぼ北
(下の方がピンボケになってしまった)

   

<笹峠・矢筈峠(余談)>
 看板の京柱峠方面を見ると、谷道川沿いを遡った所に「谷道」(地理院地図)という集落が見られ、更に手前で分かれて笹峠(ささとうげ)を越えた先が「至高知県物部村」となっている(下の写真)。位置関係からしてその峠は矢筈峠(やはずとうげ、地理院地図)と同一ではないかと思う。物部村(現香美市物部町)側に笹という地名がある。一方、物部村側から西の大豊町に越す笹越(地理院地図)という峠も存在するようだ。

   
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観光案内図の一部 (撮影 1997. 9.25)
「笹峠」とある

   
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新しい看板 (撮影 2004. 5. 6)
「東祖谷山村観光案内MAP」
地図は下が北

 2004年に訪れた時は、村の観光案内看板は新しくなっていた。一般の観光向けには見易くなっていたが、以前の看板には集落名や村道名まで記されていて、とても参考になった。勿論、新しい看板に笹峠の記載は省かれている。

   

<県道32号(余談)>
 祖谷川橋の袂を出発した県道(主要地方道)32号は、商店やバス待合所・公衆トイレの前を過ぎ、その先で直ぐに狭い道になる。国道439号は険しい道で知られるが、こちらの県道の方もそれ程いい道ではない。 それでも、旧東祖谷山村の中心地方面から外界に出るには、その祖谷川沿いに下るルートが峠越えなしで行ける最も主要な車道と言える。 ところが、多分1993年5月に矢筈峠を越えて来た時のことだったと思うが、県道32号は通行止になっていた。 こうなると、京柱峠以外に東祖谷山の地から抜け出すには、遥か見ノ越まで登るか、落合峠小島峠、矢筈峠を使うしかない。それを考えると、ここが山深い地であることを痛感する。

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県道32号方向を見る (撮影 2004. 5. 6)
公衆トイレなどの前を過ぎる
その先狭い道

   
   
   

徳島県側から峠へ

   
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京柱峠方面の道路看板 (撮影 1997. 9.25)
どういう訳か曲がっていた

 考えてみると、ここまで峠道へはまだ一歩も足を踏み出していなかった。殆ど余談であった。
 
<新居屋集落付近>
 新居屋橋の袂を発ち、谷道川左岸沿いに旧小学校のある高台を回り込むと、その先で新居屋の集落内に入って行く。道は一気に狭くなる。集落手前に京柱峠方面の道路看板や通行規制の看板などが立ち並ぶ。 ここから峠まで14Km程度の道程とそれ程長くはないのだが、早くも不安を感じさせる。これが寂しい林道なら、対向車など滅多にないので、車一台が通れるだけの道幅でも何ら問題はない。 しかし、この道は仮にも国道である。対向車がやって来た時のことを考えると、恐怖しかない。

   
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この先、新居屋の集落内 (撮影 2004. 5. 6)
道は一気に狭い
道路看板は「阿佐・平家屋敷」への分岐があることを示している

   

<余談>
 ただ、私はこれまで3回の京柱越えで、道の狭さに苦労したという覚えはほとんどない。いつも運転するのはジムニーやパジェロ・ミニという軽自動車であった。これ以上小さな車はまずないのだ。 車道でさえあれば、狭くて通行不能ということはない。それに、長年険しい林道などを経験してきているので、マニュアル車のジムニーでさえ自分の手足の様に自由に扱えていた。対向車が来ても、何とでもなるという自信があった。
 
 しかし、3回目の時は後に妻となる連れの運転であった。助手席の私は写真係だ。写真を撮るのに夢中で、道の狭さなど尚更気になど留めない。妻はあの長くて険しい山伏峠なども運転したことがある。私の趣味に引っ張り回され、女性としては難路の経験値は非常に高い。それでも京柱峠では道の狭さに苦労したと今でもこぼしている。

   

<山間部集落への分岐>
 道は人家の軒先をかすめるようにして進む。こうして川沿いに集落が立地するが、谷の斜面を少し登った所にも集落が点在する。そうした所にかえって平地が多い。谷道川対岸(右岸)の斜面にも麦生土(むじゅうと)、阿佐(あさ)、古味(こみ)といった集落がある。
 
<阿佐>
 新居屋の集落内から麦生土を経由して阿佐へと至る道の分岐があることは、道路看板にも示されている。阿佐には阿佐家・平家屋敷があるようだ。「阿佐」という地名はこの祖谷山の地域では古い。 阿佐家は平国盛の子孫と伝わる。
 
 そうした集落へも寄り道すると面白い峠の旅になるのだが、いちいち脇道にそれていては、なかなか先へ進めない。 2004年5月に訪れた時は、美馬町から走って見ノ越に至り、剣山登山をした後、二重かずら橋を見学し、野猿を体験し、その後に京柱峠を目指した。寄り道などする余裕はなかった。

   

<小川の石柱>
 新居屋の次は小川(おがわ)の集落になる。 その小川に入る手前の道の両側に、大きな一対の石柱が立つ箇所がある(地理院地図)。 ただでさえ狭い道を更に狭くするような存在だ。対向車も気になるので残念ながら写真を撮り損なったが、その石柱が何でも京柱峠と関係しているとか、ないとか・・・。妻が何かのテレビで見た覚えがあると言う。 京柱峠の名の「柱」の由来に繋がる石柱かもしれないのだ。ただ、石柱に何と書かれていたか分からないし、今のところ何の手掛かりもない。
 
 最近、古事記を少し読む機会があった。神を数える場合「柱」を使うとのこと。京柱の「柱」は神に関係するのだろうか。
 
<古味分岐>
 小川内では古味(こみ)への分岐がある(下の写真、地理院地図)。分岐の角に立つ案内看板には、京柱峠方面に「笹峠」の文字も並んでいた。笹峠(矢筈峠)を越える林道など全く一般向けではないのに、面白いことだと思う。東祖谷山ではそんな峠道も重要な交通路なのであろう。

   
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小川の集落内 (撮影 2004. 5. 6)
左に古味への分岐
見難いが、分岐の角に看板が立つ

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分岐の看板 (撮影 2004. 5. 6)
左「古味」、右「京柱峠、笹峠」とあった

   

<谷道川支流沿いへ>
 小川集落内を進む内、道は谷道川からその支流の川沿いへと移って行く。その川の名前は調べ切れなかあった。ここでは「道谷川支流」と呼んでおく。 京柱峠の方から流れ下るのは「わらび谷」と呼ぶそうで、その本流に当たる。やがて道はその谷道川支流の川筋を少し離れ、左岸の斜面を登り始める。問題の急カーブの蛇行が始まる。

   

<樫尾>
 境谷という支流を小川橋(地理院地図)で越えると、樫尾(かしお)集落だ。小川との集落の境になっているので、「境谷」という名になっているものと思う。
 
 京柱峠の道の徳島県側では、この樫尾が最も大きな集落だと思う。谷道川支流左岸の斜面の広範囲に人家が点在する。国道はその集落内を蛇行しながら高度を上げて行く。
 
 初めて京柱峠を目指した時、途中で不安になってジムニーを引き返した。どう考えてもこれが国道とは思えなかったからだ。集落内では本筋の国道以外に、細かな道がいろいろな方向に分岐して行く。 縮尺の粗いツーリングマップなどでは、そんな道は一切描かれていない。多分、どこかの分岐で間違え、枝道に迷い込んだものと思ったのだ。こんな時、ジムニーの運転はお手の物である。 道路脇のちょっとしたスペースを見付け、難なく転回して道を下った。しかし、この道以外は更に狭い道ばかりである。やっぱりとこれが本線の国道だろうということになり、また転回して集落内を登ったのだった。

   

<樫尾の看板>
 樫尾に入って暫く進むと、樫尾集落を案内した看板が道路脇に掲げてあった(地理院地図)。国道より更に上部へと幾筋か道が伸び、その先のあちこちに人家が点在するのが分かる。
 
<峠への別ルート>
 注目すべきは、集落最上部に通じる農道の先に「京柱」とあることだ。以前のツーリングマップ(ル)には描かれていなかったが、最近の道路地図には辛うじてその道が載っている。京柱峠へと続く別のルートができたようだ。一度走ってみたかった。

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樫尾集落の案内看板 (撮影 2004. 5. 6)

   

<工事箇所>
 道が狭いのはどうにかなるのだが、偶然出会う工事箇所は避けようがない。特に集落内では家の立て直しなどで道が塞がってしまう。元々1車線幅しかないのだから、工事車両が一台停まればそれでもう一杯だ。
 
 2004年に訪れた時、樫尾集落内の国道の直ぐ脇で建物の改築工事が行なわれていた(下の写真、地理院地図)。 一台の小型トラックが停まり、荷物の上げ下ろしをしているようだった。これが地元住民なら、何らかの抜け道を知っているのかもしれない。 しかし、この土地に不案内な一般の通行車では、下手に脇道に入るとどうなるか分かったもではない。そこで、工事箇所の充分手前で辛抱強く工事の進捗状況を見守ることにした。通行するのも大変だが、工事を行う側も大変だ。暫くすると、トラックを少し移動して脇によけてくれた。その横をぎりぎりにすり抜けた。

   
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樫尾で工事が行われていた (撮影 2004. 5. 6)
容易には通り抜けることはできない

   

<集落を抜ける>
 間もなく国道沿いから人家の姿が見えなくなる(地理院地図)。振り返ると谷間の斜面に佇む樫尾集落の姿が一望できた(下の写真)。気が付くと谷の高度も随分上げて来ていた。今後、峠を越えて高知県側に下るまで、沿道に人家はほぼ皆無である。

   
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樫尾集落を望む (撮影 1997. 9.25)

   
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工事箇所 (撮影 1997. 9.25)
樫尾集落の直後

<工事箇所(余談)>
 1997年に訪れた時は、2回目の京柱峠だったので、狭い集落内も慣れたものだ。不安になって引き返すこともなく、無事に通り過ぎた。ところが、人家が絶えたその先で、工事箇所が待っていた(左の写真、地理院地図)。暫く待たされることになり、車を降りて手持ち草たに付近を歩き回った。ついでに上の樫尾集落の写真を撮ったりした。峠の旅はのんびり行くしかない。

   

<谷道川支流沿いへ>
 国道は一路、峠より下って来るわらび谷の上流方向に進むが、一旦わらび谷を渡ると(地理院地図)、今度は元の谷道川支流沿いへと戻り、更にその右岸に渡ってしまう(地理院地図)。この付近、道はかなり複雑な経路を取っている。峠直下のわらび谷沿いの地形が急峻な為、大きく迂回しているようだ。この前後の区間、集落も過ぎて落ち着いた雰囲気だが、谷の間を行き来するので、殆ど視界は広がらない。林に囲まれ、暗い道だ。

   

<矢筈峠分岐>
 谷道川支流右岸に入って暫く登ると、この峠道の徳島県側最大の分岐が現れる(地理院地図)。矢筈峠を越えて高知県に至る峠道の分岐だ。前述のように、矢筈峠は笹峠とも呼ばれるらしい。
 
<祖谷山林道>
 国道から分岐する道は祖谷山林道(途中まで林道樫尾阿佐線?)で、本流の谷道川左岸沿いに最上流の集落・谷道(地理院地図)方面にまで通じる。その途中、谷道の少し手前から祖谷山林道笹谷線(笹谷林道)が分岐し、県境の矢筈峠(笹峠)から下る笹谷沿いに峠にまで至る。

   
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矢筈峠分岐 (撮影 1997. 9.25)
道路看板が立つ

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道路看板 (撮影 1997. 9.25)
この時、分岐の行先は書いてなかった

   

<林道の通行状況>
 矢筈峠は1993年5月に高知県側から越えて来たことがあった。1997年9月に京柱峠を目指していた時も、祖谷山林道は開いていた。ただ、入口に「大型車通行止」とは出ていた。2004年5月の時点も祖谷山林道は無事なようだった。
 
 いつかまた走ってみたいと思っている内、最近はこの徳島県側の入口は通行止となってしまったようだ。高知県側からならどうなのだろうか。

   
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祖谷山林道の様子 (撮影 1997. 9.25)
「大型車通行止」とはある

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祖谷山林道の様子 (撮影 2004. 5. 6)
この時も林道は通れそうだった

   

<大土地>
 祖谷山林道の分岐に立つ道路看板の林道方向には、通常は何も書かれていない。しかし、一時期、「大土地」(おおとち)となっていたことがあった(下の写真)。 最初は矢筈峠を越えた高知県側の香美市物部町(旧香美郡物部村)に、その地名があるのかと思っていた。しかし、今回調べてみても、そのような名は全く見当たらない。「大土地」とはありそうでなかなかない地名だった。
 
<大栃(余談)>
 矢筈峠を越えた先は旧物部村の笹(ささ)である。この「笹」が笹峠の由来であろう。笹の地からは笹川が流れ下り、上韮生川(かみにろうがわ)に注ぎ、更に下って太平洋側の水系を成す物部川(ものべがわ)に合流する。その合流点に大栃(地理院地図)があることなどは白髪峠のページで記した。大栃は道の大きな分岐点でもある。「大土地」と似ているではないか。残念ながら物部町のこの大栃は「おおどち」と読むのが本来だそうだ。ただ、古くは「大とちの村」とも呼ばれていた。それでもやはり考え過ぎだろう。
 
<古味の地>
 祖谷山林道の先の谷道川上流部は、住所では祖谷山古味(こみ)になるようだ。その中に谷道があり、もう一つ「オコヤトコ」(地理院地図)という地名も見られる。多分、「大土地」も谷道川上流域にあるそうした地名の一つではないだろうか。
 
 古いツーリングマップには谷道にもオコヤトコにも建物の地図記号が記されていた。古くは祖谷山林道を登ったずっと先に家を建て、人が暮らしていたことがあったのだろう。当然ながら今は無住の地だ。

   
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分岐の道路看板 (撮影 2004. 5. 6)

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分岐の道路看板 (撮影 2004. 5. 6)
行先は「大土地」となっている

   

<京柱峠と矢筈峠>
 矢筈峠は谷道川の源流ではないが、その支流の笹谷の源頭部に位置する。一方、京柱峠は谷道川支流の更にその支流・わらび谷の源頭部だ。 地形的に見ると矢筈峠の方がより谷道川源流に近く、よって谷道川沿いは矢筈峠の範疇と言える。京柱峠の方は谷道川支流が分かれる小川から樫尾を通って峠までの範囲になる。これまで谷道川が本流の祖谷川の注ぐ新居屋(栃之瀬)が京柱峠の起点と言ってきたが、どうも怪しくなってきた。
 
 また、京柱峠の標高は約1,130mだが、矢筈峠は1,250m以上と高い。更に京柱峠は峠のどちら側も吉野川水系だが、矢筈峠は吉野川水系と物部川水系の分水嶺に立つ。峠としての格は矢筈峠に軍配が上がる。
 
 但し、道としては国道の京柱峠と、通行止が多い林道の矢筈峠では比較にならない。ここは矢筈峠はひとまず棚に置くことにしよう。

   

<矢筈峠分岐以降>
 矢筈峠分岐を過ぎると、増々寂しい雰囲気だ。人の気配が薄れて行く。道も林道の様に寂れている。

   
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道の様子 (撮影 2004. 5. 6)
林道とあまり変わりない

   

<樫尾集落の眺め>
 道が谷道川支流の上流方向に向いて暫く行くと、一か所だけ谷側の林が切れて開けた地点を過ぎる(地理院地図)。 車道からだと景色は眺められないので、ちょっと広がった路肩に車を停め、谷に近付くといい。谷道川支流を挟んだ対岸に、大きく広がる樫尾集落が手に取るように眺められる(下の写真)。京柱峠は峠からの眺めはいいが、道の途中からではあまり視界が広がらない。その点でこの場所は特等席だ。

   
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樫尾集落の様子 (撮影 1992. 4.27)
標高700m以上の高地に人家が点在する
その眺めは壮観だ 

   

 ただ、峠道は時が経つに従って変化して行く。しかも、草木が成長し、視界は悪くなる方向だ。同じ場所でいつまでもいい景色が眺められるとは限らない。2004年に訪れた時は、谷道川支流を回り込む直前辺りで(地理院地図)、車道から樫尾集落方向が見通せる箇所があったと思う(下の写真)。しかし、今頃はもう林に遮られていることだろう。

   
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一瞬、樫尾集落方向が望めた (撮影 2004. 5. 6)

   
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工事箇所を過ぎる (撮影 2004. 5. 6)
今頃は立派な擁壁ができていることだろう

<わらび谷右岸>
 道は谷道川支流を左岸に渡り返し(地理院地図)、やっと峠直下に下るわらび谷沿いへと戻って行く。概ね道は峠方向に向いている。
 
 工事箇所を過ぎた(地理院地図)。 法面工事のようだ。こうした峠道の保守は欠かせない。林道の峠道などは、その費用対効果が悪いこともあってか、保守が行われず長い間通行止、遂には廃道の憂き目に遭うケースが少なくない。祖谷山林道も再び通れる日が来るのだろうか。その点、こちらは国道である。心配無用だ。

   

<峠直下の大きな蛇行>
 道はわらび谷の源流部を横切って行く(地理院地図)。もう峠まで直線距離で500m程の近さだが、道程はまだ4Km近く残す。この峠直下は急傾斜の険しい地形だ。道は大きく北へ蛇行し、峠を目の前に足踏みをするようだ。
 
<農道合流>
 途中、樫尾集落上部に通じる農道が合流していたようだ(地理院地図)。こんな所に通り抜けできる道が接続しているなどとは全く思ってもみない。単なる林業用の行止りの作業道くらいに思っていて、全く気にも留めていなかった。
 
<とんば>
 実際にも農道が接続した100程先で、林業専用道・阿佐尻線が分岐する(地理院地図)。林道名は阿佐尻山(あさじりやま、地理院地図)に因むのだろう。この付近、峠が通じる稜線が見渡せる。近くに国道標識が立っていた(下の写真)。「東祖谷山村 とんば」とある。住所としてはこの付近一帯が東祖谷樫尾であろうが、その中にある小さな地名なのだろう。
 
 現在は車道を通す為にこうして大きく蛇行するが、歩いて峠を越えていた時代、峠道はもっと距離の短いルートを取っていた筈だ。 しかし、こうしてここに地名が残るということは、古くからこの地に人が訪れていたことを示す。もしかしたら、樫尾の集落から現在の農道に近いルートで京柱峠に至る一つの峠道があり、「とんば」はその通過点だったかもしれない。しかし、樫尾からわらび谷左岸沿いに峠直下まで通じる徒歩道があったようで(地理院地図)、それが本来の峠道だろう。

   
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国道標識 (撮影 2004. 5. 6)
奥に峠がある稜線を見通す

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国道標識 (撮影 2004. 5. 6)
「東祖谷山村 とんば」とある

   
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峠の稜線を望む看板 (撮影 2004. 5. 6)
左から1/3くらいの所に峠が通じる

<峠の稜線>
 峠が通じる県境の峰を望むと、峠左右の稜線はほとんど水平だ。通常、峠は峰の最も低い鞍部に通すが、この付近は目立って低い鞍部が存在しない。 多分、車道を通す為に僅かに稜線を削ったのだろう、そのちょっとした切れ込みような部分に峠が通じる。しかし、この切通しが極端に浅いという特徴が、京柱峠からの眺望を良くしている要因になっているように思う。

   

<九度折れざこ>
 国道はいい加減北に遠回りしてからやっと峠方向に向きを変える。その直前辺りに国道標識が立ち(地理院地図)、今度は「九度折れざこ」とある(下の写真)。「九度折れ」などというのは如何にも峠道に関係したような名だ。前の「とんば」とかこの「ざこ」の意味が分かるといいのだが。

   
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国道標識 (撮影 2004. 5. 6)
この先左カーブで峠方向に向く

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国道標識 (撮影 2004. 5. 6)
「九度折れざこ」とある

   
   
   

   

<峠の様子>
 道は稜線にほぼ並行するように走るようになり、遂に鋭角に稜線を越える。そこが峠だ。切通しとしては極めて浅い。そこを通り抜けると前面に大きく高知県が広がる。

   
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京柱峠から高知県側を見る (撮影 2004. 5. 6)
この時はまだ「峠の茶屋」が営業していた 

   
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京柱峠から高知県側を見る(再掲) (撮影 1992. 4.27)
今から32年前の峠の様子
この時はまだ峠の茶屋はない
看板類も少なく、さっぱりした峠だった

   

<峠の写真(余談)>
 京柱峠を写真に撮ろうとすると、なかなかいいアングルがなくて困る。はっきりした切り通しの峠だと、それなりに峠らしく写せるのだが、京柱峠ではそれが叶わない。

   
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高知県側から見る京柱峠 (撮影 2004. 5. 6)

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高知県側から見る京柱峠 (撮影 2004. 5. 6)
ちょっと見る角度が違う

   
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高知県側から見る京柱峠 (撮影 1997. 9.25)
徳島県側はまだ東祖谷山村
この写真が一番峠らしく見える

   

<県境看板>
 ただ、高知県側から見ると、道の上部に県境の看板が掲げられている。「徳島県 祖谷山村」とあった。現在では「三好市」になっていることだろう。その様子が一番峠らしい。面白いことに、高知県側の県境看板はなかったように思う。

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県境の看板 (撮影 1997. 9.25)

   
   
   

峠の徳島県側の様子

   

<道の様子>
 峠から徳島県側に下る道は、沿道の木々が生い茂り、殆ど視界がない。以前はもっと開放的だったと思うのだが、それだけ時が経ったのだろうか。多分、ここに車道が開通した当時は、素晴らしい景観が広がっていた筈だ。

   
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峠から徳島県側に下る道 (撮影 2004. 5. 6)
沿道には木々が茂る

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峠から徳島県側に下る道の様子 (撮影 1992. 4.27)
まだ開けた雰囲気

   

<眺め>
 但し、今でも一か所だけ視界が確保されている箇所がある。峠の直ぐ脇で、右の写真のパジェロ・ミニが停まる場所だ。ここもほって置けば木々が成長し、視界を遮ってしまうことだろう。そこを、徳島県側の展望所として、時折草木が切り払われているものと思う。
 
 その場所からはほぼ真東に遠望がある。京柱峠より東方に続く四国山地(剣山山地)の稜線も望める。奥に見える三角の特徴がある山は天狗塚(1812m)だと思う。

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この箇所だけ視界が広がる (撮影 2004. 5. 6)

   
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徳島県側の遠望 (撮影 2004. 5. 6)
右奥の三角形の山は天狗塚?

   

<林道分岐>
 峠の徳島県側では、展望箇所の横に続いて稜線沿いに一本の林道が分岐する。多分、林道京柱線と呼ばれる道と思う。地図上では矢筈峠から下って来た笹谷林道に途中で接続している(地理院地図)。

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峠から分岐する林道 (撮影 1997. 9.25)
かなり草木が茂っている
ガスってもいたが

   
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峠から分岐する林道 (撮影 1992. 4.27)
上の写真とほぼ同じ場所
周辺は今より見晴らしが良かった

   

<登山口の看板>
 林道入口には「登山口 小桧曽山 経由 矢筈山」と登山案内の看板が立つ(下の写真)。林道京柱線から分かれ、県境の稜線上に登山道が続いている。 矢筈山は矢筈峠の名の由来になったと思われる山で、土佐矢筈山(とさやはずやま)とも呼ばれる。矢筈峠より京柱峠がある北北西方向に稜線上を1.3Km程行った所にある(標高1607m、地理院地図)。
 
 また、小桧曽山(小檜曽山、こびそやま、1525m)とは、京柱峠と矢筈山の中間地点くらいに位置する(地理院地図)。看板には「経由」と書いてはあるが、小桧曽山のピークは主脈を少しそれた所にあるようだ。

   
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林道方向の看板 (撮影 2004. 5. 6)

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看板は登山口の案内 (撮影 2004. 5. 6)

   

<看板類>
 峠に立つ看板はいろいろ変化していくだろうが、県境看板などを含め、概ね徳島県側に看板が多いように思う。

   

<道路情報案内板>
 実用的なのは「道路情報案内板」の看板だ。徳島県側展望箇所の左並びに立つ。通行規制によっては、峠を下った祖谷山の地から抜け出す経路を見直さなければならない。重要な看板だ。以前はこれはなかったように思う。京柱峠の道に関しては、新居屋まだ距離が14Kmであることくらいの情報しかない。

   
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道路情報案内板 (撮影 2004. 5. 6)

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道路情報案内板 (撮影 1997. 9.25)
この時は規制箇所があった

   
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道路情報案内板 (撮影 2004. 5. 6)
この時は規制なし

   

<大豊町 観光案内図>
 林道京柱線との分岐の角に、徳島県側方向に向く大豊町の観光案内図の看板がある。余り広範囲なので、かえって参考にならない。

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大豊町 観光案内図 (撮影 2004. 5. 6)

   

<徳島県側の眺望>
 やはり何といっても京柱峠の特徴はその眺望だ。28mmの広角レンズを使っても一度に収まり切れない大きな視界が広がる。写真を何枚もつなぎ合わせてパノラマ写真にしてみるのだが、なかなかうまく行かない。やはりその迫力は肉眼で見なければならないようだ。

   
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徳島県側の眺望 (撮影 1992. 4.27)
現在より開けた雰囲気

   
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徳島県側の眺望 (撮影 2004. 5. 6)

   

 1992年に訪れた時は天候にも恵まれ、いい景色を堪能できた。それに今より峠周囲の草木が少なく、より視界が開けていたように思う。また、訪れた時の季節や天候にも左右される。2度目の1997年9月に訪れた時は、ガスが掛かっていて、視界が悪かった。しかし、それも一興だ。
 
 見渡す谷の中には樫尾集落の一部も見える(下の写真)。国道が至っていないわらび谷左岸に位置する人家のようだ。 

   
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樫尾集落の遠望 (撮影 1992. 4.27)

   
   
   
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樫尾集落の遠望  (撮影 2004. 5. 6)

   
   

高知県側の峠の様子

   
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峠より高知県側に下る道 (撮影 2004. 5. 6)

<峠の高知県側>
 高知県側は峠から一気に急斜面が切れ落ちていることもあり、あまり草木に遮られる心配がない。視界はいつも良好だ。どこからでも景色が眺められる。

   

<京柱峠の看板>
 京柱峠を一番象徴しているのは、「京柱峠」と書かれた看板だろう。高知県側の見晴しがいい位置にすっくと立っている。なかなか特徴がある看板だ。以前からあったようで、京柱峠の紹介では必ずと言っていい程、この看板が登場する。

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京柱峠の看板 (撮影 1992. 4.27)

   
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京柱峠の看板 (撮影 1997. 9.25)
この時は看板の背後はガスっていた

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京柱峠の看板 (撮影 2004. 5. 6)

   
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西峯中学校による看板 (撮影 1997. 9.25)
西峯地区の案内図

<西峯の看板>
 峠の看板の下の方には、「土佐の國 ようこそ大豊町へ 西峯青年会」とあるが、更にその下に西峯中学校による看板が掛かる(左の写真)。 西峯地区の案内マップだ。1992年に訪れた時は既にあった。2004年に訪れた時も変わらずあったが、やや錆が増えたようだった。看板はこうして劣化していくのは仕方がない。いつまで耐えられるだろうか。

   
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やや錆が増えた (撮影 2004. 5. 6)

   
   
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峠の茶屋 (撮影 2004. 5. 6)
この時は営業中
店のご主人は店内にいた

<峠の茶屋>
 1992年に訪れた時は、峠の高知県側も殆ど何もなくさっぱりしたものだった。それが1997年に訪れてみると、一軒の飲食店が出現していた。「峠の茶屋」という訳だ。高知県側を見渡す崖の縁に立っている。 最近でこそ、旅先ではその地の名産などを積極的に買ったり食べたりしているが、以前は土産物屋に入ることさえ滅多になかった。この峠の茶屋にもほとんど関心が向かなかった。
 
 2004年に訪れた時はもう午後4半で、峠には私たち二人だけだった。遅い昼食を食べたばかりなので、尚更飲食には関心がない。峠をうろうろしていると、店から男性が一人出てきた。 こちらをちらちら見ていたが、どうも私たちが客にはなりそうもないと判断したようで、店を閉めると白いジムニーに乗って高知県側に下って行った。
 
 後で考えると、うどんの一杯も食べておけばよかったと、妻とも話す。峠に関して地元民しか知らないようなことが聞けたかもしれない。もうその峠の茶屋はないようだ。残念なことをした。

   
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まだ茶屋はない (撮影 1992. 4.27)

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峠の茶屋ができた (撮影 2004. 5. 6)
しかし、今はまたなくなったそうだ

   

<高知県側の眺望>
 徳島県側同様、高知県側も眺めはいい。不慣れなフォトレタッチソフトで写真をくっつけ、パノラマ写真にしてみたものの、その迫力は全く伝わらない(下の写真)。 繰り返すようだが、こうして峠の両側にこれだけの眺望がある峠というのは珍しい。ただ、後で写真を眺めていると、どちら側の景色だったか分からなくなってくる時もある。

   
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高知県側の眺望 (撮影 1992. 4.27)

   
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高知県側の眺望 (撮影 1997. 9.25)
この時は南小川の谷に霧が立ち込め、西峯の集落は霧の下だった

   
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高知県側の眺望 (撮影 2004. 5. 6)

   
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西峯の遠望 (撮影 2004. 5. 6)
沖集落が見えている
国道はその中に蛇行して通じる
なかなか険しい

   

<峠の標高>
 文献(角川日本地名大辞典)では、峠の標高を1,150mとか1,156mと記している。現在の地理院地図ではほぼ1,130mの地点を国道は通過している。 ツーリングマップル等の一般の道路地図では1,120mとか1,130mという数値が見られた。総じて文献の値は現状より20mくらい高い。
 
 標高はしばしば測定し直されたりするので、多分文献の数値が異なるのは単に古いからだと思う。 尚、私が訪れた時はなかったが、最近は峠に標高を書いた看板が立っているようで、それによると1,133mだそうだ。

   

<旧峠>
 ただ、文献には「現在、旧峠付近を国道439号が通っている」という、ちょっと気に掛かる一文もある。「付近」というのがどうにも不安にさせる。 もしかすると、文献が示す標高は旧峠のことであろうか。
 
 現在の国道の峠は、比較的忠実に稜線の鞍部を越えている。峠の立地としては最も妥当な場所だ。また、樫尾側の峠直下に流れる「わらび谷」の川筋から、ほぼ最短で直登した位置でもある。 車道の方は大きく北の「とんば」や「九度折れざこ」方面を迂回しているが、川筋やその付近から徒歩の峠道が通じていたと考えた場合、峠の位置として何ら疑問を感じさせない。
 
 それでも一抹の不安は残る。現在京柱峠だと信じ込んでいる峠が、実は車道開通により新しくできた峠で、本来の京柱峠はもっと別の所にあったとしたら・・・。
 
 そんな目でつらつら地理院地図を眺めていると、現在の位置より400m程北にある小さな鞍部あたりが怪しいと思えて来る。 峠の西峯側の最初の集落・沖は、南小川右岸の比較的高い箇所に位置する。その小さな鞍部の方が沖集落に近い。
 
 また、樫尾側も必ずしも旧道が川筋に通じていたとは限らない。現在の国道は樫尾側から小さな鞍部の直ぐ近くまで登ると、そこからほぼ稜線に並行して進み、現峠に至っている。 その並行部分は徒歩道としては明らかに不自然だ。元の峠道は、稜線沿いに移動することなく、直ぐに稜線を越えていたのではないだろうか。 それに何しろ、その小さな鞍部の標高は約1,158mである。文献の数値とほぼ一致する。
 
 妄想は深まるばかりだが、何ら確たる証拠がない。旧峠の位置は、今となっては知る手掛かりがない。

   

<車道の開通>
 では、京柱峠に現在の車道が通じたのはいつ頃のことだろうか。残念ながら正確な時期は分からなかった。ただ、幾つかの手掛かりはある。
 
 矢筈峠のページでも記したことだが、東祖谷山村は険しい峡谷を成す祖谷川の上流部に立地する。その谷間に点在する集落間を繋ぐ道の開発は急務であった。 特に昭和期に入ってからは林道の開発が望まれた。 そんな中、文献によると祖谷川本流沿いの新居屋(にいや)から支流の谷道川沿いに小川(おがわ)まで、初めて開削された林道が「祖谷山林道」と呼ばれたそうだ。 昭和11年(1936年)着工、昭和29年(1954年)竣工とのこと。当然ながら小川から先、樫尾(かしお)を経て峠まで車道が通じたのは、昭和29年以降ということになる。 余りにも最近のことで、ちょっと信じがたいが・・・。
 
 現在、国道439号から分かれて谷道方面に至る林道部分が祖谷山林道と呼ばれる。この道は、新居屋を起点とした初期の祖谷山林道が延長された時の、名残なのかもしれない。

   

<県道東祖谷大杉停車場線>
 一方、高知県側に目を転ずると、「県道東祖谷大杉停車場線」の存在が気になる。この道のことは後述のある看板で知った。 今回調べてみると、この県道は旧東祖谷山村新居屋から大豊町中村大王の土讃線大杉駅(地理院地図)に至る道で、昭和34年(1959年)1月31日に県道に認定されたそうだ。前述の初期の祖谷山林道の区間を含んでいる。
 
 少なくとも、この県道の開通と同時かその直前に京柱峠に車道が通じたことになる。昭和34年(1959年)以前ということが結論と言える。

   
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稜線の尾根より脇水が出ている (撮影 2004. 5. 6)
近くに給水タンクらしき物が設置されている
(話題とは関係なし)

<国道昇格>
 県道東祖谷大杉停車場線を含んだ区間は、昭和57年4月1日に国道439号へと昇格している。
 
 国道を東に目を転じると、見ノ越隧道とその先に川井隧道(地理院地図)が通じる。 それらのトンネルは共に昭和41年(1966年)の完成である。トンネルが抜けたことで、それらの峠に初めて車道が通じたものと思う。それに比べると、京柱峠の車道開通は7年ほど早いことになる。旧東祖谷山村は徳島県だが、徳島市街方面より高知市街の方へ先に車道が開かれた訳だ。
 
<冬期通行止>
 現在の国道439号の京柱峠は冬期通行止になる。調べてみると、通行止区間は峠から大豊町側の沖集落まで、延長3.6Kmだそうだ。この区間、地形が急峻である。

   
   
   

峠から高知県側に下る

   

<大豊町西峯>
 京柱峠の高知県側は32年前に初めて訪れた時と同じ、長岡郡(ながおかぐん)大豊町(おおとよちょう)西峯(にしみね)で変わりない。 江戸期からの西峯村、大豊町の中では最も東に位置し、吉野川支流・南小川(みなみおがわ)の源流域に位置する。矢筈峠(笹峠)などとは異なり、峠を越えてもまだ吉野川水系に居る。 国道439号ではこの先更に進んで郷ノ峰峠を越えて初めて、太平洋側の仁淀川水系に出る。峠から南小川が吉野川に注ぐ地点までの道程は、19Km弱だ。
 
 道が下る斜面の傾斜は徳島県側より更に急で、そこを九十九折りで降下する。峠周辺は放牧場が開発され、多分その為に木々が切り払われたのであろう、峠直下で暫し開けた区間を過ぎる。

   

<対向車>
 初めて峠を越えた時、ふと前方より異常にノロノロ登って来る車が見えた。どう考えてもこの道には不似合いな黄色いスポーツタイプの乗用車だ。いよいよその車と離合する段を迎える。道は狭い。 登り優先ということもあり、こちらのジムニーを僅かな路肩にぎりぎりに寄せて待つ。こんな時もジムニーの運転に何の不安もない。
 
 すれ違いざま、その車は真横に停まった。運転席同士が至近に隣り合う。見ると、若い女性ドライバーが一人乗っているだけだ。「この道は徳島県に越えられますか」と聞いてきる。確かに越えられることは間違いない。 手短に「そうです」とだけ答えた。その女性はまだ何か言いたげで、訴え掛けるような眼差しでこちらを見ている。しかし、結局礼を言うと、意を決したようにまたノロノロ走り出した。
 
 かわいそうに、普通の国道だと思って走って来たのだろう。そうしたら、とんでもない道だった。西峰の狭く屈曲した区間で散々苦労し、怖い思いをしながらここまで登って来たようだ。 しかし、これは単なる「序章」に過ぎない。この先、峠を越えた徳島県側には更に厳しい「酷道」が果てしもなく続くことを、彼女はまだ知る由(よし)もなかった。ご健闘を祈るばかりである。
 
 同じ女性同士の妻も怖い思いをしたのかも知れない。しかし、同じ黄色でもこちらは小さな軽のパジェロ・ミニであった。また、私という同伴者も居る。少なくとも京柱峠は、若い女性が一人で普通乗用車を運転する道ではない事だけは確かだ。

   

<沖集落>
 峠を3〜4Kmも下ると高知県側最初の集落・沖(おき)に至る。峠からも望めたように、10戸程の人家が急傾斜に点在する。一部に段々畑も見られる。国道はその人家の間を抜けながら九十九折りで下る。 道が峠方向に向くと、峰の稜線が一望になる(下の写真)。 

   
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沖集落より峠を望む (撮影 2004. 5. 6)
中央の少しへこんだ所が峠

   

<南小川沿いの集落>
 集落は南小川の右岸に多く、沖に続いて大畑井(おおばたい)、久生野(くおうの、くおの)、土居番(どいばん、土居とも)、野々屋(ののや)などがあり、左岸には蔭(かげ)という集落が見える。 中世の西峯名(みょう)のヲキ村、大ハタノ井村、クワウノ村、野々屋村、カケ村に相当する集落であろう。(土居番は見られない)

   

<久生野>
 西峯の中では久生野が一番大きな集落だと思う。峠から7Km余りでその集落内に入る(右の写真、地理院地図)。
 
 こうした山間部でも車道が通じたのは意外と早いそうだ。明治33年(1900年)に「郡道安野々久生野線」が完成したと文献にある。 大豊町安野々(やすのの)は吉野川沿いに通じる国道32号線上に位置する(地理院地図)。 この郡道安野々久生野線が現在の南小川沿いに通じる国道439号の大元になるようだ。 旧東祖谷山村側では祖谷山林道の竣工が昭和29年であることに比べると、ずっと早い。旧東祖谷山村側は徳島県の中で最も奥深く、徳島市街からも遠い地にある。一方、西峯は比較的高知市街から近い。そんなことも車道開通時期に関係するのではないか。

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久生野集落に入る (撮影 2004. 5. 6)
比較的多くの人家が点在する

   

<西峯の中心地>
 早くに車道が通じた久生野には、郵便局やかつては小・中学校もあり、西峯の中心地であるようだった。特に峠から約10Kmで国道標識や「ようこそ西峯へ」の看板、対岸の陰集落へ至る分岐などがある地点に着く(下の写真、地理院地図)。
 
 ここが正に西峯の中心地と思えた。しかし、国道沿いに車をゆったり停められるようなスペースは皆無だ。相変わらず急傾斜地に人家が重なるように立ち並び、その中を縫うように国道は通じる。ジムニーも道路脇ギリギリに停める。こうした運転の腕には自信があった。

   
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久生野の集落内 (撮影 1997. 9.25)
右下へと分岐がある
ジムニーの横には「西峰案内図」の看板が掛かる 

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国道標識 (撮影 1997. 9.25)
看板には「ようこそ西峯へ」とある

   
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「西峰案内図」の看板 (撮影 1997. 9.25)
西峯の中心地に立つ 

<西峯案内図>
 また、上の写真のジムニーが停まる横の擁壁に、「西峰(峯)案内図」の看板が掛かっている。この点も如何にもここが中心地らしい。看板は西峰青年団により1984年10月に作られたものとある。
 
<西峯口番所>
 文献では、「京柱峠から西へ45町の地点に西峯口番所があった」とある。45町は5Km弱だ。しかし、これは今の国道の距離ではなく、古い峠道の道程である。現在では測りようがない。どこが旧道だが一般者には判別がつかない。しかし、西峰案内図に「旧番所」と記載があった。国道より上部の土居とある場所だ(地理院地図)。土居番の「番」とは「番所」を示していたのかもしれない。

   

 古くから京柱峠を越えて西峯と東祖谷山の人々の往来は多かったそうだ。阿波と土佐の国境であり、取り締まりも厳しかったのだろう。

   
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「西峰案内図」の一部 (撮影 1997. 9.25)
旧番所や西峰小学校・中学校、キャンプ場などが記されている

   

<分岐へ(余談)>
 「西峰案内図」の前の分岐に入ると、急勾配で南小川沿いに下る。その奥の右岸側には西峯小・中学校があったが、今は閉校しているようだ。橋を渡って陰集落にも通じる。
 
 2004年5月に訪れた時、京柱峠を下ってこの分岐に到着したのは、もう午後5時をとっくに過ぎた時刻だった。それでいてまだその日の宿が決まっていない。 「西峰案内図」の看板に「キャンプ」とあるのを頼りに、その場所を目指すことにした。もう日が傾いていて、やや焦りがあった。女性の同伴者も居る。しかし、それらしきキャンプ場が見当たらないのだ。ほうほうの体でパジェロ・ミニを転回させ、国道に引き返した。

   
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林道を迷走中 (撮影 1997. 9.25)
ちょっとした切通しを越えた

 
<物部村を目指す(余談)>
 わざわざこの分岐に入る目的は、いつも同じ峠道を走っているのは詰まらないという理由もあった。
 
 1997年9月に2度目に訪れた時、その道の先を目指した。開けた陰集落も過ぎ、道は南小川左岸の林の中を登って行く。道の名は林道西峰線か小桧曽林道だと思う。 あわよくば町村境を越え、旧物部村(現香美市物部町)に出られないかと企んでいた。しかし、詳しい地図はないし、勿論カーナビなどのツールもない。どこをどう走っているかさっぱり分からなくなった。 すると、ちょっとした切通しを抜けた(左の写真)。ここは物部村との境だろうか。遂に物部村に入ったのだろうか。

   

 その後もジムニーを進めるが、道は少し下ったかと思うと、また登り始めた。物部川沿いへと下る様子は全くない。道はいつまでも先へ先へと続いているが、道路状況は徐々に悪くなって行く。 その内、ジムニーでも走るのがやっという有様だ。
 
 こうしてこんな寂しい林道に分け入ったのは、一つにはどこかに野宿地が見付からないかという魂胆もあった。しかし、開けて明るい場所は陰集落などの人家が近い所だけで、後は暗い林の中ばかりだ。薄気味悪くて野宿などできたのものではない。また、今日は天候が悪く、霧が立ち込めているような箇所もある。
 
 時間は午後4時を過ぎ、このままでは野宿もできないまま、この林の中で日が暮れてしまう。謎の峠から20分程走り、遂に怖くなって引き返すこととした。今はとにかく道に迷わず無事にこの地から脱出することだ。宿のことはまた後で考えよう。

   

<地すべり防止区域の看板>
 国道へ戻る途中、例の峠の近くの道脇に朽ち掛けた看板を発見した。「地すべり防止区域 小桧曽地区」とある。ここはまだ南小川水域であることが分かった。 峠を越えたかと思ったのは、南小川の支流同士(力谷川と上コビソ谷川)の水域を跨いだだけだった。 現在地は「青ザレ川」(下コビソ谷川)沿いであるようだった(地理院地図)。物部村は遠かった。
 
 今思っても、残念でならない。果たしてあの林道は旧物部村に通じていたのだろうか。現在の地理院地図などを見ると、「地すべり防止区域」の看板にある小桧曽林道が、笹越(地理院地図)近くまで遡る。その後、小桧曽山(こびそやま、地理院地図)と奥神賀山(おくじんがやま、地理院地図)の間の鞍部(地理院地図)を香美市に越える林道を分岐している。尚、この場合の小桧曽山は京柱峠近くの小桧曽山とは違うようだ。「西峰案内図」に載っている方だろう。
 
 尚、最近のツーリングマップルなどを見ると、大豊・物部間を繋ぐ林道は「楮佐古小桧檜曽林道」と記されている。しかし、昨今の林道事情からして、この林道はもう走れないだろう。

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地すべり防止区域の看板 (撮影 1997. 9.25)
これでやっと現在地を把握

   

<県道東祖谷大杉停車場線>
 「地すべり防止区域」の看板で一つ収穫がある。現在の国道439号を「県道東祖谷大杉停車場線」と記していることだ(下の写真)。 前述のように、この県道は昭和34年(1959年)に認定されていて、それが京柱峠に車道が開通した時期ではないかと推測される。 また、国道439号に昇格したのは昭和57年(1982年)4月1日なので、この「地すべり防止区域」の看板は、昭和57年前に作られた物となる。

   
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「地すべり防止区域」の看板の一部 (撮影 1997. 9.25)
「県道東祖谷大杉停車場線」の記載がある

   

<西峯以降>
 以前の国道439号は、国道32号直前の南小川大橋(地理院地図)を渡る少し手前まで、1.5車線巾の狭い道が続いた。 それでも西峯や徳島県側の小川・樫尾などの集落内に比べれば、何でもない道であった。あの急傾斜地にガードレールもなく、人家の軒先をすり抜けつつ上り下りする恐怖。その印象が強烈過ぎて、それ以外の部分については全く記憶に残らない。

   

<宿探し(余談)>
 それに、京柱峠を越えて来た時はいつも、その日のねぐらが決まっていなかった。どこかで野宿ができるだろうか、何か宿が見付かるだろうかと、気が気でない。ただただ先を急ぐばかりで、道の印象など残る訳がなかった。
 
 1度目の時は、それでもまだ少し時間があり、土佐町まで走ってどうにか芥川川の狭い川原で野宿した。
 
 2度目は小桧曽林道から撤退して来た時で、もうこれ以上野宿するような精神力は残っていない。公衆電話で宿を予約しようにも、大豊町やその近辺には当日直ぐに泊まれる適当なホテルや旅館がなかった。 結局、高知市街にも近い南国市で探し、後免駅近くにあった後免稲屋が予約できた。宿に辿り着いた時は暗くなっていた。
 
 3度目は西峯でキャンプ場が見付からず、道の駅・大杉まで走って休憩した時は、既に夕方6時近かった。それでも、当時は携帯電話が使え、宿探しに協力してくれる連れもあった。 車の中に居たままで宿泊情報を調べ、あちこちに電話する。過去に経験があったので再び南国市内で宿を探してみると、南国ビジネスホテルが予約できた。ビジネスホテルは当日遅い利用が可能なのがいい。 宿さえ決まれば一安心である。飲物などを飲んで、峠越えの疲れを癒す。その後、奮発して高知自動車道を使い、携帯電話で宿の場所など確認しながら車を走らせた。連れが居たこともあり、遅くなりながらもどことなく余裕が持てた旅であった。

   
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前方に南小川大橋が見える (撮影 1992. 4.27)
この先で京柱峠の道も終わる
国道439号の路面はまだ新しく、改修途中であるらしかった

   

 2015年5月に峠の大豊町側を訪れたことがあった。大豊町と香北町(現香美市香北町)を繋ぐ谷相林道を走ろうと思って来たのだが、林道は通行止で峠の旅にはならなかった。仕方ないので梶ヶ森近辺を走り回った。
 
 大豊町の南小川大橋の手前に商店があり、その横付近に道路標識が掛かる。京柱峠まで18Kmとあった(下の写真)。
 
 これまで国道439号はずっと南小川右岸沿いに通じていたが、左岸側に新しく落合トンネル(地理院地図)が貫通していた。まだ併用開始には至ってなかったが、今頃は換線されているだろう。こうして国道の一部は改修が進むが、西峯では「酷道」のままで、改修は難しいと思われる。

   
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南小川大橋手前より峠方向を見る (撮影 2015. 5.30)
道路標識が立つ

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道路標識 (撮影 2015. 5.30)
京柱峠まで18Km

   
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道路標識の近くの擁壁に掛かる大豊町の看板 (撮影 1997. 9.25)
大ざっぱなので、京柱峠に関しては余り役に立たない

   
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南小川大橋を渡る (撮影 2015. 5.30)
手前右は豊永駅へ

<南小川大橋>
 南小川を渡る南小川大橋は昭和57年(1982年)3月の完成とのこと。かつてこの付近を通っていた県道東祖谷大杉停車場線は、昭和57年4月1日に国道439号に昇格している。国道昇格に合わせ、南小川大橋が架けられたものと思う。センターラインがある十分な広さの2車線路である。

   

<豊永橋(余談)>
 県道東祖谷大杉停車場線を維持したまま南小川大橋の建設が進んだ筈で、すると県道はどこで南小川を越え、土讃線を跨いでいたのだろうか。
 
 ふと、南小川大橋の隣を見ると、古式ゆかしいトラス橋が架かっている(地理院地図)。豊永橋(とよながばし)である。豊永駅方向から通じていて、一見歩行者用かと思ったが、車道である。ただ、車一台分の幅しかなく、途中の離合は不可能だ。昭和6年(1931年)7月竣功とのこと。
 
 この橋が元の県道東祖谷大杉停車場線ではないか。また県道以前は郡道安野々久生野線として使われていたものと想像する。

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豊永橋 (撮影 2015. 5.30)
左岸側から見る
手前が土讃線の踏切
ここを右に国道が曲がって峠を目指す

   
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吉野川沿いの国道32号上 (撮影 2015. 5.30)
右に国道439号が分岐

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国道439号分岐 (撮影 2015. 5.30)
直ぐに土讃線を渡る
ここが京柱峠の道の起点・終点

   

<終点>
 南小川大橋、土讃線と渡って国道32号に接続する(上の写真)。国道439号は国道32号との併用で吉野川沿いを遡って行くが、京柱峠の峠道はここが終点だ。東祖谷山新居屋の栃之瀬分岐を出発し、大展望の峠を越え、この大豊町西土居(にしどい)の国道32号接続まで、32Km余りの楽しい峠の旅であった。

   
   
   

 京柱峠には強い思い入れがあり、ついつい余談ばかりで焦点が定まらないページになってしまった。また今回も誤字・脱字、勘違いもあることだろう(ご容赦下さい)。それでも書きたいことはほぼ書き尽くした感があり、これで私の京柱峠も終点に辿り着いたと思うのであった。

   
   
   

<走行日>
・1992. 4.27 徳島県→高知県/ジムニーにて
(1993. 5. 3 矢筈峠から落合峠へ/ジムニーにて)
(1994. 5.23 白髪峠から矢筈峠下を通過/ジムニーにて)
・1997. 9.25 徳島県→高知県/ジムニーにて
(1998.12.29 かずら橋など観光/ミラージュにて)
・2004. 5. 6 徳島県→高知県/パジェロ・ミニにて
(2015. 5.28 落合峠から新居屋、西祖谷山村へ/パジェロ・ミニにて)
(2015. 5.30 大豊町に立寄る/パジェロ・ミニにて)
 
<参考資料>
・中国四国 2輪車 ツーリングマップ 1989年7月発行 昭文社
・ツーリングマップル 6 中国四国 1997年9月発行 昭文社
・マックスマップル 中国・四国道路地図 2011年2版13刷発行 昭文社
・角川日本地名大辞典 36 徳島県 昭和61年12月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典 39 高知県 昭和61年 3月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・その他一般の道路地図、webサイト、観光パンフレットなど
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

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