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クナジロ峠/西峠
  くなじろ/にし  (峠と旅 No.271)
  車道としては板取川最奥を越える峠道
  (掲載 2017. 2.20  最終峠走行 2016.10. 9)
   
   
   
クナジロ峠/西峠 (撮影 2016.10. 9)
手前は岐阜県郡上市大和町内ヶ谷(うちがたに)
奥は同県関市板取三洞(さんぼら)
道は県道52号(主要地方道)・白鳥板取線
峠の標高は約805m (地形図より読む)
(上の画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
22年振りの再訪となる峠
初めて訪れた時は、野宿地探しでこの峠付近をさまよっていた
 
 
 
   

<西峠>
 「クナジロ峠」とは、一体どこの峠だと思うことだろう。ちょっと調べてみたら、インターネット上ではもっぱら「西峠」の名で通っているようだ。
 
 初めてこの峠を越えたのはもう22年以上前のことになる。一般の道路地図でこの峠の名が記載されることはまずなく、これまでずっと名前を知らずにいた。 元々名前がない峠かとも思っていた。今回この峠を掲載する上で、表題をどうするのかに困る。道の名を取って「白鳥板取線の峠」とでもしようかと考えていたくらいだ。
 
 ところで、「西峠」の出所はどこなのかと思う。何か峠関係の書物に載っているのだろうが、その方面にはあまり詳しくない(読むのはもっぱら司馬遼太郎の歴史小説ばかり)。 ただ、一つだけ心当たりがあった。以前、国土交通省管轄の岐阜国道工事事務所(現岐阜国道事務所)が「ぎふこくナビ」というホームページを出していた。 その中で、岐阜県の峠に関した調査結果を「美濃の峠・飛騨の峠」と題して平成11年より掲載していた。 一つ一つの峠について記述された内容は詳しく、とても貴重な資料だったが、現在はもうネット上では見られないようだ(個人でそれを紹介したページが残っている模様)。 当時、何かの参考にと市町村別の峠の一覧だけコピーしておいた。今回それを見てみると、大和町と板取村とに確かに「西峠」とある。 これがそうかと思った。

   

<クナジロ峠>
 一方、「クナジロ峠」の出所は角川日本地名大辞典である。
 
 峠やそれにまつわる事柄を調べる上では、もっぱらこの辞典を利用させて頂いている。特にこの1、2年はインターネットで利用できるJLogos(有料)を便利に使っている。 しかし、JLogosでは角川日本地名大辞典の市町村別の部が掲載されていない。そこに関しては、相変わらず25km離れた図書館に通い、必要な部分を書き写していた。 その労力がなかなか大変である。書き漏らしも多い。そこで前回のタラガ谷越からは、関係する市町村を丸ごとコピーしてしまうことにした。 図書館で事前に申し込み、図書館備え付けのコピー機で自分でコピーする。これもなかなか面倒な作業だが、後はゆっくり自宅で調べ物ができる。
 
 タラガ谷越に関して板取村(現関市板取)のページを調べていると、妻が板取村の概略図の一部を指差す。村の北東端に「クナジロ峠」と書かれている。 よく見ると、現在の県道52号が板取村から大和村(後、大和町)へと越える部分だ。正しく今回掲載しようとしている峠である。 「クナジロ」の由来などの記載はなかったが、名前が分かっただけでも嬉しい。図書館まで行ってコピーした甲斐があったというものだ。 それ以外にも、板取村と近隣との間に通じるいろいろな峠の名前が分かり(後述)、なかなかの収穫だった。
 
 峠の名前が分かったのはいいが、2つもあるとかえって厄介である。表題は並記したが、今後は先に知ることとなった「クナジロ峠」と呼んでおく。 「クナジロ」が一体全体何であるかさっぱり分からないが、「西峠」より何だか味わいがある。

   

<所在>
 峠は、旧国名の越前(福井県)と美濃(岐阜県の南側半分)との国境を成す越美山地(えつみさんち、時に越美山脈)の東部に位置する。 ただ、県境にある訳ではなく、岐阜県側の武儀郡(むぎぐん)旧板取村(いたどりむら)と郡上郡(ぐじょうぐん)旧大和町(やまとちょう)との町村境であった(郡境でもある)。 それぞれ現在は関市板取(せきしいたどり)、郡上市大和町(ぐじょうしやまとちょう)となり、峠は市境に当たる。
 
 余談だが、越美山地には温見峠冠山峠高倉峠と楽しい県境越えの峠が多い。 地形図でクナジロ峠の左(西)側に目を移して行くと、それらの峠が並んでいて、非常に近い関係にあることに気付く。

   

<地形図(参考)>
国土地理院地形図 にリンクします。
   


(上の地図はマウスによる拡大・縮小、移動ができるようです)
   

<板取街道>
 今回の峠は、長良川(ながらがわ、木曽川水系)の支流・板取川(いたどりがわ)の上流部に位置する。板取川の中上流域は旧板取村の村域となる。村の集落のほとんどが板取川に沿って点在し、それらの集落を繋いで古くから板取街道が通じていた。
 
 明治19年(1886年)から同40年(1907年)に掛け、板取街道に9尺(幅約2.7m)道路か開削される。 すると、それまで歩荷(ぼっか)に頼っていた荷物の運搬が、荷馬車に取って代わられるようになった。この板取街道の新道は明治末年には県道となり、遠く岐阜市街からの交易も容易となる。 現に関市板取に通じる路線バスは岐阜市街を起点とし、板取川上流部の集落・門原(かどはら)にある板取門原バス停まで通じていた(今は廃路線)。 旧板取村は岐阜市街との結び付きが重要であった。

   
   
   
岐阜市より峠へ
   

<岐阜市街>
 昨日は岐阜駅至近のシティーホテルに泊まり、今朝はチェックアウト後、車に乗り込む前にと岐阜駅周辺を散策した。 駅前広場に立つ金ピカの信長像を見たり、観光案内所に立ち寄ったりした後、折角近くに居るのだからと、クナジロ峠へ向かう前に岐阜城を見学することとした。 岐阜城は30年程前に一度訪れているが、妻は初めてとのこと。
 
<岐阜(余談)>
 最近、丁度「国盗り物語」(司馬遼太郎著)を読み終わったばかりだ。この小説の前半は、主人公の斎藤道三(どうさん)が美濃の国を盗るべく暗躍する。 そして、ついには美濃の地を手中に収め、稲葉山城を建造するに至る。道三没後、道三の娘婿に当たる織田信長が稲葉山城を攻め取り、この地を「岐阜」と名付けた。 稲葉山城も岐阜城と改められる。その城は岐阜市北東の郊外の金華山山頂に立つ。今は一地方都市に過ぎない岐阜市だが、400年前、この地は信長による天下統一の震源地となった。 昭和31年再建の天守閣からは建物でびっしりと埋め尽くされた現在の岐阜市街が一望に眺められる。信長の楽市楽座によって繁栄を誇った岐阜の町並みの後世の姿だ。 時の流れを感じざるを得ない。城の北側には眼下に長良川の流れを望み、その向こうに越美山地に続く山並みが広がる。クナジロ峠はその山中に位置する。

   
岐阜城より北方を望む (撮影 2016.10. 9)
   

<岐阜白鳥線>
 現在、関市板取へ通じる道は国道256号となるが、その前身は岐阜白鳥線(ぎふしろとりせん)であった。 昭和47年(1972年)指定の主要地方道で、岐阜市神田町5丁目を起点に郡上郡白鳥(しろとり)町(現郡上市)向小駄良(むかいこだら)に至っていた。 手持ちの1988年5月発行のツーリングマップ(中部 昭文社)には、まだその主要地方道が描かれている。 岐阜白鳥線は板取村からクナジロ峠で大和町へと越えていたが、主に山中に位置する板取村と岐阜市街を結ぶ連絡路として使われ、 大和町〜白鳥町間は長良川沿いに通じる国道156号の補助的な役割でしかなかった。クナジロ峠前後の利用はほとんどなかったようである。
 
<国道256号>
 それもあってか、後の国道256号はクナジロ峠を回避してしまった。 板取川中流に位置する板取村加部(かべ)より、東の八幡町(現郡上市)那比(なび)へと越えるタラガ谷越に車道を開削し、早々と長良川沿いへ抜けてしまったのだ。 代わって、加部から上流側、それまでのクナジロ峠で大和町方面へ続く道は県道52号(主要地方道)・白鳥板取線となった。岐阜市街からクナジロ峠を目指すには、国道256号から更に県道52号と走り繋ぐことになる。

   

根道神社の通称「モネの池」 (撮影 2016.10. 9)

<関市板取>
 板取街道は長い。岐阜市街から旧板取村役場(現関市板取事務所)がある村の中心部の上ヶ瀬(かみがせ)までも42kmを超える。 また、クナジロ峠の峠道は板取川沿いに関した部分と言えるので、ここでは途中を大幅に割愛し、関市板取に入った所から峠の旅を始める。
 
 手元に関市板取のガイドマップがある。旧板取村に入った直ぐの所に「モネの池」というのがある。「話題スポット」と謳われている。妻がそこに寄るという。何だか知らずに立ち寄ると、大変な人出だ。

   

<モネの池>
 何でも、ツイッターを中心に話題が広がり、テレビ放映もされて、今では関市板取屈指の観光名所になったとのこと。国道沿いの駐車場からは車が溢れ、誘導の係員が忙しく走り回る。 「モネの池」と呼ばれる池を取り巻いて人が列を成している。飲食物の売店や土産物屋なども併設されていて、若い女性のグループやカップルなどが賑やかに歩き回っている。
 
 この後、板取川沿いをその最上流部まで旅することになるのだが、こうした華やいだ雰囲気は他では見られなかった。ここだけ別世界の感がある。しかし、どうもこういう所は苦手である。さっさと車に戻り、先を急ぐ。早く寂れた峠道にならないかと思う。


モネの池 (撮影 2016.10. 9)
   

<板取川>
 「モネの池」もいいが、側らを流れる板取川そのものが景勝地である。前日、同じ道を岐阜市内へと下っていた。 生憎の雨模様だったが、霧に霞む谷間の様子は思わず車を停めて眺めたくなるような景観を見せていた。 この板取川が流れる板取谷(いたどりだに)は、谷底の幅がせいぜい1km程度と平坦地が少なく、それがずっと奥まで続く。 時々僅かに広がった埋積平地に集落が形成され、それらを繋いで川沿いに板取街道が細々と通じる。また、板取川の流れを利用し、昭和初期までは筏流しも盛んであったそうな。

   
川霧に霞む板取川 (撮影 2016.10. 8)
前日、タラガ谷越を越えて来た時の様子
老洞(おいぼら)集落の少し手前付近
   

右に幸橋への分岐 (撮影 2016.10. 9)
この先は加部地内

<加部>
 道は老洞(おいぼら)集落に続いて加部(かべ)集落に差し掛かる。現在、国道上に何の看板もないが、大きな石燈籠のある店の脇から分岐する道が、元の国道256号である。幸橋で板取川左岸へと渡り、加部集落の人家の間を抜け、タラガ谷越へと登って行った。
 
 その峠に車道が開通する前は、峠部分が不通ながら、加部と八幡町とを結ぶ県道板取八幡線あるいは県道相生板取線という名の道だった。 それが比較的最近の1993年頃に車道が全通すると、国道256号になってしまった。岐阜市内から北上を続けて来た国道は、この加部で直角に曲がり、東へ方向転回した。 これは、それまでの岐阜白鳥線のルートから大きく変更するものであった。

   

<国道256号分岐>
 現在の国道の分岐は、旧道の分岐より更に400m程上流側にある。こちらにはしっかり道路看板が出ている。行先は「郡上」(ぐじょう)とある。現在の郡上市、旧八幡町へと通じる。 幸橋に代わる新しい「ふれあい大橋」が右手に見える。その橋を渡ると直ぐにもタラガトンネルへと入って行く。 タラガ谷越に代わって峠に通じた長いトンネルで、2004年完成、2007年8月3日より併用開始である。 旧板取村と旧八幡町との間を結ぶ車の交通は、つい近年に始まり、その変遷は目まぐるしい。今は旧道の身となったタラガ谷越は、既に通行止が頻発している。


右にタラガトンネルへの道 (撮影 2016.10. 9)
   

分岐を示す道路看板 (撮影 2016.10. 9)

<大型車通行不能(余談)>
 タラガトンネルを抜ける新道も、看板には「大型車通行不能」の文字が見える。 トンネル自身は立派で、容易に郡上市側へと抜けられるが、トンネルの先2km余りの区間がまだ昔の細い道のままだ。 拡幅工事が行なわれる様子もあまり見られず、未だに国道256号(タラガ谷越区間)のボトルネックとなっている。
 
<県道52号>
 この先、国道256号に代わって板取川沿いを遡るのは、県道52号となる。主要地方道・白鳥板取線と呼ぶ。 八幡町へと分かれる国道256号から板取街道を引き継ぎ、板取村の奥地へと通じ、遂にはクナジロ峠を越える。 以前は主要地方道・岐阜白鳥線と呼ばれた区間だが、今は「白鳥」が先で「板取」が後になっている。白鳥の方が都会で、板取の方が田舎だからなのかかと勘繰ったりする。県道52号の当面の行先は「板取事務所」となる。旧板取村時代の村役場がある所であろう。

   

<森の駅(余談)>
 午前中は岐阜城などを見学したので、加部を過ぎた頃は既に午後1時を回ってしまっていた。この先、更に奥へと進めば飲食店などは少ない。 そこで加部の次の生老(しょうろ、しょうろう)の集落で見掛けた「森の駅」というそば屋に入ることとした。
 
 我々夫婦にとって、旅先の昼食をまともな店屋で摂ることは滅多にないことだ。ちょっとした奮発なのである。 元々野宿旅をしていた頃は、昼時になるとさっさと路肩などに車を停め、カセットコンロでお湯を沸かし、ラーメンや焼きそばなどの即席麺を食べるのを常としていた。 店に入るなどという考えを全く持ち合わせていなかったのだ。その上、妻が同じ人種なのであった。女だてらにカセットコンロ持参で車の一人旅をしていた経験を持つ。 これなら店を探す手間が省けていいと言うのだ。こんな二人が一緒に旅をすれば、どうなるかは火を見るより明らかだった。


森の駅 (撮影 2016.10. 9)
   

<余談続く>
 しかし、最近はさすがにカセットコンロは辞めにした。つましい生活を続けて少しは貯えも増えたし、年を取って道端でカセットコンロを出すのも体裁が悪い。 今は自宅に2つの古ぼけたカセットコンロが仕舞われていて、滅多にないすき焼きやしゃぶしゃぶの時、納戸の奥の方から引っ張り出されて食卓の上に置かれる。 錆びて汚れたこの器具が、二人の旅の思い出でもあった。
 
 勇んで入ったそば屋であったが、こういう時に限ってうまく行かないものだ。そばは丁度売り切れたとのこと。更に困ったことがある。 モネの池でトイレを済ませてくればよかったのだが、人が多いこともあり、さっさと退散して来てしまった。この先、クナジロ峠前後に公衆トイレなど見付かりそうもない。 そこで、昼食ついでに店でトイレを借りようと思っていたのだ。仕方がないので、妻の方だけトイレを貸してもらえないかと聞くと、店員は快く使わせてくれた。 しかし、店は「森の駅」という名でも、「道の駅」などの公共施設とは違う。妻を待つ間、ふと見ると、「トイレだけのご利用はご遠慮ください」と張り紙があったのだった。

   

板取ふれあいバスとすれ違う (撮影 2016.10. 9)
松谷から上ヶ瀬への間
この便は回送

<板取ふれあいバス>
 昨日今日と、板取川沿いでマイクロバスとすれ違った。車の前面に「板取ふれあいバス」と書かれている。 詳しいことは調べてないが、一般のバス会社による岐阜市内とこの板取とを結ぶ路線バスは既に廃止されているようだ。 代わって、地域住民組織の運営による、いわゆるコミュニティーバスが運行されている。それがこの「板取ふれあいバス」らしい。 ただ、運行距離は短く、旧洞戸村から旧板取村内までの範囲だ。果して岐阜市街からバスを乗り継いで板取まで来れるのだろうか。 「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」というテレビ番組でこの板取川沿いの道が登場したが、その時はどのようなバスに乗っていただろうか。
 
 板取村に最初にバスが通じたのは、村の南端、モネの池がある白谷(しらたに)までで、大正15年(昭和元年、1926年)のことだそうだ。 その後バス路線は延長され、昭和27年(1962年)には杉原まで開通したとのこと。その100年近い歴史を板取ふれあいバスが引き継ぐ。

   

<上ヶ瀬付近>
 道は上ヶ瀬の集落に入る。ここは関市板取の中心部で、「板取駐在所」とか「関市板取事務所」などと看板が立っている。 板取村時代の村役場があった所だが、他の集落と比べて格段に大きい様には見えない。商店などで賑わっている雰囲気でもない。 上ヶ瀬は板取川沿いに点在する旧板取村の集落の中で、ほぼ真ん中に位置する。村人の公平性を期し、ここに公共施設を集めたのではないかと思われた。
 
 上ヶ瀬集落内で道は板取川左岸へ渡る。旧板取村内では、ここまでは概ね右岸に、ここから先は大体左岸に現在の板取街道の幹線路が通じる。


「関市板取事務所」の看板が立つ (撮影 2016.10. 9)
ここで板取川左岸へ渡る
   
   
   
上ヶ瀬以降 
   

<上ヶ瀬以降>
 岐阜市街から上ヶ瀬まで最短でも40km以上の長い道程があり、ここから峠までまだ17km程を残す。更に峠の先の旧大和町で国道156号線に接続するまでを考えると、気が遠くなってしまう。板取川最奥を越える峠の旅は、なかなか過酷だ。
 
 板取村は古くからあったようだが、江戸期から明治初頭に掛けては10数か村に分村していた。明治4年に再合併して一つの板取村となる。 そんなこともあってか、関市の一部となる直前の板取村は、大字を編成していなかった。それで旧村域全てが「関市板取」という単一の住所名になっている。 関市の中でもかなり広い範囲を占める。その関市板取の中に、明治期の合併前の村にほぼ相当する20もの集落があるそうだ。そのほとんど全てが関市板取の中央部を南流する板取 川沿いに立地する。

   

道が狭い箇所 (撮影 2016.10. 9)

 上ヶ瀬を過ぎた後も、暫く人家が見えない寂しい道が続くなと思っていると、思い出したように集落が現れ、また後方へと去って行く。それを何度となく繰り返す。 そうした集落も、人家が数軒程度といった小さなものではなく、どこまで行っても意外と大きな規模である。そんなところに旧板取村の奥深さを感じさせられた。
 
 集落を繋ぐ主要地方道・白鳥板取線の方も、ずっと立派な2車線道路だ。と思っていると、狭い箇所が幾つかあった(左の写真など)。しかし、そこを過ぎるとまた元の様にセンターラインが出て来る。敷地の買収が難航した箇所だろうか。

   

<板取川温泉など>
 集落だけではなく、いろいろな施設も白鳥板取線沿いに点在する。キャンプ場の類が多いようだが、中でも板取川温泉は大きな施設の様だった。近付くに従い、旗などの広告が沿道に並ぶ。
 
 板取川温泉は板取川左岸の比較的広い川岸に、板取交流センターなどと共に併設されていた。道路沿いから少し覗いただけだが、意外と多くの車が停められ、なかなかの盛況振りだった。 日本のどこに行っても、こうした立寄り湯は人気である。ただ、地元のご老人たちが多い気がする。モネの池の様な華やいだ若者たちは少ない傾向にあると思う。


板取川温泉の旗が並ぶ (撮影 2016.10. 9)
   

板取川の岸辺に広がる温泉関連施設 (撮影 2016.10. 9)

<過疎の地>
 板取谷に平坦地は少なく、畑や田んぼなどの広々とした耕地がほとんど見られない。自然の成り行きとして、産業と言えば林業に関係する。 かつては筏流しで木材を搬出したり、製炭なども盛んだったが、今は皆無に等しいとのこと。第2次大戦後は人口の都市への流出が著しく、典型的な過疎に悩む村であるらしい。 今は観光面に力を注ぎ、外部から人を呼び込む努力をしているようだ。
 
 板取川温泉は保木口(ほきぐち)という集落に近いが、ちょっと古いツーリングマップ(ル)には記載がない。比較的近年に建てられ温泉か。

   

この先左に温泉への分岐 (撮影 2016.10. 9)

温泉などの看板 (撮影 2016.10. 9)
   
板取川温泉を望む (撮影 2016.10. 9)
   

左に杉原の分岐 (撮影 2016.10. 9)
この時は通行止で、別に迂回路があった

<杉原付近>
 板取川温泉に続く杉原(すぎはら)は、大きな分岐点に当たる。板取川の支流・川浦谷川が西方より注いで来ていて、川の大きな合流点である。また道についても、川浦谷川沿いに遡る道が分岐する。この時は入口部分が通行止で、迂回路が指定されていた。
 
 ところで、今回初めて知ったが、「川浦」は「かおれ」と読むようだ。案内看板にも「Kaore」と記されていた。知らないと普通に「かわうら」と発音してしまう。 この川浦谷川沿いにはいろいろなキャンプ場やバンガローなどがあるようだ。また川浦渓谷は全長7kmに渡る断崖の渓谷と、関市板取の観光ガイドに出ている。

   

<板取川源流>
 川浦谷川の源流は福井県との県境近くの左門岳(1224m)付近となる。ツーリングマップルなどでは、川浦谷川の上流部に再び「板取川」と書かれている。それと呼応するように、文献(角川日本地名大辞典)では板取川源流を越美山地の左門岳としている。
 
 一方、地形図やその他の資料では、川浦谷川ではない方に「板取川」と記されていて、そちらを本流としている。 その源流は板取村をずっと北に遡った岐阜・福井県境近くにある滝波山(たきなみやま、1412m)となる。最初、滝波谷(たきなみだに、滝波川とも)が流れ下り、途中で板取川と名を変え、直ぐに東のクナジロ峠から下る門原川を合わせ、杉原へと南流して来る。
 
 ただ、杉原から左門岳と滝波山では、左門岳の方が距離が遠く、流長は川浦谷川の方が長そうだ。その点で少し疑問が残る。


分岐の看板 (撮影 2016.10. 9)
川浦渓谷は「かおれ けいこく」と読む
   

<川浦ダム(余談)>
 過去に川浦谷川流域に踏み込んだことはないが、一つの関心事があった。比較的最近、この上流部に川浦ダム・川浦鞍部ダムというダムが建設された。 一方、西の本巣市根尾(旧根尾村)にもほぼ同時期に上大須ダム(かみおおすダム)が造られ、それらの間に車道が通じているようだ。 もしかしたら関市板取と本巣市根尾とを繋ぐ新しい峠道ができたのではないかと期待していたのだ。 しかし、折越峠で少し触れたように、中部電力の専用道路となっていて、一般には全く入り込めない道だった。

   

この先、道が狭くなる (撮影 2016.10. 9)

<一部狭路>
 杉原集落を過ぎると、沿道からパタリと人家が消えたが、道はかえって新しくなった。白線の白色もまだ鮮やかで、改修したばかりの様子だ。 しかし、数100mも行くとセンターラインが消え、昔からの狭い道に変わっていった(左の写真)。ここまで基本的にはずっと2車線路を維持してきた板取街道だったが、遂に力尽きたという感じだ。関市板取にある20の集落も、ここより上流側では4集落程を残すばかりとなった。

   

 道の拡幅が進まないのは、その部分で板取谷が非常に狭くなっているからでもあるようだった。しかし、ちょっとした林の中を抜けると、広々とした所に出た。 元は田んぼや畑、あるいは人家なども建っていたかもしれないが、今はほとんどが草地である。道幅はまだ少し狭いままで、1km程度してまたセンターラインが出て来た。

   

道が狭い区間が続くが、周辺は広くなった (撮影 2016.10. 9)
ただ、耕地などとして使われている様子はなかった

この先で道が広がる (撮影 2016.10. 9)
   

<杉島>
 道が広くなっても沿道に人家は出て来ない。代わりに対岸に建物が見える。杉島集落のようだ。温泉旅館らしい大きな建物が見える。

   
対岸に杉島の集落 (撮影 2016.10. 9)
   

<島口の十字路>
 また1台の「板取ふれあいバス」とすれ違う。その先、道幅が狭まり一本の橋を渡る。渡った先が小さいながらも十字路だ。 普通、主要地方道ともなる幹線路が右左折するなら、その手前にそれなりの道路看板が立っていて然るべきと思う。それが、何もないまま急に十字路に差し掛かる。 夫婦ともども、ただ真っ直ぐ走りさえすればいいと思っていたので、かなり慌てた。消え掛けた白線が辛うじて右に曲がる方向を本線と示している。直進方向はやや狭い道だ。 やっとの思いで右にハンドルを切る。


島口の十字路 (撮影 2016.10. 9)
   

島口の看板 (撮影 2016.10. 9)

<十字路の様子>
 十字路の角には「島口」(しまぐち)の看板が立っていた。ここから先は島口集落のようだ。十字路を左に曲がる方向に「湯元 すぎ嶋」と案内看板が指し示す。 板取川右岸に見えた杉島集落内にある温泉のことだろう。何台かの車が停められ、こちらも立ち寄り湯などを営んでいる様子だった。養魚場などもあるらしい。
 
<板取スイス村>
 また、「板取スイス村」というバス停が立つ。文献によると、国指定の自然休養村「板取スイス村」が計画されたようであるが、今はバス停以外にこの名は見られない。 板取の観光地化もあまり思い通りには進んでいないのだろうか。尚、バス停横には何かの大きな記念碑が立っていたが、確認せずに通り過ぎてしまった。

   

<島口>
 島口は、滝波谷を源流とする板取川本流と、その支流・門原川が合流する地にある。2つの川に挟まれ、その様子を「島」に見立てた地名とのこと。江戸期から明治4年まで島口村、その後板取村島口組、明治22年から板取村の字島口となる。

   

<白木峠>
 杉島やそれに続く島口は板取川沿いの平坦部を行く板取街道の終着点とも言える。岐阜市街からすれば50数kmの彼方に位置する。 その反面、背後の峰一つを越えれば、そこはもう福井県、越前国だ。板取村は古くから越前との交流が盛んであったそうだ。 その主要交通路が島口から板取川・滝波谷と遡上し、滝波山(1,412m)の東で国境を越す白木峠(1,155m)であった。 峠の越前側は現在の福井県大野市(旧和泉村)で、野々小屋谷から荷暮(にぐれ)川沿いへと下り、荷榑(荷暮)村へと降り立っていた。 島口村には番所が置かれ、往来改めを勤めたそうだ。かつての島口は越前国へと開かれた「窓口」であった。
 
 この白木峠の道を伝い、板取からは竹・茶が、越前からはニシン・サバ・コンブなどの海産物がもたらされた。物流のみならず文化の交流もあり、板取は北陸文化圏の南端でもあったそうだ。 こうした板取と越前との結び付きは、江戸期から明治中期まであったとのこと。明治10年にはこの峠道の修復も行われている。
 
 しかし、明治中期以降、板取街道の改修が進むと、板取村は岐阜との結び付きを強めて行った。歩荷に代わり荷馬車やトラック輸送が開始され、白木峠は急速に廃れて行ったようだ。 現在、滝波谷沿いに滝波山の中腹まで滝波林道が遡るが、岐阜・福井の県境前後に徒歩道さえも見られない。かつての交易の要衝となる白木峠は廃道と化し、福井県側の荷榑(荷暮)集落も廃村となったそうだ。

   

<花房峠>
 島口村の番所には、越前国の他にも、東の郡上郡内ヶ谷(うちがたに)村(現郡上市大和町内ヶ谷)との間の往来改めの役目があった。 島口と内ヶ谷を結ぶのが今回のクナジロ峠である。ところが、文献に「花房峠」というのが出て来る。 島口の項に「花房峠を越えて郡上郡大和村に至る」という一文だけ見える。クナジロ峠は島口より更に門原川上流にある三洞(さんぼら)を経由する。 島口から直接旧大和村へと通じる道など地形図にはない。また、地形的にもそのような経路が描き難い。 辛うじて旧大和村側は亀尾島川(きびしまがわ、長良川支流)の支流・ねぎ谷辺りに下るのではないかと想像するだけだ。謎の花房峠だが、あくまでクナジロ峠とは別物と考えておく。

   
   
   
門原川沿い 
   

<門原川右岸へ>
 島口の十字路の手前で道は板取川支流・門原川を渡っていた。十字路を右折して以降は、門原川右岸沿いになる。直ぐに白山神社の前を過ぎる。 神社はのぼりなどで賑やかに飾られ、付近に人出があった。祭礼でも行われる様子だ。尚、神社前には「ここは杉島」と看板があり、板取川右岸の杉島とどのように繋がっているのか、不思議な感じがした。
 
 初めてクナジロ峠を越えた時は、島口の十字路付近に通行止の看板が立ち、この先抜けられるのかと不安にさせられた。門原川沿いになると、谷は狭く人家も少なく、寂しい道になる。


白山神社前 (撮影 2016.10. 9)
右に「ここは杉島」の看板が立つ
   

<門原へ>
 門原川の蛇行は激しく、それに沿う道の屈曲も多い。沿道には、こちらに一軒、あちらに一軒という程度の人家にしか見られない。その内、比較的大きな集落に差し掛かる。「ここは 門原」と看板があり、直ぐに「門原口」というバス停が立つ。

   

門原集落 (撮影 2016.10. 9)
門原口バス停付近

「門原」の看板 (撮影 2016.10. 9)
   

<板取門原バス停>
 門原集落は関市板取の中で集落らしい集落としては最奥となる。門原川沿いに細長く人家が点在する集落には、「門原口」と「板取門原」という2つのバス停があり、「板取門原」が最終のバス停となる。

   
門原集落内 (撮影 2016.10. 9)
「板取門原」バス停付近
   

<バス回転場>
 門原集落最後の人家を過ぎて少し行くと、右手にポツンとバスの回転場がある。かつては大きな路線バスがここで回転し、また岐阜市内へと戻って行ったのだろう。今は板取ふれあいバスの回転場となっているようだ。

   

右手にバスの回転場 (撮影 2016.10. 9)

バス回転場の様子 (撮影 2016.10. 9)
   

<道の様子>
 バス回転場の少し先で、門原川を渡った左岸に一軒の家屋が見られた。人家にしては佇まいがあっさりしていて生活感がない。沿道には他にはもう何もなくなった。 ただただ門原川の細い谷間に一本の道が続くばかりだ。それにしては道が新しい。狭い道ながらも、白線がくっきりと白い。脇に旧道のような跡も見られ、道の改修・維持がしっかり続けられていることをうかがわせる。


対岸の家屋 (撮影 2016.10. 9)
   

左手に少し旧道の痕跡 (撮影 2016.10. 9)

道の様子 (撮影 2016.10. 9)
沿道に何もない
   

<分岐>
 途中、右の門原川を渡って道が分岐する。何の案内もない。周辺に人家はない。
 
<三洞>
 関市板取の最奥の集落は三洞(さんぼら)となる。「ここは 三洞」と書かれた看板がポツリと立っていた。それでもまだ人家はない。


右に分岐 (撮影 2016.10. 9)
   

三洞に入る (撮影 2016.10. 9)

三洞の看板 (撮影 2016.10. 9)
   

<道路情報看板など>
 その直ぐ先に、道路情報看板などが立っていた。

   
道路情報の看板など (撮影 2016.10. 9)
左に分岐あり
   

<道路情報(余談)>
 この人気のない寂しい山中にあって、わざわざ電光表示板の道路情報だ。これなら必ず目に留まる。この道路情報を見て嬉しくなった。
 
 岐阜市街を後に、ここに来る前までの間もクナジロ峠が越えられるかどうか不安だった。 主要地方道・白鳥板取線はクナジロ峠で郡上市大和町側に越えた先が険しく、長良川沿いに位置する旧大和町市街へと抜けられるかどうか分かったものではない。 その間に適当な迂回路も全く存在しない。22年振りの再訪が成るか成らぬか、気がきでなかった。 また、クナジロ峠が越えられない場合、昨日通ったばかりのタラガトンネルを使うくらいしか、他に適当なルート設定のしようがない。
 
 ところが、道路情報の看板には「落石注意」とのみある。「通行止」とはどこにも書いていない。長良川沿いまで白鳥板取線が通り抜けられるのだ。 昨日は、旧道のタラガ谷越が通行止で、仕方なくタラガトンネルを抜けた。20年振りの再訪が成らず、残念な思いをしたが、クナジロ峠はどうやら越えられそうだ。22年前の記憶と照らし合わせてみたい。


道路情報の看板 (撮影 2016.10. 9)
   

通行規制の看板 (撮影 2016.10. 9)

<通行規制>
 道路情報に並び通行規制の看板が立つ。ここが「関市板取三洞」であること、ここから郡上市大和町との境までが3.2kmであることが分かる。雨量規制の他に積雪規制があり、初積雪から3月31日まで、いわゆる冬期通行止となるようだ。意外と短い期間である。
 
 この通行規制は三洞から市境までだが、市境を越えた郡上市側の方が道が険しい。関市側が通行止なら、郡上市側は尚更通行止となるだろう。

   

<三洞集落>
 「三洞」の看板は立っているが、現在この主要地方道沿いに三洞の人家はない。道路情報看板とは道の反対側に、「土砂災害警戒区域」の看板が立つ。 その地図によると(右の写真)、道路情報看板の先で左に分かれる道があるが、その少し先に何軒かの人家があるようだ。それが三洞集落と思われる。 分岐する道の方を望むと、確かに一軒だけだが人家が見える(下の写真)。
 
 三洞集落は、その前は保木口(ほきぐち)の一部で、大正11年(1922年)に板取村の字三洞となったようだ。保木口は板取村のほぼ中央部に位置し、この三洞とはかなり離れている。 多分、保木口の住民がこの地に入り、耕地の開墾などをして住み着いたのが元となるのだろう。文献に記された世帯数は8、人口は20。手前に位置する門原集落は過疎化の現象が著しいとされるが、この三洞も同様であろう。


「土砂災害警戒区域」の看板 (撮影 2016.10. 9)
三洞集落周辺の地図が掲載されている
(画像をクリックすると別ウィンドウに拡大画像が表示されます)
   

分岐の先に見える三洞の人家 (撮影 2016.10. 9)

<クナジロ遺跡>
 旧板取村では各所で石器が出土している。門原にも縄文中期の遺跡があるそうだ。ネットで調べていると、三洞にも「クナジロ遺跡」というのがあるそうだ。 峠と同じ「クナジロ」という名である。その由来などは全く分からないが、この三洞の地に関係した地名なのだろう。
 
<三洞に関わる3つの峠>
 図書館でコピーして来た資料を読むと、三洞の項に「東は大峠・クナジロ峠・ネギ谷峠を越えて郡上郡大和村内が谷に出る」とある。 何とクナジロ峠以外に2つの峠が登場するのだ。 主要地方道・岐阜白鳥線が越えるのがクナジロ峠なので、他に大峠とネギ谷峠の峠道がこの三洞に通じることになる。
 
 尚、角川日本地名大辞典では「西峠」の名は出て来ない。旧大和村の内ヶ谷側から見ると西へと越えるので、この名があるのかとも思った。

   

<ネギ谷峠>
 郡上市大和町(旧大和村)の内ヶ谷側には、関市との市境の峰より「ねぎ谷」という亀尾島川の支流が流れ下る。このねぎ谷という川沿いに通じるのがネギ谷峠であろう。 地形図を見ると、三洞集落より門原川沿いを700m程上流に遡った所から、川沿いを離れて東へ向かい、標高約900mで市境を越え、ねぎ谷の中流域へと通じる点線表記の徒歩道が描かれている。多分、それがネギ谷峠の峠道ではないだろうか。現在、その峠の近くに林道が通じているようだ。
 
<大峠>
 大峠については手掛かりがない。固有名詞が付かないので、場所を特定し難い。 ただ、「大峠・クナジロ峠・ネギ谷峠」という並び順からすると、クナジロ峠より更に西の、より岐阜・福井県境に近い方にあるのではないだろうか。山深く標高も高くなることから、「大きな峠」という意味を持って大峠と名付けられたのではないかと思う。
 
 三洞集落内にはコウド洞という門原川の支流が、北の市境から流れ下って来ている。 その川沿いに遡り、標高約990mで市境を越えて郡上市側に降りると、内ヶ谷川(亀尾島川の上流部の呼称)の支流・千谷が流れ下る。 千谷沿いには途中まで林道も通じるようだ。多分、コウド洞から千谷へと続くコースが大峠の道ではなかったかと想像する。
 
<謎の峠道>
 尚、1988年5月発行のツーリングマップ(中部 昭文社)に妙な峠道が記載されていた。 クナジロ峠の数100m程手前より岐阜白鳥線(現白鳥板取線)から分かれ、クナジロ峠の数100m西で峠を越え、千谷へと下る車道だ。しかもお勧めガイドコースに指定されている。 上記の大峠に極めて近い。しかし、今回そのような道の分岐は全く確認できなかった。
 
<板取川最奥の峠>
 板取川本流の上流部には滝波山の近くを越える白木峠がある。しかし、峠に車道が通じた歴史はなく、更に今は廃道状態とのこと。また、大峠に相当する車道はなさそうだ。 ネギ谷峠には林道が走っているようだが、クナジロ峠の方がより門原川本流の上流部に位置する。よって、クナジロ峠は板取川(水域)の中で最も奥に位置する車道の峠と言える。

   

<ゲート箇所>
 三洞集落への分岐の先がゲート箇所になっている。

   
ゲート箇所 (撮影 2016.10. 9)
右手には「降雨時 通行注意」の看板
   

<ゲート箇所直後>
 基本的に、ゲート箇所を過ぎればその先に人が常住する家屋はないものと思う。道は尚も門原川右岸沿いに狭い谷の中を遡る。進むに連れ、谷はますます狭くなるようだ。そもそも人家などの家屋が立地できるような平坦地がない。


ゲートの先の道 (撮影 2016.10. 9)
   

この先、門原川沿い終点 (撮影 2016.10. 9)

<門原川沿い終点>
 ゲート箇所よりほぼ直線的に600m余り進むと、道はほぼ行止りのような形になる。実際は、道は左へと急カーブしていて、門原川沿いを離れ右岸の高みへと登って行く。
 
<広い路肩>
 カーブの手前の路肩が広くなっていて、車を停めて一休みするのに都合がいい。側らを流れる門原川の川床は、幾段もの段差が築かれていて、ちょっとした滝の様だ。

   
門原川が段差を成して流れ下る (撮影 2016.10. 9)
   

<門原川源頭>
 広い路肩より更に上流側を覗くと、そこにも段差があり、急流の様相を呈する。
 
 門原川はほぼクナジロ峠が源頭部となる。正確には、峠よりやや東寄りの関市・郡上市境になるようだが、100mの近さで門原川本流が峠をかすめている。 よって、元のクナジロ峠の道は、このまま門原川沿いを峠近くまで登って行ったのではないかと思う。しかし、この地点より上流側の門原川は急流となる。 傾斜が厳しく、車道が築けなかったものと想像する。そこで、車道はここより川沿いを離れ、つづら折りで右岸の山腹を登って行ったようだ。


ここより上流部は急流 (撮影 2016.10. 9)
   

門原川沿いに進む山道 (撮影 2016.10. 9)

<門原川沿いの山道>
 車道がカーブする先を見ると、カーブミラーの脇より更に上流部へと道が続いている。地形図などでも100m足らずの車道が描かれている。実際は草木に覆われ、車が入り込むのは難しそうだ。しかし、これがクナジロ峠に車道が通じる前の、昔からの峠道ではなかったかと思う。
 
 また、地図に描かれた車道の終点からは、門原川を左岸に渡り、東に進んで市境を越え、ねぎ谷へと至る徒歩道があることになっている。それが三洞から旧大和村へと越えていた3つの峠の一つ、ネギ谷峠の道と思われる。

   

<一軒の家屋>
 180度カーブする車道に囲まれたちょっと広い敷地に家屋が立つ。もうゲート箇所を過ぎた地域なので今は人が住む気配はないが、未だに人の手が入っている様子だ。何か悪戯でもされるのか、防犯装置が設置してある旨、警告の看板が立つ。

   

カーブを下流方向に見る (撮影 2016.10. 9)

カーブに挟まれ人家が立つ (撮影 2016.10. 9)
   

<最終の人家?>
 車道はここより坂道が続き、この先の沿道に人家などありそうにない。また、昔の峠道となる門原川沿いもこれから先は峠直下の急傾斜地帯である。 クナジロ峠の峠道では、ここが板取村側最終の人家ではなかったか。車道が通じる以前より、峠道の往来を見つめて来た家かもしれない。

   

<昼食休憩(全くの余談)>
 この先、川沿いを離れてしまえば、車を停めて一休みできるような場所も望めない。そば屋で昼食を食べ損なったこともあり、ここで暫く昼食休憩にすることとした。カセットコンロは持参してないが、こういう時の為にと菓子パンを2個携行してあった。
 
 最近はちょっとした旅に出ると、2、3日に一度はコンビニやスーパーに立ち寄る。その日の夕食や翌日の朝食などを調達するのが目的だが、そのついでに菓子パンをいくつか買い込んでおく。 パンなら常温でも2、3日は保存がきくので、そのまま車の中にしまっておく。そして、今回のように昼食を摂り損なった場合の主食とするのだ。 他には以前からの習慣で魚肉ソーセージやスナック菓子、飲み物各種を自宅より持って来てある。時には数日前に旅館に泊まった時、よくテーブルの上に小さな菓子などが置かれているが、それを食べずに持って来ている。
 
 まず2つの菓子パンを半分に割り、夫婦で分ける。いつもは私はカレーパン、妻はアンパンが好物だ。それぞれを半分ずつ食べる。 二人とも小食なので、このパンさえあればほぼ食事の用は足りる。不足分はその他の雑多な物で補う。冬場など寒い日は、その日の朝に旅館やホテルを発つ時、500mlのステンレスポットにお湯を満たして来る。それでインスタントのスープや生姜湯などを作ってすする。
 
 一人当たり200円にも満たない粗末な昼食であるが、二人ともそれで十分満足だ。特に節約しようという積りではない。峠の旅を続けていると、昼時にうまい具合にレストランが見付かることの方が少ない。その為の便法である。
 
 更に余談だが、旅の初日や最終日は、高速道路での長距離移動が多い。以前の昼食では、サービスエリアやパーキングエリアの駐車場の片隅でカセットコンロを出していた。 最近はカセットコンロがなく、パンなどの買い置きもない時は、仕方なく売店に入る。サービスエリアならレストランも併設されているが、いつもの習慣でそれ程しっかり食べたいとは思わない。 ある時、売店の弁当をあれこれ見て回るが、どれも量が多い。迷った挙句、最も安い400円程のおにぎり弁当を一つ買い、二人で分けることとした。 夫婦揃ってレジに並び、会計を済ませていると、それまで無口に手を動かしていたレジのおばさんが、向こうに電子レンジがあるから温めるといいと教えてくれた。 妻は別段何とも感じなかったようだが、私は後で考えてみると、レジのおばさんは我々夫婦が貧しく、1つの弁当しか買えないのかと哀れに思い、親切に電子レンジのことを話してくれたように思えて来た。
 
 我々夫婦としては、特に生活に窮している訳ではなく、旅も普通にしている積りだが、傍から見ると、ちょっと異様な点があるのかもしれない。 妻は独身時代、旅先の道の駅で一人でカセットコンロを出していたそうだ。道の駅なら水の調達が楽なのだという。そこまで酷くはないにしろ、人から不審がられることがあるかもしれない。車の中でパンをかじりながらも、ついつい周囲を気にするこの頃である。

   
   
   
峠への登り 
   

<本格的な登り道>
 いわば、板取側のここまでの道は、峠道の前哨戦でしかなかった。ここからが峠への本格的な登りである(余談が長かった)。
 
 峠までは約2.5kmの道程を残す。暫くは大きな蛇行を繰り返す。1つカーブを曲がるたびに、谷は道の左から右へ、右から左へと移って行く。


道の様子 (撮影 2016.10. 9)
谷は左
   

道の様子 (撮影 2016.10. 9)
谷は右

道の様子 (撮影 2016.10. 9)
谷は再び左
   

<谷の上部へ>
 高度も上がり、門原川が流れる谷が広く見渡せるようになる。対岸の峰を東へ越えた先はもう郡上市で、ねぎ谷の水域となる。正面に一際大きな峰の鞍部が見えるが、その付近にネギ谷峠が越えていたものと思う。

   
谷の様子 (撮影 2016.10. 9)
正面の峰の鞍部辺りがネギ谷峠だろう
   

<峠方向を向く>
 何度目かのカーブを曲がると、道はやっと北の峠方向を向く。随分開けて来た。峠まで後1km程の地点だ。

   
峠方向を向く (撮影 2016.10. 9)
峠道として面白い区間
   

<峠道のクライマックス>
 後方を振り返ると、なかなか険しい道がここまで登って来ていた。クナジロ峠の道は、全線に渡ってそれ程豪快な山岳道路という訳ではない。その中にあって、門原川沿いから1、2kmに渡って登るつづら折り区間が、この峠道として最も面白い区間であった。

   
後方を振り返る (撮影 2016.10. 9)
   

道の様子 (撮影 2016.10. 9)

<峠の少し手前>
 道の勾配も緩くなり、安定した走行となる。道幅が十分な上にガードレールも完備され、危険な感じはない。門原川沿いの狭い道より、かえっていいようにさえ思える。
 
 道は門原川右岸の高所を進む。標高ももう峠と大して変わらない所まで登って来ているが、残念ながらあまり視界が広がらない。谷側の木々が高く成長していて、時折その隙間から谷間の景色をうかがうばかりだ。

   

<峠直前>
 前方に峠が通じる峰の稜線が見えて来て、徐々に峠に近付いていることが分かる。しかし、峰の鞍部はなかなか見えて来ない。峠としっかり確認できるのは、ほとんど最後のカーブを曲がった数10m手前である。

 
峠直前の道の様子 (撮影 2016.10. 9)
市境を成す峰の稜線は近い
   
   
   
 
   
クナジロ峠 (撮影 2016.10. 9)
手前は関市板取、奥が郡上市大和町
手前を右に林道が分岐する
   

<峠の様子>
 峠は東西方向に連なる峰上の、非常に緩やかな鞍部に位置する。深い切通しなどではなく、とても開けて落ち着いた雰囲気だ。 古く岐阜白鳥線と呼んでいた頃はここが最大の難所であり、事実、板取川最奥に位置する車道の峠だが、ちょっと拍子抜けするような感じである。 峠に辿り着けたという感動にどこか欠ける気がしないでもない。それでも、22年振りに訪れた峠である。嬉しいことには変わりない。

   
峠の様子 (撮影 2016.10. 9)
関市側から見る
   

<峠の関市側>
 峠の直前、右に林道が一本分岐し、分岐の角辺りに県道標識や市境を示す看板などが立ち並ぶ。道のピークはそれらより少し先にある。 道の左手には「郡上市」、右には緑色の看板で「ここより 大和町」と出ている。「大和町」とある方は郡上市となる前から立つ古い看板であろう。

   

<分岐する林道>
 分岐する林道の入口付近は、ひびが目立つやや古いアスファルト敷きになっているが、林道に入ると直ぐに未舗装となる。水溜りなどが見られるが、それ程荒れた感じはなく、今でも利用されている様子である。

   

分岐する林道 (撮影 2016.10. 9)

林道の様子 (撮影 2016.10. 9)
   

<林道について>
 林道に関する注意看板が立つが、残念ながら林道名などの情報は全く得られなかった。
 
 地形図を見ると、その林道は関市側を市境の稜線にほぼ並行して南東方向に進み、ついには郡上市側へと越えている。峰を越える付近が丁度ネギ谷峠に近い。この林道に入り込めば、かつてのネギ谷峠が確認できるかもしれないという意味で、なかなか関心がある道だ。
 
 林道は、郡上市に入ってからは亀尾島川あるいはその上流部の内ヶ谷川沿いへと下っているが、川沿いに至る直前で車道は途切れているようだ。車ではどこにも抜けられない道らしい。
 
 
<峠より関市側を見る>
 林道の入口付近からは関市板取側に下る道がある程度先まで見通せる(下の写真)。ガードレール脇の崖が切れ落ちていて、さすがに険しい様相だ。そこが門原川のほぼ最源流部である。ただ、木々が多く、眺めらしい眺めは得られない。


林道の注意看板 (撮影 2016.10. 9)
あまり目ぼしい情報はない
   
峠より関市板取方向を望む (撮影 2016.10. 9)
残念ながら景色は広がらない
   
   
   
峠の郡上市側 
   
郡上市大和町側から見るクナジロ峠 (撮影 2016.10. 9)
   

<峠の郡上市側へ>
 きっちり市境看板の箇所を境に、郡上市側の道はやや狭いもののアスファルト路面は新しくなる。峠から緩やかな道が一筋下る。郡上市側から市境を見ると、ポツンと「関市」とだけ小さな看板が立つ。
 
<いわご谷>
 クナジロ峠の郡上市側は内ヶ谷川の支流・いわご谷の上流部に位置する。いわご谷本流ではなく、その支流のようだ。道は峠より数10m下ると、その谷の左岸沿いに進む。
 
<林道分岐>
 一方、右岸沿いへと林道が分かれて行く。入口に「関係者以外 立入禁止」と通行止の看板が立っていて、その先にはゲートのバーも渡してある。しかし、土の路面には車の轍がくっきりし、道路脇には切り出した木材も置かれ、林業用の作業道として使われてる様子だ。

   

峠の郡上市側 (撮影 2016.10. 9)
付近はいわご谷支流の源頭部だが、穏やかな地形

峠の郡上市側 (撮影 2016.10. 9)
谷を挟んで右に林道分岐
   

<クマ(余談)>
 初めてこのクナジロ峠(当時は名前などないと思っていた)を訪れた時は、野宿地探しで頭が一杯だった。それもあって、ここが峠だという認識もあまり持っていなかった。 とにかくこの県道沿いを離れたい。車の通行などほとんどないとはいえ、この幹線路沿いにテントを張る訳にはいかないのだ。そこで、目に付いたこの林道に入り込むこととした。 ゲートや通行止看板などはなく、意外と路面がしっかりした走り易い林道だったと記憶する。
 
 しかし、行けども行けども適当な野宿地はない。今の地形図を見ると、いわご谷の右岸をほとんど標高を下げずに内ヶ谷川本流方面へと延びている。道の左手が絶えず谷側となる。 すると、ある右のブラインドカーブを曲がった数m先にクマが居た。大きな大人のクマではないが、それでも体長1mくらいはあったろうか。 黒々とした体を俊敏に動かし、少し林道を走って逃げ、間もなく谷間へと下って消えた。 ジムニーの中に居るので、危険は感じなかったが、日暮れも近い時にクマに遭遇するのはいい気はしない。一応、そのまま進むと、重機が置かれた開削現場で道は行き止まった。 これを潮に県道まで引き返したが、クマが近くに居ると分かっては野宿などできたものではない。さて、どうしたものかと途方に暮れるのだった。

   
林道の行止り (撮影 1994. 9.24)
クマに遭遇後、ここまでやって来た
   

<郡上市側の様子>
 沿道には下枝が切り払われた林が広がり、伐採されて草地となっている所も見られ、開けた感じがする。ここに自動車道が通じる以前から、板取村と内ヶ谷村を結んで峠道が通じていた。 今とは大分様子が違うだろうが、比較的地形が安定していることもあり、茶店や避難小屋のような物が建っていたとしてもおかしくないと思われた。
 
<ゲートの痕跡?>
 林道を分けた先の道路の両脇には古そうなコンクリートブロックが残っていた。ゲート箇所の痕跡だろうか。 しかし、ゲートを設けるなら、市境看板がある所の方がしっかりと車両の通行止ができる。現に、そこには両脇に黄色いポールが立っていて、縄などが張れるようになっていた。 関市側からいわご谷右岸の林道へは行けても、郡上市方面へ下れないようにする為のゲートだったかもしれない。

   

郡上市側に続く道 (撮影 2016.10. 9)

何かのコンクリートブロック (撮影 2016.10. 9)
脇に白いポールが倒れている
   

<自動車道の開通>
 文献(角川日本地名大辞典)によると、このクナジロ峠に自動車道が開通したのは昭和50年(1975年)のことだそうだ。旧板取村側から峠まで3m道路が開削され、峠からは旧大和村側の林道に接続し、初めて車での両村の行き来が可能となったようだ。
 
 その後、この峠道は県道岐阜白鳥線という壮大な幹線路の一部となり、後に主要地方道にも指定される。 しかし、1993年頃にはタラガ谷越の国道256号に岐阜市街を起点とする肝心な区間を取られ、主要地方道の座は維持しつつも、白鳥を起点とする白鳥板取線になってしまった。 当初は板取村側には8m道路の計画もあったそうだが、今見る限り、道幅が広いのはせいぜい島口集落までで、門原川沿い以降の拡幅の兆しはない。

   
郡上市側より峠方向を見る (撮影 2016.10. 9)
空が広い峠だ
  

<標高>
 クナジロ峠に関しては文献にやっと名前が載る程度で標高などの詳しい情報はない。今の地形図の等高線では800mを越えた所に車道が通じる。 5m単位で考えて、約805mとしておく。峠が位置する鞍部は緩やかで、車道開削により大きく削られらたこともないであろう。昔のクナジロ峠も同じような標高であったと想像する。

   
   
   
郡上市側に下る 
   

<内ヶ谷>
 クナジロ峠の北麓は、現在は郡上市大和町(やまとちょう)の内ヶ谷(うちがたに)である。長良川支流・亀尾島川(きびしまがわ)上流域一帯に広がる。 亀尾島川の下流域は旧八幡町(現郡上市八幡町)で、旧大和町内に入ってからは内ヶ谷川と呼ばれるようだ。 あるいは、支流のねぎ谷が合流する地点(大和町内)より上流側を内ヶ谷川とする資料もある。
 
 内ヶ谷の祖先は平家の落人とも言われ、「落が谷」が訛って「内ヶ谷」になったとも伝わる。江戸期から内ヶ谷村があった。 西は板取村、西から北に掛けては越前国(福井県)、東は長良川の支流・落部谷川(おちべだにがわ)上流奥地に位置する落部(おちべ)村との境に峰が連なった。 亀尾島川の奥地に孤立するような山間地である。
 
 明治22年に落部村に合併し落部村の大字内ヶ谷となり、その後、明治30年に西川村、昭和30年に大和村、昭和60年からは大和町の大字と続いて行く。

   

道が登りだす (撮影 2016.10. 9)

<3つの峠>
 クナジロ峠の道が厄介なのは、このまま容易には長良川沿いに抜け出せないことだ。峠を郡上市側に入り、数100mも進むと、道はまたはっきり登りだす。 いわご谷水域から、その本流の内ヶ谷川沿いへとトラバースして行くのだ。その間、峠として明確な箇所はないが、明らかに水域を分かつ一つの峰を越えている。
 
 また、やっと内ヶ谷川沿いに降り立っても、川沿いに八幡町へと下る車道はない。結局、大和町落部との境の峠(黒田峠)を越えることになる。クナジロ峠を含め、合計3つの峠越えがセットとなる峠道なのだ。

   

<いわご谷左岸上部>
 クナジロ峠の郡上市側の道は、下るのかどうなのか何だか分わからない内に、今度は明確に登り始める。この点が何とも峠道らしくない。クナジロ峠自身あまり峠らしい魅力に欠けるが、別に2つの峠が続いたりと、どうもクナジロ峠は峠としての印象が薄い気がする。
 
 道は概ねいわご谷左岸の尾根の上部へと登って行く。西の千谷との分水界となる尾根だ。


いわご谷左岸の上部を行く (撮影 2016.10. 9)
   
いわご谷支流を下流方向に望む (撮影 2016.10. 9)
対岸に林道が通じる
   

<いわご谷支流の眺め>
 林の中を抜けて少し登ると、いわご谷支流が広く眺められる場所に出た。対岸の下の方に林道が通じるが、例のクマに遭遇した林道である。その上の方には作業道らしい道筋も望める。

   
いわご谷支流を上流方向に望む (撮影 2016.10. 9)
上の方に作業道が通じる
   

<トラバース区間>
 クナジロ峠から内ヶ谷川沿いに至るまで、この尾根の斜面を横断するトラバースの区間が如何にも冗長的だ。距離は約7kmもある。川沿いを進むとか、峰の稜線に対してはっきり登り下りするなら分かり易いが、山腹を横断する道はどうも捉え処がない。
 
 最初は概ね緩い上り坂が続いて行く。いわご谷支流から本流左岸へと移り、更に幾つもの支流の谷を越えて進む。そのたびに道は山腹の出入りを繰り返す。時に谷の奥へと道が延びているが、車ではどこへも抜けられない枝道だろう。


道の様子 (撮影 2016.10. 9)
穏やかな登りが続く
   

いわご谷本流の源頭部 (撮影 2016.10. 9)
ここを過ぎて本流左岸へ
谷の奥へと道が分岐していた

県道標識 (撮影 2016.10. 9)
   

道の様子 (撮影 2016.10. 9)

<道の様子>
 救いなのは、比較的視界が開けていることだ。常に道の右手に谷間が広がる。ただ、それ程の遠望がある訳でなく、見とれる程の景色ではない。
 
 後は沿道に見るべき物はなく、県道標識を眺めるくらいだろうか。こんな寂しい山中にある道ながら、ポツリポツリと意外と多くの県道標識が立っていた。

   
沿道から眺める景色 (撮影 2016.10. 9)
   
谷を巻き、元来た道の方を望む (撮影 2016.10. 9)
多分、この谷がいわご谷本流
   

保安林 作業許可標識 (撮影 2016.10. 9)

<出合>
 時々、保安林の作業許可標識という看板が立っている。住所が「内ヶ谷字出合」とか、「内ヶ谷出会」と出ている。出合と出会のどちらが正しいか分からないが、この付近の地名であろうか。 出合とは通常、主要な河川が合流する地点にそう名付けられる。ここの場合、いわご谷がその本流の内ヶ谷川に合流する付近の地名かもしれない。

   

<距離の看板>
 時折道路脇に小さな看板が立っている。内ヶ谷方向に向かっていると裏側になるので、何が書いてあるのかと振り返って見た。「106」などと百桁台の数値が記されているだけだ。
 
 こうした看板は峠道でよく見掛ける。100m単位で道の距離を表していることが多い。106の場合、起点から10.6kmということになる。この距離だと、概ね、内ヶ谷と落部との境、現在内ヶ谷トンネルが越える付近が起点となるようだ。


「106」の看板 (撮影 2016.10. 9)
   

<長良川方面の眺望>
 道はクナジロ峠を越え、クナジロ峠より更に標高を上げて行く。それにはメリットがあった。いわご谷からその先の内ヶ谷川の谷も越え、本流の長良川流域まで視界が通って行くことだ。 多分、内ヶ谷トンネル付近の低い峰を越えて見えているのだろう。これだけの遠望は、クナジロ峠では屈指である。

   
霞んでいるが長良川方面の眺望がある (撮影 2016.10. 9)
   

緊急時連絡可能箇所の看板 (撮影 2016.10. 9)

<緊急時連絡可能箇所(余談)>
 最近、辺ぴな道で時折見掛けるのがこの「緊急時連絡可能箇所」の看板である。携帯電話の通信が可能な場所だ。多分、ここだけ近くに中継器が設置されているのだろう。万が一の場合、役立ちそうだ。
 
 しかし、元々こうした施設があることが分かっていないと、ここまでやって来ることができない。慌てていると、この看板も見落とすかもしれない。 できれば沿道の各所に、どちらの方向のどのくらいの距離に、この箇所があるかを示す看板だけでも立っていると、より多くの人の目に触れ易く、利用頻度も上がるだろう。まあ、元から通行量は極めて僅かだが。

   

<野宿(余談)>
 初めてクナジロ峠を越えた時、クマを目撃してからは県道を一目散に先へと進んだ。しかし、日も暮れ掛かり、暗い山道での車の走行は危険である。 早くどこかに野宿地を求めなければならない。でも、道はだらだらと登るばかりで、沿道に手頃な空地がない。結局、業を煮やし、目に付いた少し広い路肩で野宿することとした。 もうその場所がどこだったかはっきりしないが、狭くてみじめな場所だった。 しかも、夜中にに襲われ、生きた心地がしない。一つ間違えば、命をも落としかねない状況だった。 まだ携帯電話など普及していない時代で、深い山の中で孤独な一夜を明かした。今思うと、おかしなことをしていたものだ。


このような路肩で野宿した (撮影 2016.10. 9)
   

対向に一台のバイク (撮影 2016.10. 9)

<最高所を過ぎる>
 道はだらだらと上り、その内だらだらと下り始める。野宿をした翌日は、はっきり峠を越えたような気がしていたのだが、今回訪れてみると、峠らしい場所は見当たらない。 ただ、標高としてはクナジロ峠に関わる道での最高所を通過している。ほぼ900mだ。クナジロ峠より100m近く高い。
 
 最高所付近を通っていると、一台のスクーターバイクとすれ違った。多分、島口の手前で板取ふれあいバスと離合して以来の対向車であったろう。その後もトンと対向車を見ない。それ程辺ぴな道である。

   
   
   
内ヶ谷川右岸 
   

<内ヶ谷川右岸沿いへ>
 道が下り始めると、いわご谷沿いから本流の内ヶ谷川沿いへと移っている頃になる。谷間を越えた先に赤い橋のような物が見えた。多分、内ヶ谷トンネルに入る前にある地蔵橋(じぞうはし)ではないかと思う。手前に広がる谷は、やはり本流らしい広さを見せ始めていた。
 
 
<尾根上を行く>
 下り始めた道は、途中でちょっとした尾根上を通過する。道の左右ともが谷になって下っている。内ヶ谷川が急カーブしていて、それを分かつ尾根である。やはり峠道としては変則的だ。


対岸に小さく赤い橋が見える (撮影 2016.10. 9)
   

<距離看板>
 尾根途中に「96」(9.6kmの意味)と看板があった。前回(106)より1kmしか進んでいないことになり、これはちょっとおかしい。この96の方が正しいとすると、起点は内ヶ谷トンネルも抜け、落部の宮前という集落付近となる。

   

尾根上の道 (撮影 2016.10. 9)
200m程続く

「96」と書かれている (撮影 2016.10. 9)
   

<内ヶ谷川を望む>
 尾根上を反対側に下りだすと、ちょっと急なカーブが続き、一気に高度を下げる。川面までは見えないが、そろそろ内ヶ谷川の谷底が望めるようになる。対岸を川沿いに道が通じる。それがこれから辿る道筋だ。
 
 何やら重機が動いて造成している箇所もある。初めてクナジロ峠を越えて来た時は、この付近一帯でダム関係の工事を行っていて、通行するのに苦労した。あれから22年経つが、まだ工事は続いているのだろうか。


内ヶ谷川道 (撮影 2016.10. 9)
   

対岸に道が見える (撮影 2016.10. 9)

工事の重機が動いている (撮影 2016.10. 9)
   

右手に橋が見えて来た (撮影 2016.10. 9)

<内ヶ谷川沿い>
 右手に橋が見えて来て、内ヶ谷川沿いに降り立って来たことが分かる。古いツーリングマップなどを見ると、以前はその橋より少し上流側のもっと低い位置に別の橋があり、そちらを渡っていた。現在はその道の方へはもう入れないようになっていた。
 
<新しい橋>
 新しい橋の名前や竣工年を確認しようとしたら、銘板がことごとく外されていた。多分、盗まれたのではないかと思う。タラガ谷越のタラガトンネルでも、トンネル銘板が取られていたのを見ている。

   

以前は橋の手前の先に道が延びていた (撮影 2016.10. 9)
今は入口にチェーンが張られ、もう通れそうにない

橋の様子 (撮影 2016.10. 9)
銘板が取られていて、名前などが分からない
   

 このように高い位置に橋が架け替えられたのは、ダム工事とも関係するのだろうか。初めてクナジロ峠を越えて来た時、果たしてこの橋を渡ったかどうか、今では全く覚えがない。橋の竣工年でも分かれば、ある程度判断が付くのだが。銘板がないのはつくづく残念だ。


橋の袂より峠方向を見る (撮影 2016.10. 9)
   
内ヶ谷川を下流方向に見る (撮影 2016.10. 9)
深い渓谷を成す
   

<古い橋>
 橋の欄干越しに内ヶ谷川の上流方向を見ると、下の方に古い橋が残っているのが確認できた。古いだけでなく、路面が鋼板張りという簡易的な物だ。昔からそうなのだろうか。

   

内ヶ谷川を上流方向に見る (撮影 2016.10. 9)

古い橋が架かる (撮影 2016.10. 9)
   

<内ヶ谷川左岸>
 橋を渡った左岸の袂は、ちょっとした広場になっている。橋の方を振り返ると、「この先関市板取地内まで 落石・路側注意」とだけある。この時は特に問題なく通行が認められているようだった。しかし、時にはこの橋から先が通行止になることもあるらしい。


左岸側より橋を見る (撮影 2016.10. 9)
   

橋に続く県道 (撮影 2016.10. 9)
落石注意の看板が立つ

<橋以降の道>
 橋に続いて県道52号が真っ直ぐ延びる。県道標識もしっかり立っている。以前の古い橋を渡って来た道は、この直ぐ先の右手より登って来ていたようだ。ドラレコ画像を確認すると、道らし物が写っていた。
 
 
<林道>
 県道の続きを行く手前、左岸沿いを上流方向へと林道が分岐していた(下の写真)。

   
林道入口 (撮影 2016.10. 9)
右橋に地蔵
   

<黒田〜亀尾島林道>
  林道標柱には「黒田〜亀尾島林道 幅員3.6米 延長11.827米」とあった。12km近くとは林道にしてはかなりの距離だ。この分岐を起点とすれば、 内ヶ谷川(亀尾島川でもある)を相当上流部まで遡ることとなる。この林道は古いツーリングマップにも既に描かれている。ここより3.5km程行った所に 「開拓地」と書かれていた。
 
 尚、内ヶ谷トンネルが通じる前に落部と内ヶ谷との境の峰を越えていた林道の名称が確か黒田亀尾島林道である。黒田とは落部側にある集落名だ。現在のこの「黒田〜亀尾島林道」とどのように関係するのだろうか。


林道看板と標柱 (撮影 2016.10. 9)
   

地蔵 (撮影 2016.10. 9)

<地蔵>
 林道分岐の角に一体の地蔵が佇む。新しい橋が架かって、この付近の様子は一変したことだろう。多分、どこからか移設されて来たのではないだろうか。
 
 古く内ヶ谷村と板取村を繋いだ頃のクナジロ峠の道沿いにあった地蔵だろうかとも思ったが、現在の内ヶ谷側にあるルートは林道開削によって新しく通じたも のだ。かつては峠よりいわご谷の川(最初はその支流)に沿い、そのまま内ヶ谷川沿いまで下っていて、この付近など通っていなかったものと思う。
 
 すると、どういういわれの地蔵だろうか。もしかしたら、ここより内ヶ谷川をその最上流部まで遡り、国境を越え、越前国まで続く道があったのだろうか。越前側に下れば、そこはかつての荷暮(荷槫)の地である。

   

<広場の様子>
 林道入口とは反対側に空地がある。乗用車が一台停められていた。山歩きか、内ヶ谷川で釣りでもしているのだろうか。ここは内ヶ谷川の最も奥まった地であるが、こうして時折訪れる者があるらしい。

   
橋の袂の広場の様子 (撮影 2016.10. 9)
車が一台置かれていた
   
   
   
内ヶ谷川沿い 
   

<内ヶ谷左岸沿い>
 クナジロ峠を越えて来た道は、やっと内ヶ谷川本流の左岸沿いを下りだす。途中、ちょっと開けた場所を通過する。この付近の谷の広さを感じる。しかし、全般的に視界の広がらない道が続く。

   
開けた場所を通過 (撮影 2016.10. 9)
   

<県道315号を望む>
 ちょっと視界が開けたかと思ったら、突如として真下に立派な道が出現した。こちらは山肌に沿って屈曲する道だが、あちらは橋を使って滑らかに通じている。県道315号・白山内ヶ谷線だ。発行年が2000年くらいの道路地図ではまだ掲載されていないこともある。

   
下に県道315号を望む (撮影 2016.10. 9)
   

<黒田峠>
 東の方角に目を移すと、内ヶ谷と落部との境界、内ヶ谷川と落部谷川との分水界となる峰が連なり、中央に鞍部らしき場所が確認できる。 そこに通じる峠には、始め黒亀尾島田林道として車道が開削され、後に県道(主要地方道)岐阜白鳥線となり、次に主要地方道・白鳥板取線となった。 現在、峠の下に内ヶ谷トンネルが通じ、峠は旧道の身である。林道ができる以前より、内ヶ谷と落部、更に大和町市街方面とを繋ぐ峠道が通じていたことと思う。webで調べてみると、峠の名は黒田(くろんだ)峠というらしい。

   
黒田峠方向を望む (撮影 2016.10. 9)
   

<2本の峠道>
 峠を望む角度がかなり鋭角なので、残念ながら峠が通じる部分の稜線は見えていない。峠は左手前の尾根の裏あたりだろう。その尾根の斜面に上下2本の道筋が見える。下が県道52号・白鳥板取線の新道で、上に通じるのが旧道、元の黒田亀尾島林道のようだ。

   
手前の斜面に上下2本の道筋が見える (撮影 2016.10. 9)
   

この先、県道315号の分岐点 (撮影 2016.10. 9)
その手前左に短い旧道が分かれる

<T字路に出る>
 間もなく、先程見えていた県道315号に接続する。こちらの方が幹線路なのだが、こちらからT字路で合流する形だ。その直前、左へ旧道が分岐するが、「100m先 行き止まり」と看板が立つ。

   

<県道315号方面>
 突き当たったT字路より右の川上方向に県道315号が始まる。直ぐに内ヶ谷2号橋という橋を渡る。白山内ヶ谷線という名からして、ここが内ヶ谷側の起点ということになる。 内ヶ谷川から亀尾島川沿いに下り、一度タラガ谷越の国道256号を通り、旧美並町(現郡上市)の白山へと至る。
 
 内ヶ谷2号橋の袂にいろいろ看板が立つ。まず「2km先 行き止まり」とあり、「公共内ヶ谷治水ダム建設工事 内ヶ谷ダム連絡協議会」と水色の看板が立つ。 県道315号の通行止はダム建設によりものらしい。ただ、内ヶ谷川から亀尾島川に至る途中、元々この県道は未開通だが。


分岐より県道315号方向を見る (撮影 2016.10. 9)
直ぐに内ヶ谷2号橋が架かる
   

ダム建設の看板 (撮影 2016.10. 9)

県道看板など (撮影 2016.10. 9)
   

<県道52号方向>
 分岐から板取方面より至った県道52号を見ると、一応「関市板取方面」を矢印が示す看板が一つ立つ。たったそれだけだ。他にこの分岐を案内する大きな道路看板はない。 周囲を見渡せば、県道番号が直進方向は315号で、52号は右折することになっているが、うっかりすると県道52号の本線を見過ごしてしまいそうな分岐だ。

   

県道52号を板取方向に見る (撮影 2016.10. 9)
入って直ぐ右に旧道が分かれる
左は県道315号方向

分岐には「関市板取方面」の看板が立つ (撮影 2016.10. 9)
   

県道52号を落部方向に見る (撮影 2016.10. 9)
直ぐに内ヶ谷1号橋を渡る

<内ヶ谷1号橋>
 分岐から先の県道52号にも内ヶ谷1号橋という橋が架かる。分岐は1号と2号との僅かなつなぎ目に設けられている。どちらの橋も内ヶ谷川本流を渡るのではなく、道を直線的に通す為、左岸の小さな支流の谷を跨いでいる。
 
 1号橋の竣工は平成4年(1992年)9月とある。2号橋は平成6年(1994年)2月とあったようだ。実際に一般に使われたのは、もっと後ではないないだろうか。初めてここを訪れたのは2004年9月だが、多分、この橋は渡っていないと思う。

   

内ヶ谷1号橋の銘板 (撮影 2016.10. 9)
「うちがたにいちごうはし」とある

内ヶ谷1号橋の銘板 (撮影 2016.10. 9)
「平成4年9月竣工」とある
   
分岐を上流方向に見る (撮影 2016.10. 9)
直進が県道315号、右折が県道52号の続きを板取方面(クナジロ峠)へ
手前は県道52号を落部方面へ
   
   
   
内ヶ谷集落 
   

<内ヶ谷集落>
 内ヶ谷1号橋上からは内ヶ谷川の谷の様子が見渡せる。この付近で川は大きく屈曲し、広い谷間を形成している。その谷底の右岸沿いに家屋が確認できた。文献では「昭和45年11月全戸離村し現在は無住」と内ヶ谷を説明しているのだが。

   
内ヶ谷1号橋の上から内ヶ谷川の谷間を眺める (撮影 2016.10. 9)
右岸沿いに家屋が見られる
   

<隔絶山村>
 内ヶ谷集落は亀尾島川の上流内ヶ谷川流域に広がる山村だが、亀尾島川中流部の八幡町相生・荒倉から大和町内ヶ谷・下山へかけての7kmの間、両岸絶壁の峡谷を成している。 その為、川沿いの交通に著しい障害をきたしたそうだ。下流側の県道315号も荒倉で止まっている。 地形図では荒倉の上流側、旧大和町との境の直前の旧八幡町明原まで一応車道が通じているようだが、旧大和町に入った山下前後には車道が見られない。 近年になって内ヶ谷1号橋、2号橋などができ、上流側からも県道315号が始まったが、それも山下に至る前に途絶している。
 
 文献では隔絶山村とも呼ばれたこの内ヶ谷と外界との交通は、もっぱら峠道に頼ることとなったようだ。黒田峠やクナジロ峠などであろう。ねぎ谷が内ヶ谷川に合する地点が丁度山下だが、ネギ谷峠は山下集落にとって重要な交通路だったのかもしれない。


右岸沿いの家屋の様子 (撮影 2016.10. 9)
   
黒田峠付近の様子 (撮影 2016.10. 9)
かつて内ヶ谷集落へはこの峰を越えて来た
   

<内ヶ谷治水ダム>
 橋から見えた家屋は、元の住民が夏場などだけ通って来ているのか、あるいは別荘の類かもしれない。定住している人は居ないものと思う。 また、現在ねぎ谷の合流点よりちょっと上流側に内ヶ谷治水ダムの建設が進んでいる。 内ヶ谷1号橋・2号橋を通るルートは、この建設工事を目的に造られたもので、集落の人たちの為ではないかもれない。ダム完成後には内ヶ谷川沿いの一部は水没することになる。
 
<道路看板>
 内ヶ谷1号橋を渡った所に、やっとまともな道路看板が出ている。「白鳥 25km、ぎふ大和IIC13km」とある。板取側からこの方、距離を示す看板などほとんどなかったと思う。 ぎふ大和IC(東海北陸自動車道)は長良川に近い。長良川沿いの国道156号までも同じく13kmとなる。

   

内ヶ谷1号橋を渡る (撮影 2016.10. 9)

県道の道路看板 (撮影 2016.10. 9)
   

<金山>
 内ヶ谷1号橋の銘板に「金山」とあった。普通、橋が渡る川の名前が書かれているが、この「金山」とはこの付近の地名のようだ。 古いツーリングマップには、橋から見えていた家屋より上流側約1kmの右岸に、その金山集落が記されていた。今の地形図にもその付近に金山の文字だけ見られる。 かつてはこうした集落が内ヶ谷川沿いに点在していたのだろう。

   

内ヶ谷1号橋の銘板 (撮影 2016.10. 9)

内ヶ谷1号橋の銘板 (撮影 2016.10. 9)
「金山」とある
   

県道52号の旧道 (撮影 2016.10. 9)
大きな道路看板が立つ

<県道52号の旧道>
 内ヶ谷1号橋を渡った所で、左より県道52号の旧道が合して来る。旧道は内ヶ谷1号橋をバイパスする形に150m程の距離に通じていた。 出口方向に大きな道路看板が立っているところを見ると、橋が完成した後も暫く旧道の方が使われていたらしい。初めてここを訪れた時は、多分旧道側を通ったものと思う。 今は入口にコンクリートブロックが置かれ、道は草木に埋もれている。

   

<宮ヶ洞橋>
 クナジロ峠を越えて降り立った内ヶ谷だが、沿道には家屋など一切見られない。内ヶ谷1号橋から200m程進むと宮ヶ洞橋という橋を渡る。 その辺りが内ヶ谷地内における県道52号の最も標高が低い箇所になり、標高約685mだ。そこを過ぎると道はまた登り始める。 内ヶ谷と落部との峰を目指し、もう一峠越えなければならない。(黒田峠に続く


宮ヶ洞橋 (撮影 2016.10. 9)
ここより黒田峠への登りが開始される
   
   
   

 初めて内ヶ谷を訪れた時は、ダム関係の道路整備工事の真っ最中で、慌ただしい様子だったと記憶する。本来は通行止だったのかもしれない。 しかし、野宿した朝の早い時刻で、まだ工事作業が始動していなかったのか、無事に通過することができた。その内ヶ谷も今は落ち着いた様相である。 ただ、その下流ではダム工事が着々と進んでいるのかもしれない。ダム湖ができれば一度は廃村となった内ヶ谷もまた違った形で生まれ変わるのかとも思う、クナジロ峠であった。

   
   
   

<走行日>
・1994. 9.24 旧板取村 → 旧大和町 内ヶ谷の県道途中で野宿 ジムニーにて
・1994. 9.25 旧大和町内ヶ谷から落部へ ジムニーにて
・2016.10. 9 関市板取 → 郡上市大和町 ハスラーにて
 
<参考資料>
・角川日本地名大辞典 21 岐阜県 昭和55年 9月20日発行 角川書店
・角川日本地名大辞典のオンライン版(JLogos)
・中部 2輪車 ツーリングマップ 1988年5月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部 1997年3月発行 昭文社
・ツーリングマップル 4 中部北陸 2003年4月3版 1刷発行 昭文社
・県別マップル道路地図 21 岐阜県 2001年 1月 発行 昭文社
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

<1997〜2016 Copyright 蓑上誠一>
   
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