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この8月に梅野木峠を掲載し、これで「峠と旅」で掲載してきた峠が合計で200になった。1997年6月20日より始めてもう15年の歳月が過ぎている。途中、ほとんど休止状態の時もあったが、細々とどうにか続けてこられた。 ここで、これまで掲載してきた200峠の中から、特に印象に残っている10の峠を選んでみた。選定には何の基準もなく、全く私個人の趣味によるものだ。「私の10大峠」と題した下記の峠に関し、簡単な感想を書いてみた。 |
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同じ山梨・静岡の県境にあって、この安倍峠の西約5Kmに大笹峠(山伏峠)があり、そちらは必ず10大峠に入れたかったので、こちらの安倍峠は10大峠に
入れようかどうしようか迷った峠だ。しかし、峠道の険しさや峠越えができた時の充実感を最初に味わせてくれた峠である。 安倍峠を越えようとし始めたのは1991年からで、何故かと言うとこの年の9月からオフロード向きのジムニーに乗り始めたのだ。この頃、安倍峠の山梨県 側はほとんどが未舗装の林道であった。当時の林道看板には「豊岡梅ケ島林道」とあった。ちょっと入り込むと、険しいの何の。単に荒れた林道なら少しは経験 はあったが、安倍峠の道は、頂上に至るまで長く険しい登りが延々と続く。こんな林道、到底走り切れないのではないかと思えた。実際にも路面凍結やら道路工 事などで、途中で引き返すことばかりである。やっと安倍峠を初めて見たのは、確か翌年の夏のことだった。 安倍峠自体はあまり味わいがある峠ではないが、とにかく険しい峠道を 走り抜いて辿り着いたことが嬉しかった。安倍峠はそこが道の頂上であるということに意味があった。 峠の静岡県側の道は、早くから舗装化が進んでおり、静岡県側からなら峠まで比較的誰でも訪れることができた。ところが山梨県側は、一転して険しい未舗装 林道である。それを知らずに静岡県側から峠を越えて来た者は、顔を引きつらせることとなる。今でも思い出すのは、ある日、林道を登って来てもう少しで峠と いう時、セダンタイプの車がノロノロと下って来た。こちらが停まって道を譲る。すると、すれ違いざま、運転席に座る中 年女性が聞いてきた。「この道はまだ続くんですか」。かわいそうだが私は正直にずっと続くと答える。その時のハンドルを握り締める硬直したおばさんの顔が 今でも思い浮かぶ。ジムニーに乗り始めたばかりで、一般車などでこの道は無理だ、やはりこの車でなければ、という気持ちもあった。 その後、1998年に訪れた時は、豊岡梅ケ島林道はほとんど舗装されていた。道の狭さや屈曲の様子はさして変わらないものの、これならオフロード車でなくてもどうにか走れそうだ。ジムニーに乗ることの優越感が持てたあの頃の豊岡梅ケ島林道が懐かしい。 <安倍峠のページ> |
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何となくロマンを感じる峠道だ。泉鏡花(いずみきょうか)の「高野聖」(こうやひじり)の舞台ともなる。
その小説は、主人公が旅の空で偶然出会った高野山の高名な僧と一夜を供にし、寝物語にその僧が天生峠で経験した奇怪な話を聞くという形式を取る。
僧侶は若い頃、山ヒルなどに襲われながら険しい峠道を登り、山中に住む妖艶な若い女と出会うのだった。 |
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この大峠は私にとって「幻の峠」と言える。1991年8月3日はホンダのバイクAX-1で出掛けた8日間の東北ツーリングの最終日だった。前日は岩手県の
花巻市に宿泊し、この日の内に東京の自宅まで戻る予定だった。東北自動車道を使えば、それもそれ程大変なことではないが、できる限り面白そうな道を走ろ
うと思った。バイクや車による自走の旅では、今回が初めての東北だったので、まだ走ったことがない道がそこらじゅうにあり、目移りした。 花巻を出発し、途中どこをどう走ったか覚えてないが、秋田県の米沢市に到着。そこからは国道121号で福島県の喜多方市へ向かうこととした。現在は山 形・福島の県境を新しい大峠トンネルで越える国道121号が完成しているが、当時はまだ旧道の大峠隧道を越える道しかなかった。米沢から喜多方へ行くには、この 道を使うのが至極当然のように思われた。それに仮にも国道である。何のためらいもなくAX-1を走らせた。 すると、大変な道である。やたらとカーブが多い。今日中に東京まで戻らなければならないというのに、こんな山の中でいつ果てるとも分からない九十九折りをやっている暇はないのだ。こうして大峠の道は、ほとんど休むことなく一気に走り通したのだった。 翌年、再び米沢市を訪れる機会があった。しかし、その時は既に旧道は通行止になり、代わって立派な新道の大峠トンネルが開通していた。AX-1で必死になりながら越えたあの大峠は、まるで幻だったかのようである。 その後、1997年に喜多方市側から峠まで車で行くことができた。峠には暗く小さな大峠隧道が、草木に埋もれそうになりながらも、ぽっかり口を空けてい た。そこを抜けると山形県側に出られ、広い谷間に米沢市の山々の景色が広がった。しかし、峠道は直ぐにゲートで通行止となり、米沢市街へはやはり下れな かった。 大峠という名の峠は多いが、この大峠がやはり一番である。一度しか越えたことがなく、その時の記憶もあまり定かでない幻の峠だが、何とも懐かしいように感じる。 <大峠のページ> |
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これはもう、堂々たる山岳道路の峠道だ。山梨県側も静岡県側も、深く広い谷間に豪快な林道が築かれている。2000年頃までには静岡県側が全線舗装となり、その後、山梨県側の舗装化も進んでいたようだが、それまでは荒々しい未舗装林道であった。 山梨県側から越えた先の静岡県は、静岡市と言っても大井川を遡った井川湖の上流、赤石山脈(通称:南アルプス)の懐に深く入り込んだ地である。大笹峠/ 山伏峠を使わなくとも、この地を訪れるのは容易なことではない。大井川の本流沿いに接阻峡(せっそきょう)などの険しい渓谷を辿るか、東隣の安倍川水系か ら富士見峠などを越えて大井ダムの堰堤へ至る道を取るしかない。そんな奥深い地に、北の山梨県側から越えて来るのだから、これはもう峠道ならではの醍醐味がある。 峠の山梨県側には流れ落ちた土砂が堆積した雨畑川が荒々しく蛇行して流れ、その下流に満々と水をたたえる雨畑湖がある。静岡県側は大井川の奥地となる井川湖がひっそり佇む。大笹峠/山伏峠の道は、味わいだとか何だとかではなく、単純に自然の豪快さを楽しむ峠道である。 <大笹峠のページ> |
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尾平越は九州の中で最も峠道らしい峠道の一つだ。大分・宮崎の県境に位置し、道の長大さも申し分ない。同じ九州の峠としては椎矢峠が長く険しい林道の峠道として思い出されるが、ここはあえて味わいのある尾平越を選んでみた。 道は主要地方道だが、初めて訪れた1994年5月の時点では、峠の高千穂町側の一部に未舗装が残っていた。折しも舗装化工事の真っ最中で、工事作業者の脇 を通らせて頂いた覚えがある。元々、尾平越隧道が開通した当時はまだ林道の峠道だったようで、その林道の名残を垣間見た訳だ。そんなこともあってか、この 尾平越は特に印象深い。それこそ椎矢峠の方が、未舗装の林道が延々と続く峠道なのだが、走る前からそれは覚悟の上なので、あまり動じることはない。一方、尾平越では、やっと峠に達し、これから高千穂町に下ろうとした途端、流水で土の路面が深く削られた荒れた未舗装が現れたのではびっくりする。 尾平越が越える大分・宮崎の県境は、祖母山(そぼやま)や傾山(かたむきやま)などの高山が連なる急峻な峰である。それが峠道らしい峠道を形成した要因ではないだろうか。尾平越の少し東の同じ県境上には、杉ヶ越など似たな峠も存在する。特に、峠の宮崎県側の地形が良い。峠より流れ下る岩戸川の谷間が広く雄大で、それでいて段々畑など山里の雰囲気も満点だ。その中を道が延々と下る。如何にも峠道としての醍醐味が感じられる。下った先には神話で有名な天岩戸神社があり、更に岩戸川の本流・五ヶ瀬川には自然美豊かな高千穂峡谷が待っている。 峠の宮崎県側には広場があり、道が良くなってからは祖母山などへ登る多くの登山客の車が停まっているが、広場の端から一人、高千穂町に広がる谷間を眺めると、遥々やって来たという旅の感慨が湧いてくる峠である。 <尾平越のページ> |
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四国は山がちで面白い峠が多い。その中でこの京柱峠は四国を代表する峠と言って良いのではないだろうか。峠は徳島と高知の県境に位置するが、さながら四国
の屋根のような存在だ。峠からは徳島県と高知県の両側に遠謀があり、広大な山々を眺め渡せる。全く四国の頂上に立ったかのようである。 「京柱」と言う名前も魅力的だ。文献によると、弘法大師が土佐へ越えた時、祖谷の山里からあまりにも遠く、この峠に行き着くためには、京へ上るほどで あったということから、この名がついたといわれるそうだ。車でも大変は距離で、ここを徒歩で越えるのはどんなに苦難なことだったろうか。 道は国道だが、山里近辺は非常に狭く、また峠前後は林道のような有様だ。私が最初に越えたのはもう20年も前(1992年)のことで、その頃は本当に寂 しい道だった。東祖谷山村側から登ったが、その途中、本当にこれが国道だろうかと疑い、どこかで道を間違えたかと、少し引き返して確認した覚えがある。 1997年に再び峠を訪れると、道は幾分よくなっており、峠には新しく店ができていた。うどんなどを商っているようだった。眺めは天下一品だが、果たして商売になるのだろうか。道が少し良くなった程度では、この峠道の険しさは何ら変わりないと思うのだが。 初めての京柱峠の時、峠から大豊町側に下り出すと、クネクネ曲がった峠道を下の方から黄色い車が一台登って来る。茶色と緑色ばかりの山の風景の中で、そ の鮮やかな黄色は一段と目立っていた。近づくにつれ、それがスポーツタイプの乗用車であることが分かった(オープンカーだったような気もする)。それにし てもいやにノロノロ走っている。確かに、こちらのジムニーが似合うような道ではあるが。いよいよ離合する段では、登り優先ということもあって、こちらが路 肩ぎりぎりに車を停め、十分なスペースを作って待った。すると、運転席同士が隣り合う位置で、その車は停まった。見ると、車の色に負けないくらい明るい色 の洋服をまとった若い女性が、一人で運転しているではないか。そしてこの道は徳島県に越えられますかと聞いてきた。確かに道は狭いが越えられない訳ではな いので、手短にそうですと答える。その女性はまだ何か聞きたげな様子でこちらを見ていたが、結局そのまま礼を言い、またノロノロ走り出した。あまりにも 素っ気無い応対が少し悔まれた。その女性も国道と思って登って来たら、このひどさである。何か救いの手が欲しかったのだろうが、まあ自力で運転してもらう しかない。それにしても京柱峠の道に女性ドライバーのスポーツカーは不似合いであった。 <京柱峠のページ> |
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尾平越に続いてまた九州の峠である。他にもっと良さそうな峠がありそうなのだが、どういう訳かこの国見峠が頭に浮かんだ。この峠を越えたのは、「秘境椎
葉」(しいば)に行きたかったからだ。平家の落人が住み着いたといわれる椎葉。源平合戦で敗北した平家が、椎葉に落ち延びる時に通ったのが、この国見峠の
道に近いルートだそうだ。 椎葉のことを知ったのは、一つには以前勤めていた会社に椎葉さんという先輩が居られたことだ。温和でなかなか腰が低い方であった。仕事の電話で自分の名 前を言うと、相手になかなか分ってもらえないと話していた。それだけ「椎葉」(しいば)という名は、あまり知られたものではなかったようである。そこでそ の椎葉さんは、「ミスターシーバ」と喋るんだと笑って話していた。それでどうにか椎葉が苗字であることが分ってもらえたそうだ。椎葉さんの名前が宮崎県の 椎葉に由来したものではあるらしいが、実際にその方が椎葉村出身かは聞き逃した。国見峠を越えて椎葉村を訪れた数ヵ月後に、私はその会社を辞めてしまった ので、ついに椎葉さんと椎葉村のことについて話す機会は訪れなかった。 1996年には峠の下に国見トンネルが開通し、これによりこの国道265号は格段に走り易い道となった。それまでの国見峠は、こんな道を国道と呼んでも いいのかという程の道であった。秘境椎葉へと続く道として、なかなかふさわしいとも思われた。ただ、現代にはもう秘境などは存在しない。初めて訪れた椎葉 では、これといった印象も残らなかった。その日の野宿で大雨の災難にあったことばかりが記憶に残る。(<☆雨の巻>参照) ところで、1992年の旅では四国の京柱峠を越えた二日後には、この九州の国見峠を越えている。随分と贅沢な旅をしていたものだ。今ならこまごまとあち こちに寄り道し、そんな長い距離を移動しない。その頃はとにかく先へ先へと走ってばかりいた。今なら椎葉村もじっくり旅をするところなんだが。 <国見峠のページ> |
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権兵衛峠はトンネルも含めると6、7回は越えている。以前は南箕輪村と楢川村の村境でしかなかったが、何しろ木曽山脈を越える峠だ。広く明るい伊那谷(伊
那盆地)と狭く険しい木曽谷をつないでいる。2つの別世界を橋渡しする道である。旅をしててもこの峠を越えた前後の変化が楽しい。 また、旅の行方を大きく左右する道でもある。三州街道が通る伊那谷をそのまま下れば、太平洋に面した静岡県である。一方、島崎藤村が小説「夜明け前」の 書き出しで、「木曽路はすべて山の中である」と書いた木曽路(中山道)からは、更に遠く飛騨高山などの山間部へと足を踏み入れることができる。ひとたび権 兵衛峠を越えると、その先の旅も大きく変化するのだ。そこがまた楽しく、何度も峠を越えることとなった。 木曽山脈を越える車道の峠としては、権兵衛峠の北に牛首峠あり、ずっと南に大平峠や清内路峠があるくらいか。そんな峠の中もで権兵衛峠は正しく木曽山脈の只中を行く。峠の標高も群を抜いて高い。 正確には伊那谷側には車道が通ぜず、代わりに経ヶ岳林道が使われていて、その林道途中に最高所がある。その為か、車道が市村境を過ぎる所は権兵衛峠とは言わないのかもしれない。経ヶ岳林道の最高所は木曽駒ケ岳などを望む絶好の展望所になっており、そこが権兵衛峠とも言われるようだ。 2000数年には権兵衛トンネルが開通し、冬期でも伊那谷と木曽谷を行き来することができるようになった。これは驚くべきことだ。以前の峠道では全く考 えられないことだ。また、昔の経ヶ岳林道経由では、通行量は少なく、たまに酔狂なドライバーやライダーが訪れるくらいだったが、権兵衛トンネルになってか らは、日常的な生活路としての利用も増えたように見受けられた。 この峠の味わい深さは、峠道にまつわるいわれである。米の採れない木曽谷の人の為にと、伊那谷から米を運ぶ峠道を権兵衛さんが切り開いたという。その実 際の旧峠が今に残っているのだ。車道から少し上がった所にある。トンネルを抜けずに峠越えをした時は、是非にでも訪れたい。 <権兵衛峠のページ> |
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この峠は、よくぞ遥々ここまで旅をしてきたなと思わせる。何しろ岐阜県と福井県を山の奥の方でつないでいる峠道だ。どちらの県からも長い長いアプローチである。峠に辿り着くだけでも大変なのに、峠を越えてその先、どこまで旅を続けられるか心配になってしまう。 初めてこの峠を訪れたのは、最初から温見峠が目的で、東京の自宅を出発したその日に、どうにか温見峠には立った。しかし、峠付近は生憎の濃い霧の中、何も 見えない。岐阜県根尾村側から登り、これから福井県側に下る。この頃、ジムニーに乗り始め、テントやシュラフを使っての野宿旅を始めたばかりだった。ジム ニーにはそうした野宿道具が積んである。峠道を下りながらも、どこかに良さそうな野宿場所はないかと探したが、どうにも寂しい所ばかりだ。まだ野宿経験の 浅い私には、野外で一夜を過ごす覚悟ができない。結局、延々と福井市街まで走り、繁華街のビジネスホテルに投宿したのだった。 2000年より少し前くらいからは温見峠の岐阜県側で道路崩壊があり、一部で長い間通行止が続いた。その不通区間には猫峠な どのバイパス路が存在したが、それがまた本線より更に長い道程だった。2007年に福井県側から峠を越えて岐阜県側へと下ると、期待に反してやはり通行止 は続いていた。バイパス路へと進むが生憎の体調不良。妻に運転を全て任せ、私は助手席で死んだようにぐったりしていた。宿の予約をしておいた下呂温泉に辿 り着くのがやっとである。しかもその夜は更に体調が悪化し、一時は救急車を呼ぼうかとも考えたくらいだった。温見(ぬくみ)などと何だか暖かそうな名前だ が、私には手厳しい峠道であった。 恐い思いや苦しい思いもしたが、それらも含め、温見峠はやはり旅を実感させてくれる峠道である。 <温見峠のページ> |
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この峠には、「哀れ」を感ぜずにはおられない。 残念ながら私が訪れた時には既に熊野市側が廃道と化し、尾鷲市側から辛うじて峠までは行き着くことができた。峠はそれまでの狭い道と打って変わって、広 い空き地であった。こんな寂しい山の中で、何もない荒れた広場の峠は、何だか異様な雰囲気に包まれていた。それもその筈、かつてここには茶店が建ち、その 前を車が行き交った。時にはボンネットバスが途中休憩で立ち寄り、乗客たちが三々五々降りて来て、ここで一息入れたのだった。 何の気なしにこの矢ノ川峠を訪れたのが、矢ノ川峠の過去について知る切っ掛けとなった。掲示板やメールで情報を頂いたりした。ある時、三重県津市のとあ るホテルに泊まると、部屋にビデオデッキ据え付けられ、何やらVHSのビデオテープが何本か置かれている。ビジネスホテルによくある例の類のビデオかと期 待したが、そうではなかった。何とその中に、矢ノ川峠の昔を写したビデオがあるではないか。狭く屈曲した峠道をボンネットバスが何台も走って行く。その危 なげな姿を食い入るように見た覚えがある。 峠の下にトンネルが開通し、元の峠道が寂れていくケースはままあるのだが、矢ノ川峠はその落差が激しい。太平洋岸で尾鷲市と熊野市を繋ぐ幹線路として、 定期路線バスが運行し峠の茶店も繁盛した過去を持ちながら、現在の峠道の姿はただただ「哀れ」の一言に尽きる。矢ノ川峠の過去の繁栄を知る者には、峠の荒 れた広場や路肩の苔むした縁石にさえ、心惹かれる思いだろう。 現役当時の峠道を知らない私だが、この10大峠の中でも一、二を争うほど、矢ノ川峠は印象深い峠である。 <矢ノ川峠のページ> |
終りに |
こうして10の峠を選んでみると、どれも長く険しい峠道ばかりである。安倍峠、大峠、大笹峠(山伏峠)、尾平越、京柱峠、温見峠の6峠は全て県境の峠だ。
天生峠などは旧村境だが、直ぐ北側には岐阜・富山の県境の山々が迫って来ている。単純に、長く険しいと、印象に残るものである。 一方、あまり荒れた未舗装林道の峠道が少ない。安 倍峠と大笹峠(山伏峠)を除くと、ほとんどが国道か旧国道で、尾平越が唯一主要地方道である。険しい未舗装林道の峠を選ぼうとすれば幾らでも選べる筈だ が、やはりどこか味わいに欠けるのだろうか。九州の峠としては椎矢峠を差し置いて、国見峠と尾平越を選んでしまった。まあ、あまり険し過ぎる林道は、車 やバイクを走らせるのが精一杯で、味わいなど感じている暇はないのだが。 関東近県にも大弛峠(山梨県・長野県)とか三国峠(埼 玉県・長野県)という未舗装林道の素晴しい峠道があるが、どういう訳かこの10峠には含める気にはなれなかった。これらは味わいがないというより、比較的 近くにあって、1日で行って来られる身近な峠に感じた為だろう。やはり旅とは、なるべく遠くに行ってこそ、より旅を感じるものだ。九州の国見峠を初めて越 えた時の旅は、東京からまず奈良に行き、大阪から大阪湾フェリーで淡路島に渡り、鳴門大橋で四国に入り、京柱峠などを越えながら四国を横断、愛媛県の佐田 岬より国道九州フェリーで佐賀関に渡り、その後国見峠を越えたのだった。何日も掛けた旅をしてやっと越えた峠なら、それは感慨深いものがあって当然であ る。大弛峠や三国峠も、遠くから遥々やって来て越えたなら、より素晴しい峠に思えたことだろう。 大峠、国見峠、権兵衛峠、矢ノ川峠は、その下に新しくトンネルが開通した峠である。矢ノ川峠を除くと、トンネル開通前後の峠道を体験できている。それがまた印象深いのかもしれない。 峠と旅を開設した時は、10の峠で始めた。それは安倍峠、大峠(山形県・福島県)、大笹峠(山伏峠)、京柱峠、長慶峠、温見峠、八草峠、日の尾峠、三国 峠(北海道)、神坂峠である。その内の半分である5峠を今回も選んだことになる。この15年で峠趣味の指向はあまり変わっていないようだ。北海道の三国峠 などは「私の10大峠」に選ぼうか、散々迷った峠の一つである。 確かに10の峠を厳選するのは難しかった。どの峠もそれなりに思い入れがあるのだ。ただ、これらは完全に個人の経験と趣味によるものである。特に、峠そのものというより、旅での出会い方などが大きく左右する。今度はもう少し客観的な尺度で峠を選んでみたいとも思う。日本三大峠は、ある視点から峠を選んでみようと試みたものだった。 しかし、「峠と旅」と題したことからも分かるように、あくまで旅を楽しむことが主題で、その楽しみ方の一つとして峠越えがあるのだ。旅の魅力はその自由 さにある。これまで「峠と旅」も勝手気ままにやってきた。今後、峠も旅も、できるだけ自由に続けられたらと思う「私の10大峠」であった。 <1997〜2012 Copyright
蓑上誠一>
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