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辰巳峠 (再訪)
  たつみとうげ  (峠と旅 No.034-2)
  中国地方の大分水界を越える峠道
  (掲載 2018. 2 .3  最終峠走行 2005. 1. 5)
   
   
   
辰巳峠 (撮影 2005. 1. 5)
手前は鳥取県鳥取市佐治町栃原
奥は岡山県苫田郡鏡野町上斎原宮ケ谷
道は国道482号・伯耆街道
峠の標高は786m (文献より)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
どういう訳か、この辰巳峠や近くにある人形峠は冬の時期に越えている
普段なら何でもない国道の峠だろうが、積雪時に越えるとなかなか味わいがある
 
 
 
   

<掲載理由(余談)>
 前回、冬の持越峠を掲載し、「雪道」繋がりということになる。
 
 現在連載させてい頂いている季刊誌「地方公務員 安全と健康フォ−ラム」の2018年1月号の峠を選定する上で、冬に因んだ峠がないだろうかという話になった。 いろいろ思い巡らしたが、なかなかいい切り口が見付からない。そもそも峠と冬の季節を直接結びつける要素などあるのだろうか。 結局、雪景色ならば冬らしく見えるだろうという単純な思考に落ち着くのであった。
 
 しかし、冬は峠のオフシーズンである。面白い峠、すなわち険しい峠は大抵冬期通行止だ。いくら峠が趣味だといっても雪道の峠を越える機会は極めて稀とある。 当然ながら雑誌に載せられるような雪景色の峠の写真の持ち合わせも限られる。それでいて有り触れていない、それなりに面白い峠でなければならない。 かと言って、あまりにも険しく、一歩間違えれば遭難しかねないような峠道では、危なくて一般読者には勧められない。地域は大まかに西日本からの選定ということであった。 幾つか候補を挙げてみたが、冬場の写真を多く持つ辰巳峠となった。
 
 既に原稿は完了していて、その内出版される予定だ。ただ、雑誌の紙面は限られ、言い足りないことが多いように思えて仕方がない。 一方、この「峠と旅」でも辰巳峠(初掲載 1997.11.16)は掲載済みだが、 初期のことであまり詳しい内容を書いていなかった。それで、この場を借りて辰巳峠の枝葉末節(余談ばかり)について、掲載しておこうと思うのであった。

   

<所在>
 峠は鳥取県鳥取市佐治町(さじちょう)栃原(とちはら、とちわら、とちばら)と岡山県苫田郡(とまたぐん)鏡野町(かがみのちょう)上斎原(かみさいばら)の境にある。 「上斎原」は地名としては「上齋原」と書くことも多いが、ここでは簡略化して全て「上斎原」で統一させて頂く。
 峠は鳥取・岡山の県境であり、古くは因幡(いなば)・美作(みまさか)の国境であった。
 
<旧佐治村>
 鳥取市佐治町は旧八頭郡(やずぐん)佐治村(さじそん)である。最初にこの峠を越えた時(1994年)には、まだ鳥取市に合併する前の佐治村であった。栃原は旧佐治村の大字である。栃原の読みはいろいろあってはっきりしない。
 
<旧上斎原村>
 鏡野町上斎原もかつては独立した自治体で、苫田郡の上斎原村(かみさいばらそん)であった。 佐治村もそうだったが、中国地方では「村」は「そん」と発音することが多いようだ。 上斎原村は大字を編成していなかったので、峠が所在する地名としては現在も単に「鏡野町上斎原」でしかない。 ただ、峠の下に宮ケ谷(みやがたに)とか恩原(おんばら)という集落がある。辰己峠は直接的には鳥取市佐治町の栃原集落と鏡野町上斎原の宮ケ谷集落を結んでいると言える。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<立地>
 北の青森県龍飛崎から西の山口県下関まで、本州を貫いて中央分水界が通る。大分水界などとも言われ、日本列島を大きく太平洋側(一部では瀬戸内海)と日本海側に分かつ境界である。中国地方に於いては、山陰・山陽の境ともなる。
 
 中央分水界を成す山々は中央分水嶺と呼ばれ、本州を背骨の様にして連なる。しかし、必ずしも中央に位置する訳ではない。 時により太平洋側や日本海側に偏ることもある。岡山県と鳥取県との県境などでその傾向が顕著に現れている。 瀬戸内海に面した岡山県はどちらかと言うと温暖なイメージがある。少なくとも雪が多い土地という印象はない。 しかし、岡山県に於いて中央分水嶺はずっと北の日本海側に寄っている。もうあと数10Kmで日本海という近さだ。その鳥取県との境ともなる峰を越えて幾つかの峠道が通じる。岡山県にあって雪深い峠となる。辰巳峠はその一つである。

   

<水系>
<佐治川>
 峠の鳥取側には佐治川(さじがわ)が流れ下る。千代川(せんだいがわ)中流の支流で1級河川である。 辰巳峠より発した佐治川はほぼ東流し、鳥取市用瀬町別府で千代川へ注ぐ。千代川は北流し、鳥取砂丘の所で日本海に注ぐ。千代川は鳥取県三大河川の1つだそうで、日本海側に於いて千代川水系を成す。
 
<三国山>
 岡山県と鳥取県の境に三国山(みくにやま)がそびえる。三国ケ仙(みくにがせん)とも呼ばれるようだ。 「三国」という山名は旧国名の因幡(鳥取県東部)・伯耆(ほうき、鳥取県西部)・美作(岡山県)の3国の境にあることに由来する。 標高1、213m(鳥取県側に少し入った所に標高1,252mのピークがあるが、そこを指す場合もある)。 中国山地の脊梁(せきりょう)であり、当然ながら中央分水嶺でもある。しかし、山頂から日本海の海岸線まで直線距離で僅か20Kmに満たない。
 
<吉井川>
 この三国山を源として吉井川(よしいがわ)が岡山県側に流れ下る。そして流長133Kmの果てに岡山市の児島湾に注ぐ。辰巳峠はこの岡山県三大河川の1つとなる吉井川の源流部に位置する。
 
 峠は正確には吉井川の小さな支流・宮ケ谷(河川名)の水域にある。宮ケ谷は下って本流の恩原湖(おんばらこ、恩原貯水池とも)に注ぐ。 恩原湖の上流側は恩原川と呼び、この川が三国山方面より発する吉井川源流となる。資料によっては恩原川を「吉井川」と記すものもあった。 地形図では「恩原川」で出ている。恩原湖以降は吉井川と呼ぶものと思うが、地形図などではその点は明確でない。
 
<中津河川>
 尚、恩原湖より下流側に中津河川という支流がある。地形図などを眺めていると、恩原川より更に三国山近くを源とし、流長も長そうだ。どちらかというと中津河川の方が吉井川源流に見えて仕方がない。しかし、文献では恩原湖の方を吉井川源流としている。恩原湖の直ぐ下流側の川を何と呼ぶか分かると、すっきりするのだが。

   

<人形峠(余談)>
 吉井川沿いには概ね国道179号・津山街道が通じる。しかし、この国道を北上しても辰巳峠は越えない。代わりに人形峠を越えて鳥取県へと入って行く。国道179号は人形峠前後では岡山県の津山市街と鳥取県の倉吉市街を結ぶ幹線路となる。この点では人形峠の方が吉井川水域を代表的する峠となる。
 
<吉井川水系の峠>
 ただ、地形的に見るとちょっと違う。人形峠は中津河川より更に下流側の支流・赤和瀬川(あかわせがわ)の更に支流の池河川の上流部に位置する。 辰巳峠の方がより吉井川源流に近い。峠の標高も、人形峠が735m(地形図では740m)であるのに対し、辰巳峠は786mと高い。 人形峠には人形トンネルも通じ、道としては格が上なのだが、地形的には辰巳峠の方が吉井川水系一の峠と言えるのではないだろうか。

   

<峠名>
 国語辞書を調べると、「辰巳」は「巽」(たつみ)などとも書き、古く方角を表す言葉の一つで、「南東」の意ということになる。辰巳峠は「南東」の方角に何か関係するのだろうかと思ったら、全く関係なかったようだ。
 
 文献(角川日本地名大辞典)によると、古く鳥取県側では「田角峠」、岡山県では「田住峠」・「田住乢」などと書いたそうだ。 「たつの」あるいは「たすみ」などと呼んだらしい。それがいつしか「辰巳」(たつみ)の文字が当てられた。 その経緯は不明である。単に言葉の「音」だけが受け継がれ、日常の用語である「辰己」の文字を当て字として使ってしまったような気がする。
 
 「田角」や「田住」の由来についても不明である。「田」が共通する点、稲作に関係するのだろうかと思ったりするが、他に何の手掛かりもない。とにかく、「辰巳の方角」とは関係ない峠名のようだ。

   
   
   
岡山県側から峠へ 
   

<津山市より>
 津山市は岡山県の内陸部に於ける数少ない大都市の一つである。鉄道や中国自動車道が通じ、交通の要衝ともなる。その為、旅先で津山市街に宿泊したり、ここを起点に辰巳峠や人形峠を目指すことが多かった。
 
 津山市辺りになると瀬戸内海と日本海の中間地点くらいではないだろうか。この津山市から辰巳峠へと国道179号が向かう。 概ね吉井川沿いに北上して行く。 以前なら、津山市街から鏡野町(かがみのちょう)に入り、引き続いて奥津町(おくつちょう)を通過するのだが、現在は峠のある鳥取県との県境まで全て鏡野町となったようだ。 広大な町域である。
 
<旧奥津町へ>
 旧鏡野町と旧奥津町との境付近は奥津湖の出現で大きく変わった。かつては大きく蛇行する吉井川に沿って国道も屈曲していた。今は吉井川を堰き止めた苫田ダムによる奥津湖の左岸に、幾つかのトンネルを穿って快適な国道179号が通じる。

   
鏡野町と奥津町の境 (撮影 2005. 1. 4)
雲井山トンネルの少し手前
   

<雲井山トンネル(余談)>
 そのトンネルの中で最長なのが雲井山トンネルになる。1999年12月に訪れた時は既に開通していた(下の写真)。 当時使っていたツーリングマップルにはまだ奥津湖はなく、不意なトンネルの出現に慌てた。 しかも、まだ旧ルートとの換線途中で、奥津町に入る少し手前で国道が大きくクランクしていた。道を確認する為に雲井山トンネルを出た所で車を停めた程である。

   
雲井山トンネル (撮影 1999.12.27)
北側の坑口の様子
まだトンネル出来立てホカホカの頃
   

吉井川沿いの国道179号 (撮影 2005. 1. 4)
鏡野町杉付近
沿道はそろそろ雪景色

<雪>
 津山市街ではまだほとんど見られなかった雪だが、雲井山トンネルを抜け再び道が吉井川沿いなる頃には、沿道はポツポツ雪景色に変わり始める。遠くの峰々もどんより霞んで見える。

   
国道沿線の様子 (撮影 2005. 1. 4)
鏡野町西屋付近
青い道路標識に示された国道の行先は「倉吉、人形峠」となっている
   
   
   
奥津渓 
   

川岸に立つ「名勝 奥津渓」の標柱 (撮影 2005. 1. 4)

<奥津渓へ>
 吉井川も中・上流域に達し、そろそろ峡谷の様相を呈して来る。現在の国道179号は蛇行する吉川沿いを避け、大釣トンネルなどを抜ける奥津渓バイパスを通る。一方、旧国道となった吉井川沿いには静かに奥津渓(おくつけい)が佇む。そちらにちょっと寄り道する。

   

<奥津渓>
 奥津渓バイパスを外れても、さすがについ最近まで国道であっただけあって、2車線路の道が続く。 道は渓谷に沿って屈曲するも交通量が少なく、のんびり走るにはいい道だ。特に冬の時期は観光客もほとんど立ち寄らず、奥津渓の景観は独り占めとなる。ただ、積雪の為にあまり川に近寄ることができず、車道から眺めるだけになってしまうが。


奥津渓沿いに通じる旧国道 (撮影 2005. 1. 4)
甌穴の付近
   

甌穴の案内看板 (撮影 2005. 1. 4)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<甌穴(余談)>
 奥津渓では甌穴(おうけつ)が知られているようだ。 看板の説明によると、長瀞(ながとろ)・耶馬溪(やばけい)の猿飛・木曽寝覚(ねざめ)の床の甌穴に並ぶとのこと。 多分、全て見たことがあると思う。この上流にある笠ヶ滝から看板の地点まで、3Kmに渡って甌穴が点在するようだ。
 
<奥津川>
 尚、看板では奥津渓となる川を「奥津川」と呼んでいるが、吉井川本流そのものに他ならない。「吉井川」ではあまりに広い範囲なので、地域ごとの慣例的な呼称があることが多い。

   

<与謝野晶子・鉄幹(余談)>
 甌穴の看板が立つ所は、丁度国道の新道・大釣トンネルが抜けている付近で、旧国道の中間点辺りとなる。渓谷を眺める展望台の様な小屋が立ち、付近には駐車場やいろいろな案内看板が立つ。本来なら観光客らが散策する観光スポットなのだろうが、今は人っ子一人居ない。
 
 歌人として有名な与謝野晶子・鉄幹夫妻も訪れているようだ。 余談だが、自宅から車で5分程の所にも、与謝野晶子が最晩年に訪れた別荘が残り、こうした夫婦が訪れた場所は、そのこと自体で名所となっている。奥津温泉を訪れたのは昭和8年(1933年)と看板の説明にあった。


「与謝野晶子・鉄幹の歌」の看板 (撮影 2005. 1. 4)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<奥津渓八景(余談)>
 「名勝奥津渓八景」の看板では、天狗の奇岩・女窟の断崖・琴渕の甌穴群・臼渕の甌穴群・鮎返しの滝・笠ヶ滝・般若寺の太子岩・石割桜の八景が記されていた。現在地から見える甌穴は「臼渕の甌穴群」となるようだ。

   
奥津渓八景の案合図 (撮影 2005. 1. 4)
石割桜を除く七景が描かれる
石割桜は笠ヶ滝(左手)より更に上流側にあるようだ
   

奥津渓八景の説明 (撮影 2005. 1. 4)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<陰陽連絡道>
 看板の説明分では、大正初期に陰陽連絡道が渓谷沿いに石割桜の所まで開通したとある。 ただ、古くから岡山県(作州)の津山と鳥取県(伯州)の倉吉を結ぶ往来が吉井川沿いに通じていたものと思う。 「陰陽連絡道」とは、その往来を元に荷車や馬車程度が通行できる道に改修したということだろうか。 これより少し前の明治37年、現在の人形峠(人形トンネルの旧道)の前身となる道が岡山・鳥取の県境を結ぶ峠道として改修が行われている。陰陽連絡道はそれとも関係するのではないだろうか。
 
<原子燃料リサイクル(余談)>
 「奥津渓八景」に並んで、この場にはちょっと不似合いな「原子燃料リサイクル」の看板も立っていた。看板では特に触れてはいないが、昭和29年(30年とも)に国道179号が越える人形峠でウラン鉱床が発見され、一躍注目された。それに関係したピーアールと思われる。

   

<雪の奥津渓(余談)>
 意図した訳ではないが、雪の奥津渓を見学することになった。人気(ひとけ)のない神秘的な味わいがあった。しかし、本来なら秋の紅葉の季節などの方が、観光に適した時期なのだろう。

   
雪の奥津渓 (撮影 2005. 1. 4)
   
   
   
奥津温泉 
   

<道の駅・奥津温泉>
 国道179号の奥津渓バイパスは大規模な改修で、古い道路地図しかもっていなかったので、戸惑うばかりだ。カーナビもまだまだ高価な時で、当時乗っていたキャミには装備したことがない。
 
 奥津渓沿いから国道本線に戻って道なりに走っていると、奥津温泉の中を通らずに、吉井川左岸の高台へと導かれてしまった。 そこに道の駅・奥津温泉があったので、とにかく車を停めて事態を確認する。 道の駅は車の旅では気軽に立寄れて便利な施設なのだが、狭い奥津の温泉市街を外れた所に建設されていた。奥津温泉を見学したかったので、何とか引き返さなければならない。


道の駅・奥津温泉 (撮影 2005. 1. 4)
奥津の温泉街を外れた所にある
   

<奥津温泉を望む>
 道の駅の裏手に回ってみると、吉井川の谷が一望であった。奥津温泉付近では吉井川の谷間は広がりを見せ、川に沿って温泉街の家々が並ぶ。雪に佇む静かな温泉地である。

   
道の駅より奥津温泉を望む (撮影 2005. 1. 4)
   

<秋津温泉(余談)>
 随分前になるが、「秋津温泉」という映画をテレビで見た。若い頃の岡田茉莉子さん主演で、確か映画出演100回目となる記念作品だったようだ。 「秋津温泉」は備前市出身の藤原審爾氏による原作で、氏の出世作となるようだ。こうしたちょっと古い日本映画が好きで、機会があるとよく見ている。映画の内容そのものよりも、画面に映し出される当時の世相や人々の暮らしの様子・風俗などに興味を魅かれる。
 
 映画「秋津温泉」では実際はどこの温泉地なのだろうかと関心を持った。まだインターネットが発達する前だったので、容易には情報が得られない。 新潟県辺りにある温泉地を舞台にしているのだろうかと、地図帳などを眺めたりした。 しかし、「秋津温泉」は物語上の架空の名称で、実際にそうした名の温泉地は日本にはないようだった。
 
 その内、映画「秋津温泉」は岡山県の奥津温泉をロケ地として撮影されたことが判明した。 奥津温泉はそれ以前に2度ほど訪れていたが、物詫びた温泉情緒などにはまだまだ関心が向かない若い頃だったので、奥津温泉も素通りしていて何の記憶もなかった。
 
 それが2005年になってやっと奥津温泉を訪れる機会を得た。わざわざ奥津渓バイパスを外れて奥津渓を見学したのもその一環である。 映画「秋津温泉」では奥津渓と思われる渓谷が何度か登場する。岡田茉莉子さん演じる温泉女将が亡くなるラストシーンも、多分奥津渓のどこかで撮影が行われたのだろう。

   

<温泉街>
 道の駅から国道179号を引き返し、温泉街に向かう旧国道に入る。奥津橋を渡って吉井川左岸沿いになると、一段と温泉地の雰囲気が出て来る。 この辺りが温泉街の中心であろうか。旧国道となる狭い道の両側に、旅館などの建物が軒を連ねている。 宿の玄関前に宿泊客の車が停まり、人の乗り降りや荷物の出し入れに忙しそうだ。やはり国道としては手狭な感じを受ける。この点は奥津渓バイパスが完成してよかったと思う。
 
 直ぐに「奥津荘」という看板が目に付いた。映画「秋津温泉」では「秋津荘」という旅館が舞台となっていたのだ。 ただ、「秋津荘」は渓谷沿いの傾斜地にあり、その離れからは渓谷を望むこともできたようだ。 多分、温泉街よりもっと手前の奥津渓寄りにあった旅館をロケ地としたのではないだろうか。しかし、そのような建物は見付けられなかった。

   
旧国道沿いに並ぶ奥津温泉 (撮影 2005. 1. 5)
奥津荘という看板が見られる
映画「秋津温泉」では秋津荘という旅館が舞台となっていた
   
奥津温泉の航空写真 (撮影 2005. 1. 4)
中央に見えるのが奥津橋
(国民宿舎いつきにあったポスターより)
   

<奥津温泉(余談)>
 奥津温泉は古く、平安期の発見ともいわれる。江戸期の元禄7年(1694年)、時の津山藩主・森長成がこの地に別荘を建て、治湯として利用したそうだ。 その頃から一般民衆も訪れるようになり、美作三湯の1つに数えられる温泉地となって行く。 ただ、頻繁に利用されるようになったのは、大正期になって道が整備されてからとのこと。例の「陰陽連絡道」であろう。
 
 一方、映画の「秋津温泉」は昭和37年の公開で、戦後間もなく温泉旅館の若女将となった主人公と、売れない作家との恋愛関係を主軸にした物語だ。 相手役の男優は今は亡き長門裕之さん。映画としては、話の面白さより岡田茉莉子さんの美しさを売りにしているように思えた。確かに美しい。 奥津温泉・奥津渓以外に当時の津山市街などの映像も映し出され、興味を引いた。
 
 今回、映画のロケ地となる奥津温泉を訪れてはみたが、映画のシーンと一致するような場所が確認できた訳ではない。「秋津荘」もどこだか分からないが、そうした細かな点にこだわらず、雰囲気が味わえただけで満足である。

   

<百乢(余談)>
 現在の国道179号は、新道の雲井山トンネル等を除けば、ほぼ吉井川沿いに通じる。当然ながら峠越えはない。しかし、津山市街から奥津温泉までの吉井川はやや西に膨らみ、その川筋に通る道は自然と長くなる。
 
 江戸期の道はもっと短距離で通じていたようだ。 津山城下から直ぐに北上を開始し、香々美新町(現鏡野町香々美)・切畑(現鏡野町真経)を経て、津山市と旧奥津町との境にある百乢(ももだわ)を越え、 養野(ようの、現鏡野町養野)−福見(現鏡野町奥津)−奥津と辿っていたそうだ。これなら津山と奥津をほぼ直線的に結んでいる。津山藩主・森長成も百乢を越えて奥津温泉へと湯治に出掛けたものと思う。
 
 しかし、現在の百乢に車道は通ぜず、時代に取り残された峠の感がある。麓にある養野も、かつては交通の要衝であったが、今は袋小路的地域とのこと。

   

<国道179号の前身>
 百乢の峠越えに替わり、今の吉井川沿いに主要路が変更になったのは、明治37年とのこと。現在奥津湖のある久田から羽出(はで)、奥津を結ぶ経路が主役となって行く。
 
<人形峠道>
 明治37年の換線は岡山・鳥取の県境にも大きな変化をもたらした。現在の人形峠を越えるルートが県道となり、「人形峠道」などとも呼ばれた(峠の開通は明治39年とも)。
 
 その後昭和38年に国道179号となり、昭和44年には全線が舗装されたとのこと。更に、昭和56年10月(11月とも)には人形トンネルが開通し、ほぼ現在の我々が見る国道179号に生まれ変わった。

   

<田代峠(余談)>
 では、人形峠以前の県境(国境)の峠道はどこだったのかと思う。
 羽出(はで)より吉井川の支流・羽出川を北西方向に遡ると、鳥取県三朝町大字田代(たしろ)との境に田代峠(たしろとうげ)がある。 峠前後に県道116号・羽出三朝線が通じるも、峠部分は車両通行不能だ。この田代峠が人形峠道開通まで美作・伯耆を結ぶ「美伯往来」の主要道だったとのこと。
 
 明治20年代は鳥取県中部より津山駅や上方へ至る最短路として田代峠が賑わった。 ただ、明治44年頃に大改修が行われるも、人力車を馬で引くほどの難路であった。その後、人形峠道の改修が進むに連れ、田代峠は人通りが絶えて行ったらしい。

   
   
   
奥津温泉以降 
   

<旧国道>
 奥津温泉内に通じる左岸沿いの旧国道は、1Km弱進むと左折して吉井川を渡り返す(下の写真)。既に人家はまばらとなり、路肩の雪も一段と多くなったようだ。
 
 この付近の奥津渓バイパスは湯ノ坂トンネルをくぐっている。右岸になった旧国道は更に1Km弱進んで湯ノ坂トンネルを出て来た奥津渓バイパスに合流する。

   
旧国道の橋上より温泉街方向を見る (撮影 2005. 1. 5)
足元を冬の吉井川が流れ下る
   

<道の様子>
 奥津温泉を過ぎると、国道沿線に暫く大きな集落は見られない。改修された快適な道が続くばかりだ。吉井川の谷は時折開けるが、周囲には雪化粧の山ひだが覆うばかりだ。

   
国道沿線の様子 (撮影 2005. 1. 4)
鏡野町奥津川西引田付近
   
国道沿線の様子 (撮影 1999.12.27)
鏡野町下斎原佐根井付近
   

国道沿線の様子 (撮影 2005. 1. 4)
前方に「人吉 35Km、人形峠 5Km」の道路標識が立つ
ここは鏡野町下斎原上原美土地付近

<鏡野町下斎原>
 道路標識に「人吉 35Km、人形峠 5Km」と出て来た。ただ、どう地図を見ても人形峠まで7Km近くある。辰巳峠への国道482号が分岐する地点までが丁度5Kmの距離だ。
 
 ここは鏡野町下斎原の上原美土地という集落付近となる。旧奥津町では最も北に位置する集落だ。「人形峠 5Km」の看板を過ぎた少し先が、旧上斎原村(かみさいばらそん)との町村境であった。上斎原トンネルが出てくれば、既に旧上斎原村の地に足を踏み入れている。

   
   
   
上斎原 
   

<上斎原村>
 旧上斎原村は吉井川源流の地であり、岡山県でも最も北に位置する自治体だった。今は鏡野町の上斎原である。 旧奥津町側に下斎原という大字があったが、元は上斎原村と下斎原村は一村であった。それが寛文年間(1661年〜1673年)に分村したそうだ。明治22年に市制町村制施行による上斎原村となる。
 
 古くは「上才原村」とも書いたようだ。地名の由来は、文献(角川日本地名大辞典)によると、「村を開いた時大穴牟遅(大国主)之命を斎(いつき)祭ったことによるという(中国山地の村)」とのこと。

   

<国民宿舎(余談)>
 中国地方の内陸部では宿泊場所に困ることが多い。ビジネスホテルなどが豊富な大都市は大抵沿岸部に立地する。 その点、中国山地只中の上斎原にある「国民宿舎いつき」は貴重な存在だ。 しかも公共の宿であり、料金面でも利用し易い。辰巳峠を目前に、今夜はここに投宿の予定だ。新館と本館が選択できたが、リーズナブルな本館を予約してある。
 
 「国民宿舎いつき」では上斎原温泉という温泉も楽しみだ。尚、今気が付いたが、宿名の「いつき」とは斎原の由来となる斎(いつき)のことだったのかもしれない。文献では、昭和43年に村営の「国民宿舎かみさい白雲閣」が落成したとあったが、その後継なのだろう。


国民宿舎いつきのロビー (撮影 2005. 1. 5)
明るい雰囲気
   

館外の風景 (撮影 2005. 1. 5)

<上斎原村に宿泊(余談)>
 上斎原村に入った頃は、周りはもうすっかり冬景色である。しかも、雪が舞い始めた。こんな時、しっかり今夜の宿が決まっているのが有り難い。 当時はまだまだ国民宿舎などのまともな宿泊施設を利用することが稀だった頃だ。それ以前にも上斎原村や奥津町に泊まった経験があるのだが、勿論のこと、野宿であった。
 
 宿に入り、一息入れる。外では深々と雪が降る中、館内は煌々と照明が灯されていた。宿泊客は我々を含めて4組ほどだったと思う。 ちょっと寂しい。我々以外は全て新館に宿泊している様子だったが、本館でも設備に何ら不足はなかった。その夜、雪は静かに降り続いている様子だった。

   

<翌朝(余談)>
 朝になって外を眺めるてみると、何もかも雪に埋もれていた。上斎原村は県内でも有数の豪雪地帯であり、多い所では例年約2mの積雪があるそうだ。 東京都心から少し離れたベッドタウンに長年住んで来た者にとって、屋外に広がる景色は大雪に見えるのだが、この地ではこれが当たり前なのかもしれない。


翌朝の様子 (撮影 2005. 1. 5)
   

敷地内も除雪が行われた (撮影 2005. 1. 5)

<除雪(余談)>
 雪はもう止んでいるが、空はまだどんより曇っていた。まだ日も差さない早朝から除雪車が出動していた。宿の広い敷地の除雪である。 いくら四輪駆動でスタッドレスタイヤを装着していても、駐車場内に積もった雪がそのままでは、隣接した道路までも辿り着くことは難しい。雪国の苦労が偲ばれる。

   

<車の除雪(余談)>
 宿を出発する頃になると、一部に青空が覗くほどに天候は回復した。宿の敷地内はしっかり除雪が完了していたが、各自の車やその周辺は自分たちで雪の始末をしなければならない。長靴などを持ち合わせていなかったので、車に近付くだけでも一苦労だった。


雪が積もったキャミ (撮影 2005. 1. 5)
   

宿の玄関 (撮影 2005. 1. 5)

宿の側に隣接する駐車場 (撮影 2005. 1. 5)
除雪は完了
   

<本村>
 「国民宿舎いつき」がある付近は旧上斎原村の中心地で、「本村」とも呼称され、吉井川沿いの小盆地に比較的大きな集落を形成している。直ぐ背後に因幡や伯耆との国境を控えた地であり、江戸期の津山藩領時代には番所が置かれ、往来の為の人馬継立て所ともなっていたそうだ。
 
<人形仙(余談)>
 この上斎原本村に北西方向から流れ下る吉井川の支流・人形仙川がある。 その源流となる上斎原と鳥取県三朝町の境に人形仙(にんぎょうせん、標高1,004m)という山がそびえる。 江戸期の作州津山〜伯耆倉吉間の往来は、上斎原本村から人形仙川を遡り、人形仙の東肩を越えていたそうだ。 現在の地形図では、人形仙川沿いの道は今の人形峠から西に続く広域基幹林道・美作北2号線と接した所で途切れてしまい、肝心な峠部分はどこに通じていたか分からない。名前さえも不明だ。文献では、「人形仙を越えた」などと表現している。
 
 この幻とも言える峠が現在の人形峠の直接の旧道となるようだ。前述の人形仙西側を越える田代峠とともに、「津山道」として明治期に至ったとのこと。
 
<倉吉往来>
 中国山地の脊梁を越える峠道は、広くは陰陽連絡路と呼ばれるようだ。先の人形仙の東肩を越えた道も主要な陰陽連絡路の一つだった。 また、伯州倉吉に至ることから倉吉往来(くらよしおうらい)と呼ばれ、美作・伯耆の両国を結ぶことから美伯往来ともいうそうだ。 更に、倉吉往来は伯耆往来(ほうきおうらい)と呼ばれる往来群の1つでもあるとのこと。
 
<津山往来>
 一方、伯耆国側から見ると作州津山に至ることから、津山往来(つやまおうらい)という呼称がある。 ただ、津山往来と言った場合、人形仙だけでなく田代峠なども含む広い呼称のようだ。津山往来は「津山道」と道義ではないだろうか。また、現在の道路地図では国道179号に「津山街道」と記されている。

   
   
   
国道482号へ 
   

<国道179号を石越へ>
 上斎原本村を後に、一路国道179号を進む。宿を出発する頃には青空が広がりだし、明るい陽射しが差し始めた。絶好の峠日和である。 昨夜来の降雪で沿道は一面の銀世界だ。さすがに幹線路となる国道の除雪は完ぺきだが、もうアスファルト路面が顔を出すことは稀となった。キラキラ輝く圧雪路が続く。
 
<国道482号分岐>
 間もなく石越(いしこし)で辰巳峠を越える国道482号が右に分岐する。石越は人形峠と辰巳峠の分岐点となる。

   
この先300mで右に国道482号が分岐 (撮影 2005. 1. 5)
   

国道482号分岐の看板 (撮影 2005. 1. 5)
国道179号の行先は人形峠・倉吉
国道482号・辰巳峠の行先は用瀬(もちがせ)

<国道482号の前身>
 現在、辰巳峠は国道482号が越えるが、少し前までは主要地方道・江府中和用瀬線であった。「江府中和用瀬」は「こうふ・ちゅうか・もちがせ」と読む。 これはなかなか読めない。鳥取県江府町・旧岡山県中和村(現真庭市)・旧鳥取県用瀬町(現鳥取市用瀬町)を指すようだ。 中国山地の山間部を複雑な経路を取りながら、鳥取県と岡山県の間を何度か行き来する。 辰巳峠近辺では、人形峠前後は国道179号と併用、石越から分かれて辰巳峠を越え、用瀬町用瀬で国道53号に合する。
 1992年10月に旧加茂町の倉見温泉から根知遠藤林道で旧上斎原村の遠藤に到り、石越経由で人形峠へ向かった。この時はまだ主要地方道だったようだが、翌年には国道となったらしい。
 
 現在の国道482号は、ほぼ旧主要地方道・江府中和用瀬線を含み、それより広い範囲の京都府宮津市〜鳥取県米子市間となるようだ。

   

<赤和瀬川>
 国道482号は直ぐに吉井川支流の赤和瀬川(あかわせがわ)を渡る。人形峠は赤和瀬川から更にその支流の池河川上流部に位置する。

   
赤和瀬川を渡る (撮影 2005. 1. 5)
吉井川右岸は石越、左岸には大木山の集落
   

<人形峠の変遷(余談)>
 ここは辰巳峠のページだが、人形峠について少し記したい。
 田代峠や人形仙東肩の峠が主要路となっていた時代から、既に石越から天王を経由し、峠を伯耆国側に下った木地山(きじやま)に至る里道が通じていたようだ。藩政期には「打札越え」と呼ばれたと文献にある。「木地山峠」という呼称も見られた。
 
 明治37年からの大規模な換線により、この里道が倉吉往来(津山往来とも)の主要路となって行く。ただ、まだ人形峠の名はなく、「国境」とか「県境の峠」と呼ばれたそうだ。また、鉄道の開通などにより峠道はあまり利用されなかったとのこと。


赤和瀬川の看板 (撮影 2005. 1. 5)
   

<人形峠の変遷(続き)>
 下って昭和30年、倉吉〜津山間の定期バス(国鉄バス美伯線?)が運行され、時を同じくして峠付近で日本初と言われるウラン鉱床が発見される。それが端緒となって峠道の大改修が進むこととなった。
 
 一躍脚光を浴びた峠ではあったが、まだ名がない。 それもあってか、昭和31年頃から峠の3Km西にある人形仙にちなんで「人形峠」と呼ぶようになったとのこと。 すると、この「人形峠」という峠名はつい近年に生まれたことになる。「人形峠道」などという呼称もそれ以後のことと考えなければならない。更に昭和38年国道179号に昇格、昭和44年全線舗装、昭和56年人形トンネル開通と続く。
 
 「人形」の由来については人形峠のページで触れたように、 「蜂の大王」とか「人魚の肉」の伝承が「作陽誌」にあるようだ。これらは人形仙(人形山、人魚山)という山名あるいは地名の由来である。 しかし、同時にこの山の近くに通じていた峠名にもなっていたのではないかと思われる。実際にも文献では「作陽誌」に「人形峠」という記述もあるように記されていた。ならば、「人形峠」の名は昭和期どころか江戸期には既にあったこととなる。しかし、どうもはっきりしない。

   

<石越以降>
 石越・大木山集落を過ぎると、さすがに沿道の人家はまばらになり始めた。道は吉井川右岸を忠実に遡って行く。

   
平作原集落付近 (撮影 2005. 1. 5)
この先で吉井川の支流・中津河川を渡る
   

対岸に豊ヶ谷集落 (撮影 2005. 1. 5)

豊ヶ谷〜小林間 (撮影 2005. 1. 5)
人家はほとんど見られない
   

この先、左にスキー場への分岐 (撮影 2005. 1. 5)

<スキー場分岐>
 久しぶりに現れた小林の集落を過ぎた先で、左にスキー場などへの分岐がある。 国道はその分岐以降、支流の遠藤川上流方向に迂回し、恩原湖(おんばらこ)左岸側を遡る。今回は左折して恩原湖右岸沿いのコースを行くこととした。 そちらの方が、恩原湖ができる前の古い辰巳峠の峠道に近いのではないかと思った。
 

   

ここは小林 (撮影 2005. 1. 5)

スキー場などの案内看板 (撮影 2005. 1. 5)
   
   
   
恩原湖右岸 
   

<恩原湖>
 暫く行くと、右手に恩原湖が姿を現す。冬期は結氷している様子だ。このダム湖は古く、昭和3年5月中国合同電気会社(現中国電力)によって建設された。 恩原川(多分、吉井川本流の上流部)を恩原ダムにより堰き止めたもので、県最初の水力発電用ダムだったそうだ。 この恩原湖の出現で、辰巳峠の峠道も大きくコースを変えたのではないかと想像する。

   
恩原湖を望む (撮影 2005. 1. 5)
右奥が恩原ダム
   

左にゲレンデの分岐 (撮影 2005. 1. 5)

<ゲレンデ分岐>
 地図上では恩原湖の上流部に恩原という地名が見られるが、多分人家はないものと思う。恩原川(吉井川)沿いでは小林が最終の集落となるのではないだろうか(ただ、遠藤川沿いの遠藤集落が旧上斎原村内で最も標高(約740m)が高いとのこと)。
 
 本線の国道ではない恩原湖右岸の道もしっかり除雪されている。それはやはりスキー場がある為だろう。 看板に「パノラマゲレンデへ 250m先左折」、「ファミリーゲレンデへ 300m先左折」などと出て来た。

   

 国道482号は恩原湖左岸を行くが、湖に接する区間は短い。恩原湖を眺めるなら、右岸のスキー場への道の方が良さそうだ。


対岸の国道方向を望む (撮影 2005. 1. 5)
暗い日影を通っているようだ
   

<恩原湖上流部>
 ゲレンデへの分岐を過ぎると、恩原湖の上流部に至る。辰巳峠まで直線距離で600mという近さだが、付近は草原の様相だ。 この一帯は恩原高原と呼ばれるそうだ。辰巳峠の鳥取県側は険しい地形だが、岡山県側には広く緩斜面が続く。 その中に通じる道も緩やかで、峠道らしさはほとんどない。

   
恩原湖上流部 (撮影 2005. 1. 5)
右手直ぐに恩原川が流れる
   
恩原高原の様子 (撮影 2005. 1. 5)
正面奥が恩原ダム方向
   

<宮ケ谷へ>
 道は恩原川を横切り、支流の宮ケ谷方面に進む。宮ケ谷沿いに出ると直ぐに国道482号と交差する。地形図を見る限り、峠は宮ケ谷の水域にあるようだが、国道482号は宮ケ谷と直角に交わるだけで、川沿いには一歩も進むことはない。
 
<赤和瀬・中津河(余談)>
 十字路を直進は宮ケ谷沿いにある宮ケ谷集落方面だ。一方、手前方向には「赤和瀬、中津河」と看板にあった。 地図を確認すると、確かにスキー場付近を経由し、中津河川沿いの中津河集落、更に赤和瀬川沿いの赤和瀬集落へと道が続いているようだ。 赤和瀬は県内最北の集落だそうで、積雪も最も多いとのこと。

   

国道に合流 (撮影 2005. 1. 5)
左が辰巳峠、右は石越へ戻る
直進は宮ケ谷集落へ

分岐に立つ看板 (撮影 2005. 1. 5)
国道を戻る方向には「11Km人形峠、50Km津山」
国道を辰巳峠方向は「用ヶ瀬25Km」
   
   
   
峠直前 
   

<再び国道482号沿い>
 国道に戻って辰巳峠を目指す。国道沿いに店の様な大きな建物や、その周辺に人家らしき建物も見える。更にその先にもポツンと人家があったようだ。 それらは行政区分では宮ケ谷集落の一部となるのであろうか。辰巳峠を岡山県側に下って来ると、まずこの宮ケ谷集落に至ることになる。 もう県境の峠まで500mといった至近距離だが、こうしてまだ人家があるのも、この緩やかな地形のお陰であろう。道路看板には
 鳥取 45Km
 智頭(ちず) 35Km
 用瀬 25Km
 と出ていた。

   

大きな建物が見える (撮影 2005. 1. 5)
付近に人家も

道路看板 (撮影 2005. 1. 5)
   

峠直前 (撮影 2005. 1. 5)

<峠直前>
 道は概ね北を目指し、緩やかに上って行く。宮ケ谷(河川名)の一支流に沿うが、深い谷間などではなく、空は大きく開けている。
 
 ここは津山市街からの道程約50Kmの地、吉井川が注ぐ瀬戸内海沿岸からなら100Km以上の距離となろう。そのフィナーレにしてはあまりに穏やかな雰囲気だ。南斜面に位置するので、日を浴びて明るいこともその一因だろう。

   
峠が見えて来た (撮影 2005. 1. 5)
   
峠の頂上は目の前 (撮影 2005. 1. 5)
「辰巳峠」の看板も確認できる
   
   
   
峠の岡山県側 
   

岡山県側から見る辰巳峠 (撮影 2005. 1. 5)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<峠の様子>
 岡山県側からは比較的長い直線路の先に峠の頂上がある。遥か手前から峠が見えている。久しぶりに訪れてみると、こんなに大らかな峠だったのかと、ちょっと意外な気がした。

   

<峠の岡山県側>
 岡山県側の辰巳峠はシンプルだ。頂上に「辰巳峠」と書かれた看板が一つ掲げられているだけである。本来なら大きく県境を示す看板も並んでいて良さそうなものだが。
 
<通行規制>
 その先には味気ない異常気象時の通行規制を示した看板が立つ。「ここより先11.5Kmの間は豪雨時には通行止をします」とある。 「11.5Km」とは鳥取県鳥取市側に下った佐治町河本辺りのようだ。峠からそこまでに幾つもの集落があるが、この間が通行規制の対象である。


岡山県側から見る「辰巳峠」の看板 (撮影 2005. 1. 5)
   

峠から鳥取県方向を見る (撮影 2005. 1. 5)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

通行規制の看板 (撮影 2005. 1. 5)
   

峠の岡山県側を見る (撮影 2005. 1. 5)

 峠より岡山県側を振り返って見ると、下り始めの箇所が広くなっている。現在の様に広く直線的な切通しになる前は、この辺りから少し異なったコースで峠を越えていたものと思う。
  
<国道標識>
 今になって気付いたが、傍らに立つ国道標識に「上斎原村 恩原」とあるではないか。 旧上斎原村は大字を編成していなかったので、鏡野町になった今も峠の所在地は単に「鏡野町上斎原」である。それより細かな地名の区分けあまりはっきりしない。 峠の岡山県側直下には多分宮ケ谷集落の人家があった。一方、恩原という地名は本流の恩原川沿いに見える。

   
峠の岡山県側 (撮影 2005. 1. 5)
下り始めの箇所が広々としている
左手の国道標識には「恩原」とある
   

<恩原・宮ケ谷>
 文献でも、辰巳峠を「上斎原村宮ケ谷と鳥取県佐治村栃原を結ぶ峠」としていたり、「石越から東へ、平作原―小林―恩原―宮ケ谷を経て、辰巳峠から鳥取県佐治村へ抜ける道路」とする一方、「佐治村栃原から岡山県苫田郡上斎原村恩原へ越す峠」とも記す。どうも恩原と宮ケ谷の関係ははっきりしない。ただ、辰巳峠の岡山県側は広く恩原高原が広がる。宮ケ谷集落も含め、この付近一帯を広く「恩原」と呼ぶのかもしれない。

   
   
   
峠の鳥取県側 
   

<峠の鳥取県側>
 峠を鳥取県側から岡山県方向に見ると、やはり「辰巳峠」の看板がある。観光案内的な看板としては唯一「恩原高原 2Km」が示されていた。スキー場やキャンプ場、更に下れば奥津温泉など、もっといろいろ紹介しても良さそうなところだが。

   

峠を岡山県方向に見る (撮影 2005. 1. 5)

こちらにも「辰巳峠」の看板 (撮影 2005. 1. 5)
「恩原高原 2Km」の案内がある
   

<県境>
 「辰巳峠」と看板が立つ所は、道の最高所であり、その意味では確かに峠である。 しかし、岡山県と鳥取県との境は、実はそこより少し鳥取県方面に下った所にあるようだ。その場所にはちゃんと県境を示す看板が立っている。 峠部分が寂しいのは、一つには峠と県境が一致しない為のようだ。
 

 この峠は中国地方の大分水界にあり、県境もぴったり大分水界と一致していて良さそうなものだ。 でも、地形図を見ると、峠のある鞍部の前後200mくらいの間、県境は大分水界から外れ、少し鳥取県側にずれ込んで描かれている様にも見える。 ここはかつての因幡・美作の国境であるが、何か境界争いのようなことがあったのだろうかと想像した。

   
県境を岡山県方向に見る (撮影 2005. 1. 5)
ここにはまだ「岡山県 上斎原村」とある
   

<峠と県境が異なる訳>
 しかし、最も可能性が高いのは、やはり道の改修によるものだろう。元々は道の最高所・分水界・県境が一致する峠であった筈だ。 但し、峠の鳥取県側が崖の様に切り立っていたのではないだろうか。道を改修するに当たり、鳥取県側の方がより深く切り崩された。 その為、道の最高所が岡山県側にずれ込んだのではないだろうか。 こうした状況の峠としては天谷峠などがその典型例だと思う。
 
 本来の辰巳峠は現在の県境の頭上高くに通じていたものと思う。今の峠からは全く想像もできない様子の峠ではなかったか。

   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 1994.12.31)
   

<人形峠展示館の看板>
 話は飛んで・・・、以前は県境の所に大きな人形峠展示館の案内看板が立っていた。ここは辰巳峠なのに人形峠の案内というのが、ちょっと不思議な感じがする。後で写真を眺め、この場所を人形峠と勘違いしそうになったこともあった。
 
 ただ、看板の左半分は鳥取県側の旧佐治村の案内となっている。「和紙と民話・なしとやる気の里」と題した観光ルート案内図が描かれていた。旧佐治村は因州和紙の産地として知られる。また、鳥取県は確か二十世紀梨の生産が最も多い県だったと思う。
  
 しかし、この人形峠のウランに関して書かれた看板は、諸般の事情で今はもうない。

   
以前は人形峠展示館の看板が立っていた (撮影 1994.12.31)
しかし、ここは辰巳峠
   

<佐治谷七里>
 尚、看板の一部に「佐治谷七里」という文字が見える。辰巳峠より東に流れ下る佐治川流域の谷を「佐治谷」(さじだに)と呼ぶ。東西に長く、その大部分が旧佐治村になり、本流の千代川に注ぐ東端付近だけ旧用瀬町に属す。
 
 昔から「佐治谷七里」といわれるが、佐治川の流長は約22kmで、七里(約28Km)はやや誇張が入るのだろう。流域の集落はほとんど佐治川沿いに奥深く点在する。

   

<鳥取県側の案内>
 岡山県方向にはほとんど案内がないが、鳥取県方向には「鳥取砂丘、流し雛の館、和紙の里」などと看板にある。

   
峠の鳥取県側 (撮影 2005. 1. 5)
   
鳥取県側の案内看板など (撮影 2005. 1. 5)
   

<辰巳峠の石柱>
 忘れてならないのは、「辰巳峠」と刻まれた石柱である。県境の本の心持ち岡山県側に立つ。なかなか大きく立派な物だ。高さは1m以上あったろう。今は道の最高所でなくなったが、やはりこの石柱が立つ県境部分が、古くからの辰巳峠であったことを示しているものと思う。
 
 
<地蔵>
 文献には「峠には古い地蔵」があると記されていた。「辰巳峠」の石柱の左横に並ぶのがその地蔵であろう。 高さ数10cmで、ちょこんと雪の中に佇む。峠そのものは大きく変貌してしまったが、この地蔵は古い峠の貴重な名残である。昔からずっと辰巳峠を見守って来た。ただ、冬期は除雪された雪に埋もれ、隠れてしまうこともあるようだ。


辰巳峠の石柱 (撮影 2005. 1. 5)
この時、地蔵は雪の中だったようだ
   
辰巳峠の石柱と小さな地蔵 (撮影 1994.12.31)
   

<峠の佐治側>
 県境部分を過ぎ、少し鳥取県側に下り始めた所には、石碑や旧佐治村の案内看板などが立ち並び、ちょっと賑やかな様相である。

   
峠の佐治側 (撮影 2005. 1. 5)
   

<石碑>
 石碑は2つあるようだ。まず、「平常心是道」と刻まれる石碑が立つ。書道を習う妻に写真を見てもらってやっと分かった。「平常心 これ道」と読むとのこと。下の部分は雪に埋もれているので、場合によってはその先があるのかもしれない。
 
 鳥取県知事・西尾邑次(にしおゆうじ)氏による書とある。知事の任期を調べてみると、1983年(昭和58年)〜1999年(平成11年)だそうだ。 この間にこの辰巳峠で大きな道路改修でも行われたのではないかと想像する。少し前の1981年には人形トンネルが開通していて、こちらの辰巳峠に於いても改修が進んだのかもしれない。
 
<句碑>
 もう一つは作家野村愛正の句碑で、これについては文献にも触れられていた。「花栃や国境の道百折す」と書かれているそうだ。 ただ、意味はあまり分からない。栃(トチ)は旧佐治村の「村の木」で、峠周辺に栃の木が多いのかもしれない。 ところで栃の木に花が咲くのだろうか?。「国境」は因幡と美作との国境である。「百折す」は「つづら折り」という程度の意味か。 「つづら」は「九十九」などとも書くが、「百」とはその上を行く峠道の険しさを表しているのかもしれない。

   

野村愛正の句碑 (撮影 2005. 1. 5)

「平常心是道」の石碑 (撮影 2005. 1. 5)
   

「さじドライブマップ」の地図 (撮影 2005. 1. 5)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<さじドライブマップ>
 「人形峠展示館」の看板がなくなった代わりに、その後継として「さじドライブマップ」と題した看板が、詳しく旧佐治村を紹介している。 看板では「佐治村」も周辺の「用瀬町」・「上斎原村」なども、まだ旧町村名になっていて、合併前に建てられた物であることが分かる。 横長に描かれたマップには、今の「佐治谷七里」の様子が凝縮されているのだろう。

   
「さじドライブマップ」の峠付近の拡大 (撮影 2005. 1. 5)
「村の木 とち」とある
   

<弥留気地蔵など(余談)>
 「さじドライブマップ」には、「村の木 とち」、「村の花 こぶし」などと紹介されている。
 
 以前の看板では佐治村のことを「なしとやる気の里」と題していたが、その「やる気」の由来が分かった。「弥留気地蔵」というのがあるようだ。


「さじドライブマップ」の「弥留気地蔵」 (撮影 2005. 1. 5)
   
「さじドライブマップ」のその他の写真 (撮影 2005. 1. 5)
   

「さじドライブマップ」の民話 (撮影 2005. 1. 5)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<民話(余談)>
 また「和紙と民話の里」とも書かれていたが、その「民話」の一つが掲載されている。「蟹のふんどし」という題名だ。ほのぼのとした話である。昔は佐治谷から外界に出ることが稀だったのだろう。外の世界をあまり知ることなく佐治谷で暮らす人々の人情がうかがえる。

   

<鳥取市佐治町>
 2005年1月に訪れた時は、県境看板などはまだ「佐治村」のままだったので、まだ鳥取市になっていなかったのかと思ったら、よくよく写真を見ると、鳥取県側に下り始めた所に「鳥取県 鳥取市」と新しい看板が立っていた(下の写真)。

   
峠より鳥取県側に下る道 (撮影 2005. 1. 5)
   

<佐治郷>
 西と南北を山に囲まれ、佐治川が急峻なV字の渓谷を成して流れるこの地は、古くから「佐治郷」と呼ばれ、「佐次」とも書いたようだ。 佐治川を挟んだ北と南で、それぞれ「佐治郷北方」・「佐治郷南方」とも呼んだが、そこには20前後の小地域名がほとんど佐治川に沿って点在していた。 それらは江戸期には「何々村」と呼ばれる小さな集落を形成して行く。
 
<上佐治村>
 明治22年の町村制施行により、大きく上佐治村(かみさじそん)・中佐治村・口佐治村が成立する。佐治川を上流・中流・河口域に分けたようだ。
 
 辰巳峠は上佐治村(かみさじそん)に所属する。峠の所在地となる栃原村を含め9か村が合併して成立し、旧村名を継承した9大字を編成した。
 
<佐治村>
 しかし、明治43年には上佐治村・中佐治村・口佐治村が合併して佐治村が成立する。佐治村は合併各村の19大字を継承した。


既に「鳥取県 鳥取市」とある (撮影 2005. 1. 5)
   

鳥取県側から峠方向を望む (撮影 2005. 1. 5)

<因幡往来>
 辰巳峠を越える道はかつての「因幡往来」(いなばおうらい)であり、通称・「因幡道」などとも呼ばれたそうだ。 しかし、「倉吉往来」とか「美伯往来」との名を持つ人形峠(及びその前身の峠)が、広く山陰と山陽を結ぶ重要な連絡道であったのに対し、 辰巳峠は地元の生活路としての意味合いが強かったらしい。
 
 因幡往来では因幡・美作の国境を志戸坂峠で越えるルート、現在の国道373号の道筋が主要路だったらしい。鳥取藩の参勤交代にも使われた。後に津山から岡山・鳥取県境を黒尾峠(黒尾トンネル)で越え、鳥取市街に至る国道53号が山陽・山陰連絡の主要路線となって行く。
 
 一方、辰巳峠は津山と鳥取の両市街を結ぶ道とはいえ、志戸坂峠・黒尾峠よりずっと西に位置し、大きく西方に迂回するやや無駄のある経路で、道程も当然長い。

   

<地元の生活路>
 こうした点からして、やはり辰巳峠は上斎原村や佐治村の地元民が利用する程度の峠ではなかったろうか。しかし、この峠を越えて両村の交流がもたらされた。 国境を越えての通婚圏でもあったそうだ。旧上斎原村に伝わる昔話には佐治谷話が多いとのことだが、それも峠を越えた交流の証である。

   

<標高>
 いつものことだが、峠の標高について一言。
 文献(角川日本地名大辞典)では、辰巳峠の標高は主に786mとしている。現在の地形図を見ても、それは極めて妥当な数値である。しかし、それ以外にも同じ文献に780m、795mといった値が見られた。
 
 一言に辰巳峠と言っても、車道開通前の古い辰巳峠、細い林道(後述)が開通したばかりの頃の辰巳峠、立派な2車線路が通じた後の辰巳峠と、 その標高は異なる筈だ。古い辰巳峠なら標高は現在よりずっと高かったろうが、それでも峠左右に続く稜線の繋がり具合からして、795mはあり得ないと思う。 また、2車線路開通後の県境部分なら標高もやや下がるだろうが、780mに届くことはない。「780」などは「786」の誤植とも考えられる。

   
   
   
峠を鳥取側に下る
   

<佐治林道>
 現在の辰巳峠に通じる車道の前身は、佐治林道だったようだ。第2次大戦前まで畔道のような道であったが、昭和36年(1961年)、峠付近の国有林開発のために佐治林道が完成した。延長2,325m。この距離は短く、峠を旧佐治村に下った最初の集落・栃原の手前から峠までの区間と思われる。
 
 一方、旧上斎原村側の宮ケ谷集落は峠至近に位置し、地形も穏やかのことから、岡山県側は佐治林道より早くに峠まで車道が通じていたものと想像する。
 
 佐治林道によって初めて辰巳峠を車道が越えたが、当初は狭小で曲折が多く見通しも悪い道で、小型車しか通れなかったそうだ。文献ではまだ「栃原側から改修中」と出ている。
 
<不動谷林道>
 しかし、文献の「栃原」の項には、「同(昭和)37年完成の不動谷林道が同40年県道に編入され主要地方道江府中和用瀬線となり」という記述が見られる。この不動谷林道は佐治林道と同じものなのか?。

   

<鳥取県側の道の様子>
 主要地方道・江府中和用瀬線から更に国道482号となった現在の峠道は、全線幅員の広い快適な道に生まれ変わっている。 積雪ではっきりとは確認できていないが、完全な2車線路ではないだろうか。冬期の除雪も行き届き、乗用車同士なら離合も苦にならない程だ。 多分、「平常心是道」の石碑が立った1980年代頃に、辰巳峠はガラリとその様相を変えたのではないだろうか。
 
 しかし、岡山県側に比べ、鳥取県側は格段に道の様子は険しい。特に峠直下の1Km程は、佐治川沿いへと急勾配に道が下り屈曲も多い。但し、「百折す」という程ではない。そこそこの九十九折りだ。
 
 北斜面に位置するので、暗い雰囲気となる。ついでに雲行きも怪しくなって来た。峠ではまだ青空さえ覗いていたのに、佐治谷へと下る内にどんより曇り始めた。これも山陰・山陽の大分水界を越えた影響だろうか。


峠から鳥取県側に下る道 (撮影 2005. 1. 5)
旧佐治林道?、不動谷林道?
   
鳥取県側に下る道 (撮影 2005. 1. 5)
   

<雪道の様子>
 路面の積雪も心持ち多い感じだ。車一台分の轍が深く刻まれる。それからすると交通量は多くはなさそうだ。周囲を見渡せば、雪景色の山々が囲んでいる。

   
沿道の様子 (撮影 2005. 1. 5)
   

東屋が見られる (撮影 2005. 1. 5)

<沿道の様子>
 さすがにこの険しい地形では沿道に人家は皆無である。それでも佐治川沿いに降りる前、何かの展望所の様な箇所が設けられていたり、記念碑のような物が立っていたりする。しかし、この雪では立止って近付くこともままならない。ただただ、坂道を下るばかりだ。

   

<除雪車>
 途中で除雪車とすれ違った。こちらがうまく除けて離合を待たなければならない。この後も国道482号を走る内、こういう事態が起きるのだった。
 
 
<栃原>
 峠直下に現れるのは栃原だ。鳥取県側から峠に向かうと最終の集落となる。文献では「栃原」の読みは「とちはら」と「とちわら」の両方が混在していた。別の資料では「とちばら」とするのもあった。


除雪車 (撮影 2005. 1. 5)
   

<栃原(続き)>
 江戸期から明治22年までは栃原村。当地は栃の木が豊富に生育し、木地師(きじし)も多かったとのこと。地名の「栃原」もそういうところから来ているのかもしれない。ただ、古くは「杼原」とも書いたという。
 
 「因幡志」によると、当村から国境の田角峠(辰巳峠)まで21町余とのこと。21町は約2.3Kmに相当する。これは佐治林道の延長とも等しい。古い峠道と現在の車道では、それ程コースが異ならないのかもしれない。

   
佐治川沿いの道となる (撮影 2005. 1. 5)
この直ぐ先で栃原の集落に入る
車の屋根の雪がボンネットに落ちて来た
   

<栃原集落の様子>
 冬の栃原は雪に埋もれた集落である。狭い谷間(たにあい)に位置する為、やや険しい様相だ。岡山県側の恩原高原にある集落とは趣を異にする。山王(さんのう)谷キャンプ場などの案内看板があったが、それらはこの1.5Km先の中集落にある。

   

キャンプ場などの案内看板が立つ (撮影 2005. 1. 5)

栃原集落の中心地に入って行く (撮影 2005. 1. 5)
   

<栃原集落の様子(続き)>
 それでも栃原集落の中心地に差し掛かると、意外に多くの人家が沿道に見受けられた。江戸期から明治・大正・昭和期と続いて、ほぼ10以上の世帯数を維持してきたようだ。この栃原から用瀬駅まで路線バスが通い、住民の公共交通手段となるらしい。

   
栃原集落の様子 (撮影 2005. 1. 5)
住民が歩いている
   

<栃原集落の様子(続き)>
 丁度、雪道を住民の方々が歩いていた。どこかで会合し、それぞれの自宅に引き返して行くといった様子だった。

   
栃原集落の様子 (撮影 2005. 1. 5)
   

<中集落>
 栃原を過ぎると暫く人家は絶え、佐治川沿いに寂しい道が続く。そして次に出て来るのは中集落だ。集落の入口付近に県道33号(主要地方道)・三朝中線が合流して来ている。しかし、この道は三朝にはまだ通じていないようだ。
 
 中には山王谷キャンプ場や「たんぽり荘」という宿泊施設がある。佐治川左岸の支流・山王谷(川)下流には景勝・山王滝もあるとのこと。山王渓谷周辺は紅葉の名所としても知られる。しかし、こうした観光資源も冬期は雪に閉ざされた感じである。

   
中集落に入って行く (撮影 2005. 1. 5)
また除雪車がやって来た
この先で県道33号が左に分岐する
   

やる気地蔵の案内 (撮影 2005. 1. 5)
「この先1.3Km左折」とある

<中集落以降>
 また暫く人家は見られない。やる気地蔵の案内看板が出て来た。風景写真を撮ってもモノトーンばかりで、白黒写真かと間違えそうだが、こうした看板を写すと、やっと色味が出て来る。

   
   
   
佐治川ダム付近 
   

<佐治川ダム湖>
 既に栃原・中といった集落を過ぎているのに、その後に厳しい様相の湖が現れる。湖面全体が結氷しているようで、人を寄せ付けないような険しさだ。 佐治川本流を堰き止めた佐治川ダム湖である。当初は治水目的で昭和47年に建設された重力式コンクリートダムだったが、その後発電用に目的変更されたとのこと。 湖岸には平坦地が少なく、観光には向かないらしい。

   
佐治川ダム湖 (撮影 2005. 1. 5)
右奥が佐治川ダム
   

<名馬谷>
 道は湖の右岸を行く。途中大きな支流を渡る。橋の名は「新名馬谷橋」(しんめいばだにはし)とあった。多分、その支流を名馬谷(川)と呼ぶのだろう。「新」とあるので、ダム湖ができる前に架かっていた橋が「名馬谷橋」ではなかったか。


新名馬谷橋を渡る (撮影 2005. 1. 5)
   

<佐治川ダム>
 その内、佐治川ダムが間近に見えて来る。しかし、道の本線はその手前でトンネルに入って行く。道路看板では行先に「鳥取・用瀬」とある。

   

佐治川ダム (撮影 2005. 1. 5)

ダムの手前で右手のトンネルに入る (撮影 2005. 1. 5)
   

<ダムの展望所>
 トンネルに入るちょっと手前、正面にダムを望む地点で少し路肩が広くなっている。そこで車が停められ、ダム湖を眺められる。雪のない季節なら堰堤近くまで行けるのだろうが、積雪時は難しい。雪道の旅はほとんど車道から出られず、身動きが不自由である。

   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 1994.12.31)
今とほとんど様子は変わっていない
   

<付近の様子>
 周囲を見渡すとモノトーンの世界が広がる。特に佐治川ダム付近までは谷が険しい。自然の脅威を感じるばかりだ。

   
ダム周辺の山の様子 (撮影 2005. 1. 5)
   

西佐治周辺案内の看板 (撮影 2005. 1. 5)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<西佐治>
 佐治川ダムは既に尾際(おわい)地内にあり、ダム湖から下ると尾際の集落が出て来る。そこに「西佐治周辺案内」と題した看板が立っていた。 尾際から中付近までを「西佐治」と呼ぶようだ。尾際にはやる気地蔵がある。また、湖右岸沿いには展望台や名馬公園があったようだ。 しかし、雪で近付けるような状態ではなかったと思う。

   

<尾際以降>
 尾際を過ぎる頃から谷は徐々に穏やかな様相を呈して来るく。路面にもアスファルトが多く覗くようになった。

   
道の様子 (撮影 2005. 1. 5)
   

道の様子 (撮影 2005. 1. 5)

<佐治谷>
 栃原・中・尾際と小さな集落を辿って来たが、この先もまだまだ佐治谷には多くの集落が点在する。峠にあった道路看板では用瀬まで24Kmとあった。これ以降は長いので、ここはひとつ割愛させて頂くこととする。

   

<国道53号に接続>
 峠道は国道53号に行き着いて終了となる。直ぐ近くで佐治川もその本流である千代川(せんだいがわ)に注いでいる。津山市街からのことを思うと、長い長い道程であった。

   
国道53号に接続する (撮影 2005. 1. 5)
   
   
   

 考えてみると、辰巳峠を再訪してから既に13年が経つ。当時のことを思い出すのに随分手間がかかった。しかし、これでこの峠に関しても、思い残すことがないと思う、辰巳峠であった。

   
   
   

<走行日>
(1992.10.11 根知遠藤林道で上斎原村に入り、石越経由で人形峠へ ジムニーにて)
(1992.10.19 美作北2号林道より羽出川沿いに下り、奥津温泉を通過して美作北林道へ ジムニーにて)
・1994.12.31 鳥取県→岡山県 ジムニーにて
(1999.12.27 上斎原村から人形峠へ ジムニーにて)
(2005. 1. 4 上斎原村に宿泊 キャミにて)
・2005. 1. 5 岡山県→鳥取県 キャミにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 32 島根県 昭和54年 7月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典 33 岡山県 1989年 7月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・中国四国 2輪車 ツーリングマップ 1989年7月発行 昭文社
・ツーリングマップル 6 中国四国 1997年9月発行 昭文社
・マックスマップル 中国・四国道路地図 2011年2版13刷発行 昭文社
・日本百名峠 井出孫六編 平成11年8月1日発行 メディアハウス
・日本の分水嶺 堀公俊著 2000年9月10日発行 山と渓谷社
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

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