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山伏峠 (大笹峠)
  やんぶしとうげ (おおざさとうげ)  (峠と旅 No.003-3)
  日本の険しい山岳道路を代表する峠道
  (掲載 2017.10.1  最終峠走行 2004. 8. 7)
   
   
   
山伏峠 (撮影 2004. 8. 7)
手前は静岡県静岡市葵区小河内
奥は山梨県南巨摩郡早川町雨畑
道は林道井川雨畑線
峠の標高は約1,840m (地形図の等高線より)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
この峠の部分だけ見ると、何だか立派な県道でも通じているかのようだが
山伏峠の峠道は、そのほとんどが長くて険し山岳道路になっている
 
 
 
   

<掲載理由(余談)>
 妻が、もうあの峠は通れそうにないと言う。どこの峠か名前を覚えていないようだが、山梨県と静岡県の境にある峠だそうだ。どうやら山伏峠のことらしい。 この峠は13年前に結婚前の妻と一緒に越えている。妻は自分で車を運転したこともあって、とても印象に残っているようだ。 あの峠道を運転したことがある女性も珍しいことだろう。
 
<山梨県の林道通行規制情報>
 妻が通れないという根拠は、 山梨県が出しているwebサイト「林道通行規制情報」(以後、「林道情報ページ」)からの情報だそうだ。 山梨県にある県営林道に限るが、林道の通行可否などを掲載している。妻は時々そんなサイトを覗いているようだ。 状況の変化が激しい林道に関して、こうして情報を提供している都道府県は他にはあまりないのではないだろうか。なかなか便利そうだ。
 
<規制解除未定>
 それによると、県営林道井川雨畑線は「徒歩による通行も禁止」され、更に「規制解除未定」とのこと。 こうした状況がずっと続いているらしい。林道井川雨畑線は私が越え始めた頃から急速に舗装化が進み、ほぼ全線舗装寸前まで行った。しかし、険しい山岳道路に変わりはない。 崩落などが頻繁に発生し、維持することが難しかったのだろう。山梨県としても、もうほとんど諦めているのではないかと思われるくらいだ。
 
<No.3の峠>
 山伏峠はホームページ【峠と旅】で「No.003」の峠となる。ホームページを初めて出した時に掲載した10の峠に含まれる。 あいうえお順で3番になっただけで、日本各地にいろいろある峠の中から最初に選んだ峠の一つになる。 二度と越えられないなら、過去に撮った写真を頼りに、もう一度詳しく掲載してみたいと思った。 このところ、ちまちまとした小さな峠道が多かったので、この壮大な峠を改めて見て行きたいと思う次第であった。(今回が最終話)
第1話第2話・画像集

   

<所在>
 峠は山梨県南巨摩郡(みなみこまぐん)早川町(はやかわちょう)雨畑(あめはた)と静岡県静岡市葵区(あおいく)小河内(こごうち)の境にある。 静岡市が政令指定都市になる前は、大字小河内だったと思う。山伏峠は山梨県側から峠を越え、静岡県に流れる大井川の最上流部にある井川へと通じる峠道だ。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<立地>
 峠は、赤石(あかいし)山脈(通称:南アルプス)南端の笊ヶ岳(ざるがたけ)から更に南の山伏岳(やんぶしだけ)へと続く尾根上にあり、この稜線は山梨県と静岡県の県境となっている。

   

<水系>
 峠の山梨県側には早川(はやかわ)の支流・雨畑川(あめはたがわ)が流れ下る。早川は富士川の一次支流で、富士川水系となる。
 
 峠の静岡県側は、大井川(おおいがわ)の支流・小河内(こごうち)川が下る、大井川水系である。峠は広くは富士川と大井川の分水界、狭くは雨畑川と小河内川の分水界となる。

   

<大笹峠(峠名について)>
 山伏峠の歴史はそう長くない。古い道路地図では峠前後に車道が通じていなかったり、道は描かれていても峠名が書かれていなかったりした。現在の地形図にも依然として峠名の記載は見られない。
 
 元々ここに通じる峠は大笹峠と呼ばれていた。登山地図(日地出版、南アルプス南部、1990年版)ではまだ車道が通じず、 その代わりに山伏岳の西の肩の鞍部に、「大笹峠」という山道の峠が記載されていた。 また、山伏岳に登った方から教えて頂いたところによると、山頂に立つ案内板にも「大笹峠」と出ていたそうだ。 このことからも大笹峠という峠があったことは間違いないようだ。正確な読み方は分からないが、多分「おおざさとうげ」でいいのだろう。
 
 また、文献(角川日本地名大辞典)の井川雨畑林道に関する記述で、「雨畑川を遡行して(中略)、大笹峠近くを越えて大井川上流の小河内に通じる」とある。 少なくとも林道開通以前から大笹峠があったことは明確だが、林道の峠とは別物のように取れる。しかし、位置的にはほとんど区別はつかない。 最近の地形図では、峠の部分に車道しか描かれてなく、かつての大笹峠の山道は見えない。現在の車道の峠が「大笹峠」の名を継承しても何ら問題なさそうである。
 
 それでも、最近の道路地図や現地の看板などでは皆「山伏峠」となっている。どこにも大笹峠の名は見られない。 これまでは大笹峠に固執し、「大笹峠・山伏峠」などと並記して来たが、これからは世の趨勢に倣い、「山伏峠」をメインにしておこうと思う。 大笹峠と呼ばれる峠は少なく、一方、山伏峠の名は有り触れている。その意味でも、大笹峠という峠名は気に入っていたのだが。

   

<山伏峠>
 文献には山伏峠に関する記述は見られない。やはり新しい名前だからかと思った。しかし、唯一「雨畑」の項に、「山伏峠の山中に源を発する雨畑川流域」とある。文献の発行年(昭和59年)以前より「山伏峠」の名があったことを示すのか。一方、同じ文献の「雨畑川」の項には、「山伏岳の東北斜面から北流し」と出ているのだ。前述の「山伏峠」は「山伏岳」の誤植かとも疑える。
 
 大笹峠の別称として山伏峠の名も古くからあった可能性は僅かながら残るが、やはり林道開通に伴い生まれ変わった大笹峠を、新しく山伏峠と呼び変えたものとするのが妥当だろう。当然ながら、山伏峠の由来はその近くの山伏岳によるものと思う。

   

<やんぶし>
 地形図では、その山のことを単に「山伏」とだけ書き、「やんぶし」とルビが振ってある。ここでは山を指すことを明確にする為、「山伏岳」と書いておく。 「岳」が付くかどうかは別として、「山伏」を「やんぶし」と読むことは、人からも教えてもらった。文献でも山伏岳は概ね「やんぶしだけ」となっている。 一箇所、「やまぶせ」としてある所があったが、まあこれはお愛嬌だ。その山の脇に通じる山伏峠も、当然ながら「やんぶしとうげ」と読むことになるだろう。
 
 ここ以外の山伏峠はほとんどが「やまぶしとうげ」で、岡山県のが「やまぶしだわ」とちょっと変わっている。「やんぶしとうげ」はここだけの呼び名で、この点では差別化が図れるというものだ。

   
   
   
山梨県側から峠へ 
   

<早川沿い(余談)>
 山梨県側から峠に向かうには、まず富士川支流の早川(はやかわ)に沿う県道37号(主要地方道)・南アルプス公園線を遡らなければならない。以前は早川の上流部(野呂川と呼ぶ)にある広河原を経由し、夜叉神峠(トンネル)を越えて南アルプス市(以前の芦安村)方面へと抜けられた。南アルプスの奥深くを行く、壮大な周遊コースである。しかし、近年になって広河原前後は一般車通行止となり、もう早川の上流方向からアクセスすることはできなくなった。
 
 そればかりでなく、奈良田湖近くから分岐する丸山林道は、通りたいと思い立って以来(1991年以降)、一度も通行可能となった形跡がなく、 また五開茂倉林道の十谷峠(じゅっこく)は富士川町(旧鰍沢町)側がなかなか開通しない。山伏峠も通行止となる現在、早川町内から上流部では、早川沿いの県道37号から他の地へと抜ける道が皆無に等しい。
 
 2004年8月に訪れた時は、途中の電光掲示板に「奈良田〜広河原 時間通行止」と出ていた。この時期はまだ一般車が広河原まで行けたようだ。
 
 県道37号は快適だが、ダンプカーの往来が多い。かつて電源開発道路として開削され、ダムや発電所などが多く造られた。今も沿線の各地で工事が行われているのだろうか。 早川の名の由来は、流れが極めて急流であったことによるという。 文永年間、日蓮が身延山に入った時、北に流れる大河が「早き事箭(矢)をいる(射る)か如し」であったところから、「早河」と名付けたとも伝わる。 糸井川静岡構造線の断層がほぼ早川沿い通じ、新倉で断層露頭も見られる。険しい地であり、災害による復旧工事なども続いているのかもしれない。
 
 今の県道37号は、以前は120号だったと思う。ちょっと古めかしく県道野呂川波高島停車場線という名であった。 富士川左岸にある身延線の波高島(はだかじま)駅を起点に、富山橋で富士川を渡り、国道52号と交差した後、早川沿いに遡って行った。 現在は洒落た名の南アルプス公園線という主要地方道となり、南アルプス街道などとも呼ばれる。

   
早川沿いの県道37号 (撮影 2004. 8. 7)
「南アルプス街道」などとも呼ばれる
この辺りの早川は大河の趣だ
   

<大島>
 早川沿いを遡ること10km余りで、早川町役場前を過ぎ、直ぐに早川支流・雨畑川(あめはたがわ)を雨畑橋で渡る。この付近は大字大島の地となる。 雨畑川が早川に合流する地点で、付近は大きな州を形成し、比較的広々としている。江戸期からの大嶋村で、明治7年に硯島村(すずりしまむら)の一部となり、旧村域は大字大島となる。 その後、昭和31年に硯島村など6か村が合併して現在の早川町が誕生している。

   
雨畑橋を渡る (撮影 2004. 8. 7)
この先左に県道810号が分岐する
道路看板の行先は「雨畑」となっている
   

県道810号分岐 (撮影 2004. 8. 7)
左が県道810号、右奥が県道37号を大河原方面へ

<県道810号分岐>
 大島からは雨畑川沿いに県道810号・雨畑大島線が分岐する。この道が行く行くは林道井川雨畑線となり、山伏峠を越える。
 
 
<分岐の看板>
 県道810号方向には次のような案内看板が立つ。
 名瀑見神の滝
 宿泊・温泉VILLA雨畑 すず里の湯
 雨畑硯 硯匠庵
 
 雨畑は硯(すずり)の産地で知られる。

   

分岐の正面 (撮影 2004. 8. 7)
県道37号の道路看板が立つ

南アルプス街道の道路看板 (撮影 2004. 8. 7)
左は広河原(ひろがわら)・西山(にしやま)へ
右は下部(しもべ)・身延(みのぶ)へ
   

<分岐の様子>
 県道810号の分岐には、信号機などはない。以前は県道810号に関する電光掲示板が立っていたが、今はそれもないようだ。これも、山伏峠が通行止となっている事に関係あるのだろうか。


分岐より県道37号を雨畑橋方向に見る (撮影 2004. 8. 7)
電光掲示板が立つ
   

県道810号側から分岐を見る (撮影 2004. 8. 7)
左手に看板が並ぶ

<井川雨畑林道の看板>
 分岐の角に、小さく井川雨畑林道に関する看板が立っていた。一つには何も書かれず、もう一つには、
 井川雨畑林道は、マイクロバス、及び、
 中型、大型バスは進入できません。

 
 とある。現在はここに通行止の「お知らせ」が出ていることだろう。

   

井川雨畑林道に関する看板が立つ (撮影 2004. 8. 7)

井川雨畑林道に関する看板 (撮影 2004. 8. 7)
   

<山伏峠の案内>
 看板が立つ擁壁の上を見上げると、そこにも案内看板があった。県道37号方向には、「白鳳溪谷、奈良田、西川温泉」とある。 そして県道810号には、「山伏峠、ヴィラ雨畑」とあった。山伏峠が案内されているのは嬉しい。しかし、ローマ字で「Yamabushi Toge Pass」とあるのだ。「やまぶし」ではなく、「やんぶし」の筈だと、やや残念である。

   

擁壁の上に案内看板 (撮影 2004. 8. 7)

「山伏峠」と案内がある (撮影 2004. 8. 7)
   
   
   
県道810号を行く 
   

<雨畑>
 県道810号に入ると、もうそこは雨畑の地である。大島が早川沿いの狭い範囲であるのに対し、大字雨畑は、多分雨畑川水域の全域を占めるのではないだろうか。広大な地域である。
 
 古くは「雨端」とも書き、江戸期からの雨畑村で、明治7年に大島村と合併し、硯島村の一部となる。その村名は、雨畑の名産である「硯」と大島村の「島」を取って「硯島」としたそうだ。現在の早川町では、元の硯島村の範囲を便宜的に「旧硯島地区」と呼ぶらしい。
 
<雨畑川沿いの道>
 道は早くも険しい様相となる(下の写真)。雨畑川左岸の高みに通じ、荒々しい雨畑川を眼下に望む。 大島から分かれて雨畑川沿いに雨畑集落へと通じる道は、昭和9年の軌道開通に始まり、昭和16年からは雨畑林道として自動車用道路への改修が進められたそうだ。 車の通行が可能となったのは何と昭和期である。戦後の昭和25年からは大島から雨畑集落までバス運行が開始された。こうしたことからも雨畑川流域は険しい地であることが想像できる。
 
<県道雨畑大島線>
 雨畑林道は昭和51年に大島〜雨畑間が県道雨畑大島線となった。古い県道番号では177号だったと思う。そして雨畑から先は広域林道井川雨畑線とし車道開削が進められ、山伏峠を越えて静岡県へとつながるようになって行くのだった。

   
雨畑川の様子 (撮影 2004. 8. 7)
   

<雨畑集落>
 大字雨畑は雨畑川本流やその支流近くなどに大小の集落が点在する。古くは枝村(枝郷)として久田子・鳥屋・於伊勢・立石・下見原・笈平・馬場・奥沢・細野・稲又・室草里・長畑という12もの村があったそうな。
 
 現在は行政区域としての雨畑という名の集落はないとのこと。 地形図などで雨畑湖の直ぐ上流側に如何にも大きな雨畑集落があるように読めるのだが、正確にはそこは北村と原村という複数の集落で構成されているらしい。そこが雨畑の地で最も大きな集落となるので、ここでは雨畑の中心的などと呼んでおく。
 
 地形図では雨畑以外に幾つかの集落名が載っているが、実際はもっと沢山あるようだ。 県別マップルでは道沿いに「二軒家」(にけんや)とか「戸屋(とや)入口」というバス停が見られ、戸屋トンネルとか下見原(しだみはら)トンネルを抜ける。これらも集落名となるようだが、沿道にはほんの僅かな人家が見られる程度だ。

   

 県道から少し下って橋が架かっているのが見える(下の写真)。それが雨畑川右岸の高台にあるの久田子(くたし)という集落へ通じるらしい。その後、左岸の県道より更に高い所に戸屋(とや)集落があるようだ。かつての「鳥屋」に相当するのだろう。
 
 この付近は、これより上流部にある雨畑ダムの完成により、道が高所に付け替えられているのだろうと思っていた。しかし、元から集落は高い位置にあったようだ。それだけ雨畑川が急流だった為か。

   
雨畑川の様子 (撮影 2004. 8. 7)
下に橋が架かる
   

<雨畑ダム>
 県道810号を走ること3km余りで雨畑ダムの堰堤脇に出る。雨畑川本流を堰き止めたダムだ。 水力発電用に日本軽金属が建造したもので、発電される電力は自家営業用として静岡県の日本軽金属蒲原工場に送電されるそうだ。 昭和40年に着工され、同42年完成、同44年には雨畑湖の開湖式が行われたとのこと。山梨県初のコンクリートアーチ式ダムであった。

   

雨畑ダム堰堤近く (撮影 1991. 9.22)

雨畑湖の上流方向を見る (撮影 1991. 9.22)
   

<雨畑湖>
 その人造湖は雨畑湖と呼ぶ。この湖はいつ行っても水が満杯のような気がする。湖面に多くの流木が浮いている時もある。やや恐ろし気な感じがしないでもない。 雨畑川は断層破砕帯を流れる為、土砂や砂礫の流出が非常に多いそうだ。それが湖底に堆積する。それも湖の水面がくなっている理由だろうか。

   
雨畑湖をダム方向に見る (撮影 2004. 8. 7)
寂しい雰囲気
   

<湖岸沿い>
 この湖底には2戸の民家と早川町役場硯島支所が沈んだそうだ。今の堰堤脇から始まる湖岸沿いの県道に暫く人家はなく、そのことも寂しい感じを受ける要因になっている。


湖岸を行く (撮影 2004. 8. 7)
   
   
   
馬場 
   

馬場隧道 (撮影 2004. 8. 7)
雨畑ダム方向に見る
手前が馬場集落

<馬場>
 湖に突き出た小さな半島の付根を狭い馬場隧道で抜けると、景色は一変する。その一帯が馬場(ばんば)集落になる。 それまで県道沿いは1、2軒の人家がポツポツ見られる程度で、集落らしい集落がない寂しい道だった。それが急に多くの建物が現れて、ちょっとびっくりさせられる。
 
 それにしても、集落直前にある馬場トンネルの狭いこと。この先には雨畑の大きな集落もあるというのに、バスなどの通行は苦労することだろう。 トンネルの集落側にはゲート箇所があり、異常気象時などでは通行止になるようだ。このゲートが閉じられると、雨畑集落の大部分は孤立することとなる。
 
 馬場集落に入ってまず最初に目にする大きな建物は、硯島小学校・中学校の跡地となるようだ。開校は昭和22年とのこと。端の方に「森林とのふれあい環境整備対策事業施設総合案内図」と題した看板が掛かる。

   

馬場集落 (撮影 2004. 8. 7)
目の前の大きな建物は学校の跡地のようだ
体育館だったのだろうか

馬場にある案内図 (撮影 2004. 8. 7)
地図は下が北
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<老平入口>
 看板の右横から道が分岐する。道路脇の看板に「老平入口」とある。この先の奥沢谷(雨畑川の支流)沿いに老平(おいだいら)集落があるようだ。 雨畑12枝村に「笈(おい)平」という村があったそうだが、現在の老平に相当するのだろう。 また、かつて老平の枝村で奥沢(おくさわ)という村があったそうだが、その奥沢谷沿いに立地していたのではないだろうか。
 
 老平への分岐の角の案内看板では、右の老平方向に「笊ヶ岳」(ざるがたけ)と案内されている。奥沢谷をその源流へと遡ると笊ヶ岳がそびえる。一方、左の県道の続きは「山伏峠・八紘嶺・静岡市」とある。山伏峠が通行止の現在、「静岡市」の文字は空しく見えることだろう。

   
老平入口 (撮影 2004. 8. 7)
   

<「山伏峠に至る」(余談)>
 林道井川雨畑線を走り始めた頃は、まだ峠の名前も分からず、情報を得るには沿道の看板も十分ではなかった。 唯一、「森林とのふれあい・・・」の案内図の右上に、「山伏峠に至る」と書いてあった。ところが、2004年に訪れた時は、消されているようであった。単に文字がかすれてしまっただけかもしれないが。

   
以前の案内図 (撮影 1994.11. 6)
この写真では読み難いが、右上に「山伏峠に到る」と書かれていた
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<ヴィラ雨畑>
 小・中学校跡地を利用して建てられたのが温泉・宿泊施設のヴィラ雨畑で、体育館と思しき建物の並びに入口がある。確か公共の宿だった筈だ。一度泊まってみたいと思っていたが、果せていない。
 
 余談だが、早川町では大原野にある「光源の里温泉 ヘルシー美里」に泊まったことがある。ここも学校跡地に建てられた町営施設で、建物も旧校舎が利用されていて、面白い趣きだった。


ヴィラ雨畑の玄関先 (撮影 2004. 8. 7)
   

雨畑湖吊り橋 (撮影 2004. 8. 7)

<馬場以降>
 ヴィラ雨畑の前を過ぎるとまた湖畔に出る。後を振り返ると、雨畑湖吊り橋(湖上橋とも)が架かっている。ほぼ雨畑湖の中央に位置する。 なかなか怖そうだ。山伏峠を静岡県側に下った井川湖にも井川大橋という吊り橋が架かる。そちらは車でも渡れる。何度か渡っているが、常用される車が通れる橋としては、これより怖い橋を知らない。
 
 湖岸を行く沿道からはまた暫く人家が消える。前方のちょっとした高台に集落が望めたが、老平だと思われる。

   
雨畑湖畔より上流方向を見る (撮影 2004. 8. 7)
前方に奥沢谷を渡る奥沢橋が架かる
その上方に見えるのは老平の集落だろう
   

<奥沢橋>
 雨畑湖に注ぐ奥沢谷には奥沢橋が架かる。橋桁と湖面までの距離が非常に近かった。湖はやはり満杯である。これで大雨などが降れば、どういうことになるのだろうか。


奥沢橋を渡る (撮影 2004. 8. 7)
   
湖岸より馬場方向を望む (撮影 2004. 8. 7)
大きな白い屋根は学校跡だろうか
   
岸辺より馬場方向を望む (撮影 1994.11. 6)
霧が立ち込める湖畔に馬場集落がひっそり佇む
   
   
   
雨畑の中心地へ 
   

<雨畑湖以降>
 道路地図などでは、湖岸も過ぎてその上流部の川沿いに至るが、川幅は依然と広く、水かさが増している時はまだ湖が続いているかのようだ(下の写真)。 すると、数100m先に比較的大きな集落が見えだす。これまでずっと、そこが大字雨畑の中心地、雨畑集落だと思ってきたのだが、雨畑という名の集落などはないと言われると、何だか拍子抜けである。

   
前方に集落が見えて来る (撮影 1991. 9.22)
最近はこの辺りの道は改修され、ガードレールも完備されたようだ
一方、沿道の木々が育って見通しがあまり良くない
   

雨畑の中心地へ (撮影 2004. 8. 7)

<雨畑中心地へ>
 沿道にポツポツ人家が現れ、やがて大きな集落へと入って行く。数100mに渡り、狭い道に家々が軒を連ねている。
 
 集落に入って直ぐの所では、「雨畑硯」の看板が見られた。しかし、文献では「雨畑硯の原石採掘と加工は近年に至るまで数軒の硯製造業者が存在し、多くの技工者の姿がみられたが、最近急激に減少、現在では1軒を数えるのみとなった」と記している。文献の発行から更に数10年が経つ今、かつての名産だった硯は、もう手に入らないのだろうか。妻は書道を趣味とするので、いい物を一つ求めたいと思っていたのだが。

   
雨畑中心地 (撮影 2004. 8. 7)
雨畑硯の看板が立つ
   

<集落の様子>
 「雨畑硯」の看板は僅かしかなく、替わって旗竿には「遊漁証販売所」とあった。以前は硯の制作を生業としていた人も多かっただろうが、今はひっそりとした集落である。

   

<林道起点>
 集落を抜けた先の橋を渡った所に林道の交通情報の看板が立つ。場所は「見神の滝」の入口で、県道810号を走って約6.6kmの地点となる。明確な看板はないが、林道標柱も立っているので、ここが県道の終点・林道の起点だろう。

   

林道起点 (撮影 2004. 8. 7)
この時は「この先工事中 通行注意」とあった
今頃は「通行止」と出ているのだろう

「通行の規制」の看板 (撮影 2004. 8. 7)
11人乗り以下なら一般車両も通行できることになる
   

<林道看板>
 看板には次のようにある。
 ここより
 長畑ゲートまで 17.81km
 県境まで 28.045km

 
 前述の山梨県の林道情報サイトでは、終点を「県境:山伏峠」とし、延長は28,044mと出ていて、ここが林道起点で間違いないようだ。ちなみに舗装延長は23,456mとのこと。分かり易い数値である。

   

林道の交通情報の看板 (撮影 2004. 8. 7)

林道標柱 (撮影 2004. 8. 7)
「見神の滝」入口に立つ
   

<道程>
 県道区間を含めると、山伏峠の山梨県側の道程は約34.6kmとなる。静岡県側は県道60号に接続するまで約17kmで、合計51kmを超える長い距離だ。 静岡県側は早くに全線舗装化され、山梨県側も舗装化率は9割近いが、この51kmもの全線に渡って険しい道が続く。センターラインなど滅多にお目に掛かれない。これ程の峠道は他ではなかなか見られない。

   
「見神の滝」の駐車場から林道起点を見る (撮影 2004. 8. 7)
側らにトイレがある
   

<通行止区間>
 山梨県の林道情報サイトによると、この林道起点から5.3km先の「稲又地区奥」より通行止になっているようだ。ただ、平成30年度にはその先にある長畑ゲートまでは解除予定とのこと。しかし、長畑ゲート以降は「規制解除未定」である。

   
「見神の滝」の園地より林道起点を望む (撮影 2004. 8. 7)
   

「見神の滝」の看板 (撮影 2004. 8. 7)

<見神の滝(余談)>
 「見神の滝」の周辺は、駐車場やトイレ、ちょっとした園地が設けられていて、車でも立ち寄り易い場所となっている。長大な山伏峠だが、気軽に使えるトイレは山梨県側のここと、静岡県側の県道60号沿い出た田代にある「てしゃまんくの里」くらいであろう。
 
 「見神」は「みかみ」と読むのだろうか。滝つぼに金があると伝わるそうだ。この雨畑川流域は甲州金山の1つ・雨畑金山の地で、一帯に金鉱が点在していたそうだ。川床から砂金が採れたこともあり、そうしたことがこの滝の言伝えとなって残るのだろう。

   
「見神の滝」の看板 (撮影 2004. 8. 7)
   

雨畑湖景観保存地区の看板 (撮影 2004. 8. 7)
「見神の滝」の園地の中に立つ
下に県道(終点間際)が通る
道沿いの人家の前には人が立っていた
この家はもうないようだ

雨畑湖景観保存地区の看板 (撮影 2004. 8. 7)
   
見神の滝 (撮影 2004. 8. 7)
   
「見神の滝」より流れ下る川 (撮影 2004. 8. 7)
水の一部は水車小屋へと導かれていた
   

 「見神の滝」で一服したら、いよいよ林道へと進む。

   
   
   
林道起点以降 
   

<林道案内図>
 林道を走り始めて直ぐ、山梨県による林道の案内図が立つ。図中、山梨県側は「県営林道 井川雨畑線」とあり、静岡県側は「静岡市営林道 井川雨畑線」となっている。ただ、案内図には静岡県側の道はほとんど描かれていない。
 
 山梨県側の道筋は、概ね雨畑川本流左岸をその上流部まで遡り、その後右岸側の斜面をよじ登って行く。右岸に入ってから道は大きく蛇行を開始し、なかなか険しそうな様子だ。

   

ジムニーの脇に看板が立つ (撮影 1991. 9.22)
多分、それが林道案合図が立っていた所ではないか

林道案内図 (撮影 2004. 8. 7)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<沿道の様子>
 道は雨畑川の川面より高みへと徐々に高度を上げて行く。川底を下に望むようになり、険しい谷の様子を知ることとなる。

   
上流方向を望む (撮影 1991. 9.22)
支流の川が流れ下って来ている様子
険しい景観だ
   

<雨畑集落を望む>
 途中、雨畑の中心地方向を望む箇所があった。大きく蛇行する雨畑川の川底は広く、一面に砂礫が堆積している。その荒々しい景色の中に集落は佇む。

   
雨畑集落方向を望む (撮影 2004. 8. 7)
川岸に沿って道のような物が見える
   

 この場所は雨畑川を広く望む地として、過去にもほぼ同じ所を写真に撮っていた。よくよく見ると、僅か10数年の間でも変化が見られる。岬の様に川に突き出た部分には、以前は何もなかったが、その後、川岸に沿って道らしい物が通じているようだ。

   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 1995.10. 7)
少し上流側
   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 1991. 9.22)
更に上流側
   

<細野>
 雨畑川の谷はいよいよその奥深さを増して来る。もう雨畑の中心集落を過ぎたが、この先にまだ4つ程の集落が控えている。
 
 雨畑川の上流方向を望むと、川面を遥か下に見る上空にポツンと赤い屋根が見られた(右の写真)。それが細野(ほその)の集落である。圧倒する自然の中に消え入りそうである。
 
 林道はその集落の直ぐ裏手に通じる。車道から見下ろすと、大小の屋根が寄り集まった小さな集落の様子がうかがえる(下の写真)。その向こうは雨畑川の谷が深く切れ落ちていた。この険しい地に、どのようにして人が住み着き、集落を形成していったのだろうかと思う。


赤い屋根がポツリと見える (撮影 2004. 8. 7)
細野集落である
   
細野集落の様子 (撮影 2004. 8. 7)
   

 どうやらこの裏手の山に金鉱があったそうだ。金を産出する雨畑の地は、中世以降、全国各地から多くの鉱山師が入山して来た。そして現地に住み着き、それが集落の始めとなったようだ。細野もそうした集落の一つなのだろう。
 
 雨畑の金山は江戸期を通じて栄え、近代以降も採掘が継続されたようだ。しかし、現在に至っては、採掘は途絶えているものと思う。耕作地などほとんどない地では、集落の維持は難しいことだろう。

   

<蛇行する雨畑川>
 細野を過ぎた直ぐ先に、一際川の蛇行が鋭い箇所がある(下の写真)。ほとんどヘアピンカーブだ。なかなか面白い写真スポットとなっている。紅葉の時期などはまた見事だ。

   
蛇行する雨畑川を望む (撮影 2004. 8. 7)
   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 1994.11. 6)
紅葉の季節
   

<吉沢>
 県別マップルには細野を少し過ぎた先に「古沢」という地名が書かれている。一方、早川町のホームページに、場所は不明だが吉沢(よっさわ)という集落が紹介されている。「古沢」は「吉沢」の誤植であろうか。
 
 吉沢には天文十九年(1550年)まで金鉱の採掘に従事した人々の家が11戸もあったそうだ。しかし、その年に大水があって集落は流出してしまった。 現在の地形図には吉沢も古沢の文字もない。ただ、僅かに人家の記号が書かれている。その場所では写真を撮っていなかったので、実際に人家があったかどうかははっきりしない。

   
雨畑川を下流方向に見る (撮影 2004. 8. 7)
道は左岸に通じる
   

<稲又>
 道は千島トンネルを過ぎると、支流の稲又谷の上流部へと迂回する。少し登って稲又谷を稲又川橋で渡った先に、比較的大きな稲又(いなまた)の集落がある。 道は集落内をS字を描いて登り、その途中より集落を一望する(下の写真)。男性がポツリと一人、集落内に通じる道を歩いていた。この地も金山に関係し、また雨畑の名産となる雨畑硯の原石が稲又谷から採掘されている。

   
稲又 (撮影 2004. 8. 7)
   

稲又トンネル (撮影 2004. 8. 7)

<稲又トンネル>
 道は稲又谷右岸を下り、稲又トンネルを抜けてまた本流沿いに出る。稲又トンネルは比較的新しそうに見える。坑口上部に掛かる扁額は、「隧道」ではなく「トンネル」とあった。改修されたのかもしれないが。
 
<室草里>
 こうしてトンネルが維持され、道の状態も良いのは、この先に集落があることと無縁ではないだろう。暫く行くと林道より下の川側に、人家の屋根が点在した。 車道には住民の方も出ていて、何か作業をしている様子だった。室草里(むろぞうり)の集落である。斜面を切り開いて、畑が耕作されていた。室草里は焼畑の里であるとのこと。 古い道路地図ではここに学校のマークも記されていた。かつては近隣の集落から児童が集まって来ていたのだろう。

   
室草里 (撮影 2004. 8. 7)
   

<通行止箇所>
 山梨県の林道情報サイトでは、林道起点から5.3km先の「稲又地区奥」より通行止となっていたが、5.3kmとは稲又トンネル辺りである。室草里は林道を走って7.5km前後に位置し、集落があるのに通行止とするのは変である。室草里までは通れるのではないだろうか。
 
 険しい雨畑川の谷に通じる林道だが、こうして時折集落が出て来るのは、何だかホッとする。かつて甲斐と駿河の間を徒歩で行き来した旅人もあったかもしれない。長旅の途中、そうした集落で一息つきながら、峠を越えて行ったことだろう。

   

<長畑>
 谷が一時期細り、道は地蔵橋でちょっと雨畑川の右岸に入り、また直ぐ戻って来る。間もなくして開けた場所に出た(下の写真)。建物も僅かながら見られる。長畑(ながはた)のようだ。畑なども見られるが、ほとんど人気が感じられない。
 
 長畑は早川町最奥、しいては山梨県側最終の集落となるのだろう。しかし、今は通行止でここまでも行けない状態らしい。人が常住する集落としての長畑は、もう見られないようだ。


室草里以降の道 (撮影 2004. 8. 7)
   
長畑 (撮影 2004. 8. 7)
   

<雨畑金山跡>
 かつて金山で賑わった雨畑だが、現在はその痕跡を容易には見ることができない。早川町の観光パンフレットを持っているのだが、それには長畑集落を過ぎた直ぐ先に、「雨畑金山跡」と記してあった。しかし、沿道からはそのような箇所を見掛けていない。
 
<ゲート箇所>
 また谷は深まり、荒々しさを見せる。そしてゲート箇所に至る。遠沢という支流を渡る少し手前だったと思う。 林道起点に立つ看板では長畑ゲートまで17.81kmとあったが、12km弱の地点である。これまでここが長沢ゲートとだと思っていたのだが、どうだろうか。この先にこれ程しっかりしたゲート箇所はもうない。

   

ゲート箇所 (撮影 2004. 8. 7)
長畑ゲートだと思う

「緑の自然を大切に」の看板が立つ (撮影 2004. 8. 7)
   

峠側からゲート箇所を見る (撮影 2004. 8. 7)

<ゲートの看板>
 訪れた時にはゲートは開いていたが、看板はゲートに掛けたままであった。鰍沢林務事務所と鰍沢警察署によるものだった。早川町から十谷峠を越えた先が旧鰍沢町、今の富士川町となる。

   

ゲートの看板 (撮影 2004. 8. 7)

ゲートの看板 (撮影 2004. 8. 7)
   

<冬期閉鎖の看板>
 このゲートは冬期閉鎖の時にも閉ざされるようで、ゲートの一部に次のような貼紙があった。
 これより先、井川雨畑林道は冬期閉鎖のため通行止となっており、一般車は進入できません。
 行田山に登山される方は、長畑規制ゲート手前より車道のはじに停車し、工事車両等の通行の支障にならないように停車して下さい。
 早川町役場

 
 これを読むと、やはりこのゲートは長畑ゲートでいいらしい。「長畑規制ゲート」とも呼ばれるようだ。林道起点の看板が言う「長畑ゲートまで17.81km」というのは、「11.81km」の間違いではないだろうか。


冬期閉鎖の看板 (撮影 2004. 8. 7)
   
冬期閉鎖の看板 (撮影 2004. 8. 7)
   
   
   
ゲート箇所以降 
   

<道の様子>
 道は雨畑川の上流部に向かって、ほぼ南を目指すようになる。左岸の崖に細々と一筋の道が通じて行くのを見通せた(下の写真)。ゲート箇所も過ぎ、増々山中へと分け入って行く。ただ、まだあまり登ることはなく、水平移動が続く。

   
雨畑川左岸に通じる林道が見える (撮影 2004. 8. 7)
   

右手に保安林の看板などが立つ (撮影 2004. 8. 7)
道は一部で未舗装

<支流へ迂回>
 道は一路、西の水無峠山(2080m)方面から流れ下る支流へと迂回する。その川を渡る少し手で保安林区域図などの看板が立つ箇所がある。林道井川雨畑線はほとんど舗装されているが、2004年時点ではこの辺りから一部で未舗装が見られた。

   

<字遠沢>
 保安林区域図では、場所は「南巨摩郡早川町大字雨畑字遠沢3540ほか」とある。こうした山中にも地名が付けられているのに驚く。図中、「部落」とあるのは長畑集落であろう。


保安林区域図の看板 (撮影 2004. 8. 7)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

緊急整備事業の看板 (撮影 2004. 8. 7)
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)

<緊急整備事業の看板>
 保安林区域図に並んで「雨畑水源地域緊急整備事業」と題した看板が立つ。雨畑ダムの水源となる雨畑川の水源かん養を図るもので、昭和65年度までの事業だったらしい。ただ、昭和65年は訪れることがなく、その年は平成2年となっている。

   

<看板の地図>
 何か参考になることが出ていないかと思ったが、特にない。林道井川雨畑線が「山伏峠」を越えた先が「至井川」となっているだけだ。山梨・静岡の県境を「県界」と書いていたのが面白い。
 
 
<紅葉(余談)>
 この山伏峠では何度も通行止に遭い、初めて越えられたのは1994年のことだった。11月6日に静岡県側から登った。生憎天候が悪く、峠はガスっていたが、山梨県側に下ると、雨畑川の谷は紅葉が彩っていた(以下の写真)。


看板の地図 (撮影 2004. 8. 7)
地図は下が北
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   
紅葉の様子 (撮影 1994.11. 6)
場所ははっきりしないが、水無峠山方面からの支流より下流側
   

<支流を過ぎる>
 道は水無峠山方面からの支流を渡る。その手前に砂防ダムの作業道の様な道が分かれ、それを下るとちょっとした広場に出る(下の写真)。人目に付かず、野宿にはなかなか良さそうな場所に思えた。ただ、今ではこんな寂し場所で一晩を過ごす気力はない。

   

支流を渡る (撮影 1994.11. 6)
ジムニーは峠から下って来たところ

支流の近くの広場 (撮影 1994.11. 6)
紅葉を眺めながらちょっと休憩
   

道の様子 (撮影 2004. 8. 7)
新品の舗装路で峠を目指す

<支流以降>
 支流を渡った道は雨畑川本流の上流部へと向かう。この付近は比較的後になって舗装化された部分で、2004年に訪れた時は、真新しい舗装路が見られた。

   
未舗装の頃 (撮影 1994.11. 6)
ジムニーは麓方向を向く
   

<本流源頭部>
 概ねこれまでずっと道の左手に雨畑川の川筋が通じていたが、その谷がいよいよ詰まって来た。川面が道の高さまで上がって来ようとしている。すると、大規模な工事個所に出た。単なる路面の舗装工事だけでなく、擁壁をコンクリート化する工事も並行して行われているようだ。
 
 工事の先には雨畑川本流を渡る橋が架かり、道は雨畑川源頭部を横切って右岸へと渡って行く。橋の上流側では、雨畑川源流の流れが滝のようになって落ちて来ていた。


工事個所 (撮影 2004. 8. 7)
   
この先が雨畑川の源頭部 (撮影 2004. 8. 7)
左手に見える橋で右岸へと渡る
   

<雨畑川の様子>
 峠はこの源頭部より更に急斜面を上った先にある。車道は急登を避け、これより右岸の山腹を大きく迂回することとなる。橋が架かる雨畑川前後は非常な急流で、幾段もの砂防ダムが築かれていた。

   
源頭部の橋の上より雨畑川下流方向を望む (撮影 2004. 8. 7)
急な砂防ダムが下って行く
左岸には林道が一筋通じる
   
   
   
雨畑川右岸 
   

<右岸の山腹>
 道が右岸に入ってからは本格的な山岳道路の様相を呈する。峠まで550m程の高度差を、右岸の山腹を大きく蛇行しながら登って行く。細かな谷の出入りが繰り返され、谷を渡って幾つもの橋が架けれている。崖は切り崩され、随所に高いコンクリート擁壁が見られる。


右岸の山腹を登る (撮影 2004. 8. 7)
   
前の写真の橋と同じ場所 (撮影 1994.11. 6)
ジムニーは麓方向を向く
まだ未舗装だったと思う
   
前の写真と同じ場所 (撮影 1994.11. 6)
   

未舗装区間 (撮影 2004. 8. 7)

<未舗装区間へ>
 右岸の登り始めは暫く新しい舗装路だったが、間もなく未舗装に変わった。高度をどんどん上げているのだが、あまり良好な視界がない。残念ながらガスが出て来て、谷は霞み始めた。

   
雨畑川の谷を望む (撮影 2004. 8. 7)
   

<行田山登山口>
 右岸を半分程も登ると、道の左手に行田山への登山口がある。林道が東方に寄った地点だ。道路脇の広場にテントも設営されていて、ここを登山拠点としている様子だった。 ただ、手元の登山地図に行田山という山は見当たらない。看板には標高が2000mで、ここより歩いて2時間、距離で約3km、標高差400mとある。山伏岳から東の八紘嶺へと続く稜線上に位置する。どうやら登山地図に大谷嶺(1999.7m)とある山に相当するらしい。

   

行田山登山口 (撮影 2004. 8. 7)
「熊出没注意」とある
テントが何張か設営されていた

行田山登山案内 (撮影 2004. 8. 7)
稜線に並ぶ山は左から
八紘嶺・行田山・山伏岳・小河内山・水無峠山・青笹山
   

<道の様子>
 山岳地帯というロケーションに加え、荒々しい未舗装路が険しさを醸し出す。時折立ち込めるガスも、雰囲気を盛り上げている。楽しいような怖いような峠行きだ。

   

道の様子 (撮影 2004. 8. 7)
荒々しいダートが続く

道の様子 (撮影 2004. 8. 7)
   

<崩落個所>
 路肩が崩れて道幅が2/3くらいになっている箇所があった。これ以上崩れると、もう車の通行が難しくなるという一歩手前の状態である。 こういう場合、車重が軽く、車幅が狭い軽自動車などの方が安全である。 この時はトヨタのキャミだったが、この車はダイハツのテリオスキッド(軽自動車)の排気量を1300ccにし、太いタイヤをはいた程度の小さな車だ。 大型のランドクルーザーなどは確かに悪路走破性は高いだろうが、こうした日本の林道には向かないのではないだろうか。 妻が、スズキのジムニーが大幅なモデルチェンジをして発売されるそうだと言う。軽の4WD車への根強い人気を背景にしているらしい。三菱のパジェロ・ミニ(軽自動車)がなくなった今、新型ジムニーに心惹かれる思いがする。

   
崩落個所 (撮影 2004. 8. 7)
左手の谷が切れ落ちている
なかなか怖い
   

<眺め>
 未舗装区間は路面の舗装がないだけではなく、ガードレールの設置も少ない。ただ、比較的道幅があるので、崩落個所を除けば、それ程怖い道と思ったことはない。
 
 路肩から直ぐに切れ落ちる崖の向こうに、雨畑川沿いに通じていた道筋が望めた(下の写真)。なかなか険しい様相だ。峠道ならではの景観でもある。

   
左岸に通じる道を望む (撮影 2004. 8. 7)
   

道の様子 (撮影 2004. 8. 7)
ガードレールはないが、道幅は十分

<ガス>
 山伏峠は標高1800mを越える。車が越えられる高い峠としては10本の指に入るのではないだろうか(未確認)。その為、この峠道にガスは付き物だ。高度を上げるに従い、時々白い霧に包まれる。遠望も望めそうにない。

   

道の様子 (撮影 2004. 8. 7)
ガスってきた

道の様子 (撮影 2004. 8. 7)
簡易的なガードレールがある
   

<工事個所>
 この険しい区間でも改修工事が進められていた。道幅一杯に大きな重機が稼働していた。暫く待って通させて頂く。

   
工事個所 (撮影 2004. 8. 7)
   

 2004年8月以降は訪れていないので、改修工事がどの程度進んだか分からないが、折角こうして舗装された道も、残念ながら今現在は通行止である。
 
<舗装区間へ>
 工事区間を過ぎると、その先に真新しいアスファルト舗装が現れた。


工事区間を進む (撮影 2004. 8. 7)
   

前方に峠の峰を望む (撮影 1995.10. 7)

<稜線沿い>
 道は右岸の山腹をほぼ登り切り、山伏岳から大谷嶺(行田山)へと続く稜線に沿うようになる。右手前方には峠が越える県境の峰が見えだす。
 
 晴れていれば、雨畑川最上流部の谷を見渡すことができる(下の写真)。左岸に通じる道が、如何にも険しそうだ。

   
雨畑川の谷を眼下に望む (撮影 1995.10. 7)
   

<舗装路の様子>
 峠の数km手前から峠までずっと舗装路が続いた。立派なガードレールも設備されている。しかし、路面上には既に落石の痕跡が見られた。 いくら道の改修を進めても、やはり険しい地形である。車道を維持するのは容易でないと察せられる。そして実際に通行止の憂き目にあっている。

   
落石が見られる舗装路 (撮影 2004. 8. 7)
   
雨畑川の谷を見渡す (撮影 2004. 8. 7)
右岸側の道も一部見えている
   
雨畑川の谷を見渡す (撮影 2004. 8. 7)
   
前の写真の一部拡大 (撮影 2004. 8. 7)
山腹をうねる道筋を望む
   

<以前の未舗装路>
 以前は、峠のこの山梨県側にはまだまだ多くの未舗装路を残していた。

   
未舗装路の頃 (撮影 1995.10. 7)
   

 山梨県側から上って来ると、如何にも林道の峠道らしい醍醐味を味わえた。


未舗装路の頃 (撮影 1995.10. 7)
この直ぐ先が峠
   
未舗装路の頃 (撮影 1995.10. 7)
   

 2004年に訪れた時は、あまりの変わりように驚いた。立派な舗装路が峠まで続いている。これで山伏峠も多くの一般車が訪れるような峠道になってしまうのかと、やや残念に思った。 しかし、自然はそう甘くはなかった。今頃はアスファルト路面に多くの落石がゴロゴロしているのではないだろうか。

   
改修後の道 (撮影 2004. 8. 7)
この先の切通しが山伏峠
   
   
   
 
   
山伏峠 (撮影 2004. 8. 7)
手前が山梨県、奥が静岡県
   

<峠の様子>
 山伏峠は、その前後の道は狭く、峠近くに広場の様な場所はない。代わりに峠の部分だけ道幅が格段に広く、登山者などが路肩に車を停め易くなっている。 峠の切通しは広く浅く、空は開けて明るい。山梨県側も舗装された後は、峠の部分だけ眺めると、如何にも快適な道が通じているかのように錯覚させられる。ただ、未舗装の頃は、なかなか荒れた感じの峠であった(下の写真)。

   
山伏峠 (撮影 1994. 4.24)
前の写真とほぼ同じ場所
峠にはジムニーが停まる
   

<峠の山梨県側>
 峠からはほぼ正面に雨畑川の谷を望む。その右岸の稜線沿いに道が延びて行く。

   

峠の山梨県側を見る (撮影 2004. 8. 7)
新しい林道看板が立つ

峠の山梨県側を見る (撮影 2004. 8. 7)
   

<冬期通行止>
 峠の山梨県側は県境の高い峰の北側に位置するので、静岡県側に比べて雪解けはずっと遅い。 1994年4月下旬に静岡県側から峠までは登れたのだが、山梨県側にはまだ多くの積雪があり、通行はあっさり諦めたのだった。その年の11月に再び静岡県側から登り、初めて峠越えができた。

   
峠の山梨県側 (撮影 1994. 4.24)
(前の写真とほぼ同じ場所)
積雪で通行不能
   

<山梨県側の眺め>
 峠のピークから山梨県側に数10m行くと、ガードレール越しに山梨県側の眺めが広がる。雨畑川源流の谷を見下ろす。

   
山梨県側の眺め (撮影 2004. 8. 7)
   
山梨県側の眺め (撮影 1995.10. 7)
   
山梨県側から見る峠 (撮影 2004. 8. 7)
左手に静岡県側の林道看板、右手に山梨県側の林道看板(古い方)
   

<峠の静岡県側>
 峠の静岡県側の道は、比較的早くから舗装化が進んでいた。その為もあってか、山伏岳などへと登る登山者の車が、峠に駐車されているのをよく見掛ける。 2004年に訪れた時も、静岡県側から登って来た初老のご夫婦が居て、登山の支度をしている最中であった。車で峠を越えるだけでも大変なのに、峠から更に山登りをするのだから、ご苦労なことだ。

   
静岡県側から峠を見る (撮影 2004. 8. 7)
ご夫婦が登山に出掛けるところ
   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 1994.11. 6)
この時も登山者の物らしき車が停まる
静岡県側は既に立派な舗装路になっていた
   
静岡県側から見る峠 (撮影 2004. 8. 7)
峠の右手(東側)より山伏岳への登山道が始まる
ガスで霞んでしまっているが、この右手奥に山伏岳があることになる
   

静岡県側に下る道 (撮影 2004. 8. 7)
谷はガスが深い

<静岡県側の眺め>
 静岡県側でも峠からの眺望がある。ただ、これもガス次第だ。あまりきれいに眺められた記憶がない。木々の繁茂もうるさい。
 
 2004年に訪れた時は、どうにか谷間の様子が写真に写せた(下の写真)。山腹をうねる道が望めるが、井川雨畑林道かどうか断定できない。途中で分かれる林道勘行峰(かんぎょうみね)線であるようだ。

   
静岡県側の眺め (撮影 2004. 8. 7)
上部は霞んでいる
   
   
   
峠の看板など 
   

<山伏岳登山口>
 峠のやや静岡県寄りから、東へと延びる稜線沿いに登山道が始まる。入口に「山伏岳登山口」と道標がある。
 
<旧峠>
 古い登山地図では、現在の車道が通る鞍部より、やや山伏岳(東側)寄りの上部に登山道が通じ、そこに「大笹峠」と記されてあった。 ただ、それ程詳細な地図ではないので、確かなことではない。
 
 「山伏岳登山口」とある道標の上方を眺めてみたが、そこに峠の痕跡などありそうにない(下の写真)。 車道開削時に鞍部は大きく掘り下げられていて、旧峠など残りようもない状況だ。かつての大笹峠はもうないものと思う。その意味で、やはり現在の山伏峠は大笹峠の後継と言える。 新大笹峠と呼んでも良さそうなものだが。


山伏岳登山口 (撮影 2004. 8. 7)
左手に「山伏岳登山口」の道標
右手には「熊出没注意」や「山火事注意」の看板が立つ
   
峠の東側を見上げる (撮影 2004. 8. 7)
かつての大笹峠はどこに?
   

林道標柱 (撮影 2004. 8. 7)

<林道標柱>
 山伏岳登山口の道標とは峠を挟んで対角の位置(山梨県寄りの西側)の、草や木に囲まれた寂しい所に、ポツンと朽ち掛けた林道標柱が立つ。表面には「林道井川雨畑線」とあるようだ。山梨県側にあるので、山梨県の県営林道として建てられた物だろうか。
 
<林道開通年>
 そして標柱の裏には「昭和五十五年十月・・・」とある。林道の竣工日と思われる。文献の静岡県田代(近代)の項に、「昭和55年広域林道井川雨畑線が山梨県早川町までの52kmが完工」とあるのと符合する。大笹峠に初めて車道が通じたのは昭和55年(1980年)10月のことだったようだ。あまり確信はないが、最後に峠に車道が到達したのは、山梨県側からではなかったろうか。

   

林道標柱の表側 (撮影 2004. 8. 7)
「林道井川雨畑・・・」とある

林道標柱の裏側 (撮影 2004. 8. 7)
「昭和五十五年十月・・・」とある
   

<静岡市の市営林道>
 林道井川雨畑線は県境を跨いでいるので、それぞれの県で林道の管轄が異なる。静岡県側は民有林林道となり、静岡市が管理する市営林道である。峠より静岡県側に下る道の左手に、「林道井川雨畑線(終点)」と書かれた静岡市の林道看板が立つ。


静岡市の林道看板 (撮影 1994. 4.24)
   

静岡市の林道看板 (撮影 2004. 8. 7)

静岡市の林道看板 (撮影 2004. 8. 7)
   

<山梨県の県営林道>
 一方、峠から山梨県側に下る道の左手にも、「林道 井川雨畑線 終点」と書かれた林道看板が立つ。こちらは山梨県側の県営林道のことだ。どちらも峠が「終点」ということになっている。
 
 山梨県の方の看板は比較的新しく、舗装工事に伴って新しく立てた物らしい。その少し横に、壊れ掛けた古い林道看板が残っていたと思う。尚、新しい看板の支柱に「H15」とあるが、平成15年(2003年)のことだろうか。この看板は2003年に立てたのかもしれない。

   

山梨県の林道看板 (撮影 2004. 8. 7)
右の支柱に「H15」とある
2003年(平成15年)に立てた物か

山梨県の林道看板 (撮影 2004. 8. 7)
下の方に小さく「山伏峠」とある
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

<峠名を示す物>
 ここが山伏峠という名であることを示す標柱でもないかと思ったが、全く見当たらない。唯一、山梨県の林道看板の地図に、小さく「山伏峠」とあったようだ。ただ、書かれている位置が山伏岳の方ではあるが。
 
 林道開通によって新しく生まれた車道の峠を、山伏峠と呼んでいることは間違いないが、果して「山伏峠」という名はそれ以前からあったのだろうか、やはり疑問に思う。

   

<山伏(余談)>
 同じ山梨県には富士山の好展望地として知られる三ツ峠(みつとうげ)がある。しかし、ここは本来の意味での峠ではない。三ツ峠山とも呼ばれ、幾つかの山の総称となる。一方、通常、峠は峰の鞍部に通じるが、非常に稀だが峠道が山頂を通過することがあるようだ。
 
 山伏岳は単に「山伏」(やんぶし)とも呼ばれるが、「山伏峠」(やんぶしとうげ)などとも呼ばれたのではなかったかと勝手に想像する。
 
<標高>
 ツーリングマップルに「標高2000mを超える峠」とあったりするが、2,000mを超えるのは山伏岳の方である。地形図には単に「山伏 2,013m」などとあるだけなので、山と峠を混同してしまうのだろう。峠の方は、約1,840mである。


三ッ峠山の山頂 (撮影 2001. 9. 2)
一度だけ登ったことがある
   
   
   
静岡県側に下る 
   

<小河内>
 山伏峠の静岡県側は、静岡市が政令指定都市になってからは葵区(あおいく)小河内(こごうち)になった。 江戸期の小河内村で、明治22年に口坂本・井川・岩崎・上坂本・田代・小河内村の6か村が合併して井川村が成立し、旧村域は大字小河内となる。 昭和44年には井川村が静岡市に合併したことで、静岡市の大字小河内となった。

   

静岡県側にも工事個所 (撮影 2004. 8. 7)
停まっているのは私のジムニーではない

<道の様子>
 道は大井川(おおいがわ)の支流・小河内川の源流となる山腹を大きく蛇行しながら下って行く。静岡県側の道は早い時期から全線舗装済みになったと記憶する。 しかし、山梨県側を上回るような険しい山岳道路である。道の傷みは激しい。今回も補修工事を行っている様子だった。大型重機が何台か路上を塞いでいたが、我々の車一台を通す為にわざわざ待避してくれた。恐縮する思いだった。

   
道の様子 (撮影 2004. 8. 7)
暫く工事区間が続いた
   

<勘行峰線>
 峠からも見えていたが、本線の井川雨畑線とは別の林道勘行峰(かんぎょうみね)線が、同じ山腹に通じているのが見えてくる。分岐後に登って行くので、途中からは上に見ることとなる。

   
勘行峰線を見る (撮影 2004. 8. 7)
   

<大崩沢>
 小河内川はその最上流部は細かく幾つかの支流に枝分かれしていて、どれが本流ということもないようだ。道は、峠より流れ下る支流の一本の上部を巻くようにして下る。 途中、「大井川大崩沢治山工事」と書かれた看板が立っていた。峠から下る支流を「大崩沢」と呼ぶのではないかと思うが、どうだろうか。如何にも険しそうな名前である。

   

治山工事の看板が立つ (撮影 2004. 8. 7)

治山工事の看板 (撮影 2004. 8. 7)
   

<大崩沢?を渡る>
 大きく蛇行して来た道は、峠直下に下る谷を赤い橋脚の橋で渡る(右の写真)。この谷が大崩沢なのではないかと思う。かつての大笹峠を越えていた道は、多分その大崩沢沿いに下っていたものと思う。登山地図では、その沢の右岸沿いに峠の少し手前まで山道が描かれていた。
 
 その後、車道は左岸沿いに下り、対岸には先程まで走っていた道筋が望めるようになる(下の写真)。一部に崩落の痕跡も見え、険しい様相だ。 


大崩沢?を渡る (撮影 2004. 8. 7)
   
対岸を望む (撮影 2004. 8. 7)
峰の上部のほぼ中央が峠
   

<峠を望む>
 静岡県側からは比較的峠が望み易い。道が徐々に小河内川本流の左岸へと移るに従い、右手後方に峠が通じる峰が見渡せるようになる。山伏岳の西の肩に位置し、僅かな切通しに見える部分が峠だ。

   
峠方向を望む (撮影 2004. 8. 7)
右側の小さな切通しが峠
   

<勘行峰線分岐>
 峠より4km余り下ると、林道勘行峰線の分岐に至る。まだまだ標高が高い位置での分岐である。林道名は井川湖の東方にそびえる勘行峰(かんぎょうみね)から来ているようだ。 勘行峰から南に続く稜線上にある大日峠から分岐し、勘行峰の西麓を通過、ここで井川雨畑線に接続している林道である。看板によると延長は12.8kmとのこと。

   

左に勘行峰線が分岐 (撮影 2004. 8. 7)

林道看板 (撮影 2004. 8. 7)
   

<勘行峰線(余談)>
 林道勘行峰線は比較的最近になって通じた新しい林道だ。1992年8月に大日峠方面からその林道に入ると、途中で道がなくなっていた。当時はまだ開削途中だったのだ。1994年4月の時点でも工事車両が出入りし、工事半ばという状況であった(下の写真)。

   
以前の勘行峰線分岐 (撮影 1994. 4.24)
この時もまだ工事中だった
   

 2000年5月に静岡県側から登って来ると、分岐の手間に通行止の看板が立っていた。山伏峠は越えられないし、林道勘行峰線にも入れない。結局、これまで勘行峰線を完走したことがない。山梨県の林道情報ページでは、この分岐から百畳平という所まで勘行峰線も通行止である。

   
勘行峰線分岐 (撮影 2000. 5. 6)
小河内集落から登って来たところ
正面が峠方向、右に林道勘行峰線が分かれる
残念ながらここで引き返し
   

昼食風景 (撮影 2004. 8. 7)

<昼食(余談)>
 分岐手前の路肩が広く、車が停められる。正面には谷を挟んで峠が通じる峰を広く望め、ちょっとした展望地でもある。 近くに廃材のような物が転がっていて、やや雑然としてはいるが、丁度昼時だったので、ここで食事にすることとした。この先、麓まで下ってしまえば人が多く、静かないい場所が見付け難い。
 
 カセットコンロで湯を沸かし、カップ麺と飲み物で粗末な食事をする。100円ショップで買った折りたたみ椅子に腰掛け、唯一の贅沢は目の前に広がる景色である。
 
 峠では霧が出始めていたが、食事をしている間にも増々雲行きが怪しくなってきた。峠の峰もほとんど見えなくなった。間もなく雨が落ちて来るだろう。
 
 すると、林道勘行峰線から一台のパジェロが走って出て来た。男性が一人、我々に道を聞いて来た。山伏峠を越える井川雨畑林道であることを告げる。それにしても羨ましい。私はまだ勘行峰林道を走り通したことがない。

   
分岐近くの路肩で昼食とする (撮影 2004. 8. 7)
   
正面に峠の峰を望む (撮影 2004. 8. 7)
ちょっとした展望地である
   

峠の拡大写真 (撮影 2004. 8. 7)

<旧道の道筋(余談)>
 山梨県側ではほぼ雨畑川沿いに峠まで旧峠道が通じていたと推測できる。一方、静岡県側から峠を見ると、向かって左に車道が下る。そこを右へと進むように大笹峠を越えていた旧道が登山地図に描かれている。今は遠望する限り、そのような道筋は確認できない。
 
 ただ、地形図ではその続きと思われる位置から徒歩道が始まっている。しかし、大崩沢には下らず、現在の勘行峰林道に接続している。静岡県側の旧道については、分からない点が多い。
 
 尚、山伏岳から南に続く稜線上に牛首(1546m、現在の地形図では約1570m)と呼ばれる鞍部がある。勘行峰林道もそこを経由している。 井川雨畑林道が開通する以前は、静岡県側の小河内集落から登り、牛首を経て、稜線上を進んで山頂に至るのが、山伏岳への登山道の一つだったようだ。静岡県側の旧峠道も、牛首を通過していたのではなかったかと想像したりする。

   
   
   
勘行峰線分岐以降 
   

<小河内川本流沿い>
 林道勘行峰線の分岐を過ぎてからは、ほぼ小河内川本流の左岸沿いである。しかし、谷は深く、道は左岸の山腹の高所に通じる。道程もまだまだ多くを残している。
 
 道は1.5車線幅のアスファルト舗装が続く。2000年5月に訪れた時は、路面に引かれた白線も鮮やかで、舗装したてという感じだった(下の写真)。ただ、その側から既に小規模ながら落石が発生していて、険しい道であることに変わりはなかった。


谷の風景 (撮影 2004. 8. 7)
雲行きが怪しい
   
以前の道の様子 (撮影 2000. 5. 6)
   

<眺め>
 林道が降り立つ麓の標高は約700mで、まだ800mの高度差を残す。天候さえ良ければ小河内川本流の谷に広がる眺めはいい。

   
小河内川の谷の眺め (撮影 1994.11. 6)
この時は生憎の天候
   

<赤石山脈を望む>
 晴れていると、小河内川の谷の先、雲の上に出た高い峰を望む。多分赤石山脈の一部だろう。2000年5月に訪れた時は、途中の通行止で、引き返しとなったが、いい景色が眺められた。

   
遠方に赤石山脈を望む (撮影 2000. 5. 6)
   

<道を望む>
 道はこの先、左岸側の支流上部へと大きく迂回する。その支流の左岸沿いに蛇行しながら下る道が眼下に望める。これこそが山岳道路という雰囲気がある。

   
眺め (撮影 2000. 5. 6)
   
前の写真とほぼ同じ場所 (撮影 1994. 4.24)
この時は峠で引き返し
路面には雪が残っていた
   

<道の様子>
 静岡県側の井川雨畑林道は、その多くが地形の険しい崖に沿って切り開かれている。落石や路肩崩壊の危険が高い。沿道の随所に崖崩れの痕跡が認められた。それが現在の通行止(2017年現在)という結果になっているのだろう。

   
道の様子 (撮影 2000. 5. 6)
崖崩れの跡が多く見られる
   

支流の川沿いへと下る (撮影 2004. 8. 7)

<支流の谷を巻く>
 道は険しい地形を下り、一路支流の上流部へと向かう。支流の川は山伏岳から南の勘行峰へと続く稜線を水源として流れ下って来ている。
 
 沿道からは砂防ダムを落ちて来る流れの様子がうかがえる。川底には岩がゴロゴロし、谷の一部には崩落も見られる。

   
支流の様子 (撮影 2004. 8. 7)
   
   
   
支流以降 
   

<本流沿い>
 支流への迂回から戻り、本流沿いになる頃には、やっと道も落ち着きを持ち始める。視界はないが、林の中の穏やかな道が続く。

   
道の様子 (撮影 2000. 5. 6)
勘行峰林道分岐の通行止で引き返して来たところ
麓が近付くと穏やかな雰囲気
新緑のいい季節だ
   

<林道小河内川線分岐>
 小河内川左岸沿いに暫く下ると、小河内川を渡る手前に大きな分岐がある。峠方向には林道井川雨畑線の林道看板(一般車両通行止)も立ち、一見して静岡県側の林道起点のようだが、そうでもないようだ。これより手前に林道標柱が立つ(後述)。
 
 一方、分岐する道は林道小河内川線で、そのまま小河内川左岸沿いに下り、続いてその本流である井川湖左岸を進み、行く行くは県道60号(主要地方道)・南アルプス公園線に接続する。

   
小河内川線分岐 (撮影 2000. 5. 6)
直進が山伏峠へ、手前を右折するのが小河内川線
この時は「この先 車両通行止」の看板も立ち(右手)、実際に通行止だった
   
小河内橋より分岐を見る (撮影 2004. 8. 7)
直進が井川雨畑林道、右折が小河内川林道
   

通行止の看板 (撮影 2004. 8. 7)

<通行止>
 山梨県の林道情報ページでは、現在ここから先の井川雨畑林道が通行止のようだ。多分この地点にゲートが設けられているのだろう。
 
 そうでなくとも、以前から「一般車通行止」の看板が出ていた。本当に通行できないかどうか、実際に行ってみないと分からない。一度は峠まで、一度は勘行峰線分岐まで行って、引き返して来た。ご苦労なことだ。

   
林道看板などが立つ (撮影 2004. 8. 7)
   

「雨畑・山伏」の案内看板 (撮影 2004. 8. 7)

林道看板 (撮影 2004. 8. 7)
一般車両通行止
   

<小河内川線(余談)>
 山梨県の林道情報ページでは、小河内川線は一部で林道大久保線を経由して通行できることになっている。しかし、林道看板にはやはり「一般車両通行止」と書いてある。
 
 案内看板には「自然の家 県道」とあるが、ほとんど県道に近い所にその井川(青)少年自然の家(キャンプセンター)がある。
 
 勘行峰線が稜線近くの高所に通じるのに対し、小河内川線は湖に近い部分に通る。湖の右岸には立派な県道60号が走るが、これらは寂しい左岸である。小河内川線も何度か入り込んだが、その頃は道路決壊で通れなかった。


小河内川線入口 (撮影 2004. 8. 7)
この時は「全面通行止」の看板が立っていた
   
小河内川線入口 (撮影 2000. 5. 6)
この時は「この先 道路決壊に付き 通り抜けできません」と看板が立っていた
   

<小河内橋>
 道は小河内川を小河内橋で渡って右岸へと出る。橋の袂に一体の小さな地蔵が佇んでいた。 ただ、かつての大笹峠を越えていた峠道は、ここで小河内川を渡ることなく、もっと手前より右岸沿いに遡って行ったようだ。今の井川雨畑林道は、小河内川を渡って牛首(山伏岳から勘行峰至る稜線上)へと登る登山道の道筋に開削されている。

   

小河内橋の袂に立つ地蔵 (撮影 2004. 8. 7)

小河内橋を峠方向に見る (撮影 2004. 8. 7)
地蔵はこの左手
   

橋の銘板に「小河内橋」とある (撮影 2004. 8. 7)

小河内川の様子 (撮影 2004. 8. 7)
まだまだ急流の様子を呈する
   
小河内橋より上流方向を望む (撮影 2004. 8. 7)
この奥に山伏峠がある
   
   
   
小河内集落へ 
   

<林道看板など>
 小河内橋からは小河内川右岸沿いを800m程下る。 すると、小河内集落に差し掛かる直前に林道看板や林道標柱が立っている。多分、この地点が林道井川雨畑線の起点と思われる。

   
小河内橋と小河内集落の間 (撮影 2000. 5. 6)
右手に林道看板が立つ
その少し手前に林道標柱が立つ
ジムニーは峠方向を向く
   

<古い吊り橋>
 左岸の小河内集落と右岸に通る県道とは、現在はこの先に架かる小河内大橋が結んでいる。 しかし、今はもう使われている様子はないが、林道標柱の後の方に古そうな吊り橋が残っている。 その橋がかつて小河内集落と井川の中心地などを結ぶ生活路だったのではないだろうか。

   
路肩に林道標柱が立つ (撮影 2004. 8. 7)
林道標柱の背後に古い吊り橋が見える (撮影 2000. 5. 6)
   

<林道延長>
 山梨県の林道情報ページでは、静岡市営林道の延長を16.272kmとしていた。この距離は峠から小河内川線分岐までよりちょっと長いようだ。 やはり小河内集落近くに立つ林道標柱辺りが起点となる可能性が高いと思う。

   

<小河内集落>
 山梨県側の雨畑川沿いでは、その上流の奥の方まで集落が点在していた。一方、静岡県側では小河内川を完全に下り切った所に初めて小河内の集落が出て来る。それだけ小河内川が急流であるということか。
 
 小河内集落は、小河内川が大井川に注いだ地点より大井川上流側の左岸に広がる。比較的大きな集落だ。大井川水域では最奥に位置する集落と言っていいのだろう。 直ぐ下流側には井川ダム(昭和32年完成)によってできた井川湖が広がる。ただ、このダム湖の出現で集落の範囲が影響を受けるような位置関係ではないようだ。
 
 古くは当地に笹金山という金鉱があり、金を産出したそうだ。最盛期には1,000軒もの小屋が立ち、遊女も来たと伝わる。江戸中期頃まで採掘されたが、その後は途絶えたようだ。 このようにかつて金で栄えたのは山梨県側の雨畑とも共通する。明治22年まで小河内村、以後は大字として続く。明治24年の戸数35、人口183とのこと。

   
小河内集落に入る (撮影 2004. 8. 7)
意外と大きな集落だ
   

<県道60号に接続>
 道は小河内集落内をぐるりと回り、小河内大橋で大井川を右岸に渡って県道60号に接続する。これで山伏峠の峠道は終了である。
 
<田代>
 県道に接続した所は田代(たしろ)である。小河内の対岸となる大井川右岸に位置し、更に上流部は全て田代となるようだ。大井川最上流の地である。 ただ、田代の集落は小河内より僅かだが下流側にあり、集落としてはやはり小河内の方が最奥であろう。 文献の田代の項に、「同(昭和)55年広域林道井川雨畑線が山梨県早川町までの52kmが完工」とあった。 52kmという距離は、早川町の大島で県道37号を分かれてから、この田代で県道60号に接続するまでにほぼ相当する。 当初の広域林道井川雨畑線は壮大な構想の道だった。

   
県道60号からの分岐点 (撮影 2000. 5. 6)
右手奥に小河内への細い道が分岐する
県道60号が左に急カーブして行く地点
   

<こごち(余談)>
 県道上の看板には、県道の上流方向に「畑薙第1ダム、畑薙ロッジ」、小河内集落方向に「小河内 0.5km」とある。この「小河内」には「kogochi」とローマ字表記されていた。 そこで、一時は「こごち」かと思っていた。東京都民の水瓶となる多摩川上流の小河内ダムは「おごうち」である。「小河内」にはいろいろな読み方があって、「こごち」もあり得るのかと思っていたのだ。しかし、文献や一般にも、全て「こごうち」と読まれている。
 
 山梨県側にあった看板では山伏峠を「Yamabushi Toge Pass」としていた。本来「Touge」とすべきところを「Toge」としてあるのだ。「峠」の発音は「トウゲ」と言うより「トーゲ」に近い。 そこで、この【峠と旅】のホームページのアドレスでは「tohge」を用いた。それを更に略せば「toge」になる。
 
 「kogochi」も実は「コゴーチ」の積りなのだろう。ルビを振るとすれば「こごうち」となる。「こごち」とはなかなかいい名だと思ったのに、全くの錯覚だったようだ。

   
   
   
井川大橋(余談) 
   

<井川大橋>
 山伏峠は雨畑湖と井川湖の2つの湖を結ぶ峠道とも言える。これは全くの余談になるが、井川湖の中程に車でも渡れる吊り橋が架かる。 県道60号が通じる右岸より、湖の左岸にある上坂本や岩崎の集落へと到る道路岩崎線が渡る井川大橋だ。林道小河内川線にも接続し、小河内川線が通行止の時などに何度か渡ったことがある。左岸側で野宿した時も利用した。
 
 この橋がなかなか怖い。木の板をタイヤの幅に2列に並べてあり、その上から外れないように走らなければならない。時々、板が傷んでいて、これで大丈夫だろうかと車を降りて確認しながら渡った時もあった。許容重量は僅かに2.0tと看板にある。やはり悪路は軽自動車などの軽い車がいい。


井川湖を上流方向に望む (撮影 2004. 8. 7)
この奥の峰を山伏峠が越える
(井川大橋の上から)
   

井川大橋 (撮影 2004. 8. 7)

井川大橋を渡る (撮影 2004. 8. 7)
   
   
   

 大笹峠こと山伏峠はホームページ【峠と旅】を始めた時、真っ先に掲載した峠であり、峠を旅することは面白いことだと気付かせてくれた峠の一つである。 また、大井川最奥の地である井川は、最初は多分大井川鉄道井川線のミニ列車で、次は路線バスに乗って富士見峠を越えて訪れ、その後もバイクや車などを使って10回近くは旅をしている。 ある時は土日のたった2日の休みを使い、初日に山伏峠を越えて大井川の河原で野宿、翌日は富士見峠から安倍峠と越えて帰宅するというようなこともしていた。井川は峠の旅を満喫させてくれる、とても魅力的な地であった。
 
 最後に山伏峠を越えてからもう13年が経つ。通行止の事態は深刻そうで、もう二度と越えることはないだろう。ここで過去の旅を振り返り、私にとってのこの峠道も閉じようと思う、山伏峠であった。

   
   
   

<走行日>
・1991. 9.22 山梨県側より雨畑集落の先まで行くが通行止で引き返し ジムニーにて
・1992. 8.15 山梨県側からアクセスするも通行止 ジムニーにて
・1994. 4.24 静岡県側から峠まで往復(山梨県側は積雪で通行不能) ジムニー にて
・1994.11. 6 静岡県→山梨県(初めての峠越え) ジムニーにて
・1995.10. 7 山梨県→静岡県 ジムニー にて
・2000. 5. 6 静岡県側から登るも林道勘行峰線分岐で通行止、引き返し ジムニーにて
・2004. 8. 7 山梨県→静岡県 キャミにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 19 山梨県 平成 8年 6月20日5版発行
                        (初版 昭和59年10月 8日)  角川書店
・角川日本地名大辞典 22 静岡県 昭和57年10月 8日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・ツーリングマップル 3 関東 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部 1997年3月発行 昭文社
・県別マップル道路地図 19 山梨県 2002年 5月 2版 3刷発行 昭文社
・県別マップル道路地図 22 静岡県 2006年 2版20刷発行 昭文社
・WideMap 関東甲信越 (1991年頃の発行) エスコート
・登山地図 南アルプス南部 1990年版 日地出版
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

<1997〜2017 Copyright 蓑上誠一>
   
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