ホームページ★ 峠と旅
梨ノ峠 (梨ノ木峠)
  なしのとうげ (なしのきとうげ)  (峠と旅 No.328)
  吉野川平野からダイレクトに神山町へと通じる峠道
  (掲載 2024. 9. 8  最終峠走行 1997. 9.25)
   
   

image
梨ノ峠 (撮影 1997. 9.25)
手前は徳島県名西郡神山町阿野の広石
奥は同県吉野川市鴨島町森藤の六防
道は徳島県道(主要地方道)31号・鴨島神山線
峠の標高は416m (文献より)
この時はまだ吉野川市ができる前で、
看板が示すように、峠は麻植郡「鴨島町」との境であった

   

   

<峠名>
 ツーリングマップ(ル)などの道路地図や神山町の観光パンフレットでは、この峠を「梨ノ木峠」、または「梨の木峠」としている。文献(角川日本地名大辞典)でも「梨ノ木峠」で掲載されていた。しかし、その解説文中に「梨ノ峠ともいう」とことわってもいる。地理院地図では同じく「梨ノ峠」と書かれていた。さて、現地の峠ではどうかと言うと、ご覧の通り「梨の峠」と看板に出ている(上の写真)。
 
 梨ノ木峠(梨の木峠)と呼ばれる峠は他にも多い。一方、梨ノ峠(梨の峠)と呼ばれる峠はほぼこの峠に限る。他の峠と区別する為にも、ここでは「梨ノ峠」と呼んでおく。それなら国土地理院や現地の看板の意向にも沿うことになる。
 
 ただ、「木」が付かないのは奇妙な感じがするのは確かだ。ついつい「梨ノ木峠」と見間違ったり、読み間違ったり、記憶違いを起こしそうだ。しかし、それでも結果的には間違いではないのだが。
 
 「ノ」か「の」かは些細な点だ。「ノ」と書く方がやや古い気がする。歴史の重みを加味するなら「梨ノ峠」だろう。現代風なら「梨の峠」だ。峠に立つ看板は時勢に合わせている気がする。 現代人にはカタカナの「ノ」はやや奇異な感じを与えるだろう。一方、「梨の峠」ではやや安っぽい印象は否めない。そこで、ここでは「梨ノ峠」と書いてみることとした。まあ、どうでもいいことなのだが。

   

<所在>
 峠道はほぼ南北方向に通じ、峠の北側は徳島県吉野川市(よしのがわし)鴨島町(かもじまちょう)森藤(もりとう)になる。吉野川市ができる前は麻植郡(おえぐん)鴨島町大字森藤であった。 峠を鴨島町側に下ると最初に六防(ろくぼう)という集落があり、付近は六防地区とも呼ばれるようだ。大字森藤の中の字名だと思う。
 
 峠の南側は同県名西郡(みようざいぐん)神山町(かみやまちょう)阿野(あの)の広石(ひろいし)になる。広石も字名だろう。

   

<地理院地図(参考)>
 国土地理院地理院地図 にリンクします。


   
本ページでは地理院地図上での地点を適宜リンクで示してあります。
   

<掲載理由(余談)>
 前回、堀割峠を掲載した。その峠から吉野川右岸に沿う峰上を東に進むと、今回の梨ノ峠に至る。 梨ノ峠は過去に一度しか越えたことがなく、すっかり記憶から消えていた。今回、堀割峠の関連で思い出した時も、「梨ノ木峠」と「木」が付くとばかり思い込んでいたり、「梨」を「栗」や「杉」などとしばしば取り違えたりした。
 
 このホームページ「峠と旅」の掲載を始めたのが、1997年(平成9年)6月20日だった。梨ノ峠を越えたのは、その直後の9月25日のことだ。 旅をする時、勿論峠のことばかり考えている訳ではないが、ホームページを開設した関係上、峠はより気になる存在になっていた。梨ノ峠を訪れた時も、ホームページに掲載したいような峠かどうかと考えた。 しかし、それ程面白い峠ではないので、一応峠でジムニーを停め、数枚の写真は撮ったものの、ホームページで取り上げようとは全く思わなかった。さっさと先を急いだ。
 
 当時はそれなりに険しい峠以外は、あまり関心がなかった。しかし、最近四国の峠に固執していて、ついでにこの峠も掲載してみようと考えを改めた訳だった。

   

<水系>
 峠の鴨島町側は吉野川の支流・飯尾川(いのおがわ)の更に支流の三谷川の水域になる。ただ、吉野川沿いは広い平野状になっていて、人工的な水路が数多く巡らされている。 飯尾川は文献(角川地名大辞典)によると、吉野川の一次支流・鮎喰川(あくいがわ)の更に支流になるようだ。しかし、鮎喰川に合流する前に、吉野川に注ぐ流路もある。 また、鮎喰川そのものも、吉野川河口の僅か6Km程手前で合流していて、鮎喰川自体でほぼ独立した水系を構成しているような川だ。余り川にこだわっても意味がない。
 
 峠の神山町側は鮎喰川上流部の支流・広石谷川の源流部になる。
 
 よって、峠は全て吉野川水系・鮎喰川水域になる。大きく見れば、吉野川本流域とその右岸有数の支流・鮎喰川水域とを分かつ分水界上に位置すると言える。

   

<立地・役割>
 神山町は鮎喰川中・上流域全体を占める。その神山町から外界に出るには、鮎喰川沿いに下る以外、全て峠越えになる。特に徳島市街への交通も便利な開けた吉野川沿いに出る峠道の価値は高いだろう。文献でも、「名西郡の山間部である神山町から、徳島平野へ出る4つの自動車道の1つ」と梨ノ峠の特徴を記している。梨ノ峠は山間部側の神山町にとって町外に通じる実用的な峠道と言える。
 
<徳島平野>
 尚、文献に言う「徳島平野」とは吉野川平野と言い換えてもよさそうだ。当初は徳島市街が広がる吉野川河口の三角州付近だけを指すのかと思ったが、吉野川沿いのかなり上流部までを含めるようだ。

   

<4つの自動車道(余談)>
 その「徳島平野へ出る4つの自動車道」というのが、どうにも気になる。峠道とは言っていないが、文脈からして峠道を指しているように思える。
 
 峠道に限定すれば、最も東に通じる県道20号の新童学寺トンネル(地理院地図)以西になる。 逆に最も西側から順に4つ挙げると、国道193号の経の坂峠(倉羅峠)、県道(主要地方道)43号・神山川島線の焼野峠(地理院地図)、県道245号・二宮山川線の柳水ノ峠(地理院地図)、それに今回の梨ノ峠となる。焼野峠と柳水ノ峠は比較的最近に車道が開通したが、文献でもそれは考慮されている(後述)。
 
 峠道として険しい最奥の経の坂峠(倉羅峠)まで含めるのかどうか少し迷うが、そうだとすると、上記の4つの峠が「徳島平野へ出る4つの自動車道」となる。その中で梨ノ峠は最も東に位置し、最も利用価値・利用頻度が高い峠道と言えそうだ。

   
   
   

峠の鴨島町側

   

<鴨島町より峠へ>
 梨ノ峠を訪れた前日は、国道318号の旧道・鵜峠(うのたお)を香川県から徳島県側に越え、国道脇の宮川内公園で野宿した。鵜峠は讃岐山地を越える峠だが、吉野川を挟んで丁度反対側にそびえる山並み上に、今回の梨ノ峠が通じる。今日はその峠を越えて神山町で国道438号に乗り、西へ向かって川井峠、見ノ越、そして京柱峠といった、そうそうたる峠を越えようと思う。
 
 阿波中央橋(地理院地図)で吉野川を右岸に渡れば鴨島町(現吉野川市鴨島町)の地だ。いつまでも大きな幹線国道を走っているのは好きではない。早々と国道から外れると、途端にどこかで道に迷い、藤井寺(ふじいでら)近くに出てしまった。四国お遍路の11番札所になる。

   
image

県道31号を峠方向に見る (撮影 1997. 9.25)
ここで三谷川を左岸に渡って峠に向かう
道は一気に狭くなる

<県道31号>
 藤井寺への案内看板はあちこちに立っているので、それを参考にして現在地を確認、やっと梨ノ峠に通じる県道31号・鴨島神山線に乗る。この道は主要地方道の指定を受けている。途中までいい道だったが、三谷川を左岸に渡たる箇所(地理院地図)から先は、心細そうな寂しい道が山の中へと入って行く。
 
 橋の手前には12番札所・焼山寺(しょうさんじ、しょうざんじ)の看板が立つ。32Kmと距離が示されていた。峠を越えた先の神山町内にその焼山寺がある。 藤井寺との間をお遍路道が通じるが、車で移動する場合、梨ノ峠が丁度手頃な経路となるようだ。ただ、団体客を乗せたバスなどで移動するには、ちょっと狭い道のようである。

   

 気持ちは既に川井峠や見ノ越、京柱峠に向いている。梨ノ峠はその前哨戦にもならない小さな峠だ。幅1.5車線の道をさっさと峠へと急ぐ。暫く沿道に建物などの人工物が見られたが、後はずっと林の中だ。
 
 堀割峠もそうだったが、この梨ノ峠も吉野川右岸沿いに連なる山並みを登る峠道で、川筋とはほとんど縁がない。ただただ山腹を蛇行してよじ登る。途中、六防(ろくぼう)の集落を過ぎる。六防は一か所に人家が集まる大きな集落を形成している訳ではなく、県道の沿線各所にポツリポツリと人家が点在するばかりだ。

   
   
   

   

<峠>
 吉野川沿いに通じる国道192号の県道分岐からでも、僅か7.5Km程で峠に至る。堀割峠の峠名の由来は、その長い切り通しにあったが、こちらの梨ノ峠も、細く長い切り通し状になっている。それがこの付近の峠の特徴なのかも知れない。途中、殆ど眺めはなかったが、峠からも鴨島町側に視界は広がらない。

   
image

梨ノ峠 (撮影 1997. 9.25)
手前が鴨島町、奥が神山町

image

神山町の看板 (撮影 1997. 9.25)

<郡境>
 峠は鴨島町と神山町の町境だったが、大きく見ると麻植郡(おえぐん)と名西郡(みようざいぐん)の郡境でもあった。 かつて、麻植郡は鴨島町他、川島町・山川町・美郷村の3町1か村から成っていたが、これらの町村は今は皆一つの吉野川市になっている。麻植郡は消滅したのかもしれない。梨ノ峠は市町境にはなったが、もう群境ではないのかもしれない。
 
<峠の鴨島町側>
 峠の鴨島町側は、景色もないが、神山町と書かれた町境を示す看板以外、何も見るものはない。それでも僅かに路肩が広くなっていて、辛うじて車を停めるスペースになっている。

   

<峠の神山町側>
 長い切り通しを抜けた先は、狭い道がそのまま神山町側へと下って行く。車を停められるような十分な路肩は用意されていない。その一方、峠名を示した看板や神山町側の案内看板、石碑などが立っている。
 
<看板>
 やはり何と言っても峠名を記した看板が立っているのはありがたい。後で写真を見返した時、そこがどこの峠だか直ぐに分かる。旅の記録・メモなど、その場ではほとんど記さない。 代わりに写真を撮るのは、旅の記念ではなく、記録の為であった。峠は旅をしている時の重要な通過点であり、それでよく写真を撮っていた。それがいつしか峠に関心を持つ切っ掛けにもなった。

image

梨ノ峠の神山町側 (撮影 1997. 9.25)
「梨の峠」と書かれた看板が立つ

   
image

峠の看板など (撮影 1997. 9.25)

<神山町の案内看板>
 神山町については、焼山寺(地理院地図)、神山温泉(地理院地図)、森林公園(地理院地図)の3つが紹介されていた。詳しい観光案内図などはなく、単にそこまでの距離が示された、非常に素朴な看板だった。
 
 現在は、神山温泉の近くに道の駅・温泉の里神山ができ、神山町に関してそこで詳しい情報が得られるようになった。この後に私も道の駅でパンフレットなどをもらった。今回も神山町ガイドマップを眺めて楽しんでいる。神山町は何度か訪れているが、またじっくり旅を楽しんでみたい地だ。

   
image

神山町側から見る梨ノ峠(再掲) (撮影 1997. 9.25)

image

峠の看板など (撮影 1997. 9.25)
「鴨島町」は今は「吉野川市」に変わっていることだろう
右端の看板は火の用心の看板

<峠名の由来(不明)>
 神山町側から峠を見る方向にも、「梨の峠」と書かれた看板が立つ。この名の由来については、文献などには残念ながら記載がなかった。単純に梨の木に関係するものか、「梨」(なし)は単なる当て字で何か他の意味があったのか、結局分からない。
 
<峠の標高>
 文献には416mと出ている。現在の地理院地図で見る等高線からも、ほぼ妥当な値である。

   

<2つの石碑>
 「梨の峠」の看板の奥に、2基の石碑が並ぶ。左の大きい方は「開鑿」と題された碑、右の小さい方は「県道本名鴨島線道路特別整備事業」と書かれている。
 
 看板やこうした石碑をじっくり見学したいのだが、とにかく車を落ち着いて停められる場所がない。ジムニーをできるだけ道の端に寄せて停め、急いで写真を撮る。幸いまだ朝早い。 前日は野宿だったので、早々と野宿地を出発し、峠に着いたのは7時前である。その為か、この主要地方道を行き交う車は殆ど見掛けない。
 
 
<開鑿の碑>
 表題は右から左に「開削」(かいさく)と書かれているものと思ってよさそうだ。最初の開の字(フォントなし)は、書道の師範の免状を持っている妻に調べてもらうと、現代の「開」の字にほぼ間違いないようだ。また「鑿」(さく)については、始めから「削」に相当することは分かっていた。例えば志賀坂峠にも「志賀坂峠開記念」と刻まれた石碑が立っている。何よりこうして「鑿」の字のフォントが存在するのがすごい。
 
 ただ、鑿は道具の「のみ」を指し、単に削(けず)ることとは文字単体が表す意味は全く異なる。よって、開鑿と開削でも、概ね意味は同じだろうが、若干ニュアンスは異なるものと思う。開削には重機も使うだろうが、開鑿の方はより人力に頼る面が強いように受け取れる。

image

開鑿の碑 (撮影 1997. 9.25)
その右横に道路特別整備事業の碑

   
image

開鑿の碑の表題 (撮影 1997. 9.25)

<辛亥>
 厄介なのはその次の「昭和辛亥之秋」と書かれていることだ。どうにか干支の辛亥(「かのとい」とか「しんがい」とか)であることが読み取れた。 60年で繰り返される干支の一つであることくらいは分かるが、この手の知識は全くない。調べてみると、最も近い辛亥の年は1971年(昭和46年)になる。次は2031に来る。
 
 続いて「第一三師団長 和田昇治」とあり、この人物による書なのだろう。自衛官ということもあり、干支を使う点など、日本国を意識しているように伺える。

   

<碑文>
 碑文の一部を下記に転記する。
 
 この県道 本名鴨島線が 陸上自衛隊善通寺第109施設大隊 同高知第325地区施設隊の献身的奉仕の努力により みごと落成開通したことは麻植郡鴨島町ならびに名西郡神山町両町民多年の宿願が達成されたもので われらの喜びと感謝はたとえようもない
 よって両町の雄大絶佳の山脈と森林資源を一望におさめるこの梨ノ峠に碑を建立して記念とする
    展けゆく 梨ノ峠や 隊員の汗
  昭和四十六年十一月二十六日
  (以下略)
 
 碑文中の「絶佳」(ぜっか)とは、「風景がすぐれていて美しいこと。また、そのさま」である。「絶景」に近いか。
 
 碑文の建立日は昭和46年11月26日とあり、やはり1971年の辛亥であることは間違いない。
 
 以前にも指摘したことだが、文献(角川日本地名大辞典)では、こうした碑文の内容も参考にして解説されていることが多い。今回の「梨ノ木峠」の項もそうだった。文献の執筆に当たっては、実際に現地の峠を訪れているのだろうか。もしそうだとすると、なかなか貴重な文献である。
 
<車道開通>
 また文献では、「この峠道は昭和46年に(中略)自動車の通行ができる道として開削された」、としている。碑文からではあまり明確ではないが、どうやらこの自衛隊による開削工事が完工した昭和46年11月をもって、初めてこの梨ノ峠に車道が開通したと考えてよさそうだ。

image

碑文 (撮影 1997. 9.25)

   

<他の峠の車道開通(余談)>
 尚、西隣にある堀割峠は、大正期に「車両」(自動車ではないようだ)も通行できる峠となり、昭和47年(1972年)12月に、やはり自衛隊による改修工事で、ほぼ現在の車道(自動車道)となっている。梨ノ峠より約1年遅いことになる。
 
 ついでなので、神山町の山間部に通じる主な峠の車道開通日を以下に列記してみる。
 
・川井峠(隧道)/国道438号・439号併用
  昭和41年(1966年)
・雲早隧道(土須峠)/国道193号(開通当時:関連林道木沢神山線)
  昭和42年(1967年)3月
・梨ノ峠/県道鴨島神山線(開通当時:県道本名鴨島線)
  昭和46年(1971年)11月26日
・堀割峠/県道神山川島線(開通当時:県道寄井川島線)
  昭和47年(1972年)12月20日
・経の坂峠・倉羅峠/国道193号
  昭和53年(1978年)11月 (国道の開通日)
・柳水ノ峠(やなぎのみずのとうげ)/県道二宮山川線
  昭和57年(1982年)または昭和59年(1984年)
・焼野峠/県道神山川島線(開通当時:県道寄井川島線)
  昭和59年(1984年)6月21日
 
 日付まで記したケースもあるが、石碑の建立日とか隧道の開通日だったりして、正確な車道開通日とは限らない。また、隧道開通日などと車道としての併用開始日は別なので、日付はあくまで参考である。
 
 さすがに国道だけあるのか、川井隧道や雲早隧道の開通は早い。県道では梨ノ峠が最も早くから車道が通じている。吉野川本流域に出るという重要性からしても、それは当然か。しかし、総じて神山町の山間部に峠道が通じたのは、昭和後期と比較的近年のことである。

   

<県道本名鴨島線>
 ところで、現在の梨ノ峠に通じる県道の名は「鴨島神山線」だが、碑文では「本名鴨島線」となっている。本名(ほんみょう)とは神山町阿野(あの)にある字本名(地理院地図)だろう。現在の鴨島神山線も神山町側は本名を起点とする。どちらの県道も名前が違うだけで、区間は同じだったかもしれない。

   

<整備事業の碑文>
 一応、碑文を転記する。
 県道本名鴨島線道路特別整備事業
 総延長6,045M  総工費 9,599,000円
   第一期工事            第ニ期工事
 起工 昭和45年10月21日  起工 昭和46年 8月26日
 完工 昭和45年12月16日  完工 昭和46年11月26日
 施設部隊             施設部隊 
 陸上自衛隊善通寺駐とん    陸上自衛隊高知駐とん
 第109施設大隊         第325地区施設隊
 工事委託者 徳島県 鴨島町 神山町

   

<工事の総延長>
 約6Kmとあるが、鴨島町側の六坊集落と神山町側の広石集落を結ぶ距離だけでは、4Km程度にしかならない。工事区間はそれを越える範囲だったことになる。 両町側から各集落までの車道が、昭和46年まで通じていなかったなどとは考え難い。工事区間約6Km全線が、元から全く自動車が通れないような道だった訳ではないだろう。六坊集落付近は急傾斜地で険しい地形だ。道の勾配も急で屈曲も多い。そうした箇所の改修工事もこの時に行われたのではないだろうか。

   

<持部峠(余談)>
 梨ノ峠以東では、新童学寺トンネルまで暫く車道の峠は存在しない(曲突越除く)。しかし、徒歩による峠はいろいろ通じているようだ。その中に持部峠(もちべとうげ)がある。正確な位置は分からないが、鴨島町森藤の三谷集落(地理院地図)から、神山町阿野の持部(地理院地図)に越える峠(地理院地図)とのことだ。梨ノ峠とは至近に位置する。
 
<持部鉱山(余談)>
 この持部峠は持部鉱山(五郎鉱山とも)で賑わったようだ。堀割峠のページでも東山鉱山(太郎鉱山とも)に触れたが、この一帯はいくつかの銅鉱山があった。経営権がいろいろ移って鉱山の呼び名も変わったが、明治期には持部と東山を合わせて持部東山鉱山と改称されたりした。
 
 持部鉱山で採掘された鉱石は、人馬の背によって持部峠まで担ぎ上げられ、峠からは山腹に延長約4kmのヘアピンカーブのぎち車道(どんなものか不明)が開削されて、竜王神社(八大龍王社?、地理院地図)近くの広場へ降ろされたそうだ。
 
 麓の森藤などでは鉱山関係に従事する者たちで賑わい、酒屋・飲食店なども繁盛した。最盛期の大正期には索道による輸送が行われた。しかし、昭和に入ると鉱床を掘り尽くし、昭和20年の終戦とともに休山、昭和46年7月に廃山となったそうだ。
 
 丁度この年に梨ノ峠に車道が開通している。持部峠に代わる峠道の必要性があったのかもしれない。また鉱山という地域の重要な産業を失い、それを少しでも補う目的もあったのではないだろうか。

   

 梨ノ峠には車道開通記念碑などが立ち、それなりに話題にできる点がある。しかし、これから向かう川井峠などに比べると、やはりあまり面白い峠道とは思えなかった。 手早く何枚か峠の写真を撮ったものの、それ以上長居をする気がしない。車道の隅に停めたジムニーも、通行の邪魔にならないかと気になる。結局峠には3分程度居ただけで、直ぐに神山町側に走り出すこととした。

   
   
   

峠より神山町側へ

   

<阿野>
 峠の南側は名西郡(みようざいぐん)神山町(かみやまちょう)阿野(あの)である。鮎喰川(あくいがわ)中流域に位置する。明治22年(1889年)からの阿野村で、昭和30年(1955年)に周辺の数ヶ村と合併してできた神山町の大字河野となった。
 
<阿川>
 ただちょっと気になるのは、文献では梨ノ木峠を「神山町阿川の広石との境にある峠」としている。この場合の「阿川」(あがわ)は「阿野」の誤植だろうか。しかし、神山町には「阿川」という地名は実際に存在する。後述の「阿川梅の里」などである。ただ、現在の住所表記としては「阿川」は使われていない。(阿川については後述)

   

<広石>
 阿野に下って最初の集落は広石(ひろいし)になる。鮎喰川の支流・広石谷川の谷頭に位置する。古くは持部鉱山と並び、銅鉱床の広石鉱山があった。 明治30年代から採鉱が本格化し、持部鉱山とは地下トンネルで連結していたそうだ。明治末期まで盛んに採掘されたが、昭和期に入り衰退とのこと。
 
 道は直ぐに広石谷川に沿って下るようになる。広石の人家はその沿線の比較的上流部にまで点在していた。
 
<道の様子>
 川沿いの道は杉木立に囲まれ、殆ど視界が広がらない。人家の点在もまばらで、林ばかり眺めている寂しい道だ。鴨島町側に比べ、道幅も幾分狭いようである。 1.5車線幅もない区間が続く。これで舗装してなかったら、ほとんど林道だ。狭い道は慣れっこだが、後で思わず「狭い」と一言、ツーリングマップに書き込んだ。
 
 それでいてこの道は主要地方道だ。車の通行が皆無と言う訳には行かない。のんびり走りたいところだが、対向車が来るとかなり厄介なことになる。さっさと走り抜けたい気持ちにかられる。

   

<県道245号合流>
 峠から6Km足らずで右手から県道245号・二宮山川線が合流する分岐に至る。時間で僅か15分程だ。梨ノ峠はホームページに掲載する積りはなかったので、途中の広石集落などは全く写真を撮ってなかった。 しかし、旅の習慣でこういう主要な分岐点ではわざわざ車を降り、写真に収めることにしている。旅の記録の為であった。
 
 県道245号・二宮山川線は広石谷川の支流・二ノ宮谷川沿いに遡って行く。よって、県道の順位と同じく峠道の順位も、広石谷川本流側に通じる梨ノ峠の方が上位である。

   
image

県道245号の分岐点 (撮影 1997. 9.25)
左が県道245号を美郷方面へ
右が梨ノ峠へ

image

分岐に立つ看板 (撮影 1997. 9.25)
柳水庵(りゅうすいあん)4.5Kmとある

   

<二宮山川線(余談)>
 県道245号・二宮山川線の「二宮」とは、この分岐付近の地名「阿野字二ノ宮」(地理院地図)だろう。文献では「県道二の宮山川線」と書かれた場合を見掛けた。「山川」とは現在の吉野川市山川町、旧山川町である。二宮山川線の前身は、大正12年に開通した東山山瀬線と思われる。吉野川沿いに通じる徳島線の山瀬駅(地理院地図)付近を起点とするのだろう。東山山瀬線は旧美郷村の東山地区までで、神山町までは計画されていなかったようだ。
 
 この分岐から現在の二宮山川線を進むと、吉野川市との市境を越えて吉野川市美郷(旧美郷村)の東山地区に出られる。東山については堀割峠のページで触れた。東山の中心地・古土地(こどち)で、堀割峠を越えて来た県道(主要地方道)43号・神山川島線と交差している。

   

<二宮山川線の峠/柳水ノ峠(余談)>
 残念ながら、これまでに二宮山川線の峠(地理院地図)を越えた経験がなく、詳しいことは分からない。峠の名前については、文献でやっと「柳水ノ峠」(やなぎのみずのとうげ)として出ているのを見付けた。しかし、現在はこの名はあまり一般的ではないようだ。
 
<所在・役割>
 柳水ノ峠は神山町阿野の松尾と吉野川市美郷(旧美郷村)の東山地区の境にある。標高約480m。江戸期からの阿川村(後述)と東山村を結んでいた。昔から両地区の交流は多く、特に阿川二宮神社(地理院地図)の秋祭りには、大勢の人々がこの峠を越えて来とのこと。
 
<柳水庵>
 また、柳水ノ峠では藤井寺から焼山寺に至るお遍路道が通過している。峠の直ぐ北側に柳水庵(りゅうすいあん)という休憩所がある。弘法大師空海所縁の清水で、巡拝者が休憩したり、宿泊したりするのに適した場所であったそうだ。峠の名はその柳水庵から来ているようである。
 
<車道開通>
 お遍路道と交差する峠越えの道は、県道二宮山川線として昭和55年から改良工事が行われ、昭和57年(1982年)に車道として開道したそうだ。峠にはその記念碑が立つとのこと。
 
 ただ、同じ文献の東山(近代)の項に、「同(昭和)59年には隣接の神山町に通じる県道二の宮山川線、寄井川島線も延長・拡張されて、陸の孤島であったこの地区の交通も便利になり」 と出ている。
 
 寄井川島線(現神山川島線)の焼野峠については、峠に立つ開通記念碑に昭和59年(1984年)6月21日と記されているのを見ているので間違いない。 二宮山川線の柳水ノ峠については、昭和57年か昭和59年のどちらかということになる。私が所有しているツーリングマップ(ル)では、以前は両峠とも未開通で、その後二宮山川線の峠の方が先に車道が描かれていた。やはり昭和57年開通か。記念碑が立っていることからも、堀割峠や梨ノ峠、焼野峠と同様、柳水ノ峠も自衛隊による開削と思われる。

   

<二ノ宮以降>
 それまで南へ流れていた広石谷川は、二ノ宮で急に東へと向きを変える。道もそれに沿って東へ進む。直ぐに二ノ宮の集落が出て来る。人家が密集した比較的大きな集落だ。しかし、道幅はまだ暫く狭く、走り難い。それでも徐々にいい道となって行った。

   

<本名>
 二ノ宮から2Km程で本名(ほんみょう)に至る。ここで広石谷川は本流の鮎喰川(あくいがわ)に注ぐ。県道31号・鴨島神山線の終点であり、同時に梨ノ峠の峠道もここで終わりだ。この県道の元の名が県道本名鴨島線であったことも頷ける。

   
image

本名の県道分岐 (撮影 1997. 9.25)
左が県道20号を神山町役場方面へ
右が県道31号を梨ノ峠へ
手前は県道20号を徳島市街方面へ
但し、最近の県道分岐は県道20号を少し進んだ所に移っている

image

分岐に立つ道路看板 (撮影 1997. 9.25)

<県道20号>
 代わって鮎喰川沿いには県道20号・石井神山線が通じる。神山町の中心を流れる鮎喰川沿いに通じる道である。神山町の幹線路かと思えるが、鮎喰川中・上流域には県道20号に代わって国道438号が通じる。 県道20号は吉野川沿いの石井町を起点とするが、国道の方はダイレクトに徳島市街から通じる。道もいい。やはり国道438号の方が神山町の主幹線路であった。
 
 鮎喰川最上流部の川井峠(隧道)は、国道438号が越える峠ではあるが、地形的には県道20号の峠とも言える。
 
 また、本名近辺から短距離で吉野川沿いに出るには、県道20号を使うだろう。更に二ノ宮辺りからも、一旦本名に出て、県道20号を使うのではないかと思う。 よほど鴨島町に用がない限り、梨ノ峠は狭くてちょっと走り難い。広石集落からだと日々の買い物程度でも梨ノ峠を越えた方が便利かもしれないが、過疎化が進んでいる昨今である。いろいろ思い描いてみても、梨ノ峠はそれ程交通量がある峠道には思えない。

   

<本名集落の様子(余談)>
 例によって、県道の分岐ではジムニーから降りて写真を撮った。何でもない普段の街角の様子が写っている。よく見ると、子供たちが郵便局の前に集まっていた。 女の子ばかり5、6人のグループが、皆赤いランドセルを背負い、手持ちぐさたに佇んでいる。まだ来ない友達を待っているのか、あるいはスクールバスの到着を待っているのだろう。本名集落の朝の登校風景であった。
 
 以前はランドセルの色は男の子は黒、女の子は赤が定番であった。最近は色の種類が増え、それぞれ好みのランドセルを背負っている。今から僅か30年程前の本名集落の様子だが、何だかとても懐かしい風景に思えた。

image

小学生の登校風景 (撮影 1997. 9.25)

   

<看板など>
 県道20号を役場方向には、「焼山寺 17Km」とある。四国お遍路で藤井寺から車で梨ノ峠を越えて来た者は、ここから県道20号で次の焼山寺を目指すことになる。 一方、県道31号方向には、「阿川公民館、阿川幼稚園、阿川小学校 2Km」とある。阿野地ノ平(じのたいら、地理院地図)にそれらの公共施設が集まっているようだ。先程の小学生たちは、阿川小学校まで歩いて通うのかもしれない。ただ、その学校は今はもう廃校になっているらしい。

   
image

分岐にいろいろな看板が立つ (撮影 1997. 9.25)

image

阿川梅の里の観光案内図の看板 (撮影 1997. 9.25)

   

<阿川>
 看板にあるように、付近一帯は「阿川梅の里」と呼ばれる梅の名所となっている。徳島県下最大規模の梅園だそうで、神山町のガイドマップにも記されている。阿川の正確の範囲は不明だが、少なくとも字本名などより広い範囲であることは確かだ。
 
<阿河村/阿川村>
 文献(角川日本地名大辞典)で色々調べてみた。明治22年に誕生した阿野村(現在の神山町の大字阿野)は、どうやら阿河村と広野村が合併してできたようだ。 多分、阿河の「阿」と広野の「野」を合わせて「阿野」と命名したのだろう。阿河村は阿川村とも記し、広野村と同じく江戸期からの村だった。概ね、阿野村の東側半分が旧広野村、西側半分が旧阿河(阿川)村だったようだ。持部鉱山があった持部などは阿野村の大字広野になる。
 
 文献では梨ノ木峠を「神山町阿川の広石との境にある峠」としていたが、正確には「旧阿野村大字阿川の広石」ということになろう。更に明治22年以前は、「阿川村の広石」ということになる。
 
 地ノ平にあった阿川小学校の前身は、明治8年本名に開校された阿川小学校だったようだ。当時この地はまだ阿川村であった。明治11年一時閉校、明治13年二宮に移転改築、明治19年阿川簡易小学校、明治25年阿川尋常小学校と改称したそうだ。
 
 昭和30年に神山町が誕生してからは、阿川という地名は住所表記としては使われなくなったと思われる。しかし、現在も「阿川梅の里」などとして、その名を残している。

   
   
   

 今から27年前にたった一度だけ越えた峠で、しかもホームページに掲載するまでもないと思っていたが、こうして改めて峠に関わるいろいろなことを調べてみると、それなりに面白いものだと感じさせられた。 神山町に残る「阿川」という地名についても、その謎が解ける思いだ。僅か27年の歳月だが、今では赤いランドセルの登校風景は滅多に見られない。一度だけの峠の旅だったが、何だかとても懐かしいと思わせる、梨ノ峠であった。

   
   
   

<走行日>
・1997. 9.25 鴨島町 → 神山町/ジムニーにて
 
<参考資料>
・中国四国 2輪車 ツーリングマップ 1989年7月発行 昭文社
・ツーリングマップル 6 中国四国 1997年9月発行 昭文社
・マックスマップル 中国・四国道路地図 2011年2版13刷発行 昭文社
・角川日本地名大辞典 36 徳島県 昭和61年12月 8日発行 角川書店
・その他一般の道路地図、webサイト、観光パンフレットなど
・その他、一般の道路地図など
 (本サイト作成に当たって参考にしている資料全般については、こちらを参照 ⇒  資料

<1997〜2024 Copyright 蓑上誠一>
   
   
   
峠と旅        峠リスト